死の天使は指先で微笑む
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■ショートシナリオ
担当:小沢田コミアキ
対応レベル:フリー
参加人数:12人
サポート参加人数:-人
リプレイ公開日:2006年04月19日
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●オープニング
「ママ? ううん。あたしにはいないの」
幼女は窓辺で笑う。
「そう。パパもきっと死んじゃうのよ」
初めて会う大人に対しても物怖じせぬ所は、幼い外見に似つかわぬ聡明さを窺わせる。
「でも、よくわかんない。ねぇあたしにおしえて?」
覗き込んだ大きな瞳が無邪気に揺れていて、それが酷くアンバランスだった。
「しあわせってなあに?」
■□
1945年3月、世界を覆った悲惨な戦争の惨禍は遂に終わりを迎えようとしていた。大戦の端緒となったポーランドが連合国によってドイツ軍の支配から解放されたのを皮切りに、アメリカやイギリス、ソ連などによってオーストリアやドイツ領内が次々と解放され、遂にドイツは防衛線の要であるライン川を突破される。
3月に行われた反抗作戦『春の目覚め作戦』が連合国側の圧倒的物量を前に失敗に終わると、傾いた流れはもはやヒトラーの手をしても取り戻せなくなった。敗戦を悟ったヒトラーはドイツ国内の生産施設の完全破壊を支持したネロ指令を発令し、遂にドイツ国内での支持すらも失う結果となった。
3月27日、プレシデオ陸軍基地――サンフランシスコ、アメリカ。
その日、ある陸軍将校が呼び出されて上官の部屋を訪ねていた。
「掛けたまえ」
それは新しい任務。
「事は今月の初めにまでさかのぼる。ドイツのある政府高官が秘密裏に我々連合国側へコンタクトを取った。とある機密情報を見返りに投降を願い出たいというのだ」
連合国側はこれに応じ、政府高官はすぐにドイツ国内からの脱出を図った。安全なルートでライン河を渡り、つい数日前にアメリカ軍に保護される。彼の妻子もまた国境沿いの別のルートからスイスへ逃れる手筈であった。
だが、ここでアクシデントが起こる。
「ドイツ内の反ヒトラー勢力に情報が漏れた。彼の妻子は奴らに拿捕されたのだ」
高官との取引では、彼と妻子の身柄の保証を引き換えに機密情報を引き渡すこととなっている。見返りとして連合国が保障したのはあくまで投降後の身柄の保証である。肝心の身柄がないでは取引は成立しない。
「だが不幸にも厄介は重なった」
彼に再度取引を求めて資料の引渡しを要求すれば全ては解決する筈だった。ドイツに戻るか資料を引き渡すか。彼に選択肢はあるまい。だが事はそれでは終わらなかったのだ。
「――『死の天使は指先で微笑む』。我々の保護下にある彼が語った言葉だ」
その『資料』とはベルリンのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優性学研究所へ向けて移送されたもの。トラック2台分に及ぶ資料の受取人は、研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアー博士。今回投降したドイツ政府高官は、博士の元に送られた資料をネロ指令に基づいて処分する命令を受けていた。
投降を画策した彼は命令に反して資料を秘密裏に隠匿。ひそかにスイスの銀行へと持ち込んだ。口座の暗証番号は16桁。しかし彼が所持していたコードは8桁、残りの半分が欠けていたのだ。
「万が一のことを考え、彼はコードを分割した。残りは妻子を保護せねば分からない。だが我々はなんとしてもその『資料』を手に入れたい。それは、メンゲレ・レポートと呼ばれるものだ」
先のポーランドからのドイツ軍の撤退で、アウシュビッツにあるユダヤ人強制収容所も解放された。それにより、ドイツ軍が行っていたユダヤ人絶滅計画の全容が徐々に明らかにされつつある。メンゲレとは、そのアウシュビッツで主任医官を勤めた親衛隊大尉ヨーゼフ・メンゲレである。
メンゲレはナチス人種理論の熱烈な信奉者であり、人種淘汰、人種改良、人種の純潔、アーリア化などといった狂気じみた人種思想に基づき、強制収容所内において非人道的なありとあらゆる悪魔的な実験を行った。ユダヤ人のみならずドイツ同胞すら震撼させた狂った医師、別名『死の天使』――。
