●リプレイ本文
『あなたの歌声は技巧も駆け引きもないけれど、その分、心によく響くわ。馬鹿正直すぎて照れてしまうけれど』
『その辺りは学校で勉強すればいいだろう。なあ、ジル。母さんのような素敵な歌手になるんだもんな』
『えー。お母さんみたいになるなら、もっとしとやかで美人にならなくちゃ‥‥痛っ! やめてよ、お姉ちゃんのバカ!』
◇悪意の奥
夢姫(
gb5094)は、開け放たれた扉の先にいる男を見たときに、事の異常性を理解して唇をきつく結んだ。なぜなら、目の前の光景はまるで“まちがいさがし”だったからだ。
ロキはメイナードを手中に収めるためにここきたのだろう。微笑みに口角を上げる僅かな間にも人の首を撥ねることができるヨリシロが、こんな場所で談笑している理由が他に思い浮かばない。
だが、先述の“まちがいさがし”はここからだ。夢姫は、“ロキがリアンという人質を利用している現実がまちがいだ”と直感した。
散々能力者を殺しまわってこの場に辿り着いたヨリシロが、武器も持たない格下の強化人間の奪還において人質など必要とするはずが無い。この場において未だアレを確保していることが、おかしいのだ。しかし、現実はどうだ?
夢姫は重々しい溜息を零した。少女は、化物が意図するところを理解してしまったのだ。
(‥‥リアンくんを返すという言葉は、きっと嘘)
つまり、いま見せ付けられている事実は“人質本来の機能をリアンに求めていない”ことの表れだ。
あのロキという気の触れたヨリシロが、リアンに人質の機能を求めていないのだとすれば、先の発言はすべて“嘘”として扱うべきだと少女は確信した。
そもそも「メイナードを大人しく渡してくれるのなら、リアン少年は無傷で返しましょう」といった直後、舌の根も乾かぬ間にあの男は少年の首に傷をつけた。これこそ、何一つロキという存在を真に受けてはならない何よりの証拠だ。
(私たちがどんな選択をしても助ける気は無いんだ。それに、あっさり命を奪うのではなく、じわじわと‥‥心を侵して)
高い嗜虐性と嘘の塊でできた、不浄な生き物。それに気付いた今、夢姫の心にこれまで以上の嫌悪感すら生まれそうになる。
「貴方は、本当にかわいそう」
夢姫の唇が、感情のままに告げた。
ロキは、目を細めて少女を見つめた。凛とした少女の黒髪が、開け放たれた通路の扉を抜けてくる風に吹かれる。
美しい少女だ、と思った。媚びる気配も無く、悲しそうな目で見つめてくる聡明な少女。ロキの中で彼女に対する少しの興味が芽生え始めていた、その時。
「‥‥それ以上、奥に進めば少年の首を落としますよ」
黒木 敬介(
gc5024)をはじめとした傭兵が、敵の視線が夢姫に向けられたと察知し、奴を取り囲むよう陣取ろうと駆け出す瞬間だった。
牽制するように、ロキの手からメスが放たれた。敬介の足元から少し離れた床に突き刺さる、異様なほど鋭利な刃物。
「聞こえませんでしたか。私は、メイナードを連れ去りに来たんです」
それは「これ以上メイナードに近づくな」ということ。傭兵たちの目的がメイナードへの接近ではなく、ロキの包囲であったとしても、傭兵が部屋の奥へ移動することを容認するはず無かったのだ。
「くそ‥‥最悪じゃないか」
独言る敬介の手に握り締められた刀。その柄と手のひらの間にうっすらと汗が滲む。
先ほど夢姫のように、敬介や他の傭兵たちも感づき始めていた。
あいつは、いつリアンを殺害しても構わないのだ。あの少年は、ロキ自身が楽しむためだけの添え物なのだ、と。
「最悪? そんなことは無いんじゃないですか。私は今、リアン少年を抱えて片手が塞がっていますし」
