タイトル:【AS】籠の中、響く声マスター:ムジカ・トラス

シナリオ形態: ショート
難易度: やや難
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2011/11/13 13:51

●オープニング本文



 あの日から、どれだけの時間が経っただろうか。
 解放の時は、唐突に訪れた。
 ――え?
「釈放です、ウィル・パーソンズ」
 女の声は、やけに非現実的な響きで耳朶を打った。
「‥‥なんでだよ」
「もとより、貴方に入手できる情報も、出来る事も限られています。貴方の無実も裏切りも証明するのは根本的に困難ですが――貴方自身の無力が、釈放の一因です。手放しで喜べないでしょうけど、ね」
 そういって女は苦笑した。同情が籠められた親しげな笑みだ。彼女が、俺の解放のために尽力していてくれたのは知っていた。でも。
 ――作り物みたいな笑みだ。
 そう、感じた。
「‥‥ありがとう」
 辛うじてそう言う。大した事じゃない。いつも通り、俺には何も出来ない――彼岸の出来事なんだ。
 身体に馴染んだそれを感じながら‥‥ただ、気になる事があった。
「あのさ」
「なんでしょう?」
「パティは、どうなったんだ」
 この独房に入れられてから、ずっと――答えの無かった問いを、繰り返した。
 最後だと思っていたから、答えが貰えるまで食い下がろうと、そう決めて。

 でも、答えはあっさりと返ってきた。

「パティ・フォスターは」

 それも。

「――死にましたよ」

 最悪な形で。

 言葉の後、差し出されたのは――。


 痛みの記憶。
 途絶。
 あの時、直視したくない現実――衝撃に洗脳がほどける事を意識したと同時に、私は全てを手放した。

 逃げたいと思った。

 でも、逃げ場なんてなかった。


 ――パティ。

 声が聞こえた、気がした。
 飛び込んできたのは、見知らぬ天井。
「目が覚めましたか」
 届いたのは、女の人の声だった。柔らかい所へと差し込むような冷たさに、私は本能的に恐怖を覚えた。
「‥‥っ!」
 声を上げて逃れようとした、その時。脊椎を貫く痛みと、両手、両足の束縛を感じた。ただ首だけが自由に動く。でも――何もできない。ただ、広いとは言えない空間を意識した。
 そこにただ一人、女の人が立っている。金髪に海色の瞳。
 ――私を、何物とも思っていない瞳。
 同じだ。彼処の住人と。
 分厚く、幅広な拘束具が照明の光を返す中――彼女が口をひらいた。
「エドガー・マコーミック(gz0364)。現ゼオン・ジハイド‥‥貴女の上司。勿論、知っていますよね?」
 噛んで含めるような口調で、女は言う。
「貴女はパティ・フォスター。私達が守れなかったモントリオールの元住人。そして今は人類の裏切り者で‥‥籠の中の、鳥」
 ごめんなさいね、と。情の無い声で言う。
「貴女の生い立ちには深く謝罪と遺憾の念を覚えます。この現状にも」
「‥‥そう」
 やけに掠れた声が、狭い室内に響く。
「私が貴女に望む事は一つです、可哀想なパティ。エドガーの情報を、余さず私達に提供してください。そうすれば、このような形で話をする必要も無くなります」

