陰陽―氷の標アジア・オセアニア

種類 ショート
担当 姜飛葉
芸能 2Lv以上
獣人 1Lv以上
難度 普通
報酬 3万円
参加人数 8人
サポート 0人
期間 11/30〜12/04

●本文

●依頼
 香月と鋼牙は、桃の繋ぎから新たな依頼を受けに、貴族屋敷を訪れていた。
「急に呼びたてて申し訳ない」
「いえ‥‥」
 短くも異例とも言える切り出し方。
 身分高い貴族の嫡男が、術士風情に形式上とはいえ詫びる言葉を述べるのだ。それほど、事態は重いのだろうかと香月は思った。
 そんな内心など表に出す事も無く、次の言葉を待つ。
「我が家にも少々詳しい者がいるのだが、やはり腕の確かな者に依頼するのがな‥‥」
「なるほど。それはわかりますが‥‥どのような?」
 先を促すように訊ねれば、依頼人である貴公子・将成は静かに扇を閉じては、開くをくりかえすと、やがて、ちらりと側に控えた男を一瞥する。
 得たりと頷き、視線を受けて話し始めたのは、以前香月と鋼牙へ依頼を持ってきた誠という名のこの屋敷に仕える男。
 先頃から、当家の姫君の様子がおかしいのだという。
 元より貴族の姫にしては破天荒で型破りな姫だった、菫という名の姫が大人しくなったのなら、貴族の姫君らしくなったということなのだろうと鋼牙辺りは思ったかもしれないが。
「怯え方が尋常で無くてな。こう言っては何だが‥‥元気なだけが取り得な姫でね。姫自身は、何もないよう振舞っているつもりのようだが、あれで中々わかりやすい。乳姉妹として育った女房が幾ら取り成してもだめ。誠がいうには、もののけの仕業だろうと言うのだが‥‥」
 鬼退治を見物に行こうとまでする姫が怯える事態に、ただの物の怪で済めば良いが‥‥と、物憂げに小さく息を吐いた。
「以前、都を騒がした鬼退治を見事成したお前達ならば、姫の気鬱の元を正してくれるのではないかと」
 自身が依頼した鬼退治を見事果たした香月と鋼牙対する将成の信頼は厚いのだろう。
 香月は屋敷の天の梁を見上げた。
 菫姫の事は覚えている。
 鬼退治見物に屋敷を抜け出すほどの型破りな姫君が、気鬱の病で伏せるなど、普通であればあり得ない――何かがあるのだろう。
 それに、香月には菫姫の部屋がどこであるか教えられずとも、一目で分かった。
 貴族屋敷の造りがどうという問題ではない。
 どこか覚えがある陰気が濃く屋敷内に漂っていたのだ。
「承りましょう」
 香月が応じたことで、将成は目に見えてほっと安堵する様子をみせた。
 常に静かな香月の顔に、決して楽な仕事ではないという色を、鋼牙だけは見つける事は出来たのだろう。
 退屈はしないで済みそうだと、冬の訪れを告げるかのごとく暗い灰色の空を見上げ、鋼牙は皮肉げな笑みを浮かべていた。


●報せ
「‥‥‥‥‥‥」
 凍女は、ふと瞳を瞬かせた。
 違和感は一瞬の事。気のせいといってしまえば、それまでの一瞬。
 けれど、何かが気になった。
「如何した、凍女?」
 しわがれ甲高い耳障りな老爺の声が問うた。
「‥‥‥‥‥‥」
 老爺・雷老の問いに、凍女は視線を僅かに下げる。
 何でもないと答えようとし、答えられない違和感に更に何かが冷たい凍女の心に静かに降る。
 雷老に答える事無く、目の前に建つ朱陰の塔を見上げた。
 彼女らが仕えるべき主を迎えるその塔は、闇に霞み歪む異質な塔。
 その塔の像に、白い何かが重なった。目を瞠り、凍女は過ぎったその影を探す。
 命を分けた妹の存在を。
「‥‥‥‥たかが人に、何を執心しているのか‥‥」
 心当たったのは、妹が執心していた人の子の存在。
 彼女らの秘密を知るものは少ない。並みの術士ならば妹が後れを取ることはないであろう。
 けれど――封じられてしまえば話は別だ。
 そして執着する人の子の繋がりには、彼女らの秘密を知る術士の存在があった。
 そのような高等術をかの術士が使えるかはわからないが、どう転ぶかもわからない。
 注意はした。かといって捨て置く事もできない。
 凍女は、改めて人の魂を集め築いた塔を見上げた。
 1度人の術士らに阻まれ崩れはしたものの、再び塔は形を成していた。もう少しなのだ。
「‥‥‥‥雷老」
「なんじゃ?」
「暫し、塔については頼む」
 雷老が頷くやいなや凍女は、その場から瞬く間に姿を消した。


