タイトル:金と黒の内緒の話マスター:紀藤トキ
シナリオ形態: イベント |
難易度: 普通 |
参加人数: 17 人 |
サポート人数: 0 人 |
リプレイ完成日時: 2009/10/23 22:50 |
●オープニング本文
「あ‥‥。お久しぶりです。エレーナさん」
「ホント、久しぶりよねぇ。何だか、忙しくって」
ラストホープに訪れたエレンは、顔見知りの少年の元を訪れていた。場所は、カプロイア伯爵の別邸のひとつ。相手はハッと目を見張るほどの美少年なのだが、エレンは寛いだ様子でお茶など淹れて貰っている。途中で足止めされたイギリスの土産、らしい。
「1人暮らしは、慣れた? 御飯はちゃんと食べてるのかしら」
「はい。屋敷の管理の方が居られますから、1人という訳ではありませんし」
綺麗な所作で注がれる紅茶は、芳しい香りを立てた。去年の冬、この奇妙な美少年とエレンが奇妙な共同生活を送ってから10ヶ月ほどになるだろうか。彼女に課せられたのは護衛のはずなのだが、余りに生活観の欠如した少年に持ち前の世話焼き体質が物を言って、1ヶ月。少年は少しの逞しさと、世界への困惑を深めて巣立っていった。
自分の世界に土足で踏み込み、色々と壊していったエレンの事が、カノンは少し苦手だ。が、それは嫌いとイコールな訳ではなく。
「今日は、夕食をどうですか。美味しそうなキノコを頂いたので」
話したいことも、幾つもある。そう言うカノンに、エレンは目を細めた。
「フフフ、じゃあ久しぶりに何か作りましょうか」
「それで、今日は何か御用ですか?」
食事も終え、お茶を飲みながらカノンが言う。エレンが何かを話したそうにしているのは、彼にもわかった。それ位は、わかるようになった、のかもしれない。
「うーん。実は、ね。うちの母が煩いのよ。カノン君をまた連れてきなさい、って」
「お母さんが、ですか? 僕は構いませんけれど」
首を傾げるカノン。彼にとって、あの年代の女性の知り合いは少ない。遠慮の無い物言いと元気さに、エレンの血筋なのだと思った記憶がある。それは、別に不愉快なものではなかった。
「‥‥わかってないわね。やっぱり」
溜息をついて、机に倒れこむエレン。少し酒の進みが速かった気はするが、この程度で酔う人ではなかった、とカノンは思う。疲れているのだろうか、と首を傾げた。
「そういえば、カノン君」
下から、蒼い瞳が見上げている。
「好きな人、っている? 友達じゃなくって、結婚したいと思う人」
「‥‥え。結婚、ですか?」
予想外の言葉に、固まった。エレンが、ゆっくりと言葉を並べていく。傍にいて欲しい人。離れていると寂しい人。自分にとって一番の、そして相手にとって一番でいたい人。人生を共にしたい人。
「‥‥気になっている人は、います。‥‥でも、どうなんでしょう。これが好き、という物かどうかは‥‥」
突然の質問に、戸惑いつつも。カノンは胸に手を当てて考えてみた。心臓の音が、少し大きく感じる。
「ふーん‥‥」
その返答は、エレンのお気に召さなかったようだ。ややあってから、彼女は指先でカノンの頬をつついた。
「私の事は、好き?」
「‥‥え? ええ」
質問の意図が繋がらないながらも、頷くカノン。目の前の女性が本質的に善い人だと、彼は理解している。それは、人として好意に値する事だとも。エレンの淡い桃色の唇が、小さく動いた。
「じゃあ、私と結婚、‥‥してみる?」
真面目な表情は、すぐに笑みに崩れる。冗談だ、と思ったカノンは少しだけほっとした。
「実は、うちの母はカノン君を私の結婚相手に、って思ってるみたいなのよね。それで、今日はカノン君に特定のお相手がいないか、聞きに来たの」
「あ、そう‥‥なんですか」
瞬きするだけの少年に、エレンは目を細めた。
「‥‥さっきのは、ちょっぴり本気。カノン君には幸せになって欲しいし、守ってあげたいとは思うの。でも、一番じゃないのよ、ね‥‥」
つんつん、と頬をつつく指に、困ったような顔をするカノン。けれども、嫌だとも不快だとも、言わない。そんな様子が、エレンの胸中に小さな苛立ちを産む。自分の事なのに、動けない少年。自分の事だから、動けない少年。それは、自分の姿を鏡に映すようなものだと、わかるだけに苛立ちが募った。
「‥‥この人は、全く‥‥」
言いたいことだけを言って眠りに落ちたエレンに溜息をつく。実の姉とは全然違う、姉の様な人。
「嫌いじゃ、ないです。けれど‥‥」
呟いた声に、エレンが身じろぎをした。胸元から、封書が落ちる。それが自分宛なのに気づいて、カノンは中を見てみることにした。
『カノン・ダンピール様
私の娘、エレーナと親しくお付き合い頂き、感謝しています。
実は、娘がとあるパーティにお招き頂いていまして、そのエスコートをカノン君にお願いしたいのです。
当日は、私もお伺いします。お目にかかるのを楽しみに。
レナーテ・シュミッツ』
「話を進めちゃえば、今思ってる事なんて忘れて幸せになれるわよ。私がそうだったもの」
きっぱりと言う、エレンの母レナーテ。エレンの兄のフランツは、お手上げだというように肩を竦めた。しかし、今度ばかりは冗談ではない。ケルン市の、有力者やその縁戚が出席するパーティだ。会場で婚約を公言されれば、妹は流されてしまう気がした。
「お爺さんが元気なうちに、‥‥か。あの人はずっと元気そうな気がしていたんだけどな」
