【旋風】 遅れてきた客

■ショートシナリオ


担当:津田茜

対応レベル:11〜lv

難易度:普通

成功報酬:6 G 66 C

参加人数:6人

サポート参加人数:1人

冒険期間:05月13日〜05月20日

リプレイ公開日:2008年05月21日

●オープニング

 風が吹く――
 ひたひたと足元を洗うかの如く這い来たる流れは、
 いつしか巨大な海嘯となって世に満つる

 泰平に眠る古き魂を呼び覚まし
 亡国の怨霊を地の底より常世へと連れ戻す
 神と魔と精霊、 人の思惑を繰り‥‥日ノ本の影と為す

 押し寄せ、逆巻き、薙ぎ払い、唸りを上げて世を乱し、
 また、蒼天へと駆け上がる

■□

 珍しく神妙な顔をして《ぎるど》の敷居を跨いだ少年に、番台の手代はおやと内心で小首をかしげた。
 
「どうしたんです? また何か粗相を働いて尊い御方のお怒りを買ったんじゃないでしょうね」
「うわ、ひどいや。ボクがそんなことするワケないじゃん」

 大仰に胸を抑えて傷ついた風に顔をしかめた谷風梶之助はきょろきょろと周囲を見回し、すとんと番台の前に腰かける。ちらりと物欲しげな上目遣いに見つめられ、思わず後で食べようと取って置いた桜餅を勧めてしまった。
 遠慮なく薦められた甘いお菓子に齧りつきつつ、梶之助はつまらなげに鼻を鳴らす。

「だいたいね。粗相を働こうにも、政宗サマも顕家サマもお忙しいみたいだし。――ボクだって、いつも遊んでいるワケじゃないんだよ」

 戦さの情勢は江戸にもなかなか伝わっていなかった。
 負けたという話は聞かないが、戦さが終わるという報もない。おかげさまで江戸はというと平素と何ら変わらぬ賑やかな日々を過ごしていたりする。――だからといって、江戸城の為政者たちが安穏としているワケはないのだが。
 思えば、江戸の行く末を左右するほどの事変であるのに。さほど気にとめた風もなく暢気に桜餅を齧る少年を、手代は少し呆れを込めた視線で眺めた。
 その非難めいた色に気づいたのか、梶之助は少し心外そうに唇を尖らせる。

「疑り深いなぁ、もう」

 手代の視線に大仰に肩を竦めて吐息を落し、梶之助は懐に手を突っ込んで無造作に丸められた紙を取り出した。
 乱暴に扱われ今にも破れそうなそれを番台の上に伸ばして広げる。――朱と墨で描かれた幾何学模様は、呪いのようにも見えるのだけども。

「なんですか、これ」
「魔除けのお守り。旅のお坊さんがくれたんだってさ。コレを持っていると亡者に襲われずに死者の谷に入れるらしいよ」

 物珍しげに矯めつ眇めつする手代の前で小首をかしげ、梶之助はそろそろと急須に手を伸ばした。その手を払い除けなかったのは、きっと彼の発した言葉に気を取られたせいだろう。

「‥‥《死者の谷》と言いますと、あの?」
「うん、あそこ」

 1年を通して深い霧に閉ざされた幽谷。――地の者たちから《死者の谷》と呼ばれるこの場所へ《ぎるど》が冒険者たちを斡旋したのは、つい半月ほど前の話だ。
 この谷の奥にある黄泉の国への生贄にされる少女を助けて欲しい。確か、そんな依頼であったように記憶しているのだが。

「黄泉の国って、ちょっと興味があるんだ」
「興味って‥‥黄泉にですか?」

 思わず顔をしかめた手代に、梶之助はけろりと笑う。

「うん。死んだ人が集まる場所なんだから、きっと知ってる人もいるはずだよね。――会いたい人に遇えたらいいなぁって思わない?」
「‥‥‥‥」

 ある意味壮大な夢を抱いているらしい少年に、手代はとりあえず沈黙して視線を逸らせた。死者との対面は、夢であるから美しい。――甦ったと喜んだ者が、実はトンデモナイ化け物だったというのは怪談のお約束なのだから。

「――それで、あの後も何度かあそこへ行って調べてみたんだよ」
「それはまた‥‥」

 精力的と言って良いものかどうか。
 その情熱をもう少し前向きな方に使うべきだと言いたいところだが――梶之助自身はむしろ鬱陶しいほど前向きなので、お小言も言いにくい。
 ともかく、梶之助の調査によると《死者の谷》の周囲には、冒険者たちが訪れた村のほかにあとふたつ、小さな集落があるのだという。
 共に、間に横たわる峻険な山林を壁として交流はないのだが、谷を死者の聖域として奉っているところに共通点があるようだ。