■今回のドラマの主軸構成
氷女との決着戦、屋敷で即董の気麓の元凶と対決になります。
事前準備等の時間は無いので、場に対しての大掛かりな術は不可。
凍女の乱入タイミングは役者にお任せ。乱入なしでも可。
その他妖怪の加勢はもう1本のシナリオに出ている妖怪以外は可とします。
こちらに出ている場合、もう1方に出る事は不可です。
決着戦に焦点を当てそれ以外までスポットを当てる事は難しい。
時問内での決着を。
決着、結末については役者にお任せとなりますが、勝敗がつくようにしてください。
妖怪サイド、人問サイド、どちらが勝っても構いません。
相容れない存在同士ですので、敗者側は死亡しえます。
 慧と桃、風遊と巴の決着戦、2シーンが中心の回となる。
 慧と桃の2人がどのような道を選ぶか、風遊と巴がどのように決着をつけるかで次回以降の物語の流れが大きく変わる事を理解した上で、演じ物語を作り上げる事。
 放映時間内に纏まるよう構成し、シナリオを組みドラマを作り上げる事を最優先とし、既存に出ている設定から逸脱しない範囲で役者らの役作りに一任するものとする。


■募集配役
既に出ている設定と齪歯吾が出なければ、自由に演じて可。
・鋼牙:野武士。長大な野太刀を扱う。
・香月:術士。符を用い戦う事を得手とする。

・菫姫:貴族の姫君が振舞うべきでない見本の集大成のような型破りの姫君。
・誠:菫姫の乳兄妹で屋敷の雑役。様々な事になぜか詳しく、幼少時から屋敷に仕えるため内外の事を取り仕切る。
・彩:菫姫の乳姉妹で誠の妹。菫付の女房をしており、菫の信頼は厚い。
 すっとぼけているが観察眼に長ける。
・将成:菫の兄。若くして有能な貴公子。菫を案じている。

・氷女:氷の妖怪で凍女の妹。自由気侭な性質で氷妖としては異端。菫姫に執心している。
・凍女:妖の女。揺らがぬ感情、変わらぬ面をもつ凍えた女。氷女とは2人で1つの命を共有している。

※その他の役は、シナリオに応じて求めるものとする。
 配役に関しては可能な限り埋める事。
 後日撮影予定で、今回の話と並行の時間軸となる『陰陽―黄昏に交わる』で配役となる以下の人物については当シナリオにおいての出番は無しとする。
・慧
・風遊
・桃
・巴
・桃を気に掛けている存在
 上記以外の役は使用可能だが、『黄昏に交わる』にて配役されていた場合『氷の標』への出番は時間軸に齟齬が出ない範囲のみとなる。

●今回の参加者

 fa0117 日下部・彩(17歳・♀・狐)
 fa1276 玖條 響(18歳・♂・竜)
 fa2764 桐生董也(35歳・♂・蛇)
 fa3081 チェリー・ブロッサム(20歳・♀・兎)
 fa3567 風祭 美城夜(27歳・♂・蝙蝠)
 fa3691 姫月乃・瑞羽(16歳・♀・リス)
 fa3742 倉橋 羊(15歳・♂・ハムスター)
 fa3831 水沢 鷹弘(35歳・♂・獅子)

