【LP】軌跡の始まりアジア・オセアニア

種類 シリーズ
担当 言の羽
芸能 1Lv以上
獣人 4Lv以上
難度 難しい
報酬 18.1万円
参加人数 8人
サポート 0人
期間 05/16〜05/20

●本文

 葛原みちるは、元女子高生女優である。この春に高校を卒業したので、はれて本職が女優となった。それまでは学業との折り合いをつけねばならない関係で受けられなかったような仕事も、積極的に受ける事ができるようになっていた。本人に意欲があるので、マネージャーは気合を入れて仕事を取ってくる。仕事があるのはいい事だ。
 だがその分、隙は増える。
 なるべくマネージャーが離れないようにしてはいるが、難しい面もある。例えば着替えの時。窓と扉に内側からみちるが鍵をかけ、扉の外にマネージャーが立つ事で何とかしのいではいるが。そして収録の最中。こればかりはどうしてもマネージャーとの距離が離れる。衆人環視とはいえ、有事の際にみちるの元まで駆けつけるまでのタイムラグが生じる。

 ――そう、こんな風に。

「危ないっ!!」
「きゃああああああああっ」
 最初に気づいて声を張り上げたのは誰だったろう。続いて女性スタッフの悲鳴がスタジオに響いた。
「え‥‥」
 誰もが自分の上方を見ている。
 不思議に思ったみちるは、彼らの視線の先を見た。光が近づいてくる。光――照明だ。天井にぶら下がっていたはずの、照明機材。それが近づいてくる。ゆっくりと‥‥いや、そんなはずはない。あれはとても重い物だ、ゆっくり落ちてくるはずがない。みちるがそういう風に感じているだけだ。
 自分に向かって落ちてくるのがわかる。避けなければならないと思うのに、体が動かない。
「葛原さん!!」
 誰かが腕を伸ばしてきた。そのままみちるの頭を抱えて、共に倒れこむ。
 直後にけたたましい落下音がして、みちるの体感速度も平常に戻る。騒然としているスタジオ内。救急車を手配する人や、みちるとみちるをかばってくれた誰かの上に乗ったままの機材をどかそうとする人。
「‥‥だい、じょうぶ‥‥?」
 みちるの頬に、何かの滴が垂れた。
「水元さん‥‥」
 水元良。みちると同年代の俳優。自分のほうが酷い怪我をしているその人は、頭部のどこからか血を流しながら、それでもみちるの安否を気遣っている。
「‥‥ごめんね」
「え‥‥」
 自嘲的な微笑を浮かべながら謝罪の言葉を漏らして、良は気を失った。

 ◆

「何か裏がありそうですね」
 病室内。半獣化を解きながらのマネージャーの言葉だ。
「裏?」
「機材の落下が人為的なものではないかという事ですよ」
 一角獣の証を引っ込めたマネージャーは、手櫛で髪の乱れを整える。寝台の上のみちるは不安そうな顔をしている。
「みちるちゃんを脅した近藤零夜さんは、どうやら目的の為には手段を選ばないタイプのようですしね。それに、彼に従っている水元良さんとみちるちゃんが一緒にいる時に事故が発生したんです。繋がりを考えないほうがおかしいですよ」
 それは推測の域を出ないものの、最も確率の高い論だ。
 だがみちるには納得しかねる論であり、故に彼女はマネージャーにくってかかった。
「けど、水元さんは私をかばってくれたんですよ!?」
 あんなに血を流していたのに、それでも疑うのか?
 彼女の言い分は理解できる。とはいえ、彼女がそう思う事すら計算のうちに入っている可能性もある。マネージャーも知らないうちにため息をついていた。
「‥‥私は事後処理がありますので少し席をはずしますが、内側から鍵をかけておいてください。もう少しでお母さんもいらっしゃるでしょうし、それまで安静にしていてくださいね。傷を治したといっても、あんな物の下敷きになったんですから」
「‥‥‥‥‥‥」
「皆、みちるちゃんを心配しているんです。わかってください」
 わかっている。わかっているけれど。
 やりきれない。疑いきれない。

