永劫回帰交響曲 第2番aヨーロッパ

種類 ショート
担当 風華弓弦
芸能 3Lv以上
獣人 2Lv以上
難度 難しい
報酬 11.9万円
参加人数 8人
サポート 0人
期間 04/30〜05/05

●本文

●永劫回帰
「やー‥‥ひと段落ついたな‥‥」
 帰宅して早々にレオン・ローズは手足を伸ばし、ぐでーんとソファにノビた。
「まだ、終わってないだろ」
 同居人にソファを占拠されたフィルゲン・バッハは、カーペットへ腰を下ろす。
「だから、ひと段落と言っておろうが。やはり、現場に毛色の違う人物が入ると、気を遣う故にな」
「ふ〜ん。気を遣えるんだ」
「フィルゲン君。何か私を、激しく誤解しておらんか?」
「正しく理解してるつもりだが」
 微妙に沈黙が降りる。
「聞きたい気もするが、止めておいた方が今後の為であろうな」
「個人的には、ぜひとも聞いて改善して欲しいものだ」
「何を言う。改善する必要があるような性癖なぞないわっ」
「まず、その言い切れるところを改善すべきかと」
「なにぃーっ!」

「さて、第二回のプロットな訳だが‥‥」
 毎度のやり取りの後、真面目な表情でソファへ座り直し、こほんと一つ咳払いをするレオン。
「作らなくていいから」
「最近手厳しいぞ、我が友よ。さてはやはり、我らが縄張りへの侵入者が気に喰わなかったのであろう」
「や。一番侵入してるのは君だし。
 えーっと、第一回の題材は『モーツァルトの死』だったから、今回は1782年8月4日にウィーンで行われたモーツァルトの結婚を取り上げようと思ってる」
 投げっぱなしで構って欲しそうな監督を他所に、脚本家は第二回の構想を話し始めた。
「夜。主人公は、乱暴に叩かれるピアノの音を聞く。
 部屋の扉を開けると、ピアノに女が向かってる。一生懸命に練習してるんだけど、彼女は「ピアノが上手く弾けない」と嘆く。
 彼女が練習しているのはモーツァルトの曲で、どーみても上手く弾くのは無理だろうってレベルなんだけど、それでも彼女はピアノに向かうんだ。
「音楽家の妻に恥じぬよう。そして、夫と同じ高みを見たい」ってね−−」

●第二回プロット〜史実ベースライン
 1781年にモーツァルトがウィーンに引っ越した際、1777年にマンハイムで知り合ったウェーバー一家と再会する。
 モーツァルトがかつて心を寄せていたアロイジア・ヴェーバーは既に結婚しており、彼はアイロジアの妹コンスタンツェ・ヴェーバーと付き合うようになる。
 この際、ヴェーバー夫人は後見人を通し、モーツァルトに一つの要求を突きつける。
 それは、「三年以内に必ずコンスタンツェと結婚する事。もしそれが履行できなくなった場合は、彼女に年300フロリンを支払わなければならない」という内容であった。
 モーツァルトは『結婚契約書』にサインをし、コンスタンツェと結婚の承諾を得るために父レオポルドに結婚許可を願う書簡を送り続けるが、ヴェーバー夫人の手腕を知る父は承諾せず。
 結局、半年後に父の許可を得ることなく、モーツァルトはコンスタンツェと聖シュテファン大聖堂にて結婚する事となった。

 以下は、背景的補足。
 1781年の冬。年棒400フロリンでとある公女のクラヴィーア教師に就任するという話が持ち上がるが、結局この話は宮廷作曲家サリエリの元へと流れる。モーツァルトはいたく憤慨するが、最終的に教師となったのはまた別のオルガン奏者であった。
 結婚二週間前の1782年7月。『後宮からの誘拐』が初演を迎え、モーツァルト生前最大のヒット作となる。奇しくも、ヒロインの名は「コンスタンツェ」であった。
 結婚後、モーツァルトはコンスタンツェの為に幾つかの作品を書くが、何故か未完のものが多い

●キャスト表
『2006年の登場人物:獣化なし(演技力によっては要半獣化)』
 物語の導入・進行役であり主人公である少年、または少女。成年でも可。一人または二人。

