永劫回帰交響曲 第3番ヨーロッパ
種類 |
ショートEX
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担当 |
風華弓弦
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芸能 |
3Lv以上
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獣人 |
フリー
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難度 |
難しい
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報酬 |
11.9万円
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参加人数 |
12人
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サポート |
0人
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期間 |
05/28〜06/02
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●本文
●誤解と理解
カタカタと、キーを打ち込む音が断続的に聞こえてくる。
なくて七癖という言葉もあるが、キーボードのタイピングも人によってまちまちだ。静かにキーを押し込むタイプ、ぽつぽつと五月雨を打つタイプなどなど。付き合いも長くなってくると、ディスプレイの前に座っているのが誰か見なくても、キータッチで誰が作業をしているのかが判ったりもする。
いま聞こえてくる音は、間違いなく彼の同居人によるものだった。キーと待機する指の距離が遠く、押し込む力が強いせいで、カタカタカタカタと書き文字に出来そうな程、明確な音が響く。聞けば、過去に『稽古事』の一環としてピアノなぞ習っていたらしい−−腕の方は実を成さずに人並みであった為、現在はこの仕事に落ち着いてはいるが。
まぁ、そのような論理立てをせず『誰か』を推測する、もっと簡単な方法がある。
2−1=1の、単純な引き算。
彼と同居人、二人でルームシェアをしている訳だから、自分が音を立てていないなら同居人以外の誰かである筈がないのだ。
−−ないのだが。
「あれ? 珍しく、リビングで本を読んでるんだ」
廊下から、すっきりした表情のフィルゲン・バッハが現れた。
「お‥‥あれ?」
「どれ?」
首を傾げるレオン・ローズに、フィルゲンも同様の仕草をする。
「2−1−1=‥‥?」
「0。何かのクイズか」
「いや‥‥今夜は、早めに寝る事とする」
椅子から立ち上がり、レオンはふらふらと自室へ向かった。
「−−とまぁ、こんな事があった訳だが」
「早く言えよっ!」
数日後。
打ち明けたレオンへ、フィルゲンがマウスをブン投げた。プラスチックが激突した額を、しゃがみこんでおさえるレオン。よい子の皆は、マネをしないように。
「まぁ、いいか。何かの縁だから、第三回はコレにしよう」
「本気かーっ!」
コードを手繰り寄せてマウスを手にする脚本家に、監督が再度問う。
「うん。だって‥‥自分が死んだ後って、気になるモンだろ? それに『彼ら』のその後はあまり知られていないし、未だにいろいろと誤解も多いしね」
そうして、フィルゲンはカタカタと軽快にキーボードを叩き始めた。
「三度目の夜に現れるのは、『彼』その人。
周りが凡庸である事を許さず、それ故に様々な悔恨を残した『彼』は、主人公と共に『彼の世界が終わった後』を辿るんだ−−」
●第三回プロット〜史実ベースライン
1791年12月5日。かつて、神童と謳われた男は天へと召された。
1791年12月10日。モーツァルト追悼ミサで、完成していた「入祭文」と弟子により補筆された「キリエ」がひっそりと演奏される。
遺されたコンスタンツェは、発注者であるヴァルゼック伯爵より『レクイエム』完成の督促を受けていた。断るには受け取った前金を返さねばならず、夫の借金を抱えた彼女の元にそんな大金はない。故に、『レクイエム』は完成させなければならなかった。