「はっ‥‥よくそんなことが言えたもんだな」
お前はリアンを生かして返す気など無いくせに、と。敬介は、その言葉だけは意地でも飲み込んだ。青年の斜め後ろ、一騎のAU−KVの背後に控えている少女にだけはそれを確信させたくなかったから。
忌々しげに舌打ちをして、敬介は床につけた足をジリと踏みしめる。
‥‥いつの時代も、今この時も、悪意こそが最大の敵だった。
それは俺にとってだけでなく、世界そのものがそうあったのだ。
不条理ばかりで、救われることのほうが少ない。それが、“世界”。
「努力をすれば報われる」なんて言葉はちっとも正しくなんかないし、仲良し親子がある日突然交通事故で引き裂かれたりもするし、殺人鬼が捕まりもせず安穏と生を謳歌できる世の中だ。
つまり、この世界を作ったやつは絶対歪んでいたはずなんだ。
だからこそ歪みから生じる“悪意”は消えないし、それはいついかなる時代も正しく生きようとするものを阻んだ。そして今このときも、阻み続けている。
現に今、俺の目の前で。
(お前は間違いなく忌むべき相手で、俺の敵だ)
悪意の塊に噴出す殺意。ジルという少女、その家族が悪意に晒されているという事実だけでも敬介のメーターの針は振り切れているというのに。
敬介の殺意の対象は、青年の心の内を見透かしたのか場違いに美しく微笑む。それがまた余りに不浄に見えて、敬介にただただ怒りが満ちてゆく。
けれど、まだ青い内面を抱える敬介の傍に立ち、黒木正宗が何を言うでもなく敬介の肩を叩いた。
それも、たった一度だけ。
(こいつが自分のことで親戚を頼るとは、にわかに信じられなかったが‥‥なるほど、相当に大事な友人らしい)
これまで生の感情をぶつける様子など見かけることも無かった親戚が、珍しく感情の外に足を踏み出そうとしている。
(ならばこそ尚のこと手を貸さぬ理由も無いだろう)
◇遥か彼方に角笛鳴りて
少なからず、この場に来た誰もが「最初にロキを包囲できるもの」としていたが、出端を挫かれた事に僅かな焦りを感じたものも居ただろう。
出方に二の足を踏む傭兵達。誰もが様子を窺い、好機を探っていた。その、混沌に属した静寂の中。
「ようやく、ここまで来たんです」
少女が‥‥黒羽 風香(
gc7712)がぽつりと呟いた。
鋼のように冷たく硬く重い空気の中、澄んだ声がその場の全ての生命の耳を打つ。
「オーストリアが解放されて、メイナードさんが生きると決めて、巻き戻しももうすぐで‥‥」
とつとつと語る言葉を、誰も遮ることはしなかった。
それに何よりロキ自身が、嬉々として少女の吐露する心情に耳を貸している事実に、少女の傍にいた夢姫は気付いていた。気づいて、敢えてそのままにした。
「なのに、今更誰かが不幸になる結末なんて‥‥」
途切れた声。小さく吐き出された息。同時に掲げられたのは‥‥
「お断りです!」
確かな意思と、冷たい銃口。それは今、ロキの姿を確かに捉えている。
風香の真紅に染まった瞳の傍で、黒い燐光が揺れている。それは覚醒の証。
少女の瞳の奥に怒りという強い感情が伺える。それを視界に捉えながら、悪意は楽しげに語った。
「誰も不幸にならない結末? そんな世界、造り得ると思いますか?」
ロキは風香の主張に至極満たされたような笑みを浮かべると、悪意に満ちた声で室内を震わせた。
「ほら、共産主義でも資本主義でも民主主義でもどんな国を想像してもいいですよ。国民全てが100%「幸せです」と心の底から答える国がこの星に存在しますか? 地球上には数多くの国がある。それぞれの国がそれぞれのやり方で幸せを目指そうとする。地球にADという暦ができて以降2000年もの歳月、育まれ培われてきたこの星で、誰も不幸にならなかった結末なんてありましたか? それでもあなたは「誰もが幸せに」なんてユートピアを求めるのですか? 勝敗の無い戦争など無いというのに!」
