●リプレイ本文
出立前、ギルドにやってきた依頼人、宮廷図書館長エリファス・ウッドマンは嬉しそうに髭を撫でながら目を細めた。
「ほお、随分と集まってくれたものじゃのお。ありがたいことだ。おや、そなたは‥‥」
集まった冒険者の中にはエリファスにとって顔を見知ったものもいる。
「エリファスさん、お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「先だっての経験は得がたいものでした。またお会いできて嬉しいです」
優雅にお辞儀をするステラ・デュナミス(eb2099)の横でワケギ・ハルハラ(ea9957)が照れたように笑う。
「いやいや、こちらこそ感謝しておる。此度もヨロシクな」
向こうで軽く会釈をした鳴滝静慈(ea2998)も含めてかつて、共に同じ時間を過ごした者の顔に少しエリファスは安堵の顔を見つめた。
同様に知らない顔も勿論存在する。図書館に来たことの無い冒険者は少ないがその全てをいかに図書館長とはいえ覚えているわけではない。
「月の女神様ですか? 会えるとしたらとてもロマンチックですね〜」
物怖じしない表情でユーリアス・ウィルド(ea4287)はエリファスに微笑みかける。
「魔法の勉強などにも興味があります。お話をできると嬉しいですわ」
彼女の柔らかい挨拶とは反対に
「図書館長殿でござるか。お世話になっているでござる」
固く礼を返したのは沖鷹又三郎(ea5928)。
「御初にお目にかかる、明王院浄炎(eb2373)と申す。以後よろしく」
「私は璃白鳳(eb1743)と申します。どうか‥‥お見知りおきを」
似た容姿、似た空気を纏いながら又三郎の礼はジャパン風、浄炎と白鳳のそれは華仙教大国風。
「異国よりの旅人よ。貴重な時間を割いてくれたことに感謝する。よろしくお願いする」
知識欲旺盛なエリファスにとっても遠き国からの来訪者と、その行動はとても興味深く思えた。イギリス式に返礼を返した。
「あ、エリファス様。危険ですから、お一人での行動だけはご遠慮ください‥‥約束ですよ。森で逸れたら‥‥見つけられませんわ」
躊躇いがちに願うエミリエル・ファートゥショカ(ea6278)にそれは、無論とエリファスは頷く。
「ワシが迷子になっては皆に迷惑をかけるしな。気をつけよう」
にこやかな返答だったが、エミリエルは苦笑いでまた答える。
「いえ、わたくしが迷子になるかもしれませんので‥‥」
ガクッ! 足を滑らせるように転んだ人物がいるとか、いないとか‥‥。
「気ままな旅の途中でこのような機会に遭遇できるとは幸運ですね。100年に一度の夜。花は何を思って咲き、木々は何を語るのでしょうか? とても興味がありますね」
そう言ったアディアール・アド(ea8737)はビザンチン帝国の出だと言った。
「さあて、行こうか? 100年に一度の夜に遅れちゃいけないからね」
促すウシャス・クベーラ(eb0927)もまたインドゥーラという異国からの旅人。
100年前には決して有り得なかった取り合わせの人々との出会い‥‥。
それを心で感じ微笑みながら、エリファスはよし! と杖を掲げた。
「では、出発じゃ!」
冒険者達を背中に従え、歩く元気な老人。
珍しい、でも、どこか微笑ましい光景を、初夏の太陽はサンサンと照らしていた
「こら! 返しなさあい!」
『ウケケケケ!』
『ダレガ、ダレガ!』
ユーリアスはグーに上げた拳を逃げていくグレムリンへ向けた。
「わたくしが調べたところですと‥‥、グレムリンは姿を消すことができるようですわ。ああ、それで気が付くのが遅れたのですわね」
「‥‥これ! 知識だけで解っててもどうしようもないのだぞ。実践を伴わなくば‥‥」
冷静、というかマイペースに敵を分析するエミリエルに父親のように呟くと、ふう。息をつき浄炎は空を見つめた。森の側で野営の準備、その隙を付かれてしまったか。
「でも、早く気が付きましたから、被害はエリファス様の保存食一個ですわね」
「予備も用意してある。気にせんでもよいじゃろう」
鷹揚にエリファスは笑う。荷物を預けていた馬の尻尾を引っ張られ、バックパックを破かれた。
前方に現れたインプに目が行ってしまっていたから仕方ない。
むしろ、この程度で済んだのなら被害は十分小さい。
「もう遅いですし、予定通りこの辺で野宿しませんか? そうすれば明日、明るいうちに泉に着くことができると思うのですが‥‥」
アディアールの提案に冒険者達は頷いて荷物を降ろした。
森を見つめる方向にテントを張り、野宿の準備をする。
「あっ!」
小さい声だが叫び声を上げたエミリエルの方を冒険者達は皆で見た。寝袋を探し、広げていたはずだが、どうしたのだろうか?