コンスタンツェは、モーツァルトの弟子フライシュテットラーと、ハイドンの弟子アイブラーに『レクイエム』の補筆を依頼するが、二人ともこれを途中で投げ出す。その結果、彼女はサリエリの弟子となったジュスマイヤーに、これを依頼した。
死の床まで師の指示を受けていたジュスマイヤーは、遺稿のスケッチを補筆、スケッチがない部分は創作し、一年近くをかけて『レクイエム』を完成させる。
コンスタンツェは、完成した『レクイエム』の写譜(写し書きした譜面)をヴァルゼック伯爵に渡し、残りの報酬を受け取った。
そして、1793年1月2日。
スヴィーテン男爵の依頼によりウィーンにある、とある貴族の館でサリエリは『レクイエム』の指揮を取る事となる。
ヴァルゼック伯爵が「自作の曲」として『レクイエム』を発表する1793年12月14日より、11ヶ月と12日も早い出来事であった。
●キャスト表
『2006年の登場人物:獣化なし(演技力によっては要半獣化)』
・主人公(一人または二人)
物語の導入・進行役であり主人公である少年、または少女。成年でも可。
『1792年の登場人物:半獣化必須』
・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(享年35歳)
人より少し『人生の時計』の回転が早かっただけの、運の悪い男。
・アントニオ・サリエリ(42歳)
男装の麗人。宮廷楽長の地位にある。モーツァルトとの確執が噂されていたが、実際は彼の一番の理解者であった。モーツァルトの死後、戴冠式など折に触れては彼の作曲した曲を指揮する。スヴィーテン男爵の依頼により、『レクイエム』を指揮する事となる。
・コンスタンツェ・ヴェーバー(30歳)
モーツァルトの妻。二人の子供を抱えつつ、『レクイエム』完成のために奔走する。
・フランツ・クサヴァ・ジュスマイヤー(26歳)
モーツァルトの弟子だったが、彼の死後はサリエリの弟子となっている。コンスタンツェに頼み込まれ、『レクイエム』を完成させる。
他、展開の必要に応じて役柄を追加。
以下、参考としての人物紹介。必要となればキャスティングを行う。
・スヴィーテン男爵(58歳)
オーストリアの外交官。宮廷図書館長や書籍検閲委員長等を歴任。大の音楽愛好家で、多くの音楽家と交友があり、モーツァルトの数少ない理解者でもあった。モーツァルトの葬儀費用は、彼が出したと言われる。
・ヴァルゼック伯爵(29歳)
『レクイエム』の発注者。妻アンナの追悼ミサに自作の曲として発表するため、破格の前金を払ってモーツァルトに仕事を請けさせた。彼の死後、コンスタンツェに『レクイエム』の完成と譜面の受け渡しを迫り、1793年12月14日に『ヴァルゼック伯爵作曲のレクイエム』として発表、指揮を取る。
『舞台(撮影現場)』
オーストリア、ウィーン(前回撮影と同施設使用)。
●スタッフへの指示覚え書き
「雰囲気と時間と予算のため、『一発撮り』を原則とする。それぞれの出来うる、最善のバックアップを請う」
『メイク・衣装・小道具』
メイクについては、役者の外見年齢を誤魔化す必要もあるため、要注意。
衣装は、主に貸衣装を使用。
消え物の菓子類については、スポンサーより提供アリ。
『大道具』
前回と同じく現地の施設を借用するため、大掛かりなセット組は不要。
ただし、現地の施設保全に要注意。
『撮影班』
2006年と1792年の画像風潮に留意。
『特殊映像処理』
特殊加工はCGによって付与となる。細かい作業が多いので、作業量に注意する事。
『その他雑務』
臨機応変に頑張って下さい。
●リプレイ本文
●Stagehand 1 天気良好
オーストリアの首都ウィーン。その中心部を囲む環状道路「リング」の外に位置する住宅街に、撮影現場となる住居用建物が建っている。
三度目の撮影も、期間中の天候はおおむね良好。ただし内容的に冬のシーンが多いため、今回ばかりは必ずしもベストコンディションとは言えない。
「だいたいの平均気温は、最高が16度で最低が7度あたりだそうです」
言いながら、雑用志願の御子神沙耶(fa3255)が換気の為に開け放たれていた窓を閉め、『衣裳部屋』に遮光カーテンを引く。
