舞台は極狭〜悲劇上演アジア・オセアニア

種類 ショートEX
担当 龍河流
芸能 2Lv以上
獣人 フリー
難度 やや難
報酬 不明
参加人数 8人
サポート 0人
期間 07/05〜07/11

●本文

 その店は、地下一階にあった。広さは横が三メートル五十センチ、奥行きが八メートル程度。天井は幾らか高くて二メートル八十センチ。床は板張り、壁と天井はむき出しのコンクリートだ。
 このたいして広くはない店の中の入口横には、横幅一杯三メートル近く、奥行きを一メートル五十センチ取ったカウンターがある。客席面積は正味が横三メートル五十センチ、奥行きが六メートル程度のもの。壁際にはアップライトのピアノがある。
 しかも、喫茶店と看板を掛けているが、この店は靴を脱いで上がり、座卓を囲んで飲食する形式だった。メニューは軽食を揃えた喫茶店というところ。
 常連客に小劇場系と呼ばれる劇団関係者が多いが、マスターは人間で、もちろん獣人なんてものがこの世に実在するとは考えてもいない。店はつい最近まで、タイトルに獣人と入った特撮番組のロケ先として使用されていたのだけれど。

 特撮番組の撮影も一段落し、すっかり普通の営業時間に戻った店のカウンターで、常連客が一人コーヒーを飲みながらくだをまいていた。年の頃三十代半ばの女性、化粧品を取り扱う会社の偉い人らしい。割とお金持ちだが、一風変わった趣味をしていた。
 それは。
「最近、好みの舞台が見付からないわ。マスター、何か情報ない?」
「情報といわれても‥‥王女メディア張りの悲劇でオリジナルの芝居なんて、年に何本も出てきませんよ。嫌いではありませんがね」
 悲劇大好き、なのだ。それもリア王のような古典名作の悲劇より、オリジナルの物が好き。ぜひとも初演を楽しみたい。そういう非常に珍しいタイプ。
 幾らなんでも彼女のためだけに悲劇を書いてくれる脚本家も、演じてくれる劇団もないので、悲劇大好き心はなかなか満たされない。仕方がないので古典名作を梯子したりするのだが‥‥ストーリーが分からない新作を熱望する気持ちは収まらなかった。
 今日も今日とて、マスター相手に愚痴っていた彼女だが、思わずこんなことを呟いた。
「誰かやってくれないかしら。夏のボーナスから二十万出してもいいんだけど」
 マスターも彼女も、この店の常連演劇人達から会場費や諸々に掛かる費用の工面がどれほど大変かは聞いている。二十万で希望を叶えてくれる劇団はないのは承知の戯言だ。
 双方、そう承知していたはずだが‥‥
「ねえ、マスター。前にここで劇やったわよね?」
「ええ。あの時は現代ものだったから、衣装も自前でやってくれて、そういう費用はそんなに掛かりませんでしたよ」
「要するに、お礼よね」
「あの時は、他の劇団の人達が付き合いでチケット買ってくれましてね。その日の売り上げもいつもより良かったんで、それでお礼しましたよ」
「具体的に幾ら?」
 カウンター越しにごにょごにょ相談していた二人は、しばらくすると電卓を取り出してなにやら計算を始め、互いに頷きあった。
「誰か来てくれるといいわね」
「まったくです」
 この翌日から、喫茶店の壁には『オリジナル悲劇の舞台作成者募集』の張り紙が出された。

 募集要件は、
『オリジナル悲劇の上演を行ってくれる演劇人、経験不問。
 脚本、演出、音響、照明、演技者をすべて募集。
 上演内容はオリジナル初演の悲劇であること。設定その他は制限なし。
 謝礼金は、一人二万円確約。当日の売り上げにより増額あり』
 演じる場所は、もちろんこの店の中なのである。

 店内は江戸間換算で最大十七畳(カウンター内込み)。通常客席部分は約十二畳。この中で客席スペースを考慮した舞台設営を行う。
 店内には演劇向けの照明・音響設備なし。持ち込みは可能だが、あまり電力消費が大きいとブレーカーが落ちる。
