●リプレイ本文
「‥‥まあ、馬や驢馬、犬くらいなら構いませんがね‥」
何処にでもいる家畜であり、扱い方も知っている。
村での滞在中、連れ込んだ馬の世話を頼んだ三菱扶桑(ea3874)に、馬番は少し不安げな顔をして頷いた。
「‥‥蜥蜴はちょっと‥」
飼い主がいくら害はないと主張しても、周囲の目には奇怪なモノを連れ歩いているコトに違いなく。――絆と言われても飼い主の言以外は聞かないのだから、敬遠する他の者たちから見れば、正直、気休めにもならない。
人あしらいには多少なりと自信があったリーゼ・ヴォルケイトス(ea2175)ではあるが、思わぬところで足をひっぱられることになった。
日頃から顔を合わせて馴染む機会のある酒場の常連ならばともかく、村の中ばかりで身を寄せ合う閉鎖的な農村部では1尺を越える蜥蜴を連れ歩く異邦人の存在は、どう好意的に見ても奇異である。
懐に入れて隠しておけるレディス・フォレストロード(ea5794)の光る玉くらいなら誤魔化しようもあるけれど。日照り続きで乾ききった土地に、《鬼火》を連れ込むことを思いとどまった石動悠一郎(ea8417)の機転は実に英断だった。――ひとつ間違えば、《ぎるど》の信用問題に発展するところだったのだから。
「家事の合間にでも、学問をしておくべきでしたわねぇ‥‥」
曖昧でどうにも確証の持てぬ展開にやれやれと吐息を落としたエステラ・ナルセス(ea2387)の呟きは、己の見識の不足を嘆くものであったのだけど。
「‥‥うーん、私の知識では専門外だわ、ごめんね」
と、軽やかに肩をすくめて石動を送り出したレイル・セイレンが能く学んでいたのは、《不死人》に関する知識であった。
「この国の八百万の神々の営みというのも面白そうではありますね」
「――聞くところによると、魃(ひでりがみ)とは月道のあちら側ではミントリュースと呼ばれる精霊であるそうだ」
気紛れで、唐突。かつ、理論よりも感覚を優先しがちな神々の思惑は、観察の対象としては面白そうだ。レディスの言葉に黒畑丈治(eb0160)は、出掛けに知人のゲレイ・メージから聞かされた話を思い出す。
関係があるのか、ないのか。
何やら俄かには信じがたい胡乱な話の片鱗が混じっていたような気もするが、こと《ミントリュース》に関する話は信用しても良いのではないかと思う。
ものの本に拠れば−メージ自身も実物を見たコトはないらしい−、ミントリュースは、片手片足の獅子にも似た姿で描かれているコトが多いのだとか。
片手片足でありながら、疾風の如き速さで駆ける。
忌むべき旱魃をもたらす厄神であるが、その性は人と関わりを持つコトを嫌うことから、人里離れた場所で暮らしているのが通常だ。そのミントリュースが人里に現われ、長く留まっているとすれば――
「村に何かしら留まるべき要因があるということだな」
ふむ、と。
鬼と見紛うばかりの容貌に思案の相を浮かべた三菱に、エステラも大きく頷いた。
聞けば、ミントリュースは[陽]の精霊と関わりが深く、天に叛むく不心得に制裁を与える役割を担っているのだという説もある。
そちらを鑑みると、この村に何かしら天道に悖る行いがなされていたとも考えられるのだけれども。――過日の死体を吊るす雨乞いの儀も、思えば十分、正義に唾する行為であった。
尤も、村に留まる厄災を取り除くのが今回の依頼であるから、要因がなんであれ魃を去らせぬかぎりは終われない。
「んだども。仮にも神さまだら、そうそう倒せるモンでもねェべ」
田之上志乃(ea3044)の懸念は、口にはせぬが冒険者たちの総意でもあった。
大悪を倒すためなら鬼にもなる。その意を胸に己を鍛えるコトに余念のない黒畑ではあるが、それは安易に無益な殺生に走るコトではない。
魃がこの地に留まる理由があって、
その要因を取り除くことで件の精獣が自発的に立ち去ってくれるのならば――それに越したコトはない。
より困難な道であることに、違いはないのだけれど。
●心中の叢雲
人の出入りが激しく個人の柵が希薄な江戸市中とは違い、封建的な風習に縛られた村において、家長、村長と号される者は特に重んじられているのが通例だ。
