●オープニング本文
前回のリプレイを見る●
己が味わった、真の敗北を想起する。
敗北が即ち死ではなくなった時代で己が見た奈落の淵を。
――残念だけど、君ぐらいの想いじゃアリサは返せないなぁ。
あの時己は、人を斬った。
それまでに磨いて来た剣を自ら折った。そうして、心の内の刃を自らに突きたてた一日だった。そうして、己に残ったのは叩き潰されて生き恥を晒す事となり、望む物も得られずただ希求するだけの渇いた日々。
「全く、余計な‥‥真似を」
愚行を冒した娘の今を見定める事はついぞ叶わなかった。
――彼奴の残し胤を、正せなかった。
己が何かを果たせるという感傷はとうの昔に捨てている。だが、無念だ。心底口惜しい。
こんな未熟者共に託さねばならない事が、口惜しい。
しかし。
――未熟者に残すべきは、こんな感傷では、ないよな。
●
止血は適わず、刻一刻と熱が喪われ死は目と鼻の先。そこで、老人は無数の土地の名前を告げた。
「奴らは、信仰を、盾に、潜んでいた」
血で噎せながら。信仰の数だけ大小問わず隠れ家が存在すると、老人は言う。その内実を詳しくは老人すらも知らないという事実が言葉の端々から滲み、聞く者にはそれが確度の低い情報だとすぐに解った。
「探、せ。この世の果て、まで、追い縋り」
ただ、それは命令であり教示であり懇願であり――。
それは。
「殺せ」
遺言だった。
●
あの日、傭兵とバグアの決戦は崩落の音で幕を下ろした。
渾身の斬撃に少年は片腕を喪い何事かを呟いて撤退した。だが、その言葉を聞く者は居なかった。何故なら、最後のバグアの一撃もまた彼等を大きく抉っていたからだ。
撤退するバグアを尻目に動ける傭兵達が捜索へと乗り出したその時、教会を中心に一帯が軋んだ。同時に、目標の逃走を悟ることとなる。
想起したのは教会が健在だった折に見た、沢山の人の群。アトレイア・シャノン(gz0444)が捜索に来た時にはその影も認められなかった子羊達。彼らがどこに潜んでいたか。その意味と結果を思えば、『出口』がこの教会だけとは限らず‥‥また、崩落の意味も確信が出来る事だった。
訪れたのは、質量を伴うと錯覚する程に重苦しい沈黙の帳。
――そこに届いたのが、久蔵の遺言であった。
●
存在証明など無く、無明の中におちたのは何処からとも知れぬ茫洋とした灯り。その希望の、なんと残酷なことだろう。報われないかもしれないと知りながら、数多の試行の中で失敗を重ねるだけの日々が続く。
時勢が悪かった。
地上での大攻勢。そして、宇宙における人類の命運を掛けた大決戦。
軍には捜索のための余力がなく、大勢を見据えねばならない事情が徹頭徹尾存在し続ける。この捜索に、軍やその他の人手をまわす事はできなかった。
確証があり、時間が無限に存在していれば『彼等』とて焦りはしなかったかもしれない。
アトレイアが攫われているという現実。
バグアを含めまだ死んでいない『かもしれない』という希望。
それに限らず種々の想いで捜索は成され‥‥そして。
●
傷を負ったプロードは、傷を癒した後にメトロポリタンXに合流しようとしたが、それは叶わなかった。道中にその陥落を知ったからだ。
「おや、まぁ」
それ故、逗留が出来る隠れ家の一つに潜む事となる。
少年とて、その事実に驚きはしたが、焦りはなかった。エミタ・スチムソンは死んだ。だからといって、あのブライトンやエアマーニェが敗北するとは少年には考えもつかなかったからだ。
――だからこそ、本星での決戦の結果を知って少年は驚愕を深めた。
盤石は揺らぎ、急ぎ、身の振り方を考える事となる。
決戦はついたとはいえ、地上はいまだ、混沌の最中。