「その多くは科学的価値の低い実験だと聞かされているが、中には軍事的に貴重な実験結果も記録されている。我々にとっては禁断の非人道的な実験結果があれば、生物兵器などの研究に多大な貢献を齎すだろう」
残りのコードは捕われた妻子が所持している。レポートを入手するにはドイツ国内の解放軍が身柄を押さえている妻子からコードを入手せねばならない。
「しかし、だ。連中は解放軍とは名ばかりの奴らだ。我々はもうひとつ厄介事を解決せねばならなくなった」
反ヒトラー勢力はおもに現政府を見限ったドイツ市民と逃亡ユダヤ人によって構成されており、身内を現政府の連中に処刑された者も少なくない。彼らは幼い娘を残して高官の家族を惨殺。後に取引の情報を知るや、残された娘を人質に高額の身代金を連合国側へ要求した。
「だが我々は交渉を打ち切った。奴らは戦後のドイツの政権を狙っている。高額の資金をみすみす送ってやる訳にはいかない。残りのコードは少女の所持している指輪に刻まれている。まだ反ヒトラー勢力の連中はこの情報を知らん。彼らに事が露見される前に、レポートのコードを奪還せよ」
戦後に傀儡政府を建てたい連合国は連中へ金を流すわけには行かない。この作戦は、秘密裏に彼ら解放軍からコードを奪還するものである。
「命令は以上だ。少女の身柄を確保する必要はない。既に連合国やソ連を始めとする各国も動き出している。後に彼らへ身柄を横取りされぬよう、娘を秘密裏に抹殺し、その指輪だけを奪還するのだ」
ドイツ軍や、同じ枢軸国のイタリア・日本も動き出しているという。他国へ露見されぬよう秘密裏にコードを入手し、全てを隠滅せよ。
「この戦争は連合国の勝利に終わるだろう。だが戦いは終わらない。我々アメリカは、大戦の終了後も世界の覇権を握っておかねばならない。分かるかね。強力な力はもっとも力あるものが手にせねばならない。アメリカが目指すのは、絶対的な力を有し、世界に平和と秩序を齎す存在。いわば世界の警察にならねばならぬのだよ」
■□
「しあわせってなあに?」
少女は窓辺で笑う。
「ねえ、おしえて? いつまでもいっしょに暮らすって、どういうこと? それがしあわせ?」
解放軍に捕われた少女は、いまだドイツ軍の支配下にあるベルリン市内のある建物に閉じ込められていた。
「おとうさんが言ってたの。ドイツはなくなっちゃうけど、あたしたちはとおいお国でいつまでも暮らすんだよって。でもきっと、あたしたちはもう、しあわせにはなれないんだよって。ねえ、しあわせって、どんな意味? あたしはしあわせじゃないの?」
覗き込む大きな瞳が答えを待っている。
少女の名は、マリア。
答える声ははいつまでもないまま、冷たい壁の反響がただマリアを見つめていた。
●リプレイ本文
1945年3月28日付けのベルリナー・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙によると、昨年からベルリン市内で検挙・処刑された氾濫分子は悠に五千人を越える数であると報じられている。昨年夏のシュタウフェンベルク大佐による総統暗殺計画の露見以後、ドイツ国内ではヒステリックに反政府狩りが繰り返されている。だが、日増しに敗戦の色を濃くするドイツ国内ではそうした裏切り者や国外逃亡者は後を絶たなかった。
ドイツ軍はスターリングラードの大敗を転機に敗戦を重ね、英雄ロンメル将軍をも失った。最後の反抗作戦に失敗したヒトラーは、こう述べたという。――「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」。
3月28日、――東京、日本。
ドイツ本国で吹き荒れる悲惨な粛清の嵐も、遠く離れたこの極東までには幸いにして及んではいない。在日ドイツ人の間に、本国で活動する反ヒ勢力の動向は実体のない噂として密やかに囁かれていた。
同志が政府高官の娘を捕らえたという情報がリョウ・ミカゲ・シュトレーゼマン〔御影涼(ea0352)〕の耳へ入ったのも、そんな噂の一つとしてであった。だが、彼にとっては事情は少々異なる。
「なんて事を! これではヒトラーのやり方と変らないじゃないか!」
歴史学者の肩書きを持つ彼の正体がナチス党員のドイツ将校であることを知る者は少ない。その身分が仮のもので実態は国内の反ヒ勢力の中核メンバーであるということまで知る者となると、さらにごく僅かだ。
母方に日本人の血を引くリョウは極秘任務により来日中の身であったため反乱分子狩りから難を免れていた。マリアの父とは党員時代に面識がある。リョウの脳裏に幼い少女の顔がよぎる。