‥‥にも、かかわらず。
日吉家の当主に拝謁した天風誠志郎(ea8191)は、違和感の原因をそう分析した。
天風の前に座った日吉の投手は、なんら特筆する点のない――と、いえば、語弊があるかもしれないが――いわゆる、凡庸の人だった。
袋物を扱う行商の人であったとか。
色の白い細面で、若い頃はそこその美男子であっただろうと想像できたが、野良仕事で鍛えた家中の郎党たちと比べるといかにも脆弱で頼りない。――若い娘には囃されるかもしれないが、天風の立ち位置を差し引いても安心して大事を任せられる器には思えなかった。
うっかりすると娘の夏穂の方が、万事に置いて的確に状況を洞察し家人たちに指示を出している。家人たちにも、当主ではなく夏穂の顔色をうかがう癖がついているようだ。――この癖は一年や二年でつくものではない。生まれ育った身分や階級によって人間の質が違うといった考え方をする者も多く、成り上がり者である当主の言には抵抗があるのかもしれないが‥‥。
魃が日照りをもたらすもうずっと以前から、歪みは始まっていたのだろうか。
「アレではどちらが当主か判らないな」
呆れた風に吐息を落とした天風に、リーゼとレディスは顔を見合わせる。
ふたりが村人や屋敷で働く用人たちから聞き取った話も、天風の見立てに相違ないことを告げていた。
「‥‥1人娘の器量望みの婿養子ってコトらしいけど‥」
器量というのは、毎日眺めていると飽きがくる。
恋に浮かれた熱が冷めると、それまで見えていなかった欠点などにも目が行くようになり、醒めた気持ちに拍車をかけるから厄介だ。元より身分違いで、双方の価値観などにも齟齬が生じる。――素封家の1人娘として蝶よ花よと甘やかされて育ち、勝気で我儘なところのあった麻穂には、その欠点は許せないモノであったのかもしれない。
「ここ数年は、夫婦仲もすっかり冷めていたそうですよ」
月日が夫婦の仲に水を注すのは、それほど珍しいことではないけれど。
レディスの示唆は淡々としたモノだ。――ここまでは、まだ彼らの想定の範囲内。立てた推論の裏付けとなる吉報だ。
麻穂が家を出たとされる日と、旱魃の始まりと思われる頃が一致する。単なる偶然だとあっさり切り捨てるお気楽者は、冒険者の中にはいなかった。
「いくら気の弱い小物でも、弾みってコトもあるからね」
もっと明確な悪意が働いていたという可能性だってある。
●鯉
‥‥ぱしゃん‥
魚の跳ねる水音に、志乃は足を止めてそちらを見遣る。
瓢箪の形に掘られた庭池の水位はかなり低いところにあったけれども、大きい池の真ん中に据えられた石灯篭の足元は未だ水に浸かっていた。
残った水の中で懸命に泳いでいるのだろう。かき回されて濁った水の中に、いくつもの気配があった。
「‥‥父が、涸れるまま捨て置くのも哀れだと申しますので‥」
「んだな。池の魚に罪はねぇ」
夏穂の言葉に頷いて、志乃は今一度、庭へと視線を向ける。
力なく萎れていたが四季の草木を配した風雅な庭から見上げる月は、いかにもお姫様の喜びそうな趣向だ。――お姫様になりたいと里を出て、随分、時間が経っているように思うのだけど。自分はその夢へと近づいているのだろうか。
「‥‥なんつーか、遠のいてる気ぃさするんだども‥」
災難に見舞われた人々を助けて丁々発止の活躍をするのはお姫様ではなく、若君であるような――
「え?」
「んにゃ、こっちの話だ。時に、夏穂さ。日吉の御家ァ元々地付きだっただか?」
怪訝そうに首をかしげた夏穂に、志乃はけろりと笑って話題を変えた。
以前、四神相応の象をもって結界となした村があった。――それは村に災いを入れぬ為の古人の守りであったが、裏を返せば入り込んだ災を村に留める楔となっているのかもしれない。
「大昔ァなんぞの巫だったっつうこたねぇべか? おっ母さま‥‥麻穂さァの居らんようなったのとひでりがみさ来たのが同じ頃っつぅこったから、おっ母さまァ知らずになんぞ古いモンさ見つけちまって‥‥」
その時の不都合が魃を招き、この地に留まらせているのかもしれない。