「そのうちのひとつに――北杜と呼ばれてるんだけど――古い神社があって、3人の神職さんが村を取り仕切っているカンジ?」

 尤も取り仕切っているといっても、冠婚葬祭を采配したり、作付けや吉凶、厄払いを行うなど、やっていることはその辺の神社と大差ない。
 村人たちとの関係も良好だった。
 その風向きが変わったのはつい先日。
 ちょうど冒険者たちが依頼を受けて――依頼を出したのは東杜と呼ばれる村の若者である――谷に入り込んだ直後だろうか。
 ひとりの僧侶がこの北杜を訪れた。
 しばらくの間、村に逗留し説法や珍しい宝具を用いて村人の怪我を治すなど功徳を施した僧は、この谷に悪霊の気配がすると予言し、件の札を村人たちに与えたのだという。

「‥‥あの谷の奥には玉が採れる場所があるらしくって。死霊をやり過ごすことが出来れば、谷に入るのは簡単だから良いことなのかもしれないけどね」
「その口ぶりでは何か良くないコトもあったということですか?」
「まあ、そういうコトなのかなぁ」

 禁忌の場所に足を踏み込む。
 谷の底から死霊が彷徨い出るようになった時、人々の頭に浮かんだのはそれだった。
 北杜の神職たちは札を燃やし谷に入ることを止めるようにと言葉を尽くしたのだが、1度、利益を得てしまった者たちの中にはその言を善しとしない者もいる。
 そういう者たちは旅僧の言葉を是として、北杜の神職たちこそが死霊を操っている黄泉の手下だと言いふらし、村は相当に険悪な空気に包まれているらしい。

「放っておくのも後味が悪いし、どうしたものかと思ってさ」

 珍しくうんざりした風に吐息を落した梶之助に、手代もまた肩をすくめた。
 あちらを立てれば、こちらが立たない。――共に胡散臭いものがあるだけに村人たちも態度を決めかねているのだろう。
 確かに誰かの手を借りた方が良さそうだが‥‥

●今回の参加者

 ea1661 ゼルス・ウィンディ(24歳・♂・志士・エルフ・フランク王国)
 ea3044 田之上 志乃(24歳・♀・忍者・人間・ジャパン)
 ea3597 日向 大輝(24歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea4026 白井 鈴(32歳・♂・忍者・パラ・ジャパン)
 ea7179 鑪 純直(25歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea9885 レイナス・フォルスティン(34歳・♂・侍・人間・エジプト)

●サポート参加者

ポーレット・モラン(ea9589

●リプレイ本文

 玉には魔を払い、気を整える力があるという。
 真偽はともかく、冒険者を相手に手広い商いを展開している越後屋の商品にも、いくつかそれらしい名を冠せられた品があることは日向大輝(ea3597)も知っていた。
 世情が落ち着かぬ昨今。殊に、蠢動する悪路王の矢面に立たされている北関東の人々にとっては、藁‥‥玉にもすがりたい思いであるに違いない。
 求める者は増えている。
 高値が付くから、取引も活発になるのは市場原理であるのだけれど。

「あのあたりで採れる玉は質が良い。どこに持ち込まれても言い値で取引されるはずだよ」

 以前は大きな祭事の支度だとか、天候不良なんかで困窮した年でもなければ持ち込まれることのなかったものが、最近は頻繁に‥‥特に理由もなく、金蔓として持ち込んでいるらしい。納める先にも統一性がある訳ではなく――便宜的に近くの町が多かったが――村を訪ねた仲買人であったり、自ら江戸へ出向いて店に持ち込んだりと様々だ。
 流通経路に着目し飾り職人の元を訪ねた日向は、親方から聞かされた話に気難しく吐息する。
 今回の騒動が玉の独占を狙ってのことならば、祭事を取り仕切っている神職たちに分が悪い。

