タイトル:【櫻】春の日に捧ぐ歌マスター:藤山なないろ

シナリオ形態: ショート
難易度: 易しい
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2012/04/19 04:24

●オープニング本文


 サクラ【バラ科サクラ属サクラ亜属】
 落葉広葉樹で、春に白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせる、日本で最も知られる花の一つ。
 花言葉は、「純潔」「精神美」「淡泊」。

●武士道とは、桜の花のようなもの

 花は桜木、人は武士。
 柱は檜、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの‥‥

 江戸時代、ある詠み手が“一番”を謳ったうただそうだ。桜とはそれほどに美しく、“あはれ”であるらしい。
 また、散り際が潔く美しい桜は、しばしば武士の死に際の理想的な有り方としてもうたわれている。
 江戸を経て明治時代、ある著名な作家が「武士道」についてこう記したのだ。
 『武士道とは、日本の象徴たる桜の花のようなものである』、と。
 日本において最も愛される花の一つでもあるそれは、日本人のみならず、世界中の人々の心に淡く、白く、仄かに赤く。木々に芽吹き咲く華やかさと可憐さで、そして風に舞い散る潔い様で見る者の心を癒し、清めた。

 多くの国において、警察、或いは自衛官の階級章には「星」の形を用いることが多い。
 だが、日本ではこれを桜の花で表すのだ。
 どこの誰がどんな理由で始めたのか、真実は今想定されているものとは違うのかもしれないが‥‥きっと、この花は日本人の精神美の象徴なのだろう。

●ミユ・ベルナールの慰労

 積み重なっていた仕事が、漸く片付いてきつつあった。昨年から続く立て続けの事件や作業の連続に、ミユ・ベルナール(gz0022)は多分に疲労を深めていた。
 彼女は自らを多忙に追い込み続けて来たから、ある意味で当然の結果ではあるのだが、それは妹であるリリア・ベルナール(gz0203)の死に対して思う所があった故の‥‥昇華的な、あるいは逃避的な行動だったのかもしれない。
 ただ、それすらも消化されつつある。後の仕事はいずれもミユでなくても処理出来るものばかりで、急に出来た時間の隙間が唐突に溜まりに溜まった疲労を意識させた。
 時間ができると、つい、物思いに耽ってしまう。
 戦争は未だ止まない。だが、戦争だけでは人は、疲れてしまい‥‥そうしていつか、折れてしまう。その事をミユは、あの日以来痛切に感じていたのだった。
 喪失の痛みは、未だ癒えていない。だからこそミユは、何か出来たら、と。そう思ったのだった。

「‥‥ん」

 出来る事をやろう、と思った。
 傭兵に。兵士に。企業に。人に。何か出来る事を、と。
 折しも時期は四月も近しく。
 ――宴の季節だった。

●漸く訪れた春
「‥‥それで、慰労を?」
「ええ」
 ミユ・ベルナールの発案は、至る所に広まっていった。
 彼女自身の人柄についてよく知りはしないが、大手の社長ともなれば、ある種“マーケティング”の一端ではないかとも勘繰ったジョエル・S・ハーゲン(gz0380)ではあったのだが‥‥
「なるほど」
 独り言ち、ジョエルは口元を覆った。
「‥‥どうしたの?」
「いや、そういえばもう‥‥春になったんだなと思って、な」
 長く冷たい冬が終わった。
 通り過ぎたなどとはいえない。もがきながら抜けた先に漸く春が訪れたのだ。
 America strikes back/北米を奪還すべく、途方もない戦力が動き。
 the Counterattack of Observed people/アフリカでは結ばれていた停戦協定が一方的に破棄され、再び戦火にのまれ。
 Greenland Railway/極北の地での資源開発の動きから、波乱を含みながらも鉄道の敷設が行われ。
 そして、THE OUTER FRONTIER/人類は、宇宙への戦いに飛び立った。
 戦いに身をおいた者たちの誰にとっても、長く厳しい冬だったのかもしれない。
 それに、まだこの戦争に決着の光は見えていないのだ。
 それでも‥‥”その冬”を越えたことを、今この時くらいは、互いに労い、喜び合っても良いのではないかと思う。

