タイトル:今年も掃除お願いしますマスター:紀藤トキ

シナリオ形態: ショート
難易度: 易しい
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2009/08/05 02:27

●オープニング本文


「ええと、だ。今年も大勢で世話になりに来た。世話をかけるが、宜しく」
 早朝、故郷の村にて。車を降りた篠畑は、似合わないサングラスを胸元に差して、そう言った。
「他人行儀な言い草だな、タテ坊。何か悪さでもしたか?」
 くつくつと笑う叔父に鼻の横を掻きながら、篠畑は公民館へ向かう。
「こんな何も無い村でよければ、幾らでも遊んで行ってくれ。ワシらも張り合いがあるでのう」
 そう言う館長は、去年より老け込んだようだ。とうに定年は過ぎているのだが、他に成り手も居ないので相変わらずのお役目らしい。
「他所から人が来たりしなければ、ここを使う人も余りいないですからね」
 手伝いの中年婦人も、去年と同じ顔を綻ばせていた。今年も、シーツやらの洗濯は村の有志がやってくれるらしい。台所に運び込んであった冷蔵庫や調理道具も、実はほとんどが公民館の備品だったようだ。
「この村から出て、お国の為にがんばっとるのはタテ坊くらいだからな。わしらがのんびり日を送れるのも、お前達のお陰、なんだろ?」
 大きくなったもんだ、と目を細める叔父に、篠畑は苦笑する。
「ま、俺はともかく、連中は皆、立派な奴らだと思う」
 あるいは若い身を戦火に晒し、あるいは一度引退したにも拘らず再び銃を取って。いずれもが、危険を顧みずに傭兵と言う立場に己を置いている。
「だから、せめてここで遊んでる間くらいはのんびりしてもらいたいな」
 既に明るくなった水平線の向こうを見ながら、篠畑はそう呟いた。その横顔をちらっと見た叔父が、同じ様な表情をしているのには気づかずに。
「朝の漁に出とった連中が帰ってきとるようだ。どうだ、朝飯は焼き魚でも」
「いや、そろそろ掃除の手伝い連中が来てくれると思うんだ」
 出迎えなければ、と言う篠畑の背を、叔父の手が変わらぬ強さでパーン、と叩く。
「勿論、お客人も一緒にだ。朝を食っとかんと働けんぞ? ん?」
 後で届ける、と言ってふらっと立ち去る叔父の背に、篠畑はほんの少し頭を下げて。見えなくなるまで、そのままの姿勢でいた。

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「よう、来たな。今日は余り羽を伸ばせんだろうが、明日の為に頑張ってくれ」
 やってきた面々に、篠畑は手を振る。依頼の用件は、篠畑の生家の大掃除。去年の7月に傭兵数十人で宿泊してから1年ほどの間、叔父が風は通していたようだがそれ以外は放置されている。
「ま、埃は積もってるだろうし、虫だの蛇だのが住み着いてるかもしれん」
 田舎暮らしなら気になら無いだろうが、遊びに来る傭兵達の精神衛生を考えれば清潔にしておくにしくは無い、と篠畑は言った。ちなみに、彼の生活能力は著しく低い。本人も自覚しているが故の、傭兵への依頼だった。
「間取りは、大広間だな、まずは」
 古くは集まって祭事などもしていたらしく、かなり広い。もっとも、篠畑が物心ついた頃にはそんな事はなくなっており、彼にとっては、隅に仏壇がある広い部屋という程度の認識だ。
「それ以外は小さめの部屋が幾つかある。畳敷きがほとんどだが、板の間もあったと思う」
 まずは、そこの掃除。寝るのは、基本的に広間で雑魚寝だが、その辺の部屋を個室代わりにしても構わない、と篠畑は言う。ただ、古い建物なので防音は期待しないでくれ、と付け足した。
「後は布団干しか‥‥。一応、40人分位はあったはずだ。全部使うかどうかは判らんが、そのつもりでやった方がいいと思う」
 それ以外に台所やお風呂、トイレなども見ておかないといけない。幸いな事に水づまりなどはしていないようだ。
「そうそう。裏庭の八朔は、今年も食べごろらしい。ま、手が空いたらおやつにでもするといい」
 樹生りのまま、手も加えていない物だから鴉に食われていない物を探す所から、になるわけだが。食べ物が豊富なのもあって、人間が食べる分もちゃんと残してくれているようだ。
「さて、じゃあ朝飯食ってから、始めるか。この人数でも、大仕事だが、夕方までには終わると思うぞ」
 何年もほっぽらかしていた去年よりはましなはずだ、と篠畑は笑う。ちょうど、下の方から叔父のライトバンが上がってくる音がしていた。