「谷に入ることを止めろと言うのなら分かりますが、死霊達から身を守る助けとなる有難い札を燃やせと? 悪用するなと言えば済むでしょうに」

 何かが腑に落ちない、と。形の良い眉をひそめるゼルス・ウィンディ(ea1661)の疑問もそこにある。冒険者の勘とでもいうのだろうか。それはウィンディひとりの不穏でなく、白井鈴(ea4026)、鑪純直(ea7179)の両名も北杜の神社に対して何某かの違和感を抱いていた。
 その神職たちは今、冒険者たちの正面に座し、鑪が差し出した書状を開き内容を吟味している。中央に座して書簡を開いているのが、本日の聚長役であるようだ。脇を固めるふたりは補佐といったところだろうか。――状況によっては《アースダイブ》での侵入も考えていた鑪だったが、幸いそこまでの事態には至っていないようだ。事情が聴ければそれで良いと思い直して審判を待つ。
 田之上志乃(ea3044)の座った位置からだと表書きしか読めないが、年齢に似合わぬ鑪の悠久を思わせる達筆ぶりはうかがえた。
 記された内容を裏付ける上でも遜色ない威厳に満ちた筆致である。少なくとも、冒険者たちがここを訪れた理由が単なる好奇心や悪戯ではないことは読み取ってもらえるはずだ。

「北畠卿に縁あるお方であるとの旨、確かに承りました。村の者にも不信を抱かぬよう申し伝えましょう」

 読み終えた書簡を丁寧に折り畳んだ聚長の言葉に軽く頭を下げて礼を述べ、ウィンディはさりげなく話を切り出す。

「近くの谷は、死者の聖域だとか。昔から、入るべからざるとされる場所には、それ相応の理由があるもの」

 宝への欲に目が眩んで、それを分かってくれない村人達には、困ったものだ、と。ウィンディの撒いた誘い水に、聚長はほのかに笑んだ。

「古き記憶は忘れられるものと決まっております。卑弥呼の盟約が破綻した今となっては、それも詮無きことなのかもしれませぬ。――江戸の有様を見知った者にすれば、こちらの暮らしはいかにも窮屈なのでございましょう」

 金はないよりはあった方が良いし、日々の暮らしが良くなるのならそれに越したことはない。谷に入り、玉を持ち出す者たちの気持ちは理解できる。――だが、安易に認められない理由があることは、ウィンディ自身も認めるとおりだ。

「とはいえ、谷を抜け出てくる死霊の方が困りものですよね。もしかしたら、あちらも何か探し物をしに来ていたり?」
「魔除けと称する呪符を大量に持ち込んだ者がいることはご存知ですか? あの手の呪いの中には、競合するものもあるのです」

 谷の内側に向けて巡らされていた結界が、札の魔力に弱められてしまう理屈は容易に想像がつく。――重ね掛け効かない魔法効果の存在は、ウィンディには今さら聞くまでもなかったが、知らぬ者も意外に多い。
 数が多く、また、禁忌を破っての抜け駆けだ。心理的にこそこそするなという方が難しいから、幾度張り直しても気がつけば破られているのが現状であるという。
 そもそも、古の結界によって谷の外に出られぬよう抑制されていただけで、本来は意志もなく生者への憎悪に心を埋める悪霊だ。結界が弱まれば、谷より這い出してくるのは当然と言えば当然で。
 口を噤んだまま注意深く本殿の様子を窺う白井の代わりに、膝を進めた日向が疑問を継いで口を開いた。谷への出入りを止めようとする真意を知りたい。

「谷にはそういうなにか謂を封じたとかある?」
「世界を滅ぼす古の竜の亡骸を‥‥縁起にはそう記されておりますが、それ以上のことは私にも‥‥ああ、探しものというのは面白い表現だ‥」

 寧心すべからざることをごく穏やかに言葉にのせた聚長は、ふと日向より視線を外し、どこか遠くを見るような目つきになった。

「竜があまりにも強大であるが為に、竜を操る術を持つ者は仲間の手で刹されたのだとか。――無用の猜疑に取りつかれるのは、人の性なのかもしれませぬ‥」

 竜の亡骸はその復活を恐れるモノたちによって、いくつかに分割したうえで厳重に封じられたのだという。
 残された伝承が真実ならば――
 目覚めた竜は、亡くした主人を呼ぶかもしれない。あるいは、既に誰かが‥‥


●死者の谷
 淀んだ谷底に風精が集う。
 生まれたばかりの緑を透かして滴り落ちたかのような淡い光は、一陣の風となって立ち込めた霧を吹き飛ばした。
 殺伐とした岩ばかりの風景は、確かに冥途に近い場所かもしれない。目の前に現れた灰色の世界にウィンディは、乱れた髪を払って肩をすくめる。
 神職より託された地図と、村人たちに描かせた地図。
 ふたつを見比べて、日向はちいさく息を吐き出した。――鑪が差し出した書状。奥州鎮守に名を連ねる北畠顕家の名が効いたのか、あるいは隠すモノなどなかったのかはともかくとして。
 これまでのところ、怪しいと思われる場所はない。
 玉を得ることしか眼中にない村人が描いた地図の方が抜けた個所は多いくらいだが、これはどこに焦点があっているかの違いだろう。