「慰労会、申請を頼めるか?」
「はーい! 支払いはミユ社長につけといてねっ。申請しとくから、ちゃんとお礼言うのよ」
「そんな機会があれば、な。‥‥それとバニラ、一つ訊きたいことがあるんだが」
「何かしら?」
「いや、その‥‥今、日本でサクラが見られる場所はあるか?」

 ◇

「‥‥もしもし?」
『ジルか、今どこにいる?』
「え、どこって‥‥仕事から帰ってきてホテルにいる‥‥」
『次の仕事は入れていないか?』
「うん‥‥でも、なんで?」
 ハーモナーのジル・ソーヤ(gz0410)は、仕事後の疲れた心身を滞在しているホテルのベッドに投げ出していた。
 そこへ突然鳴り出した携帯電話。映し出された名前は、よく世話になっているエースアサルトの男で。
『ドロームの女社長が慰労を推奨し、その支援をしているという話を‥‥その様子では、聞いていないだろうな』
「うん、全然きいてない。暫く仕事でバタバタしてて‥‥」
『それならなおさら丁度良いだろう。「花見」と言うものを知ってるか? 日本で、サクラを鑑賞するイベントのようなものがあるらしく、今回慰労の機に乗じてそれを真似てみようと考えたんだが』
「日本で‥‥?」
 少女の心から疲労の色が和らぎ、同時に湧き出したのは好奇心。
 日本では、サクラの花が大切にされているということを少女は少し聞きかじっていた。
『ああ。以前、日本に興味があると言っていただろう。だから、ついでに誘おうかと思って、な』
「‥‥行く。ていうか、なんかジョエルって、変わったよね」
『突然、何を言い出す』
 電話の向こうの男の声が強張った。わかりやすすぎて、正直笑いそうになるくらいに。
「たいせつなものができるって、そういうことなんだよね、きっと」
 朴念仁のジョエルに、そんな事を企画させてしまうということ。
 それはパワーの源で、笑顔が欲しいということの現われで。
『全く‥‥何に納得しているかは知らないが、連絡はしたぞ。シグマにも声をかけておく』
「はーい。‥‥ありがと、あたしも乗っからせてもらうね」
 通話を終え、携帯電話を放り投げると枕に顔を埋めた。
 冬は終わったばかりだけれど、余りに冬が長すぎて、心がすっかり凍っていたのかもしれない。
 春が来る。暖かで光に満ちた春が。
 今この時くらいは、少し「傭兵」としての役目から離れても良い気がする。
 そうでもしなければ、完全に凍てついたまま、人間に戻れなくなる予感もして‥‥
「サクラの花、か。きっと、日本で見るともっと綺麗なんだろうな」

 こうして、本部には生真面目な“お知らせ”が張り出された。

『<傭兵慰労企画>
 概要:花見(※1)
 場所:日本 愛知県名古屋市の鶴舞公園
 参加費:無料(※2)
 希望者は、指定時刻に下記の場所へ集合

 注釈
 ※1:「花見」とは:主に桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本独自の慣習らしい(もちろん飲み食い可能)
 ※2:出資(提供)/ミユ・ベルナール』

●参加者一覧

六堂源治(ga8154
30歳・♂・AA
時枝・悠(ga8810
19歳・♀・AA
夢姫(gb5094
19歳・♀・PN
シクル・ハーツ(gc1986
19歳・♀・PN
秦本 新(gc3832
21歳・♂・HD
黒羽 風香(gc7712
17歳・♀・JG

●リプレイ本文

「4年ぶり‥‥か」
 懐かしむ様な呟きが、街に沁みこんでゆく。
 本当はいつだって帰る事はできたけれど、何かと理由をつけては、帰る事を拒んでいた。
 そんな自分を省みて、自嘲するように笑みを浮かべる。