睨み付ける少女をあやすように、しかし憫笑すら浮かべながら、男は嗜虐心を隠そうともせず演説する。
その有様は愉悦に満ち、風香の苦悩や青さを至高の蜜として味わうような淫靡な表情すら伺えた。
だが、そこへ。
「随分と機嫌が良さそうだが」
冷たく切り込む青年の声。首を傾げる眼鏡の男の視界に、一騎のAU−KVが映りこんだ。
「それも‥‥目障りな兄が消えたから、か?」
周囲の者たちが息をのむ。なぜなら、その時ロキという悪意から余興の色が消え失せたことが誰の目にも明らかだったからだ。
「‥‥何を言うかと思えば」
ヨリシロの目の色が変わった。それでも、拵えた嘲笑に口元を歪ませ、卑屈な口調でロキは言う。
「そういえば貴方たちが兄を葬ったのでしたね。彼の存在など、とうの昔に忘れていましたよ」
「それは嘘だ」
AU−KVを纏うそれは、秦本 新(
gc3832)という名の青年だった。
新から短くも強い否定が示される。同時に青年は、その足を一歩だけ、しかし確実に前へと踏み出した。
一歩でも進めばリアンの命は保証しないと口にしていたロキだが、歩み寄る青年を止める様子は全く無い。
確信した新は、更なる一歩を踏み出す。
「黒幕気取りだったが‥‥ヤツの“下”だったのは、演技じゃなかった。違うか?」
「何を、馬鹿な」
ヨリシロは取り繕うように笑う。その顔には、先ほどより明白な焦りが浮かんで見える。
「貴方たちは目撃したでしょう。私に踊らされていることにも気付かず、哀れに限界の壁にぶち当たって惨めな死を迎えたユリウスという愚者を」
「‥‥いいや」
確信を得てさらにもう一歩踏み出す新。そして制止の声は、無い。
ロキは今、新という青年だけを捉えていた。否、捕らわれていたのだ。それは、隠し遂せていたはずの“真実”を青年に見透かされていたから。
いま、新の言葉にロキという存在の核が完全に掌握されているといっても過言ではない。
「少なくとも、私が目撃したのはユリウスというヨリシロの圧倒的な戦闘能力と、その身一つで国を転覆させようとする行動力、そして‥‥」
「‥‥やめろ」
「だからお前は、あの時“虐げられたクラウスに自分を重ね、思わずそれを助けた”んだ。利害の一致したメイナードさんに乗じたかのように見せかけ、ユリウスの殺害にも手を貸した」
それは、均衡を崩す決定打。それは、ラグナロクの結末を誘うヘイムダルの渾身の一撃。
ロキの内包していた闇を見抜き、それを一刀のうちに両断したのだ。
そして‥‥
「その事実を。兄への強烈なコンプレックスを。クラウスへ感じた同情を。メイナードさんへ感じているだろう優位性を。全てを誰にも悟られぬよう覆い隠し、虚言で固めた。それが、お前だ」
「やめろおぉッーー!!」
それが、開戦の合図だった。
新の手から、ロキの頭上をこえる高い軌道で放り投げられた手榴弾。それと同時に青年のすぐ後ろで息を吸う少女。
先の動揺を引きずり、新の行動に完全に気をとられたロキがメスの投擲でそれを破壊しようと上を向いた瞬間。
「お前にしては迂闊だったな。本命はこっちだ、ロキ」
黄昏より遥か強い光が辺りを照らし出した。
強烈な光と音の中。
誰の耳にも留まらないけれど、透明で真直ぐな歌声が響き始めたのを、傭兵達と一人の強化人間だけが知っていた。
◇開戦
