●リプレイ本文
●案外むずい卵焼き
時間は少し遡り、朝5時のラスト・ホープ。
「ヒョウエが満足するものを作ってあげませんと、わたしの意地が立ちませんわね」
クラリッサ・メディスン(
ga0853)は、慣れない和風調味料と格闘しながら、『卵焼き用フライパン』に卵液を流し込んだ。
「‥‥困りましたわね。ヒョウエの前では常に最高の女性で居たかったのですけど」
火が強いのか、はたまた手間取り過ぎたか、茶色の焼き色がついている。
「‥‥これで、ヒョウエのわたしを見る目が変わらないと良いのですけど」
卵焼きぐらいで榊兵衛(
ga0388)の態度が変わるとも思えないが――『毎日のお弁当 簡単和食編』と書かれた本を閉じ、クラリッサはひとり、ため息をついた。
●故人に花を
「思花サーーン! 井上サーーン! お久しぶりデス!」
「おお、ラウルさんやないか!」
井上観光農園前にいた琳 思花(gz0087)と井上 敏夫の二人に駆け寄ってきたのは、この農村を訪れるのも三回目となるラウル・カミーユ(
ga7242)であった。
彼はひとしきり敏夫の近況を聞くと、思花へと向き直る。そして、農道に置かれた花束の横に、同じく持参した花を手向けた。
(「‥‥思海サンが亡くなってカラ、色々あったヨ」)
しゃがんで目を閉じたラウルの隣に、誰かが歩み寄ってくる。衣擦れの音を聞きながら、彼は故人に語りかけた。
(「思花サンを大切にします。うん、絶対。不幸にはしないヨ」)
だから見守っててね、と言い終えて、ラウルは立ち上がる。行こうか、と差し出された思花の手を取って、頷いた。
「‥‥イチゴ狩り‥‥後で来る?」
「うん。BBQの後がヨイかな? 井上サン、また後でネ!」
緑と赤に染まるイチゴ畑を指差す思花の手を引いて、ラウルは川の方へと走り出す。
「一年か‥‥早いもんだな」
「‥‥おや、あんたは‥‥」
作業に戻ろうとした敏夫の前に、一人の青年が立っていた。長めに伸びた前髪が、春の風に吹かれてふわりと揺れる。
「あの時は作業がおして見舞いに行けなかったんだが。俺は鈍名 レイジ(
ga8428)‥‥傭兵だ」
「鈍名‥‥ああ、そうか。報告書は読ませて貰ってます。琳さんの仇を取ってくれはった人や」
レイジは、以前この村を訪れた際、敏夫とは顔を合わせていなかった。
それでも、彼はそれが敏夫であると、一目で理解した。
敏夫の腕に刻まれた傷跡、そして潤むことのない左目が、この農村で起きた凄惨な事件と、新米傭兵だった過去の自分とを、静かに思い起こさせる。
「あん時は、えらい世話になって。ホンマやったら、儂のほうから出向いてでも礼を言わなあかんかったな」
「いや、流石にそこまでさせられねぇよ。‥‥ま、遊びに来るなら別だ。LHに来る機会があったら、歓迎するぜ?」
改めてよろしく、とレイジは敏夫と握手して、しばし農村の風景を見回した。
(「‥‥あれが、人の死に直面した初めての依頼だったな」)
道端に置かれた二つの花束。
(「少しはマトモに傭兵やれてんのかね、俺は‥‥」)
なあ琳さん? と、一言故人に問い掛けて、レイジは持参した花を手向け、そっと手を合わせた。
●かっぽーだらけです
「やっぱり、お花見には日本酒だよね」
「うん」
「ずっとロシアだったから、お花見諦めかけてたけど。あ、でも、『農村のお見合いパーティー』かと思っちゃったよ」
「斬新だね」
「うん、でも」
忌咲(
ga3867)はそこで一旦言葉を切り、河原を見渡した。
そして、言う。
「もう、お見合いなんて段階過ぎちゃってる人が多いみたいだけど」
「過ぎちゃってるねぇ‥‥」
同じく河原を見つめ、遠い目で呟くヴィンセント・南波(gz0129)。
桜の花が咲き乱れるそこには、恋の花までもが咲きまくっていた――。
「桜って、薔薇の仲間なんですよ。知ってました?」
「桜が? そうなんだー。愛輝君は知ってた?」
「いえ‥‥。考えたこともなかったですね」
土手にレジャーシートを敷いて、メアリー・エッセンバル(
ga0194)は、頭上に咲き誇る八重桜を指差しながら、解説を始めていた。
その幾重にも重なった桃色の花弁に触れながら、篠森 あすか(
ga0126)と愛輝(
ga3159)は、興味深げに彼女の話を聞く。
「桜は枝を切られるの、嫌いなんです。伸びて来たからと下手に枝を切ると、其処から腐っていってしまうの。気位の高いお姫様みたいですよね」
話をしながら、メアリーは一瞬視線を動かし、隣に座るオルランド・イブラヒム(
ga2438)の顔を盗み見た。
彼は、緑茶の入った紙コップを片手に桜を眺め、ただ黙ってメアリーの解説を聞いている。