「どうしたの?」
ステラの心配そうな声にエミリエルは涙を浮かべた目で答える。
「保存食を‥‥わすれましたあ〜」
「あらら‥‥」
仲間達の間から苦笑が漏れる。まあ、ベテランになってもこれは良くある話だ。
「これこれ。泣くでない。わしのを分けてやるから心配するな」
ポンポンと肩を叩き優しく慰めるエリファスの言葉に冒険者達も笑顔で動き出す。
「今、料理を温めますから、皆で食べましょう!」
「では、水汲みを手伝おう」
「こっちのテントを広げるので手伝って欲しいでござる」
ぼんやりと立ち尽くすエミリエルにウシャスは笑いかける
「ほらほら、せっかく来たんだ。本だけではない知識を体験することだよ。こっちの手伝いをしておくれ」
「はい!」
遠い夏の夜も、そろそろ近づこうとしていた‥‥。
ゆるやかな夜風がさわわ、冒険者達の額を撫でていく。
「昼間は暑いが‥‥まだ夜はそれほどではないな」
食事も終わり、周囲を警戒しながら静慈はふと顔を上げた。
揺れる髪に風の笑い声が思い出される。
「かつて‥‥風の精霊と出逢った事がある。今度は月の女神との邂逅‥‥楽しみだな」
火の側では、エリファスを取り囲み若い冒険者達が楽しそうに会話をしていた。
「エリファスさん、暖かいお茶はいかがですか?」
「おお、ありがとう。頂くとしよう。暑いからと言って冷たいものばかり飲むのも良くないと言われておるしな」
ユーリアスの差し出したカップをエリファスは軽く息で吹いて冷ました。
「そういえば、エリファス様、どうしてその書に目が行ったのですか? あの広大な図書館のあまたある本の中から‥‥」
野営の茶飲み話、エリファスはそうじゃのお、と笑って‥‥カップを置いた。
懐かしむような優しい目だ。
「あの書に目が留まったのは単純な理由じゃ。封の紐が解けて書物の一番初めに描かれた月の文様と古代文字が目に付いた」
それだけだ、と言いながらも彼の眼差しはさらに深い。
「わしが、この役割を受けるまでには長い年月があったが、子供の頃から変わらぬ思いがある。それは、書物。人が綴り書いたものへの思いじゃ‥‥」
昔、父が母が語ってくれた昔語り、古い伝承、そして‥‥その中の真実。
「言葉の上だけでしかないかもしれないが、書物はそれを残す人の思い、そして心が現れているのもだ。それがどんな形であれ」
沈黙して話を聞く冒険者達に、彼は、フッと小さく笑う。
「その中で、あの書には心を感じた。感動、憧れ、思慕、そして‥‥思い。『本物』の心の篭った書物だと思った。だから‥‥信じたまでじゃ」
子供のような純粋な眼差しを持つ老人の言葉に、暫し冒険者達は言葉をかけなかった。
最初に動き、膝を折ったのは静慈。
「『守るべきは心』‥‥その意味、受け止めました。この言葉になら俺は武道を学ぶ者として、全てを懸けてこの国の為に尽力することを誓いましょう」
「感謝しよう。だがワシではなく、心を守っておくれ。この国に生きる多くの人々の‥‥な」
深刻な眼差し、だが、半瞬後一気にそれは破顔の笑みに変わった。
「まあ、早い話が一目ぼれじゃがな。男として100年に一度としかまみえられぬ絶世の美女との出会いを放っていれようか!」
小さな脱力と、微笑み。そして‥‥
「ほお、これがその巻物でござるか。うむ‥‥確かに麗しい」
「家族への土産話になりそうだな」
「まあ100年に一度となれば、エルフならまだしも、生きている間に再び拝めることは無いだろうしな‥‥」
「ここに描かれている植物は‥‥ひょっとして?」
「わたくしにも見せてください〜研究対象として興味が〜」
「なるほど‥‥この書物。本当に丁寧に描かれているわね。おそらくそのまま真実でなくても全くの空想って事も無いでしょうね」
「これ、古い書物じゃ、手荒に扱うではないぞ?」
書物を開いての楽しい談義、魔法の話、古代の話、夜が深い波のように押し寄せても、長い長い間、冒険者達の話は留まる事を知らなかった。