ロキは新の放った手榴弾を追うように上を向いたため、地を転がった本命の閃光手榴弾が炸裂したとき、本命のそれとは逆を向いていた。新の手榴弾もメスの細やかな刃がバラしたのか、発動は不十分。ロキの目は冴え、驚きや怒りのほか、憎しみも混じった異様さをにじませて傭兵たちをねめつける。
一方メイナードはトリストラムの情報伝達により作戦内容を理解していたし、他の傭兵たちも十分に対策をこうじていた為に手榴弾の影響は及んでいない。
結果、ラグナロクの幕を開ける強い閃光と音は、リアンの目と耳をしばらく使い物にならなくしたが、同時に‥‥
「‥‥るさん‥‥私を‥‥辱‥‥」
魔の者の耳を封じることにも成功していた。
彼の耳には今、何者からの否定も誹りも、そして心潤す歌すらも届きはしない。
手榴弾という実害を経て、敵が完全に臨戦態勢に移った。つまり、リアンに対する保証が消え去ったのだ。そうとなれば、ジルの呪歌の効果が発動するより前に傭兵たちは動かざるを得ない。だが、これは事態にマイナスというより逆に“好機”に思えたのは全ての傭兵に共通の認識だったことは間違いないだろう。
かつてこれほど、この男が脆く見えた瞬間は、これまでになかったのだから。
音が認知できなければ目に頼るしかないだろうが、視覚の範囲外から襲い来る攻撃については対処のしようも無いだろう。油断無く床に向けて放たれた銃声‥‥直後、風香の跳弾が炸裂した。リアンを確保しているのとは逆側の足に叩き込まれた複数の鉛雨。ロキにとってそれは“予期せぬ突然の攻撃”に他ならない。
言葉による撹乱、隙を突かれた閃光手榴弾、奪われた聴覚、音のわからない世界での突然の攻撃。
慢心から叩き落されたロキにとっては全てが意表をつくものであり、連続する想定外の事態に完全に自制心や冷静さはかき消されていた。ロキ相手の心理戦に勝利するのは非常にハードルが高かったが、全ての“虚実”を白日の下に晒し、完全にロキを叩き伏せた新の腕は相当なものだ。その後の展開の有利さは、傭兵たちの想定の範疇を超えていただろう。
「今です! リアンくんを!!」
風香の言葉を待たずして飛び出す複数の影。夢姫、敬介、霧島 和哉(
gb1893)、アレックス(
gb3735)、そして‥‥メイナードだ。
「アンタが昔使ってた『黒剣』は用意出来なかったが‥‥」
突如、メイナードへ向けて放られた何か。
それに驚いた風もなく、男はファイアパターンのド派手なAU−KVの奥にいる赤毛の少年へ礼を述べる。
「‥‥“俺のロキ”を知っていたか」
「随分と因果なもんだな」
「恩に着るよ、少年」
構える大剣。久々の感覚に口の端を上げる男を「やれやれ」と見送りながら、アレックスは竜の翼に身を委ねた。
「プライドが高く、自分以外を見下し、操ることを愉しむ‥‥。計算高いが故に、計画通りのことしかできないのかな。崩れたときの“アドリブ”にこんなにも弱いなんて」
夢姫は、ロキの高慢さが満たされた直後、新によって叩き落される敵の心情をこれ以上ない好機と見ていた。結果、少女の予測どおり、傭兵側からの乱打にロキは崩れ落ちた。それを大いに利用せんと、夢姫の足は今、迅雷の影響以上に速く、確実に敵へと迫る。
今、精神的に崩れているロキは、身体的速度とは別に混乱状態にあるためブレーンが判断を下すのに通常よりコンマ数秒なりとも多くの時間を必要としていた。故に、ロキの速度は夢姫のそれに劣ったのだ。
夢姫に投擲された刃を、他でもない少女自身がすべてを弾き返したとき、ロキの右手には冷気を纏うような淡白色のAU−KVが、左手には描かれたパターン通りに熱量を感じさせる気迫のAU−KVが一騎ずつ。
彼らは激しい火花を飛ばしながら、高速でロキへと詰め寄っていった──。