●リプレイ本文

●CAST
 香月:風祭 美城夜(fa3567)
 鋼牙:桐生董也(fa2764)

 菫姫・氷女(二役):姫月乃・瑞羽(fa3691)
 誠:玖條 響(fa1276)
 彩:日下部・彩(fa0117)
 将成:倉橋 羊(fa3742)

 凍女:チェリー・ブロッサム(fa3081)
 流:水沢 鷹弘(fa3831)

 鬼公子:安曇野 敬司郎(fz1034)


●備え
「なんで私が‥‥もう一人‥‥誰か‥‥助けて‥‥」
 さめざめと泣き伏す様子は、かつての生気溢れる健やかな菫の面影を留めていなかった。
 気鬱に心は病み、心が病めば身も損う。
「貴族の姫らしく病を得て大人しくなるくらいが丁度良いと憎まれ口を叩いた事もあったが‥‥」
 窶れ弱った妹の姿に、将成はかつての忌言を悔いた。
 その上で「頼む」と繰り返し、香月と鋼牙に願う。
「無論、承った以上力を尽くしましょう」
 静かに頷く香月の声は力強く。将成は安堵するように瞳を伏せる。
 鋼牙は野太刀を手に押し黙ったまま、屋敷の庭苑を睨むように見つめていた。

「あんたも来るのか?」
 誠の持つ情報と『菫姫の姿を映す妖』の話を加味し、符を選ぶ香月の傍らで、鋼牙は彼らの側を離れぬ将成に問う。
 確認の形をとってはいたものの、言外に危険だから来るなという意味を込めての硬い声。
 鋼牙の頭の中では、香月が定めた敵の姿を思い浮かべ、迎え撃つ算段が立てられている。
「姫を護るに邪魔ならば下がろう。しかしどんなじゃじゃ馬だろうと、あれは私にとって大切な妹。危険だからと一人安全な場所で息を潜めている訳にはゆくまい?」
 さりとて将成も引く様子は無く、鋼牙に応じた。
 半ば一方的な睨み合いは数瞬のこと。
 将成の決意に鋼牙は口元を歪め笑った。
「姫の気鬱を晴らす役目に、安全は買われてないんだぜ?」
「それこそいらぬ忠告ぞ」
 貴族の御曹司にしては強い意志を持つと、香月はじゃらりと音を立てる粒が入った袋を数えながら屋敷に漂う気配を見上げる。
 周到に備える間はないように思えた依頼も、運気は彼らに流れ込んでいるかのように思われた。


●宣言
「今日で最後‥‥あの姫も力を随分そがれているはず。今なら簡単に‥‥あの力があれば私と姉様は‥‥」
 姉にたしなめられる事を承知で菫の元へ通うのも今日で最後になるのだから‥‥と、その先にある自分達の事を思い浮かべ、くすりと笑み零した。
 氷女は、菫を単に獲物として気に入っていたわけではなかったのだ。
 通い慣れた屋敷への闇路を、氷女は菫として軽やかに歩む。
 もう少し、あと少し。


