恋花の夕べ 〜れっつおもてなし〜
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■ショートシナリオ
担当:UMA
対応レベル:フリーlv
難易度:易しい
成功報酬:4
参加人数:7人
サポート参加人数:-人
冒険期間:10月07日〜10月14日
リプレイ公開日:2009年10月14日
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●オープニング
空は一体、どれだけの色を持っているのだろう。
そして、どれだけの数の生きとし生けるものが、空の色に思いを馳せるのだろう。
例えば、この紫の空は一体どんな表情で、そこに何を見出せばいいのだろう――――
「‥‥」
ジャン・シュヴァリエ(eb8302)はふと、そんな事を思う時がある。
それは決まって、寂しさを抱いた瞬間だった。
どんな楽しい時間にも、終わりはあって。
美しい花も、鮮やかな星空も、神々しい歌も、心休まる風も。
或いは、過酷な刻も。
この世の全ては、全ては――――刹那の中にある。
「どうかしたかね? ジャン君」
恋花の郷の村長ヨーゼフ・レイナの問い掛けによって、ジャンの切なる意識もまた、刹那の中で雪のように融けて行った。
「すいません。えっと、今日は貴重な時間を割いて頂き、ありがとうございます」
恋花の郷に本格的に関わり出してから、ジャンは魔法探偵の一方で、商人の道にも踏み入れている。改めての挨拶には、その一端が現れていた。
「全然構わんよ。話と言うのは何かね?」
「ええ、実は‥‥」
ジャンは朗らかな笑みを浮かべ、語る。
今計画している、小さな企みについて――――
「サプライズ・パーティー?」
アーシャ・イクティノス(eb6702)の反芻に、ラテリカ・ラートベル(ea1641)は心底楽しそうな笑みを浮かべ、二度頷いてみせた。
同時に、頼んでいたメニューがテーブルに届けられる。
ここはパリの冒険者酒場、シャンゼリゼ。
その一番奥のテーブルで、アーシャとラテリカは腰を落ち着かせている。
二人とも、数日後にこのパリから南に下った先にある村『恋花の郷』へ来て欲しいと言う旨の手紙をジャンから受け取っていた。
そして、いち早くジャンからその目的を聞いていたラテリカが、それをアーシャに伝えようとしているのだ。
その内容はと言うと――――恋花の郷の村人達をおもてなしする、と言うもの。
ただし、それだけではサプライズにはならない。
「表向きは、修道院の改装のお手伝い依頼なのです」
「なるほど〜! その名目で集まって、修道院でパーティーの準備をするのですね?」
「えへへ、そなのですよー。アーシャさんも御一緒にどでしょか。悪巧み♪」
「いいですね、悪巧み」
そのお誘いに、アーシャは快諾の返事をし、テーブル上のシトロン蒸しパンをはむっと咥えた。
「こんにちは、皆様」
パンで覆われたテーブルに、そのパンを開発した本人――――エレイン・アンフィニー(ec4252)が訪れる。
その笑顔は、テーブルを彩る花瓶の花よりも更に華やかだった。
「あの、ジャン君からこんなお手紙を頂いて‥‥」
エレインのそんな言葉に、ラテリカとアーシャは悪巧みとは縁の遠そうな、それでいてやっぱり悪巧みをしていそうな、秘密基地を作ろうと計画を練る子供のような顔を向けていた。
恋花の郷の近隣にある『ピュール湖』と言う湖を、レリアンナ・エトリゾーレ(ec4988)とミカエル・テルセーロ(ea1674)の二人が覗き込んでいた。
その傍らで、二人が乗って来た一角獣と驢馬は、湖の水を勢い良く飲んでいる。
水質には問題がなさそうだ。
「このような場所が村の直ぐ近くにあるとは、知りませんでしたわ」
「僕もです。しっかり目的を持って探せば、意外と簡単に見つかるものですね」
ミカエルは苦笑しながら水をすくい、顔を洗った。
「それに致しましても、シュヴァリエ様におかれましては、とても素晴らしい提案をなされたものですわ」
この湖は、サプライズ・パーティーの次に予定しているピクニックの会場だ。
両村の子供達をはじめ、沢山の村人達と共にここを訪れ、太陽の下で軽食を取り、遊んで貰おうと言う計画を、ジャンは考えていた。
近くに湖が見つかったのは幸運だった。
この距離なら、身体の余り強くない子供がいても十分往復出来るだろう。
「後は、子供達が落ちないように見張ってないと‥‥」
「テルセーロ様はすっかり教師になられましたわね」
「そ、そうですか?」
パラのミカエルは身体的にあまり大人と言う印象を持たれない。
だからこそ、中身は常に――――そう言う意識は、心中の何処かにあるのかもしれない。