◇雪解けの炎
(フィンブルの冬が終わり、今度は神々の黄昏‥‥か)
高速で駆ける装甲の内部。
真っ白で、余りに静かな時間。
業炎の熱気だけじゃなく、俺自身の血が沸騰してるんじゃないかと思えるほどに、熱い。
同時に、目の前の悪意の塊が堪えようのないほど憎い。滾る腹の底から怒りがこみ上げて止まらない。
ただ、対の双子星が「冷静になれ」と告げている気がして、奔り過ぎぬようコマ送りの時間をゆっくり確実に進めた。
あの冬の終わりに、俺は、相棒は、気が付いたんだ。
戦うことでしか願いを叶える術を知らなかった頃。敵の命を奪うことでしか救いを乞う手をとることができなかった頃。
冬が終われば、春が来ると思っていた。なのに、現実は余りに冷酷だった。
得たものが無いとはいわないさ。ただ、正直失ったものばかりだった気がする。
次に何を抱えて戦うべきかも解からず、ただ侵略者からこの世界を‥‥
手に届く範囲の人々を“見捨てることができずに戦争をしてきた”。
甘いといわれても仕方が無い。それでも俺は何かにつけ理由を作って戦おうとした。
けど、現実は受身で居るばかりだった。
戦いの場において『自分が戦う理由』『戦ってもいい理由』『ここにいていい理由『を探し続けていたんだ。
今思えばそれは「誰かに許してほしい」と、まるで乞うようだったかもしれない。
ふ、と息だけで笑う。脚部がトップスピードで回転し、激しくスパークしている感覚が心地いい。
「和哉」
思わず、相棒の名を呼んだ。つまり、俺は確信していたからだ。「今はもう、過去の自分と違う」ということを。
何より、この戦いにおいては。
「リアンを引き剥がすぞ‥‥ッ!」
それは、あの日、あの時、あの少女と出会った日から。
◇霧のような願いを、結晶にして
少し先を駆ける見慣れたAU−KVは、先ほど自分の名を呼んだ。
「リアンを引き剥がすぞ」、なんて当たり前のことを今更口に出しながら。
思わず、僕は笑ってしまった。言葉を交わすということは、他者を意識し、気遣う余裕があるということ。
つまりは、相棒の心に少しずつ希望とか未来とかいう類の何かが生まれてきたことを認知したのだ。
確かに不言実行もかっこいいとは思うけど、言霊が存外強いということを僕は最近覚え始めていた。
どうしても叶えたいことや伝えたいことは、示しておくのがいいんだと思う。
だから僕は、相棒の言葉にこう応えてみた。
「‥‥当然」
手にはサザンクロス。所有者の心に応じてより強く輝く剣。
この場に赴くにあたり、僕は“彼女”にこの片割れを手渡した。
あの時、剣の柄を手に取った彼女の手は、いつもよりずっと頼りなげだった。
『これはね‥‥僕が、己の願いを叶える為に振るった剣。‥‥きっと、貴方の力にも、なってくれるはず‥‥だよ』
そういって、柄を彼女の手に握りこませるように自分の手を重ねた。その時、彼女はこう言ったんだ。
『本当に、叶うかな』
正直、弱気な顔はあまり彼女に似合わなかった。
『願わなきゃ、叶わないと思うけど‥‥ね』
僕は僕の思うままを伝えた。それは、あの日、あの時、僕が願いを叶えた日のように。
『そっか』
彼女は、僕の顔を見て小さく頷くと、実に彼女らしい言葉で薄く笑みを浮かべてくれた。
『宝くじは買わなきゃ当たらないもんね』
(この想いを、この願いを‥‥この希望を侵す絶望なんて‥‥)
あの笑顔が、今も僕の脳裏にある。
そうだ、足掻かなきゃ嘘だ。信じなきゃ嘘だ。
僕は、僕らは、今までどれだけ足掻き続けてきたと思ってる? たかが数回、数ヶ月じゃない。何度も何度も、何年もだ。
「抗い続ける『人間』を嘲う者に‥‥負けたくない。負ける訳には‥‥いかない」
