●リプレイ本文
●シザンサス
優しい初夏の日差しが青々と茂る中庭の木々へと降り注ぎ、柔らかな風が細い枝葉を心地良く揺らす。鴇浅葱の着物に濃藍の袴、そして栗色のブーツを身に着け、古い木製のベンチへと腰を下ろした雁久良 霧依(
gc7839)は、楽しそうにはしゃぐ女生徒達の声を遠くに聞きながら、細く白い指先を胸の前で握り締めた。
『‥‥これ以上お姉様と一緒にいたら、わたしはおかしくなってしまいます。‥‥わたしはお姉様の何なのですか? ただ守られているだけの人形なのですか?』
『お姉様は何も解っていない。貴女は一度だって私を理解しようとしてくれなかった。私はお姉様をもっと深く知りたかった。‥‥貴女にとって、私は不必要な存在だったんですね』
「‥‥私は‥‥私はどうすれば良かったの‥‥?」
愛しかった妹達の声が鮮やかな記憶と共に再生され、荊の様な痛みとなって霧依の胸に突き刺さる。無意識の涙が柔らかな頬を伝い、彼女はそれを隠す様に掌で顔を覆った。
霧依は不器用で愚直な情愛を、幼さの残る妹へと過剰な程に注いだ。その結果、霧依の深く重過ぎる情愛は少女の心を縛り付け、息が出来なくなる程に苦しめてしまった。涙と共に霧依への別れを告げた少女達は霧依の元を去っていき、そうして新しい出会いが訪れる度に、霧依は独りになる事に怯える余り同じ過ちを繰り返してしまっていた。
女学校の中で『妹(あるいはお姉様)を失う』という事は、噂や後ろ指をさされるに等しい行いだった。文武両道・才色兼備と少女達の憧れの的であった霧依に対しても例外では無く、まるで腫れ物を扱う様な周囲の態度に絶望的なまでの疎外感を感じていた。
「‥‥さぁ、これで涙を拭きなさい」
突然掛けられた声にはっと顔を上げると、霧依は見下ろす様に向けられた眼差しに息を呑んだ。シックなスーツに身を包み、銀縁の眼鏡を掛け、髪を高い位置で纏めた女教師・香月透子(
gc7078)は、白いレースに縁取られたハンカチを霧依へと差し出した。厳しそうな雰囲気と冷たい印象から、他の女生徒達から密かに『氷の魔女』と呼ばれていた透子の優しさに、霧依は驚きを隠す事が出来なかった。
「隣、良いかしら?」
尋ねる透子に対し「‥‥どう、ぞ」と呟いた霧依は、受け取ったハンカチを掌の中で強く握り締める。透子が身に着けている香水が風に運ばれ、霧依の鼻先をふわりと掠めた。優しい花の香りが漂った。
「何があったのかを無理には聞かないわ。‥‥けれど、私で良ければ話相手にはなれると思うの」
微笑みながら告げられた言葉と重ねられた少し冷たい掌から透子の優しさが染みる様に伝わり、押さえ込んでいた悲しみが胸の内側へと溢れ出す。霧依はまるで、透子に縋り付くかの様に涙と共に胸の内を吐き出した。
「‥‥わたし‥‥私‥‥!」
私はただ、妹を守り愛したかった。それなのに、私にはそれだけの事を叶えてあげる事が出来なかった。思いを募らせれば募らせる程、妹は私を拒絶して私の傍から去ってしまう。寂しい思いをさせない様に、悲しませない様にと愛したつもりが、全てが裏目となってしまう。もしも誰かを愛する事で相手を傷付けてしまうのだとしたら、私は二度と誰かを愛してはいけないのかもしれない。
