タイトル:儚き命のためのアリアマスター:天音

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 7 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2009/06/04 15:10

●オープニング本文


「え‥‥?」
 カンパネラ学園音楽教務室――そこに呼び出された少年は、目の前の教師が今しがた口にした言葉に驚愕の表情を作ったまま固まった。
 教師の名はリィンシェイド・キア。26歳の男性音楽教師である。
 彼は絶対音感とハイ・バリトンの美声を持ち、声楽だけでなく各種楽器も一通り操れるという。
 金色の長い髪をなびかせて歩くその長身は女性教師や女子生徒の注目を集めるほどの美貌だが、今のところ特定の恋人はいないらしい。
 女には不自由していないといううらやましい理由で、色仕掛けを試みた者はことごとくばっさりと切り捨てられているとか。そんなエピソードが積み重なっていくうちに、一部のそういう趣味の女子生徒たちの中では男性教諭と組み合わせられる事もあるらしい。本人が知ったら激怒しそうだが。
 それはさておき、その甘いマスクに騙されては痛い目を見る。芸術家肌というのだろうかそれとも生来なのか、リィンシェイドは大変気難しく、特に時間には厳しい。また、正当な理由で説き伏せられなければ自分の意見を変えようとしないという困った性格の持ち主だ。音楽的技能と指導力は確かなのだが、そんな気難しい面を敬遠する生徒も多い。ただなんだかんだいって面倒見のいい一面もあるのだが、それを知るほどまでに彼と交友を続けるにはそれなりに根気がいるかもしれない。

 で。
「僕の聞き違いじゃないですよね?」
「どういう意味だ」
 問い返した少年をじろりとねめつけて、リィンシェイドは足を組み直した。
「いや‥‥リィン先生がそんな事に動くなんて、意外だなって」

 ぼかっ。

「って‥‥」
 丸められた譜面(スコア)で額を叩かれ、少年は小さくうめき声を上げた。今回ばかりは教師に対する失言であるゆえ、同情の余地は無い。
「もしかして‥‥依頼人から沢山お金を貰っているとか」

 ぼか、ぼかっ。

「ってー‥‥」
 今度は二度叩かれた。学習能力が無いぞ、少年。
「確かに金は貰っているが、それは正当な公演料としてだ。それ以上は受け取ってもいないし、受け取るつもりも無い」
「じゃあ、マジですか」
「俺がこういう依頼を受けるのがそんなにおかしいか」
「いや‥‥その」
 ここでそうです、と正直に言ったら、今度は三回殴られるだろう。モノはスコアなのだが、それなりに痛い。
「って良く見るとそれスコアじゃないし!?」
「当たり前だ。スコアを殴打武器になんてしたら作曲者に申し訳が立たん」
 リィンシェイドが少年を叩いていたのは、薄手のゴシップ雑誌だった。曰く、他の教諭が置いていったものらしい。雑誌ならば、その背が当たれば痛いのは当たり前だろう。
「とにかく何とか人を集めろ。時間が無い」
「時間が無いのはわかりますけど‥‥」
 事の原因は、リィンシェイドが引き受けた一つの依頼にある。その依頼はラスト・ホープ内に住むとある一家からの演奏依頼だった。
 その家にはエレクトラという7歳になる少女がいる。だが彼女の身体は病魔に蝕まれていて、すでに自らの力で歩く事さえままならないのだ。そんな彼女を慰めてきたのは、母親の歌う歌や、部屋に流される音楽、様々な楽器や奏者などの写真が載った音楽雑誌。中でも彼女のお気に入りはパイプオルガンで、以前雑誌で一目見たその時からその美しさと、そしてCDに収められてもなおかつ伝わってくる荘厳な音の虜になったのだという。
 いつかパイプオルガンを見たい。その音を聞きたい。そして一緒に歌えたら――。
 だが彼女の身体に巣食う病魔はその手を緩めず、ついに彼女は余命いくばくもないと判断され、好きな事をやらせてあげてくださいと医者もさじを投げた。