当の本人は、それを肯定も否定もせず、ちょっと眉尻を下げて笑っていた。
「きゃーーーっ! どいてーーーっ!」
そんなミカエルとレリアンナの背後から、悲鳴にも似た声が聞こえて来る。ついでに、馬の足音も。
「とーーーーーっ!」
あえて暴走しているらしく、二人の間を颯爽と走り――――そのまま湖へとダイブ。馬ごと。
湖から、盛大な水飛沫が舞う。
「‥‥」
「‥‥」
何が起こったのかわからなかった二人は、その一部始終を呆然と眺めていた――――
「ふむ。事情は大体わかった。そう言う事なら、是非協力をさせてくれ」
話を聞いたヨーゼフは、彫刻家の巨匠のような渋い顔で頷き、リヴァーレ産直の茶を啜る。
「ちなみに、その湖は普通の湖ではないが、大丈夫かね?」
「え?」
ジャンの意外そうな表情に、ヨーゼフは顎を摩り、口の端を吊り上げる。
「まさか、毒でも含んでいるとか、湖からにゅっと手が生えて来るとか‥‥」
「はっはっは。そんな恐怖体験の場所ではないのだが、一寸ばかり変わった言い伝えがあるのだ」
高らかに笑いつつ、ヨーゼフは続ける。
「何でも、その湖の中に生えている水中花を摘むと、愛が報われるそうだ。まあ、良くある話だが」
「それは面白いですね! その話、詳しく――――」
「聞かせて! おじいちゃん!」
ジャンの肩越しに、そう叫んだのは――――ヨーゼフの孫、ミリィ・レイナだった。
ここ数ヶ月、リヴァーレと言う村は実に平和な日々が続いている。
ただ、その村長パウル・オストワルトは若干の懸案を抱えていた。
とは言っても、深刻なものではない。
単に、妹の孫娘ルイーゼが最近元気がない、と言うだけだ。
恋花の郷の学校に通わせ、数ヶ月の時が経つ。
相変わらず無口ではあるが、確実にルイーゼは沢山の事を学んでいた。
特に、まだ小さい子供にも拘らず、『女性』の部分の成長は目覚しい。
どうやら、男友達のアルノー君と、その学友のティアナ嬢が、最近仲が良いらしい。
世の中、中々思い通りにはならない。
大事な事だ。学ぶべき事だ。
しかし、パウルはルイーゼの元気のない姿を見続ける事に、これ以上耐えられそうになかった。
そのリヴァーレの、馬車乗り合い場。
「すいません。恋花の郷に出ている馬車は、いつごろ出発しますか?」
突然そんな事を聞かれ、ロタンは思わず顔をしかめる。どうやら馬車の関係者と間違われているらしい。
一応既知の情報だったので、教えておく。
「ありがとうございました。自分は、エリク・フルトヴェングラーと言います」
その青年は、聞いてもいないのに名乗り、爽やかな笑みを浮かべて宿の方へと向かって行った。
年齢は、娘より少し上くらい――――
「‥‥フン」
恋花の郷と言う言葉が良くなかったのか。ロタンは禁忌の想起に思わず嘆息した。
捨てた家族。捨てた村。
それでも、忘れられない。
成長した娘の泣き出しそうな顔が忘れられず、ロタンはこうして近い場所で生活をしていた。
「未練だな。あの頃の温もりなど、とうに冷え切ったと言うのに」
口にしたのは、戒めか、それとも本心を否定したいからなのか。
いずれにせよ、ロタンはここにいる。
この場所に。
●リプレイ本文
「おはよございますですー」
驢馬のヴェルテにちょこんと乗ったラテリカ・ラートベル(ea1641)がその地を訪れると、沢山の村人が笑顔で声を掛ける。
そこは、恋花の郷と呼ばれる村。
村おこしを始めて1年数ヶ月、気が付けば多くの観光客が訪れる、パリ近郊の名物村となっていた。
「あら? ラテリカさん、今日はどうされました?」
その村長の孫娘、ミリィがラテリカを発見し、不思議そうに尋ねる。
「修道院のお掃除のお手伝いしに来たですよー」
そう答えるラテリカの下では、ヴェルテが耳をピクピクさせていた。
そして、引いている荷台からは、清掃道具が少しだけ露見している。
「そうなんですか。それなら、空いた時間にお手伝い‥‥」
「はわ、だ、だいじょぶです! ラテリカ達にお任せ下さいなのですよー」
「そう? それじゃ、お願いしますね」
馬上でペコリとお辞儀したラテリカは、ミリィと別れた直後、ホッと胸を撫で下ろしていた。
一方――――パリから南に下った草原地帯の野道。
「あ、パールさん」
ミカエル・テルセーロ(ea1674)とレリアンナ・エトリゾーレ(ec4988)は、馬のイザヤを帯同させたパール・エスタナトレーヒ(eb5314)にそれぞれ手を振る。
「しっふしふ〜。皆さん早いですねー」
「あら? と言う事は、エスタナトレーヒ様もおもてなしに?」
「はい。色々持ってきましたよ。一番良いお酒はアーシャさんに預けましたけど」
レリアンナの問いに答えたパールは、イザヤの引く荷台の方に弧を描いて飛んで行く。
そこには酒類を始め、様々な荷物が積まれていた。