倒れた場所が、家でなかったのは幸いだった。すぐに連絡されて一命は取り留め、今では以前同様に元気そうに振舞っているが、まだ予断を許さない状態ではある。祖父思いのエレンだけに、今は焦っているだろう。しかし、そこにつけ込む様なやり方は、少しばかり気に入らない。
「母上は、思うようにしてください。僕も、あいつの為に良かれと思うことをしますよ」
「‥‥フランツ?」
青年は、自室で端末へ向かう。LHのULTへ送る依頼書は、すぐに書きあがった。前半で、事情や場所を説明し、重要人物であるカノンの護衛を依頼の本筋とした後に、一文を付け足す。
『‥‥このパーティでは、2人の婚約を披露する予定です。肝心の2人が到着しなければ、ご破算になるでしょう。2人が幸せになれる選択を、どうか手伝ってやってください。
フランツ・シュミッツ』
もしも、彼らを止めたいという者がいるならば。2人を説得するかもしれない、と彼は思う。エレンやレナーテは恥をかくだろうが、それはそれだ。
「時間までに2人が揃わなければ、さすがに無理でしょう? 母上」
夜が明ければ、当事者達は試す事になるだろう。自分たちの心を。そして、自分たちの心にいる人たちを。それが、どれだけ強い思いなのかを。
●リプレイ本文
●現在・ラストホープ
世間は広いようで狭い。LHのターミナルを歩いていたエレンは、旧知の声に振り向いた。笑顔で会話を交わし、この後もう一杯、という誘いにはやはり笑顔で首を振る。
「ごめんなさい。ちょっと、‥‥ね」
「近くに寄ったものだから誘ってみたのだが‥‥。ふむ、先約かな?」
UNKNOWNの声は、いつものように深く。その裏の疲労を感じさせない。少なくとも、それは今のエレンには判らない物だった。
●故郷への旅
エレンはやはり、同じ場所にいた。欧州へと飛ぶ連絡艇の時刻を確かめ、手続きを2人分済ませていく。為すべき事が無くなると、彼女は1つ息を吐いた。邪魔にならず離れすぎぬ、程良い距離を保っていたカノンが寄ってくる。
「ごめんね、結局つき合わせちゃって」
「いえ。構いません」
本当にそう思っているのだろう。少年は柔らかく微笑んだ。会話はそこで途切れる。その沈黙が、エレンにはやけに長く感じられた。
『欧州行き連絡艇の搭乗口はEのチェックカウンターより‥‥』
「行きましょう。余り、時間が無いみたい」
場内放送に導かれて、広い構内を歩く。決められた道筋を、決められたゴールへと。これで良いのかと足を止めて自問する余裕はない。
「あ、いたいた。久しぶりッスー、変わらず元気してる?」
大型連絡艇の機中で、不意に掛けられた声にエレンは慌てて振り返った。手を振っていたのは身嗜みを整えた見慣れない姿の文。他にも見知った顔が大勢いるのに気付いて、彼女は目を丸くする。
「シャロン。リンさんも。どうしたの?」
「エレンから困ったコールを受信したのよ、ぴぴぴっとね」
片目を瞑るシャロンの向こうで、リンが鋭い目を向けている。
「話は聞いたわ。確かに、困った事になってるみたいね」
「‥‥エレンさん」
どん、と腰の辺りに何かがぶつかる感触に視線を落とすと、ソラが大きな瞳で見上げていた。
「フランツ君から、依頼でね。君たち2人を護衛して欲しい、って」
慈海が笑う。カノンの前には、正装のアスが立っていた。
「こんにちは、アスさん」
会えて嬉しい、と言いながらもカノンは内心で首を傾げる。普段ならば自分よりも早く挨拶をくれていたのに。そんな2人の後ろで、真琴が心配げな視線を向けていた。
「すみません、お客様‥‥?」
立ち止まってしまったエレン達に、乗務員が声を掛ける。
「話は後にしましょう。人生の道行は長く、考える時間はまだ十分に与えられているのですから」
ハンナが微笑して、仲間達へ着席を促した。
「婚約発表? 私とカノン君の?」
水平飛行に移った機内。ソラの口から聞かされた言葉にエレンは絶句した。
「やっぱり‥‥、知らなかったのね」
そんな事だと思った、とリンが苦笑する。エレンが聞いていたのは、2人で出席するようにという事までだった。が、レールに乗ってしまえば、途中下車が難しいという理解はできていたはずだ。
「先の事は、ちゃんと考えていたの?」
静かに問う友人に、エレンは目を合わせず。
「カノン君と結婚したら、か」
波風の無い穏やかな日常になるのだろう。その日常の主導権を自分が握ってしまう所まで、想像ができるとエレンは苦笑した。隣へ目を向けると、カノンが柔らかい視線を返してくる。
「ごめんね。やっぱり、嫌よね」
「‥‥嫌ではありません、けど」
青い瞳に問われた赤い瞳が惑う。そんな2人の間にあるものが愛だとは思えず、慈海が溜息をついた。それは、ドリンクバーから戻ってきたアスも同様だ。
「紅茶で、良かったか? と、熱いぞ。気をつけて飲めな」
目を離せない様子で少年の世話を焼く青年は、心中のざわめきを殺している。彼に惹かれている自分。彼の幸せを第一に願うと言いながら、すぐ隣の場所は渡したくは無いという身勝手さを、彼ははっきり自覚していた。真琴に言われた言葉が、鈍い存在感を持って光る。
『相手を思って黙っているのと向き合う事から逃げているのと。似ているけど間違えたくはない』
「陳腐な言い方だけど、諦めないで。今ならまだ間に合います、よ」