●再会
「姫様‥‥?」
 聞いてはいた。けれど、眼前に立ち笑む少女は、彩が腕の中へと庇う仕えるべき主人そのものだった。
「そう、私は私を迎えに来たの。邪魔をしないでね、彩」
 にっこり笑った表情は、何か悪戯を思いついた時の活き活きとした菫の笑顔そのもの。
 瓜二つの顔が並ぶ異様さに彩は眉を寄せた。
 同じように血を分けた兄の将成すら、菫が怯えていた『自身の影』とも言うべき姿に驚きを隠せないでいた。
 だが、誠だけは違った。静かに怒りを湛えた瞳で眼前の妖を睨みつける。
「なんと‥‥真に菫姫の姿を取っているとは‥‥侮辱か」
「違うわ、私が本当の菫。怯え弱り縮こまる‥‥そんなの私ではないでしょう?」
 胸に手をあて己を指し示し笑う菫姫は、彩の腕の中で怯え震える彼女よりもより『本物』らしく見えた。
 生気に満ち溢れた爛漫な雰囲気を纏い話す様は、菫そのもの。
「そう思わない? ねえ、兄様? 誠?」
 菫が笑みを浮かべ手を伸ばす‥‥姿に、誠の中で何かが弾けた。
「姫を愚弄するにも程がある‥‥!」
 誠の手に在る淡い燐光帯びた刀が伸ばされた手を払い、なお『菫姫』を弾き飛ばした。
 菫のため役に立ちたいと香月に願い、破邪の力を付与された刀は本来の切れ味以上に『菫姫』へ効力を表したのだ。
 庭木が乾いた悲鳴をあげ、折れ倒れる。
『菫姫』が吹き飛ぶ様子をただ見極めるように眺めていた鋼牙の視線の先で、ゆらり菫の姿をした――氷女が立ち上がった。
 裂けた衣から覗く白い腕に走る裂傷をぺろりと舐める‥‥家屋から庭めがけ叩き落された泰然とした表情は貴族の姫らしからぬもの。『菫姫』はなお口元に笑みを刻む。
 微笑のままに、上げられた腕が振り下ろされ、生まれた氷礫の烈風が戸外に立つ鋼牙と誠へと襲い掛かった。
 しかし、それは長大な野太刀の一振りから生まれた衝撃波に散らされ、氷女は小さく肩を竦める。
「今日は泣きつく姉は一緒じゃないのか?」
「『私』を迎えに来るのに他の誰かが必要かしら?」
 ニヤリと笑み挑発するように鋼牙に太刀を突きつけられながらも、笑い零す菫の顔に憂いは無い。
 倒されない事は無いと高をくくっているのだろう、姉を揶揄しながらの鋼牙の連撃を相手にしながら臆する事無く、菫が居る場所へ近付こうとする氷女。
 誠に刀先を突きつけられても、なおその笑みは消えない。
 主を立てる剣術を披露する誠の腕は、鋼牙を立て間隙を許さず氷女を追い立てたが、二人を相手にしても決定的な一撃を避け、むしろそれすら避けられれば軽い傷は見る間に癒えるのだから、身を庇わぬ攻手に転じる氷女は厄介な相手だった。

「妖め‥‥連れて行かせるものか!」
 力がない事は自覚している将成は、それでも身を賭し菫を庇い護ることに終始し戦況を見守る。
 妖の影響下にあるであろう事は想像に難くない菫の傍らに寄り添う彩は将成の背越しに氷女の姿を見て胸を抑えた。
 ずっと、何があろうと菫の側についているつもりだった。出来るだけ負担をかけないよう配慮をしながら。
「香月様と鋼牙様がついています。あの時のように、妖などあっという間に退治して姫の病気も治してくださりますとも。‥‥大丈夫です。元通りになるのも、元気すぎて困りものですけれども」
 励ますように震える菫の身を抱きしめる。
 そう、以前のように困らせて。こんな哀しい困るではないいつもの菫に‥‥。
 懐剣を内に忍ばせながら、彩はただただ祈った。
 誠が無事願いを果たせるよう、将成の願いが叶うよう――香月と鋼牙を信じ頼んで。
 元気で天真爛漫、貴族の姫らしからぬ‥‥何よりも菫らしい菫が帰って来てくれるように。