(「楽しんでる‥‥かな?」)
微妙な反応の恋人に一抹の不安を感じつつ、メアリーは、目の前の二人へと視線を移す。愛輝のコップに甲斐甲斐しくお茶を注ぐあすかの姿に、少しだけ羨ましく感じたりもした。
「八重桜って、日本の結婚式でお茶として使われるんですってね? いつか、あすかさんと愛輝さんから八重桜のお茶を頂きたいです、うん」
あはは、と乾いた笑いで誤魔化したつもりのメアリーだったが、ふと気付けば、目の前であすかが緑茶を噴いている。
「なっ、え、ま、まだそんなこと‥‥‥‥ね、ねえ、愛輝くん!?」
げはげは、と盛大にむせ、頬を赤らめるあすか。妙な事を言ってしまったか、と、メアリーのこめかみに一筋の汗が伝った。
「そうですね、俺もそう思います」
まだ早いですよね、と、愛輝は恋人の頭に手を触れ、くすくす笑う。
未来の話としては否定しない彼女の言葉に、少し嬉しく感じながら。
「まだ早い‥‥それに、それなら私だってメアリーさんとオルランドさんから八重桜のお茶もらいたいっ!」
「え、えええぇっ!?」
今度は、メアリーが焦る番だった。
思わぬカウンターを喰らってオロオロと赤面するメアリーと、平常心でお茶を啜るオルランド。
傍らに置いた愛輝のコップに、ピンクの花弁がヒラリと舞い込んだ。
「いい天気ですねえ、絶好の行楽日和です」
こちらはフリーの榊 紫苑(
ga8258)。というか、女性アレルギーなので、別にかっぽーが妬ましいことも無い。
とりあえずヒマなので、そのへんにいた南波を捕まえた。
「お久し振りです。ちょっと、付き合って下さい。川へ」
「え? 水はちょっと‥‥」
その手に握られていたのは、水分に大変弱い楕円形携帯型育成ゲーム×3だった。
しばらく攻防が続いたが、南波は傍を通った思花を呼び止め、ゲームのカタマリをその手に押し付ける。
「ごめん、預かっといて。ごはんとトイレよろしくね」
「‥‥」
「なんばりん魚釣り? 僕もやりたいナー」
思花の目は冷たかったが、ともあれ南波と紫苑、そしてラウルの三人は、釣り具片手に上流へ走って行ってしまった。
「思花ちゃーん、久しぶりー」
「新条さん‥‥」
ふと見ると、すぐそばの岩の上で、新条 拓那(
ga1294)が釣り糸を垂れている。思花は速やかにゲームの存在を忘却し、岩によじ登った。
「‥‥今日はひとり?」
「う〜ん、ちょっと都合がつかなくてね。後で写真を見せてあげようと思ってるよ」
拓那の恋人の姿が無く、キョロキョロと周囲を見回す思花に、彼はカメラを見せながらニコニコと微笑んでみせる。
「それにしても見事な桜だね。今年最後だし、きっちり見ていかないとな。後であいつにも色々話をしたいし」
そして、おもむろに土手の上に咲き乱れる八重桜にファインダーを向ける拓那。思花は、彼の手元のバケツを覗き込んだ。
「魚‥‥釣れる?」
「あはは‥‥全然。思花ちゃんは釣りとか、やったこと無い?」
「小さい頃は‥‥兄さんと一緒に。でも‥‥」
「でも?」
怪訝な顔をする拓那に、思花は、小さな容器の中に集められた『餌』をチラリと見遣り、うぅ、と唸った。
「虫が‥‥無理で」
「ああ〜、そっか、女の子には気持ち悪いかなぁ」
拓那は『餌』を片手で隠して朗らかに笑うと、釣竿を置いて晴天の空を仰ぐ。
「いやぁ‥‥いい天気。普段荒事やってると、こういうのが平和なんだって、改めて実感しちゃうね。ふわぁぁ‥‥」
思わず瞼が重くなってきた拓那。その視線の先を、巨大なマスが水音とともに跳ね跳んだ。
「いい天気ッスねぇ。ほら、BBQに最高の魚が釣れたッス」
パチパチと拍手を送る拓那と思花の対岸で、特大のマスを釣り上げた天原大地(
gb5927)は、誇らしげにそれを針から外し、バケツに放り込む。その中には既に先客のイワナが数匹泳いでいて、新参者のマスは居心地悪そうに体を曲げた。
「カップルだらけッスから場違いかと思ったスけど、なかなかいい釣りスポットみたいッスねー」
「羨ましいよ〜。俺の分まで釣って〜」
羨望の眼差しを向ける拓那に片手を振り、大地は再び水面に釣り糸を垂らした。
不意に川を下った強風に、ざあっ、と音を立てて桜が揺れる。
桃色をした小さなものが空を舞い、大地の体を包み込むようにして、過ぎ去っていく。
ああ、と、大地は水面を見つめたまま、僅かに唇を動かした。
「‥‥長閑だな。本当に」
水面に浮かぶ、花筏。
雪に滲んだ血のような色だと、心の何処かで呟きながら、大地はそれを目で追った。
「お、南波さん。任務以外では初めてだな。釣れてるか?」