「僕達は、これからリヴァーレとパストラルに行きますけど」
「ボクもリヴァーレで買い物です。折角ですし、御一緒させて下さい」
「勿論ですわ。旅は道連れと申しますし‥‥わたくしは途中までとなりますが」
話がまとまり、3人は南へと歩を進める。
そんな中、ミカエルは自身の直ぐ横を飛ぶパールに、少し気になっていた事を聞いてみようと口を開いた。
「ところで、どうしてアーシャさんにお酒を?」
「はい。それが――――」
今年の春、恋花の郷は香水調合師ドーラ・ティエルによって買収されそうになった。
しかしその目論見は立ち消え。
その時の縁で、アーシャ・イクティノス(eb6702)は現在、ドーラと偶に交流を持つようになった。
「このような上質なワイン、中々巡り合えるものではない。是非飲み交わそうではないか」
また、ドーラにとってもアーシャは既に友人と言う認識のようだ。
富豪の証とも言うべき銀製のグラスに、パールからの進呈品である『フロストヴァイン』を自ら注ぎ、再会を祝す乾杯をする。
「それで、この度はどのような用件なのだ?」
「ええ。実は――――」
貴族モードのアーシャは普段とまるで違う口調で、この度の訪問の動機を述べた。
「‥‥水中花の伝説か。確かに、創作意欲が湧く言い伝えだ」
「是非、御同行願えればと」
「だが、それだけではあるまい?」
ドーラのその指摘に――――アーシャは一瞬目を見開き、その後微かに細める。
「流石です。実は、もう一つお願いが」
「ふむ。何なりと申すが良い。これだけの手土産を貰ったのだし、何より私とそなたの仲。ある程度の事なら、力を貸すぞ?」
「ありがたい御言葉、痛み入ります」
アーシャは視線をドーラの瞳孔に合わせ、その願いを告げた。
翌日。
「季節が巡るのって、早いよね」
苦笑しながら、ジャン・シュヴァリエ(eb8302)は蕪の中身を器用に刳り貫いていた。
修道院の改装と言う名目で、冒険者の手によって行われる、今回の『おもてなし』。
その会場となる修道院では、その為の作業が着々と進められている。
外には皆で持ち込んだ荷物や買い足した材料等が、布に包まれた状態で積まれている。
僅かに露見した木材や加工用の道具のお陰で、仮に村人がこの場を訪れても、本当の事には気付かないだろう。
「私達はもう、全ての季節をこの村で過ごしているのですわね」
感慨深げに、エレイン・アンフィニー(ec4252)が頷く。
今2人が行っているのは、パーティー用のランタン作りだ。
もう直ぐ行われる『ハロウィン』を意識し、蕪で作っている。
目や口を均等な大きさに切り抜くのがポイントだ。
「そう言えば、ラテリカさんの姿が見えませんけど、何処へ行ったのでしょうか」
「あー、修道院長の所じゃないかな。食器がないか探してるのかも」
その他、先程まで熱心にカードを作っていたミカエルや、ランタンを作っていた者達の姿もない。
「えっと‥‥あ、劇の練習。何時頃から始めよっか」
沈黙を嫌い、ジャンは言葉を紡いだ。
「出来れば、早い方が良いですわ。余り自信がありませんから」
「大丈夫! だって、前のお祭りの時も凄く上手かったよ?」
ジャンの本心からの言葉に、エレインは少し困ったように微笑んだ。
冒険者達が修道院の改装に訪れてから、4日目の夕方。
村人達は、その御披露目式をすると言うレリアンナの通達を受け、『恋の花咲く小径』を通り、修道院に足を運んでいた。
到着と同時に訪れたのは、数多の驚き。
まず修道院だ。
改装とは明らかに違う趣旨の、綺麗な花々の飾り付け。
その周囲の木には、顔を模った蕪が吊るされており、中には蝋燭が設置されている。
更に、花畑の傍らには何脚ものテーブルが並べられ、その上には豪華絢爛な料理の数々が並んでいた。
メインとなるのは、牛肉煮込みスープ。
お肉、野菜、ワイン、更には羊乳も交ぜ、豊かな味わいのトロトロスープに仕上げている。
貝と海草の酢漬けは、サッパリして食べ易く作られており、鳥の酒蒸しはハーブとフルーツで作ったソースと相性抜群。
沢山のパンも、ドライフルーツやチーズが乗せられて、数多の種類を成している。
集合テーブルの端の方には、沢山のジュースやお酒も並べられていていた。
「皆さん、お待たせしました!」
そんな困惑の中、ジャンの掛け声と共に、修道院から冒険者達が次々に出てくる。
派手な装飾のマントに身を包み、つばの広い黒色の帽子を被ったジャン。
フワフワしたワンピースのドレスの上に、水色の宝石がついた民族衣装をあしらえたエレイン。
緩やかな法衣を着て、胸の十字に手を置くレリアンナ。
袖の長い上着の左前腕にブルー・スカーフをかけているミカエル。
神官服に身を包み、厳かな雰囲気を醸し出すパール。