翌朝、冒険者達は歩き出した。
少し眠い目は深い森に踏み入っていくに従って、やがて擦る間もないほど醒めてくる。
「これは‥‥深い森ですわね。歩くのが‥‥少し大変‥‥っ!」
細い足で草を踏みしめて歩くステラは、枯れた古い木の枝を踏んで、バランスを崩しそうになった。
「おっと、大丈夫か? 足元には気をつけたほうがいい」
筋肉質の長い腕が倒れそうな細身の身体をさっと支える。
「あ、ありがとうございます」
ステラはそう言うと照れたように顔を隠した。
「この酷い道‥‥、いや道さえも無い場所、エリファス殿は大丈夫でござるか? 慣れぬ旅、お疲れであろうに‥‥」
「良かったら、俺が背負おうか?」
又三郎と静慈が気を使う。だが、エリファスは微かに息をつきながらもなんの! と断りを返す。
「年寄り扱いは結構! ワシもかつては旅の世界に身を置いていたこともある。これくらいの森、なんてことはないわ!」
かくしゃくと彼は笑う。杖を文字通り杖に使って今は、まだ冒険者とそう遅れないスピードで歩いていた。
なら、しばらくは大丈夫だろうと、二人もまた前を見る。
時折草や、木々の発育の凄い所はアディアールがプラントコントロールで避けてくれた。
朝のうちはそれほどの混乱もなく、彼らは前に進むことが出来た。
「あれは‥‥ジギタリス? もう花が満開だ!」
「キツネの手袋とも呼ばれるな。あれは強心剤にもなるが、毒性も強い。気をつけるんじゃぞ」
奥に深まるに連れて増えてくる花々や草木にアディアールは目を輝かせた。
「薬草は仕事ですが、毒草は趣味です。ふむ、この辺の森はなかなかに興味深い」
今は仕事である為に籠を持って、採取に一直線、とはいかないことは解っている。だから、少し残念そうに前を向く。
カサカサカサ!
道の横で草が揺れた。冒険者達はとっさに身構えるが‥‥その影は姿を現すことなく森の奥へと消えていく。
「あれは、兎でしょうか? それとも、キツネでしょうか?」
「さあな、だがこの人数だ。森の獣が相手なら刺激さえしなければ無闇に襲い掛かってはこないと思うのだが」
「そうですね。戦わぬに超した事はありませぬゆえ‥‥」
白鳳は拳を落とした静慈の言葉に同意する。
森の奥に進むに従って冒険者達の緊張も高まっていた。
月の女神の現れる聖地を汚したくは無い。ここに到るまで基本方針『不殺生、火気厳禁』を彼らは合い言葉にしていた。
「! ‥‥そう言っても、難しいですわね‥‥。もし、宜しければそのエールは差し上げますわよ」
『!!!!!』
言葉にならない悲鳴が、透明な所から聞こえてくる。
彼らの目にまだ存在は見えないが、囮代わりに驢馬につけておいたエールの樽が時折揺れ、時折、動く。
ブワシャ!
突然驢馬の頭上で、水の玉が弾けた。甲高い悲鳴が響く。
『ツメタイ! ツメタイ!』
その直後、姿を現したのはデビルが一匹。貧相で爪が長く、毛むくじゃら‥‥インプと似ているようで微妙以上に違う。グレムリンだった。
「なるほど、インプとグレムリンはこのように違うのですね。エールでおびき寄せられると言うのも伝説のとおり‥‥あらあら、やはり実物を見ることは勉強になりますのね」
いつの間にか取り囲まれてグレムリンには逃げ場が無い。じりりと後ずさる悪魔に向けて又三郎はスッと抜き身の直刀を鼻先に突きつけた。
「‥‥そなたに忠告しよう。この剣は悪魔をも斬れる剣でござる。恐れるならこれ以上の手出しは無用にて、遠くへ逃げていくが良いでござる」
「ずぶぬれになって、頭が冷えたでしょ? それとも、もっと冷やしてあげましょうか?」
シュン! 音を立ててステラの手の中に冷気が集まっていく。周囲の冒険者達にも睨まれている。
グレムリンはさして賢くない猿並みの頭であることを察した。
それは曰く‥‥ジャパン風に言うなら「多勢に無勢」この人数には‥‥勝てない!