 マネージャーが出ていった後、みちるは言われたとおりに鍵を閉め、そのまま扉に額をつける。精神的なものだろうが、体がだるく、頭が重くて仕方がなかった。
(「何であんな事をしたんだろう‥‥近藤さんも、水元さんも」)
 芸能界にはたまにある話だという、関係を持つとか、そういう事が目的なのだろうかとも思うが、それが一番の目的ではないようにも思える。もしそうしたかったのなら、先日の脅迫の時、デートなどというまだるっこしい事をせずにどこぞへ連れ込めば済んだのだから。
 何か、他に目的があるはずだ。
 ならば他に狙われそうなもの、価値のありそうなものが自分にあるだろうか――ここまで考えて、みちるはふと思い立った。良の血がいくらか付着したままの衣服、その胸元を少しはだける。大きくはないものの小さくもない二つの膨らみが見える。そして膨らみと膨らみの間には、鈍い銀色の金属片が、肌に刺さるように埋まっている。
「‥‥まさかね」
 自分でその思いつきを否定し、胸元を整える。
 と、扉がノックされた。
「あっ、はい!」
「‥‥葛原さん? その‥‥開けてもらえる、かな」
 マネージャーが戻ってくるには早すぎるから、母親か医師か看護婦か。そんな予想は外れたとすぐに判明した。聞こえてきたのは水元良の声だった。
「色々と、謝りたくて‥‥」
「わ、私こそかばってもらったのに――そう、ケガ! ケガは大丈夫なんですか!?」
 悲しそうな、苦しそうな声だった。頭の傷が痛むのだろうか。
 顔をあわせて礼を言わなくてはと、みちるはがちゃがちゃと鍵を開ける。‥‥開けてしまった。
 直後、力任せに開かれる扉。みちるが何か言うよりも早くぬっと伸びてきた手が彼女の口を塞ぎ、勢いそのまま仰向けに倒す。
「やあ。元気だったかい?」
 手の主は、近藤零夜その人だった。
「んんっ!?」
「驚いただろう。オレにじゃあ開けてくれないと思ったんでね、良に頼んだんだよ。あまりにすんなりと開けてくれて、嬉しい限りさ」
 零夜の体の向こうで、後ろ手に良が扉を閉めている。主に頭部に巻かれた包帯の白さが痛々しい。
 ばさり、と翼が開いた。零夜の背で。みちるが身近に感じる鷹の翼ではない。鳥の翼ですらない。伸縮性の膜でできている、蝙蝠の翼。
 何かをされると察したみちるは、零夜を押しのけようとした。だが半獣化した成人男性に勝てるほどの力は、彼女にはなかった。やがて、体を動かせなくなり、唇を動かせなくなり、眼球を動かす事すらもできなくなった。呼吸ができなくなったわけではない。意識もある。ただ能動的には何もできないだけで。
「良。窓を開けてくれ」
 半獣化を解かないまま、零夜がみちるの体を軽々と肩に担ぐ。
「飛んでいくんですか?」
「飛び降りるだけにしておいてやるよ。でないと、お前がついてこられないだろう」
 良は答えない。黙って窓を開ける。零夜も気にする様子はなく、さっさと窓枠をくぐった。
 半獣化した良が零夜の後に続けば、病室はもぬけの殻。みちるの母親が到着するまでは、静寂を体現し続けるだろう。

 外はもう、とっぷりと夜の世界だった。

●今回の参加者

 fa0510 狭霧 雷(25歳・♂・竜)
 fa0761 夏姫・シュトラウス(16歳・♀・虎)
 fa0911 鷹見 仁(17歳・♂・鷹)
 fa1206 緑川安則(25歳・♂・竜)
 fa1718 緑川メグミ(24歳・♀・小鳥)
 fa1889 青雷(17歳・♂・竜)
 fa3134 佐渡川ススム(26歳・♂・猿)
 fa4554 叢雲 颯雪(14歳・♀・豹)