その真琴が、言う。手が届く場所にある物を諦めて後で後悔する、そんな友の姿は見たくない。そんな辛さを味わって欲しくは無い。当たって砕ける痛みよりも後悔の方がずっと痛いと、彼女は知っていた。背を押されたアスは、カノンの耳元に唇を寄せる。
「晩餐会に出た事はあるよな? 晩餐会から逃げ出した事は?」
びっくりしたように首を振った少年の、綺麗な黒髪をくしゃっと撫でて。
「OK、やった事ない方をやろう」
そんな、約束をする。少年はきょとんとしていたけれども。
●親友達の声
リンは、席を立ったエレンの後を追っていた。
「‥‥1年近く前、仕事でだけどカノン君とは2人で生活してたことがあって。正直に言えば、楽しかったわ。だから多分、幸せにはなれるとは思う」
「それを、私の目を見て言えるなら祝福してあげられるんだけどね」
嘘を吐くのが下手で、誤魔化すのも上手くない友人に、リンは溜息をつく。
「一番大切なのは、貴女自身の気持ち。私の知っているエレーナ・シュミッツは自分の気持ちに嘘を付いて妥協するような女じゃないはずよ。違って?」
「リンさんの知っている、私‥‥か」
家から離れて、気が大きくなっていた自分。友人も出来て、今までの自分では無くなったように思っていたけれど。
「本当の私は、こんな風に流されてしまう弱い人間なのよ。軽蔑されても、しょうがない」
「でも」
聞いていたソラが、思わずといった感じに口を挟む。はっと途中で口をつぐんで、リンを見た。
「外した方が、良さそうね」
「ごめんなさい」
少年へ首を振ってから、リンはエレンへもう一度視線を向ける。
「最後まで、ついていくわよ。貴女が何と言ってもね」
気を利かせてくれたのか、後から来るものも絶え。コーヒーメーカーの前にいるのは2人だけだ。
「俺から言うべきじゃないんです、けど」
以前に聞いた、彼女が本当に好きな相手、真彼もまた、エレンを想っていると、ソラは言う。それを聞いたエレンは、寂しげに笑った。
「‥‥そう、なんだ」
「あのね。俺は国谷さんが大好きです。エレンさんのことも、大好きです。だから、2人とも幸せになって欲しい」
互いに憎からず思っているなら、ハッピーエンドしか想像できない程に、彼は幼い。それが眩しくて、エレンは笑うしかできなかった。
「エレンさんの一番は、国谷さんなんでしょう? 互いに好きと言わないままでもいいの?」
「真彼さんは、一途な人だから。一度に二つの事を考えられないと思うの」
自分が好きになった相手が何かを背負って生きている事は、エレンにも判っていた。それが、簡単に捨てられない強い思いだということも。
「私が甘えてしまったら、彼の重荷になると思う。‥‥だから」
自分の気持ちを明かすつもりは無い、と言う年上の女性が、間違っていると少年は思う。しかし、その思いを言葉に出来ない。
「聞かない方が良かったな。さっきの」
小声で笑ってから、エレンは座席へと向かう。ソラは唇を噛んだまま、その背を目で追った。ふっと空気が動く。すぐ後ろの化粧室から、慈海が顔を出していた。
「立ち聞きするつもりは無かったんだけど、なーんか出て行きにくくって」
ゴメンネ、と慈海が言う。言ってから、ソラへ頷いた。
「エレンちゃんの気持ちも、わかるけど。でも、やっぱり後で後悔する事になると思うな」
「‥‥後悔、して欲しくないです」
だよね、と笑って、慈海は笑顔を見せる。少年を元気付けるように。
「それじゃ、俺達が出来る事をしようよ。自分達が後悔しないように、ね」
皆の待つ一角へは戻りにくくて、エレンは通路の窓から空を眺めていた。その姿を見たシャロンが、少しためらってから言葉を掛ける。
「私も、安易に進むのは賛成できないわ。特に、周りに何か言われたから‥‥って言う理由では」
「シャロンは、強いから」
呟いたエレンの隣に立って、彼女と同じ景色を見る。青い空に、ぽつりぽつりと浮かぶ白い雲。距離が近かったり、離れていたり。
「私、好きな人ができたの」
ポツリ、と言葉にしたのはそんな事だった。相手は同じ能力者で、多分エレンとカノンがそうであるように、姉と弟のような関係が長く続いていた、とシャロンは言う。その関係は、居心地が良かったけれど。
「けど、彼はそれで良しとせずに、私を女性として好きだって。‥‥だから私も、これから彼を男性として見ようと、そう思ってる」
はっきりと言うシャロンの横顔にエレンは一瞬見惚れた。素敵な顔をしている、と思う。自分は、どうだろう。窓に映る顔は、がっかりするほどくすんでいた。
「結婚は、相手と自分、神様の間での誓いよ。親と一緒じゃなく、ね」
「‥‥そうね」
「汝‥‥健やかなる時も、病める時も、お互いに、愛し、慰め、助け‥‥」
シャロンが、エレンへ問いかけるように、結婚の誓いの言葉を告げる。不意に、その声に豊かな別の声がかぶさった。
「命のある限り、誠実であることを、神に誓いますか」
「‥‥ハンナさん」
振り返った先で、若い修道女は穏やかに微笑む。
「貴女の御心に素直に。‥‥エレンさんの選択は、結末ではなく始まりなのですから‥‥」
「い、いつから、そこに」
「祈りの言葉が聞こえたので、立ち寄ったのですが。お邪魔でしたか?」
「え、そんな事無いわよ。平気平気」
ぎくしゃくと頷くシャロンを怪訝そうに見てから、ハンナは立ち去った。クス、と笑ったエレンへ頬を染めたシャロンが囁く。
「彼の話は内緒ね。私もまだ、全部オープンにできるほど、勇気がなくて」
くすくす笑いが、押え切れないようにエレンは口元を両手で押える。目元を拭ってから。
