タイトル:ミリバーグ邸の一幕マスター:みろる

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2011/10/29 00:06

●オープニング本文






 また、ずれているテンポが気になっていた。
 シイは、じりじりと唇を噛み締め、居た堪れない目を伏せながら、今更訂正出来ないそのホ短調のコンチェルトの第一楽章の、オケと独奏ヴァイオリンとの、あんまりにあまりな息の合わなさぶりを、その痛々しいくらいのちぐはぐ感を、嵐が通り過ぎていくのを待つような心持で、待っていた。
 出来るだけ水を強く出して、この何とも恥入るしかないこの一曲が出来るだけ耳に入らないように出来たら、とも思うのだけれど、バイト中に友人と喋っているのは黙認してくれるのに(もちろん、お客さんが居ない時なのだけれど)、変な所では細かいマスターに見つかったら、間違いなく水道の蛇口は絞られて、じろ、と睨まれてしまうはずだった。
 だから、とにかく、これは黙々と仕事をしているふりでやり過ごし、終わるのを待つしかない。
 それは、拷問にも近い。
 けれどだいたいあのコンのアレグロは、一体それの何処がアレグロか、というような指示だったのだ。
 とか、どうせ心の中は誰にも聞かれてないんだから、と、さっさと人のせいにして片づけてしまいたい半面、あれだけ駄目だ! と押さえつけられ、俺のアレグロはこうだ! と、何度も教え込まれたにも関わらず、どうしても弾いてる内に自分のアレグロを押さえ切れなくなってしまったシイが悪いと言えば、悪い結果だ、とも、思う。
 だからせめて、自分の分だけでもこっそり叩き割ってしまおうと思っていた記録媒体ですらマスターに見つかり、取り上げられ、クラシックマニアといってもいいようなマスターが、こうして拷問のように、自らの店のBGMでかけようとも、これは、受けるべき罰だ、と耐えるしかない。
 でも、アレグロ・モルト・アパッショナートだったのに。
 シイはじくじくと女々しくもまた逡巡する思考と戦いながら、洗ったカップを、水切りかごに置いた。
 次のカップを手に取る。
 アレグロで、モルトで、アパッショナートなのに! 快活に早く、極めて情熱的に、激しくなのに! クソーっ!
 ジャー。ジャブジャブ。ベチャン、ガコン。
 なんて、わりと平和主義というか、悪く言えばただの面倒臭がりの、しかもフィドル弾きなんて、馬鹿にされても仕方ないような遊び程度にしかヴァイオリンを弾けないシイは、思ってはいても、とてもあの爺様コンには、言えなかった。
「相変わらずシイの音は、いいね」
 カウンターに座ったジャミが、ぽ、と言った。
 シイは顔を上げた。
 何かその美しく整った横っ面を、とりあえず思いっきり叩きたいな、とか、思った。
 目が合った。
 やめた。
 顔を伏せる。
「二楽章と三楽章はもっといい。むしろ、二楽章と三楽章がいい」
 マスターがぼそ、と口を挟む。
「はー知ってますよ」
 何を今更お前ごときが口を挟むのだ、とでもいうように、素っ気なく言ってジャミは珈琲を口に運ぶ。
「まーむしろ、一楽章が失敗ですしね」
 どうも日本人の血が半分入っているためか、それとも日本人は関係なくて性格的な物なのか、どうも気軽に出してしまう戸惑った笑み、などを顔に張り付けて、シイは言う。
「そういえばシイ。聞きたかったんだけどさ」
 そんな愚痴臭い事は全然聞く気ありませーん、みたいなドライさで、ジャミが話を変える。
「はー」