 当日の客は四十名前後が見込まれている。客寄せは他の常連が行っているので必要ない。

●今回の参加者

 fa1478 諫早 清見(20歳・♂・狼)
 fa2544 ダミアン・カルマ(25歳・♂・トカゲ)
 fa2564 辻 操(26歳・♀・狐)
 fa2604 谷渡 うらら(12歳・♀・兎)
 fa2764 桐生董也(35歳・♂・蛇)
 fa3081 チェリー・ブロッサム(20歳・♀・兎)
 fa3159 妃蕗 轟(50歳・♂・竜)
 fa4068 癸 なるみ(19歳・♀・兎)

●リプレイ本文

●開幕前
 喫茶店『琥珀館』のマスター森野晴彦と常連客藤堂千晶の企み‥‥ではなく、要望に集まった八人は、なかなか多彩な顔ぶれだった。最年少は中学生の谷渡 うらら(fa2604)、学生は他に諫早 清見(fa1478)がいる。うららんは日頃から子役として活動しており、キヨミはアイドルだ。
 更に演劇関係者ではミュージカル俳優のチェリー・ブロッサム(fa3081)とオペラ歌手の妃蕗 轟(fa3159)がいて、マルチタレントの辻 操(fa2564)がこれに加わる。今の御時世、マルチタレントといえども演技力皆無ではない。なかなかに期待できるメンバーだった。
 演出は本職の桐生董也(fa2764)が努め、小道具作成はダミアン・カルマ(fa2544)が担い、音響はこれも専門の癸 なるみ(fa4068)がいる。演出担当のトウヤと小道具のダミアンはこの『琥珀館』での特撮ドラマ制作に関わっていたので、店の作りには詳しかった。
 このメンバーに千晶は大層喜んだし、マスターも機嫌よく店の品物を使ってよいと言ってくれた。更に二人が『これは期待できる』と吹聴したので、当日のチケットもよく売れた。
 人材、その配分、チケット売り上げ、出資者の機嫌とすべてがうまく行っていた『悲劇の上演』だが‥‥
 オリジナルという点が、大問題だったのである。

 時代は近未来。戦争中の避難シェルターの中の出来事。なにしろ舞台袖もなければ、衝立の設置も難しい場所なので、登場人物は退場するまで舞台に上がりっぱなし。場面転換は暗転を使用するとしても限界があるので、背景は変えずに済むことを優先するとこうなるのは仕方がない。
 ご要望は『悲劇』なので、分かりやすいのは登場人物が次々と死亡すること。全滅かどうかは後で決定するとしても、せめて半数を超える人数は死亡させるべき。挙げ句に生き残った人間にも希望は与えない‥‥
「明るい曲より、緊張感のある曲が多くなりそうですが、やはり落差を出すのに明るい曲も必要ですよね」
 何がいいかしらと、イメージを巡らせているのは音響担当のなるみだ。おおまかなイメージでもある程度目星を付けておかないと、演出に合わせて曲そのものの細かい調整なども必要になるので、彼女は忙しい。合間に店内のスピーカーの有無を確認して、古いタイプのCDコンポのみだと分かると自分のターンテーブルを持ち込んできた。
「その置き場も考えて、舞台設計しないといけないね」
 ダミアンはサッカーの祭典で母国が敗退したと嘆きつつ、シェルターのイメージ画を起こしている。内装に手を加えるのは最小限だが、イメージにあわせた小道具作りのための作業らしい。時々皆に見せては、あれこれと必要になりそうな小道具を考えている。
 だが。
「ウィルス感染だったら、アンドロイドが残る理由になるだろ?」
 立ち居振る舞いが優雅な割に、ざっくばらんな口調のチェリーが、死亡理由に『ウィルス感染』を挙げている。ヒロインのアンドロイドは彼女の役柄の予定だ。
「確かにウィルスなら、死亡時間がずれるのも無理のない設定でしょう。医者や科学者が出てくるのも、それらしい雰囲気になると思いますよ」
 病死ならオペラで経験がないでもないしと、轟も『ウィルス感染』案に寄っている。こちらは脇役だが、シェルターについて重要な情報を持っている科学者あたりの配役を予定している。何かと設定を示す台詞が多くなりそうなので、演技力が高い彼が適任だとトウヤが判断したのだ。