「‥‥ありがとう。話してくれて」
窓に映った顔は、心なしかさっきよりもマシに思えた。
●同時刻・ドイツ
ケルン郊外の、住宅街。
「お変わり無いようで、安心しました」
そう言う真彼の隣で、白虎が物珍しげにしている。エレンの祖父、ヘンケル老人の住まう日本家屋は、相変わらず場違いながらも落ち着いた佇まいを見せていた。
「こんな年寄りの所に、わざわざ済まないのう」
見事な所作で、抹茶を立てる老人。お茶請けが洋菓子なのはご愛嬌といった所だろうか。齢を刻んだ手が、客人の前へ茶を置く。
「粗茶デスガ」
その台詞だけ、日本語だった。
「うみゅ、思ったよりは苦くないのにゃ」
白虎が一息に茶碗を干す。真彼は、味わうように一口。茶碗を良く見れば、手製らしく素朴な手触りだった。
「この器は? この辺りでも、こういった物は作れるのですか?」
真彼が首を傾げる。老人は懐かしげな目で笑う。
「ワシの影響か、息子が日本好きでのう。アジアに行くたびに、日本へ足を伸ばして知り合いの窯に寄らせてもらっとった」
エレンの父がワームに遭遇して命を落としたのも、そんな風に日本を訪れていた時だったという。まだバグアの侵略が本格的になるずっと前の事。運が悪かったのだろう。
「それは、あいつの最後の作品でな。まぁ、悪くない形じゃから使ってやっとるんじゃ」
「そうなのか」
白虎が掌の中の器をじっと見る。老人は目を細めながらその様子を眺めていた。
「そうしているのを見ると、あの子が小さかった頃を思い出すわい」
幼い頃のエレンも、不思議そうにそれを見ていたという。父の面影を、そこに見ていたのだろうか。
「滅多に振舞う相手も居らん老人の茶遊びに、つきおうてくれて感謝する」
ニコニコと笑う好々爺が、ほんの一ヶ月ほど前に死線を彷徨っていたと、真彼は知っている。そういえば、少し手の染みが増えたような気がした。
「本当に、お元気そうで何よりです」
「うむうむ。孫が片付くまでは、死んでも死に切れんでなぁ」
笑う様子はあくまで自然で、けれどもそれが、今回の騒動の原因になったのだろう。
「やはり、気になりますか。エレン君の事は」
茶碗の模様を眺めながら、真彼が問う。
「息子に、冥土で報告せにゃならんからの」
冥土、と口にするのが余りに自然で、青年は微笑した。宗教的な話をすれば、老人が行く先はまた別なのだろうけれど、そんな表現が出てくる位に日本マニアなのだろう。
「むう。でもそれで無理に結婚させるのは、どうかと思うのにゃ」
白虎が、そう本題を切り出した。レナーテの先走りの事も、包み隠さずに言う。
「お爺さんが生きてる間に、っていう感じでネタにされてるのは怒っていいところだと思うのだ」
「‥‥なるほど。レナーテさんがな」
うんうん、と頷く老人。その目が、意味ありげに真彼のほうへと向く。
「僕は告げ口に来たわけじゃありませんよ。ただ、お見舞いにです」
「そうか。残念じゃ」
何がとは言わずにヘンケルは笑った。
「お爺さんは腹が立たないのかにゃ?」
白虎が口を尖らせる。老人は、ゆるゆると首を振った。
「レナーテさんは彼女なりに、良かれと思ってしておるんじゃ。それに、孫娘の白無垢を見たいのは嘘偽りの無いところじゃ」
「それで孫が望まない相手と一緒になっても、いいと言うのかっ」
立ち上がる白虎へ、老人は穏やかな笑顔を返す。
「ふふふ、そうはならんじゃろう。アレにも、どうやら人並みに好いた相手がおるらしいし」
「‥‥そうですか」
僅かに返事の遅れた青年を一瞥して、老人は人の悪い笑みを向けた。
「でも‥‥」
振り上げた拳の下ろし場所に困っているような白虎にも、ニンマリと笑ってみせる。
「心配はしとらんのじゃよ。君達のような友達が、出来たようだからの」
たとえエレン一人では、難しくとも。彼女の幸せを願ってくれる友人たちが、良い道を示してくれるはずだ、と。そこに、自分のような老人が首を突っ込むのはお門違いだろうと彼は言った。
●舞台から降りる者・向かう者
機を降りて、少し埃っぽい気がするドイツの空気を胸いっぱいに吸う。会場までは、車で向かう事になっていた。
「俺は、後から行きます」
他人に聞かれたくない話も、するつもりだから。そんなソラを、慈海が微笑して見送る。
「‥‥お待ちしておりました。会場への運転を任されております」
「おい」
素で突っ込んだアスに、何食わぬ顔で一礼する叢雲。彼の突拍子も無い行動には慣れている真琴も、流石に不意を打たれたらしい。
「叢雲‥‥。何、やってるの」
「お荷物は此方に。では、どうぞお乗りください」
アスの荷物を受け取り、真琴には僅かな笑みを見せる。クスッと笑って2人に続くエレン。
「私も、一緒するわ」
当然、というようにシャロンが続く。その後ろへ行きかけた少年の手が、つと引っ張られた。
「カノンはこちらへどうぞ、ですわ」
「‥‥ロジー?」
こんな事になっているのに、姿を見せないはずが無い。銀髪の女性の姿を見て、アスは何とはなしにほっとした。あるべき物がそこにあるような感覚。
「ロジーさん」
自分の名前を呼ぶカノンの声に微笑んで。それでも、彼女はいつものような奔放さは見せず、丁重に後席へと少年を導く。
「じゃ、俺が代わりにお邪魔しようか」
文が後に詰めて、叢雲の車は満員になった。数刻、少年から離れる羽目になったアスがやるせない苦笑を浮かべる。
「やっぱ、来ないわけねぇ‥‥よな」