「俺達の祖国を守る戦いとはいえ、あの子は年端もいかぬただの少女だ。なぜ巻き込むような真似を‥‥」
同胞の抱く怒りは彼にも理解できる。だが彼女を政争の道具とすることなどおよそ理性的なこととは彼には思えなかった。
リョウが拳をテーブルへ打ちつけた。俯き震える顔からは無念が伝わってくる。マリアの身を思えば、ヒトラーの手の及ばぬ所へ今すぐにでも救い出したい。事実、反ヒ勢力内に地位を持つ彼ならばこの世界の誰より容易に事を成し遂せただろう。しかし今や日本は制海権どころか本土での制空権すらアメリカに奪われつつある。安全にドイツへ入国するルートなどリョウにはとても用意できるものではなかった。
その腕の中に守るべきものを抱けぬ悔しさ。リョウは無念の表情で下唇をかみ締めた。
(「頼む‥‥どうか、どうか無事で‥‥」)
同日、――オシヴェンチム、ポーランド。
その日、朝から降り続いた雨は霧状の小雨となって市外を洗い流した。この地で余りに流れすぎた血の記憶を忘れようとするように、しとしとと暗い水曜の朝に降り注いでいる。その霧雨の中を一人の青年〔クリス・ウェルロッド(ea5708)〕が呆然と彷徨い歩いている。
美しい金の毛並みは頬へ張り付き、濡れたシャツは白い肌を透けさせている。彫りの深い顔立ちは、ユダヤ人。喉元へ焼きいれられた星型の烙印がその証だ。オシヴェンチム――ドイツの言葉でアウシュヴィッツと呼ばれたこの地で多くの同胞が命を落としたのだ。
蒼白の顔からは何の感情も読み取れない。その目は余りに多くの悲しみに触れすぎた。辛い寒さに手先が凍えるように、彼の感情を凍りつかせた。
青年のつま先の向くのは南、ベルリン。啜り泣きのような小雨の向こうへ、ふらふらとその背中は消えていった。
同日、――ベルリン大学、ベルリン。
人目を惹く白髪の後姿を見止めて、用務員は彼女を呼び止めた。
「待ちたまえ、日本から君宛に電報が来とるよ」
机を弄ると封書を取り出し、宛名に書かれた読み慣れぬ文字列へ目を落とす。
「‥ええと、コロリ――」
「ころり、彼岸ころり(ea5388)です」
にこりと愛想よく微笑み返すと封書を受け取る。友邦日本からの留学生とはいえ女子学生は珍しい。愛想笑いはそうした奇異の視線に対処するために自然と覚えた技術の一つだ。踵を返して封を切ると彼岸はキャンパスを後にする。
書面へ視線を落とすと、彼岸の表情に一瞬だけ険しいものが覗く。
(「‥‥ひっさしぶりの『お仕事』だ〜♪」)
一読すると電報を懐へ仕舞い、彼岸は足早に下宿へと急いだ。
同日、――ミュンヘン、ドイツ。
『ベルリン市内にて、政府某高官の家族が反抗分子に拉致された。家族は幼い娘を残して殺害された模様――』
ベルリナー・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙ミュンヘン支社のアストレア・ユラン(ea3338)記者へ匿名の電話が届いたのは、その日の夜のことであった。
「もしもし、どちらさん? なんでそんな情報を知ってはるのん?」
『‥‥‥‥‥』
プツン。
電話はそこで唐突に途切れた。ユランの表情が途端に険しくなる。
事実としたら、大事になる。
(「家族で投降しようと考えたんやろか。それやったら、手土産になるもんがあった筈やわ」)
それに、行方不明の娘が絡んでいる? となれば、内部粛清か反体制派による誘拐??
「手土産は情報、かいな。娘はんから何か聞けるかも」
ユランがデスクへ地図を広げた。東部も、西部も、戦線はじわじわと狭まっている。東のソビエトと西の英米に挟まれてベルリンの陥落も時間の問題だ。本社からの情報では脱走者や国外逃亡者が相次いでいると聞く。SDやゲシュタポの連中も猟犬のように血の匂いを嗅ぎ回っているだろう。彼らを出し抜いてネタにありつくのはかなりの危険を伴うだろう。
一瞬の逡巡の内に、ユランの脳裏へ今も一人で震えているだろう少女のことがよぎる。その時にはもうユランはオートバイのキーを掴んでいた。
「ほな、いくわ〜」
3月30日、ベルリン、ドイツ。
情報を入手した連合国各国は戦後の覇権を巡って水面下で動き出していた。
(「何が悲しくて日和見主義者やUdenと手を組まねばならん! 33年に諸手を上げて歓喜していたのは誰だ!」)
英国もまたアメリカへ対抗し、英国陸軍工作部隊の工作員をベルリンへと送り出した。セシル・ローズ(eb4657)の任務とは、市内で活動する反ヒ勢力を説得し、ライン河に待つモントゴメリー元帥の軍団まで連れてくること。