『パイプオルガンが見たい‥‥聞きたい‥‥。私も‥‥歌いたい』

 そんな彼女の切なる願いを叶えるために、彼女の両親はパイプオルガンの演奏を聞かせてくれるところを探した。そこで行き当たったのが先日カンパネラ学園に転入したレシーナ・フロラーナである。彼女とエレクトラはそう近しいわけではないが親戚に当たる。カンパネラ学園にパイプオルガンがあると知ったエレクトラの両親はなんとか娘の為に演奏を聞かせてくれないかと懇願した。それを受けたレシーナからリィンシェイドに話が持ちかけられ、そしてエレクトラの訪問が実現する事になったのだ。車椅子に乗せられてエレクトラは学園のパイプオルガンを見に来る。
「レシーナさんはまだ治らないんですか?」
「一番最後にひいた分、症状は重いようだ」
 だが、彼女の訪問にあわせて演奏する予定だった生徒達が練習中に次々と風邪に感染。全滅したのが数日前。一番最初に風邪にかかった者はだいぶよくなってはいるが、風邪とはいえさすがに病気の人間を演奏に出すわけにはいかない。エレクトラに移しでもしたら、短い寿命を更に縮める事になる。レシーナにおいては一番最後に風邪にかかり、高熱を出してダウンしているそうだ。風邪は一番最後にかかった者の方が症状が重い――そんな民間伝承を地で行くように。
「生徒だけでなく聴講生でも構わない。エレクトラ嬢の願いを叶える為に手を貸してくれる者を集めてくれ」
「はぁ‥‥演奏する曲とかは決まっているんですか?」
「決まっていたが、それに従う必要はない。演奏する楽器もパートも自由だ。新曲を作るなら、歌詞も曲調も考えてくれ」
 つまりメンバーが総入れ替えになったことで全てが白紙に戻ったということらしい。とにかく最低1曲はパイプオルガンを使うのは必須で、それ以外は自由という事だ。
「あとは‥‥ついでにレシーナの看病をしてやる奴がいても問題ないだろう」
「ついでですか‥‥」
 面倒見がいいんだか悪いんだか。心の中で呟いて、少年は掲示板へと向かった。

●参加者一覧

クラリッサ・メディスン(ga0853
27歳・♀・ER
ハンナ・ルーベンス(ga5138
23歳・♀・ER
パチェ・K・シャリア(gb3373
18歳・♀・ST
橘川 海(gb4179
18歳・♀・HD
雪待月(gb5235
21歳・♀・EL
月城 紗夜(gb6417
19歳・♀・HD
リラ・ラーク・ルーン・リブレ(gb6481
21歳・♂・FC

●リプレイ本文

●少女宅訪問
「人の夢、と書いて『儚い』‥‥今回の依頼はまさにその字の表す通りですね‥‥」
 ぽつり、雪待月(gb5235)が呟いた。隣でハンナ・ルーベンス(ga5138)も祈るような思いで口を開く。
「主よ、私は少女の願いに応えたいのです‥‥」
 月城紗夜(gb6417)は当日演奏する曲の入ったCDとプログラムをぎゅ、と握り締めてその扉の前に立った。
「エレクトラは、この部屋に」
 そう広くもない普通の家だ。招き入れてくれた母親に案内されたのは、きっとこの家でも一番風通しの良い部屋。
 トントン。
 紗夜が代表して扉をノックすると、中から「はい」と小さな声が聞こえてきた。耳を済ませていなければ扉を越えることも出来ない弱々しい声に、三人の胸は締め付けられる。だが彼女達が暗い顔をしていてはエレクトラも不安になるだろう。三人は頷きあい、そして扉を開けた。
 抑えたボリュームで流されるクラシック音楽。ラックに並んだ沢山のCDと音楽雑誌。部屋の真ん中に置かれたシングルベッドにはかわいいピンクの掛け布団が敷かれている。
 背中とベッドの間にクッションを挟むようにして、その少女は上半身を起き上がらせていた。くりくりとした紫の瞳で開いた扉を眺めている。
「こんにちは、エレクトラさん。私はハンナと言います。招待状を持ってきました」
 ゆっくりとベッドサイドに進み、ハンナは膝をつく。そうしてエレクトラと視線の高さをあわせるようにして微笑んだ。
「雪待月です。エレクトラさんと一緒に歌えるのを、楽しみにしています」
 続けて雪待月が微笑む。エレクトラは小さく首を傾げて、微笑むようにして口を開く。
「お姉さん達が、パイプオルガンを見せてくれるのね?」
「我々だけではない。学園では他の仲間も待っている」
 当日演奏する曲のCDとプログラムだ、と紗夜が差し出すと、エレクトラは白く細い腕でそれを受け取り、そしてプログラムを開いた。彼女が読めるように簡単な文章で書かれたそれをエレクトラは一通り目を通し、そしてきゅっと胸に抱いた。
「楽しみ」
「‥‥演奏会の会場で会いしましょうね」
 ハンナの微笑を受け、エレクトラもにっこりと笑った。
 確かに彼女の顔色はお世辞にも良いとはいえない。身体も痩せ細っている。
 だがこの命が、笑顔が間もなく尽きてしまうなど、今は信じたくはなかった――。