「あっ!!」
微かな隙をついて、グレムリンは逃げ出した。
気がつくと、周囲にいたいくつもの存在の影も消えていく。
「あれは‥‥インプ達かな? 逃げていくよ。これで戦いは不利だと察してくれればいいんだけどね」
「あんまりしつこいとウォーターボムでおしおきしますからね〜!」
逃げていく悪魔達にユーリアスの言葉が聞こえたかどうかは解らない。
だが再び歩き出す冒険者達の前に、その夜、再びデビルたちが現れることは無かった。
まだ、太陽が完全に落ちる少し前、西に落ちかけた太陽が薄っすらとオレンジに染まりかけた頃、
「そろそろ、文献に記されていた泉が見えてくる頃合いか‥‥?」
「あ、あそこ! あれじゃないかしら?」
ステラが森の奥にキラキラと輝く何かを見つけ、指を指す。
疲れた身体に力を込め、草木を掻き分けて進んだ先に、それは広がっていた。
「‥‥綺麗な泉ですね」
空間は広いが‥‥その泉自体は決して大きくは無い。
流れる川もなく、注ぐ清流の音も無い。
静寂の泉は底が見えるほどに澄み渡り、微かな汚れさえも感じさせはしなかった。
ただ、冒険者達がそれに気付いたのは少し後。
到着の直後の冒険者達にはそんなことに気付く余裕は無かった。
魅入っていたのだ。
黄金の湖に。
沈みかけた太陽が、揺れる湖水の表面に今日最後の光を贈る。
水はその美しさをまるで、太陽に還そうという様に輝きを放ち、表面は今、黄金色に輝いていた。
「月見だけには、惜しい美しさだね。故郷を‥‥思い出しそうだ」
目を擦った後、ウシャスは瞬きしないで泉を見つめていた。
太陽は徐々に森に別れを告げ、地に消えていく。
それと同時に泉の色も黄金からゆるやかな青へ、そして紫、やがては紫紺から黒へと変わっていく。
太陽の時間の終わり、夜の時間の始まり。
普段の冒険の中ではそんなことは滅多に考えたことは無かったが‥‥自然の摂理、時の流れをゆるやかな時間と共に彼らは感じていた。
「この泉そのものが神聖なものかもしれません。泉にも不用意に近付かない方が良いかもしれません。どれほど気をつけても、人である限り、不浄は拭い去れないものですから」
「火も使うのは今日は止めましょう。万が一にも森を傷つけたくはないから‥‥」
冒険者達は、まだ太陽の残滓が残るうち、全てを済ませ‥‥そして、後は時を待つことにした。
泉は、静寂に包まれている。
夏の日差しと共に空にあった月は、今、太陽から場を譲りうけ天上へと昇っていく。
ゆるやかに‥‥ゆっくりと。
「お寒くはありませんか? エリファス殿?」
少し肌寒さを感じたのだろうか? エリファスは又三郎から差し出された毛布を感謝と共に受け取り肩にかけた。
「この静寂‥‥深夜の森の閑かさは、街では決して味わうことができませんね」
「ええ、こういう不思議な夜は騒がず静かに過ごすのが吉かもしれないわ」
静寂を楽しみながら、アディアールとステラはそれだけ言って、また沈黙した。
普段、感じたことは無かったが、夜の森、特に月夜の森というものは独特な存在であると、彼らは感じたことだろう。
長い、長い年月、森はここに存在した。そして未来もここにあり続けるだろう。
自分が背を寄せている、木の一本すらも人間はおろか、エルフでさえも生まれる前から存在している。
生きている者、生きていない者。物。
森は‥‥全てを飲み込んでここにある。息づいている。
まるで、時を止めたような不思議な空間‥‥。
「!」
微かな、音が周囲に感じられた。敵だろうか? ほんの少し心が身構える。