日吉家を訪れる前にひとまわりした村の形は、過日の村とは少し異なっているように思われた。
「そのような毛色の変わった話は伝わっていなかったと思います。代々の当主が残した書付なども、作柄や天候について書かれたものが殆どだと聞いておりますし‥‥」
お札や形代のようなモノは残っていないかと問う志乃に、夏穂はしばし思案げに視線を宙に向けていたが、やはり吐息を落として首をふる。
「村で1番古い謂れがあるのは、先日の‥‥あの、赤岩らが狼藉を働いていたお社でしょうか。といっても、昔からあそこで農耕神や水の神様をお祀りしているというだけです」
農耕を主とするジャパンにおいては、何処にでもある代のものだ。
念の為、土蔵や床下などを調べて見たいと頼み込んだ志乃の要望にもさほど懸念を示すことなく、家人を呼んで適切な言を伝える。
そのもの慣れた様子からも、麻穂が頼りにしていたのは夫ではなく夏穂であったことが偲ばれて、天風は言いようのない苦笑を噛み締めた。
■□
麻穂はもやはこの世の人ではないだろう。
これはリーゼとレディスだけの見解ではなく、依頼を受けた冒険者たち全員の見解でもあったが、手を下した容疑者を挙げるとすれば、まず第一に――
「後妻さんは、あの家の下働きであったそうだ」
婿養子として迎えられたものの蔑ろにされるご当主に同情して、
あるいは、気位の高い妻に辟易する気の弱い夫には、大人しく従順な下女の方が話易かったのかもしれない。
ありがちだが、理解らなくもない話である。
「‥‥そもそもが人の道に外れた行いですし、相手が勝気な麻穂さんではバレたらただでは済みませんね」
即刻、ふたりして家から叩き出されても不思議ではない。
麻穂が体面を気にする性質であれば、多少、事情が変ってくるのかもしれないが――たとえば、ふたりの関係を知って激怒した麻穂が、懲らしめようと引き起こしたのが今回の怪異の発端ではないだろうか。
三菱が脳裏に描いた真相の正誤はともかく、麻穂が家を出て行く必要はないはずだ。
「ひと通り当たって見たのだが。やはりと言うか、麻穂が村を出て行ったところを見た者はいないのだそうだ」
その点を不審に思う天風も、麻穂の足取りを掴もうと独自に村人たちを当たって確信を強めていた。
事実上、村長であった人間である。
見間違えられるハズも、取るに足りぬと忘れられているハズもない。――無論、見つかれば引き止められるのは百も承知で、気付かれぬよう細心の注意を払って家を出たという可能もあるのだけれど。
「やはり、麻穂はまだ村の中に居る可能性はある」
生死はどうかわからんが、と。礼儀正しく付け加えた天風自身、麻穂が生きているとは思っていなかった。――聞き知った限りでは、この状況で沈黙していられる性質ではないし、沈黙する理由もない。
「麻穂殿はお金持ちの箱入り娘で高慢な性格だったようですから、家出して生活できるとは思えません」
おそらく亡くなっているのでしょう。
他に聞いている者がいるワケでもないので、黒畑の方は容赦ない。
「継母が怪しいと思うんだけどなぁ」
愛欲か向上心かは定かではないが、妻の座を狙った下女が女主人を害してその座に収まるために動いたのではないだろうか。
リーゼの推測に、レディスは少し首をかしげた。
「‥‥ミントリュースは何処から来たのです?」
「殺された母の怨念がミントリュースを村に縛り付けているんだ」
「村人の知らない所に死体を埋める時に、その場所の封印を破り、魃を呼んだのでは?」
「封印たぁ、そういう穏やかでねぇ話は、お蔵の記録や伝え話には、特に残ってなかっただよ。――あるとすれば、農耕神さまの祠くらいだっつぅ話だったべ」
昨年の暮、
江戸を襲った大火の折に、市中を魃が徘徊していたことは、朝廷に仕える陰陽師が公言している。
「私の推理とは少し違いますね」
ミントリュースを呼んだのが麻穂であるところまでは同じであったが。
レディスの推理はどちらかというと志乃や三菱のそれに近く、麻穂の行いがミントリュースを呼び寄せたというものだ。