●参加者一覧

神無月 紫翠(ga0243
25歳・♂・SN
幡多野 克(ga0444
24歳・♂・AA
セシリア・D・篠畑(ga0475
20歳・♀・ER
国谷 真彼(ga2331
34歳・♂・ST
不知火真琴(ga7201
24歳・♀・GP
百地・悠季(ga8270
20歳・♀・ER
白虎(ga9191
10歳・♂・BM
トリシア・トールズソン(gb4346
14歳・♀・PN

●リプレイ本文


 篠畑の家への途上、擦れ違った婦人は去年も世話になった公民館の人だった。
「今年も、またお世話になります」
 挨拶する国谷 真彼(ga2331)の横から、セシリア・ディールス(ga0475)が会釈する。
「‥‥枕カバーと、シーツ、は‥‥」
「ああ、大丈夫。洗って届けますから」
 そう返事して、彼女は坂道を下っていった。
「ああ、御飯と、こっちは焼き魚か?」
 玄関先で篠畑が声を上げる。掃除に掛かる前に、まずは朝食のようだ。

「まだ1年なのに‥‥。なんだか‥‥懐かしい感じが‥‥する‥‥」
 縁側に腰掛けた幡多野 克(ga0444)が、晴れた空を見上げてそう呟いた。
「ちょっと、いい? 去年も来てるって聞いたから、注意点とか教えて欲しいんだけど」
 食後に一息ついていた克は、百地・悠季(ga8270)の声に横を向いて、そのまま固まる。オレンジの袖無しTシャツと黒のハーフパンツという開放的な服装からこぼれる若妻の四肢は、色んな意味で危険だった。克の反応に気づいた悠季のからかいスイッチが作動する。

「さあ、張り切って頑張りましょうね」
 しばしのち、楽しそうに入り口へと回る悠季の後ろで、克はぐったりしていた。
「とりあえず‥‥前回は、参加しなかったですけど‥‥。さすが田舎‥‥。うちが大きいので‥‥部屋数多くて、疲れそうですね」
 家の周囲を回っていた神無月 紫翠(ga0243)が、そんな感想を言う。
「それでは、改めてお邪魔します、です」
 入り口で挨拶した不知火真琴(ga7201)は、そのまま広間の仏壇前へ。
「ろうそくと御線香、使いますね?」
 正座して手を合わせる彼女を、セシリアがじっと見つめていた。
「よし。まずはこれを庭へ、だね。‥‥重っ‥‥」
 早速、布団を運びはじめたトリシア・トールズソン(gb4346)が、よろよろと廊下を歩く。
「っと、危ない。去年は、リレーしたって聞いたわよ?」
 転びかけた所で、悠季が布団を受け止めた。
「ボクは子供だから、干すのと叩くのに回るのにゃー」
 庭では、メイド服姿の白虎(ga9191)が元気よく布団叩きを振り回している。


 セシリアが仏壇前の映りの悪い写真を見てから、きゅっと篠畑の袖を掴んだ。その写真の女性は響子と言う名で、篠畑がかつて結婚を申し込んだ相手だ、と彼女は聞いた事があった。
「‥‥お祈り‥‥。お参り? ‥‥の仕方。教えて下さい‥‥」
「ああ。こんな感じだ」
 頷いて、篠畑はリンを鳴らし手を合わせる。
「相手が聞いてくれている、と思って心の中で語りかければいい。‥‥んだと思う」
 自信なさげに最後に付け足した篠畑を、真彼はいつもの微笑で眺めていた。死者に会わせる顔が無いと思う彼は、まだ郷里の妹には手を合わせることが出来ないでいたけれど。
「‥‥ありがとう」
 セシリアの頭を撫でてから、篠畑が柔らかく微笑んだ。
「僕も、いいかな」
 拝み終えても動かず遺影を見つめていたセシリアに、真彼はそっと声を掛ける。