言ってから、アスは眼を閉じた。彼の気分は既に、数時間後のパーティ会場へ飛んでいる。
老人の居宅を辞して、しっと団の2人は坂道を下っていた。
「むう‥‥何か、乗せられているみたいで釈然としないけど、ボクは会場に行くのだ。そっちは、どうするのかにゃ?」
真彼はゆるゆると首を振る。エレンが誰かと将来を誓う場にいたいとは青年は思わなかった。と、彼の携帯端末が鳴る。表示された名を見て、真彼の頬が緩んだ。
「‥‥柚井君か。前にも、こんな事があったね」
耳に当てた途端、常に無い大声が真彼の耳を打つ。
『エレンさんのこと好きなんでしょう? だったらなんで行かないんですか!?』
思わず、端末を耳から離した。それから、静かに口を開く。
「僕もエレン君のことを好きですよ。好きだから、行きたくは無いんだ」
動じた様子を見せず、いつものように穏やかな口調で。白虎は、聞こえた素振りを見せずにゆっくりと前を歩いていた。
「僕は嫉妬深くてね。自分の好きな誰かが、他の誰かに奪われるなんて許容できない。そんな奴だよ」
遠いあの日に守れなかった大切な人達が、永遠に失った愛や恋をのうのうと生きる自分が謳歌する事への後ろめたさ。エレンへの想いを、幾度も忘れようとして。
「でも、好きである気持ちは、変えられなかった」
だから、それを自分に許したのだ。その想いと、それが契機になって生まれるだろうやるせなさや、怒り、嫉妬を共に抱く事を。自分が少しだけ人である事を。ただ、それ以上は望まない。その想いをそれ以上に育てる事は、どうしても変えられない誓いに背く事に思えたから。
「気持ちに永遠なんてない。ただ生きている限りは、不変を誓う。それが僕にとっての『約束』だよ」
バグアへの怒りを、他の何かに塗り替える事は許せない。その時に感じた怒りが色褪せ、薄れていったとしても、それ以上の想いを抱く事は自分に禁じた。ゆっくりと怒りが枯れていくなら、自分の心も殺していけばいい。
『‥‥国谷さんは、それでいいんですか?』
受話器の向こうからの声に、口が勝手に動く。当然じゃないか、と。幾重にも固めた仮面の奥の痛みは、いつものように押しつぶして。
『エレンさんも、国谷さんのこと好きなのにっ!』
がちゃり、と通話が切れる。少年の声は、少し掠れていた。泣いていたのだろうか。誰の為に?
「‥‥ボクは行く。先に、行ってるから」
駆け出してから、白虎が背中でそう言った。青年は、もう1つ自問する。泣いているのは、誰だろう?
●エスケープ
鏡に映るのカノンの顔と、エレンが乗っている後続車を見ながら、ロジーは釈然としない思いを抱えていた。
(確かにあたしは「カノンの愛する人をも愛する」と誓いましたわ。けれど‥‥)
ブレーキを踏む。急停車した脇に、リムジンとは不釣合いなジーザリオが止まっていた。
「カノン」
「‥‥はい」
頷く赤い目がバックミラー越しに見える。
「‥‥以前も申しましたけれど、あたしは貴方の事を『特別の大好き』だと想ってますわ。貴方の御心がどうであれ、お慕いし、愛しています」
「‥‥ぁ」
振り向いたロジーの、愁いと想いを湛えた瞳。吸い寄せられるように、カノンは腰を浮かした。しかし、そこで逡巡する。正式の夜会へ招かれ、エスコートを一度受けた者が別の女性の手を取るなど、彼の住んでいた世界では許される筈も無い。
――彼の住んでいた世界では。
後席のリンが、肩を竦めてからドアを開けた。カノンとロジーを等分に見て、微かに笑う。
「行くなら、止めないわよ」
少年の肩を、慈海が軽く叩いた。
「意思表示しないのも相手を傷つけるんだよ。ハッキリ言うのは勇気がいるかもしれないけど、ね」
鼻をくすぐる薔薇の香り。ロジーは、いつの間にか車から降りて手を延べている。カノンは、目を一度閉じてから、足を一歩動かした。その一歩は、小さいけれども大きな一歩で。
「カノン!」
片腕で少年を引き寄せ、走り出す。
「‥‥確り、捕まって居て下さいませ!」
自前のジーザリオのエンジンは、持ち主の心を表すように一発でかかった。
先頭車に続いて停車していた後続車。運転手の叢雲は、シートから離れて前を見ている。
「いいの?」
文の声に、エレンは頷いた。ソラに母の目論見を聞いた時、いや、ひょっとしたらその前から。止める気など無かった自分に、エレンは気付く。
「‥‥カノン君にも、周りの人にも失礼だもの。こんなの」
自分から壊す勇気は、無かったけれども。
「‥‥やられた」
天を仰いで、アスは呟く。意外ではなく、失望も無い。海賊の流儀ならば早い者勝ち。パーティ会場まで待とうと思ったのは、傭兵としての体面を気にしたのか、それともエレンの事をすこし気にかけたのか、あるいは。いずれにせよ、ロジーのほうが形振り構わず、より多くを捨ててかかっていた。
「すみません。ちょっと問題が起きたようです。車を、降りて頂けますか」
叢雲が、後席の客達へ告げる。首を傾げる面々の中、真琴が唇に両手を当てた。叢雲の目が笑っている。
「ドライバーズシートへどうぞ、アス。貴方には足が必要でしょう」
叢雲は、大仰な仕草で金髪の青年を運転席へ導いた。
「‥‥俺は」
「偉そうな事言った割には、結局自己欺瞞ですか。自分すら騙せない嘘で、『誰』を騙すおつもりで?」
やられたという思いの下に、まだ追いかけたい自分がいる。諦める理由は幾つもあって、諦められない理由は1つしか無いけれど。手を差し出した黒猫は、ニヤニヤと笑っていた。