「おー、レイジー。へるぷみー」
一人でぶらぶら散歩をしていたレイジは、少し上流へ行ったところで南波たちを発見して声を掛けた。
「釣れる釣れない以前に、俺は釣りの経験がなかったり」
彼は、餌の川虫を探す段階で四苦八苦している。
「石の下にいるモンじゃねぇのか? いや、もっと川べりの、濡れてるトコだ」
「おお! 虫だらけ!」
レイジが指示した石をひっくり返し、ワサワサと走り回る川虫に感動の声を上げる南波。
「あー! なんばりんズルイ! 釣り勝負なんだカラ、人の手を借りちゃダメだってー」
「ハンデハンデ。だって初だし!」
少し離れた岩の上でブーイングを飛ばすラウルに、南波は飄々とした口調で言い返した。
「へえ、勝負ねぇ。で、何を賭けてるってんだ?」
「誰かの誇り」
即答するラウル。要するに賞品など何も無い。
「自分はもう、大分釣りましたから。南波さん、手伝いましょうか」
散歩を続ける、とさらに上流へと歩いて行くレイジと入れ替わりに、既に4匹ほど釣った紫苑が岩から降りてきた。
「あの辺の、深い所がおススメです」
「せんきゅー。あっち行こ」
「なんばりんズルイー!!」
ラウルの声は聞こえないことにして、南波は、流れの加減で水深が深くなっているあたりに釣り糸を垂れた。
が、
「おっと、すみません」
「うお!?」
盛大に上がる水飛沫。
ぽかん、と見つめるラウルの前で、紫苑に突き落とされた南波が水面に顔を出す。
「こらああーーーっ!! 軍の着衣水泳訓練で気絶しそーになった俺になんてことをっ!!」
不名誉な過去を喚きながら、白い光を纏った腕を振り上げる南波。AIが勝手に反応して覚醒しちゃうぐらい怖かったらしい。
「丁度良かった、川から、魚追い立ててもらえませんか?」
「とう!」
上機嫌な紫苑の足元を、水中から放たれた釣竿の一撃が襲った。
「あっ‥‥?」
ぼちゃり、と水中に没する紫苑。
結局、水中で大騒ぎした約二名のお陰で魚が寄り付かず、この日の釣果は、ラウルを巻き込んで最悪だった。
「ロシアでの作戦さえなければ、もっと早いうちにクラリーとこうやって花見が出来たんだが‥‥」
一方その頃、下流の方では。
桜並木の土手の上を散策する、兵衛とクラリッサの姿があった。
「‥‥まったく以て矛盾してますわね」
「矛盾?」
自分の左腕に右腕を絡め、ふう、と嘆息したクラリッサを覗き込み、兵衛が訊き返す。
「ヒョウエの隣に立つ為に切磋琢磨してきた結果が、こうして依頼に追いまくられる事となるとは‥‥」
「クラリー‥‥」
と、そこでクラリッサは我に返り、パッと顔を上げた。
「いえ‥‥だから、この時間は本当に貴重ですわね。甘えさせて貰いますわね」
愚痴るつもりでも、不満を述べるつもりでもなかった。ただ、やっぱり婚約者と一緒にいられないのは寂しいのだ。
「――ともかく、今は静かに花見を楽しもうじゃないか」
桜色に染まった地面を踏み締めて、兵衛は優しくそう言った。
見上げてみれば、大ぶりの花をつけた八重桜が幾重にも枝を伸ばし、美しく咲き誇っている。
二人はしばらく言葉も忘れて桜に魅入り、暖かな春風にその身を委ねた。
「今こうしてクラリーと二人でこういう時間を過ごせている事を神に感謝しないとな」
「ヒョウエ‥‥」
「勿論、クラリーを泣かせることはしていないつもりだが、このところすれ違ってばかりだからな。正直、クラリー分が足りなくて心の潤いが不足していた」
クラリッサの目を真っ直ぐに見つめ、兵衛は、その柔らかな白い手を、そっと握り締める。
「私も‥‥同じですわ。だから今日は、二人きりでいたいのです」
そうして二人は、どこまでも続く桜並木を辿り、再び歩き出す。
神が与えた素晴らしき時間を、二人だけで過ごすために。
●ようやくBBQですね
「も〜、お久し振りに会ったと思ったら‥‥風邪引いちゃいますよ?」
BBQ会場まで戻ってきた南波たち。水遊びのレベルを超えた濡れップリの二人は、不知火真琴(
ga7201)に導かれてカマドのそばに座る。
タオルで髪を拭く二人の前では、叢雲(
ga2494)とレイジの二人がカマドに炭を入れ、火を起こしていた。
「南波さん、思花さん、クリスマス以来ですね」
南波と、岩場から降りてきた思花に微笑みかけて、叢雲は手にした団扇でカマドに風を送る。
「やっぱり、一度はお花見に行っておかないと、ですよねっ! 空気もおいしいですよー」
真琴は、視界を埋め尽くさんばかりの八重桜に感動し、深呼吸しながらクルクル回って景色を堪能していた。叢雲と南波はそれを見て顔を見合わせ、クスリと笑う。