『1782年の登場人物:半獣化必須』
 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト‥‥26歳。人より少し『人生の時計』の回転が早かっただけの、運の悪い男。
 アントニオ・サリエリ‥‥32歳。男装の麗人。モーツァルトとの確執が噂されているも、実際は何かと彼に目をかけている。
 コンスタンツェ・ヴェーバー‥‥20歳。モーツァルトの妻となる女性。過去、姉アロイジアにモーツァルトが思いを寄せていた事もあり、サリエリの存在もあって、恋人の『愛情』に不安を抱いている。
 ヴェーバー夫人‥‥コンスタンツェの母で、やり手の未亡人。
 他、展開の必要に応じて役柄を追加。

『舞台(撮影現場)』
 オーストリア、ウィーン(前回撮影と同施設使用)。
 ただし、聖シュテファン大聖堂でのロケは困難である為、挙式そのもののシーンはナシ。

●今回の参加者

 fa1032 羽曳野ハツ子(26歳・♀・パンダ)
 fa1565 ニライ・カナイ(22歳・♀・猫)
 fa1715 小塚さえ(16歳・♀・小鳥)
 fa1791 嘩京・流(20歳・♂・兎)
 fa1814 アイリーン(18歳・♀・ハムスター)
 fa2225 月.(27歳・♂・鴉)
 fa2457 マリーカ・フォルケン(22歳・♀・小鳥)
 fa3255 御子神沙耶(16歳・♀・鴉)

●リプレイ本文

●永劫回帰交響曲第2番 Cast
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:月.(fa2225)
アントニオ・サリエリ:ニライ・カナイ(fa1565)

ツェツェリーア・ヴェーバー夫人:小塚さえ(fa1715)
アロイジア・ヴェーバー:マリーカ・フォルケン(fa2457)
ゾフィー・ヴェーバー:アイリーン(fa1814)

コンスタンツェ・ヴェーバー:羽曳野ハツ子(fa1032)

高瀬・始:嘩京・流(fa1791)
サヤ:御子神沙耶(fa3255)

 ・
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●再び、幕は上がる
 夜の街に、耳をすませる。
 それが、いつの間にかバイオリンを練習した後の日課になった。
 何が聞こえる筈でもなく、何を期待するでもなく。
 そろそろベッドに入ろうかと立ち上がったところで、彼はその音に気付いた。
 たどたどしい音に暫し考え、そしてドアへと足を向ける。
 廊下を抜け、階段を降りて、音の源であるピアノ室の前で立ち止まり。
 一呼吸置き、思い切って木製の扉を押し開けた。

 −−月はとうに沈んだというのに、何故目が眩む感覚を覚えたのか。

 その時。ドンと、後ろから何かに押されて。
「うわ‥‥っ!」
 つんのめるように部屋へ足を踏み入れて、高瀬・始はぶつかってきた相手に振り返った。
「サヤ!?」
「始さんが、急に止まったから‥‥ごめんなさいっ」
 謝る女性の後ろで、ガチンと扉が音を立てて閉まる。
 束の間の静寂に、カチコチと刻まれる時計の音。
 ピアノを−−チェンバロを見やれば、若草のような淡い緑のドレスを纏った女が、闖入者達を不思議そうに見ていた。
「あの、お邪魔‥‥します」
 とりあえず始は姿勢を正して、場を取り繕ってみる。見覚えはあるが、初めて見た時よりも若い女はポンポンと黒鍵を叩き、抑揚のない音を響かせた。
「いいわよ。どうせ、コレ‥‥上手く弾けないもの」
 拗ねた様な口ぶりで呟くと、十本の指を同時に勢いよく振り下ろし。

 −−耳障りな鋭い不協和音に、思わず耳を塞いで目を瞑る。

 音が消えて再び目を開ければ、女の姿やチェンバロもなく、その場に居るのは彼一人。
 埃っぽいがらんどうの部屋の窓ガラスには、時代遅れの古い衣装を着た自分の姿。
「サヤっ!」
 居た筈の知人の名を呼ぶが、返事はなかった。