「昨日は、何処行ってたの」
 いよいよこれは思いっきり叩く機会ではないか。と、そのびっくりするくらい無邪気な問いかけに、思った。
 いやむしろ、この店に平然とした顔で入って来た瞬間に殴るべきだったに違いない。
「別に、何処にも。三時くらいから、ヴァイオリンの先生の所には行ってましたけど」
「どうして。約束してたでしょ」
 覚えていたとは、むしろ、驚いた。
「連絡したんだけど」
 午前十時の約束で三時まで連絡を待って、それでもなかったのなら、それはもーないも同じだ。
「はーそれはすいませんでした」
「怒ってるの、ごめんね」
 と、そんな覇気も生気もない感じで謝られても、ちっとも実感が沸かない。「新しい彼女が、是非泊まりに来てほしいってさ。断れなかったんだよね」
 痩身の美しいスタイルの肉体と美しく整った顔があって、生活臭とか覇気とかがない薄いこの美男子は、意外と女性と一夜を共にする気力、とかは無駄にあって、けれどモラルがなく、おまけに遠慮も節操も持続力もないから、女性に良くしばかれているのだけれど、そんなのは全然もー可愛らしくて、いやそんな手加減しないでいいですよ、むしろもっと毎日くらいしばかれてたらいーですよ、とか、シイは思った。
 それとも僕が今ここでしばいて‥‥。
「そういえば、この間の、えーっと。何か金持ちのお屋敷の辺りに行くっていう仕事は、どうだったんですか」
 とか、面倒臭い気持ちになりそうだったので、話を変えることにした。
「まあ。酷いもんだったよ」
 ジャミは交差させた両手を後頭部にあてながら、ぼんやりと、言う。
 こんなご時世だから危険な地域はたくさんある。
 すぐ近くで戦争が起こっているのに、それでもいろいろな事情でその付近を離れられない人達は、これまたやっぱり、たくさん、いる。
 小さな集合体である町の中で、閉塞し、退屈し、怯えている人も。
 そんな場所に届ける物資を調達したりするのがジャミの仕事なのだけれど、シイは時々、それを手伝ったり、遊び程度でも弾けるフィドルを引っ提げて、町の人達に向け演奏を行ったりもしているのだけれど、今回は、そういう話はない。
「もう避難しないと不味い状況だっていうんで、今回はその避難を手伝ったんだけどさ。でもその家には、直筆の原譜や総譜なんかがごろごろ保管されててね。けれどまさか、命からがら逃げ出すのに、そんな物をばさばさ持って出るわけにもいかないじゃない。いやあ、あれは勿体無かったなあ」
「ちなみに、どんなのが」
「モーツァルト、バッハ、ベートーヴェン」
 偉大過ぎる作曲家達の名前をすらすら言って、ジャミはひょい、と肩を竦める。
「えー」
 愕然とした。
 そんな偉大な作曲家達の直筆の原譜や、世に出回っている絶対数が確実に減りつつある貴重な総譜が、何の価値も分からないバグアやキメラの手によって、ただの紙切れのように扱われ、この世から消えてしまうなんて、悔しすぎるじゃないか。
「まだキメラは出るけど。欲しいなら、依頼、出してみたら?」
「ただの紙切れと思う人も居るかもしれないけど‥‥文化保存と思って、やってくれる人も居るかもしれないですよね」
「ただ、ミリバーグ邸の人達は逃げる時にてんやわんやで家の中をひっくり返してらっしゃったから、何処に楽譜が転がってるかは分からないよ。捜して貰わないといけないけど」
「んーでもまーとりあえずは、依頼、出してみますね」
 やんわり言いながら、内心ではわりと必死で、どうか全部ちゃんと無事に戻ってきますように、とか、祈った。