「それじゃ、それほど暑さ対策は気を遣わなくていいかな。室内だと、それほど厚着でなくていいだろうし‥‥」
同じく、衣装や小物の日焼けと−−獣化を見られない為の『処置』を施しながら、四條 キリエ(fa3797)。その間に、限られたスペースへ詰み上げられた箱から、味鋺味美(fa1774)が物品を種別ごとに選り分けていく。
「レンタル物の傷みが抑えられるのは、有難いわね。室内の撮影はともかく、外のロケは大変だから‥‥と、古物系はこれかしら」
箱のうちの一つを開け、紙にくるまれた小物を取り出して確認する。古い道具類の状態に味美は満足そうに頷いて、また箱へと戻した。
「メインとなる軸は三点となるので、効果の区切りはその軸ごとに行う形か。通し撮りはさすがに無理だが、各軸ごとの単位とはなろう」
いつになく真面目な監督レオン・ローズの算段に、シャノー・アヴェリン(fa1412)は微動だにせず傾聴体勢だった。
「最後のシーンはどうするかな‥‥フルオーケストラを揃えると、場所も予算も時間も‥‥音楽学校の学生にエキストラを頼むとしても、キツイしな」
がしがしと頭を掻きながら、脚本家フィルゲン・バッハが呻く。同様に、ウルフェッド(fa1733)も腕組みをして唸った。
「合成では誤魔化せないのか」
「うん。画像的には、かなり『浮く』と思うな」
「なら、『ない』ものを『ある』ように撮るか。撮る側と撮られる側の腕の見せ所だな」
実際には『そこにないもの』を、カメラワークと役者の演技で存在するようにみせよう‥‥という事である。
ひとしきり話が落ち着いたとみて、傍で聞いていた重杖 狼(fa0708)が席を立つ。
「俺はそこら辺はよく判らんが、レフ持ちでも何でも存分に使ってくれ。良い絵を撮る為だし、あんまり年齢をどうのってのは気を使う必要はないぞ」
うちの所長の方針でな−−と、重杖は笑ってみせた。
「ああ、遠慮なくよろしくお願いするよ。では、準備を急ぐとするかね」
切り上げるレオンの言葉で、他のスタッフもそれぞれの仕事に移る。
「あ、フィルゲンさん、ちょっと‥‥」
スタッフ達が散っていく中で、ウルフェッドはフィルゲンに声をかけた。
「撮影の合間に、写真を撮りたんだが」
「写真?」
はてと首を傾げる脚本家に、ウルフェッドは頷く。
「裏の部分を見せたくない‥‥って気持ちも十分に理解できるんで、無理強いじゃないんですけど、やっぱりこの業界どうしても人手がねぇ‥‥どんなんかわからんて人も多いと思うんで、若い連中に見せたいっていうか、後継者確保っていうか」
「ふぅむ‥‥」
「ぶっちゃければ、日本にいるうちの所長が若手がたりねぇなぁって、普段からぼやいてるのが理由ですかね。公開のタイミングなんかは、そちら次第で」
よろしくと頭を下げて持ち場へ戻るウルフェッドを、思案顔のフィルゲンが見送った。
そうして、着々と準備は整えられていく、
役者達が現場入りする前に、何の変哲もない居住空間を万全の『セット』へと仕上げる為に。
●永劫回帰交響曲第3番 Cast
コンスタンツェ・ヴェーバー:羽曳野ハツ子(fa1032)
アントニオ・サリエリ:ニライ・カナイ(fa1565)
ヴァルゼック伯爵の使者:小塚さえ(fa1715)
フランツ・クサヴァ・ジュスマイヤー:アイリーン(fa1814)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:月.(fa2225)
高瀬・始:嘩京・流(fa1791)
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●第3番−1 第三の夜
日課の練習を終えると、いつもの様にある種の期待と共に耳をすませる。
しかし耳に届くのは、遠い車のクラクションや虫の声ばかり。
緩慢な眠りに誘われてベットに入り、どれくらいの時間が経ったのか。
ふと目を覚まして、彼は身を起こした。
予感のような胸騒ぎのような、そんな感覚に誘われて、そっと部屋から廊下へと。
月のない夜に家の中は重く闇に沈み、他の者を起こさないように注意しながら、懐中電灯を頼りに階段を降りる。
そして、ピアノ室の前までくると足を止めて、木の扉の向こうを透かし見るように目を細め、気配を窺った。