●リプレイ本文

●情報収集と、錯綜
「強力な宝剣よりも、可愛い女の子の笑顔のほうが時にはレアなアイテムとなりうるか。メグミに銃口を向けられるなんて久しぶりだぞ」
 そう言って大仰に肩をすくめて見せたのは緑川安則(fa1206)だったが、直後、その顔が痛みにやや歪んだ。隣に座っていた緑川メグミ(fa1718)が義兄の尻をつねったようだ。
「しょーがないでしょう。みちるちゃんとその彼氏の恋愛成就は私の願いなんだから。それとも失恋してほしいってわけ?」
 きっと睨むような視線で彼女は安則を問い詰めようとする。
 すると今度は、狭霧 雷(fa0510)から待ったがかかった。
「メグミさん、その話は――」
 あ、とメグミが自分の口を押さえても時既に遅し。佐渡川ススム(fa3134)をはじめ、夏姫・シュトラウス(fa0761)、青雷(fa1889)、叢雲 颯雪(fa4554)が耳を大きくしていた。雷は頭痛がするのか、額に手を添えている。
 そんな彼らの注意を、テーブルを叩く音がひきつける。叩いたのは鷹見 仁(fa0911)。
「恋愛なんてプライベートな話、本人の許可なくするものじゃないだろう。ここは情報交換の場じゃなかったのか?」
 一見冷静なようで、その実一番、気が気でないのは仁だろう。彼こそがみちるの彼氏なのだから。しかし芸能界という特殊な世界に属する二人の仲を公にするには、幾つかの問題がある。その問題を解決しないうちはできる限り秘密にしておかなければならない。今もすぐに飛び出していきたいところを、ぐっと堪えているのだ。
 上座の一人用ソファに座っているみちるの養父、徹が、やれやれと息を吐いた。
「簡単に情報を漏らすような奴に今回の事を頼むのは気が進まないんだが?」
「すみません、徹さん。後できちんと言っておきますので」
 すかさず雷がフォローする。何故雷に言われなくてはならないのかとメグミは思ったが、自分に非があるのは確かなので、ふくれっつらのまま引き下がった。

 まず問題なのは、誰がみちるをさらったか。犯人として最も有力なのは、俳優・近藤零夜とその後輩・水元良だ。仁から先日の脅迫騒動について聞かされた面々は、容疑者が容疑者たる所以に納得する。
 雷はみちるのマネージャーに電話をかけ、零夜と良の所在を彼らの所属プロダクションへ確認するように要請する。また、夏姫が病院に行って面会者リストを覗いてくるというので、うまく事が運ぶようにナースステーションとの交渉役として、みちるの養母・霞が付き添う事となった。ススムも、みちるをかばって入院中であるはずの良の様子を見についていった。彼らの行動が完了すれば、やはり推測の域は出ないながらも、犯人はほぼ確定されるだろう。
 だが脅迫、そして誘拐の目的がいまだに不明な事には悩まざるを得ない。
「何か、誘拐犯から要求は?」
「それがないから困っててな」
 誘拐という非人道的な行為に憤慨する颯雪が徹に尋ねるも、徹は首を振るばかり。何らかの形で連絡があればそこを糸口にできるのだが、それすらもできないのだ。
「徹さん。犯人の目的は‥‥みちるさんの抱えてるオーパーツですね?」
 電話を切った雷が、唐突と感じられる問いかけをする。戸惑う颯雪の視線にも惑わず、雷はじっと探るように徹を見据えている。
「‥‥どこからそういう話が出てくるんだ」
「要求がないという事は、みちるさんを手に入れられれば十分だという事でしょう。仮に犯人が近藤零夜だとして、彼がみちるさんの母親について知っている理由‥‥芸能関係でというのは可能性が薄い。となれば、残る可能性は裏稼業。後はまあ、私の想像です」
 その目を見たくないのか、徹は大げさに前髪をかき上げた。
「お前と話してると、時々あのマネージャーを思い出すよ」
「かもしれませんね」
 不本意ながら、と雷は苦笑で返した。

 高層ビルの屋上。ここでならそうそう人目にもつくまいと、仁は完全獣化で臨んでいた。高校時代に使っていた地図帳を広げ、小さな円錐のついた首飾りを取り出す。そしてもう一つ、片翼を模したペンダントも。
 片翼というからには対となるペンダントがある。自分がみちるに贈ったそれは、今も彼女の首に下がっていると、彼は信じている。
 6分間念じ続け、閉じていた瞼を開く。円錐はただ風に揺れていた。
「‥‥くそっ」
 円錐が能力を発揮する確率はやや低い。今回依頼を受けた者の中で最も魔力の高い仁であっても4割に満たない。
 気持ちばかりがはやる。落ち着かなければと思いつつ、彼は鳴り出した携帯を受けた。
『そっちはどうだい』
 安則だった。彼も別の地点から同様の方法をとっている。
「1回でどうにかなるとは思ってなかったけど、ってとこだな」
『そうか。まあこっちも似たようなものだ。根気勝負だな。私は適度にメグミと交代するから、君も何回かに1回は休んだほうがいい。君がみちるちゃんを心配するように、君に何かあれば彼女も君を想って心を痛めるだろうからね』
「わかってるさ」
 用の済んだ携帯をしまい、再び念じ始めた仁の奥歯が、痛むほどにきしんだ。
「‥‥守るって、言ったんだ」
 どうにか円錐が動いたら地図の縮尺を変え、また念じる。何度でも、何度でも。彼女を取り戻す為ならば。