動くか? 地上に動乱があるのならば、それに乗じて。もしくは――このまま潜み、期を見てかつてのように人類に浸透するか。
彼等は、後者を選んだ。彼自身の手に馴染んだ手管の方が嗜好にも馴染んだ。
それに。
「出来上がったらきっと、面白い玩具になるよね」
少年は嗤った。怖じる様子も無く、愉快げに。
ただ。
喪われた片腕が、じくりと疼く。
「‥‥」
彼にすればたかが路傍の石が為した所業だ。それが、今も刻まれている。
「‥‥ほんと、赦せないよねぇ」
祭壇に月光が差し込む中、昏々と眠るアトレイアとその傍らで『作業』に従事する女に対して少年は目を細める。
爛々と輝くその目に籠められた感情、その性質は醜悪に過ぎた。過度の傲慢は他者を歪める事にいかなる忌避も抱かない。そこには共感がない。共鳴が無い。それ故の傲慢。己こそが高みであり、低きに対する配慮は存在し得ない。
――それは何も【傲慢】に限った話ではないのかもしれない。
過度の執着、あるいは嗜好。それを指してかつて故人は――怪物、と呼んだ。
彼の近くには二人だけだ。
一人は和装の女性だ。長く艶やかな黒髪に白磁の肌が映える、恐らく実年齢より些か若く見える女性。女の名前はアリサ・シャノン。かつての名は、四ノ宮亜梨沙。その容姿は娘に良く似ていた。
今、彼女はひきつれた喉元を優しく撫で、誇るように笑っている。アトレイアの喉元には、愛用していた発声機は無い。
「プロード様のおかげよ‥‥ちゃんとお礼を言わなくちゃね。悪魔はもういない。あなたは、赦されたのよ、アトレイア。ねぇ」
灯るアカイロに結ばれる熱の籠った眼差しを、アトレイアは知覚する事ができない。
「‥‥ありがとうございます、プロード様」
「ふふ」
少年は聖人のような笑みを浮かべ、少年は自分よりも背が高いアリサの腹を撫でた。
「永年に続くその衝動を、純粋で穢れのない、純白の欲望を叶えただけだよ」
そうして少年はこう言うのだ。
「僕が叶えるに値する衝動を見せてくれた、ご褒美にね」
――だから、もう何も考えなくていいんだよ。
自身の言葉に、かつてある少女に告げた言葉が想起されて‥‥少しだけ、苦みが奔った。
そこに。
●
音が響いた。『来客』に気付いて、僕は――嗤った。
そうか、久蔵。君か。
嗤いながら、思考を巡らせる。
此処を離れなくてはならない。
久蔵が知り得なかった場所は――此処よりは遥かに格は堕ちるが、潜むには十分だろう。
ここでの『仕上げ』は既にすんでいる。
ただ、此処に来た彼等を赦す道理は無いよね。僕達の生存の為に。何より彼等には‥‥赦されざる罪があるのだから。
「さぁ、起きて、アトレイア。‥‥時間だよ」
少女というには大人びた女の目が開かれる。
その目は不吉の滲む、血の色をしていた。
●
これは、気が遠くなる程の試行の中の一つで、その末だ。その中であなた達は選び、そして賭ける事となる。
これより先は、生存を掴んだ人類の一員であるあなた達にとって最悪の戦場だ。此度バグアは、自らの生存の為にあなた達を殺し尽くす事を『前提』とする。
努々忘れてはならない。
あなた達が立つ事になるのは、そういう死合いの場だ。
●リプレイ本文
●
「ここが、祭祀場‥‥なのか?」
暗がりに、声が広がる。煉条トヲイ(
ga0236)の声だ。コンクリートの壁面を音が叩く中を、一同は地階へと降りて行く。
「趣味が悪いのは、どこも一緒みたいだけど」
しっかし、せっまいわねー、と。AUKVを纏う孤月 銀子(
gb2552)は窮屈げだ。声に、ラナ・ヴェクサー(
gc1748)が小さく頷きを返した。その表情は堅く、険しい。