●女子寮にて
(「私は風邪がどれだけ恐ろしいか、知っています。私は風邪がどれだけ心細いかも、知っています。一般的な意味でも、私にとっての意味でも」)
 橘川海(gb4179)はレシーナ・フロラーナの部屋で、彼女の寝顔を見つめていた。熱が高いという彼女は時折うなされるようにしていて、その度に海は額に乗せた濡れタオルを交換してあげていた。
 目覚めた時に側に誰かが居るという安心感は、とても大切なものだと思う。だから海はレシーナの側に居る。
「あ‥‥」
 熱い息を吐き出して、レシーナが薄く瞳を開けた。海はその顔を覗き込んで。
「レシーナさん、目が覚めました?」
「海、さん‥‥?」
「そうです。覚えてくれてましたか。嬉しいなっ」
 レシーナが学園にきて早々迷子になった際に、海は彼女を探す手伝いをしていた。それで互いに顔を見知っているというわけだ。
「汗かいたでしょう? 着替え手伝いますねっ」
 身体を起こしたレシーナは幾分楽そうに見えた。寝汗をかいたことにより少し体温が下がったのだろう。だがこのままにしていたら、また熱が上がる。
「風邪を甘くみちゃ、だめですよっ?」
 着替えを手伝いながら海は語る。10年前に兄をバグアに、続けて父親を風邪で亡くしたことを。父親の場合兄を亡くしたショックも重なったのだろうが、あっけなかった、と。
「でも、私が一番覚えているのはその時の母の姿なんです」
「お母様‥‥」
「そう。こんなに傍にいるのに、私に気づいてくれなかった。私は父や兄の死よりも、お母さんもどこかへ行ってしまう、そのことが怖かったんです」
 辛い思い出だ――なのに海はそれを感じさせずに言葉を紡ぐ。不思議そうに彼女を見たレシーナに、海は笑んで。
「今は元気で、メール交換してますよっ? 離れてても‥‥や、ちょっとは寂しいですけどっ」
 着替えを手伝い終わった海はどうぞ、とコップに水を注いで差し出す。そしてベッドサイドの椅子に腰掛けて、少しばかり遠い目をした。
「ひとりぼっちって、きっと心にかかる病なんです。誰かを思いやっても届かない、誰かに思いやられていることに気づかない。それほど寂しいことはないです」
 だから、彼女はレシーナの傍にずっとついている。


●調べ
 カンパネラ学園の音楽堂には立派なパイプオルガンがある。数日前から音楽堂が空いている時間を借りて、一同は練習を繰り返していた。
「パチェはもう少し‥‥強く、だと思うんだけど、月城さん、どう?」
 指揮を務めるパチェ・K・シャリア(gb3373)が指揮棒を手にしながら紗夜に尋ねる。三曲目に演奏される「僕の背中の翼」は紗夜の弟の遺した曲で、今回歌う中で唯一のオリジナル曲だ。他の曲は少なからず耳にした事があれども、この曲は数日前に全員が聞いたばかり。一番練習が必要な曲だった。
「そうだな。エレクトラを驚かせない程度に、もう少し意思を貫くような強さがあるといいと思う」
「ではもう少しフォルテをかけますね」
 譜面を持っているクラリッサ・メディスン(ga0853)の申し出に、紗夜は頷いてみせた。ちなみにリィンシェイドは観客席に脚を組んで座って、瞳を閉じている。たまに口を開いたかと思えば音がずれているだのテンポがずれているだの口にするが、今回は譜面を完全に追うことより気持ちが大事だとわかっているのだろう、執拗に注意するような真似はしなかった。
「じゃあ、パイプオルガンの音に負けないように、フォルテでね」
 パチェが再び指揮棒を構える。それがゆっくり振られたのを確認して、ハンナが鍵盤を押す。そしてクラリッサ、雪待月、紗夜の三人のハーモニーが音楽堂に響いた。