懺悔の様に告げられた言葉に透子の胸が締め付けられた様に痛む。この子は、愛し方を知らないまま誰かを愛そうと必死にもがいているのかもしれない。頬を濡らす大粒の雫を指先で拭うと、透子は優しく言葉を告げた。
「貴女は優しい人ね。そうして、貴女の全てで妹を守り、愛そうとしたのだから。‥‥けれど、愛はどちらか片方が与えるものであってはいけないの。お互いに与え合い、支え合って育んで行くものよ。‥‥でなければ、自分自身というものが解らなくなってしまうの。貴女の愛した妹達は、人形では無く、貴女と同じ心を持つ人なのだから」
透子の言葉に顔を上げた霧依は、握り締められた掌の強さに頬を真っ赤に染めた。細く美しい透子の指先が霧依の掌を撫で、そして守る様に優しく包み込まれる。
「‥‥貴女はもう、頑張らなくて良いのよ?」
透子の指先が、髪を纏めていたバレッタを外し、銀縁の眼鏡に掛かる。さらりと柔らかな髪が風に煽られ、霧依は思わず瞼を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
「‥‥これからは、私が貴女を守ってあげる」
「でも、貴女はこの学校の、」
黙って、と言う様に透子の人差し指が霧依の柔らかな桜色の唇に押し当てられる。まるで秘密を共有する時の様なぞくりとした感覚が霧依の指先を小さく甘く痺れさせた。
「ここにいるのは香月透子という一人の女よ。教師ではないわ。‥‥これからずっと、私が貴女を守ってあげる。だから頑張らなくていいのよ?」
優しく抱き締められた腕の温かさに、霧依は声を上げて涙を溢した。
花言葉:あなたと一緒に
●イカリソウ
「また怪我をしたの、ビリティス? 今月は何度目かしら?」
「‥‥うっ、だってよぉ‥‥」
「だってじゃないの。貴女は女の子なんだから」
眩しい橙色の夕陽が西の窓から差し込む放課後。海外から女学校へと赴任した女教師・シエル(村雨 紫狼(
gc7632))は、鍵付きの薬品棚を開け、中から治療の為の救急箱を取り出した。木製の丸椅子に腰を下ろした留学生のビリティス・カニンガム(
gc6900)は、咎める様なシエルの言葉に向けて可愛らしい頬を膨らませると『納得なんかしていない』という意思表示を見せた。
「弱いもの苛めをされてる子を助けたり、木から降りれなくなった子猫を助けたりするのは良いけど、貴女が怪我をしてちゃ意味が無いでしょ?」
「だって! 放っておけなかったんだよ‥‥」
「そうね、それが貴女の良い所でもあるけど、悪い所でもあるわね」
ハニーブロンドの柔らかな髪にシックなスーツを身に着け、そして誰もが眼を奪われる赤いハイヒールを履いたシエルは、女学生時代、この学校に留学生として訪れた経験があった。教職についた後も、学校で過ごした時間がシエルにとっての大切な思い出となり、現在の校長に掛け合い教師として赴任出来る様に頼み込んだ。元々、海外との交流が盛んだった為にシエルの申し出は直ぐに受け入れられ、今に至る事となった。
保険と体育を受け持つシエルは、必然的に保健室の管理も任される事になり、それは同時に怪我をした生徒と言葉を交わす機会が増えるという事を意味する。特にビリティスの自由奔放な素行は、学校の中でも(悪い意味で)他の女生徒達からの注目を浴び、硬派のリーダー格と思われるぐらい、男勝りで活発な所があった。