(「これが作戦だと?ああやってやろうじゃないか。作戦通りライン河に連れてくれば良いんだろう」)
「連合国が身代金の交渉を打ち切った? 当然だ。奴ら、いやアメリカはベルサイユ体制の再来を望んでいるのだ。奴らは血を流さずにそれを得ようとしているのだ!それが許せるか!」
事前の情報により逸早く連中とコンタクトを取ったセシルは、市内にある彼らのセーフハウスの一つで交渉を執り行っていた。
「われわれブリテンは君たちを歓迎する。共に血を流した同士だ。ジョージ1世、君達流に言えばゲオルグ1世だったな、以来兄弟ではないか。安心したまえ。ブリテンが君達の安全を保証してくれる」
「話にならん。我々に国外逃亡しろと? 願い下げだ」
テーブルについた数人の幹部達は皆表情を険しくしたままだ。
「今日は身代金の受け渡しの話し合いに来たのではないのか? イギリスに交渉の意思はないということか?」
「ベルリン陥落は時間の問題だ。漸くヒトラーを倒せる所まで辿り着いたのだ。なぜ我々が祖国を捨てねばならん」
反米の感情を煽って有利に運ぼうとしたセシルだったが、とても許諾を引き出せそうにはない。ふとセシルは幹部の一人のユダヤ人に目を留めた。
「ユダヤ人の君達こそがこの大戦の一番の被害者だ」
怪訝な表情の彼らへセシルは勤めて優しい声音で語りかけた。
「大丈夫、ブリテンがエルサレムを保証する。われわれは約束を破らない。あんな流民や背教者の国にでかい顔をさせるわけにはいかん、そうだろう?」
「お引取り願おう。我々は、等しくドイツ市民だ。ゲルマン人もユダヤ人も、この場にいる者は皆あの狂った独裁者を倒す為に目的を同じくしている。それを引き裂き解体しようというのがイギリスの意思ならば、我々に交渉の余地はない」
頑とした態度はもはや崩せそうにもない。これまで取り繕っていたセシルは唇を歪めて嘲笑した。
「愚かな判断だ。市街戦が始まれば民間人にも多大な死者は避けれんだろう。特にソ連軍によるバルバロッサの報復は苛烈を極めるだろうな。我が大英帝国に従っていればよいものを」
「――それがイギリスの返答か。だが我々は違うぞ」
振り向くと部屋の入口に屈強な赤毛の男が立っている。傍らには幼い少女の姿。幹部の一人が思わず立ち上がった。
「マリア、‥‥誰だ、娘を部屋から出したのは!」
「やはりこの子がマリアだったか。そこの廊下を伺っていたのでもしやと思ったのだが」
骨ばった大きな手で頬を撫でると、彼は精一杯の優しさで微笑んだ。幹部達へ向き直ると彼は良く通る低い声でこう告げた。
「我々ソビエト連邦は身代金を払う用意がある」
その言葉に幹部全員が立ち上がった。少し遅れてセシルが席を立つと、黙って男とすれ違って部屋を後にする。その姿が見えなくなると男は口を開いた。
「アレクセイ・ファザーン〔アレクシアス・フェザント(ea1565)〕だ。ソ連邦の交渉人として会談を持つためやってきた」
「身代金の保証は?」
「そちらが少女の身柄を保証する限りにおいて」
「いいだろう。では具体的な受け渡しの仔細についてを詰めよう」
同、ナチス親衛隊保安諜報部(SD)司令部。
活動を活発化する反ヒ勢力の掃討作戦に新しい指揮官が赴任する報せを受け、武装SS士官エトピリカ・ゼッペロン(eb4454)は司令室を訪れていた。新たに彼女の上官としてSDの指揮を取るのはやり手と聞いている。ミュンヘンで数百人のコミュニストや反抗分子の粛清という功績を挙げ『血の混沌』と渾名されるベアルファレス・ジスハート(eb4242)。
「掛けたまえ、エトピリカ君」
「は! 少佐殿」
「私がベアルファレスだ。仔細は通達されているかと思うが、某政府高官一家が失踪を遂げた。ゲシュタポはこれを連合国への亡命と見ている」
後ろで腕を組んで立ち上がると、ベアルファレスは威気高に背を逸らせてエトピリカの隣へ歩み寄った。
「だが我々SDは新たに情報を掴んだ。昨日、我々が傍受した日本よりミュンヘンへの国際電話に、反政府組織による事件の関与を示唆する情報が含まれていたことが判明した。この事件には薄汚い反抗分子どもが絡んでいる。これより我々は裏切り者の抹殺の任につく」
それから、と彼は部屋の端へ視線を移した。
そこには先から国防軍の制服を来た男が直立している。
「国防陸軍特務士官、エルド・ヴァンシュタイン(ea1583)中尉であります」
「DAK(ドイツアフリカ軍団)あがりだそうだな。話は聞いている」