ロイヤルホワイトとダンスヒールで、貴婦人の雰囲気を演出したラテリカ。
そして、メイドドレス「エンジェル」で、メイド姿となったアーシャ。
全員、普段村で見せている姿とは全く違う、別の顔となっている。
「ごめんなさい。修道院の改装と言うのは嘘でした」
ジャンに合わせ、他の冒険者も頭を下げる。
そして顔を上げると同時に、まだ事の真相が掴めない村人に向けて、弾けるような笑顔を見せた。
「今日は、この恋花の郷を我々冒険者がもてなします! この料理も、皆さんに食べて貰う為に用意しました!」
その言葉の後、数拍ほど沈黙が続く。
「‥‥あれ?」
不安になったジャンが、頬に冷や汗を流したその時――――万来の歓声と拍手が、嵐のような勢いで湧き上がった。
多分にサプライズ要素を含んだ、おもてなしパーティー。
太陽が傾く中、修道院の周囲は村人達によって埋め尽くされ、冒険者達は精一杯のおもてなしをすべく、給仕に勤しんでいた。
「お代わりいる人、手を上げて下さい」
「あら? 空っぽですわ。お注ぎ致しますわね」
背中の白い羽を揺らしながら、アーシャが料理を取り分け、酒を飲み交わす男衆をレリアンナが接待する。
「押さないで下さーい。まだまだ料理はありますからー」
「からー♪」
「ティアナちゃん、お口に食べこぼしが‥‥はい、大丈夫ですわ」
パールは火霊ローテと共に村人達の誘導と案内に飛び回り、エレインは子供達を一手に引き受け、終始笑顔で面倒を見ている。
こうして、巨額の資金で用意されたラテリカ作の料理は、パーティー開始から僅か30分で殆どなくなってしまった。
そして、気が付けば給仕に勤しんでいた4人もいなくなっている。
リラックスした雰囲気の中、陽は沈み、徐々に辺りは暗闇に――――
「おかお、あかるい」
子供の一人が、蕪ランタンの灯りに気付く。
いつの間にか、蝋燭に炎が灯されていた。
「えぇ‥‥これより、我々冒険者による演劇『猫キューピッドの伝説・完結編』を行います。宜しければ暫くご覧になって下さい」
オレンジの光に包まれた修道院から、ミカエルの声が聞こえてくる。
それに続き、今度は神秘的な竪琴の音。
そして、その扉からジャンとエレインが先程とは違う衣装で現れた。
「ある日の事。愛を司る猫天使達が、いなくなってしまったのです」
ミカエルの進行と共に、劇は進んでいく。
脚本はアーシャが担当。基本的には、以前のお祭りの際の紙芝居の続きになっており、2つの村を繋ぐ橋渡し役となった猫キューピッドが突然いなくなると言う所から始まる。
それが原因なのか、村では愛し合う2人が引き裂かれると言う呪いが広がり、主演の2人にも不幸が訪れる。
エレインの母親が倒れてしまったのだ。
「お母様‥‥」
「気にしてはいけませんわ。このような呪い、直ぐに跳ね除けてみせますわ」
と、母親は言うものの、中々回復の兆しは見えない。
その後、村の近くにある湖に、愛を成就させると言う水中花の伝説があると知り、ジャンは落ち込むエレインを連れ、その花を見に行く。
しかし湖に花はなく、代わりに水の精霊がいた。
その精霊によると、水中花は悪魔に摘まれてしまったと言う。
愛する2人を引き裂く呪いは、愛を司るその花の妖精が悪魔の手に渡ったからだった。
「水の精霊は、魔法の杖と護符を授け、2人にお願いをします。お花を取り返して欲しいと」
ミカエルの進行に従い、ジャンとエレインは森の中へ。
そこには、悪魔役のアーシャと、花の精霊役のパールがいた。
「ふっふっふー。なんとめんこい妖精なのだ。食べてしまおうかー」
「ボクを食べてどうするつもりですか」
「その美しさを取り込んでやるのです。覚悟ーっ!」
若干喜劇っぽく仕上げているのは、周囲の雰囲気もあり、子供が泣き出さないかと憂慮した為。
その甲斐あって、子供達は楽しく眺めている。
「待った! 花の妖精さん、助けに来ました!」
「え、ええと‥‥」
そこで、エレインが若干台詞に詰まったが――――ジャンが顔を近付け、こっそり助け舟を出した。
「ありがとうございますわ」
小声で唱えられた感謝の言葉と、直ぐ近くに見える清楚な顔に、ジャンが思わず赤面する。
「お花さんを返して下さい!」
そんなジャンを他所に、エレインは堂々と言い放ち――――
「む、無念です〜」
悪魔は敗れた。何故敗れたのかは、愛のなせる業としか言いようがない。
「ありがとうございました。これで、呪いは解けますよー」
こうして、村は平和を取り戻した。
そして、話はここでは終わらない。
湖に精霊を帰した2人は、そこで驚く。
「湖の精霊はこう言いました。傷付き倒れた猫が、湖の底で眠っていると」
ジャンはそれを聞き、直ぐに湖へ飛び込む。
そこで眠るように沈んでいたのは、あの猫キューピッドだった!