●思惑
 下手なチェンバロの音が聞こえてくる。
 何度も何度も、同じ旋律を躓きながらなぞり。
「母さん。使者の方が、これを‥‥」
 末の娘が、書簡をそっとテーブルに置いた。
 娘が退室するのを待ってから、高い飾り襟の黒いドレスを着た夫人は窓辺から離れ、レースの黒手袋を嵌めた手を伸ばして書簡を取る。
 封を切り、二枚の紙を広げ、書かれた文面の最初から最後までを確認すると、黒いヴェールの下で目を細めた。

「結婚、誓約書‥‥」
 震える手で、黒いインクの綴る『誓約』を確認する。
 三年以内の結婚。履行できない場合、年300フロリンを支払う罰。
 そして書面の最後に書かれた、見覚えのあるサイン。
「これを彼に承諾させたの? 母さん‥‥っ!」
 問いただそうとする彼女の声も聞かず、未だ夫の喪に服すかの様な黒衣の母親は部屋の扉を閉めた。
 残された彼女はチェンバロに手をかけて支えにしながら、ふらふらと椅子へと座り込む。
 ややあって妹のゾフィーが扉を開き、顔を覗かせた。
「コンスタンツェ姉さん? また、すぐそうやって自分だけで悩み事を抱え込んじゃうんだから‥‥ほら、食事にしましょ?」
 気立ての良い妹は姉の手を取り、小さく囁いた。
「後でモーツァルトさんの様子を見に行くけど、伝言ある? もちろん、母さんには秘密にしてるから」
 妹の気遣いに、コンスタンツェは黒髪を揺らす。
「ありがとう、ゾフィー。でも大丈夫よ‥‥もう、会いに行けるから」
「あ‥‥じゃあ、母さんがお付き合いを許してくれたのね。おめでとう、姉さん!」
 無邪気に喜ぶ妹の金髪を撫でながら、どこか力なく彼女は微笑んだ。

 豪奢な部屋に居心地の悪さを感じながら、始は身を硬くして椅子に座っていた。
「やはり、思い出せんな。最近、どうも考えが纏まらず‥‥済まない」
 疲れた様子のサリエリに、「いや」と始は言葉を濁す。
 と、突然扉の外が騒がしくなった。
 近付いてくる騒ぎに、サリエリも眉根を寄せ。
 召使達の制止を聞かず、勢いよく扉を開けて現れたのは、一人の男だった。
「説明して頂こうか、宮廷作曲家サリエリ殿」
 相手の出現を予想していたのか、憤慨した様子の男にも動じず、サリエリは嘆息する。
「来客中に無礼だな。何の用だ、モーツァルト」
「ヴェルテンベルク公女のクラヴィーア教師の件だ。受ける気がなければ、先に断れば良いだろう。こちらに来る筈の話を取り上げておいて、他の者に譲るとは‥‥新たな生活を始めようという時に、あてつけめいた事は止めて頂きたい」
「新たな生活‥‥か」
 彼の言葉を繰り返したサリエリが、奇妙に表情を歪めた。
「君が選ばれなかったのは残念な事だが、教師役は皇帝閣下の御意思による決定だ。だが‥‥弾けぬ者が、教師になれる筈もなかろう。終わった話だ‥‥お引取り願おうか」
 始の位置からサリエリの表情を窺い知る事は出来ないが、モーツァルトの顔に狼狽が過ぎる。そして身を翻し、来た時と同様に荒々しく部屋を出て行った。
 重い扉が閉まる音に、サリエリは深く息を吐く。
「彼は、近いうちに恋人と結婚するそうだ」
 呟きの後の沈黙に耐えかね、始は口を開いた。
「あの、さ。気休めにしか、聞こえねぇかもしれねぇけど‥‥元気、出せよ」
 見も知らぬ相手からの励ましに、何故かサリエリは表情を和らげる。
「じゃあ俺、行くから‥‥探してるヤツもいるし」
 退去の礼を述べて、始は扉を開けた。