精悍なその顔立ちには、鼻筋に真横へ切り裂いた傷痕が残っている。アフリカ時代には相当修羅場を潜って来たのだろう。その値踏みするようなベアルファレスの視線を、エルドは撥ね付けるようにして背筋を張った。
「失踪した高官一家の捜索および救出の任についております。総統指令により少佐殿の部隊と行動を共にせよと――」
「はん、国防軍の腰抜けか。だが、贅沢は言えん。背中は預けてやろう」
エトピリカが嘲笑を向けるが、エルドは鋭く一瞥投げ返しただけだった。
(「SSの狗が‥‥だが良いだろう。背に腹は変えられん」)
「‥‥行動を共にせよとの総統指令に従い、少佐のこれより指揮下に入ります」
「エルド中尉、聞いての通り命令は今や家族救出から、裏切り者の逮捕へと切り替わった。これからは私の指示に従って動いてもらう」
ベアルファレスは唇を捲ると、軍靴を鳴らして部屋を発った。
「ただちに市街の捜索に出動する。千年帝国建国の邪魔をする者はすべて排除しろ!」
3月31日、ベルリン市内。
朝からの雨はしとしとと街へ振り続け、彼岸は傘を片手に思案げな顔で街を流していた。
――伯林市内に潜伏する反ヒ勢力に独政府高官の娘が誘拐された。この娘の所持する暗号を入手せよ。
電報へ仕組まれた暗号文に書かれたそれは祖国よりの秘密指令。日本からの留学生というのは仮の姿、ころりの正体は大日本帝國陸軍所属の諜報員である。
指令にはもう一つ情報が記されている。陸軍だけでなく帝国海軍もレポートの入手に動き出している。既に工作員を一人送り込んでいるとのことだ。
(「りょうーかいっ♪ 指令系統は違うけどお仲間だもんね。とりあえず日本人同士協力して任務達成しないと。問題はどうやってその連中を見つけるかだよね。ゲシュタポの連中に先を越されないように気をつけないと」)
同日、ベルリン市内。
「ベルリンもすっかり様変わりしたんやね。あの活気のあった街が今では死んだみたいにしてるわ」
その日の夕方、アストレアはベルリン入りを果たしていた。途中、数度の検問はあったものの国内の行き来は記者という身分のせいで比較的楽に許された。問題はこれからだ。
「この街から女の子を探さないかんのよね。なかなか骨やわ」
「しかし、どうやって見つける? 何か当てはあるのか」
傘を差し出した傍らの東洋人は黒畑緑郎(eb4291)。友邦である日本の、協合通信社の記者だという男だ。彼もまた独自のルートからこの誘拐事件のことを知り、利害の一致した二人は行動を共にしていた。
ベルリンには不慣れだという彼に、アストレアは思わせぶりにこう返した。
「穴蔵を探してみるんよ」
「‥‥穴蔵?」
反ヒ勢力の拠点はこのベルリンに無数にあるだろうが、その中で人質を隠せる場所という条件をつけるならそう多くはないだろう。人目につかず、逃げられない。となれば、隠すならば地下だ。
「中心部の用途不明なアパルトマンを虱潰しに当たるんよ」
「時間との勝負になるな。いずれナチ当局も動き出す。俺達が接触するのが先か、ナチどもが嗅ぎつけるのが先か、或いは――」
同日、同市内、夕刻。
ベルリンに陽が落ちた。うらぶれた裏路地にはしとしとと朝からの霧雨がまだ降り続いている。それに全身を濡らして、路面へ男が一人倒れていた。
蒼白の顔は、オシヴェンチムをさ迷い歩いていたあの男、クリス。髪や衣服の張り付いた体は石のように冷たく冷え切り、血の気の引いたその手にはピストルが半ば握られている。彼の倒れ込んだ石畳は血の色に染まり、路肩の排水溝へちろちろと赤い糸を引いて流れていた。
大戦初期、ドイツ国内では戦争への参加を拒んだ多くの人々が投獄された。宗教上、思想上の理由で弾圧されたそうした人々を救う小さな団体があった。彼はその若き指導者だった男だ。在りし日の彼を知る者であれば不思議に思ったかもしれない。こう見えてクリスの射撃術は達人級、好戦的な性格ではなかったが一度銃を手に取ったならばそう易くやられることは考えられなかった。
死因は胸を貫いた刃物による刺傷。遺骸はほどなくして市民に発見されて警察に引き取られるが、事件の現場を見た者は一人としていなかった。犠牲者が逃亡ユダヤ人ということもあり警察の操作も形式上のものでしかなく、事件は迷宮入りとなった。
同日夜。
「エルド中尉、現在クロイツベルク地区リンデン通りの方角に32個の呼吸音。軍人、民間人の識別は不明」
携帯無線機を手に軍服姿の男が通りを探っている。彼はドイツ国防軍の技術将校ベアータ・レジーネス(eb1422)少尉。エルドの部下として現在はベアルファレスの指揮下で反抗分子狩りを行っていた彼は、最新鋭の機器によりその所在を突き止めていた。