 鋼牙の野太刀から逃れ、誠の刀に追い立てられ菫に近づけなかった氷女に、焦りの色は無く。
 ただただ状況を楽しんでいるように見えた『菫姫』が大きく瞳を見開き、滑るように切っ先を逃れていた歩みが止まった。
 それを鋼牙が見逃すわけもなく、野太刀の背を思い切り叩き込んだ。
 部屋から大きく引き離されるように庭苑の端へと吹き飛ばされた『菫姫』の像が揺らぎ、白い女の影が露になる。
「ようやく本性が見えたか」
 油断無く距離を詰める鋼牙が笑う。
 その傍らに立った香月をこそ、氷女は見上げた。
「配下も連れず一人とは‥‥その身の奇異に過信したな、氷妖よ」
 ぎりと歯噛みし睨み上げる氷女は、腹部を押さえている。
 傷つかぬ筈の身の痛みが和らがぬ事に腹を立てているのか、それとも‥‥。
 菫がいるであろう寝所家屋を見遣れば、気配が霞み捉えきれない。
「‥‥結界を張ったのね。張れたのに今まで張っていなかったのは‥‥」
「逃れられては、姫君の気鬱も晴れまい? 覚悟は良いな?」
 香月の手に握られていたのは爽やかな香気放つ青竹。
 その中に収められているのは、粗塩と煎り豆、そして灰にした符。
「まさか‥‥」
「その身だけで迷い出たこと、未来永劫悔いるが良いぞ」
 咄嗟にあたりを見回した氷女が視たものと、只人である誠の目に映るものは違うのかもしれない。
 笑みが消え、焦りにも似た表情が浮かぶ。
 力の発露を試みようと、転がり逃れるように香月の前から駆け出す氷女を縫い止めるように鋼牙の野太刀がその身を抉る。
 その間に香月の術は結び‥‥唱えられた文言が氷女の身を縛り付けた。
『先なき哀れな種よ、己が花実を咲かすまで我封じたる禍な息吹の蘇りを――禁ず』
 術の完成と共に、氷女の姿がその場から消えうせる。
 彼女が居た証は、その場に残る氷の跡だけ。


●宿業
「姉様‥‥生きて‥‥私の分まで‥‥、でもこれで姉様も自由‥‥に‥‥」
 封じられる直前に氷女が成し遂げた事は、逃れるための足掻きではなく、姉のためだった。
 半ば以上菫から奪っていた彼女の命にも通じる生気と己が持つ力の全てを姉に譲り渡す事‥‥封じられる己の中にあるよりも、それは姉を助けるに違いない。
 氷女の敗因は、命を共有する姉の存在。自身1人だけ傷つけられたところで死なぬという身の過信。
 何より、3将たる姉に及ばぬとはいえ、力が大きく劣るわけではない高妖といえる彼女自身を封じる事ができる力量をもつ術士の存在が稀有であるがゆえに、香月の力量――人の縁故を見誤った事だった。
 鋼牙と誠を相手取る間に、香月が成していた事は大きかった。
 けれど、氷女の最後の行動‥‥二つに分かれていたものが一つになるという事は――。


●晴れぬ霧氷
 香月の手に在った竹筒は、縁の寺に預けられる事で決着をみた。
 各地を旅して歩く彼らが持ち歩くわけには行かないと告げたからである。
「何度体験しても怪異は慣れるものではありませんね」
 菫の身はそう呟く彩の腕に抱かれ眠り続けていた。
 気鬱の元が払われたのだから、きっと元の元気な姫に戻ってくれるはず‥‥と、彩は願いにも似た想いを抱え胸を抑える。
 眠れぬ日々を過ごしていたのだろう菫に訪れた穏やかな眠りを遮るわけにはいかないと見守る時間。
 ただ変わらず昏々と眠る菫を見ていると、安堵しつつも何故か終わりではないような胸騒ぎを覚えるけれど、それは菫が目覚めぬからそう思うだけなのかもしれないけれど言い聞かせて。
 そんな彼女の願いが通じたのか、腕の中の菫が身じろぎし、彩は安堵の息を吐いた。
「姫様、お気づきになられたのですね。もう大丈‥‥」
 安心させるよう微笑み語りかけた彩を見上げ、菫は不思議そうに瞳を瞬かせた。
「‥‥あれ? ばあや、ちちさまがきてくださったの?」
 驚く彩に笑いかけ、身を起こした菫は将成へと手を伸ばす。
 彩を『乳母や』と呼び掛け、傍らに座す将成を『父』と、菫は呼んだ。
 己を覗き込む者らの顔を順繰りに見遣り、やがて誠に目を留めた菫は小さく首を傾けた。
「お前はだあれ? あたらしい、いえのひと?」
 嗜み深い貴族の姫らしからぬ菫の爛漫さは其処に在った。
 けれど年相応の姫君ではなく。
 そこに居たのは、あどけなく幼いばかりの童女のような表情を浮かべ、拙い言葉を話す『菫であって菫ではない』――菫の心が欠けてしまった幼い心しか持たぬ姫だった。