 病院の面会者リストには、零夜の名前はなかった。恐らく、みちると同じように入院している事になっているはずの、良の面会者リストのほうに名を連ねているのだろう。さすがにそちらのリストは見せてもらえなかったが。ちなみにみちるも良も、対外的には面会謝絶となっている。
 零夜と良の所属プロダクションからは、零夜は休暇中で良は入院中との、まるで判子のような回答しかなかったらしい。そう伝えてきたマネージャーは、しかし、電話の向こうがやけに慌しく感じたとも教えてくれた。落下した機材を吊っていたコードが人為的に切断されていた事も。
「水元さんと話ができれば、状況を掴みやすかったんだけど‥‥」
「仕方ないさ。頭から血がどくどく流れてたっていうんだから」
 苛立っているのか爪を噛む颯雪。ススムがひょうきんに肩を持ち上げてみせるが、その顔つきは瞬時にひきしまる。
「――まず間違いなく、近藤零夜と一緒にいるだろうがな」
「その‥‥警備員さんが‥‥犯行時刻のあたりに駐車場を出て行く車を見かけたそうです‥‥。‥‥でも、さすがに‥‥車種までは‥‥」
「車で移動しているとなると厄介ですね。かなり遠くまで行っている可能性がありますよ」
 卓上に並ぶティーカップの中身は冷めきっている。喉の渇きすら忘れるほど、各自が切迫しているという事だ。
「悪いが、そのまさかだ」
 丁度よいタイミングでサーチペンデュラム使用組が戻ってきた。地図帳の、折り目のついたページがカップの横で開かれる。赤ペンで記された円の内側は、どう見ても地方の山間部だった。

●捕らわれの彼女の元へ
 のどかな山間の農村に、一台のトラックと4台のバイク、小型GTが乗り込んでいく。農村には珍しすぎるその一団は山を覆う林のほうに進み、山師達の為の駐車場らしき空き地に並んで停車した。
「本当にこんな所にいるんですかね」
「十中八九ね。ペンデュラムの動きから割り出されたのはこの地域だもの」
 バイクから降りた青雷のぼやきに、トラックから舞い降りたメグミが答える。
 そもそも青雷は誘拐犯をとっちめる為、正義感から依頼を受けたという。のどかな農村、しかも仲間はその誘拐犯とまず交渉すると言っているのが、彼には納得がいかないようだ。
「みちるさんがどんな目にあわされてるか、わかったもんじゃないのに‥‥」
「それは私だって考えないわけじゃないわ。でもただ突っ込んでいく事よりも、彼女の無事を確認するほうが先なのよ」
 人質の安全が最優先。ならば折れなければならない部分もあるという事だ。
「‥‥あ、あの‥‥あそこの家の庭を、見てください‥‥」
 双眼鏡を覗いていた夏姫が、同様に双眼鏡を覗いていたススムを呼んだ。
「‥‥随分とご立派な車だな。こんなのどかな所には似合わないくらいに」
 ススムが双眼鏡の先を変えてみると、レンズの向こうに一台の車が見えた。

 夜まで待つという手もあったが、都会と違って真に真っ暗になってしまうだろうという事から、彼らはそのまま歩いていった。ただし二班に分かれ、片方の班は遠回りとなる道を選んだ。
「すいまっせーんっ!!」
 正面玄関で声を張り上げたのはススム。彼の横や後ろには雷、夏姫、安則、青雷、颯雪と、囮という割には結構な大人数だった。一人の老婆と連れ立って奥から出てきた零夜が呆れるほどに。
 そして零夜の姿を確認するなり、ススムは膝を折り、その場で土下座した。
「頼む、ドラマに出演させてくれ! 役者としても名を上げてぇんだ!」
 厚かましい芸人を演じているのだが‥‥芸の技術はあれど、芝居の技術はというと特筆すべき点はない。つまりは、芝居を本業としている零夜から見れば児戯に等しいものだった。
 それだけではない。安則はともかく青雷と颯雪の目つきが尋常ではなく、雷は心中でため息を吐いた。無理だろう、と。そしてその通りだった。
「なるほど、彼女の両親は人を雇ったわけだ。よくここがわかったね」
 そう言いながらも場所が判明した理由にはさして興味がなさそうに、零夜は、玄関を塞ぐ全員の顔を見ていく。