「日本人ですからね。桜は特別なのかもしれませ」
『花見か‥時には休息も必要と言うことか‥‥』
叢雲の言葉を遮り、桜の陰から顔を出したのは、謎のガスマスクであった。
「むっ、叢雲っ! 何かいるっ」
恐らく農村には最もそぐわない、そしてコンビニすら入店拒否間違いなしのその男の名は、紅月・焔(
gb1386)。
やや引き気味に見つめる一同の前を匍匐前進でカサコソ這い廻り、最終的に彼が辿り着いたのは、一脚の椅子の下だった。
『琳嬢‥‥今日の貴女は‥桜が霞む位美しく‥‥おや?』
地に伏せたまま物腰柔らかに思花に絡み、顔を上げて動きを止める。
何をどう間違えたかは知らないが、そこにいたのは南波だった。
「いや、俺に言われても‥‥」
『げ、げへへ! ダンナ、ひょっとして南波大尉ッスか!? やだなぁ間違えるわけございやせんぜ大尉。肩でもお揉みします‥‥へへへ』
「い、いい。いいから別に。ちょ、思花タスケテーー!!」
コーホーとガスマスク的な呼吸音とともに迫る焔にビビり、南波は慌てて皆の後ろに隠れた。
「‥‥紅月さん‥‥食べる時はそれ、どうする気‥‥?」
他人のふりをされなかったのが嬉しかったか、焔はくるりと思花を振り返り、急にキリッとした口調に変わる。
『琳嬢、僕はあなたが口移しを敢行してくれるなら、いつでもこの仮面をぐごぶべっ!?』
焔の後頭部を静かに踏みつけるラウル。焔は、虫のようにガサガサと手足をバタつかせた。
が、次の瞬間、
「今年だけで何度もお花見に参加しましたが、やはり何度見ても桜の花は綺麗ですね。ね、玲さん」
「ふう‥‥けれど、八重桜が咲くということは、春はそろそろ終わりなのですね。寂しいですわ、響さん」
焔は、少し離れたところで野菜を切りつつ、いい雰囲気の会話を交わしている美環 響(
gb2863)と美環 玲(
gb5471)の二人を捕捉した。
「そうですね。ですが、儚く散る姿に感動を覚えるたびに、日本人でよかったと思いますよ」
「私もそう思いますわ。では、春最後の花見を思いっきり楽しんじゃいましょう!!」
「ええ、ただ、花咲くのは桜だけではなく恋の花もみたいですが」
「ふふ‥‥まだ私には関係なさそうですわね」
見た目にもよく似ている二人は、特に何も言われなければ双子のように見える。
だが、焔の目にはそう映らなかったらしい。
『オレサマカップルマルカジリ』
謎の遠吠えを残し、響と玲の方へ匍匐前進で去っていく焔。
「むっ、叢雲っ! また動いたよっ!?」
「人間だと思いますけど‥‥何というか、変わった人ですね‥‥」
響にやられて川の方へと吹き飛んで行ったガスマスク男を眺めつつ、叢雲は乾いた笑いを漏らすと、真琴の肩をポンポンと叩いて安心させる。
「さーぁ、皆々様お待ちかね! 焼肉あがったよー!」
「イワナの塩焼きもあがったぜ。キノコはホイル蒸しか?」
誰にも邪魔されずに準備が進んだ拓那とレイジのカマドは、もう既にBBQの準備万端だった。
「美味しいお肉は早い者勝ちだからね? もっとも、美味しくないのがあるはずないけど♪」
どんどん食材を焼き上げる拓那の声に、野菜を切り終わった響や玲も駆け寄ってくる。拓那は、一番おいしそうな上カルビと上ロース、この村で買った地鶏の胸肉を数切れ皿に載せ、さり気なく自分用にキープしながら、皆にも取り分けていった。
「こっちも、そろそろですね。自分が焼きますから、楽しんで下さい」
「わ、紫苑さん、ありがとうございます。後で私も代わるのですよっ」
叢雲たちのカマドも大分火が大きくなり、ここで紫苑が焼き役を買って出る。真琴は嬉しそうにお礼を言うと、何から食べようかと網の上に視線を巡らせた。
「はい、真琴さん。このあたりの野菜も焼けてますよ」
「ま、待って待って!」
拓那に渡された肉の皿を真琴に回し、ついでに網の上の焼き野菜も取ろうとする叢雲。その箸の先を見て、真琴は慌てて声を上げた。
「もう。私、ニンジンはダメなんだよ?」
「わかっていますよ。冗談です」
むぅ、と少しむくれる真琴に、叢雲はクスクスと微笑みを浮かべ、箸を止める。
「真琴さん、この人参はこの村で購入したものですわ。甘味が違いますのよ」
にっこりと、優雅な箸捌きでニンジンを口に運んでいるのは、玲だった。その隣には、長いソーセージを一口大に切り、自分と玲の皿に分けている響の姿もある。
「でも‥‥やっぱり抵抗が」
網の上のオレンジ色の物体を見下ろし、悩み始める真琴。響はそんな彼女の表情を見て、笑顔でイワナの塩焼きを差し出した。
「人参に挑戦するのは今度にして、今日は楽しみましょう。さあ、どうぞ」
すると、どうだろう。