「これは‥‥、遣り甲斐、ありそうですね?」
 廊下に立った紫翠が眼鏡を指で押さえる。部屋への入り口が、見える範囲で4つ。廊下は曲がってまだ続いている。
「‥‥2人とも、背、高いから‥‥良かった」
 克が絞った雑巾を手渡した。彼ら2人は小部屋の担当。上から拭き掃除を、三角巾にエプロンスタイルの紫翠が、畳と窓を克が分担するようだ。今年も祖母の教え通りに、てきぱきと片付けていく克。
「けほ‥‥埃が、酷いですね」
 電灯を拭いた紫翠がむせる。眼鏡に埃が積もりそうで、外してポケットに差した。これが、昼食時にあの事件を引き起こす原因となるとは、誰に予想できただろうか。

 廊下の突き当たりからは、ばしゃばしゃ水音が聞こえていた。心配になって覗いた真琴が、脱衣所に置かれたメイド服を見て納得する。
「アヒル部隊、出撃にゃー♪」
 スクール水着のお子様が、遊びながら仕事をしている様子だった。
「あまり長く浸かってると、ふやけますよ?」
「うにゃ、水だから平気なのにゃー」
 扉越しのそんな会話に、まぁいいか、と後にする真琴。彼女の持ち場は台所だ。

「‥‥そこ」
 縁の下では、トリシアが狩人の目を見せていた。近づいてくる少女に退散しようとした蛇の頭部を、ナイフで一突き。手間を掛けると臭気を発する場合もあるので手際のよさが命なのだ。
「これで‥‥庭と合わせて、2匹」
 普通の家屋に複数いる事は珍しいが、このサイズの家だとまだ戦果を望めるやもしれない。少女は仕留めた蛇を血抜きの為に吊るし、再び軒下へと挑んだ。

「さぁ、手分けしていかないとね」
 広間で、悠季がパンパンと両手を叩く。彼女はこの後に50人以上の仲間が来る事を、極めて現実的に捉えていた。
「‥‥健郎さんもぼーっとしてないで、掃除‥‥です‥‥」
 バケツ脇にしゃがんでいたセシリアが、無表情に雑巾を渡してくる。分担は、背の高さから男性陣が上、女性陣が下と自然に決まっていた。
「子どもの頃、欄間の模様が怖かったりしませんでしたか?」
「怖くもあったが、面白いと思うこともあったなぁ」
 などと話していた所に、台所から真琴の悲鳴が響く。セシリアと真彼が急いで駆け出した。

「く、蜘蛛が‥‥」
 普段の快活さはどこへやら、壁際にべたっと背中をつけて、泣きそうな声で反対側を指差す真琴。離れておきたいが、目を離すのも怖いのだろう。
「‥‥えい‥‥」
 這っていた小さな蜘蛛を、セシリアが一撃の下に処理した。
「蜘蛛の巣は大丈夫なのかい? 蜘蛛の卵も?」
 真彼が、真琴に問う。こくこく頷く彼女の頭の上へ、青年の顔がふと上がった。
「あ」
 視線を追った真琴の顔が、強張る。続いて上がった悲鳴は、先に倍する物だった。


 真琴の悲鳴に慌てて集まってしまった一同は、時間も良かったので昼食にする。
「お昼は素麺を茹でるわよ」
 手軽に出来るし夏らしい、というリクエストを聞いて、午前中に篠畑の叔父が届けていた。準備に掛かる悠季の背中を、トリシアが待ち遠しそうに見る。素麺を食べるのは、初めてなのだとか。
「‥‥待っている間に、麦茶でも淹れますかね?」
 冷蔵庫を開けた紫翠が扉側に入っていたピッチャーを紫翠が手に取る。グラスに注がれたそれに、暑さに茹だっていた能力者達は我先にと手を伸ばし。
「こ、これは素麺汁」
 最初の被害者は、お約束的に篠畑だった。
「おや」
 眼鏡を掛けなおした紫翠がじっと見てみると、確かに『つゆ』と書かれたラベルが張ってある。
「‥‥大丈夫、ですか?」
「あー、うん。大丈夫だけど水をくれ」
 もともと飲んでも平気なものだ。改めて麦茶を飲み、素麺の出来上がりを待つ。
「一つ目、できたわよ。冷やすのと盛り付けはお願いね」
 コンロの数的に、一度に出来る量には限界があるらしい。真琴が麺を引き取り、冷水で締めてから皿へと盛った。
「頂きますっ」
 まずはお腹の減ってる若い子から。勢い良くすする白虎を見てから、トリシアも一口。二口目からは、元気良くズルズルと。
「‥‥そういえば虫、思ったより出てこないですね。‥‥噴霧薬でも、使いますか」
「下からやれば一網打尽なのにゃ」
 紫翠と白虎のそんな相談に、首を傾げるトリシア。
「あまり、床下にもいなかったよ」
 去年駆除されてから、それほど繁殖してはいないようだ。
「やっぱり、蜘蛛がいるからです、かね‥‥」
 乾いた笑みで、色々想像している真琴は、まぁ置いておこう。