 とはいえ、トウヤが『ウィルス感染』に今ひとつ頷かないのは。
「ウィルスだと、何か問題でも? どうしても引っかかるって顔してるけど」
 ミサがマスターからのサービスのコーヒーを飲み干したところで、トウヤに尋ねた。彼女はどういう死亡理由でも構わないのだが、シェルターが潰れると全員一緒にお陀仏なので、ウィルスか凍死くらいだろうと思ってはいる。他に殺しあうのも一案だが、うららんがいるのにそれはさすがにまずかろうと、全員が早々にその案は捨てていた。
 その中で、キヨミは案外とおとなしく皆の意見を聞いている。演劇経験が乏しいというか、ほとんど初舞台を踏む状態の彼は、恋愛要素を入れる都合でヒロインの相手役に抜擢され、少し緊張しているようだ。だが、ふと不安になったらしい。
「ウィルスだと、俺が感染源だから、演技的に厳しいとか?」
 対して、サンドイッチを摘まんでいるトウヤは。
「いや、それはない。ここは飲食店だから、どうかと思ってな。あとウィルスネタは、番組で散々やった後だから、イメージが重なる」
「獣人ドクターズ、だよね」
 自身が子供向け特撮番組『ぷにっと海賊団』に何度も出演しているうららんは、他の同種番組の名前も詳しいようだ。『獣人ドクターズ』は深夜番組なので、実際に見たことがあるかは別。
 問題は、その番組も『ドクターズ』とついているだけあって、ウィルスがどうのこうのとやった挙げ句に、この店でロケがされていた。現在最終回に向けて、話も急展開中。
「それは駄目だな」
「時間もないから、凍死に決定しましょ」
 それならどういう風に役作りをするかと、悩み始めたチェリーとミサは、今度はウィンナーコーヒーを貰っている。トウヤもコーヒーを追加。
 なるみとダミアンは冷たいものを頼んだらしい。直前まで、話し合いから抜けてコンポの移動を試みていたからだろう。
 うららんと轟には、かなり豪勢なパフェが運ばれてきた。うららんはまあイメージ通りとして、轟も相当の甘党らしい。
 まあ、劇中で親子の轟とうららんが仲良く同じパフェを食べている姿は、そこだけ見れば微笑ましい。劇が悲劇でなかったら、もっと良かっただろうが。
「凍死って、寒くて死んじゃうわけだから、お化粧はどうしてもらうといいのかな?」
 アイスクリームの冷たさに顔をしかめたうららんが、立ち直って役作りを始めている。
「とにかく、配役の行動の流れを決める。それぞれイメージ作りはしてくれ。台詞はある程度その場で作ろう」
 全員の顔合わせから、内容を決定して脚本を作り、練習をして、最初の通し稽古と本番が何時間差しかない、とんでもない悲劇の上演。これを成功させるには、まず内容を決めるまでの時間短縮が大事だった。
 初舞台状態のキヨミがあたふたしているが、他の四人は慌てない。経験の差にキヨミが嘆いたかどうかは不明だが、腹の据わり方は彼も大して変わらないので、今回集まった役者はかなり当たりだったと言えよう。
 トウヤがこれは本職ではない脚本に頭を悩ませている頃、ダミアンとなるみはそれぞれ必要な品物を揃えに店から飛び出していた。

●悲劇上演
 床に置かれたライトだけが点灯している室内に、硬い合成音が響いた。緊迫感をはらんだそれは、なんらかの警報の音だ。
『この地域に対する攻撃を確認しました。住民は速やかに最寄りのシェルターに避難してください。避難後は軍からの通信指示に従い、救助部隊の到着までは、これまでの避難訓練同様に協力し合って過ごしましょう』
 こちらも合成されたと思しき女性の声が、同じ内容を何度も繰り返す。
 明滅する非常事態を知らせる赤いライトの下で、何かが詰まれた上に横になっていたものが、すうっと起き上がった。迷う様子もなく壁際に辿り着くと、部屋が明るくなる。