 ――やっぱり。

 初めは、失望と諦観。
「いやよ」
 私達が、どれだけ無力を嘆いたかを知らないのか。
 私が、あの人の手にどれだけ救われたか、知らないのか。
 次第に、恐怖が激情に呑まれるように薄れていく。向けられた無感情な瞳を、歯を食いしばって見つめ返した。
「絶対に、イヤ」
「‥‥仕方の無い子」
 そう言って女は、演技がかった溜息を吐いた。
「では、取引をしましょう」
 予感がした。
 いや、違う。正確には‥‥初めてそこに、思い至った。
「ウィル・パーソンズ。元モントリオール在住で、今はこの都市のスラム在住。‥‥貴方の密かに通じていた、人類の裏切り者」
「ちが‥‥違う! ウィルは関係ない!」
「パティ」
 仕方の無い子、と彼女は初めて、『笑った』。
「解りますね? 今、彼の生殺与奪を握っているは私達であり‥‥貴女です、パティ」
「この‥‥ッ」
「エドガーに関する情報が圧倒的に不足しています。種々の作戦が進行している今、徒に彼に掻き回されるわけにはいきません‥‥教えてくれますね?」
「――卑怯者ッ!」
 叫んだ。
 身体中が痛む中、力を込めて、必死に声をあげた。
「最ッ低に下劣よ‥‥!」
 それでも、この枷は外れない。どうしようもなく最低な現実に涙が滲む。
 ――私のせいだ。でも、こんな事って。
 逃げたい。初めて、爆弾の存在を愛おしく思った。
「教えてくれますね?」
「‥‥ッ!」
 ウィル。エドガー‥‥さん。

 ‥‥ごめん。


 女が部屋から退室すると、そこに一人の部下が立っていた。『取引』の最中に口を挟むのを控え待機していた男は、女が戸をゆっくりと閉めるのを見届ける。
 それら全てが女の『演出』だと知っている男は、苦い思いを抱きながらも口を開いた。急ぎ伝えるべき事があったからだ。
 結果、女はその整った眉を顰める事となった。
「‥‥監視の者が?」
「つい先程、連絡が途絶えました」
 ウィル・パーソンズ。軍は彼を手放しで解放などしなかった。
 彼自身の無力が一因――嘘は言っていない。
 ただ、全てを説明しなかっただけで。
「でも‥‥万が一、程度のつもりだったんですけどね」
 彼の無力さも、無意味さも良く知っている。だからこそ、彼が監視についていた軍人を殺せる道理などそれこそ万に一つもない。
 あるとすれば、それは――。
「バグアからのアプローチ、ですか?」
「可能性としては。彼は今‥‥?」
「新たに監視を回し、再度捕捉しましたが‥‥能力者を回す余力は、ありません。エドガーの狙いが不透明な現状、警戒を解く訳にはいきませんから」
「‥‥傭兵に依頼を」
 言いながら、女は思索する。
 北米は今、不安定な戦線を強制されている。エミタの動きも、シェアトの動きも依然読めないままだ。エドガー自身の動きも、また。
 危険かもしれない。‥‥いや、十中八九、危険だ。
 だが、余力が無い今でも――そこに何があるか解らなくても、看過は出来なかった。
 ウィルは、何の因果かまだ人類側に留まっている。それが光明か――罠か。
「ウィル・パーソンズの調査を。方法は問いません‥‥獲物を、つり上げましょう」
 ただ、指し手の目線に立てば‥‥この状況に、香るものがあった。
 だから――賭ける事にした。


「お前は暫く、此処に来ない方が良い」
「‥‥そう、ですよね」
 解っていた事だ。仕方がないんだって。それに‥‥俺は、別れを告げに来たのだから。世話になったこの人にだけはって。でも、世話になっていた人からそう言われるのは、正直、かなり応えた。
 言いたい事は一杯あった。でも――それすらも、迷惑になるかもしれない。
「今まで本当に‥‥本当にお世話になりました」
「おう」
「ありがとう、ございました‥‥さようなら!」
 なんとかそれだけを言って、くぐり慣れた通用口へと向かって、歩き始めた。
 辛い。一歩ごとに引き裂かれそうになるのが辛くて――走った。
「さようなら!」
 オーナーが何かを言ったのは、聞こえなかった。想いごと、振り切るように。
 俺は、そこを後にした。

 ――ただ、遠くへと。

●参加者一覧

愛梨(gb5765
16歳・♀・HD
柳凪 蓮夢(gb8883
21歳・♂・EP
D・D(gc0959
24歳・♀・JG
春夏秋冬 立花(gc3009
16歳・♀・ER
荊信(gc3542
31歳・♂・GD
ナスル・アフマド(gc5101
34歳・♂・AA