獣達の微かな呼吸が聞こえてくる。こちらに近づいてくるのか‥‥。
「できるなら‥‥この静寂を壊したくは無いし、俺達は敵じゃない‥‥別にお前達を狩りに来た訳じゃないんだ‥‥」
立ち上がって保存食を投げようとした静慈を軽く制して、ワケギは手荷物から一本のスクロールを取り出した。
「拙い歌で、森の静寂を一時揺らす事を、お許し下さい‥‥」
泉と仲間にお辞儀をして小さく微笑むと彼は声を上げた。静かな歌声が森に響いて行く。
「この森の中 呼んでいる声
私のまだ見ぬ女神よ‥‥
振り仰ぐ夜空(そら) 目にしみる月
心の雲を祓って〜
今は静かに待つ時 急ぐ風も
唄を唄っているでしょ? 永遠(とわ)の調べを‥‥
争わないで 月夜(よ)が明けるまで〜
悪戯好きな 森のインプさえ
なぜか今はじっとしている‥‥
愛の名の下 女神は来る
流れ出す世界の想い〜
いつかめぐり合えると 小さな花も
唄を唄っているでしょ? 永遠の調べを‥‥
皆と共に 月光(ひかり)となって〜」
呼吸や、気配は消えてはいなかった。。
だが、歌が終わった時、不思議なほど森は静まり返っている。
獣の声も、風が揺らす木々のざわめきももう聞こえない。
まるで、森全体が何かを待っているような、神秘的な空気を漂わせ始めたのだ。
「お疲れ様」
本当に小さな声でユーリアスはワケギにウインクした。
歌は好きだがこんな場で人に披露できるほどの実力ではないことは解っている。
それでも歌いたくなったのだ。
この森の空気に呑まれたのかもしれない。
頬を赤らめながらワケギはそんなことを思い、視線を泉に戻した。そしてまた仲間達と共に黙って見つめていた。
時間は、もうおそらく深夜を回っただろう。
いつの間にか月は空の天頂に昇り、その高みから森を静かに見下ろしていた。
空は晴れ渡っているのに、星は殆ど見えない。
月光がいつも以上に眩しくて、見えてこないのかもしれない。
冒険者の誰かがそう思った。太陽を反射した夕暮れの泉も美しかった。だが‥‥
「この月明かりを映した泉も、とても‥‥綺麗ですね。神秘的で‥‥」
ふと、ユーリアスは湖面を見つめた。
月が泉の中心に光を落とす。微かな小波と共に光は水面に鏡のように反射して周囲を明るく染めていく。
「あっ!」
ほんの一瞬、瞬きの間だった。
気付いた時、彼女はそこに‥‥いた。
「夢か‥‥はたまた幻か‥‥」
呟いたエリファスの言葉に冒険者達もまた同意せずにはいられない。
「これが月の女神‥‥」
それ以上の言葉が誰にも出てはこない。
『肌は真珠の如き白さ、長き髪は満天の星空の夜のように輝き流れる。
その美しさの前には星さえも瞬きを止め、花々はその足元で散ることさえも喜びと思わん』
エリファスが見せてくれた古い書物の言葉が真実であったと、冒険者達は実感していた。
流れる背中をはるかに超えた長き髪は水に浸る足元まで流れている。
肌は、白よりもさらに白い純白。月の光を受けて薄青くさえ感じる。
瞳はまるで月光を返した泉のように見えた。
異国の風情を漂わせる衣は決して華美ではない。
宝石で身を飾っているわけでもない。素の輝き‥‥。
だが、美しかった。この世のものとは思えぬほど美しかった。
大地も、風も、動物達もまるで彼女の降臨を待っていたかのように沈黙する。
聞こえるのは夢のような静寂のみ‥‥。
「美しき‥‥女神よ」
膝をつき合掌する様に又三郎は目を合わせた。その気配に気付いたのだろうか?