真琴がそれを受け取った瞬間、ぽふん、と小さな音を立てて、イワナが花束に変身したではないか。
「わ、わぁー!! 凄いですっ! 手品なのですかっ!?」
「全く見えませんでしたね。どうなっているんです?」
大興奮で花束を握り締め、顔を輝かせる真琴。まさか魚が花に変わるとは思っていなかった叢雲は、驚いた様子で響の手元を見つめていた。
「タネも仕掛けもございません。こちらもどうぞ」
優雅な微笑みを浮かべ、逆の手に持ったイワナの塩焼きを皿の上に載せる響。素晴らしいですわ、と絶賛する玲の拍手が、パチパチと辺りに木霊した。
「お二人は、ご姉弟か何かでしょうか?」
何気なく尋ねた叢雲に、響と玲の二人は、揃ってこう答えるのだった。
「「秘密です」」
「変なモンが釣れたッス」
「「「‥‥‥」」」
盛り上がるBBQ。大地が持ち帰って来た『びしょ濡れ&釣り糸グルグル巻きの物体』を見下ろし、一同は一瞬沈黙に包まれた。
『げへへへへへ‥‥オレサマ奇跡の生還ちょ、イヤ! 暴力反対よ!?』
南波はとりあえず、少し離れた桜の下までそれを引き摺り、適当に転がしておいた。
『‥‥‥ぉーぃ』
「じゃ、俺はあっちで酒でも飲んで来るッス。桜堪能したいんで」
獲って来たイワナと巨大マスをカマドにかけ、代わりに既に焼き上がった魚や肉を適当に更に盛ると、大地は再び川の方へ歩いて行ってしまう。
『‥‥‥ゃーぃ』
「なんばりん、ガスマスクさん、何か言ってるよ?」
「しっ、見ちゃいけません!」
個人的興味から焔の観察を始めていた忌咲を、南波が小声で止めた。
「うーん、美味しいっ! やっぱり皆で食べると美味いよね〜」
拓那はというと、焼いたり食べたり写真を撮ったりと大忙しである。そして、ふと思い立ったように、網の上の肉や野菜をいくつかの皿に取り分け、それを盆の上に並べた。
『‥‥‥ぇーぃ』
「それ、どうするの?」
「土手の上のメアリーさん達にも持って行こうと思うんだ〜。いい雰囲気だから、邪魔しないように、ね」
じゃあ手伝うよ、と盆を持ち上げる忌咲とともに、拓那はゆっくりと土手を登って行く。土手の中腹で、木陰でのんびり食事中のレイジにも皿を一つ渡し、残る皿はあと4つ。
『‥‥‥琳嬢の下着の色はしr』
何処からともなく飛来した菜箸が、ガスマスクを掠めて焔の顔面ギリギリの地面に突き刺さった。
「はい、これ焼けてるヨ」
「あ、ありがとう‥‥」
ラウルは自分で食材を網に載せ、焼けたものをホイホイと思花の皿に入れていく。思花はなぜか、先ほどまで持っていたはずの菜箸を失っていた。
『‥‥桜って何で女って文字入ってんすかねぇ‥‥何かオラわくわくしてきたぞ』
ウネウネと蠢くガスマスクは徹底的に無視して、ラウルはニコニコと上機嫌で思花を見る。そして――『あーん』と口を開けた。
「‥‥え‥っと、何かな‥‥」
「あーん」
何かな、とか言いながら100%理解している思花は、う、と言葉に詰まって頬を紅潮させる。
モタモタしていると、後ろで蠢くガスマスクとかが邪魔しに来る可能性が高い。
「‥‥‥はい」
思花は、かなり恥ずかしそうな表情を浮かべつつも、箸の先に鶏肉を摘んで、そっと差し出した。
が、
「ぱく」
「「!?」」
南波が食べた。
「ちょ、な、なんばりんのバカーーーーーッ!!」
「へへん。人前でイチャつくなんてけしからん」
「最低‥‥。あなた本当に最低‥‥っ」
最も低いという評価を受けた南波が、半泣きのラウルに追いかけ回されて村の方へと消えていく。
「あらあら、仲がよろしいですわね」
食後のお茶など頂きながらの玲が、微笑ましく皆の様子を見守っている。すると、何やらスケッチブックを広げた響が立ち上がり、彼女の前にそれを置いた。
「見て下さい玲さん、皆さんをスケッチしてみました。楽しそうでしょう?」
ぱらぱらと、軽い音を立てて捲られるスケッチブック。
ニンジンを見つめて困り顔の真琴と、優しく見守る叢雲。
焼けた魚を切り分ける紫苑と、お嬢様然とした様子でそれを口に運ぶ玲。
桜の下でメアリーの解説を聞くあすか、愛輝、そしてオルランド。
木陰でぼんやりと空を見上げるレイジと、川辺でひとり酒を楽しむ大地。
差し入れを運んで行く拓那と忌咲。転がるガスマスクに菜箸を投げる思花。
農村全域を舞台に本気の鬼ごっこを繰り広げるラウルと南波。
そして――どこで見つけたのか、仲良く寄り添って歩く兵衛とクラリッサの姿もあった。
「素敵ですわ、響さん。これは宝物ですわね」
「ええ、そうですね、玲さん。午後からは、玲さんをモデルに描かせていただけますか?」