羽を付けたアリス・リデルを、ジャンは慈しむように抱えあげる。
息は、あった。
「良かった‥‥帰っておいで。君の居場所は作ってるから。皆‥‥待ってるから」
そこで、ラテリカが村歌をフルートで演奏。
感動に包まれる中、劇は幕を閉じた。
冒険者の提示した希望は、いつの日か、きっと実現する。
そう信じて、村人達は大きな拍手を送った。
今はいない、あの愛らしい猫天使へ向けて。
劇が終わり、完全に陽も暮れた中、冒険者達は集まった村人全員にミカエルの手作りカードを手渡した。
そこに記されているのは、日頃の感謝の言葉。
毎日村道のゴミを拾っている、腰の曲がったおばあちゃん。
揉め事があったら、直ぐに駆けつける強面の青年。
家の為に、一日に何度も井戸から水を持ってくる少女。
冒険者達は、そんな村人一人一人を、いつも見てきた。
それを伝えるカードが、一つ一つ渡されていく。
子供達は見せっこをして、覚えたての知識でその字を読んでいる。
大人達は、大切そうにそのカードを見つめていた。
「はい、カールさん」
「感激です!」
カールはエレインから手渡されたカードに、クシャクシャの笑顔を返す。
「‥‥」
その様子を、ジャンは複雑な顔で眺めていた。
そして。
「さあ、お楽しみはこれからです!」
アーシャによって、ダンスパーティーの開催が宣言された。
修道院内は、既にその為の内装もしてある。
院内ではチークやボールルーム、外では火を囲んでのフォークダンスを行う事となっている。
「ダンスならお任せ!」
パリでの興行がこの度正式に決まった『フルール・ド・アムール』のリーダー、ハンナが目の色を変える中、鼓笛隊の面々もラテリカの元に自然と集まっていた。
「勿論、大歓迎ですよー」
と言う訳で、顧問の元、BGMの演奏は鼓笛隊が行う事になった。
ただし、途中抜けて踊っても良いと言う形をラテリカは提唱した。
と言うのも――――
「実はラテリカ、一緒に踊って欲しい方いるですよ」
「なーにー!?」
恥ずかしげに呟かれたその言葉によって、鼓笛隊の中に衝撃が走る。
ラテリカが既婚者である事は、既に何度かの集いの中で旧知の事実となっているが、そこはそれ。
やはり女性のダンス相手に指名されると言うのは、男性にとっては栄誉な事なのだ。
そんなこんなで鼓笛隊が騒がしい最中、教師組は子供達を寝かしつけ、その寝顔を見つめていた。
その中の一人、マリーにジャンが視線を向ける。
「マリー先生は、誰か一緒に踊りたい相手は?」
「今は子供達と一緒にいるのが一番ですね。特定の男性とお付き合いすると、疲れますし」
言葉の後半辺りから笑みが消えてきたマリーに、ジャンは無理して笑顔を作り、今度はハンナに視線を向ける。
「私はもう、本格的なプロダンサーを目指すつもりだから、踊りに関しては真面目に、ね」
いつの間にか、そう言う夢が出来ていたらしい。
ハンナはミカエルから花飾りを受け取ると、他の面々と共に、F・D・Aの一員として華やかなダンスを踊り始めた。
「ミリィは?」
「私は‥‥この場にはいないと言うか」
「あ、いる事はいるんだね? 是非聞きたいな、ミリィの目に適った相手の事」
「え、ええ〜? でも‥‥その‥‥実は、前に――――」
少しお酒も入っていたのか、雰囲気に酔ったのか、ミリィはいつもより饒舌だった。
その様子を微笑みながら眺めているエレインに、ミカエルが近付く。
「先生も踊りに入ってみては?」
しかし、エレインは首を横に振った。
「私にとっては、ここで皆様の『幸せ』を鑑賞する事が、一番の贅沢ですわ。ミカエルさんこそ、踊りになられては?」
「はは。こんなちんちくりんと踊って下さる奇特な方がいれば」
乾いた言葉だと自覚し――――咳払いひとつ。
「でも、僕もどちらかと言うと、見守る側の方が好きなんだと思います」
健やかに眠る子供達を見ながら、ミカエルは静かに微笑んでいた。
一方、修道院内では、レリアンナが牧場従業員のフラドと談笑しながら踊っている。
彼によると、リズは熱を出して欠席しているらしい。
「それは、お気の毒ですわね」
「張り切り過ぎたようだ。あのリズが色めき立つとはなあ。どうもミカエル殿の方は気付いていないようだが‥‥うおっ!」
苦笑するフラドの足を、何者かが踏む。
一瞬、リズが来ていたのではと思いフラドが視線を上げると、そこには鼓笛隊のリーダー、ジョルジュの姿が。
「す、済まない。慣れていないもので」
「気にするな。お互い様だ」
そして、ジョルジュはぐるっと回り、ラテリカの元へ戻った。