●リプレイ本文


 傭兵達が踏み入れた基地は、張り詰めた静けさのただ中にあった。
 凝縮された警戒の気配が、否応なくここが戦場に近しい場所なのだと知らせている。
 その内奥で、傭兵達は女性士官から簡潔な説明を受けていた。
 その声を聞きながら、柳凪 蓮夢(gb8883)の脳裏に想起されるのは――少女の声。
(あのような形とは言え関わった以上、力になりたいが‥‥)
 そう思わずにはいられない程の声だった。忘れられないが故の、ジレンマ。
「タダの子供が軍人相手にとはな‥‥」
 D・D(gc0959)の呟きが、室内に響く。ただ――例外の存在を彼女は知っていた。
「‥‥杞憂であって欲しいものね」
 女が再度そう呟いたとき、室内に少女の声が響いた。
「傭兵を雇うってことは危険が絡む仕事なんでしょ?」
 愛梨(gb5765)の声だ。
「任務遂行のために詳細を知りたいんだけど。ウィルを泳がせて監視を付ける‥‥エドガーを釣る餌ってわけ?」
 言う少女の声には、仕方ない事と認容しながらも微かに滲む反感の色がある。
「概ねその通りです」
「‥‥そう」
 愛梨の不快げな応答にくつくつと嗤うのは、ナスル・アフマド(gc5101)。
 ――悪くない。
 あの日から燻り始めた何かが、こうして残っている。大火に至るかもしれない。その予感が男には好ましい。
「ウィルに対して軍が行ったのは、監視のみ、かい?」
「ええ」
「‥‥そう、か」
 問うた柳凪は、軍がこの件に怜悧な判断を下している事を感じて、その意味を呑み込んだ。
 そうして、今に至るのかと。そこに含まれた可能性、明確なリスク――エドガー自身の関与も、考慮に入れていく。
「パティは今、どうしている?」
 つと、ダリアが問うた。室内の空気が僅かに変じる。
「ウィルから情報を得るのであれば、彼女は有益だ」
 これまで黙されていた事が気にかかったのか、理由を添えて。
 だが。
「あの少女は、死にましたよ」
 返答は、淡々と為された。
「‥‥なんだと?」
 その言葉に喰いつく男がいた。それまで沈黙を保っていた荊信(gc3542)だ。
 男の声には憤怒、視線には殺気が籠っている。春夏秋冬 立夏(gc3009)もまた、非難がましく士官を睨んだ。
「あの時の馬鹿な連中が無理を通して拾ったモンを、無駄にしただと?」
「無駄かどうかの判断は私達がします。あの少女は死にました。それが事実で、全てです」
「それはおかしくないかい? 爆弾は私自身が摘出した。外部からの暗殺でないならば、彼女が自力で死んだ事になる」
 苦いものを噛み締めながら、柳凪が反駁する。
「優秀な軍人である貴方達が、ゼオン・ジハイドに絡む情報源をそう易々と死なせるとは思えない」
「どう思おうと貴方の自由ですが、彼女は、死にました。十分な価値はありましたよ。‥‥高い買い物でしたけどね」
 彼女の言を信じる訳ではないが、柳凪は無駄を悟る他なかった。違う目線で動いている相手に対して、アプローチを間違えているようだ、と。
(けど、殺す道理が無い)
 そして、そこを崩すような論調を女性士官は取らなかった。そこが今引き出せる最大の譲歩だと思い、柳凪は了承の意を示す。
 軋む沈黙をそっと開くように、愛梨が再度口を開いた。
「それ、ウィルにはなんて伝えたの?」
「遺品を添えて、ありのままに」
「ウィルの今後は? ‥‥追いつめてバグアに通じさせるつもり?」
「愛梨さん。――あの少年は、『灰色』ですよ」
「‥‥解ったわ」
 今度こそ反感の念を隠さずに愛梨は引き下がる。そうして。ただ一人愉しげな表情を終止崩さなかったナスルが、最後に尋ねた。
「よぉ、消えた監視者だが――腕の方は達者だったのか?」
「いいえ。重要な情報も持っていない、一般兵です」
「へえ‥‥」
 それが現状に通じるバグアへの諜報対策と気づいてか、男は頷いた。
 ――強いなら、楽しみなんだがな。
 哀悼の念など抱く事も無く、砂漠の男はそう思い嗤ったが――一つ、惜しむ事があった。
 実費では、望むような盗聴器やICレコーダーをLHで調達する事が出来なかったのだ。貸与申請を軍、あるいはULTに出すという手も考えたが‥‥質も満足行く物ではない上に、今回予定していた使い道を思えば、それも面倒の種になる事が予想できた。
 ――未来研しかねぇか?
 釈然としないが、結果的にそう呑み込む他なかった。