●閑話〜小休止
「えーっと。本を見ながらだけど、実際にグヤーシュを作ってみたの‥‥食べる?」
 鍋を手に聞くアイリーンに、空きっ腹を抱えたスタッフ達が一斉に挙手した。真っ先に手を上げるツートップに苦笑する沙耶は、脚本家との検討の末、残念ながら『脇』を固める事が決まっている。
 やがてビーフシチューと良く似た料理グヤーシュに、スタッフが用意したセンメルクネーデルで、恒例の休憩時間が始まった。
「‥‥春、ですよねぇ」
 窓辺でぼーっとしているさえへ、マリーカが皿を持っていく。
「どうしたの、母さん」
 外見でも5歳以上年上の彼女から『母』と呼ばれ、照れたようにさえは顔を赤らめた。
「夫人役、大変でしょう。無理しないようにね」
「はい。でも、最近思うんです。早く大人になりたいなって」
「あら。それで、夫人役なの?」
 小さく笑い、さえは「いただきます」と料理に手をつけた。

「少し前なら、コンスタンツェがなーんでこんなにウジウジしてるのか、判らなかったろうけど‥‥今はちょっぴり、理解できる気がするのよね」
 ふ。と溜息をつき、グヤーシュを突付きながら、ちらと賑やかな監督と脚本家を見るハツ子。
「はっちーって、やっぱり‥‥なんだ」
 声を落とすアイリーンに、真剣な顔のハツ子が小声で返す。
「言っておくけど、内緒よ」
「内緒って、今更だと思うわ。ニライさんも、気付いてるし」
「う‥‥っ」
「でも、今は食べてね。グヤーシュが酷い事になるわ」
 皿に視線を落とせば、突付き続けたジャガイモ団子がミンチと化していた。
「本人も、悪く思ってないわよ。きっと」
「ありがと。これ、美味しいわ」
 励ましに礼を言いつつ彼女は料理を口へ運び、アイリーンは笑顔で応える。
「ニライさんといえば‥‥大変そうよね、流さん」
 見やるアイリーンに倣えば、月の姿があった。禁煙用の煙草と台本を手に、暗記した台詞のチェック中らしい。そして諳んじる彼の視線は、知ってか知らずかサリエリ役を追っていた。
「流殿。バイオリンを聞かせてもらっても、いいだろうか」
 突然のニライの頼みに、流は即座に頷いてみせる。
「勿論。俺はいつでもニライの為に、存在してるんだぜ」
 流はバイオリンをケースから出して調弦すると、静かに弓を引く。
「サリエリは、一人頑張っているが‥‥私はこの音にずっと、支えられて来たのだろうな」
 呟くニライは演奏する流の背中へもたれ、目を伏せた。

●二つの邂逅
 下手なチェンバロの音が聞こえてくる。
 苦心惨憺しながら、赤子の歩みの如く旋律を辿り。
 そのおぼつかないメロディを、口ずさみながら恋人を待つ。
 だが彼が待つ部屋へ現れた女性に、それは途絶えた。
「アロイジア‥‥ランゲ夫人」
 昔の様に言いかけて、今の彼女の立場を付け加える。会釈をするモーツァルトに、かつて彼が心を寄せたアロイジアは微笑んだ。
「少し、よろしい?」
 煌びやかなバッスルスタイルのドレスの裾に注意を払いながら、彼女は歩み寄る。
「正直に、申し上げましょう‥‥貴方の事は今でも愛してますわ。でも、わたくしは貴方が居なくとも、プリマ・ドンナとしてこの先も立っていけますし、同じ道を進む者として隣に立つ事もありましょう。
 でも妹には、それが出来ません。
 コンスタンツェは、それを必要以上に気に掛けて居ますの。殿方には、お判りにならないかもしれませんけれど‥‥だから、わたくしとの時以上にあの子の傍にいて、常に気を掛けて頂けませんこと?
 そして、幸せにしてあげて。
 わたくしからの、最後のお願いですわ」
「大丈夫だ。私は、今のありのままの彼女を愛している‥‥チェンバロが下手な部分も含めて」
 その答えに笑むと、アロイジアはつぃと彼から離れた。
「あの子を、呼んで参りますわ」

「まだ練習してるの? もうずーっと、恋人がお待ち兼ねなのに」
「え‥‥もう、そんな時間!?」
 真剣な表情でチェンバロと『格闘』していたコンスタンツェは、慌てて椅子から立ち上がった。
 妹の準備を手伝いながら、アロイジアは優しく彼女へ語りかける。
「コンスタンツェ、あの方は貴女を妻にと選んだのですよ。他の誰でもなく、貴女を。その事をもっと、誇りになさいな」
「でも‥‥そうね。もしチェンバロが上手く弾けたなら、きっともっと安心できたかもね。だけど、ちっとも‥‥」
 そこまで言って、これ以上の弱音が飛び出さないよう、コンスタンツェは硬く口を噤む。
「心配ありませんわ‥‥いま彼が待ってるのは、貴女なんですから」
 励まして、姉は妹を部屋から送り出した。