「エルドだ。よくやった、ベータ少尉。データの精度は?」
「は。携帯式呼気探査装置及び試作型空気量測定操機いずれもまだ試作段階ですが誤差はほぼ実用の範囲内です中尉殿」
やがて彼の元へエルドや他のドイツ兵達が集まってきた。ベアータが計器を見ながら現状を報告する。
「測定結果によると隠し部屋の類はなし。反抗分子は二階及び裏口へと二手に分かれた模様です」
「よし。これより掃討作戦を展開する。政府高官の家族どもの奪還も忘れるな。生きていればの話だがな」
現れたSD指揮官へ一瞬だけ嫌悪を覗かせたベアータだが、すぐに敬礼の姿勢を取る。ベアルファレスは一瞥もくれずにその脇を通り過ぎると、アパルトマンのドアを蹴破った。
「一匹も逃すな。ただの一匹もだ」
次々と兵士が建物へ踏み込んだ。次いで、断続的に銃声が響く。ベアータも仲間を援護するため試作型個人用ロケットを背中に担ぐとエンジンを点火した。その体が宙へ浮き上がり、一気に二階の高さまで上昇する。ベアータは二階へ逃げ込んだゲリラへ向けて手榴弾を投げ入れた。
エトリピカやSSの連中によって反抗分子たちが次々と連行されていく。ベアルファレスは成果を確かめるように制圧された二階へと昇った。不意に窓から通りへ視線を落とすと、裏路地を駆けていく人陰。大柄な男に手を引かれていくのは小柄な陰。混乱に乗じてアレクセイは少女を連れ出していた。
「あの小娘、裏切り者の娘だったか‥‥」
その背を見送りながらベアルファレスは眉間を震わせた。
「殺されもせず監禁されていただけとは‥‥この娘には何かあるのやもしれん。娘は本部へ連れて行き、何を知っているのか拷問にかけて吐かせてやろう。その後に正しきドイツ国民として『再教育』してやるかな‥‥フフフフ」
マリアの髪を切って少年に偽装させ、アレクセイは間一髪でアジトを後にした。ゲリラとの交渉を建前に彼らと接触を持ち、少女を奪取し、ソ連軍の元へ帰還する。素人の連中から娘を奪い去るだけの簡単な仕事のはずだったが、どういう訳か最後の一つが恐ろしく困難になりつつある。
武装は拳銃と大振りのナイフが一つ。この区画に非常線を張られたら万事休すだ。いや、北方へのルートは既に封鎖されたと考えていいだろう。残るは敢えて回り道をして東のライン川の英米軍を頼るか。いずれにせよ、少女を連れては過酷な逃避行になるだろう。
アレクセイは膝を屈めてマリアの瞳を覗き込んだ。
「‥‥しあわせとは、と聞いたね?」
大きな瞳が彼を映して揺れている。眼差しに吸い込まれそうになりながらもアレクセイは半ば自らへ言い聞かせるようにこう口にした。
「レディ・マリア。君がここから外の世界に出た時、我々が君にもたらすものだ」
「――違うな、野蛮なイワンよ」
唐突にかかった声は、ベアルファレス。
「人類は、我ら優良種たるドイツ国民に管理・運営される事で永久に生き延びる事ができる。それが最上の幸せなのだ。その娘も『再教育』を受ければ理解できよう」
既に袋の鼠。通りを包囲したドイツ兵はじわじわと距離を詰めつつある。
「マリア、私が合図したら裏の建物へ逃げ込むんだ」
子供の小柄さなら裏路地を抜けて逃げれば、或いは。無事に逃げられたらツォー駅構内で落ち合おう。
「ここは私が食い止める‥‥‥‥行けっ‥」
機先を制してアレクセイがベアルファレスへ発砲した。即座にエトピリカとエルドが容赦なく発砲する。そのまま身を躱わして建物の影へと逃れるがアレクセイの肩を焼けるような鋭痛が襲う。
ベアルファレスの号令が通りへ響いた。
「撃て! 私に近付かせるな! ゆけい!ドイツ国の最新技術の結晶よ!」
ベアータが携帯ロケットで宙へ浮かび、死角をついて高所から手榴弾を投げ込んだ。
「逃げても無駄だ。我がドイツ軍の最新鋭機器によってキミの居所など手に取るように分かる」
裏路地を逃げる敵兵をベアータは高所から追跡する。物陰へ逃げても呼吸音と振動音で的確に追尾する。アレクセイの動きは携帯無線機を通じて逐一報告され、ベアルファレスの指示で兵士達が徐々に彼を囲み、追い詰めていく。
「フハハハハハッ! 総統に逆らう者は皆殺しだ! 総統こそは国家そのもの、我らが第三帝国に歯向かう連合国やソ連も、薄汚いユダヤ人や裏切り者の反政府ゲリラも、何者であろうと容赦はしない。たとえそれが、シュタウフェンベルクやロンメルであってもだ!」
不意に、エルドの表情が蒼白になる。