「ミントリュースを呼び出してしまった麻穂さんは、食べられてしまったのではないでしょうか。――もしかすると、後妻はその場面を目撃しており、だからこそ前妻がもどるかもという心配の必要もなく好き勝手に振舞っているのでは?」
胡乱な輩を引き入れているという点では、天風の意見もこちらに近い。
卑しくも神と呼ばれる存在を目の当たりにして平然とやり過ごしたのだとすれば、相当な胆力の持ち主だけれど。
「‥‥夏穂さんの話では、義母となられた方はご当主様と同じく、それほど気の強い方ではないそうですが‥」
エステラの言葉に会した者たちは、また顔を見合わせた。
胡乱な輩――祈祷師や陰陽師の神通力を頼みにするのも、降らぬ雨を気にしてのことだとすれば、あるいは臆病な性質にも見える。
●灌漑池の誤算
皆で訪れた灌漑池には、魔法で探らねばならぬほどの水は残っていなかった。
[陽]の眷属である魃の力によって日照りが続けば、自然、水気が失われて[水]の精霊力が弱くなる。同じ理屈で、[陽]の属性を持つ魃には、[陽]の精霊に働き掛ける魔法は効きにくい。
タネを明かせば、実はけっこう単純だ。
水の大半が失せた灌漑池の惨状は、無残なもので。――干からびた貝殻や、魚の死骸など心の痛む光景が広がっていた。
このまま日照りが続けば、近い将来、村自体がこういう姿になってしまうであろうことは容易に想像がついて石動は小さく身震いする。
「‥‥こちらではないようです‥」
念のためにとスクロールを使って丁寧に検分したエステラの言葉を背に、石動は社に足を向けた。
田畑の出来、不出来を左右する神であるからそれなりに大事に掃き清め、お供えなども置かれているが、伝え聞いていたとおりいかにも古い社である。
「ずいぶん廃れてるが、最近、掘り返された痕跡などはないようだな」
「やはり中を確かめるしかないか‥‥」
それを確信した石動の合図に、力仕事は任せてくれと三菱が進み出た。
固く扉を閉ざした祠にとりつき、ありったけの力を込める。隆と盛り上がった腕の筋肉に青く浮かぶ血管がぴくりと生き物のように脈打つたびに、祠はみし‥と嫌な音を立てて軋んだ。
古くともしっかり造られたモノであるらしく、三菱の額にも汗が吹きだす。
息詰まる気迫に圧倒され、その光景を見守る者たちの眼の前で、ぎしぎしとかしぎ始めた祠の扉に、びしりと身を竦ませるような音を立てて亀裂が走った。
最後の力を込めて押し返した腕への抵抗が、突然、途切れる。
エステラの耳は、彼女を取り巻いていた精霊たちが悲鳴挙げるのを確かに聞いた。――干上がった灌漑池の畔で生まれた憐れみは、エステラ自身の情ではなく。ずっと前からそこに揺蕩うていたものだ。
途切れた憐れみの後に湧き出したのは、烈火の如く激しい憤りの感情。
弾かれたように顔を上げたエステラが危急を告げるより、僅かに早く――
急速に膨れ上がった苛烈な怒りは太陽にも似た強烈な光となって、世界を塗りつぶした。刹那、
咄嗟に目を庇おうと顔の前へ重ねた腕ごと、弾き飛ばされる。
●魃−ひでりがみ−
片手片足の獅子の姿に似ていると伝えられている。
だが、自ら輝きを発する強すぎる光の中に、その姿を確かめるコトはできなかった。――<インビジブル>。あるいは、<ダズリングアーマー>と呼ばれる魔法の存在を思い出すのは、もっと後になってから。 目を開けていることさえ困難な圧倒的な光の前に、太陽の力を思い知る。
「聞いてください!!」
言葉が通じるかどうかは、賭けだった。
それでも、ともかく発せられたエステラの声に、光はゆらりと反応を示した。
「このままこの地に留まれば、村は乾き、滅ぶでしょう」
良く通る声で、エステラは理を紡ぐ。
教鞭を執っていた経験もあって、凛と胸を張ったその姿は、小柄であるコトを感じ冴えぬほど大きく見えた。
「さすれば村人は太陽を厭い、恨むやもしれませぬ。太陽の恩恵と威光を知らし示す貴方様にとって、望ましいことではないはずでしょう。故に、この地よりお引き取り願いたく思います」
所謂、三段論法という。