●参加者一覧

セシリア・D・篠畑(ga0475
20歳・♀・ER
終夜・無月(ga3084
20歳・♂・AA
壱条 鳳華(gc6521
16歳・♀・DG
ルティス・バルト(gc7633
26歳・♂・EP
葵杉 翔太(gc7634
17歳・♂・BM
葵杉 翔哉(gc7726
17歳・♂・GP

●リプレイ本文







 あと数十分したら、また雨とか振らそうと思ってますんでよろしく。
 とでもいうような、酷く冷たくどんよりとした雲が、空を覆っていた。
 湿った風が、緑や土の匂いを滲ませながら、生ぬるく体に纏わりついてくる。
 葵杉 翔太(gc7634)はその不愉快さに、チッと小さく舌打ちした。「こういう場所には晴れた日に来たいよな」
 それに答えたのは、ブルーの塗装のAU−KV「アスタロト」に身を包んだ壱条 鳳華(gc6521)で、「その通りだな」と、開いたフェイスガードから覗く、透き通った真紅の瞳を不愉快そうに細めた。「私には、太陽が燦々と輝くような、晴天こそ相応しいというのに!」
 そしてべちゃ、と先んじて振っていた雨にぬかるんだ地面を踏み込み、跳ねあがった泥に罵りを上げる。
「だったら移動する?」
 そこでさら、とさりげない仕草で手を差し出したのは、元売れっ子ホストとかいう異色の経歴を持つルティス・バルト(gc7633)で、「こっちの方が、道はまだいいみたいだしね」と、彼女の手をさっさと取ると、鳳華と自分の居場所を、至極なめらかな動作で入れ替えた。
 そのくせ、その顔にあるのは別にやるべきことをやっただけだしくらいの自然さで、一歩間違えばただの嫌味な気障にしかならないはずの行為は、彼から放たれるある種の恬淡によって、貫禄と気品を備えたフェミニストっぷりとして成立する。
 翔太はそれを、フン、と、冷たい目で、見つめた。
 馬鹿じゃないの。
 と、何か、思った。
「あと、何でもいいけど、この雑木林、薄気味悪いよねえ」
 ぷるぷる、っていうか、ふるふるっていうか、いかにももー、全身でビビってます! を表現している葵杉 翔哉(gc7726)が、甘えた口調で言う。けれど兄から同意は得られなくて、仕方なく隣を振り返ったら。
「‥‥はい、そうですね」
 思いっきり、あれ? どっかで今、録音したカセットテープを再生したんですか? みたいな無表情のセシリア・D・篠畑(ga0475)と目が合って、何かもー、翔哉は益々どうしていいか、分からない。
「えーっと」
 と、言葉を濁して目を逸らしておいて、「ねえ、変な鳴き声みたいなの、聞こえない?」と問いかける口実で、翔哉は結局はやっぱり前を歩く兄の服をちょんちょん、と引っ張った。
 確かに、グワングワンと何らかの鳴き声めいた音が、雑木林の中に響いている。
「ああ、キメラだね」
 何時の間にか覚醒状態に入っていたルティスが素っ気なく、言った。
 その体が茶系統の淡い光に包まれているのは、バイブレーションセンサーを発動したらしい。
「一匹、二匹‥‥」
「言ってる間にお出ましだぞ」
 フェイスガードをバチン、と勢い良く下ろし、鳳華が叫ぶ。
 じんわりと、まるで浮き出て来たかのような唐突さで、雑木林の間から、確かに、一匹、二匹と、褐色の色をした、カマキリのような顔を持つキメラが、その手のカマを振り上げながら、姿を現し。
 そしてその二つの焦点の定まっていないように見える目が、グキキ、と奇妙な鳴き声と共に戦闘態勢に構える能力者達を――。
「わぁぁぁぁ!」
 素っ頓狂な声を上げたのは、虫が大嫌いだという翔哉で、「む、虫‥‥っ! 虫っ! しょ、翔太ン、虫だよぉ」と兄にしがみつき、「翔太ン呼ぶなつってんだろ! おら、翔哉、行くぞっ!」と、追い払われ。
 そんな兄弟の微笑ましくもあるやり取りを、全く微笑まない無表情で、はい虫ですね、ええ、確かに虫ですが、何か。みたいに見つめたセシリアが、
「‥‥行きましょう」
 と。
「えっ、キメラ、ノーリアクションですか」
 って全然聞いてないセシリアは、すっかりもー覚醒状態で、途端に彼女の静かな水面を想わせる青い瞳は、無機質に燃える赤へと変化し、同じ赤い血管のような模様を浮かび上がらせた掌には、漆黒の、超機械ブラックホールを構えていて。
「電波増強」
 呟きに呼応し、その周囲に浮かぶ映像紋章が、素早くシュルシュルと配列を変える。走り出し、振り向きざまに、もー撃った。