 昼食後、掃除は陽があるうちにほぼ片付いた。
「にゅー、フカフカーにゃー」
 白虎は、取り込んだばかりの布団に転がって御満悦のようだ。
「挨拶は、去年も来てる人の方がいいわよね。買出しに行こうかしら」
「あ、私も行きたいな」
 上に浴衣を羽織って身支度をする悠季に、トリシアと白虎のお子様コンビが挙手をした。荷物持ちも必要かと紫翠もそっちに回る。
「スーパーとかは無いんだが、角の鈴木さんとこが大概の物を扱ってるから」
 篠畑の言葉に、道にあった民家の姿が思い浮かんだ。そういえば、ポストの横に『鈴木商店』という古い看板があったような気がする。
「‥‥俺は、挨拶に。お土産も持ってきた、から」
 荷物から菓子包みを出してきた克。それにセシリアと、真琴が公民館への挨拶回りのようだ。
「‥‥健郎さんもお願いします‥‥」
 頷く篠畑。
「じゃあ、僕は留守番をしていよう」
 真彼がそう言ってから、裏庭の方へ眼を向けた。皆が出かけている間に、八朔を取り込んで置くのも悪くない。


「あい。少し待っとってなぁ」
 声の大きいお婆さんは、悠季の注文を聞いて電話を掛け始めた。
「この辺じゃあ、魚は売っても商売にならんけんの。誰か獲りに行くじゃろうから、分けてもらうとええ」
「ありがとうございます。お手数おかけします」
 若奥様な笑顔で応じる悠季。
「お菓子‥‥見たこと無い物ばかりだにゃあ」
 申し訳程度に置いてあるのは、お年寄りがたまに買っていく駄菓子だった。老婆の勧めで1つ食べてみる。
「‥‥面白い味がする」
「野菜、貰えますか。カレーを作りたいんです」
 トリシアの声に、老婆は顔の皺を深めて笑った。野菜の類は、扱っているらしい。
「ま、採れる時期には物で交換するんじゃがね。置いておこうとすると、蔵がいるけぇな」
「少し、多めにお願いします。明日の分も作っておきたいので」
 悠季の言葉を聞いて、老婆は嬉しそうに頷いた。奥に回って、玉葱とジャガイモにニンジン、肉も運び出してくる。大きな蔵は離れた場所にあるらしく、残りは後でまとめて届けるそうだ。
「‥‥結構、重いですね?」
 帰り道。両手に袋を下げた紫翠はゆっくり歩く。
「お菓子は、後でね」
 夕食の前にお腹一杯にならないように、と釘を刺された白虎が、ちらちらと袋へ目をやっていたり。
「‥‥今年も、お世話になります」
 公民館で、出迎えた館長へと克がお菓子の箱を渡す。
「おお、これはご丁寧に。‥‥ところで、タテ坊。どっちがお前の嫁なんじゃ?」
 去年も聞いたからかいに、篠畑がセシリアの手を取った。
「‥‥ぁ」
「まだ嫁という訳じゃないが。こちらのセシリアと、だな」
 鼻の頭をかきながらしどろもどろに説明を始める篠畑を見て、真琴がくすくす笑う。まだ知らなかった克が2度、瞬きした。それから、やっぱり笑う。
「‥‥篠畑さん、ディールスさん。‥‥おめでとう、ございます」
「ですね。改めておめでとうございます」
 克と真琴が、声を重ねた。
「ああ、ありがとう」
 照れくさそうに礼を言う篠畑。隣で会釈するセシリアの頬が、少し赤く見えた。
「なんと、こんな若い娘さんを誑かしおったのか。でかした!」
 奥へ向かった館長は、すぐに電話を掛け始めたらしい。声は、玄関まで聞こえてくる。
「あの様子だと、明日の夜は大変そうだな‥‥」
 苦笑する青年を、少女は不思議そうに見上げた。