だが、漂う静寂に変化はなく。
躊躇いがちに扉の握り手に手をかけると、留め金がガチリと妙に大きく響き。
−−開いた瞬間、嵐のような激しい旋律の渦が解き放たれる。
急いで扉をどんと閉めて振り返れば、チェンバロの前に座る黒衣の奏者が手を止めた。見覚えのある相手に、始は思わず息を飲む。
「あんた‥‥」
「結局、俺は何もかも成し得る事が出来なかった。妻と子供を残し、友に感謝も告げられず、ただひたすらに人生を捧げた音楽すらも未完のまま‥‥皮肉だと思わないか」
苦々しげな呟きに、始は言葉をかける事もできず。
再開された、苦悩を吐露するような演奏に、始はただ立ち尽くしていた。
●Stagehand 2 花咲くひと時
「どう? コルセットとか、きつくないかな」
「ん〜、ん。大丈夫ね」
黒に近い赤のドレスを纏ったハツ子は腕を振り、上体を捻って軽く身体を動かして窮屈さを確認する。
「顔色、沈まないかしら」
鏡を覗き込む彼女の髪に、キリエはベール付きの帽子を飾った。
「その辺りは、メイクでカバーするから」
「そうね‥‥プロに任せたわ」
鏡越しににっこりと笑って、ハツ子は自分の『出来映え』を確認する。そして、鏡に映る姿に気付いて振り返り。
「凄いじゃない! カッコいいわよ」
賛辞を受けたアイリーンは、恥ずかしそうに薄茶色の上着の裾を引っ張った。厚底靴に、パットを入れて肩が張った衣装で、全体的なラインを直線的に見せている。『26歳の青年音楽家』は、少々不安げに衣裳部屋の中を歩き回っていた。
「足元、ちょっと怖いけど‥‥ね。ハイヒールとも違って、不安定な感じがして」
「うーん‥‥感覚が慣れるまで、その靴を履いてみる?」
『仕上がり』具合を見ながら、小首を傾げるキリエ。
靴は一見すると厚底と気付きにくい工夫がされているが、やはり履いて動く分には少なからず不安があり。自然に履きこなせて演技に支障がなくなるまでは、『慣らし』が必要だろう。
「そうね。慣れないと、はっちーと並んだ時に見劣りしちゃいそうだし」
ぐっと握り拳で、アイリーンは気合を入れた。
「さや、ニライとさえの方はどう?」
「はいっ。こちらの衣装合わせも、ほぼ終わりです」
答える沙耶は、ブラシでさえの髪を梳く。
最後に全体の色合いを確かめ、沙耶はブラシを置く。
「えーっと、どうですか‥‥さえさん?」
「え、はい?」
名を呼ばれ、慌てて手にしていた本から顔を上げるさえ。
「あ、お勉強中でした?」
「いえ、あの‥‥7月にも期末試験があるんです。それに備えて今から勉強を‥‥と思って。ほら、赤点で補習とか出る事になったら、夏休み潰れてお仕事できなくなっちゃうじゃないですか!」
訴えるさえに、沙耶は納得したように相槌を打つ。
「学生さんは、大変ですね」
「いっそ、こっちに転校しちゃえばどうかしら」
悪戯っぽい口調で提案するアイリーンに、少女は一瞬明るい表情を浮かべるが。
「あ〜‥‥うん。でも、ほら、家族が心配しますから」
それも申し訳なさげな笑みに変わり、ずーんと消沈する。
「そっか、ごめんね。はい、笑って笑って。笑顔に衣装が似合ってるか、確認しなきゃ」
明るくフォローする少女に、こくんとさえは頷いた。
参考書を置き、椅子から立ち上がって、いろいろポーズをつけてみる。深緑の衣装の背中で、ひと房の黒髪が緩やかに揺れた。
「服は、大丈夫みたいです。これ、飛んだり跳ねたりして落ちたりしません?」
エクステンションを手に取る少女に、キリエは「平気だよ」と笑った。
「ただ、あまり気にして触らないようにね。止めてる部分が緩んだら、落ちちゃうから」
「はい!」
一方、濃紺の上着に袖を通したニライは、袖口や襟のフリルを整え、鏡の中の出来映えを検分していた。
「窮屈じゃありませんか?」
「ああ、平気だ」
「流君がいたら、見とれちゃうわよ」
「綺麗な装飾だからな」
軽く身体を動かすニライに、話をふったハツ子は苦笑する。
「ハツ子の衣装も、よく似合っている。この場にフィルゲンがいないのが、残念だな」
「いたら‥‥いたで大騒ぎじゃない。女性の衣装合わせ中なんだから」
微かに頬を染めつつ、黒髪を揺らしてそっぽを向くハツ子。ふむと考え込んだニライは、ハツ子の後ろに誰かの姿を認めたように顔を上げ。