 基地で仲間達と別れた後、愛梨は着替え、スラムを独り歩いていた。持参した服は少女らしい装いで、スラムでも怪しまれぬように適度に汚してある。
 歩く少女の胸中は、苦い。
 軍――彼女のやり方は気に入らない。でも、仕方がない事だとも思う。
 これはそういう『戦争』なのだから、と。
(あたしだって、ウィルを騙そうとしてるし、ね)
 少年の境遇は、気の毒に思う。
 けど。
「あたしは‥‥行動する道を選ぶわ」
 ――それが、この戦争を終わらせる道である限り。
 決意と同時。
 視界の端に、どこか茫とした面持ちで歩く少年の姿を捉えて、愛梨は思索を止めた。
 勝気だった瞳はどこか不安を帯びたものに転じ、縋るものを見つけた小動物のように少年――ウィルのもとへと近づいていく。

 愛梨がウィルと無事に接触を果たした事を無線機に告げながら、監視者たる荊信は僅かに表情を曇らせた。
 先ほどの問答の苛立ちを――少年の様子が更に掻き立てた。
「しみったれたツラしやがって」
 どこか翳った表情で愛梨の言葉を信じ、その身を案じるウィルの姿が痛ましく、軍――大人達の不義理がどうにも、苦い。
 だから彼は、接触の時を待つ。

 ‥‥ただ。

「大丈夫なのかねぇ」
 少年達とは通り一つ離れた位置を往く少女の姿を捉えて、荊信はぼやいた。
 そこにはスラムに映える白衣、ティアラ、妖精風の衣装に機械刀を佩いた立夏がいた。
 敵の動向を探るとの事だが、辺りを注意深く見渡すその姿は、完全に悪目立ちしていた。
 囮には確かに良いのだろうと、滲む予感を呑み込んで、荊信はウィルの監視を再開した。
「‥‥どうなっても知らんぞ」



「俺に言える事は、とっくに軍人達に言ったさ」
 ダリアは少年が勤めていた料理屋へと足を運び、店主の協力を仰いだのだが‥‥結果はこの通りだった。
「そう」
 だが、その返答は女にとって悪い物ではなかった。ウィルにも味方は居るのだと感じられたから、だ。
「良かった」
 そう零したダリアに対して、店主は無言で応じる。
「彼は今も、ここで働いているの?」
「暫く来るなと言った。これ以上ここにいたら、もっと汚いモンを見る事になるしな」
 その日時がちょうど、軍がウィルの行方を見失った時間帯だという事をおさえながら、女は最後にこう尋ねた。
「半分‥‥いえ、ほぼ個人的な質問だけれど。見込みはあったのか?」
「‥‥見込みがなかったら、わざわざ金を払ってまで雇わんよ」
「‥‥ありがとう、邪魔をした」
 男の返答に笑みながら、ダリアは礼を述べて戸を開いたのだが、
「持っていけ」
 言葉と同時にキッチンから乱暴に放り投げられたそれを、ダリアは片手で受け取る。
 それが何かに気づいた女は微かに驚きに目を開き――笑みを深めて、承った。