「テメェ! 代表なのを良い事にラテリカちゃんに選ばれやがって!」
「後でぶっとばしてやる! あとニヤケ顔でコインなんぞ贈ってた村長もな!」
鼓笛隊は、ラテリカに指名された妙齢の男性2名に宣戦布告していた。
「え、えと、皆さんとも踊るさせて頂くですので‥‥」
ラテリカはアタフタしながら、いきり立つ鼓笛隊を鎮めていた。
その後、パールの呼び掛けにより、最後は皆で踊る事に。
検討の結果、修道院内に子供を寝かせ、外で最後の大騒ぎを行う事となった。
「踊れる人も、踊れない人も、そう言うのは気にしないで、とにかく騒いで下さい!」
ジャンが先導し、村人がそれに続く。
パールはくるくる回りながらダンスする皆の隙間を縫うように飛行し、その上空ではローテが炎の輪を作って、宙で遊ばせている。
美しい赤い光が、踊るように舞う。
その火の輪をパールが潜って見せると、疲れて休憩していた村人達から大きな拍手があがった。
楽しい一時。
素敵な一夜。
そして――――
「これだけじゃ話は終わらないんだよ」
ジャンの言葉に、宿屋ヴィオレの娘カタリーナは興味深げに頷く。
2人は、村道をゆっくりと歩いていた。
「ダンスが終わった後、ラッテさんのクロシュと、アーシャンのケチャが行方不明になっちゃって。総動員で探してたら、火の消えた蕪ランタンの中で丸まって寝てたんだ」
「へえ。妖精ってそう言う習性でもあるの?」
「どうだろうね」
カタリーナがこの村を訪れたのは、とある目的の為。
そして、その目的を行う為の場所――――酒場「スィランス」に到着した。
「マスター、場所提供してくれてありがとうございます」
ペコリとお辞儀するジャンに、酒場のマスターであるミルトンは沈黙しつつ『気にするな。どうせ夜しか使わない』と言う視線を投げ掛けた。
そして、ジャンはカタリーナをつれて、奥の席へと赴く。
そこには既に、ラテリカ、エレイン、レリアンナ、十数人の村人、そして学校の子供達がいた。
「揃いましたですね。では、これからお弁当教室を始めよ思いますです」
ラテリカはペコリとお辞儀し、そう宣言した。
パーティー終了後、ジャンは満足しきった村人達に、更なるおもてなしメニューを発表していた。
それは、この村の近隣にある『ピュール湖』へのピクニック。
リヴァーレの人達にも参加して貰う予定の催しだ。
更に、パーティー翌日、アーシャがリヴァーレに向かい、告知。
「合同ピクニック、しませんか。冒険者の珍しいペットとも遊べますよ」
エンジェルメイドに猫キャップ姿で宣伝した結果――――参加人数は大所帯となった。
このお弁当教室は、そのピクニックのお弁当を作る為だ。
趣旨としては、料理の腕を磨く他、「意中のあの人に食べて貰おう!」と言うもの。
わざわざリヴァーレから遠征している人達も複数いた。
「包丁はゆっくりトントンするですよー。切る物しっかり押さえて下さいです」
ラテリカの指示の元、エレインとレリアンナも懸命に励んでいる。
そんな中――――1人、浮かない顔の女の子が。
リヴァーレからやって来たルイーゼだ。
その視線の先には、アルノーとティアナがいる。
「‥‥」
ラテリカはその様子に全てを悟り、一計を案ずる為、途中でひっそりと抜け出すのだった。
2日後。
「うわーっ! お馬さんいっぱい!」
「おはねー! アンジュみたいー」
パールの愛馬イザヤを先頭に、レーチェ、フラウと言ったユニコーン勢、ペガサスのベガなど、普段村では、と言うか一般人がお目に掛かる頻度自体少ない動物達と歩きながら、ピクニックへと赴く。
帰りには彼らの引く荷台に乗って貰う予定だ。
また、今回は最終試験も兼ね、牧場の仔馬達も連れて来ている。
その馬達を先導するのは、リズだ。
「熱が下がって良かったね、リズ」
「は、はいっ」
「‥‥あれ? まだ顔が赤いような」
そう言いつつ、真剣にリズの顔を見つめるミカエルに、リズは頭から煙でも出しそうなくらい紅潮していた。
更に、その後方に固まっている男性陣は、それ以上に何やら興奮気味だ。
「余り気負い過ぎないように、ね?」
必死で宥めるジャンを尻目に、男達はやる気だ。
と言うのも――――彼らは先日、ジャンから水中花の言い伝えを聞いていたからだ。
村一番の堅物とさえ言われていた大工のフレイも、泳ぐ気満々。
その目は、後ろを歩くカタリーナの方をちょくちょく追っていたりする。
そして、パン屋のカールも気合を入れていた。
無論、その視界には、子供達と手を繋いで楽しげに歩くエレインの姿が映っている。