手の中のサザンクロスが一際強く輝いて、僕は不意にハッとした。
そうか、僕は今また強く願ったんだ、って。それなら、やらなくちゃ。
‥‥自分の見つけた、ちっぽけな『答え』を、嘘にしない為にも。
◇終末のうた
アレックスと和哉が今まさに混乱の頂点を極めるロキをゼロ距離に捉えた瞬間だった。メスを構え投擲しようとしたロキの手指の間から、突如メスがするりと落下した。
「‥‥歌が、効いた?」
歌い始めてから少し時間が経っていたけれど、恐らく和哉たちの予想より早いタイミングで、歌が効力を発揮した。
それはほんの僅かな間だけれども、確かにロキの身体を完全に呪縛したのだ。
あれだけ動揺させられ、隙を突かれ、耳を鈍らせ、不意打ちを食らえば意識が散漫になるのも当然だろう。
さらに言えば歌声など聞こえていなかったし、意識は完全に間近に迫った傭兵たちにあったのだ。
するりとロキの腕から落ちたリアンの身体を受け止めたのは、夢姫。
夢姫は、少年の頬に触れてその温度を確認すると、少年の身体を抱いてすぐさま次の手で出入口へ退避。
その夢姫を援護するように、ではない。間近に迫った双子星の意識は完全に「それを討伐すること」に向けられていた。
「トリックスターを気取ったかしらないが、それには善性が必要だ」
アレックスの拳にかつて無い力が篭る。業炎のタービンがいつもより遥かに熱い。
「お前に悪意しかないならば、ただの三下に過ぎない」
叩きつけられた拳が、無抵抗の敵の身体を確実に抉る。そのまま吹き飛ぶかと思えたロキの身体を、逆サイドに位置していた和哉が待ち受けた。
(一片残らず、滅ぼしてみせる‥‥!)
自らへ迫るヨリシロの肉体、その背を、渾身の一撃で切り伏せる。
瞬間、先ほどから相手の様子を具に確認していた敬介は、男の手が白衣のポケットに伸びようとしたのに気付いた。
「やっぱ隠し持ってやがったか」
白衣の該当箇所にむけ銃撃を放つ。破れた被服から飛び出したのは、小型装置だった。
ロキが態勢を整える前に迅雷で駆け寄り、それを回収。恐らく、メイナードに埋め込まれた爆発物の起爆装置だろう。
「そうとなれば‥‥もう、怖いものなんてありません」
退避する夢姫とロキの間に割って入るように立つ風香が、兆弾で再びロキの身体を穿った。
「おねがい、この子を‥‥」
夢姫は、最後尾に位置していたバハムートを纏う少女へと少年の身体を譲り渡す。
当の少女は、その表情こそ装甲に隠れて見えないが、差し出された少年の身体を抱きとめるとこんな言葉を返した。
「解かってるから早く行けば」
「‥‥うん、ありがとう」
ふわりとした笑顔だけ残し、夢姫は再び前線へと駆けていった。その直後。
「リアン、目が醒めた‥‥?」
瞳を開けた少年が、動揺した様子で周囲を見渡す。その素振りを見て、装甲を纏う少女・愛梨が口を開いた。
聞き覚えのある少女の声に、リアンは装甲の主をしげしげと眺めたが、恐らく中身が愛梨だろうことを認知するとようやく安心したように微笑んだ。
「大丈夫ですか? 首以外に外傷は無いようですが、念のため練成治療は施しておきましょう。ま、あとは“彼女たち”が何とかしてくれますよ」
微笑むトリストラムが淡い光に包まれると、リアンは心の中身から温かい毛布にくるまれたような優しさに目を細める。
トリストラムの向こうでは、聴力を回復し、歌の呪縛すらも弾き返したロキと傭兵たちが激しい戦闘を繰り返している。
(どいつもこいつも、ってわけじゃないけど。ホント、身勝手で独り善がりな父親…)