「なに、ロンメル閣下が‥‥!?」
「おや、貴様は知らなかったのか。無理も無い、奴の死は事故によるものと公式には発表されているからな。だがロンメルはヒトラー閣下の暗殺計画に関与していた反逆者。我らSDの手によって奴には『自殺』してもらったがな」
「馬鹿な!? ロンメル閣下はドイツの希望の星。それを、それを‥‥!‥」
彼の人道的騎士道精神の信奉者であったエルドにとって将軍は国家と並ぶもう一つの忠誠の対象。その彼を、まさか粛清するとは――。
「‥‥血迷ったかヒトラー!!‥愚かなッ‥‥!」
「何をするエルド! 貴様ッ!! ‥‥ええい、奴を殺せ!反逆者は銃殺刑だ!」
戦列を離れたエルドが味方の背へ発砲する。すぐさまベアルファレスの指示でドイツ兵が彼を襲う。だが兵士達を上方から投げ落とされた手榴弾が粉砕した。
「ネロ指令以来、狂った元首の元で忠誠を果たすのにはほとほと嫌気が差していました。私もお供します、中尉殿」
ベアータが戦列を離れ、エルドを援護する。彼の探知機器によると、少女らしき呼吸音は駅へ向かっている。ベアルファレスはアレクセイとエルドとに兵を二手へ分けた。エルドは立ち塞がる独兵へ向けて兵器を構えた。
「同胞の血は流したくないが、どかぬなら仕方ない。――試作型パンツァーファウスト、発射!」
轟音と火炎が路地に広がり、もうもうと爆煙が立ち昇る。二人はその隙に囲みを突破した。この離反は波紋のように独兵の士気を揺らがせた。それは筋金入りのSS隊員であったエトピリカにしても同じことであった。
「我が総統閣下と我らこそ、ドイツ民族をしあわせに導くものと信じて来たが‥‥しかし、現実にはこの有様‥‥しあわせ、か。くっ‥‥!!」
エトピリカが味方へ向けて機銃を掃射した。
「既に私の信条も揺らいでいたのかも知れんな。ありがたく思え、この私が道を開いてやる‥‥とっとと行け!!」
エルド達の撤退を援護すると、今度は振り向きざまにアレクセイを追っていた独兵を蹴散らして彼の肩に並ぶ。
「ソ連の連中に手を貸すのは癪だが、フン。我らドイツ国民の過ちの償いにしては足りぬかも知れんがな」
「貴官の勇気ある行動に感謝する。だが、覚悟は出来ているか。この鉛玉の嵐‥‥」
「東部の極寒地獄を思えば、これしきのこと‥‥」
「極寒地獄か、フフ。故郷の凍てつく大地が懐かしいな」
だが多勢に無勢。大量にあったエトリピカの弾薬も見る間に削られていく。アレクセイも超人的な体力で随分持ち堪えたが、鉛弾を喰らい過ぎた。
――任務の達成が成らずとも、せめて、情報だけでも。
(「届け‥‥同志よ、受け取ってくれ。ベルリン侵攻を早めるべし」)
最後の力を振り絞り、携帯していた無線機で味方へ信号を送る。そこまでで彼は力尽きた。
「祖国に栄光、あれ」
アレクセイを失い、傾いた形勢はもう取り戻せない。覚悟を決めるとエトピリカは手榴弾のピンを抜いた。
「ははははっ、勝利万歳(ジーク・ハイル)!!」
同時刻、反ヒ勢力アジト。
「あっれ〜? 一足出遅れちゃったかな〜」
彼岸は騒ぎを聞きつけてアジトへと乗り込んでいた。もう独兵の姿はなく、処刑されたゲリラの死体が路肩に転がっているだけで建物は無人だ。だが携帯式呼気探査装置で調べると二階に一つ、弱々しい感がある。
その吐息は荒く、今にも途切れそうだ。二階に血溜りを作って倒れていたのは、あの英国工作員のセシルだった。
(「ゲリラ共は俺の誘いを付き跳ねたが、既に英国はイスラエル建国を餌にユダヤ共を抱きこんだぞ。パレスチナにはアラブ人がいる? Udenと潰し合えば良かろう。何の問題がある」)
何者かに刺された背中の傷は致命傷。もう長くはなかろう。薄れる意識の中で、セシルの耳が靴音を捉えた。階段から覗いたのは東洋人の顔だ。
「日本も動き出していたか」
「あ、英国の同業さんか〜。日本はボクの他にももう一人動いてるらしいけどね。悪いけど娘はボク達日本が頂いちゃうね♪」
「フン。世界を統べるは我が大英帝国にこそ相応しい。それでこそ、しあわせな世界が実現するというものだ」
「しあわせっていった?」
それって、ボクのことだよ。
そういうと彼岸はセシルの顎を短刀で持ち上げ、そして裂いた。
「『幸せ』じゃなくて『死遭わせ』だけどね‥‥きゃははは♪」
翌、4月1日早朝。――ベルリン・ツォー駅。
「マリアちゃんだね? パパの代わりに迎えに来たよ」
構内の片隅で心細そうに立つ少女へ、黒畑は優しい声音で話しかけた。背を屈めると、飼い犬の幼いセッターを見せて少女の頭を撫でる。