「‥‥借りとく」
舌打ちに、わざと鳴らしたような喉の音が返る。
「諦めないで。‥‥頑張って」
白猫に返した笑みは、痩せ我慢が透けて見えるいつものアンドレアス・ラーセンの笑顔だった。
(人のこと、言えた義理じゃないですけど)
伸ばす方向を間違えた手の中から、落ちそうになっていた物を思って真琴は苦笑する。小指の先に引っかかっていたから、今度は頼まれても離さない。
「‥‥さて、次は後始末、ですかね」
楽しげに言いながら、遠くなる車を見送る叢雲。その隣で、真琴は祈る。ハンナのように神へではない何かに。ただ、できれば誰も、後悔しない結末でありますように、と。
●逃避の終わり
「とりあえず、話は流れた‥‥って事で、いいのかな」
「そうね。多分、良いようになったんじゃないかしら。カノン君にとっては、きっとね」
文の声に、エレンは頷いた。とってつけたような明るさに、文は苦笑してエレンの頭を撫でる。
「ん、実は自分も婚約発表を阻止しに来たんだよ。エレンさんの幸せの事なのに本人の意思無視して強制なんておかしいからな」
とらえどころの無いいつもの笑顔ではなく、真摯な目で自分を見る文に、エレンは驚いたように瞬きした。
「‥‥一緒に逃げてみるかい? オレが幸せにするから」
「冗談、じゃないのよね」
思えば、そういう気配はあったのかもしれない。想われる事に不慣れな自分が鈍かっただけで。だとしたら、彼女はしっかりと向き直らねばならない。
「ん、今すぐ答えを出す必要はないんだ」
「いえ。‥‥私、もう逃げるのはやめるわ。自分の、気持ちからも」
文の顔を正面から見て、言う。自分には好きな人がいます、と。それを聞いた青年は、僅かな間だけ眼を閉じた。
「そ、か。じゃあ仕方が無い」
内心を伺わせない笑顔で、そう言う。
「‥‥ありがとう」
エレンが口にしたのは、謝罪の言葉ではなく。頭を掻きながら、文は仲間の方へ向かう彼女の後を追った。顔に浮かびそうになる未練を、知られないように。
「これからどうするのかしら。私は、会場まで行くけれど」
面子を潰される格好になるレナーテには、誰かが謝らなければとリンが言った。
「ちゃんと、話をしてみるわ。母には呆れられるでしょうけど、ね」
そう言うエレンに、着いていくとシャロンは当然のように言う。叢雲が、残るリムジンのドアを開けた。
「では、参りましょうか? 少し窮屈ですけど、ね」
●宴に散る火花
「‥‥そう。カノン君には他に、意中の相手がいたのね。残念だけれど」
レナーテは、エスコート役が失踪したという知らせにも動じなかった。
「私達の手落ちでもあるわ。エレンを責めないで」
傭兵達を代表して詫びを述べたリンにも、非難ではなく労いの言葉をかける。
「いえ。今回は娘の事で、迷惑をかけてごめんなさいね。見れば、若い方ばかりのようですし、これからもエレーナの良い友達でいてください」
今宵はパーティを楽しんでいって欲しいと彼女は言う。比較的オープンな会のようで、レナーテから言っておけば、増えるのは問題ないようだった。
「エレーナ、貴女はドレスに着替えていらっしゃい。揃って出席しないでは主催の方に申し訳ありませんからね」
「それはいいけど。余り皆に変な事は言わないでね?」
恐れていたほど険悪でもない空気に肩透かしをされた気分の一同。だが、黎紀は彼女の目が招待客名簿を見ているのに気がついていた。
「‥‥早速、次のお相手を探しているんですか?」
「貴女は? 貴女も、あの子のお友達かしら」
レナーテは少しむっとしたような表情をする。しかし、今日の黎紀は嫌われるためにここに来ていた。
「その縁談が上手くいって一番喜び満足するのはレナーテさんで、当事者達では無い事にお気づきでしょうか? 不意打ちや無理強いは当事者達の信頼を激しく失いますよ。その覚悟はおありですか?」
「‥‥随分、不躾な言いようですね。けれども、あの子ももう、いい年だわ。エスコートも無しでは笑われます」
たとえ嫌われようとも、人並みの幸せを娘に考える事の何が悪いのか。レナーテの言い分は、黎紀からしてみれば余りに一方的に思えた。
「‥‥母親なら娘の心からの幸せの追求、一緒にしても良いんじゃ有りません?」
「貴女にも、子供が出来ればわかりますよ。お嬢さん」
取り付く島も無いとはこの事だろうか。結婚だけが人生の幸せだと、こういった人たちはどうして思うのだろう。
黎紀が自分以外の溜息に横を向くと、着替えを終えて戻ってきていたエレンがそこにいた。
「ちょっと、変な事は言わないでって言ったじゃない」
「変な事はいっていませんよ。さぁ、皆さんにご挨拶してきて。貴女がパーティに出るのは7年ぶりだから、皆さん楽しみにしているのよ」
大学に入って以来、になる。卒業するときは、そういえば家出同然だった。
「エスコートしてくれる人くらい、自分で連れてくるから。余計な事しないでよね」
「連れて来れなかったから、困ってるんじゃないの」
そんな切りかえしに、言葉に詰まるエレン。黎紀からみても、母親が上手のようだ。
●宴にて
父の知り合いだという男の招きで訪れたパーティは、既に盛況だった。自分同様に傭兵だったはずの父に、どのような縁があったのかは判らないが、自分にとっては縁遠い場所に思える。退屈げに眺めていたベーオウルフは、人波の中に見知った顔を見つけて驚いた。