 それでも。数え切れない戦いを経て、漸く“俺”はこの街に戻ってきた。
 あの時、見る事の出来なかった桜に迎えられて───

 ◇

『花と歌と酒。これくらい逃げ場を作っておけば、疲れた時も迷わず日常に戻ってこれる』
 そんな事をいったあの人は、今何をしているだろう。
 ふと記憶を過った光景に、時枝・悠(ga8810)は小さく溜息をつく。
(‥‥昼間っから酒を飲む言い訳に使わなければ、もう少し心に響いた筈なんだが)

 ───つい先日のことだ。大叔父にあたる人物から、突然連絡が有ったのは。
 何かと思えば『家を出てから4年も経つんだ、偶には顔を見せろ」とのこと。
 もう4年か、と時の速さに小さな忌々しさを感じると同時に。
 まだ4年か、と怒涛の年月を振り返りながら、少女は連絡に応じたのだった。
 それは勿論「里帰りも悪くないか」と思ったからであって、決して‥‥
「ぼくにもください!」
「‥‥毎度」
 決して“こんなこと”をする為に来た訳ではない。
 売り子が足りん、とか難癖にも似た言いがかりをつけられ、気付けばそのまま駆り出されていて。
(‥‥家があったの名古屋じゃなかったよなって思った時に引き返せば良かったんだ)
 騙されたのか。或いは久々に会ったぎこちなさを埋める為の儀式なのか。
 考えても仕方がない。ただ現状、「私が屋台を手伝わされている」という事実だけは確かで。
 だが‥‥
「ありがと、おねえちゃん!」
 手渡した林檎飴と、貰った代金と。いや、貰ったものは飴の対価だけではない気もして。
(‥‥偶にはこういうのも良い、か?)
 そう思うと、自然、口元が綻んだ‥‥そんな春の昼下がり。
「ジルさん、たこ焼き食べたことある?」
「タコヤキ?」
 一際賑やかな集団と、そこから聞こえた覚えのある声に耳がぴくりと動く。
(まさか、な)
 単純に現実を否定したいだけだが、悠の視線は頑なに直視を拒んだ。
 ここで改めて「客引きより戦ってる時の方が気が楽だなあ」なんて頭が勝手に思考し始めたものだから、溜息も出てくる始末。
(我ながら重症だ‥‥)
 だが仕方が無いと、覚悟を決めて。
「あれ、悠だ!」
 ‥‥ほら、見つかった。
 結局、逃げる事も出来ないし、と少女は内心独り言ちる。
「はーるーk‥‥」
 遠くから大声で友人の名を呼ぶ少女の口を、慌てて秦本 新(gc3832)が覆う。
 秦本、よく空気を読んだ。
 などと密かに称賛し。営業スマイルを放り投げ、温度低めの視線を送る。
(あまりツッコまないで欲しい。もっと言うと、その辺に触れないで、かつ売り上げには貢献して欲しいわけで)
 伝わったのか否か、店の前にやってきた新が小銭を出して苦く笑った。
「‥‥とりあえず5本くらい頂けますか」
「毎度」

 ◇

「えっと、お花見っていうのはね‥‥」
 桜咲く木々を横目に、沿道を歩くシクル・ハーツ(gc1986)は隣で林檎飴を頬張るシグマに微笑みながらこんな話をしていたのだが。
「とか言いつつ。実は、あまりお花見ってしたこと無いんだよね」
「悪い意味で‥‥じゃねえよな」
「うん。私、ここから随分北にある島の出身だから‥‥」
「あーよかった。良くない事があったってんじゃねえなら」
 心底安堵した様子で息をつくと、シグマは再び林檎飴を齧りだす。
 「良くないこと」。それに気付いた少女の笑顔はどこか儚げで。
 それはきっと、まだこの星が戦いの渦中にあるからなのだろう。それでも‥‥
「‥‥今は少しくらいゆっくりしてもいいよね」
 凛とした強さを滲ませて、少女の笑顔は春の陽にきらきらと輝いた。