「あ‥‥」
「な‥‥なによ!? 無断で見ていたら、承知しないから‥‥っ!」
慌てて彼女が振り返っても、そこには誰の姿もなく。
「すまない。見間違いだ」
しれっと答えたニライに、ハツ子はますます赤くなり。
「ニライちゃんてば、すっかり『お芝居』が上手くなってきたわね‥‥」
「ありがとう」
ぼやく『先輩女優』へ、ニライは礼を告げた。
「へぇ、そんな冗談やってたんだ。見たかったぜ‥‥」
割と真剣な表情で悔いる流に、月はやれやれと首を振った。
「女性の着替えに混ざっていたら、流がまず放り出されるだろう」
「あ、そっか」
むぅと眉根を寄せる流へ、楽しげにキリエは笑う。
着替えを済ませた黒い服の月に、柔らかいクリーム色の流の衣装は対照的で。
「うん。二人とも、バッチリだね」
二人を見て、満足げにキリエは頷いた。
そんな光景にウルフェッドがカメラを向けて、シャッターを切った。
「あ、こら。着替え中を撮るなよ」
「舞台裏取材の一環だ、気にするな。それに、女優の着替え現場を撮る訳にもいかんだろう」
ひらりと手を振る男に、流はがっくりと肩を落とす。裏方仕事も表に紹介したいという希望で、ウルフェッドは休憩中も舞台裏の写真を取っていた。
「それ、ドコで発表するのかな?」
キリエの問いに、カメラを手にした彼は「その辺りは上の二人の判断次第だ」と答える。
「ネット上に公開するか、写真集になるか。それともDVDを作るとなれば、そこに収録されたりするかもな」
●第3番−2 途絶えた旋律を巡り
ゆったりと、揺り籠が揺れる。
やがて眠りに落ちた子供の顔を確認して微笑み、彼女は立ち上がった。
続いて子供部屋の様子を窺い、上の息子も眠っている事を確認する。
それからようやく、待たせた客の元へと足を向けた。
「ごめんなさいね、ジュスマイヤー。こちらから呼び立てたのに、待たせてしまって」
「僕は構いません。それよりも‥‥コンスタンツェさん、顔色が良くないですよ。ちゃんと休んでますか?」
気遣う夫の元弟子に、コンスタンツェは笑う。ゆらゆらと微かに揺れるランプの光のせいか、その笑顔は力なく。
「駄目ですよ、倒れる前に休まないと。カールとフランツの母親に、代わりなんていないんですから」
「そうね。バーデンへ保養に‥‥なんて、暢気な事はもう言ってられないもの」
ジュスマイヤーの忠告に、コンスタンツェはふっと溜め息をつき、机の上に重ねられた楽譜の束に目をやった。
「例の、督促ですか」
「ええ‥‥フライシュテットラーとアイブラーにも頼んでみたけれど‥‥」
祈るようにテーブルの上で組んだ指が、強くぎゅっと握られる。やがて、意を決したようにコンスタンツェは顔を上げ、ジュスマイヤーを見つめた。
「あの人の『レクイエム』を、あなたの手で完成させて欲しいの。あの人の最期の場に居合わせたあなたなら、きっと‥‥図々しいお願いなのは、承知しているわ」
彼女の真摯な訴えにじっと耳を傾けていたジュスマイヤーは、やがてゆっくりと一つ、頷いた。
「‥‥わかりました。あの人と貴女の為なら、引き受けましょう。あの人から学んだもの、全てを使って完成させてみせます。だから、安心して下さい」
「ありがとう。あの人、優しい人だから‥‥このままだと多分きっと、気になって天国へ行けないと思うの。子供達が幸せに暮らせるように‥‥しないと、ね」
ランプの暖かい炎に照らされながら、コンスタンツェはジュスマイヤーへにっこりと微笑した。
「伯爵様の使いで参りました。『依頼』のものが出来上がる目処は付きましたか」
小柄な使者の少年が、胸を張って仏頂面で告げる。
「ええ、もう少し待って頂戴。必ず仕上げて、お渡しするわ」
何度目かのそんなやり取りを繰り返して、コンスタンツェは扉を閉めた。閉じた扉を見上げながらも、少年は督促用に作った表情を緩める。
どこか思い詰めた風に扉をじっと見つめ‥‥暫くそうした後、彼は断ち切るように踵を返し、夜の闇へと走っていった。
季節は巡り−−そして、待ち侘びた時がくる。
だが、コンスタンツェの前に現れたジュスマイヤーは、浮かない顔をしていた。
「生前に受けた指示やスケッチを守って、書き上げましたが‥‥とにかく、見てもらえますか」
歯切れの悪い彼の言葉を聞きながら、コンスタンツェは楽譜を手に取る。