「‥‥教えない方が良かったかな?」
その様子に、ジャンは何となくそう呟いてはみたが、実際後悔はしていない。
今回は、村人をもてなすのが自分の役目。
カールをどのような形であれ仲間外れにする発想など、元よりなかった。
その後、恙無く湖に到着。
男達が一斉に入念な準備運動を開始する中、子供達は早速自然の中に溶け込んで行く。
「う‥‥乗り遅れてしまった」
学友達が野原や森へ向かう中、一人辺りを見渡す子供。
遠くの地から村へ通い続ける貴族の娘、アンネマリー・ドールだ。
「あら? どうされたのかしら、ドール様」
そんなアンネマリーに、レリアンナが声をかける。
2人は以前からの知り合いだった。
「おお、レリアンナ! 実は、こう言う事は初めてなので、正直どうして言いかわからないとゆーか」
「自由にお遊びになられては?」
「遊び方がわかんない」
シュンとしたアンネマリーに、レリアンナは思わず微笑む。
「でしたら、わたくしのレイモンドが暫くお相手差し上げますわ」
「ワンワン!」
ボーダーコリーのレイモンドが、アンネマリーに跳びつく。
「きゃーっ。こ、こら、嘗めるな! あはははは」
とても楽しそうだった。
一方、その傍らでは、ミカエルとラテリカが何か打ち合わせをしている。
そして、ミカエルが大きく頷き、膝を抱えるようにして座っていたルイーゼの元へ向かった。
彼女の性格を良く知るミカエルは、自身も腰を落とし、同じ目線でゆっくりと口を開いた。
「お弁当、作ったんだって? アルノーに」
ルイーゼは何も答えない。
その様子に、ミカエルは努めて影のない笑顔を見せた。
「アルノーの事、好きなんだね」
「‥‥」
そして、ゆっくりと頭を撫でてやる。
「人を、好きになることは、素敵な感情だよ。けど、その想いは、何もしなかったら伝わらないんだ。見ているだけだと、辛いよね?」
ルイーゼは、辛そうに頷いた。
「大丈夫。怖がらないで。想いは、無駄になんてならないよ。がんばろ」
ミカエルは、摩る様に背中を押した。
誰かにそう言って貰いたかったのだろう。ルイーゼは、ゆっくり、でも確実に、一人で立ち上がった。
大事そうに抱えた弁当の包みを胸に、ティアナ達と遊ぶアルノーに近付いていく。
「なんて‥‥ね」
人の事だと、こうまで饒舌になれる。
そんな自分を小突くように、ミカエルはこっそり嘆息した。
「成程、この湖に水中花が‥‥」
「はい。湖岸からは見えませんけど」
「ここからも見えませんー」
男達が服を脱ぎ始めている最中、アーシャとパールはドーラと共に湖を覗き込んでいた。
パールは湖の中央まで行ってみたが、水自体は澄んでいるものの、花は確認できない。
「‥‥」
そんな3人を、遠目に眺めている女性が1人。郷の村娘だ。
もしかしたら、例の件で怯えているのかもしれないと重い、アーシャが近付く。
すると、意外な事に――――
「私、ドーラさんの香水のファンなんです。でも、お金がないから買えなくて」
アーシャは驚き半分、安堵半分で、ドーラの元へ戻り、事情を話す。
「ふむ‥‥私も道楽や慈善で香水を作っている訳ではないが、このような長閑な席に呼んで貰った御礼くらいは、しておいても良いか」
「ボクもお礼の品、頂きましたー」
「私が以前御贈りした物を少しアレンジした香水ですね。私はバラの香りのキャンドルを」
ドーラは、結構面倒見が良いようだ。
そしてそれは――――ミリィの父に対しても。
彼女の元で働くロタンもまた、このピクニックに参加している。
アーシャが初日、ドーラに誘うようお願いしていたのだ。
そのロタンは、木陰で一人寝転んでいた。
「‥‥ミリィ。僕等が出来るのはここまで。後は、君が勇気を出して。ね?」
その木からやや離れた所で、ジャンはミリィの手に香水「月の追憶」を一滴垂らした。
過去の記憶を想起させるような、素朴で澄んだ香り。
「ジャンさん。私、頑張ってみます」
「無理はしないでね」
意を決して、ミリィが父の元へ向かう。
そして、木を軸とした正反対の方向に、ミリィは寝転んでいた。
恐らく、そこで何かを語り合うのだろう。
その様子を、ジャンは目を細めながら暫し見つめていた。
その後、男衆が湖に飛び込む様を見ながらお弁当タイム。
アルノーとルイーゼは、2人で仲良く食べている。
また、ラテリカはカタリーナを連れて、フレイと3人で食事していた。
カタリーナもお弁当教室の教え子。出来が気になる――――と言う名目で、アンジュの事で話をしていたフレイを連れ、一緒に‥‥と言う流れを作っていた。