「避難命令が出たのなら‥‥誰かがこのシェルターにも来るはずね」
 ふわふわとした緩いウェーブの掛かったプラチナの髪に碧の瞳の女性が、扉のほうを窺う。するといかにも重そうな扉をゆっくりと開けて、女の子が一人顔を覗かせた。赤茶の髪を頭の左側に寄せて一つに結い上げ、ちょっと薄めのワンピースを着ている。少し煤けて見えるのは、ここまで来る間に汚れたのか、それとも着ているうちについてしまった落ちない汚れなのか。顔立ちは元気そうで、先客の女性を見て笑顔になった。
「お嬢ちゃん、一人なの?」
「ううん。マリィね、パパと一緒なの。マリィ・ホンダです。よろしく」
「あら‥‥私はエレナ・ホンダというの。よろしくね」
 二十歳程度に見えるチェリーと、中学生になるやならずのマリィが、おかれている状況にそぐわぬ挨拶をしているところに入ってきたのは、マリィの父親と言うには年嵩の男性だった。大分心もとなくなった黒い髪に、目は青、体格は見た目の年齢の割によい。エレナを見て、ほんの僅かに渋い表情になったが、コウジロウ・ホンダと名乗った。手に下げているトランクは、随分と重そうだ。
 マリィがエレナをしげしげと見上げている中、更に足音がしてもう二人、扉の中に滑り込んでくる。途端に聞こえたのは、シャッターが落ちるようながしゃんという音だ。
「三人だけ? 少ないのね。シェルター閉鎖も早かった気がするけれど、この地域はそんなに人口が少なかったかしら」
 金髪を長く垂らして、くっきりした化粧で際立たせた青い目に、コウジロウとほぼ差のない身長の女性が、室内を見渡して眉を寄せた。その後ろから、もう少し背の高いアッシュブロンドに黒い目の青年が、ちょっと首を傾げてから口を開く。せかせかと室内に入ってきた彼は、左足を少し引き摺っていた。
「二本向こうの通りに、大型のシェルターがあるからそちらに逃げたのかもしれないよ。あ、僕、井坂清吾。この足は前線でやられちゃってね」
 地域巡回中の医者であるナガセと、その護衛を勤めていた清吾が、それぞれに名乗る。巡回を終えて本隊に戻る途中の避難だから、荷物は少なかった。服装もナガセはパンツスーツの上に徽章のついた白衣、清吾は別の徽章がついた作業服のようなものだ。
「軍人さんなんだね。救助部隊の人って、いつ頃来るの?」
「他のシェルターの様子も確認して、怪我人が多いところから助けに行くから、ここはちょっと時間が掛かるかもしないな。でもほら、食べ物もちゃんとありますって学校で習っただろ? お菓子もあるはずだよ」
 探してみようかと、マリィの無邪気な問い掛けに清吾が応じている。それぞれに名乗りあった他の三人も、細々とした避難用の品物や室内の設備の確認を始めた。
「このシェルター、他所に比べて狭いみたいだけど‥‥地域の人は何か聞いている?」
「初期の設置なので、現在主流の形式よりは大分小型だ、と聞いた。この人数なら、問題はないだろう」
 ナガセが今ひとつ不安そうだったが、清吾とマリィ、エレナが食料品と毛布を引っ張り出してきたので、それ以上の追求はしなかった。すでにシェルターは閉鎖されていて、軍の救助部隊が来るまではここで過ごすしかない。コウジロウが言うとおり、たった五人の避難者なら、別に問題はないのだ。
 だが。
「いいわよ、ママでも。ただし、ママのいうことは聞かなきゃ駄目よ。好き嫌いは許しません」
「でもさー、エレナってどう見ても僕とたいして変わらないし。マリィのママは無理があるって」
 シェルターにおいて、一番問題なのは避難した者同士のトラブルだ。たった五人でもトラブルが起きない保障はないが、目の前のそれはナガセとコウジロウに日々溜息をつかせている。
 マリィが、エレナを早くになくなった自分の母親の写真にそっくりだと言い出し、コウジロウが散々娘に同意を求められて頷いた。名前も同じホンダで、実は遠い親戚かなどと笑っていたうちはよかったが。