「音楽会へようこそ」
 音楽堂の扉を開けて入場してきたエレクトラに、五人が暖かい歓迎の声をかける。だが彼女の耳にはその声はとどいてないようだった。それもそのはず、彼女の目の前にはあこがれのパイプオルガンがあるのだ。驚いたように口を開けて、そして瞳をきらきらさせているその姿に、思わず笑みがこぼれる。
「特等席に案内するわ」
 パチェが車椅子を押し、最前列の観客席へとエレクトラを導く。段差を降りる際にはハンナや雪待月も手を貸した。
「エレクトラさんにとって、この演奏会がより良い思い出になるように微力を尽くさせて頂きますわね」
 シックな紺色のドレスに身を包んだクラリッサが挨拶をする。ドレスの紺色は比較的明るめで、暗い夜というより月の出ている明るい夜をイメージさせた。
「よろしく‥‥お願いします」
 エレクトラは緊張した面持ちでステージ上の一同を見つめる。
 一曲目はハンナがパイプオルガンの前に座る。演奏曲は「聖母の祈り」だ。
 四段になっている鍵盤の上に手を置き、指先に力を込める。
「わぁ‥‥」
 荘厳で暖かい和音が音楽堂いっぱいに響いた。エレクトラだけでなく、その両親もパイプオルガンそのものの美しい音色に歓声をもらす。
 前奏が終わると続くのはクラリッサ、雪待月、紗夜によるコーラス。パチェはゆっくりと指揮棒を振る。
 深く、澄んだ音色は歌声とあいまって、妥協のない厳しい音楽だが、後方の数小節の美しい協和音が不思議な爽やかさを感じさせる。
(「音楽が、歌が、心の支えとなる気持ちは、痛いほどによく分かります。せめて、この彼女の為のコンサートが彼女の癒しと希望になりますよう‥‥」)
 雪待月のソプラノが最後の一音を響かせる。パイプオルガンの和音と一緒に長く響き渡ったその音は、パチェが指揮棒を止めたと同時に止んだ。
 初めて聞く生のパイプオルガンの演奏に惚けていたエレクトラは、魔法が解けたのに気がついて慌てて拍手を送る。
「エレクトラさん、お父様、お母様もご一緒に歌いましょう?」
 雪待月が壇上から降りる。動画の撮影を頼まれたリィンシェイドはその様子を録画し始めていた。紗夜も下に降り、エレクトラの車椅子を持ち上げる手伝いをする。エレクトラの両親は自分達も一緒でいいのかと戸惑っていたが、是非にといわれれば娘との思い出作りを拒否する道理はない。
「唄いましょう、皆で‥‥心を一つに。エレクトラさんも一緒に‥‥さあ、こちらへ」
 パイプオルガン奏席から降りたハンナに導かれ、エレクトラを乗せた車椅子はステージの真ん中へと進み出る。
「エレクトラさん、プレゼントよ」
「わぁ、お花!」
 パチェから両手で抱えなければならないほど大きな花束を贈呈され、エレクトラは嬉しそうに膝の上でそれを抱えた。膝に乗せていたプログラムは両親に渡す。そこにはこれから一緒に歌う「神は常に恩寵を下す」の歌詞が書かれていたが、彼女はすでに覚えてきているのだという。この曲は賛美歌の一種であり、彼女も聞いたことがあった。
「拙い腕ですが、精一杯務めさせて頂きますわ。宜しくお願いをしますわね、エレクトラさん」
 今度の奏者はクラリッサだ。演奏席に座り、鍵盤に手を掛ける。そして息を吸い、鍵盤を押す。
(「こんな時代、バグアの脅威によって多くの人命が失われ、多くの者達が神を呪いかけている。ましてや、無辜の7歳の少女が余命行くべくもなくこうして臥せる事しかできないことは神の愛を疑わせる事に繋がるかもしれない」)
 前奏を奏でながらクラリッサは思う。
(「でもだからこそ、いかなるものにも常に神は恩寵を下される、というこの曲をエレクトラさんに送りたい。少しでも心が安らかになりますようにと」)
 前奏が終わると同時にクラリッサも高らかに歌い上げる。この曲は全員で歌う。他の曲では指揮をするパチェも、今回はコーラスに加わった。

 この多くの悲しみや苦しみ絶望から
 その愛が私を導き救い正しい道に誘ってくれた
 そしてその大いなる愛は
 私を懐かしい父母の元へと
 導いてくれる

 音楽堂に響く一際高い声はエレクトラの声だ。彼女の声を消してしまわないように、皆は声を添わせる。
 娘が憧れのパイプオルガンの演奏で嬉しそうに歌を歌っている。その姿を見た両親は娘に見えないところで涙し、そして父親は母親の肩を抱いていた。