その中には無論、自らが抱える少年・リアンの父の姿もある。少年が自分の父の存在を確認したとき、見せた感情は「喜び」ではなかった。「驚き」や「戸惑い」の表情をしていたのを愛梨は見逃さなかった。
(リアンも、あたしみたいに‥‥父親に失望し、憎むのかな。でも‥‥)
それでも、少し願ってみたりしたくもなる。自分と少年を重ねればこそ。彼の家族がこんなにも必死に「家族皆で生きるのだ」と願い、戦う様を見せ付けられれば。
「生きてれば‥‥やり直せるのかも」
◇黄昏の終わりに
「人間の存在が、全てを狂わせる‥‥兄を、私を‥‥そしてバグアを」
怒りを憚ることなく面に出したロキの表情は、既に人のそれではない。
彼が兄と呼んだユリウスによく似て、伝承に継がれる悪魔のような山羊の角が頭から生え、眼球の周囲は窪み、ぎょろりと飛び出す目だけが爛々として、おぞましい形相をしている。
先ほどまでメスに頼っていた攻撃も、もう武器など必要ないだろう。その手足から生える長く鋭利な爪が十分な凶器と化していた。
「こんな姿を見られるとは世も末‥‥もはやこの場のお前たちすべて、その存在を許すわけにはいかない」
“兄と同じ元の姿”を晒していることが相手にとって相当屈辱なのだろう。だが、例の能力を用いて逃げようとしないところを見ても察せられるように、ロキは余程体力を削られたのだろう。
今なお響く終末の歌が、静かに物語の幕を引こうとしている。
「行くよ‥‥相棒!」
アレックスの耳に相棒の声が聞こえる。
和哉も同じことを考えていたんだろう。そう思えると笑えるから不思議なものだった。
口の端を上げる。わかってる、と心で告げる。同時に少年たちの身体から、竜の紋章が浮かび上がった。
それは余りに美しく黄金に輝きながら明滅を開始。ラストスパートへの序曲が、始まる。
二人の少年のエミタに爆発的な負荷がかかり始める。それと引き換えに、スルトの炎はより熱さを、ヨトゥンの霧氷はより冷たさを増した。
アレックスの思いを体現したかのように硬く握り締められた拳がロキの腹に叩き込まれる。が、堪えた悪意は同時にAU−KVの装甲を難なく貫き、少年の腹を鋭い爪で裂いた。その攻撃の隙を突いて和哉の剣が背面に再び食らいつく。一撃は翼の根元を深く焼き焦がし、終ぞ片翼を大地に墜落せしめた。
一方のアレックスも噴出する血をいとわず、ロキの腕を握りとめると、怒りも露に渾身の力を込めた。ロキの腕から発せられる鈍い音。短くも強烈な絶叫が上がったのを聴きながらアレックスはさらに拳を握り締めた。
過ぎるのは、これまでのこと。奥に見える相棒の黄金竜が先ほどより早く明滅を繰り返している。そろそろ、時間だ。
少年は息を吸い込んだ。丹田に力を込める。思いの丈を、叩き込んでやる。
「これで――終わりだッ!」
黄金の瞳が、一際強く輝いた。
ゼロ距離の相手の顔面に、渾身の一撃を見舞い、そしてそのまま大地に叩きつけるように振り下ろす。未だ滾るように熱いのに、少年の覚醒が解けてゆくのがわかった。
続くは和哉。高出力のレーザーが、体勢を立て直す直前の悪意の背を払い、もう片翼をそぎ落とす。
いつもよりずっと身体が熱い。冷たく静かに流れているはずの血が弾む。心臓の音が大きい。そうか。
「これが──僕の、答えなんだ」
更なる一撃を振り下ろす。その刃はロキに握りとめられた‥‥はずだった。抵抗無くするりと降りた刃の先、ぼとりと落ちた指は焼ききれて血の出る気配も無い。和哉の刃がロキの手をそのまま裂いたのだ。
覚醒の解けた二人の少年を退避させるべく、滑り込んだのは敬介。
彼の手の中には一振りの刀が納まっていた。いつか来る再戦を予期し、方々無理してでも調達した奇跡を起こすための切欠。小さな一歩。