「‥‥あれが、神竜塚みたいだ」

 巨大な巌を重ねた小山のような岩屋に、白く立ち枯れた巨木1本、骸骨のような枝を拡げて立っていた。――幾重にもしめ縄が張られたその姿は、厳重に封じられた太古の墳墓に見えなくもない
 鑪と白井がこの木見上げるのはこれで2度目となるが、最初に感じた霊験にも似た衝撃は、この日も強く心を揺さぶる。
 大小の岩を持って塞がれた入口の奥からは、確かに近寄ることを躊躇わせる異様な気配が吐き出されていた。幾つもの修羅場を潜り抜けた冒険者として。否、生命あるものとしての本能が、その場に留まろうとする意思を否定する。

「玉が採れるのは、最初の枝道を入ったところらしい。――さすがにこれの近くじゃ、いくら札があっても無意味だと思う」

 何度吹き飛ばしても直に色を濃くする霧の中からゆらりと現れた魔物の姿に眉をひそめて、日向は佩いていた刀を引き寄せた。
 生気と死気。
 混じり合い相克する黄昏にも似た薄明の中、魍魎の叫喚を従えた無情の刃は、漆黒の切っ先を閃かせて大気を撫でる。
 腐臭を放つ死に体となって尚立ち上がる山犬の喉を貫いた深紅の刀身は、滴るはずのない血色の残影を一閃、掴みかかろうと腕を伸ばした死人憑きの骨が露わになった胸を切り上げた。解き放たれた魂の安堵を願う鑪の鎮魂は、彷徨う骸に今一度、不帰路への光明を指し示す。
 深く切り裂かれ、それでも衰えぬ生への憎悪に心が痛んだ。――どのような傷を負っても、痛みも、恐怖も感じぬのだと聞いていたが――明瞭な意思はなく、力任せに振り下ろされた折れた刀を受け止め、押し返す。
 膠着し、流れが途切れた。生じた僅かの隙を見逃さず、抜き身を掲げた日向は強く大地を蹴りつけ、全身を使って大きく跳ねる。
 ふわり、と。小柄な体躯が宙に浮き、迸る気迫に目を奪われた、刹那、

「でやぁっ!!」

 腹に貯めた気合いは音声となり、冴えた大気を大きく揺らした。
 谷を見下ろす木立を揺るがす覇気に臆した鳥の羽ばたきが、やけに煩く耳につく。渾身の力を込めて振り下ろした日向の銀刃は霧の間からわずかに射した朝陽を反射し、きらめきながら死人の眉間をふたつに割った。
 断末魔の無念が響く。
 ――そして、いっそ虚脱にも似た静謐が、ゆるやかに幕を下ろした。

「あの者たち。黄泉の手下とまでは思いませんが、何か隠し事をしている可能性はありそうですね」

 ウィンディの呟きに顔を見合わせて互いを探り、彼らは引き返すことを決意する。


●波紋を投げた者
 あるかなしかの薄雲を纏いゆったりと果てない空を揺蕩う春は、ただ、あるがまま。
 やわらかく萌えはじめたばかりの新緑に包まれた穏やかな山村の風景は、そこにいるだけで癒される。――漠然とした不安を抱えているのが嘘のようだ。

「『わるいきがじゃまをしている』って、言ったんだよ。」

 すっかり遊び相手として認識されているらしい梶之助を見つけてわらわらと駆け寄ってきた子供たちは、志乃の問いに小首を傾げる。
 死者の谷に、どこか生き物を近付けない気配があるのは周知の事実だ。
 死霊が谷に潜んでいるのは、周知の事実で。村人たちは谷へ踏み込む妨げになる死霊を指しているのだと理解していたが、見方を変えれば別の解釈が成り立つかもしれない。
 女性ばかりを選んで声をかけるレイナス・フォルスティン(ea9885)のナンパ‥‥聞き込みも、概ね志乃と変わりなさそうだ。
 働き手である大人が遊んでくれるのが珍しいのか、子供の扱いには慣れている白井もすぐに小さな群れに取り囲まれてあちらこちらと引き回される。