「シロと言うんだ。かわいいだろう?」
「SDが動いてる話を聞いた時はどうなるかと思ったけど、無事でよかったわ〜」
アストレアと黒畑の二人はSDの動きを察知し、駅へ先回りをしていた。始発電車のアナウンス。これに乗って北へ逃れる。ホームで発着を待つ三人へ、近づくもう一つの足音。彼岸だ。黒畑を見止めると彼岸は目配せを送り、耳元へ囁きかける。
「ご苦労様♪」
(「キミが海軍から来たって人? お疲れ、任務達成だね〜♪」)
そのままの表情で彼岸が目を剥く。黒畑の手にしたナイフが深々と彼女の心臓を貫いていた。彼は耳元で囁く。
『メンゲレ・レポートは、非人道的な手段で得られた物だからこそ、失ってはならない。誰も、同じ人体実験を二度としないで済むように‥‥無論、おたくら日本軍にも渡さんさ』
最後の一節は英語だ。彼は米国陸軍の工作員。彼は大日本帝国軍人に偽装した日系二世のアメリカ人。ドサリと斃れた彼岸が最期に考えたのはこんなことだった。
(「じゃあ、もう一人の工作員は‥‥?‥」)
その時には黒畑を天井から落とした影が覆っていた。忍び寄った紅闇幻朧(ea6415)の短刀が彼を狙っていた。
(「邪魔者は闇に紛れ一人ずつ静かに確実に葬っていく。対象は『最終的に奪い取れば良い』のだから」)
忍びの末裔である彼の一族に伝わる過酷極める鍛練は、音を立てずに行動する技術や一時的に肉体を限界まで酷使する術を可能ならしめていた。
任務達成の為ならば女子供だろうが関係ない。その刃は次に少女へと向けられる。
(「関係ない‥‥はずなのだが‥‥」)
その躊躇は彼の命運を分けた。銃声が響き、彼はそのまま冷たい床へ倒れ伏した。消えいく意識の中で彼は今際に呟いた。
「ああ、そうか‥‥『しあわせってなあに?』‥少女のあの言葉が俺を‥‥」
「しあわせ‥‥悪いが、俺には答えられない」
エルドはベアータと共に少女へ駆け寄った。
「だが、ここにいる事がしあわせでは無いのは確かだ」
彼は駅のロビーを振り向いた。追っ手が迫っている。一度アストレアへ頭を下げると、彼はベアータと共にロビーを背にする
「行け。君達の命は、私の命に代えても守る」
「職員用の通用口には呼吸音がない。そこから外へ抜ければ、後は私達がひきつける」
表で車の止まる音。SDが迫っている。躊躇している暇は無い。
「分かった。この子の命は、絶対守り抜くわ」
数日後、日本。
「マリア‥‥君はもう俺のことは覚えていないかも知れないが」
遠い西の大地にいる少女を思い、リョウは心を痛めた。戦後の混乱は大きなものとなるだろう。もう少女をこの胸に抱くことは出来ないかも知れないが。せめて、あの小さな肩にしあわせが訪れれば。
「しあわせとはね、君が心地良いと感じればそれがそうなんだ。美味しいとかほっとするとか、あちこちにそれはある、みつけてごらん?」
同時刻、――ライン川流域、ドイツ。
「幸せ‥‥平穏で対人関係とか波風立たずに暮らせる事やろか」
オートバイで辛くもベルリンを抜け出したアストレアは西へ向かっていた。国境を越え、少女を連れて連合国へ亡命する。
「もう心配いらんよ。無事に安全な場所へ連れてってやるからね」
「‥うん、お姉ちゃん」
身柄が割れれば少女はまた政争へ巻き込まれてしまう。変装させ、連合国の目を晦ませねばならない。取材の為に少女へ近づいた彼女だったが、行動を共にする内に、気が付けばもう彼女へ取材することはアストレアにはできなくなっていた。
(「女の子犠牲にして次代の政府を作ろなんて、あかんよ。この子には、あたいが絶対に生きて戦後を迎えさせてやるんや」)
―――4週間後。
連合国とソ連の猛攻はベルリンの目と鼻の先まで兵を進める。アレクセイの情報によってベルリン侵攻を早めたソ連は、遂に4月30日、ベルリン市内へなだれ込んだ。同日にヒトラーが自殺し、遂に欧州を覆った悲惨な戦禍は終焉を迎える。
だが当時を語る記録には、その黄昏の第三帝国に、時代に翻弄されたその少女の記述は無い。ただ彼女とよく似た姿格好の少女の遺体が市内で見つかったという報告が、ベアルファレスSD指揮官によって残されたばかりである。辣腕の彼をしても黒畑の偽装工作は見抜けなかった。偽の刻印の刻まれた指輪は、遂にメンゲレ・レポートと共に歴史の闇へ葬られることとなったのだ。
その後の少女の記述は歴史の表舞台には無い。ただ、アメリカで暮らす年の離れた亡命欧ドイツ人の姉妹がいたというが、件の少女との関わりを示す証拠は一切残されては居ない。