相容れてくれればよいのだけれど。文殊菩薩の加護を得たとされる数珠を握り締めて、黒畑は心中で仏の加護を希った。
黒畑は、悪を改心させる方法を知らない。――眼の前の精獣が、真実、《悪》であるという確証もないのだけれど。
巨悪を前に黒畑の執れる行動は討ち果たすことだけであったが、だからと言って無益な殺生を好むわけでもなかった。仏は本来、慈悲深いモノである。
戦いたくないと思う気持ちは、三菱、石動も同様で。
「‥‥拙いな‥」
エステラの言葉を理解しているのか、いないのか。
以前、眩い光の中で苛烈な気を発し続ける精霊に、石動は先日から飼いはじめた《鬼火》の姿を重ね合わせた。――石動の《鬼火》やエレメンタル・フェアリーと呼ばれる精霊には、それほど明瞭な知性があるわけではない。
御伽噺や伝説に登場する精霊には、人以上の知性を持つ存在として語られていることの多い存在だが‥‥
この魃はどちらに区分されるのだろう。
「情けない話ですが。通じて居るコトを祈るしかありませんね」
こう見えて実は熱血家であるレディスの内情は、冷静を保ち続けているようで見た目より穏やかではない。敵を見据えて戦うことが出来ないという状況は、冒険者立ちにとって極めて不利だ。
エレメントスレイヤーの名を関された名刀を携えて臨むリーゼにとっても、その状況は変らない。――回避術を持たないリーゼに、動きの早い敵は鬼門である。
固く張り詰めた緊迫の糸に、沈黙が重く降り積もっていく。
瞬きひとつ。あるいは、永遠にも似た悠久に紛れ込んだのか。時間の感覚さえ遠くなるその空気の中で。
光の傍らに黒く染みのような影が揺らいだ。
『‥‥滅ビ‥テ、シマエバ‥‥ヨイ‥』
「なっ!?」
耳に伝わる音ではなく。
直接、頭へと突き刺さる深い怨嗟に、鳥肌が立った。
「‥‥‥麻穂殿なのですか‥‥」
肉体のない思念だけの存在であるコトは、すぐに判った。
麻穂の思念というよりも。心に残った執着により浄土へ旅立つコトも適わず、人であった記憶を失い怨念だけの存在となって彷徨う魂の残骸、とでも言うべきもの。
《‥‥ヲ、忘レテ‥‥天道ニ唾ハク‥‥忘恩ノ輩‥跳梁スル‥郷ナド‥》
滅びてしまえばいい。
救われずに俗土を彷徨う魂の声に、重なった魃の咆哮が再び大気を揺るがせた。放たれた強い光は幾重にも空を染め上げ、雨雲を打ち砕く。
「‥‥あ‥」
胸に湧いたのは、憐憫だった。
渇きをもたらす精霊は、成仏できずに朽ちていく魂を確かに憐れんでいた。――たったひとつの嘆きに呼応し、災禍を生み出す。その無軌道こそが精霊、あるいは、禍つ神と人を分けるものなのかもしれない。
世を呪う怨念と、
怨念に取り付かれた魂への憐憫と――
ふたつの強い想いに触れた心は、ともすれば、そちらに引きずられてしまいそうになるけれど。
「お待ちください!!」
精一杯、声を張り上げる。
仲間の、そして、自分の心を支える為に。
「麻穂さまのご無念、お察しします。ですが、今一度、お考えくださいませ」
怨嗟で村を亡ぼしても、麻穂の魂が安らぐコトはないだろう。
恨みを引きずり、永遠に彷徨い続けるだけだ。――この慈悲深い精獣がどこまで、彼女に付き合うのかはわからないけれど。
「必ず、貴女を見つけ出し、弔って差し上げます」
「んだ、約束するだよ」
エステラの決意に、志乃も大きく頷いた。
力で排除することは容易いけれど。それでは、誰も浮かばれない。――故意か、偶然かは未だ明らかではなかったが、天道を曲げた者は確かに存在する。
「村中掘り返しても、探し出してやるから」
その声に圧されるように影は揺らめき、光の中へと消えていった。
そして、麻穂の影に寄り添うように、世界を包む強すぎる光が途切れ、静寂と壊れた社がそこに残った。
「聞き遂げて下さったようですわね」
糸が途切れたかのように地面にへたり込んだエステラの淡い微笑みに、レディスも力の抜けた笑みを零した。
「‥‥この次は失敗できないけどね‥」
「大丈夫だ」
思った以上に力の入っていたらしい己の身体を確かめるように伸びをして、それでも天風は胸を張る。
「もう、残っている場所なんていくらもない」