よく似た顔の二人は微笑み合い、手に手を取ってBBQ会場を後にしたのだった。
●午後はまったりと
鮭とオカカのおにぎり、ちょっと茶色い卵焼き、見た目は完璧な肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、キツネ色のカラアゲ‥‥。
クラリッサが初めて作った和風弁当は、いわゆるお袋の味が満載な、懐かし系弁当だった。
誰もいない川辺に腰掛けて、兵衛とクラリッサは、普段会えない分を埋め合わせるかのように、色々な話をした。
「‥‥良い味付けだ。わざわざ和食に挑戦してくれるとは、少し驚いた」
「それでその‥‥如何です?」
不安気に返事を待つクラリッサ。兵衛は、ふむ、と一つ頷いてから、少し考えて口を開く。
「もう少し精進が必要かも知れないな。普段クラリーが作ってくれる料理と勝手が違うのかも知れないが、クラリーならもう一段美味いモノが作れると思うぞ」
「‥‥精進しますわ。次は必ずヒョウエの舌を満足させて見せますからね。期待なさって下さい」
覚悟しておこう、と、兵衛が笑う。
クラリッサも少し笑い返して、兵衛の顔を見ながら、そっと自分の膝を手で叩いてみせる。
「‥‥ご苦労様。あなたが多くのものを背負っているのは判っていますから、せめてわたしと居る時だけでも心安く過ごして下さいね」
横になった兵衛の頬を膝の上で撫でながら、クラリッサは、優しくそう囁いた。
さて、二人きりは二人きりでも、こちらは少々様子が違うらしい。
(「ああぁ〜‥‥何話せばいいのかな‥‥」)
清流沿いにゆっくりと歩を進めながら、メアリーは、傍らのオルランドに視線を向ける。
が、一瞬目が合っただけで、照れのあまり目を逸らして心音を心配する有様だった。
メアリーが一人でむにゅむにゅ百面相していると、不意に、オルランドが歩みを止める。
「また暫くラストホープを離れる事になる」
「え‥っ」
急な告白に、メアリーは、弾かれたように顔を上げた。
「次は南米に。『彼』を慕う者を悲しませるわけにはいかないからな」
「‥‥また、行っちゃう、の?」
いつもは出来ないのに、どうしてこんな時ばかり、真っ直ぐに彼の顔が見れるんだろう。
ふと、そんな事を考えた。
「次の大規模作戦までには帰る。心配ない。直接戦うわけじゃないから大きな怪我はしないよ」
「‥‥‥」
半分は嘘だな、と、メアリーは直感的に悟った。
彼はどこを見ているのかな、と、彼の視線の先を追うけれど、同じ所を見ている気がしない。
「出かける前に、君とゆっくり過ごしたかった」
メアリーは、一度目を伏せて、もう一度、彼を見上げた。それから、少し笑った。
「行ってらっしゃい。‥でも。もし2ヶ月経っても戻って来なかったら、あなたを捜しに行っちゃいますから! ‥‥私の方向音痴っぷりは、知っていますよね?」
「ああ‥‥必ず帰る」
彼がそう答えたその時は。
きちんと見つめ合えていると、そう感じた。
「はい、あーん」
「あー‥‥あーッ!!」
ラウルの指先を彩る赤い宝石が、口を開けた南波の前を完スルーして思花の口に納まった。
「あげるわけナイよね? よね?」
「だ、だよねー」
怒りの表情でイチゴのヘタを押し付けてくるラウルに、南波は仕方なくイチゴ畑から退場して行く。
「思花さん、美味しい?」
「‥‥うん。美味しい‥‥」
先程の横取り事件で何かが吹っ切れたか、今回はそれ程照れもなく、思花は少し嬉しそうな顔を見せた。
「ねぇねぇ、たんばりん。一緒に飲も? しーふぁさん、たんばりん借りてくね」
「忌咲さん‥‥。うん‥‥ご自由にどうぞ」
イチゴ畑を追い出された南波を待っていたのは、お持ち帰り用イチゴを提げた忌咲であった。南波(ななみ)→なんばりん→たんばりんと三段活用されているようだが、あまり誰も気にしていない。
「イチゴ狩りは?」
服の袖を引っ張る忌咲に、南波は、イチゴ畑を指差して尋ねた。
「めんどくさいからいい。そんなことより、飲み比べしようよ」
「飲んだら脱ぐ人だったよね? 大丈夫?」
南波は成人したばかりなので、正直、自分が下戸かどうかもよくわからない。理由をつけて逃げようとしていた。
「脱いだりしないよ? あれは寝惚けてただけだから。ほら、早く〜」
結局、南波は忌咲に引き摺られ、河原の方へと戻って行ってしまった。
「みんな〜! こっち向いて〜!」
農道に立ち、拓那が声を張り上げてイチゴ畑の皆を呼ぶ。全員が自分の方を向いたのを見計らって、タイミングよくシャッターを切った。
「帰ったら焼き増しして配るからね。撮ってほしい人〜?」