それも、親しい彼女の幸せのため。‥‥戦い続けた、独りの父親のため。
「世界は歪んでるよ。どんなに正そうとしても、悪意は消えない。でもな‥‥」
薄青色の長大な剣を鞘から引き抜く。敵の目の前で、躊躇無く。
「お前みたいな悪意は、この世界に、地球上にあるべきじゃない」
敬介の利き手から翼の紋章が放たれ、腕の周囲を舞う。刹那、視認することすら厳しい速さで、青年の腕が動く。
振るわれた刃が真っ直ぐな剣閃を残して肩口を切りつけたかと思えば、それはもう一度、今度こそ渾身の力と願いを込めて全力で振り下ろされた。
そこへ、畳み込まれるルドベキアの矢が躊躇の無い軌跡を描いてロキの喉笛へと突き刺さった。
「神話のように、相討ちになんてさせない‥‥誰も欠けずに終わるんです」
うめき声もあがらない。吹き散る血飛沫にも手を緩めず、風香は思いの丈を番えた矢に込めた。
「そんなに業の果てが気になるなら、他人のものではなく、自分の果てでも見ていなさい!」
放つ強力な一撃。極限まで引き絞られた矢は、吸い込まれるように飛び出た眼球に直撃。聞くに堪えない叫びが部屋を割り、ロキは顔を覆ってよろめいた。
「人間が‥‥穢れた忌まわしい猿どもが‥‥」
「穢れてるのは、貴方です」
迅雷も使わず、一歩、また一歩と夢姫がロキへ近づく。敵は悪意を隠そうともせず、夢姫へ残る腕で襲い掛かる。
「‥‥それに、気付きました。貴方は“自分の限界を突破する”勇気も無いんですね」
振り下ろされた獰猛な爪。それを受け止めた夢姫。力比べでは分の悪い夢姫だが、少女は敢えてその勝負を買って出ていた。
「人は、自分の限界を超えながら成長していくいきもの。だからこそ、もう一度言います」
鍔迫り合いに払われる爪。
「貴方は‥‥本当に、かわいそう」
薙ぎ払った刃はそのまま、夢姫は回避不能の一撃をロキへと刻み付けた。
苦悶の表情のまま、濁った思考のロキに以前のような面影はない。そのロキを、新は様々な思いを込めて見下ろした。
「やっと、ジルさんに家族が戻る筈だった」
思い起こすのは、始まりの日。あの日からどれくらい経つだろう。追いかけて、掴み損ねて、手に入れて、失って。
幾度繰り返しただろう。何度彼女は、そして戦友たちは傷つき、苦しんできただろう。
想いは溢れ、その手にかつて無い力が込み上げる。後ろから聴こえてくるのは、変わらない、美しい歌声。
「時間は掛かっても、メイナードさんが、リアン君が、そして彼女が笑顔で居る事が出来る‥‥そんな家族が」
接近する新は獅子牡丹を構え、その黄金の鍔が照り返す光に気づいて爪を構えるロキ。
だが、動きの緩慢なロキは、持ち前の素早さを生かすこともできず、武器のリーチを覆すこともできぬまま新の刃をその身に浴びる。
「お前にはわからない。敵わない兄を身勝手に呪い、殺し、血や絆を玩ぶことでしか自らを肯定できなかったお前には。だからこそ‥‥摘ませてたまるものか」
袈裟懸けに切り下ろされた強靭な刀が、悪夢を両断。迸る血潮と地獄の淵に招くような絶叫が、新へと直に浴びせられる。青年の装甲にねっとりとした体液が多量に返るも、新は引くことなく更なる追撃に刀を引き抜いた。
「業が好きなら鏡でも眺めていれば良い。ロキ‥‥お前の業が、一番深い」
悪意の核に刃が差し込まれる瞬間。その手応えは今まで屠ってきたどのバグアよりも生生しくリアルに感じられる。
真っ二つに裂かれたロキの身体は、異次元にずれ落ちるように上半身から崩れ去っていった。
──時刻は黄昏。
部屋の窓に差し込む斜陽は思いのほか神々しい金色をしていて、いつもより眩しく感じられたものだった。