「はわ‥‥ごめんなさいです。ラテリカ、ドーラさんにお伝えする事あるでした」
そう伝えて1人先立つ。
実際用事はあったのだが、晴れて口下手なフレイをカタリーナと2人きりにする事が出来た。
その後、ラテリカはドーラの元へ良き、水中花の伝説を香水のコンセプトに出来ないか進言。
どうやら本人もその気だったようで、出来れば今月中にも作りたい、との事だった。
そして――――
「‥‥」
寝転ぶミリィは、そこからロタンが立ち上がった後も、どこか幸せそうに空を見つめていた。
子供達は、大分少なくなった野花を探したり、冒険者のペットに乗ったりして、楽しそうにはしゃいでいる。
そして――――結局、水中花は見つからなかった。
それでも、誰も文句は言わなかった。
湖に飛び込んだ男達も、とても満足げだった。
結局のところ、何かきっかけが欲しかったのだ。自分の想いを伝える、きっかけが。
形のない水中花は、その為のもの。
恐らく、明日から暫く、郷とリヴァーレは告白大会の会場となるだろう。
大勢の想いを載せた馬車が夕日に照らされる中――――楽しいおもてなしの時間は、幕を閉じた。
そして、翌日。
「レリアンナさん、ありがとうございました!」
半日羊飼いの技法を伝授されたリズは、レリアンナに敬礼を見せる。
「お陰で、少し自信が持てました」
「お役に立てたのであれば、嬉しいですわ」
かねてよりの希望を適え、レリアンナも満足げだ。
「ところでレリアンナさん、ここに来た時に少し服が濡れてたのは、どうし」
「何でもありませんわ」
「は、はあ。兎に角、ありがとうございます。これで、あの人に‥‥」
リズは、仔馬達を労わっているミカエルに視線を向ける。
「大好きなミカエルさんに、また褒めて貰えるかも」
想いは水。
一つの石が投げられた事で、そこから溢れ出す。
リズはレリアンナに一礼して、ミカエルの元へ走って行った。
想いは、水。
何もしなければ、何も起こらない。
ただ静かに、時折表面を揺らしながら、そこに在り続けるだけ。
「お月様が綺麗ですわね」
月明かりに照らされるエレインの無垢な笑顔が、その水面に映っている。
ジャンは、かねてより用意していた言葉を心中で反芻しながら、頷いた。
「あのさ、エレイン。実は‥‥」
「ジャン君。これを」
「えっ?」
しかし、そんなジャンより前にエレインは立ち上がり、漆黒のコートをジャンの背にかけた。
「遅くなってしまいましたけど、お誕生日おめでとうございます♪」
それは、想定外の行動。
ジャンはその羽織ったコートを抱くように掴み、唇を噛み締める。
用意していた言葉は、掌から零れ落ちるように、霧散して行った。
そして、代わりに溢れ出る新しい想いを、大切に集める。
優しさは、遥か彼方。
孤独は、いつも傍に。
ハーフエルフのジャンは、それ故にいつも寂しがっていた。
包んで欲しかった。
ただ、受け入れて欲しかった。
それが今――――満たされたのだと、思えた。
「‥‥ずっと」
「?」
エレインは、慈しみ溢れる笑顔をジャンに向けている。
いつからその笑顔が、その声が、その心が好きになったのか、それすら覚えていない。
いつの間にか、そうなっていた。
「君の事を見ていたんだ。ずっと」
そう思うようになっていた。
「ジャン‥‥君」
エレインも、そのジャンの想いを察し、みるみる顔を赤らめていく。
「そして、これからも、一日でも長く一緒にいて、君の事を見ていたい。一番近くで」
ジャンの声は震えていた。そして、身体も。
「ダメ、かな。僕じゃ‥‥」
「ジャン君」
エレインは、そんなジャンの頭を優しく、優しく撫でた。
動揺はある。そして、脳裏に掠める別の存在もある。
しかし、それよりも今は、目の前の壊れそうな男性に、伝えなくてはならない。
「ジャン君のお気持ちは、とても嬉しいです。けれど‥‥」
「‥‥」
不安げな瞳。
実は、笑顔の時も、喜ぶ時も、常にそう在った瞳。
エレインは告げる。
ありのままの、素直な心を。
「お返事まで、お時間を頂けませんか?」
想いは――――水。
透き通って見えるその中には、実は様々なものが含まれている。
けれど、それには中々気付けない。
エレインはこの日、初めてそれに気付いた。
自身の気持ちを見つめる必要があった。
「‥‥うん。待ってる」
ジャンの声は、震えていなかった。
ピュール湖の水面に、波紋が伝う。
柔らかく吹いた一迅の風は、水の中に咲いた花を揺らし、静かに過ぎ去って行った。