『ママって呼んでもいい?』
 と、マリィが言い出したあたりから、清吾とマリィの間に緊張が漂っている。
「ま、あれだけ美人でよく働くし、気立てもいいとなりゃ、清吾でなくても参るだろうね。若い男が他にいなくてよかったよ」
 五人でやっていたはずのすごろくから、毎度の話題でエレナを挟んでもめ始めた『お子様達』を横目に、ナガセはコウジロウにウィスキーの瓶を差し出した。二人とも、小さなカップでアルコールを舐めている。
 ウィスキーの酌を受けたコウジロウは、まあなとあまり気のない返事をしながら手を動かし、娘を呼んだ。
「すまん、マリィ。『右隣の人のコマを、五つ戻す』になった。戻しておくぞ」
「えー、パパのせいで、マリィ、もう八つも下げられたー!」
 ぷーっと膨れたマリィは、ちゃっかりエレナママの膝の上だ。清吾があからさまに面白くなさそうな顔付きだが、子供相手に本気になっては大人気ないと思っているようだ。彼はコウジロウとナガセからある意味お子様扱いなのだが、幸いにも気付いていない。
「さて、僕の番。‥‥『正面の人のコマと位置を変える』って、ビリのマリィとか?」
「お兄ちゃん、ありがとー。お夕飯の時はママの隣に座ってもいいからね」
「どうして私の隣なの? マリィじゃなくて」
「お兄ちゃん、ママのこと好きなんだよねー。ほら、赤くなったー」
 きゃいきゃいと騒いでいたマリィが、小さな音を聞いて立ち上がる。簡単な調理が出来る設備を使って、エレナと作ったパウンドケーキが焼きあがったからだ。手伝ってとせっつかれて、清吾も二人と一緒に裏のほうに消えていき、飾りに使う真空保存果物はどれがいいかと賑やかに話している声がする。
 残ったコウジロウが、ナガセに向き直る。
「今のうちに、聞いておきたいことがあれば言ってくれ」
「ないわよ。清吾だって、エレナに気が向いてなきゃ気がつく。助けが来るのが遅すぎるってね。負けが込んでいるか、この地域が放棄されたか、通信が届いていないか、シェルターの機能が壊れたか」
 知ったところで、自分が直せるわけではないからと、ナガセは冷静だ。コウジロウもこれには拍子抜けしたようで、それでいいのかと尋ねなおしたのはしばらく経ってから。
 あっさりとナガセに頷かれて、少し迷ってからこう口にした。
「まず、戦況が悪い。この地域への攻撃が完全に止まないので、他のシェルターにも救助は向かっていない。そしてこのシェルターは、空調機能が壊れかけている」
 話しこんでいる彼らも、パウンドケーキを取りに行った三人も、着ているものは長袖厚地の上着だ。座る時には毛布を敷いて、更に人によっては膝にも掛ける。避難所としてまともな温度が保たれていないのは明らかで、ナガセはこれにも驚かなかったが‥‥
「それと、このタイプのシェルターは一度閉鎖されると外部操作でしか開かない」
「‥‥それはそれは」
 せいぜいお嬢ちゃんに気付かれないように、気を付けてやるしかないか。ナガセはアルコールをあおって、のんびりとそう言った。コウジロウが僅かに安堵の表情を見せたのを横目に、さいころを振る。
「お。六が出たわね」
 そこにぷんとアルコールの香りをさせて、マリィが戻ってくる。てへっと笑って、ナガセにパウンドケーキを差し出すが。
「あのね、ブランデーケーキにしたら、お酒の量を間違えちゃったの。ちょっと多かったけど、いいよね? パパ、マリィもこれ食べてもいい?」
「すみません。私も作りなれていなくて、すごくたくさん入れちゃったみたい」
 エレナも困ったように、ドライフルーツか何かの入ったパウンドケーキを清吾に渡しながら座る。コウジロウから、今回だけと許可をもらったマリィは、生の葡萄のほうが好きと言いつつケーキを食べて、しばらくすると寝入ってしまった。
「これは、酔っ払えるかも‥‥あったまっていいけどさ」