 それから暫くして。
 立花との連絡が、途絶した。


 生々しくこびり付いていたのは、痛みの記憶。
 それが反復する夢だと気づいたのは、気絶から我に返った時だった。
 息苦しさと視界の閉塞から、立花は何かを顔に被らされているのだと知った。
「‥‥エドガーさん、ですよね?」
 此処がどこかも解らない。ただ、異質な気配だけを感じていた。それでも彼女は怖じずに、声を掛ける。目立っていたとはいえ、自分が連絡を取る間も無く昏倒させられた事実が、彼女に確信を抱かせていた。
「覚えてますか、あなたの試運転につきあったものですよ」
 返事はない。
「一人ですか? まぁ、護衛なんて必要ないでしょうが‥‥よく一人で人類圏に来るんですか?」
 探る声も。
「あの、ウィルちゃんについていた監視が殺されたみたいです。心当たりはありませんか? ‥‥取引をしましょう。パティちゃんが本当に死んだかどうか、知りたくないですか? 私が調べてきます」
 呼びかける声も、空しく空間に響くだけで。
「信用してください。バグアと共存を望んでいる私としては、貴方みたいな人には、居て欲しいんです、だから」
「下らん」
 漸く届いた応答は、一撃と共に。
「‥‥エドガー、さん」
 立花の声は、どこにも、響く事なく。

 最後に何か柔らかいものに倒れ込んだ事を知覚し、少女は意識を手放した。
 恨むでもなく、最後まで、挫ける事も無く。


 二日目。立花が連絡を断って以降、発見の報せはない。
「‥‥寒」
 明けた朝に漂う冷気に愛梨は僅かに身を震わせながら、ふと昨夜の一幕を思い返す。

 昨夜、ウィルと接触した愛梨がスラムを案内して貰っていた時の事だ。
 後で聞けば、それは少女への墓参りも兼ねていたらしいのだが、その折にスラムの少年達が二人に因縁をつけてきた。愛梨をバグアの手先と揶揄する彼達に対して反駁するウィルの背に隠れながら、愛梨は少年達を観察した。
 ウィルが真実バグアの協力者だと思ったのならば、彼らはウィルを避け続けるだろう。
 ――そのくらいの信頼がかつてのウィルにはあったということ?
 愛梨は、少年達の表情に嫉妬や優越の影を感じていた。

「来てすぐなのに、迷惑かけちまったな。‥‥ごめんな」
 その後、一通り巡り、最後に少年は簡単な作りの墓の前で祈りを捧げた後で、言った。
 知人の墓だという少年に、愛梨はこう尋ねた。
「これからどうするの?」
 ――それは、少年の胸にどう響いただろうか。
「‥‥解らない。色々、あった筈なんだけどな」
 長い沈黙の後、彼はそう言った。迷い子のような声で、小さく。
 そこに踏み込むには、愛梨の立ち位置は‥‥余りに、遠かった。


 その後、スラムの少年達への聞き込みに回っていたナスルは、報償にと持参したシルバーリングを握り潰す事となる。
「‥‥所詮此処から出られない負け犬か。兵士にもなろうとせず此処で過ごすだけ‥‥つまらん」
 報償に値する情報が得られなかったのもあるが――落胆が、あまりに強かった。
 面倒見がよく社交性もあったウィルが村八分にあった理由はただの、嫉妬だった。
 喜色が一瞬にして驚嘆と不安に転じた少年達を、色濃い侮蔑と共に見据えながら男はそこを後にする。
「そのままでは何者にもなれんぞ、負け犬共」
 紫煙を曳いて去る男に、声をかける者は無かった。


「あんた達は」
 ウィルと愛梨の前に現れたのは、彼にとっても顔馴染みの者達だった。
 唐突な来訪に表情が曇る。あの出来事は決して良い思い出では、無い。
「よぅ、久し振りだな坊主」
「‥‥どうも」
 気風良く手を掲げる荊信を見返す少年の態度の固さと、「こんな傭兵達とはただの一度もあった事はない」という顔で隠れる愛梨に苦い顔を返しながらも、荊信はダリアを促した。
「仕事の都合で、な。話したい事と、渡したいモンがあるんだ」
 荊信の言葉に次いで女が一冊のノートを差し出す。
「これ‥‥」
「店に来れない間、勉強しておくように、だそうだ」
 差し出されたノートは‥‥ウィルの良く知るレシピ帳だった。随所にメモが添えられているそれを一ページずつめくりながら、少年は言葉を無くした。