「ほら、足を出しなさい。水で濡らしただけじゃ、治りが悪くなるわよ?」
「‥‥いい、っ! 良いってシエル先生! その薬、痛いからヤなんだよ!!」
「我侭言わないの。貴方の綺麗な肌に痕が残ったら困るでしょ?」
シエルの言葉に渋々という表情を浮かべると、ビリティスは紺青のワンピース型の制服のスカートを膝の上まで上げ、履いていた靴下を脱ぐと足を見せる様に差し出した。シエルの細くしなやかな指がピンセットを掴み、消毒薬に浸したガーゼを摘むと、赤い蚯蚓腫れの様になった足の傷へと浸していく。傷口から染み込む薬液の痛みにビリティスは大きな瞳に涙を浮かべて声を堪えるが、彼女の足に触れるシエルの掌は逃げる事を許さないという様に腿の裏に添えられている。
「はい、もう片方の足も出して」
「‥‥こっちも、するの?」
「当然でしょ? もう少しだから我慢しなさい」
ビリティスに告げる言葉は厳しいものの、治療をするシエルの手は優しさと温かさに満ちていた。ビリティスは、そんなシエルの優しさにいつの頃からか惹かれ、そして胸が締め付けられる様な寂しさを覚える様になっていた。
シエル先生は誰にだって優しい。だからあたしにだって優しくしてくれる。あたしが無茶をするから心配をしてくれる。でもその心配はあたしだけのものじゃなくて、やっぱり皆に向けてる心配なんだ。‥‥そんなの、初めから解ってる。解ってるけど、やっぱり、あたしの事を構って欲しい。先生が喜んでくれる事をいっぱいしたいし、本当は先生に抱き付いたりしてみたい。‥‥でも、そんな事言えるわけないもんな。
するり、とスカートの裾が下ろされると、治療が終った事に気付いたビリティスは、少し寂しそうな表情で「ありがと」と呟いた。
「そうだ、ビリティス。ひとつ聞きたい事があったんだけど」
シエルが愛用している少し古ぼけたアームチェアに腰を下ろすと、すらりと伸びた足を組んでビリティスに尋ねた。
「これ、何だか解るかしら?」
「あっ?!」
面白そうに笑って見せるシエルに、ビリティスは慌ててワンピースのポケットをまさぐった。シエルの手には中身が三分の一程の残った薬品が入っており、それはシエルが保健室へと戻る前にビリティスがこっそり棚から抜き出し隠し持っていたものだった。怒られる事を覚悟したビリティスは、まるで子犬の様にしゅんと肩と頭を下げて小さな声を絞り出す。
「‥‥ごめん、なさい」
「良いのよ、謝らなくても」
コトリと木製のテーブルの上に瓶を置いたシエルは、優しい笑顔をビリティスへと向けた。
「寂しかったのでしょう? 言われなくても顔に書いているわ」
「‥‥せっ、先生!」
瞬間、ビリティスの柔らかな頬がさっと朱に染まった。組んでいた足を戻したシエルが、ビリティスに向けてそっと手を差し伸べる。
「ほら、いらっしゃい」
真っ赤に染まった顔を俯かせたまま、ビリティスはシエルの掌に自分の掌をそっと重ね合わせた。
この子は気付いてはいないけど、小さな胸の内側に仄かな明かりの様な恋心を点している。けれど、私が気付かせてあげるのはほんの微かな光だけ。この子がもう少し大人になった時に、もう少し明るい光を見せてあげようかしら?