 清吾も頬を叩きながら、更にウィスキーの水割りを舐めていた。アルコールの力を借りても払いきれない寒さが、シェルターの中に漂っている。やがて彼も、他の皆も壁にもたれたり、横になって寝ていたが、ふと目を覚ましたのは誰かが側に来たからだ。
 皆に新しい毛布を掛けて回っていたらしいエレナが自分にも同じようにしてくれたのに気付いて、清吾はその腕を掴んだ。
「エレナって、体温高いんだ」
「そうかしら」
「そうだよ」
 最初左手首を掴んだ清吾の手が、少し下がってエレナの手を握る。右手だけだったものか、左手を添えて、今度はその左手がエレナの右肩まで伸ばされて、宙に留まった。
「足を怪我した時はなんで僕がって思ったけど、今はまあ得もしたからいいかなって、前向きになれた」
 少し首をかしげたエレナの肩にそっと手を置いて、視線をあちこちに揺らしながら、清吾は何か言い出そうとしては、言葉を選びかねて迷っている。
「隣に座ってもいいかしら? 前かがみだと疲れるから」
「‥‥ごめん」
 隣と言っても、間にマリィが入れそうな間隔の開いた距離で座った二人は、しばらく何を言うでもなく常夜灯を眺めていて‥‥ようやく、清吾がエレナを見た。
「もうちょっと近くに寄ってもいいかな?」
「‥‥どうぞ」
 少し腰を浮かせて、エレナのすぐ隣まで移動した清吾が、彼女の肩を抱いた。最初は緩く、徐々にきつく。
「救助部隊が動き出したって聞いた。ここから出たら、マリィのママは止めて、僕の側にいて欲しい」
「‥‥でも、私‥‥」
「一緒にいて欲しいんだ」
 ぐいと、それまでの壊れ物を扱うような動作が一転して、清吾がエレナを抱き寄せる。彼女の肩に顔を埋めた清吾の頭をそうっと抱えるエレナの表情は、どこか切なそうで、でもほのかに微笑んでもいた。
 その後に続いた囁き交わす言葉は、誰の耳にも届かない。ただ二人のためだけの会話。
 けれども。
 マリィ手書きのカレンダーに並ぶ数字に、幾つもの×印が並んでいた。五人全員の顔から赤みが抜け、頬は随分と白っぽい。
「パパ、ママがもう一人いる。あの人、ほんとのママかなぁ」
 マリィが誰もいない方向を指して、コウジロウに訴えるのももう数え切れないほど繰り返された。父親の腕の中に抱かれて、小さな体が細かく震えている。彼女の視線が向くのとは違う場所で、ナガセが手にした体温計を言葉もなくしまう。
「静かにしてあげて」
 シェルターの扉をこじ開けようと悪戦苦闘を繰り返していた清吾とエレナに、ナガセが声を掛ける。無闇と拳を叩きつけていた清吾は、叩くのを止めても扉を押していた。エレナはそんな彼と、マリィとコウジロウを交互に見やっている。
「ママがこっちって‥‥パパ、あっちから出られるみたい。お日様、見られるよ」
 行こうと促されたコウジロウが、分かったと何度も頷いて、娘の頭を撫でている。やがて。
「そうだね、行こうか」
 ナガセとエレナ、清吾の三人が注視する中で、コウジロウが声を絞り出す。嗚咽を堪えた、奇妙に平坦な調子の声だった。
 むせび泣いているコウジロウの背後で、ナガセがずるりと床に腰を落とした。エレナに支えられて、なんとか苦笑するが、唇は真っ青だ。
「あの子の前で倒れるのは嫌だったからね。でも、気が抜けると駄目なんだよねぇ」
 振り向いたコウジロウに『ごめんよ』とウィンクを一つ送り、ナガセはエレナに寄りかかった。
「自分の診断だと、まだ二日くらいは持つはずだけど」
「そんなこと言うなよ。もう少しで助けが来るのに、ナガセさん、お医者だろ!」
「そうだね。じゃ‥‥しばらく、エレナは借りようかね」
 エレナが暖かいと、ナガセが悪戯めいた笑みを浮かべた。
 だがやがて、ナガセも何も言わなくなり、通信は繋がったり繋がらなかったりして、救助はそこまで来ているはずなのに、どうしても助けは届かない。
「私は構わない。娘も妻もいないのに、今更残ってどうするのかね。電気系統の扱いは覚えたな? 通信室だけに電力を集中すれば、いかに救助が手間取っても、二人くらいはどうにかなろう」