 ◇

「桜、ほんとうにきれい、ですね」
 見上げる夢姫(gb5094)の髪を、柔らかい陽光が照らす。
 桜も勿論綺麗だったけれど‥‥
「‥‥そうだな」
 男は、花々を見上げるでもなく、ただ少女を見つめてそう応えた。
 誰もが楽しそうで、穏やかな笑顔を浮かべていて、この場の全てが暖かで幸せな光景だった。
「日本は卒業式が三月だから、春は出会いと別れの季節、旅立ち、門出の季節で‥‥だから涙と笑顔の思い出と重なるのかな」
「夢姫にも、そんな思い出があるのか」
「ふふ。私は疎開したり、こうして傭兵をしたりで、学生であった時間があまりなくて‥‥」
「‥‥そうか」
 しまった、と目を伏せる男の前で、少女は本当に明るく笑う。
「まずいこと聴いた、って思ってますか」
「‥‥一応」
「やっぱり。そんな事ないですよ」
 そう言って夢姫はジョエルの手元のカップに暖かい紅茶を注ぎながら息をつく。
「だからこそ、得られたご縁もあるから、ね?」
 冷めないうちにどうぞ、と。そう添えた夢姫の強さに、また今日も力をもらった気がした。

 ◇

「そういえば私、この辺りの出身なんです」
 花吹雪の中、一枚の花弁を掴むとそれを掌に載せて黒羽 風香(gc7712)が言う。
「お家に帰ったりしてた?」
 ジルの何気ない問いに、風香は想いを馳せるように空を眺めて‥‥首を横に振った。
「‥‥こちらに戻るのは久しぶり、ですね」
「ねぇ、風香のお話、きいてもいい?」
 思い描くのは、彼の地の事。目を閉じると、鮮烈に浮かんでくる在りし日の思い出。
 少女は確り頷くと、思い出を辿るようにゆっくり語り始めた。
「私がこちらに住んでいた頃の実家は、今はもう別の人のモノで、土地だけ残して更地の状態になっているんです」
 儚げな笑み。けれど現実を受け入れた様子で風香は語る。
「“あの時”に友達も随分と減ってしまったし、義理の両親も‥‥って、私も大概引き摺ってますね」
「ううん、そんなの普通だよ。それに、風香はいつもすごく頑張ってるもん」
 一生懸命、という言葉が張り付いたような雰囲気でジルは風香を真正面に捉えて話を聴いている。
 真っ直ぐな少女を前に風香は眇めるように目を細めると、
(兄さんに偉そうな事言えないなぁ)
 などと、心の内で独り小さく息をつく。
「そういえば、あの人は変わってませんでしたね」
 思いがけず、少女の口からそんな言葉が漏れていた。あ、と気付いた時には既に遅く。
「あの人?」
「‥‥ええと。私にとっては、優しくて、世話好きで、頼りになるお姉さん、です」
「そっか。良かったね」
「‥‥良かった‥‥そう、ですね」
 邪気のない笑顔にのまれるようにして、風香は言葉を繰り返し、頷く。
(それにしても、『拓海をお願い』、か)
 ぽちゃり、と心の水辺に小さな石を落とす。
 これは悪い感情ではなくて、石が水に落ちたときに上がるクラウンのように、自然に湧きたった透明な想い。
(私にとっては当たり前で、改めてお願いされるような事じゃないですけど‥‥)
 掌の桜の花びらが美しく輝いて見えて、少女はもう片方の手でそれを閉じ込める。
 突然、ジルの指が風香の頬に触れた。
「いいこと、あった?」
 どうやら口角が上がっていたらしく、ジルにそれを指摘され、漸く風香は自分の感情に気付いた。
「はい。だから、今はこの綺麗な桜と、穏やかな時間を楽しむとしましょうか」
 