――彼女の痩せ細った両肩にかせられた重荷が透けて見える程度には。
それを視界の端に捉えたか。囁き声よりも小さな銀子の溜息が、彼女の口元を、そっと撫でた。
――あの怒りは、本物だった。
トヲイが想起したのは、その刹那に籠められた熱。
「恐らく、フィーはプロードにとって‥‥」
言葉が落ちる、その前に。
先を往く不破 炬烏介(
gc4206)が重厚な扉を開く音が反響し。
視界が、開けた。
●
張り詰めた沈黙は、質量を孕むと錯覚するほど。傭兵達は動きを止め、それを見た。
地階に設けられた部屋に、それでも差し込む月光の清廉たる様を見た。
それが落ちる先、埃が舞う空間に沁み広がる仄光りを、見た。
そして。
「ふふ、君達か」
それを受けて並ぶ三人の姿を、見た。
「裁き、に‥‥来たぞ、下種」
「裁く、ねぇ」
炬烏介の罅割れた声に、少年は嗤った。
「そういって、無様を晒すんでしょう?」
くすくすと、笑い声が重なる。フェイル・イクス(
gc7628)だ。
「何度となく轡を並べた仲です。いくら私でも刃を向けるのは心苦しいですが‥‥」
――そうも言っていられないようですね。
毛程も心苦しくなど無さそうな声で言う、その視線の先。
「‥‥アトレイア」
零れた声には、研澄まされた合理の響きがあった。刃を手に立つ女を、月野 現(
gc7488)はまずは理で受け止めた。そうでないと望むモノを得る事は出来ないと彼はもう、知っていたから。
名を呼ぶ声に、返事は無い。
「やはりこうなったか」
黒羽 拓海(
gc7335)もまた、現と同じ声音で。
「地獄からでも救い出すぞ」
「そう、だな」
想定出来ていた現実だからこそ、想いは揺らがない。現が告げれば、拓海が応じる。
諦めは不要。ましてや、強く願う戦友がいるとなれば。
――助けられたままというのは性に合わんしな。
拓海は心中で呟き。
「今度は俺達が救うとしよう」
拓海の声に続くように、状況が動いた。
●
視界が流れ、そして男は音を聞く。
UNKNOWN(
ga4276)。煙の線条を曳いて、前へ。
音は須く後方から。届くのは波頭の如き足の音。その合奏を、男は笑みを含んで背に受ける。
走り、広きを見渡す。
――仕掛けは無さそうだ、ね。
油断無く帽子の隙間からそれを確認して、頷く。
「お邪魔する、よ」
間をおかずして居並ぶ三人が男の間合いに入るが、彼が手にしたのは、拳ほどの物体。
敵は間違いなくそれを見た。しかし、三人は動かない。
少年だけが口元に深く笑みを刻んで傭兵達を見つめている。その視線が己より後ろ、トヲイとラナの方向へと流れるのを感じ、予感を得ながらUNKNOWNはさらに一歩。
踏込みと、少年の片腕が振られるのはほぼ同時。
UNKNOWNはトヲイを背に重圧を受けた。後方に流すまいと、姿勢を損なってもなお強く地を踏みしめて、堪える。
「この辺ね」
その後ろで銀子が足を止め、幾許か後退。間合いを見極めるように風の余波を確認しながら、手にした知覚砲で砲撃、砲撃、砲撃。
「あははっ!」
プロードはそれを舞うように避け、亜梨沙の背へと逃れた。
軌跡を辿るように、光条が空間を灼き――じきに、間に立った和装の女を、銀子の砲撃が貫く。
掲げた袖の手前で、アカイロが弾け。
「ありがと、アリサ」
「光栄です」
――アリサ、ね。
己の砲撃を以てしても、僅かに焦がすのみ。その頑健さを確認しながら、銀子はその言葉を噛み締めて。
「今はその子のお守り、ってわけ?」
そう、呟いた。
銀子の呟きを破るように、風威。それもまた、UNKNOWNへと向けられている、が。
「そっちも頑丈だねぇ、おじさん」
「子供の世話は得意でね」
「ウザ」