「はーい! 見て下さいっ、このイチゴ! すーーっごく大きくないですか!? ね、叢雲も入ろ」
特大のイチゴを発見した真琴が拓那を呼び止め、自分の顔とイチゴを並べてパチリ。二枚目は、イチゴと叢雲の手と比較して、自分も隣に入ってパチリ。
「これは大粒ですね。真琴さん、これは店用に持って帰ります?」
「うん。これでケーキ作ってね♪ これは切らないで、真ん中に飾るの」
叢雲が差し出した籠に特大イチゴを入れ、真琴は、すぐ目の前にあった形の良くない方の粒を、どっぷりと練乳につけて口に運んだ。
口いっぱいに広がるイチゴとミルクのコラボレーションを堪能し、真琴は思わず口の端を緩めてしまう。
「はい、叢雲も」
ひとしきりイチゴを味わうと、真琴は、店用のイチゴを集めている叢雲の前に、一番美味しそうな粒をひとつ、差し出した。
「いいんですか?」
「うん。これ食べて、しっかり店用のイチゴも集めてねっ」
ニコニコと、真琴は本当に楽しそうに言って笑った。
「‥‥わかりました」
幼馴染の命令に、叢雲は少しだけ苦笑を零すと、赤く輝く大粒イチゴを受け取ったのだった。
ところで、お熱い空気を充満させているラウルと思花の横の区画には、もう少し熱い二人が陣取っていた。
「旬のイチゴ、しかも採れたてなんて、おいしいに決まってるよねー♪」
「もうそろそろ季節も終わり、なんですよね」
あすかは練乳つきで、愛輝はそのままで、大きなイチゴを一口で口に入れる。
果肉から溢れ出るジューシーな果汁が咽を潤し、何とも言えない甘さが広がった。
「メアリーさんたち、うまくやってるかな?」
ふと、あすかは、途中で分かれて散策へ行った二人のことを思い出して、愛輝の方を振り返る。
「大丈夫ですよ。きっと」
少し考えたが、彼は首を縦に振り、あすかを安心させるように微笑んで見せた。
「そっか‥‥」
すると、急にあすかが黙り込み、数十秒の沈黙が流れる。
どうしたのかな、と愛輝が顔を覗き込むと、彼女は頬を真っ赤に染めて、やや横目でこちらを見つめていた。
「愛輝君‥‥あーん、して?」
あすかは、まともに愛輝の顔を見れないほど照れているのか、横を向いたままでイチゴを差し出している。
そんな彼女の様子を、愛輝は、素直に可愛いと感じていた。
「ありがとうございます」
思わず笑顔が零れて――彼女の手から、イチゴを口に入れる。
「‥‥おいしい?」
「美味しいですよ」
恥ずかしそうに顔を伏せ、照れ隠しに別のイチゴに練乳をつけて、頬張るあすか。
そんな彼女を見つめていた愛輝は、柔らかな唇がゆっくりとイチゴに吸い付く様子に目を奪われ、思わずドキリとして視線を逸らした。
(「何を考えてるんだ」)
ふう、と息をつく愛輝に、怪訝そうに首を傾げるあすか。
ちなみに先程の『あーん』の瞬間は、実はしっかり拓那のカメラに収められていたりもするのだが、まだ彼らは気付いていなかった。
さて、ラウルが井上さんと喋りに行っている間に登場したのは、空気の読める男・レイジであった。
「琳さん、挨拶が遅れちまったな」
「‥‥レイジさん」
レイジが隣に座ると、思花は、ボウルに入っていたイチゴを数個、差し出した。
「‥‥お花‥‥持って来てくれたよね?」
「気付いたか。まあ息抜きも兼ねて、手を合わせに‥‥ってトコだな」
いくつか練乳がけイチゴを口に入れて、レイジは、その甘さに目を細める。
「そういや、琳さんにも依頼じゃ世話になってるが、改めて話す機会もなかったな」
「‥‥お世話になってるのは‥‥私のほうだよ」
「まだ身辺が落ち着いてねぇ感じだな」
「‥‥うん。‥‥まあ」
空を見上げ、曖昧に答える思花。
レイジはしばらく沈黙していたが、やがて畑に視線を落とし、赤い輝きをその手にむしり取った。
「今日のところは忘れようぜ。場所が場所だけに純粋に楽しむワケにもいかない、が」
思花を見て、道端の花束を見る。
そして、再び思花の顔を見て、僅かに口端を上げて見せた。
「苺ってのは甘くて酸っぱい。まぁ、そういうモンだ」
――レイジはそれ以上何も言わずに、黙ってイチゴを籠に詰め始めた。
●そろそろお開きですね
「ごめん、俺、多分弱い気がする」
南波がそんな申告をした頃、忌咲は既に、一升瓶を二本ほど空けていた。
「え? なんばりん、まだあんまり飲んでないよ?」
「だって、明らかに感情が高揚してる気がするし」
さらに言えば、あまり頭も回らなくなっているので、電子ペットの世話も適当になり、子ども達が軒並みグレている有様である。
ちなみに、忌咲はまだ、全く酔ってはいなかった。
「やばい。眠い。マジで眠いです先生」