 ◇

「ね、シグマのお父さんってどんな人だったの?」
 作ってきた桜餅を差し出しながら訊ねるシクルに、青年は首を傾げた。
 だが、彼女は自分の父親の姿とその最期を知っていたからこそ、すぐに思い直して頷く。
「親父は、俺のヒーローだ。キメラの襲撃に崩れる街から、瀕死の俺を救い出してくれた。銃を持って、俺に生きる術を教えてくれたんだ。カッコイイ親父だったよ」
 懐かしむようにそう話すと、ポケットから取り出した煙草を口に銜える青年。
 だが‥‥
「‥‥私ね。自分のお父さんの事、何も知らないんだ」
 ぽつりと落ちた言葉に、シグマの表情がすっと変わる。
「私が生まれた時にはもういなかったし、お母さんに訊こうとすると、悲しそうな顔をするから気にしない様にしてたんだけど‥‥ここ二年近くの間、シグマを見てたらお父さんってどんな感じなのか気になっちゃって」
 少女が語る言葉を一言一句逃さないよう、煙草に火をつける事もせず青年はただ聴き入った。
「でもね、悪い人じゃないと思うんだ。お母さんは日本人だけど最期までハーツを名乗ってたし、一度だけお母さんが『その髪を大切にしなさい』って言ってたから」
「そっか」
 僅かな沈黙。それは少女が馳せる父の像に結び付く前に、青年の温度にゆっくりと溶かされた。
「‥‥お前の髪、綺麗だよ。だからってんじゃないけど、大事にしろよ」
 そう言って、シグマは生身の掌で少女のプラチナを撫でた。

 ◇

 皆が花見を謳歌する中、それを眺めて六堂源治(ga8154)は手にした缶ビールを傾ける。
 久方ぶりにこの街に来て目の当たりにしたもの。それは、何も変わっていないという現実だった。
 公園のオブジェも、入学式で賑わう春の公会堂も、地下鉄出口の大きな道路も街路樹も、全てが記憶の頃のまま。
 だからこそ、余計に思い返してしまう。あの日の事を───

 ───4年前のあの日。
 街を襲った戦火に全てが飲まれ、俺は‥‥守ると誓ったかけがえのない人を失った。
 目覚めた時の事は今でも良く覚えている。動けない身体のまま真っ白な診療台の上、ただ天井を見上げていた。
 俺がその時何を考えていたかと言えば、たった一つ。それは“復讐”だった。
『君には、エミタの適性がある』
 診療室でそう切り出されたあの瞬間、想いが弾けた。
 やるべき事も、為したい事も、全てのベクトルが一致したと思った。だからこそ、能力者としてエミタを宿し、バグアに刃を向ける選択を取ったのだ。
 大事なものを奪われた憤りと、その後の喪失感はどうしようもなく、これまでずっと我武者羅に戦いに暮れてきたけれど‥‥
(あの時、何より赦せなかったのは、自分の弱さ‥‥だったのかもしれない)
 気付けば、手の中の缶が拉げている。中身はすっかり空になっていて、思わず苦い思いで笑う。
 視線の向こう、威勢の良い屋台の連中を見ていると、“傭兵になる前の日常”が思い出される。
 決して大きくはない、小さな地方の一家。極道と呼ばれる部類のそれだったが、愛される家だった。
 そしてその組長の娘‥‥“彼女”と共に在った慌ただしくも賑やかな時間はもう二度と戻らないけれど。
(今の俺を見たら、彼女はどう思うだろう)
 ふと強い風が吹き付ける。桜の花びらが舞い、髪と共に髪紐が揺れた。
 彼女が身に着けていたそれが、今は俺の髪を結う。
 これは、自分の弱さと決意を忘れない為の戒め、そう思っているけれど。
 きっと、支えでもあったのだろう。この傷だらけの身体を引きずって立ち上がり、これまでを戦い抜く為の‥‥
(彼女は‥‥こんな俺に、笑ってくれるだろうか?)
 今し方吹きつけた、力強くお転婆な風のように。
 あの頃の、ままに。