黒いインクで書き連ねられた旋律。
曲自体は、素人の彼女からみても良く出来たものだった。だがその流れを辿るうちに、微妙な違和感を覚える。
「‥‥何かが、違う気がするんです」
彼女の違和感を見透かしたように、ジュスマイヤーは肩を落とした。彼も気になって苦悩していたのか、所作に憔悴の影が過ぎる。
「僕が学んだものは、全て注ぎ込みました。あの人以上の作品ではないけれど、決してそれ以下の作品ではない自信もありますが‥‥」
言い淀み、テーブルの上の楽譜の束をじっと見つめるジュスマイヤー。
そこへ、沈黙を破ってノックの音が響いた。
「‥‥また、督促ね」
重い腰を上げるコンスタンツェを、彼は慌てて見上げる。
「まだ、今は‥‥」
「ええ、判っているわ。もう少し、待ってもらうから」
扉へと向かう足音を聞きながら、ジュスマイヤーは深く嘆息し‥‥そして、ある事を思いついた。
「先生ならば、この納得できない違和感について判るかもしれないと思い、写譜を送ります‥‥か」
部屋の中を歩き回りながら手紙を読み終えたサリエリは、件の楽譜の束を手に目をやる。
モーツァルト亡き後、彼の弟子の一人であったジュスマイヤーは今、サリエリの弟子となっていた。
ジュスマイヤーが『レクイエム』完成の大役を受けたと噂に聞いて安堵していたものの、やはり以前の師の遺譜を完成させる事は、至難であったらしい。ただそれは、ジュスマイヤーが劣っている訳ではなく、モーツァルトのインパクトの強さと比べれば仕方のない事かもしれない。
僅かに躊躇った末にサリエリは写譜を手に取り、そのメロディを追い始めた。
●Stagehand 3 小休止
「今日のスポンサーさんからの差し入れは、『アプフェル・シュトゥルーデル』である」
ジャーンと効果音でも鳴っていそうな愉悦の表情で、レオンは白い箱を掲げた。
「監督‥‥それ、あくまでも消えモノであって差し入れじゃないわよ」
分厚い黒縁眼鏡の下で、目を細めて味美が苦笑する。
「小道具も‥‥出番が、終われば‥‥後は‥‥」
フォークを手にしたシャノーが、相変わらずのどこかぼーっとした気配の中にも、爛々とした気配のようなモノを輝かせていた。
それ以上は言わずもがな、である。
「ホントに、お菓子好きね‥‥まぁ、美味しい事に違いはないから、その気持ちは判らないでもないけど」
「そうであろう、そうであろう。ならば、早速お茶とするか」
「お茶の為に休憩時間をとるのか、休憩時間だからお茶なのか‥‥」
やれやれと、ぼやく様に重杖は呟く−−それが問題だ、と。
棒状のアプフェル・シュトゥルーデルは、一口で言えばアップルパイに近い。
アップルパイと違うのは、シナモンが効いており、林檎の他にクラムやくるみの様なナッツ類、それにアプリコットやレーズンといったドライフルーツを加えている点だ。
「これは、モーツァルトの好きなお菓子の一つだったらしいよ」
切り分けられたアプフェル・シュトゥルーデルの皿を配りながら、フィルゲンが毎度の事ながら薀蓄を披露する。
「もっとも、オーストリアでは焼きたてを切って食べる、普通の料理だけどね。肉や野菜で作る事もあるし」
「ああ。それ、パラチンケンも似てるね」
皿を受け取りながら、キリエが賛同する様に首を縦に振り。
「一応、パラチンケンも作っておいたんだけど‥‥食べる? アイスも買ってきてあるし」
ちなみに、パラチンケンもウィーンでは代表的な料理で、クレープ生地を少し厚くしたようなモノである。これもアイスやフルーツといった甘い物を包めばデザート系、肉や野菜を包めば一食分の食事に早変わりする。
「戴けるものなら‥‥なんでも‥‥」
きりっと表情を崩さず、シャノーが要求した。その様子に、ハツ子はいささか不安を覚え。
「シャノー、太るわよ」
「大丈夫‥‥です‥‥動いてますから‥‥」
そう言って、おもむろに用意していた別の箱も取り出す。
箱の中から現れたのは、艶やかな濃茶色が目映いチョコレートケーキ。
「それは‥‥ザッハトルテではないか」
首を傾げるレオンに、こっくりと灰色の髪を揺らすシャノー。そして、目の前にアプフェル・シュトゥルーデルとパラチンケンとザッハトルテの皿を並べて。
「‥‥では‥‥いただきます‥‥」