 なぜかエレナに頼むと言い、『もう眠りたい』と清吾の声を振り切ったコウジロウは壁に寄りかかったまま身じろぎもしなくなった。ただ表情は穏やかだ。
 そうして、通信室に入った清吾とエレナだったけれど。
「熱が‥‥あるの?」
「ちょっとあるかも」
「これはちょっとなんてものではないわ。薬を、早くっ」
 先程までと打って変わって、真っ赤な顔の清吾がナガセの遺した鞄を取り上げようとしたエレナを抱きしめた。ぜいぜいと荒い息が、ようやく言葉を紡いでいる。
「通信が、また途絶した‥‥もしもの時は、君一人だけでも‥‥いや、僕は別の姿になって側にいるから、きっといるから、一緒に生き延びて」
 エレナの腹部をそっと押さえた清吾は、にこりと明るい笑みを浮かべたが、後の言葉はもはや意味を為していない。だから、エレナがこんな時にも泣いていないこと、今まで一度も泣いたことがないことも気付かなかった。
 何か見えないものを見て、楽しそうな呟きを漏らしていた清吾の声が途切れると、エレナはその体を毛布で包んだ。もう一枚掛けてやるために立ち上がって取りに行こうとして、不意に膝が崩れる。
 通信機から、人の声が途切れ途切れに届いたのはその時。
 そして、その声に合成音が答える。
『当シェルターに生存者はありません。救助活動は不要です』
「やめてぇっ! 間に合うかもしれないのよ!!」
 エレナの叫びに、通信機からの声が大きくなった。けれどもエレナは通信機までの僅かな距離が動けない。合成音は、なおも繰り返した。
『当シェルターに生存者はありません。支援アンドロイドは活動中に機能障害を起こしました。当シェルターは活動を停止します』
「私は、彼と、皆と生き延びると約束したの。‥‥私を、嘘つきに、しないで‥‥」
 エレナの声がざらざらとした雑音をはらみ、その動きがギクシャクとしたものに変わる。けれども彼女は通信機まで這って辿り着き、手を伸ばして。
「私は‥‥」
 シェルターのすべての電源が、落ちる。

●閉幕後
 カウンター内に入って、小道具から消え物と呼ばれる食品系まで、適宜舞台になっている場所へと送り出していたダミアンは、無事最後の暗転を迎えて安堵した。が、途端に震え始める。
 客席の端で、音響と照明を役者の動きに合わせて取り回していたトウヤとなるみも、最後の暗転から徐々に照明を戻しつつ、歯の根が合っていない。
 これは舞台と言うには小さな、カウンター前の空間に再登場した役者陣も、観客も同様で。挨拶を済ませた後、うららんが『さむぅい』と叫んで店の扉を開けに走る。
「マスター、あんたは何を考えているんだ」
 エアコンのリモコンを手に、反対の手で涙を拭っているマスターの森野に、トウヤがどすのきいた声を投げかけた。見た目の迫力も十分な彼にすごまれれば震え上がりそうなものだが、マスターはまだ感動の渦の中にいるらしい。その横では、出資者の千晶が人目もはばからすに鼻をかんでいる。
「暖房してください。本当に凍死しそうです」
 途中から、舞台上から蹴りだされた毛布に包まって作業していたなるみが、歯をカチカチさせながらリモコンに手を伸ばしている。見た目は闊達でも、けっこう人見知りしがちな彼女にしては、珍しい態度だ。
 しかし、店内は本当に寒かった。役者陣が段々顔色が悪くなっていったのは、化粧でもなんでもなく、本当に寒かったから。演技上厚着の彼らが寒いくらいだから、普通の夏の服装だった観客達の気分は凍死寸前だ。
 なるみが一時的にでも暖房をいれ、ダミアンが大急ぎで沸かしたお湯で入れた紅茶を配り、トウヤがマスターを説教する中に入って『やりすぎ』と断じなかったら、何か大変なことが起きていたかもしれなかった。
 とはいえ、観客も大半が演劇畑の人間達なので、喉元過ぎると今度は転んでもただでは起きない人達に変貌する。あっという間に、感想、批評が乱れ飛ぶ。