「あら。真彼は、どこ?」
「あ、八朔、先に頂いてますよ。切れ目は入れてあります。食べませんか?」
 台所に荷物を置きながら、きょろきょろする悠季に、裏庭から声が掛かった。夕焼けの逆光のシルエットの中、眼鏡と包丁だけが赤く輝いている。
 が、悠季は余り動じなかった。
「いいわね。カレーを仕込む前に少し水分補給しておこうかな」
「絞ってジュースにしても美味しそうですね」
 真琴は、そのままジュース当番に。
「ここはセシリアさんが剥いて、ベア隊長に食べさせるべきだにゃー」
 白虎に言われて素直に小刀を手に取るセシリア。危なげ無い手つきで剥いてから、手の平に載せて。
「‥‥はい」
「これは、しっと団が貰っていくのだー」
 だだーっと駆け寄ってきた白虎が、それを奪っていく。
「これがしたかったのか」
「‥‥言ってくれれば、剥く位します、けど‥‥」
 微妙に空しい勝利だった。
「少しだけ散歩‥‥、宜しければ健郎さん‥‥行きませんか‥‥?」
 八朔を剥き終えたセシリアが、篠畑に声を掛けた。
「‥‥遣り残し無いか、見て来ますね?」
 紫翠が席を立つ。庭から回収してきた蛇を捌きながら、トリシアはカレーも手伝う気満々だ。

 夕日に照らされて、2人は海辺を歩く。
「手、繋ぐか?」
 返事は無く、ただ細い指が添えられるのを篠畑は感じた。去年と今、同じ場所なのに違う気分だと言うセシリアの言葉を、篠畑は相槌を打ちながら聞く。自分もそうだ、と返してから、少女をそっと抱き寄せた。

 帰る頃には、カレーのいい匂いは玄関まで届いていた。
「多めに作っちゃったけど、大丈夫よね。‥‥あ、健郎。口紅ついてるわよ」
 手を口へ持っていく様子にニヤリと笑う悠季。
「にゅふふふふ」
 克を手伝って食器を並べていた白虎が、嫌な笑いを浮かべる。


「乾杯は、ジュースでいいですか?」
 真琴の声に否は無い。篠畑の合図でグラスが鳴り、賑やかな夕餉が始まった。意外と美味しい蛇の炙りを皆で味見したり、切れ方が独特な野菜を見つけて笑ったり。新鮮な魚介のマリネに舌鼓を打ったり、克が物凄い勢いでお櫃を空にしてもう一度御飯を炊きなおしたり。
「ふぅー、もう一仕事だにゃあ」
 総帥は辛いぜ、とか言いながら十字架とスコップを手に出て行く白虎。今日の内に色々と準備に忙しいらしい。

「少し、飲みませんか?」
 夜更けの縁側。ふと目が醒めて空を見ていた篠畑に、真彼が言葉を掛けた。
「‥‥そうだな」
 ただ静かに、杯を交わす。言葉にせずとも、2人とも同じ顔を思い浮かべているとわかっていた。
「克も、誘うか? いや、寝てるかな」
 そう呟いて、すぐに自分で打ち消した。
「篠畑君はどこまでも生き汚く、彼女の為に生き延びてくださいね?」
 冗談めかした真彼の声。首肯する篠畑を見て、彼は眩しげに目を細めた。
「うちも、いいですか?」
 少し話したい気分だからという真琴に、篠畑は頷く。ぽつりと真琴は尋ねた。故郷は大切なものか、と。
「それがあったら、少しは自分を大事にしたり‥‥して、くれたり‥‥するでしょうか」
 虫の音が、言葉の切れ目を埋める。3つ数えるより早く、真琴が沈黙をかき消した。
「‥‥や。変な事、聞いてるのは、解ってるんですけど、ね」
「変だ、とは思わんよ。ただ、な」
 笑ってみせる真琴に、篠畑は言葉を選ぶように続ける。自分にとっても、故郷は帰る場所ではない、と。
「ここは、振り返ればそこにある場所、だな。帰りたいと思うのは、俺を待つ人がいる場所だ」
「セシリアさん、ですか?」
 真琴を見返して、篠畑は頷く。
「セシリアも、だ」
 今日この場にいる人、それ以外も。心配顔がいつの間にか脳裏に多く浮かぶようになって。
「見ないでいられるほど俺は強くなかった。それだけの事だ」
「‥‥それは強さでは無いでしょう」
 ぼそ、と口を挟んでから、真彼は苦笑した。
「おかしいな、それほど飲んだつもりはないんだけど」
 いつしか笑顔を微笑に変えた真琴と2人の男の間にまた、穏やかな沈黙が漂う。虫の音と遠い波音が、彼らを優しく包んでいた。