「ふふ、皆も、ああ見えてリィン先生も、レシーナさんが気を落としてないか、心配してたみたいですよっ」
 女子寮にて。今頃エレクトラが音楽堂を訪れているだろうと言い、海は部屋の窓を開けた。
「曲、聞こえてくるかなっ?」
 音楽堂には防音設備もあるし女子寮までには距離もある。だが窓から吹き込んできた爽やかな風は、色々なものを運んでくれると思うから。
「大丈夫、きっとレシーナさんの思いは、みんなが伝えてくれると思うよっ」
「‥‥はい」
 風に髪をなびかせながらにこぱと笑った海の顔を見て、レシーナも微笑を浮かべた。


 音楽堂に響いているのは三曲目「僕の背中の翼」だ。挫けない根性がこめられた、大切な曲。
(「全く、合唱されるとは弟も思っていなかっただろう。あの世があるなら狂喜乱舞しているだろうな」)
 紗夜は弟が未完のまま遺した曲を完成させた。そして今、皆でそれを歌っている。
 プログラムに弟の曲が入ったことは、姉として素直に嬉しい。それが死後に叶った夢だとしても。
(「全てを忘れられるほど、のめり込んで欲しい。如何にして死ぬかではなく、如何にして生きていくか。先が短いからこそ‥‥な」 )
 自分達が沈んだ顔をしているわけにはいかない。だって、エレクトラはこんなに楽しそうなのだから。
(「本当の翼は無くとも、心はどこまでも羽ばたける‥‥という思いでしょうか‥‥?」)
 雪待月はこの曲の歌詞が持つメッセージが届くように歌い上げたい、とパチェの指揮にあわせてフォルテを掛ける。歌声にこめられた想いが、意思が音に編みこまれていく。伴奏のハンナも、強き意思を伝えるために鍵盤を叩いた。

 四曲目――客席に戻ったエレクトラの視線はステージ上に向けられている。
 最終曲はノクターン。演奏者はクラリッサ。パチェがゆっくりと指揮棒を振った。
(「どんな事でも、最後まで見届ければ確実に幸せが待っている‥‥無論、捉え方にも因るだろうけれどね。‥‥諦めないで、エレクトラさん」)
 背中に感じる視線に向けて、パチェは無言のメッセージを送る。
(「医者がなんと言っても、最後まで貴女を信じれるのは貴女しかいないのよ。口に出さなくとも、それがパチェからのメッセージよ」)
 伝わるだろうか――伝わるだろう。何よりも音楽を愛し、音楽を望んだ少女だ。年若いながらも、音にこめられたメッセージを感じ取っているに違いない。
 その証拠に、演奏が終わった後に向けられた拍手は彼女が出せる精一杯の音で、そして彼女は――笑顔だったのだから。


「又いつか、皆で唄いましょう‥‥エレクトラさん。私と約束しましょうね‥‥いつかきっと、此処で唄いましょう」
 パイプオルガンの鍵盤に触らせてもらい、オルガンの前で記念撮影を済ませたエレクトラは興奮しすぎて少し疲れているようだった。だがそれでも彼女が笑顔を絶やす事はなく、優しく抱きしめてくれたハンナを細い手で抱きしめ返した。
「お姉ちゃん達、ありがとう。‥‥私、幸せ」
 エレクトラは約束という言葉を口にしなかった。それは故意なのか――。
「映像と録音、写真は後日送りますね」
「うん。楽しみにしてる、ね」
 雪待月の言葉にエレクトラは笑顔を返して。
 誰も、口にしない。これが最後だなんて。
 誰も、笑顔を崩さない。だって少女が笑顔だから。
「本当に‥‥ありが、とう‥‥」
 かくん、とエレクトラの頭が落ちた。母親が慌てて彼女の顔を覗き込むが、ほっとしたように息をついて、彼女の腕の中から花束を受け取って膝掛けを掛けなおしてやった。
「眠ってしまったようです。よほど楽しかったのでしょう」
「本当に、有難うございます」
 両親は深く頭を下げ、一同も眠ってしまったエレクトラを起こさないように小声で別れを告げた。

 いつかまた――その願いは風に乗って届くだろうか。
 共に紡いだ歌声は、映像と音源となって風化せずに残る。
 たとえ、小さな命の灯火が消えようとも――思い出は、消えない。