「ちょっと、全部一緒に食べるの!?」
愕然とするハツ子を他所に、シャノーは淡々と食べ始めた。やがて凝視されている事に気付き、皿をフォークで示す。
「ハツ子さんも‥‥食べますか‥‥?」
「‥‥ううん。ありがと、大丈夫。でも‥‥そんなに沢山食べるの?」
友人の好意を断りつつも心配そうに聞くハツ子だが、当の本人は平気な顔で口を動かしていた。
「‥‥日本でも‥‥お好み焼きをオカズに‥‥ご飯を食べる地域が‥‥ありますし‥‥」
「それは違うだろ。いろいろ」
反射的に重杖が突っ込むが、シャノーはどこ吹く風とばかりに、もしゃもしゃ食べ続ける。
「後で、調子崩すなよ」
嘆息して、重杖はアイスティーを皿の脇へ置いてやった。口の周りをザッハトルテのチョコで汚しながらも、彼女は黙々とフォークを動かし。
「‥‥美味しいです‥‥」
表情と言葉はいまいち合致していないが、本人は満足しているらしかった。
「美味しいわね。ちょっと取っておいて、あとの作業中につつきたいわ」
さくっとした表の皮と、フルーツやナッツの食感を楽しみながら、味美がまだ残っている分へ目を向ける。
「そちらの作業は、どうですか?」
尋ねる沙耶に、味美は一口分を飲み込み。
「小道具の仕事は、セットごとに置き換えていくだけね。後は使用後のチェックくらい。画像処理の方は、まだまだこれからね‥‥再現不可能な物でも簡単に再現できるんだから、便利な世の中になったものだわ」
笑顔の味美とは反対に、沙耶は困った様な笑みをしていた。
「小道具は手伝えそうですけど、パソコンの作業は‥‥難しいですね」
「うん。でもキリエさんも手伝ってくれるし、監督達も作業に来るしね。あたし達がソッチにかかる分、沙耶さんは重杖さんを手伝ってくれれば。ほら、掃除とか‥‥男の人だけに任せると、少し心配よね。その、重杖さんさんがどうこう‥‥という訳じゃなくて」
「ええ、判ります。そうですね‥‥細かい掃除とか、手伝えそうですね」
見つけた『仕事』に頷きながら、沙耶も古くからある菓子を一口食べた。
(「形も香りもなく。有ると恩恵を忘れるが、無いと生死に関わる‥‥」)
無心にフォークを握る手を動かしながら、ニライは正面に座る相手をじっと見つめ。
「確かに、生死には関わりそうだが‥‥」
「んん? どうかしたか?」
彼女の視線に気付いて問うた流に首を振り、皿へと視線を落とす。
だが再び、上目遣いで流の顔をじーっと眺め。
「なんだ、足らねーのか?」
「いや、これで十分‥‥」
一度視線を逸らして、また相手を窺う。
さすがに三度目となれば、流もそれ以上は聞く気は起こらず。
(「ま、いっか」)
気付かぬ振りをしながら、彼はアプフェル・シュトゥルーデルの酸味と甘みを楽しんだ。
●第3番−3 巡り合わせ
その日、彼女は夢を見た。
暖かい、在りし日の記憶を辿っているのか‥‥彼女の傍らで夫は優しく、だがどこか寂しさを漂わせて微笑み、愛しむ様に彼女の頬を撫でる。
「ヴォルフガング‥‥」
その存在を確かめるかの如く、彼女は頬の手に自分の手を重ねた。
天へ召されてから、一度も夢に現れる事のなかった夫の姿に、自然と涙が溢れてくる。
「ええ、私も子供達も大丈夫よ。だから安心して‥‥あなたもあなたの家族も、必ず私が守るから‥‥」
その日、彼女は夢を見た。
五線譜に旋律を走らせる彼女の傍らの気配に顔を上げれば、いない筈の友人がその譜面を覗き込んでいる。
彼は自分を見る彼女に気付き、表情を和らげた。寂寥感を纏った笑みと共に、彼女の髪の一筋に指を滑らせ、再び譜面へと視線を移す。
彼の指が、何かを示す様に五線譜の表面をなぞり。
−−そして、彼女は目を覚ました。
長椅子の端に腰掛け、指を組んで神に祈る。
そこへ、軋む音がして教会の扉が開いた。
振り返り、現れた相手に、コンスタンツェは驚かなかった−−あるいは、彼女が訪れる事を予感していたのかもしれない。
「お久し振りね、サリエリ。お元気そう」
「あなたこそ‥‥コンスタンツェ。少し、やつれたのではないか」
ちょうど、一年ぶりの再会。
モーツァルトの葬儀が行われた教会で、ようやく互いの悲しみを共有して判り合えたあの日から、一年が経つ。
改めて長椅子へ並んで座り、二人は愛した者の安息を願って暫しの祈りを捧げた。