言葉に、男は微笑を返した。己の役割は、助言者であり標であり、助け。誰かが、願いを果たす為の。
それ故に、後方の面々の損害を極力抑えるべく往く。
「ま、いいけど」
黒衣の男に向けられた視線が執着と共に流れる。その先は――トヲイ。
「‥‥憎いか」
その姿を視界に捉えて、トヲイは言葉を刻んだ。それは、己に課した誓約のようで。
「ならばこそ。決着を付けよう、プロード」
他方。
UNKNOWNの後方を進みながら、御鑑 藍(
gc1485)は亜梨沙の姿を見て微かに目を細めた。
――久蔵さんの、刀。
想いを得る。
懺悔に似た想いだ。慚愧の念。
己の未熟故に、伸ばそうとしても届かなかった細腕が瞼の裏で描き出される。
もっと。
もっと、もっと。
後悔は、希求に似ていた。
「私は、あちらに」
刀の持ち主はアトレイアに良く似ていた。そして、ゆらりと取ったその構えは――四ノ宮久蔵に、似ていた。
何かを望むように、藍は往く。
その後ろ姿を風を避けるように追うラナの表情は、藍のそれと近しい。
――彼女も、妹の大切に思う心も、護れなかった。
それは、ラナにとっては殊更に深く胸を抉る事実で。
「絶対に、退かない」
償いの機会に、臓腑が震える。戦場の恐怖では無い。それは――。
瞬間。
「アリサ」
少年の声に、アカイロの巨刃。
●
知覚と同時、男は思考する。
前衛の間合い。己の現在位置と、取るべき立ち位置。仲間達の取るべき動き。
それらを全て勘案した後、男――UNKNOWNはこう告げた。
「上を見ないように」
それを感じ、ラナは素早く懐から目当てのものを抜いて、装着。そして。
駆けた。
追って、閃光と爆音が響く。
風に晒されながらも、UNKNOWNの超機械から放たれた業炎が別の手で放り投げた物を撃ち抜いたが故の、閃光。無理を推したが故に、その閃光は常よりも緩い。それでも一時を稼ぐ事には有用か。
それに即応したのが、ラナだ。
最先、最速を任じて向かう先は、閃光に僅かに切っ先が触れた巨刃――そしてその根源。
「――ッ」
憎悪すら孕む、ラナの気迫。
巨刃はあの老人のソレと比べても尚、巨大。逸らさねば、銀子以外の皆々が間合いに入ってしまう。
瞬時の後、イオフィエルの爪が日本刀の刃に添う。熟練の傭兵が為した絶技。
だが。
――重い。
逸らすべく添えた爪が動かない。技では自分の方が上だろうに、刀身に添えられた膂力がそれを阻む。
背筋を撃ち抜いた怖気を振り払うようにラナは踏みしめる。
退かない、とでも言うように。
瞬後。
「ラナ、さんっ!」
響いた藍の声に、ラナは安堵を得た。直後、衝突に近しい勢いで均衡に更なる日本刀が添えられ。
音が、爆ぜた。
空間を丸ごと断ち切るような、アカイロの巨刃が天井を穿つ音だ。
そうして。
崩落の中、ラナと藍が成した空隙に、UNKNOWNと銀子以外の傭兵が滑り込むように、往く。
●
「お、っと」
ラナと藍が喰らい付いたアリサから、プロードは僅かに距離を外す。ふわ、と。柔らかい風に舞い上がるように。
「コエが、一つ、問う」
閃光を破って、炬烏介とトヲイが駆けていたからだ。声は、炬烏介のもの。
「あはははっ!」
愉しげにアリサとアトレイアに手で合図しながらも、見下ろすプロードは炬烏介には応えない。
それを知りながら、炬烏介は日本の某所の名を告げた。
そして。
「オ前ハ、命請イスル女ニ、彼氏ノ頭ヲ叩キ割レバ助ケル‥‥ト言ッタカ?」
聞いて、今度こそ少年は首を傾げ炬烏介を見つめた。言葉とその裡を、見通すように。
「‥‥ふぅん?」
見返す炬烏介の目は、ただただ真っ直ぐで。
だからこそ、少年は。
「そっか、ふふ。惨めだねぇ、キミ」