 ドプッと、飛び出した黒いエネルギー弾は、着弾と同時にブワアアと膨らみ――飲み込まれたキメラが破裂する。
 けれどまだまだ彼女の動きは止まらない。飛び散る得体の知れない物体を飛び跳ねて交わすと、また、振り向きざまに、発射。
 なんて火力だ。
 と、すっかり茫然とする兄弟の隣で「俺に会った事を後悔してください‥‥」
 いきなりそんな静かな男の声が聞こえ、「あ、はい」って思わず返事をしてしまった後で、え。誰!
 って見たら、そこに終夜・無月(ga3084)が立っていた。
「い、いつから居たのー!」
 あわわわ、って思わず慌て過ぎて敬語すら出てこない翔哉に向かい、「最初から居ました」と完結に述べた終夜は、セシリアの攻撃が届かない位置から奇襲をかけてきたキメラへ向かい、ええ、気付いていますよ、と言わんばかりに、すかさず、呪歌を。
 艶やかな声で歌いだされるその声が、林の中に酷く、幻想的に響き渡る。
 淡く白い光に包まれる終夜が、まるでこの世の物とは思えないような不気味な美しさを醸し出し、その対象とされたキメラはまるで死神に死を宣告されるのを待つかのように、動きを止めた。
 グギギギギ。
 苦しげに呻くキメラを、覚醒の影響で金色に変化した瞳でぼんやりと見つめる終夜は、あえてその瞬間を焦らすかのようにゆっくりと近づいて行く。
 明鏡止水を振り上げた。
 その、どちらかと言えば華奢にも見える彼の腕の筋肉が、しっかりとした質感を持って隆起する。豪力発現を発動したのだ。
「後悔の時間は終わりです」
 切る、といよりは、叩く! といった様子で、その細い首へと躊躇いなく剣を振り下ろす。
 ブウンッと、その透き通る水のような美しい刀身が風と共に、キメラを叩き斬り。
「よし、俺達も行くぞ!」
 そこへ来てやっと、やばい俺、何もしてない! とか我に返った翔太は、エンジンかかりまくりの百戦錬磨二人から、それでも漏れ出してくるキメラへ向かい突進し、薙刀「舞姫」の攻撃が炸裂すると同時に、獣突を発動した。
 けれどどういうわけか、方向を何か間違って、気付いたら、ドウッ、と吹き飛ばされたキメラが、翔哉の元へと。
「わぁぁ! 翔太ン、何でこっちに飛ばすのー! もしかして僕のこと嫌いなのー!」
 って言いながら、へっぴり腰でフォルトゥナ・マヨールーを構える翔哉は、何をどう間違ったか急所突きを発動していて、その銃弾が思いっきり、キメラのど頭をズッドーンと撃ち抜いた。
 その半泣きの顔に、撃ち抜かれ飛び散ったキメラの内の臓が、ベチャーっと。
「いやあーん!」
 でもわりとルティスは後方でのんびりと「それにしても美しくないキメラだよね。俺さ、美しくないものはあんまり好きじゃないんだよね」とか何か言っていたのだけれど、その間にもキメラはやっぱりまだまだ現れていて、あ、あそこ隙あり! とばかりに、突進してくる。
 えーこっち来ンのーみたいに頭をかいたルティスと、その光景を見つけ、アイツ! と、翔太が慌てたのは、ほぼ、同時だった。
 バッと走り出した翔太の舞姫が、敵の背後を取ろうとしたその瞬間。
 自らを諦め投げだすような、従容とも倦怠的とも取れる歌声が、ルティスの口から零れ始める。
 呪歌だ。
 たちまち動きを封じられたキメラの背後に立つ翔太へと、あとはどーぞ、とばかりに、肩を竦めてアイコンタクト。
「べ、別に心配したとかそういう訳じゃ‥‥いないから」
 どさ、と倒れたキメラを見下ろしながらぼそぼそ言うと、「分かってるよ」と、微笑みを浮かべた端整な顔が言う。
 嫌な奴。腹立たしい奴。気障な奴。俺は別に本当に心配なんかしたわけじゃあ‥‥。
 とか何か、ブスっとした顔で内心文句だらけの翔太の傍を、アスタロトの装輪を巧みに操り竜の角で発生するスパークを、辺りにまき散らしながら鳳華が駆け抜けて行く。
 ダッと地面の泥を跳ねあがらせながらキメラへと距離を詰め。
「さー残り少なくなってきたぞ! さあ、邪魔なカマなんぞ切り落としてやる、覚悟しろ」
 振り向きざまに、威圧感満開の荘厳な青色の天剣ウラノスを振り抜き。
「全く醜い! 例によってまたよくわからんセンスのキメラだ! 邪魔臭い上に、見ていて不愉快。いいとこなし!」
 La rose dune fleur ! と声を上げる。
 意味は、フランス語の分かるらしいルティスの呟きで、分かった。
「なるほど、一閃の薔薇か。上手い事言うね」