「ああ、ヴェルゼック伯爵なら聞き及んでいる。才能ある作曲家に破格の値段で曲を依頼し、それを自身が作曲したものとして発表する‥‥あまり褒められない趣味があるな。しかし、あの『レクイエム』が伯爵の依頼だったとは」
「ええ‥‥完成しなければ、前金を返せ。返せないなら完成させろと、もうただその一点張りよ」
疲れた様に、コンスタンツェは溜め息混じりに告白する。
「だが‥‥彼の遺作を、違う者の名で世に送り出すつもりか」
「私も鼻持ちならないわよ、そんな事。だけど返せるお金なんてないから、『レクイエム』を完成して渡さなければならない事に変わりはないの」
コンスタンツェより近況を聞いたサリエリは、じっと椅子にもたれて考え込む。
「『レクイエム』を渡さなければならない事が揺るがないのなら、世に最初に送り出すのが伯爵でなければいいのか‥‥スヴィーテン男爵に頼ってみるよ。彼ならば、モーツァルトとも親しかったからな」
「葬儀を手配してくれた方ね‥‥でも大丈夫なの? あなたや男爵に、伯爵の圧力がかからない?」
サリエリは席を立ち、彼女を気遣うように見上げるコンスタンツェに笑んだ。
「そこは、男爵も上手く立ち回ってくれるだろう。もちろん、そちらにも累が及ばない形で、だ。それから、ジュスマイヤーの書いた『レクイエム』だが‥‥」
「出来上がったんですね‥‥」
知らせを受け、モーツァルト家へと訪れた使者の少年は、目の前の楽譜にしみじみと呟いた。
「ええ。だから、伯爵へ届けて頂戴。約束通り完成したのだから、残りのお金もお願いするわね」
後ろにひょろりと伸ばした髪を揺らして首を縦に振り、少年は主から預けられた金の入った小袋をテーブルの上に置く。中の硬貨がジャラリと音を立てた。そしてその手で楽譜の束へと手を伸ばし、それを取り上げ‥‥。
「ミセス・モーツァルト」
震える声に、コンスタンツェは怪訝そうな表情で少年を見る。顔を上げた少年は、その瞳に涙を浮かべ。
「これはあの人の曲です。あの人が命をかけた曲です。伯爵様に渡したら駄目です」
「あなた‥‥」
「次の奥様の命日に、伯爵様はこれを自分の曲だと言って指揮を取るおつもりです。だから‥‥だから! あの人の曲があの人の曲でなくなるなんて、そんなの嫌なんです」
「あなたは、優しい子ね」
膝を床につき、自分の子供のようにコンスタンツェは少年を抱きしめた。
「安心なさい。大丈夫だから‥‥ね。それから、お礼にいい事を教えてあげるわ」
●第3番−4 真なるレクイエム
そして、1月2日。
ある貴族の館にて、スヴィーテン男爵主催の新年を祝う席が設けられた。
招待客は男爵と懇意の者という小さなパーティには、コンスタンツェと二人の息子、そしてジュスマイヤーも招待され。
そして、メイン・イベントとして一つの楽曲が演奏される。
男爵より依頼を受けて指揮を取るのは、宮廷楽長サリエリ。
私設の音楽ホールを満たした演奏に、列席の最後尾に座ったコンスタンツェは目を見開いた。
指揮棒を振るサリエリへと目をやり、それから全てを悟って安堵した様に、瞼を伏せて夫の遺曲を聞く。
彼女の右隣には子供達と、使者の少年が座り。
左隣の席には黒髪の男が腰掛けて、じっと耳を傾けている。
彼からやや離れた席に座った始は、その様子にほっとした表情を浮かべて、後は美しい『レクイエム』の演奏に聞き入っていた。
「どんな鎮魂歌も自分を癒せない、と。かつて私は、そう思っていた」
演奏が終わると共に、幕が下りたように満ちた闇の中で、モーツァルトはそう呟く。
「愛してくれた彼女達の想いが、安らぎを与えてくれた‥‥という事だな」
その頬を、一筋の涙が零れ落ちる。
彼の言葉に、目を閉じて演奏を聞いていた始が顔を上げれば。
−−暗いピアノ室には、誰もいなかった。
●Stagehand 4 そして、時を経て繰り返す
「‥‥さて、次回で最後となる訳だが」
編集前のラッシュを見終えたレオンが、ぼそりと呟く。
「うん‥‥まぁ、このやり方には賛否両論ありそうだけどね」
がしがしと髪を掻きながら、フィルゲンが苦笑する。
「だが、『永劫回帰』な訳であるからな」
プランを書き留めた紙に目をやるレオン。そこには、こう走り書きがされていた。
最終回、永劫回帰交響曲 第4番−−現代編。