「ぇー‥‥周りカップルだらけだし、仕方ないからたんばりんで我慢しようと思ったのにな」
ばたんきゅーで眠りに落ちた南波に向かって、大変失礼な発言などかましつつ、忌咲はさらにもう一杯、日本酒をあおる。
「まあいいかな。ガスマスクさんでも観察してよう」
土手の下を見遣れば、釣り糸が巻き付いた状態のままで地面を這い回る焔がいた。
南波の寝息を聞きながら、忌咲はいつまでも酔い潰れることなく、ひたすら飲み続ける。
「愛輝君、風が気持ちいいね」
「そうですね。桜も綺麗で‥‥」
やや離れたレジャーシートの上では、あすかの膝の上でまどろんでいる愛輝の姿があった。
大規模作戦の後で疲れているのだろうか。すぐに寝入ってしまいそうな愛輝の顔を、あすかは優しく見守っていた。
「手、繋いで貰っても良いですか?」
「うん‥‥」
あすかが手を伸ばし、愛輝の左手を握る。
安心したのか、暫くして眠ってしまった彼の髪に触れ、あすかはゆっくりと撫でてあげた。
「お疲れ様‥‥愛輝君」
「綺麗ですね」
「‥‥うん」
叢雲と真琴の二人が辿り着いたのは、川から少しだけ離れた場所に立つ、一本桜の下だった。
風に攫われ、華やかに。そして儚くその花弁を散らす、今年最後の桜。
かつてこの国に生きた者達は、桜の散る様子を理想の死と考えた。
仏教の散華を、“花を散る”と訓じ、戦の中で散る者を美しいと褒め称えた。
時は移れど、戦に生きる者には死が付き纏う。
強大な力を得たはずの能力者とて、それは同じ。
傭兵である以上、その程度の覚悟はできていると、いつ誰を失うとも知れないと、最初からわかっているつもりだった。
二度と戻らないものを失った、友の姿を見るまでは。
自分が居なくなる事で近しい人を泣かせるのは嫌だな、と叢雲は思う。
もし叢雲が居なくなったら、自分はきっと泣くんだろうな、と真琴は思う。
――あの何時かの、秋の日のように。
「あの、さ」
「‥‥どうしました?」
袖を引かれる感触に、叢雲が振り返る。
「‥‥叢雲も、さ。‥怪我には‥‥気をつけなよ、ね」
袖を引く指先が、小さく震える。真琴は、俯いたままだ。
たっぷり言葉を詰めた後、彼女の口を衝いて出たのは、そんな言葉だった。
叢雲もまた、迷って――どの言葉を返すべきか、迷って、
「‥‥ありがとうございます」
結局出てくるのは、感謝の言葉だった。
彼は微笑み、彼女の手を取る。
群れからはぐれた一本桜の下に座り、二人は少し、目を閉じた。
「ね、思花さん、ソコ座って?」
桜並木の下で、ラウルは思花にそう告げた。そして、思花が腰を下ろすなり、ごろん、と、その膝を枕にして寝転ぶ。
「えっ‥‥ラウル、どうしたの‥‥」
一瞬驚いたような顔で瞬きをした思花を見上げ、ラウルは嬉しそうに微笑んで言う。
「こうやって見ると、思花サンが桜に包まれてるよで‥‥綺麗♪」
「そ‥‥そうかなぁ‥‥」
桃色の花が咲く空を背景に、思花は再び、頬を染めた。
しばらく、風の音と水の音、鳥のさえずりを聞きながら、二人は、周囲を埋め尽くさんばかりの八重桜を眺めていた。
「‥‥ごめんね」
「何が?」
「あんまり‥‥会えなくて」
思花はそう言って、ラウルの右手に自分の手を重ねる。
「仕事、忙しい?」
「‥‥少し。‥‥北米に帰るから‥‥その準備、とか」
思花の手に、少しだけ力が籠ったような気がした。
「‥‥今は、こうしてるだけでヨイ。寂しくナイって言ったら、嘘だケドね」
北米に帰る理由は、見当が付いていた。
ラウルは笑った顔のまま、左手で思花の手を握り返す。
「ありがとう‥‥」
幸福と絶望は紙一重だと、いつも考えてきた。
あの美しい桜の下で――少しずつ体温を失って行く友の身体の下で、今の自分は生まれたのかもしれない。
「‥‥綺麗、だな」
川を挟んで向こうには、幸せそうに寄り添う恋人たち。
少し羨ましくもあったが、大地はあえて距離を取り、ただ桜を眺めていた。
強くなる、と、そう固く心に誓いながら。
同じ過ちは、二度と繰り返さないと。
暗い過去を思い起こさせる桜の木の下で、大地はひとり、酒を飲む。
薄紅色に咲き乱れる八重桜。
春の終わりに咲く花に、傭兵達は何を感じ、何を見たのだろう。
儚く、気高く、そして美しく。
桜は静かにその身を散らし、そしてまた――花をつける。
●おまけ
5月の半ば、神戸市が主催するアマチュア絵画展に、一枚の少女の絵が出展されていた。
それほど大きな催しではなかったが、『笑顔』をテーマとした絵が集まるその会場には、たくさんの人が訪れた。
それは、八重桜の下で微笑む少女のデッサン画。
彼女の笑顔は、訪れた市民の心を癒し、広く親しまれたのだという。