「‥‥エレーナさん。どうしたんですか?」
「え。ベーオウルフさん? どうして、こんな所に」
そんな会話を聞いた今夜の主催者が、訳知り顔で笑う。
「乾君が、シュミッツ嬢のお相手なのかな? 女史がもったいぶるわけだ」
「いえ、偶然ですよ」
苦笑する。傭兵としての名ではなく、本名で呼ばれるのは慣れなかった。
「それならばこれから親しくなればいい。若いんだからねぇ。私は、失礼するよ」
話を聞いているのかいないのか、勝手に気を利かせる主催に苦笑する。これがあるから、1人でいるのは大変なのよね、と笑うエレン。その顔に以前は無かった影を感じて、彼はテラスへと彼女を誘った。
「フフフ、今夜の私と話してると、噂になって大変よ?」
クスクス笑いながらも、彼女はホッとした様子を隠さない。
「大変な事になっているみたいですね。本人たちの意志とは無関係に話が進んでしまう。よくある話ではありますが」
事情を聞く間に、ベーオウルフは止めていたタイを緩めた。いつかの偽修道女事件以来、久しぶりに見る姿は変わりが無いように見える。あの時の質素な修道服姿と今のドレス、どちらも似合っているように思えた。
「貴女は好意に値する人であり、俺にとって数少ない友人だから少し忠告させてもらいましょう」
1つ、咳払いをして。
「人に言われて決めた事は後々必ず後悔する。ましてそれが一生に関わることなら尚更ね。‥‥と、そんな事は此処に来るまでに散々言われた事でしたか?」
「フフ、お見通しね。心配してくれて、ありがとう」
テラスの夜風に靡く髪を押える姿に惹かれつつも、彼はエレンがずっと外を見ている事に気付いていた。誰かを、待っているように。
「思ったよりも、丸く収まったのかしら?」
フランツの下へ報告に来たリンが、そう言う。しかし、フランツはそれとは意見を異にするようだ。
「知らせてくれてありがとね☆ 助かったよ」
「いえ。アレくらいしかできない不出来な兄ですが」
明るく言う慈海に、フランツが苦笑する。彼にしてみれば、母がこれで矛を収めたとは思えないらしい。
「全くだにゃー。でも、今宵のお仕置き注射は他に候補ができたから、とりあえずは勘弁してやるのだ」
ドレス姿の白虎が、スカートの中に潜ませた凶器に手を沿わせて言う。
「何をするか知らないけど、ほどほどにね?」
シャロンが苦笑した。何となく固まっているのは、やはりいかにもセレブな集団へ入り込むのに気後れするからだろう。叢雲は、ハンナと裏へ回って何やら企んでいるらしい。
「招待客のご友人が、歌を歌いたいと望まれていまして」
叢雲の言葉に、修道女姿のハンナと白のドレスの紗夜が頷いた。
「皆様に神の祝福を与えたいのです」
おとなしやかに言う紗夜は、型どおりの祈りをさらさらと続ける。孤児院での日々は彼女に信仰を身につかせる事は無かったが、その記憶は薄れていなかった。
澄んだ歌声が、会場に響く。
「エレンさんも、それに他の方も。幸せになれればいいですね」
控えめにいう真琴は、後から来ると言ったソラの姿が見えないのにも気付いていた。
「今日の総帥はやりにくそうだよね」
慈海に目を向け、白虎は腕組みする。
「いろいろ勝手にわかっちゃって、突付くに突付けなくなってるのだ」
「もっと遠慮の無いお嬢さんかと思ったけれど、そうでもなかったのかな」
そんな事を言ってから、フランツは席を立った。控えめな笑みの美人が、彼の腕を取る。
「妻のマリーです。こちらは、妹がお世話になっている‥‥」
紹介していくフランツは控えめに見ても幸せそうだった。
「む、むむ。フランツの癖にリア充とは生意気だにゃー」
あてられたのか、白虎の悪態も声が小さい。
「こんな可愛らしいお嬢さん達と知り合いになっているなんて」
「リンさんは料理も上手なんだ。少し教わったらいいんじゃないか?」
幸せオーラを散布する夫婦にあてられたりした人がいたらご愁傷様というしかない。女性や女の子っぽい集団から一歩下がっていた慈海は、テラスから戻ってきたエレンに目を止めた。
「あ、楽しんでる? って、そんな感じでもないわよね」
「‥‥エレンちゃんは?」
小さく、笑いあう。自分が何かを言うまでもなく、彼女は二本の足で立っている。ならば、もう一押し背中を押してやれば、動ける筈だ。脇の方からやってきた黎紀も、同じ様な事を考えていたのだろう。
「もっと、ヤケになっているかと思いましたけど。大丈夫そう、ですね」
エレンの目を見て、黎紀は笑った。あの母親の相手でしおれてはいないようだ。
「おじいさんを喜ばせてあげたいなら、上っ面の幸せじゃなく。心の底からの笑顔じゃないと、バレますよ?」
黎紀の言葉に訳知り顔で、慈海も頷く。
「そうだね。母親に折れちゃうのは止めたなら、あとは進まないと。一度、彼に体当たりしてみたらいいじゃない☆」
「え。彼って、ええと? 何で?」
頬を染めて面白いくらいにおどおどするエレンに、2人は期せずして似たような微笑をこぼした。
「それとも‥‥、自分も彼の気持ちも自信有りませんか?」
「自信、なんてないわよ。でも、そうね」
もしも今日、会えたら。自分の気持ちを伝えるつもりだ、とエレンは言った。さっと手を振ってから歩き出して、エレンは不意に振り返る。
「‥‥それよりも。その‥‥。そんなに、分かりやすかったのかしら」
2人は顔を見合わせてから、吹き出した。
●遅れてきた客
夜は更けていく。パーティの時間も、そろそろ終わりが近づいていた。