 キメラの見張りを終夜に任せて、一同は楽譜の探索を開始することにした。
 一階をメインに探す鳳華は、「とりあえず私は舞踏室とやらに向かうぞ!」と、別に誰も聞いてないけどやたら大きな声で宣言をし、すっかり意気込んで歩いて行くけれど、実の所、楽譜を探す気は、ほとんどない。
 むしろ舞踏室で踊ってみよう! とか、全然何の役にも立たないような不純な動機しかなくて、でもその内心は誰にも分からない。
 道すがら、食堂の前を通りかかった。で、通り過ぎた。
 と。
 ん? とか思って、こそこそ、と後退りした。
 セシリアが居る。
 彼女は、相変わらずの無表情でアンドロイドのようにそこに突っ立ち、じーっとテーブルの上を見下ろしていた。
 その視線の先には。
 肉。
 いや、まさか。
 けれど彼女は微動だにせず、テーブルの上で、出されたばかり、といった状態のまま、結局誰にも手をつけられることなく放置される羽目になってしまったらしいローストビーフを見下ろし。
 やがて、すっと、両腕が上がった。どうするのか、と思っていたら、胸の前で両手を組み合わせ、食事の前の祈りを‥‥。
「いやいやいやいや、待て待て待て待て」
 はい、待てと言われたんで待ちます、みたいにセシリアが動作を止め、鳳華を見た。
「い、いや」
 その無表情の威圧に何かもー負けた。「今にも食べようとしているように見えたんで、つい、な」
「はい」
「いや確かに微妙に食べられそうではあるが」
「そのようですね。これはとても微妙なラインの匂いを放っています。つまり、食べてみないと分からない‥‥では食べてみるしかありません‥‥誰が。私が」
 とか、驚異の三段跳びで結論を出したセシリアは、無言で椅子に腰掛け、ナイフとフォークを手に取り。
 ってその間にも、いやいやいや、と駆け出そうとする鳳華は、思いっきり天性のドジを発動し躓き、何をどう間違ったかテーブルクロスを引っ掴み、ずるずるずるガシャーン!
 そして更に、顔面にスープをビシャっ! と。
 とか、わりと凄い事になっているにも関わらず、きちんと狙いの品だけは持ち上げて確保したセシリアは、黙々とそれを食し、きれいに平らげると、そっとナイフとフォークを、置いた。
「なかなか美味しかったです」
 口元をナプキンで拭う。「‥‥やはり食べ物は確り食べて、供養してあげないとですね」
 そして今気がつきましたが、何をやってらっしゃるんですか、とばかりに床に突っ伏した鳳華を見やった。
「うぐ‥‥」
「何でしたっけ? 捜索‥‥はい、楽譜の探索でしたね、ええ」
 って言った途端に、バッターン、とか、食堂の隅に置かれた棚が、トドメとばかりに倒れてきた。
 ふわ、と小さな埃が舞う。
 もしやこれは、私の不純な動機に対する、死した芸術家達の呪いではあるまいか。
 と、多少なりとも鳳華が思った瞬間。
 棚の隙間で、バサっと何かが。
「これは、楽譜‥‥」
 セシリアはそれをそっと拾い上げた。「これはシベリウス‥‥」
「分かるのか」
「クラシックは、嫌いじゃないです」
「なるほど、よしよし。見つかったんだな。ここにあるのは、二冊か。あと三冊だな。うん。私の多大なる貢献についても忘れないでくれよ」
 スープまみれになっただけのわりに、とっても偉そうに鳳華が、言った。