花言葉:君を離さない
●杜鵑草
白いカーテンを揺らし、心地の良い初夏の風が図書室の中へと静かに忍び込んだ。人気の無い図書室の中には呼吸すらも忍ばれる程の静寂が満ちている。木製の椅子の軋みが酷く煩いものに聞こえ、座っていた女生徒は小さく息を呑んで視線を隣へと向けた。
「あの、今日は‥‥私の、我侭に付き合って下さって‥‥ありがとう、ございます‥‥」
震えそうになる声を振り絞り、祝部 陽依(
gc7152)は隣に座る月臣 朔羅(
gc7151)へと言葉を告げる。長く美しい朔羅の黒髪が揺れ「緊張しないで」と優しく微笑み言葉を返した。
「陽依が望むなら、私はいつだって構わないのよ?」
朔羅の指が開かれた教科書の文面を静かになぞる。たったそれだけの事が陽依にとっては神聖で美しいものに見え、高鳴る鼓動を抑えようと豊かな胸の前で細く白い手を握り締めた。
放課後、二人だけの勉強会を開いて欲しいと声を掛けたのは陽依だった。期末試験を間近に控え、少しでも良い成績を残したいと申し出た陽依の言葉を朔羅は快く承諾した。勉強に必要な教科書やノートを手に図書室に入った時、誰も居ない室内に「まるで、私達だけの秘密の部屋の様ね」と呟いた朔羅の言葉に、陽依はひっそりと顔を赤くしていた。
「ん、そこはもっといい解き方があるわよ。思考をシンプルにする事で、見えなかったものが見えてくる事もあるのよ」
「‥‥ぁ、はっ、はい! ‥‥そうすと、えっと‥‥こう、ですか?」
「正解。陽依は本当に呑み込みが早いわね」
静かな図書室の中に、二人分のひそやかな会話とノートの上を走る鉛筆の音が微かに空気を震わせる。朔羅の指導はとても優しく解り易いもので、陽依の頭の中でもやもやとしていた疑問が驚く程簡単に晴れてしまっていった。朔羅の肩が揺れる度に長い髪が陽依の掌に触れ、その度に跳ね上がった心臓の音が朔羅に届いてしまうのではないかという怖さに襲われた。長く黒い睫が瞼を閉じる度に揺れ、その奥から覗く茶色の瞳が陽依の視線を捕らえると、それだけで身動きが出来なくなってしまう程の緊張が指先を震わせた。形の良い唇はとてもつややかで美しい桜色をし、時々覗く赤い舌に視線が奪われると、まるで呼吸すらも絡め取られてしまったかの様な錯覚に襲われた。
「あら‥‥どうしたのかしら?」
朔羅の唇が尋ねると同時に、陽依の小さな唇に人差し指が宛がわれた。
「‥‥そんなに顔を赤くして、一体どこを見ていたのかしら?」
まるで向けていた視線を咎められてしまったかの様な言葉に、陽依は思わず小さな悲鳴を上げそうになった。心臓を打つ鼓動が強くなり、陽依は真っ赤になった顔を背ける様に下を向いた。
「ご、ごめんなさ‥‥っ! そっ、その、朔羅姉様が、あんまりにも御綺麗、だから‥‥っ!」
振り絞った声は、誰が聞いても解る程に震えていた。陽依の頬に温かなものが触れると、それが朔羅の掌である事に気付いた瞬間、陽依の意識は完全に朔羅へと奪われてしまっていた。
「ふふ。折角だから、勉強以外の事も教えてあげましょうか? 例えば‥‥キスの仕方とか、ね?」
悪戯めいた様に呟かれた魅惑的な言葉に、陽依の大きな瞳に涙の幕が滲んだ。柔らかく握り締められた掌に、そっと朔羅の柔らかな唇が触れる。そうして指先へとその唇が動くと、陽依の網膜には朔羅の姿だけが切り取られた様に映し出された。
「これは、敬愛のキス。ある劇作家が言っていたわね」
震える様に息を吐き出した陽依の呼吸を絡め取る様に、朔羅の細い指先が柔らかな唇の上を撫でる。それがまるで合図であったかの様に、陽依は長い睫に縁取られた瞼を静かに閉じた。
「そしてこれが、友情のキス」
柔らかな髪が掻き分けられ、朔羅の唇が額に触れると(違う、そこじゃないんです!)と、陽依は心の中で声を上げた。
「そしてここが、厚意のキス」
朔羅の指先がするりと陽依の頬を撫でると同時に、柔らかく唇が押し当てられる。(御姉様の意地悪!)と、陽依は自分でも驚く程の大きな声を心の奥で叫んだ。唇に微かな吐息を感じ、陽依の唇が緊張から強く結ばれる。
「‥‥御姉様、どうか、私に‥‥。‥‥御姉様の、キスを、教えて下さい‥‥」
祈る様に告げた言葉に朔羅の瞼が心地良さそうに閉ざされたる。冷たく強い風が図書室の中へと舞い込み、二人の長い髪をふわりと優しく舞い上げた。
――唇に触れるのは、愛情のキス
花言葉:永遠にあなたのもの