 顔を覚え終わった零夜がふぅん、と唇の端を持ち上げた頃。2階の窓のひとつに、翼を生やしたメグミが張り付いていた。一枚のガラスで隔てられた窓は鍵がかかっているだけで、網戸はなくカーテンも端に寄せられている。室内は丸見えで、古ぼけた箪笥や机が置かれており、ベッドには両手両足を縛られたみちるが転がっていた。
 軽く窓を叩くとみちるも気づいたようで、うねうねと動いている。鍵を開けようとしているのだろう、しかし無理そうだ。
 裏口側から飛んできた仁が首を左右に振る。窓を割る事も可能だが、音をたてずに割る方法は思いつかない。
 早くしないと――。焦ったみちるは、受身も取れない格好のまま、ベッドから落下した。
「葛原さん?」
 廊下に続くだろうドアが開き、頭部に包帯を巻いた良が顔を出した。みちるもメグミも仁も、すぐさま零夜を呼ばれると思った。けれど良は室内を縦断すると、窓の鍵を開けた。
「‥‥行って」
「水元さ――」
「早く」 
 躊躇うみちるをよそに、彼女を救い出そうと仁が窓をくぐって中に入る。良はうつむいていたが、かまわず仁は彼に声をかけた。
「体を張ってみちるを助けたことには礼を言っとくよ。だが」
 良の体が一瞬浮いて、箪笥にぶつかった。仁がきつく握り締めた拳で良を殴りつけたのだ。
「その為にみちるを危険な目に遭わせたな。二度とするな」
 そのまま箪笥にもたれた良はやはりうつむいていて、何の反応も返さない。けれど仁も気にしない。怪我してるのにと咎めるみちるを横抱きにして、窓から出ようとする。
「ちょっと、玄関の雰囲気が怪しいわ。急いで」
 急かすメグミに生返事の後、もう一度だけ振り返る。
「もし‥‥零夜に逆らえない理由があるなら、言えよ」
 良を気遣う言葉ではない。みちるがまた良を信じて、そのせいで心を痛めないように。その為の言葉だった。

 みちるを抱いた仁が窓を出た時、玄関では丁度、老婆が取り押さえられていた。
「自分のおばあさんなんでしょ、なんでこんなっ」
「ばあちゃんは俺に罪悪感を抱いてるらしくてね。俺の言う事は何でも聞いてくれるんだ。いいだろう? ああでも、捕まってしまったら意味がないね」
 実の祖母を壁にした。信じられない行動に怒りを燃やす颯雪へ、零夜は非常な笑顔で油を注ぐ。耐えられなくなった青雷が、半獣化により現れた角で貫こうとするが、ひらりとかわし、二段飛ばしで階段を上っていく。
 みちるを連れて逃げるつもりだったのか。しかしそこにはもうみちるはいない。代わりに、うなだれる良が。
 零夜に戦う意思が見られない事に、安則が舌打ちする。獣化を止める能力は完全獣化にしか効果がない。逃げるだけなら、今零夜が出した翼だけで事足りる。翼を出すだけならそれは半獣化でしかない。
 とはいえ、飛べる者ならこちらにも複数名いる。追いかける事は可能だ。みちるももう安全なのだから、人質は――
「さて、こうすればどうかな」
 零夜は、良を抱え、頭部に手を添えた。力を込めれば傷口が開き、白い包帯が紅に染まると容易く想像ができる。
「追いかけてこないでくれる?」
 睨み合う。
 良は誘拐の片棒を担いだ。そんな奴を守る必要がどこにある。そう考えたらしい颯雪と青雷が床を蹴ろうとして腰を落とし、上半身をやや傾ける。すると零夜も手に力を込めて、爪を良の頭部に食い込ませていく。良が呻いて血が包帯に滲む。
 このままではまずいと判断した雷は颯雪と青雷を下がらせようと腕を伸ばし、その隙に、零夜は良を抱えたまま窓枠をくぐった。
 追いかけようとすれば追いかけられるだろう。その為の能力がある者はいるし、回復薬もある。
 ただし、良の顔からみるみる血の気が失せていく様など、みちるには直視できようはずがなかった。
「やめてぇっ!」
 涙を滲ませ、彼女は懇願する。
「私は無事ですから! もういいんです、追いかけなくていいですから! でないと水元さんがっ!!」
 彼女にしてみれば、良の傷は自分を守る為に負った傷。それがもとで更に良が傷つけば、彼女のほうが先に参ってしまいそうだった。
 心優しいゆえの、弱点。
 彼女をよく知る者達は、それがどれだけ彼女を苦しめるかを知っている。つまりは、追撃を、断念せざるを得なかった。