 ◇

「可愛い靴‥‥似合うかな?」
 傭兵達が賑わう中、少し離れて公園の散策に乗り出した夢姫は、繋がれた手の主を見上げて笑う。
「ああ、良く似合っている。気に入ってくれたら、俺も嬉しい」
 そう答えたジョエルだが、ふと少女が自分を見上げている視線に何か違うものが含まれていることに気付く。
 いつか訊かれるだろうとは思っていたが、渋々白状する男はどこか居心地が悪そうで。
「本部の‥‥バニラに手伝ってもらったんだ」
「何をですか?」
 傾げられる細く白い首。解らないふりなのか、だが少女の笑顔には1ミリの変化もない。
「‥‥サイズの事を言っているんじゃないのか」
「なるほど。じゃあ、“他にも何か見た”んですか?」
 墓穴を掘るとはこの事だが、困り果てる男を制して少女は「冗談です」と笑った。
「色々、ありましたね」
 沢山の季節を共に過ごして、少しずつ近づいて。
 少女は幸せの意味を、生きることの意味を感じていた。いや、初めて知った、のかもしれない。
 変わることが新鮮で、それが嬉しいと思う。相手にも、どうかそうあって欲しいと願いながら‥‥
「ジョエルさん」
「どうした」
「‥‥素敵な時間をありがとう」

 ◇

 優しい濃紺のビロードが降り、日本の夜をそっと包み出す頃。広がる星空の下、公園には明かりが灯り始めていた。
 人々は柔らかな光に照らされ、ほの白く揺れる夜桜を眺めては、この夜を謳歌している。
 昼間から盛り上がりを見せた花見も、夜闇の中、静かな雰囲気を纏い始めていた最中‥‥
 新が立ち上がり、手を差し伸べる。
「少し、歩きませんか」
 瞳の先に居た少女は嬉しそうに首肯すると、躊躇いなくその手を取った。

「酒は、大分抜けましたか」
 少々おぼつかない足取りを心配したのか、新が少女の手を引き笑う。
「新は平気なの?」
「それなりに、ですけどね」
 何気なく交わされる会話は、彼らにとっての日常と対岸にあった。
 だからこそジルは、そんな普通の会話を噛み締めるように笑い、それに促される様に青年は安堵にも似た息を吐く。
 ───最初は幸せを、笑顔を、ただ願うだけだった。
 切欠は何だっただろう。
 出会ってからの一年は互いに苦しい戦いばかりだった。だからだろうか。
(何時の間にか、もっと力に、支えになりたい。そして、傍に居たいと‥‥)
 ふと、気付けば少女の大きな亜麻色の瞳が自分を覗きこんでいる。
 新、どうしたの? 何考えてるの?
 言葉はなくとも、少女の顔にはその全てが書いてあった。
 思わず笑いがこみあげてくる。それは、何より暖かな気持ちで。
 驚くほど柔く緩い、晴れの日の穏やかな波に揺られているような。そんな心地の良い感情に満たされてゆく。
「‥‥ありがとう、ジルさん」
「ん? なんで?」
「いえ‥‥ただ、言いたくなっただけです」
「‥‥じゃあ、あたしからも。新、お誕生日おめでとう」
 突然の事に驚いた様子の青年に、悪戯っぽく笑って少女は鞄に忍ばせていた贈り物を手渡す。
「あたしが心細い時も、我慢してる時も。新はいつもそんなの見抜いて、優しい言葉をくれる。甘えちゃだめだけど、でも、新が生まれてきてくれて、今ここにいてくれてあたしは幸せだから‥‥」
 小さく笑い合って、夜桜の下を歩く二つの影。
 少女の笑顔が、青年にとっては何よりも嬉しいもので。
 だからこそ、それを壊したくはないと。確たる思いで新は少女の名を呼んだ。
「‥‥どんな時でも、貴女の力になる」
 明日があるかも解らない。今日伝えずしていつ伝えられるのか、保証なんて何処にもない。
 ならば今この時に、少しでも想いを言葉にして伝えておきたかった。
 当の少女は頬を緩め、まるで花の蕾が開くようにふわりと満開の笑顔を咲かせている。
 ───あぁ、この笑顔だ。傍で見ていたいものは。
「ありがとう」
 春の夜風が吹き抜ける。
 それは、全ての命を優しく揺らし、甘く幻想的な桜の香りと共に薄紅の花弁を運んでいった。