「あー、最後にあそこで暗転するのかいいわ。全然望みがなくて!」
 中でも熱演ありがとうと大変喜んでいる千晶の着眼点は確かに変わっているが、うららんと役柄いささか薄着だったチェリーは仲良く店の外で休憩していてこの場にいない。付き合わされたキヨミは目を白黒しているが、ミサと轟は動じない。冷房過多は予想外だったが、まずは出資者の希望が叶ったことを喜んでいた。キヨミには、まだ到達できない地点だ。
 やがて、前回の劇上演同様に懇親会と銘打って、皆で飲食が始まる。夏だが温かいものがよく売れる。
 だが。
「誰がそんな演出をするか。観客が倒れたらおおごとじゃないか」
 トウヤは、マスターが冷房を『八度』に設定していたので、まだ頭がくらくらしている。もうちょっと広くて、何かと融通が利く場所なら舞台の展開にあわせて温度を調整するのもありかもしれないが、素人はやることが徹底しすぎている。いや、普通の素人はここまでやらないし、それなりの演劇知識のある人なのだが。
 他の演出家と額をつき合わせて、熱いコーヒーを飲みながら、トウヤは唸っていたそれもしばらくのことで、すぐに同じ脚本で別演出だったらどうするか‥‥と言う話に移っていく。
 なるみも知らない人達に囲まれて、しばらく固まっていたが、こちらはこちらで音響関係だったり、使っていた曲名を教えてくれという内容なので、徐々に打ち解けたらしい。合成音の作り方を解説したり、別の方法と教えてもらったりと忙しくなった。
 でもなんだか、途中までは車座に座った全員で大きなボウルに張ったお湯の中に手を入れて暖を取っていたりしたのだが‥‥
「マスターからリモコン取り上げたかったけど、うまい具合に君に隠れててさ」
「すみません。途中で貸してくださいってやったのに、気付いてもらえなくて」
「気付いてたわよ。千晶さん、途中でリモコン隠してたもの。あの人、服装なんかを舞台に合わせたりする人だから」
 本人が台本も演出も関わらないから安心していたのにと、なにやらすごいことを聞かされて、なるみは『人は見かけじゃない』と認識を新たにしていた。見た目だけなら、千晶はいかにも出来るキャリアウーマンだ。
 その頃ダミアンは、当人希望の茶坊主をしながら、作った小道具を弄り回されていた。次に使うあてがあるものではないし、それほど凝ったものも、頑丈なものも今回は作っていないので、好きに弄らせている。そのうち解体されるだろうが、そうなったら意見を聞かせてもらいたいところだ。
 しかし。
「俺は、演劇は厳しいとよく分かったよ」
「初めてにしてはよく出来ましたよ。初々しい感じが出てましたよね」
 配膳の手伝いを始めたキヨミがカウンターで料理を受け取りつつ、ぽろっと漏らした泣き言に返して、ダミアンは苦笑してしまった。エレナ役のチェリーとの二人きりのシーンを評したのだが、本当に照れながらやっていたらしい。本職と違うのに、よく頑張ったと思っていたが。
「まあまあ、今時演技も出来るアイドルのほうが展望が開けますから、いい経験だと思って」
 言ってから、何か間違えたかもしれないと、ダミアンは思っている。
 だが。
「脚本決めがもう少し早かったら、細かい演技の調整が追いついたわね。時々噛み合わなくてごめんなさい」
「いや、難しい解説が多かったので、助かりましたよ。ストレートプレイは久し振りでしたから」
「私も、言われて見れば久し振りだった。ミュージカルと動き方が違うから、もうちょっと練習がしたかったな」
「うん。うららんもテレビのお仕事が多かったから、これは大変だったよ。お客さんが、すぐそこにいるんだもの」
 キヨミを除いた演技者四人が、ほっと一息、ピザを摘まんでいると‥‥千晶が背後に回っていた。
「今の話し振りだと、また頼んでもいいのね?」
 店内の全員が聞いてしまった嬉しそうな声には、色々な反応が返っていた。