 その頃、二階にある図書室を調べていた翔哉は、見つけた楽譜を胸に抱き、るんるんと、兄の姿を探していた。
 目当ての物を見つけ出せた喜びに足取りも軽い。
 やっぱり、いっぱい紙のある部屋だから、紛れてあると思ったんだよねー、楽譜。
 ふわふわと微笑み楽譜を見つめ、ふと顔を上げると、突き当りの廊下を横切って行く背中が見えた。
 あ。ルティスさんだー。
 後を追ってみると、背中は音楽室へと入って行った。薄く開いたドアから、何となく中を覗きこんでみる。そこには兄の翔太が居た。

「ああ、先に来てたんだね、翔太さん」
 ルティスの声が聞こえる。
 続いてすらりとした長身の影が、どちらかと言えば華奢な兄の体へと近づいて行くのが、見えた。
 あ、と思った時には、ハグしようとした長身から、脱兎の勢いで兄は逃げている。
「何だよ、近づくなって」
 別に挨拶しようとしただけなんだけど、くらいの感じで、肩を竦めたルティスは、「さっき、予備室で見つけてきたんだ、これ」と、楽譜を掲げた。
「俺も、見つけた」
 翔太がべらんべらん、と楽譜を揺らす。
「もっと大事に扱わないと」
 呟くように言ったルティスが、ゆったりと翔太へと近づいて、楽譜を受け取るのか。と思いきや、背にあるピアノに、翔太を挟み込むようにして手をついた。
 逃げ場が、もーない。
「折角の原譜なのに。音楽好きやハーモナーには垂涎の品なんだから」
「わ、分かったから‥‥離れろ、って」
「聞こえない」
「いやいや聞こえるだろ、この距離なんだからさ!」
「弾いてあげようか?」
「え?」
「ピアノ」
「はーなに、弾けんの」
「馬鹿にしてるの」
「うん」
「あ、そ」
 ひょい、と眉を上げたルティスは、「そんな回りくどい挑発なんかしなくても、俺の演奏が聴きたいなら聴きたいって言えばいいのに」と、ピアノの椅子に腰掛け、蓋をそっと開く。
「べっ、別に聴きたいとか言ってねえし!」
「し、黙って」
 ふう、と小さな吐息を吐きだし、彼は、その美しい指先を、鍵盤へと乗せる。
 次の瞬間、ダアアーン! と、フォルテシモの太い音が、グランドピアノから流れ出し。
 ひっと飛び跳ねそうになったのもつかの間、包容力のある逞しい音が、次々に襲いかかって来て、引っ張られ、揺さぶられ、体中に音が浸食してくるかのようで。
 これは、ちょっと気持ちいいかも‥‥。
 つか、何か、やっぱり何やっても様になる男だよな‥‥。腹立つくらいに。
「ああ、惚れ直しちゃダメだよ」
 ふと、まるでこちらの心を読み取るかのように、ルティスが顔を上げ、言う。
「なっ! べ、別に惚れてねーし、見惚れたりとかもしてねーからなっ!! だ、大体、男が男に見惚れるとか、なな、無いから!」
「はいはい」

 ふふ、と翔哉は楽譜を抱きながら、ドアの隙間から見える光景に、ほんわりとした笑みを浮かべた。
 何だかんだ言って、あの二人、良い雰囲気なんだもんなー。
 あの中に入って行くのは、少し、躊躇う。
 ならばもう少し、見守っていようかな。
 そしてそう、思った。