「アンドレアスさんもまた、行くべき道を見出したのです」
「それでラーセンは、来なかったのか。罰ゲームの用意は無駄になったようだな」
ハンナと話していた紗夜は、手持ちの袋に目をやり苦笑する。隣にいた女性が、サングラスの向こうの赤い目を細めた。
「私が心配するまでも無かったようだな。‥‥では、行くか」
人の間を抜けていく後ろ姿に見覚えがある気がして、慈海が首を傾げる。彼はフランツと飲んでいた。早めに会場を後にしたマリーに、能力者になる前の知り合いに会いそうだ、と黎紀も便乗して出たので野郎同士の酒である。
「うー。来ないのかにゃあ‥‥」
そんな中年達の間で眠そうに言う白虎は、紗夜とは別の相手を待っていた。
「あいつの、好きな人ですか? 顔を見てみたいような、見たく無いような。兄としては複雑ですね」
「ガツンと言ってやればいいよ。こんなに待たせてどういうつもりだ、って」
眼鏡の青年の顔を思い浮かべて、慈海が笑う。
「貴女も最後まで、つきあうんでしょう?」
「もちろん」
リンが差し出したグラスへ、シャロンが自分の物をぶつけた。
宴の終わりの気配に、会話を打ち切リ始める招待客達の中、主催の男性の太い声が響く。
「ご列席の皆様に、今宵、最後の催しをお送りします。シュミッツ家のエレーナ嬢の為にいらしてくださったご友人より、是非にもう一曲と‥‥」
壇上に上がる紗夜へ、ハンナが頷いた。彼女の脇にいた悠季も、ニコニコと笑っている。
僕の背中の翼 暁に染まる白い翼
碧い海を腕に抱いて空を翔る
「エレンさん。コーヒー、貰ってきました」
ソラが言う。エレンは、涼みにと言って少し前から会場の外に出ていた。正面玄関前の、名前の分からない怪物の像。台座に腰掛けると、足が地面に届かない。
「届きそうで、届かないのが腹が立つわね」
クスッと笑ったのは、多分足の長さを言った訳ではなく。
「待って。まだ。‥‥もう少し、待ってください」
「でも、もうパーティは終わりよ」
時間を過ぎても追い出されるわけでは無いが、主だった客は帰りだす。遠くから流れる歌声の中、見上げた空には雲1つ無く、それに何故か腹が立った。
「‥‥」
そんな姿を、角から眺める真彼。後ろめたい思いを隠すように、少女のお面を被った姿はどこか不思議だ。
「逃げるわけ?」
踵を返した先の街頭の下、悠季が眉を上げていた。
金色の瞳に映るのは明日の光
そんな天使になる夢を見た
歌声が夜空に響く。
「女はね、何より真摯に自分が一番だと思っているものよ。昔の事より今の自分を省みて欲しくてね」
「‥‥昔の事、か」
呟く青年の肩を、悠季は少し乱暴にどやしつけた。
「その辺勘づいてるならちゃんと応対しなさいよね」
指差した先、エレンが像の前に下りるのが見える。行きかける彼女の袖を引っ張り、ソラが自分の方を指差すのが見えた。
「‥‥変装してきたつもりなんだけどな」
れいちゃんの仮面を外して、真彼は苦笑する。悠季が彼の背を押すのを鏡で映すように、少年がエレンの背を押すのが見えた。
大きく羽ばたく翼は僕には無い
けれどこの心はどこまでも行ける
「私、真彼さんの事が好きよ。友達としてじゃなく、ね」
街灯と星明りの下で、エレンは視線を逸らさずにそう言った。
「‥‥光栄だね」
それだけを言って、続く言葉を捜そうとする青年の唇に、彼女は人差し指を当てる。
「自分が言えただけで、いいの。私の事を大事に思ってくれてるのは分かるから、ね。帰りましょう。ラストホープへ」
そう言ったエレンの手を、真彼は引いた。
挫けない未来を 愛すべき人がいる世界を
微笑みが満たす空を 僕は―――
「会場へ行かないと。まだ、パーティは終わっていないようだ」
時計の気まぐれか、あるいは、おせっかいな友人たちのお陰で。
「え、でも‥‥」
逡巡するエレンに、真彼は少しばかり硬い微笑を向ける。
「エレン君の為じゃないからね?」
少し行き方を誤ったかもしれないが、娘の為に1人で頑張ってきた母親に、恥を掻かせたままではいられない、と青年は言った。一度途切れた歌声は、2人の向かう先から再び響く。
この手に抱いて羽ばたくんだ、真っ直ぐに何処までも
その部分だけが、紗夜の作った歌詞だった。最後のフレーズだけを書き残して逝った弟を想い、彼女は眼を閉じる。
「今日は楽しめたかね?」
会場入り口が、静かに開くのを目にして、ベーオウルフは微笑して答えた。
「ええ、良い会でした」
●再び、現在
UNKNOWNが低く深い声で言う。
「久しぶりに、そう。国谷も誘って3人で飲もう、と思ったんだが」
彼女と共通の知人が近くにいると、黒衣の男は聞いていた。それが故、何気も無く出した名前。エレンが頬を染めた様子に、彼は何かを察して微笑する。
「‥‥そう、か。ならば‥‥。いや、やめておこう」
共に待とうか、と口にしかけてUNKNOWNは頭を振る。孤独の慰めは、もう他の場所で求めた方が良いのだろう。吐息を1つ零した彼を、蒼い瞳が覗き込む。
「大丈夫? 少し、具合が悪そうだわ」
「――私は、大丈夫だ。まだ動ける」
それ以上は口にせず、彼は微笑を返した。目の前の、今は遠い場所にいる女性へ。
「そう? 気をつけて。皆に心配かけないように、ね」
片目を瞑って、エレンは背を向ける。その背が通りの雑踏へ消えるまで見送って、UNKNOWNは踵を返した。今夜の酒は、深くて甘い眠りをくれそうだ。