彼女は見返り、柔らかく微笑んだ。
その笑顔もまた薔薇のよりも美しく冒険者達は目を瞬かせた。
直視など、できないような気がした。
「お騒がせして申し訳ありません!」
「あ・あなたは‥‥」
『アルテイラ‥‥月道の管理者にして‥‥大地を見守る者‥‥』
「月道の管理者?」
白鳳の瞳が深く輝いた。
「女神ならば、知っているのでしょうか。華国への道はいずこにあるかを‥‥。私の故郷へ帰れる日がいつくるかを‥‥」
「白鳳さん?」
泉に向かって一歩。解ってはいたが、夢中で歩み寄る。
草が微かに揺らき、風が泉に波を立てた。
瞬間、女神アルテイラは微笑みを見せた。
だが、その姿はまるでかき消すように消える。
泉は輝きを剥がしたように再び濃紺に染まり月だけをただ、静かに写す。
そこには最初から誰もいなかったかのように、何もなかったかのように広がる静かな空間があるのみ‥‥。
動物達も森に帰っていく。
全てはうたたかの夢のように消え去り、跡形も無い。
静寂が森に再び広がった。
「私の夢は、目標は‥‥死者をも蘇らせる白の法術を極め、何時か故郷に戻ること。
一生かかっても、そのような日は来ないかもしれません。来たところで、もう間に合わないのでしょうが」
さわわ‥‥。
水辺に膝をつく白鳳の側に冒険者達が駆け寄った時、彼らは聞いたような気がした。
それは風と共に微かに耳に残る、歌声のような彼女の声。
『地上に生きとし生ける者達よ。汝らの上に月の祝福を‥‥』
「その書物は本当でしたわね‥‥」
翌朝、一睡もできぬまま朝を迎えたエリファスと同じように泉を見つめながらステラは囁いた。
昨夜、鏡のような月を写した泉は朝、生まれたての太陽と、蒼色の空、そして木々や動物達のざわめき、命の歌を眩しく写し取っていた。
まるで、昨晩の静寂が、邂逅がまるで夢のように、今、森は深い息遣いを、命の歌を歌っている。
「僕は‥‥思うんですよ。百年に一度のこの機会を待っていたのは、ボク達だけだったんでしょうか? ‥‥森の動物達やモンスター達も、月の女神の御降臨を待っていたのではないでしょうか? って」
ワケギは深く深呼吸し、森の息吹を感じながら泉を見つめる。
「森には森の営みがあり、それは人がいない時から延々と続けられて来た事‥‥。この世にはまだ、人の思いもよらぬ世界、見たことの無いモンスターや動物。出遭ったことのない人や、精霊、そして女神が存在するのでしょう。きっと‥‥」
その言葉にエリファスは満足そうに頷く。真実を確かめた、それだけではない満足感、達成感を笑顔に湛えて。
「そうじゃな。この世界は広く、人が知れることはあまりにも少ない。何千年の営みの中でさえも‥‥。だからこそ、ワシらはその事を伝え、次の世代に伝えていかねばならん。心と思いを未来へと伝承していく為に‥‥」
顔を俯かせていた白鳳は何かを思い、上を向く。
「異世界との出会い‥‥ですが、本当は変わらないのかもしれません。この世界も、異世界も。異国も、他国も‥‥。どこの国で見ても、月は変わらぬ姿をしているからかもしれません」
「思う心も一つ、けして変わらない。異国も人も動物も‥‥悪魔ですら」
「月の女神は、それを伝える為に降臨するのかも、しれませんわね」
もう、目の前には昨夜の痕跡はどこにもない。夢かもしれないとさえ、思えるほどに‥‥
だが、冒険者達の心には紛れもなく残っていた。
あの一時に感じた思いとその姿が、夢よりも確かに。
「わが子等に良き土産話ができようというものだ」
「感激でしたわ。上手く言葉に出来ませんけれども‥‥」
「100年に一度か‥‥、いつかまた見られる時がくるかねえ」
「ああ、せっかく観察したのに、もうお姿を忘れそうですわ‥‥。後で、何かに書きとめておかなければ‥‥」
「花も、木々も何も語らない、だからこそ‥‥その胸に抱いて輝くのかもしれません。思い出というものは」
夢の終わりがどこか寂しくて、冒険者達はいつまでも泉を見つめていた。
それでも、そろそろ帰ろうか、とのエリファスの言葉に彼らが後ろを振り向いた時だ。
「あ!」
エミリエルが高い声を上げた。
「囮用に使ったエリファスさんの発泡酒が空!」
「しまった! インプか? 奴らがまた?」
「帰り道は、容赦しなくてもいいよね。また出たらたっぷりお仕置きしてやろうか? その時には魔法頼むよ!」
荷物を纏め、冒険者達は帰路についた。
100年に一度の夢が覚め、日常が始まる。
仲間を追いかけた又三郎は、一度だけ泉を振り返った。膝をつき手を合わせ祈る。
「この国がいつまでも女神の守護を賜らんことを‥‥」
まるで泉は答えるように浅い波紋が踊った。
それは風のせいかもしれない、偶然かもしれない。だが又三郎は嬉しそうに微笑むと、仲間達の元へ、新しい日々という喧騒の中に走って行った。
宮廷図書館長は一巻の書物を大事そうに巻くと書物棚に置いた。
其の絵の端に、エリファスの手によって小さく書き込みが成された事は、だから弟子も誰も知る事は無い。
書物は、伝えるべき伝承の心はまた眠りについた。
いつか、また彼のように、誰かが未来にその書を開く時まで。
『麗しの月の女神 アルテイラ 御身とそれを愛する者に月と大地の祝福があらんことを‥‥』