「旅のお坊さんてどんな人だった?」
「んーとね」

 若くはないが、年寄りでもない。旅の僧というから、どちらかというと冒険者に近い身なりであったという。
 谷の様子を知りたがっていたというのも予想通りだ。

「宝具を頻繁に使っていたらしいから、治癒魔法の方はさほど得意ではなかったのかもしれないな」
「単に谷に入りたかったのかも。黄泉をのぞいてみたかったとか」
「めったなこと言うもんでねぇだよ。罰あたりだべ」

 取り付いてきた子供を肩車したいっそ無邪気にすら思える屈託のない梶之助の表情に顔をしかめ、志乃は《ぎるど》の手代から聞かされた嘆息を思い出してやや大人びた声を出す。

「知っとるモンさ会う為でも、あの世なんぞ生きたまンま行くトコじゃねェと思うんだどもなァ。ほれ、いざなぎといざなみの話もあるべ」
「そうなんだけどさ。‥‥でも、僕のコトを知っていたら、僕が誰なのかを教えてくれるんじゃないかと思うんだよね。そうしたら‥‥も、判るかもしれない」

 次第に調子を落とす独白めいた呟きは、終わりになるほど何やらひどく聞き取り難くて。訝しげに目を細めて聞き返した志乃に、梶之助はただ笑を返して子供たちを遊び始めた。


●遅れてきた客
 本堂で人の気配が動いた。
 夜半に訪れた鑪と神職らが話を始めたのだろう。――そう適当にあたりを付けて、白井はそっと手を伸ばし、手探りで暗い廊下を歩き始めた。
 足音を立てぬよう社務所より、坊へと回る。多少なりと気も咎めるが、悪いことをするワケでもないのだからと開き直っていたりして。人間、開き直りも大切だ。
 三人の私室らしき部屋を順番に見て回り、何もないことを確認する。――布団と行李がひとつあるだけの、ずいぶんと質素な部屋だ。
 こんなものかと半ばガッカリ、半分は安堵していくらか気が大きくなっていたのかもしれない。
 最後の部屋。廊下の一番奥に、ひっそりとたたずむ檜の扉を勢いよく引き開けて‥‥白井は思わず息を呑んで飛び退る。

「ぅわっ☆」

 人がいた。
 本堂と同じく神棚の据えられた小さな部屋の真ん中に、座っているのは‥‥皆の前で、聚長を務めていたあの神職だ。

「脅かさないでよ、もう」

 ほっと胸を撫で下ろし、白井はふと気付いて眉根を寄せる。
 神職たちは今、本堂で鑪と話をしているはずだ。場の責任者たる聚長たるものがこんなところに籠って‥‥そういえば、侵入者を前にして、なぜ黙したままでいるのか。
 一度に様々なことが心に浮かんで、目が回る。
 くらくらする頭をどうにか押えて呼吸を整え、白井は目の前で沈黙する神職をゆっくりと観察する。
 死んではいない。眠っているか、気を失っているだけのようだと、ひとまず安堵を落とし‥‥いっそう息をひそめて部屋を抜け出す。後ろ手に扉を閉めて、思わずその場にへたり込んでしまった。

「4人目がいるじゃん‥‥て、言うか、同じ人間がふたりいる?」

 日替わりで変わる聚長、
 そして、4人目‥‥死者の国に近いとされるこの場所に‥‥ぞくり、と背筋が粟立つ。
 封じられたモノを守る為に、谷に死霊を放ったのは彼らだろう。だが、谷の外に招いたのは、札を使った人間で‥‥たぶん、上手くやっていたのだ。
 少なくとも、旅の僧侶が来るまでは――

■□

 杳々と暮れかかる薄暮の中に人影を見つけて、志乃はふと足を止めた。
 身に纏った墨染の衣が暗がりに溶けよく目を凝らさなければ、あるいは木立と見間違えたかもしれない。
 少しはなれば所から村を窺うその姿が、なんともなしに気を引いたのは、村を訪れた僧侶の行方が心の隅に残っていたせいだろうか。
 窺えるはずのないその表情は、何かを待ち、期待するような‥‥

「‥‥おめぇさ‥」

 その声に人影はわずかに顎を引く。
 ちらり、と。目深に被った編笠の下の視線と目があった‥ような、気がした。

 ――ザァ‥ッ

 唐突に吹き抜けた冷たい風に、思わず首を竦める。
 次に顔をあげた時、人影は消えていた。村を離れるふりをしてずっと窺っていただろうか、と。漠然と、思う。撒いた種の様子をうかがうために。

 あちらも、こちらも。
 どちらが味方で、いったいどちらが敵なのか――谷を取り巻く霧の如き混迷を思い、少しだけ頭が痛んだ。