「『後宮からの誘拐』。主人公ベルモンテが召使ペドリッロの助けを借りつつ、誘拐された恋人のコンスタンツェをトルコ人の太守セリムの後宮から救い出す−−か」
 幕間休憩用の広いホールまで聞こえてくる演奏に、始は呟いた。
「しっかし、サリエリの部屋を出ただけなのに何でこんな所に‥‥それに、サヤや『彼女』はどこだ」
 上演中のホールへ踏み込むわけにもいかず、思案に暮れる。
 やがて拍手と歓声が、公演の終わりを告げた。
 暫くして、大きな音と共に開いた扉に、始は慌てて物陰へ隠れる。
「成功だ、大成功だよ! コンスタンツェ、君のお陰だ!」
「ちょっと‥‥ヴォルフ、苦しいわよ」
 喜ぶ恋人に抱き締められて、コンスタンツェは困ったように笑う。
「これで、きっと父さんも君の事を認めてくれる。結婚だって、許してくれるだろう」
「そうね。そうなれば、私も嬉しいわ」
 優しく、モーツァルトの髪を撫でるコンスタンツェ。
 そこへガチンと音がして扉が閉まり、二人は入ってきた相手に目を向けた。
「公演成功、おめでとう‥‥素晴らしいオペラ、そして指揮だった」
 わだかまりはあれど尊敬する音楽家より祝辞を受けて、モーツァルトはサリエリに一礼をする。
「丁度いい、紹介しよう。婚約者のコンスタンツェだ‥‥彼はサリエリ」
「ええ。ご高名は私共まで届いておりますわ、サリエリ様」
 抱擁から開放されると、優雅に礼をするコンスタンツェ。だが、相手の反応に怪訝な表情を浮かべた。
「御気分でも‥‥?」
 気遣って差し伸べられた手を避けるように、サリエリは数歩、後退る。
「サリエリ?」
 モーツァルトに名を呼ばれて我に返り、緩く頭を振った。
「いや、なんでもない。邪魔をしたな‥‥お幸せに」
 踵を返して立ち去るサリエリの背を、モーツァルトはじっと見つめる。
 そんな恋人の様子に、絡めた腕にぎゅっと力を込めながら、コンスタンツェは寂しげに俯いた。
「ねぇ‥‥本当に、私と結婚したい、の?」
 不意の問いかけに、彼は戸惑いの表情を見せる。
「どうしたんだ、急に」
「誓約書なら、私が破り捨てるから。だから‥‥」
 それ以上の言葉を、唇に指を当ててモーツァルトが遮る。
「今の君を愛しているから、結婚を申し込むんだ」
「本当に?」
「本当に」
「神様に誓って、本当に?」
「ああ、勿論。誰がなんと言おうと」
 繰り返される返事にコンスタンツェは彼の腕の中へ飛び込んで泣きじゃくり、モーツァルトは宥める様にゆっくりと黒く長い髪を指で梳く。
 そして、僅かに開いた扉をそっと閉めると、扉の向こうに居たサリエリは何事かを決意した表情で、その場を後にした。

「人を信じる事は‥‥愛する事は、とても簡単なのに、とても難しい事よね‥‥」
 哀しげな呟きに顔を上げれば、淡い若草色の豪奢な−−ウェディングドレスを纏い、窓辺に立った女が微笑んだ。
 その表情は、美しくも空虚なほど寂しげで‥‥。
「始‥‥始っ!」
 肩を掴んで揺さぶられて、彼ははっと気付く。
「‥‥サヤ?」
 視線を巡らせれば、座り込んだ彼を心配そうに見る知人が居た。視線を戻せば、女の姿はない。
「ぼーっとして、大丈夫ですか? それに、ピアノの音がしてたけど‥‥ここって『出る』んです?」
 恐々とサヤが尋ねるが、始は答える事も出来ず。

 時計は静かに、時を刻んでいた。