 孤独だと思った今もこうして、誰かに守られている事を、漸く理解して。
 彼は、溢れる涙を堪えきれずに――泣いた。

 落ち着くまで、幾らかの時間を要した。
 その後、釈放された彼に監視が付けられていた事。その監視が殺された事。今回の依頼がそれに端を発しているのだとダリアは包み隠さず言った。
「俺に、監視が」
「それと」
 苦い事実を噛み締め俯くウィルに、蓮夢は言葉を続けた。
 それが少年にとって劇薬であると知りながら、零す。
「パティは生きているかもしれない。確証はないし、死んでいる可能性も高いけどね」
「‥‥生きてる?」
「お前も、手前の目で確認したわけじゃねぇだろ、坊主?」
 相次いで告げられた情報の波に呆然とするウィルは、荊信の言葉に頷く他ない。
「どうにも気に喰わねぇ‥‥おかしいとおもわねぇか? 坊主。お前も調べたいってんなら、手を貸してやる」
 紫煙を燻らせながら、荊信は豪毅に笑んだ。
「だが、覚悟がねぇならやめとけ。他人事だ――そう思えば、丸く収まる。それでもやるって言うんだったら、お前も手を貸せ」
 どうだ、と。笑う荊信に。
 少年は、頷いた。

 ノートと傭兵達の言葉。軍への不信を煽る事で、傭兵達はウィルの信頼を掴む事が出来た。
 だから。知っている事を話せ、と言われた少年は、僅かに言い淀んだ末に――告げた。

 エドガーとの邂逅の一部始終と。

 行き場が無いのなら、自分の元に来ても良いと言われた事を。


 少年の言葉で事実上の調査は終えた。
 後は立花を探すのみ。彼女をフォローする者がいれば結果は違っていたかも知れないが‥‥ウィルの案内の元、怪しい場所を順次潰していく。

 道中、ダリアはウィルに言葉をかけた。捜索中故、聞くものは愛梨とウィルのみだ。
「これからどうするつもり?」
 それは、奇しくも愛梨の問いと同じだった。
「‥‥そう、だな」
 色々な感情が綯い交ぜになった声は、彼にとっても懊悩の結果だった。

 柳凪はパティの生存可能性を告げた。荊信は、ウィルを手伝うと言った。

 ――なら、どうしたら?
 彼のような持たざる者の懊悩を、嗤う者も居るだろう。

 ウィルは確かに、熱を得た。だが‥‥必要な答えを示せた者は居なかった。
 傭兵は所詮、通り過ぎる者達で。他方、軍は人類の守護者だ。
 そこからパティを助けると言った所で‥‥結局、この時点での傭兵達の言葉には、途絶した未来しか無かった。
 少年は彼らの善意を知っていたから、反駁はしなかったが。
 戦渦に意思は無い。それ故に、巻き込まれた無力な者達にはそこに介入する術はない。
 ただ、大きなうねりに呑み込まれるだけ。
 それを覆せるとしたら、それは――。

 その答えを、ダリアは知っている。
 そして恐らく、ウィルも。

「‥‥良い料理人になってくれ。あの少女もそれを願っていた筈だ」
「あいつ、抜きで?」
「どこか、行くの?」
「悪いな、面倒、最後まで見れなくて、さ」
 そう言って苦笑する少年に、ダリアも愛梨も言葉を重ねはしなかった。
 それ以外に行き場を無くした彼が、帰ってくるという響きを残す以上‥‥行くなとは、言えなかった。

 直に。
 重傷を負って気絶する立花と軍人の遺体が見つかり、事件は収束していく。
「おう、お前の手柄だ! 坊主――いや、もう坊主じゃねぇな、ウィル!」
 そう言って荊信に力強く撫でられながら笑んでいた少年は。

 後日、失踪する事となる。


 傭兵達の報告を受けた女性士官は笑みを深めた。
 その意味を傭兵達が知るのは、まだまだ先の事となるが――。

 舞台は、この日を境に大きく動いていく。