●冴え凍る女
 彼女が思った通り、人間達は動いた。
 彼女の目的の妨げとなった術士は、今また彼女の力を削いだ物をあっさりと手放したのだ。
 彼女――凍女が望むものを。
 封印に絶対の自信があったのか、あるいは放浪の身で帯びる事を懸念しての事かは凍女らには知る由も無かったし、元より理由など関係なかった。
 取り戻すに易い場所にある事が大切だったのだから。
 だが、思うように使えぬ力に凍女は眉を寄せる。
 美しい顔が曇る様に、凍女が伴った従僕は困ったように凍女に語りかけた。
「氷女さまいない。凍女さま悲しい。おれ、凍女さまの役に立つ。だから‥‥」
 舌足らずな口調。しかし、凍女らの役に立ちたいという純粋な響きがあった。
「‥‥流」
 巨体を見上げ凍女が名を呼べば、呼ばれた事が嬉しいと流は笑う。
「ニンゲン殺せばいいんだな。おれ、働く」
 果たして流は忠実に、凍女の思うよう行動した。
 法力をもつ修行僧らが声をあげ、互いに補いながら現れた巨妖を排除すべく寺や塔から駆けつける。
 僧らを氷女の封印された品が収められている場所から遠ざけるように惹きつけながら、流はよく戦った。
 知恵の足りぬ巨妖がそれを成し得たのは、ただただ凍女ら姉妹への忠誠心に他ならない。
 しかし、いかな巨妖といえど、非力な人間とはいえ修行を積んだ密僧らを相手に、知恵をもたぬ彼が長く対抗できるわけはなかった。
「おれ、凍女さまの役に立てた‥‥かな‥‥」
 倒されゆくというのに、巨躯に似合わぬ笑みを浮かべた流が見上げた空の色は鈍く重い、冷たく凍える冬の空。
 大きな音を立て地面に伏した流の身がさらりさらりと崩れ消えていった。
「‥‥十分だ、流」
 半身たる氷女が封じられた事で、力が思うように扱えぬ凍女を、流はよく助けた。
 忠実な僕が倒れる様を遠くから振り返り見届けるように立っていた凍女はそう応えた。
 流の崩れ落ちる身体の周りで騒ぎ立てる人間達を冷たく見つめる凍女の手には氷の欠片にも似た結晶。
 内と外で1つの願いを結び、容易に解けたかの如く、枯れた荒れ野に落ち転がっているのは、香月が氷女を封じたはずの竹筒だった。
 それを取り戻すに十分な役目を果たした従僕を誉める声は相変わらず冷たいものだったが。
 忠実な部下と引き換えに、己の半身を取り戻した凍女。
 結晶は半身の手にあることを喜んでいるかのように綺羅と光を放つ。
「‥‥元々私達は同じモノ。惹き合う力は封印でも止められはせぬ。‥‥今こそ一つに」
 凍女の言葉に応えるように、結晶はとろりと凍女の手の上で溶け、崩れた。
 冷たい身内に生まれ起こるモノ‥‥今まで以上の力を感じ、凍女は瞳を伏せた。
 元より彼女らは、二人で一つの命を共にし此処まで在った。
 それが一人で一つの命となる‥‥それも良いだろう、と凍女は思った。
「私達はこれからもずっと一緒だ‥‥氷女。共に鬼公子様の為に在ろう」
 揺らがぬ凍てついた女の閉ざされた瞼から、澄んだ雫が流れ落ちた。