心底愉しげに、そう言った。
「‥‥」
炬烏介は暫し、言葉を呑む。
――憎イ。
赤い憎悪、憤怒が、己の中で渦巻いているのを感じて。そして。
「‥‥覚悟は良いか、バグア!」
咆哮した。
●
――さて、さて。
銀子は足を止めたUNKNOWNのやや後方。風威を避けるように位置取りを果たし、再び亜梨沙が振るった刃をラナと藍が等しく回避するのを確認し、その危なげない動きに頷く。
「そりゃ、そうよね」
一目で知れる。渦巻く暴威はあの老人以上だろうと。そして。
「役者が、違うわ」
――役回りも、ね。
思いながら、少年ヘと向かって知覚砲を放つ。
風での反撃は届かない、が。此方の砲撃も回避される。間合いの開きか、実力差故か。落胆するでもなく、前衛が距離を詰めるための布石となるなら重畳、と銀子は広く視界を保つ。
そうして視界の端に亜梨沙を捉え、言った。
「母親ならさ、何より愛する子を護るべきなんじゃないかしら?」
「護りますよ。愛してますから」
向けた視線に、亜梨沙の視線が重なる。その目は確かに銀子を見ている筈なのに――ずれる。
「‥‥母親にも成れてない小娘の夢かもだけど。あたしは、娘を哀しませない為なら」
今日、溜息を吐いたのは何度目だろうか。
「神にだって、拳を向けるわ」
「あら」
その袖で、斬撃と言葉を振り払うようにしながら、亜梨沙は。
「なら、私と同じですね」
酷く共感に満ちた色を銀子に向けて、笑んだ。
――。
呟く銀子の言葉は、またも、足下に落ちる。
静かで、濁った銀子の胸の裡とは対称的に。
戦場は、激化する。
●
現と拓海、フェイルが向かえば、それを察知したアトレイアの姿が掻き消える。
「‥‥っ!」
瞬後、現に刃を振り下ろす女の姿に対して、現は畏れも驚愕もせずに真っ向から盾を構えた。
「アトレイア!」
ただ、叫ぶ。
声を貫き、弾けるのは雷光のような剣閃と躊躇なく放たれたフェイルの銃撃。
四肢を穿たんとしたフェイルの銃弾はしかし、容易く躱される。かつてのアトレイアのそれと比して遥かに鋭い機動。
「――ッ!」
小刻みにステップを踏むアトレイアに対し横合いから裂帛と、斬光。
拓海。
プロード達から距離を外させようと意図しての斬撃だ。狙いを知ってか知らずか、女は弾けるように距離を取り、拓海が望む盤面へ。
「アトレイア! 聞けッ!」
現の声が響く。女は気紛れな鎌風のようだった。手に掴もうとすれば流れて消え、触れた時には、鋭い剣閃のみが刻まれている。
「随分と派手に強化されたみたいですね」
女の機動が、強化人間の身体能力で底上げされている。舞い広がる黒髪が翼のように見えて、フェイルは嗤った。
「‥‥貴女が最後の天使、ですか」
これまでの事を省みて、その皮肉を嗤ったのだろう。
「全力で、お相手します。悲しいですけどね」
徐々に熱を帯びていく声に、間合いを置いた拓海が小さく呟いた。
「‥‥命は奪うなよ」
その手には小太刀と日本刀。相対するアトレイアの獲物に合わせた構えを取りながら、男は横目でフェイルを睨んだ。この女は、信用ができない。
現を刻み続けるアトレイアへと銃撃を叩き込みながら、フェイルはさも心外そうに口の端に笑みを刻んで、言う。
「何より優先するべきはブロードを倒すこと」
斬り捨てる訳ではない。ただ、厳然と事実を告げる声色には、鮮やかな割切りがある。
「これを見誤っては何にもなりませんよ?」
「‥‥そうだと、してもだ」
拓海は、戦友である現の姿を見て、絞り出すように言った。
戦友が望むからか?
自問する。殺すつもりにはどうしてもなれない。それは――。
「もちろん、その上なら‥‥お節介くらいは」
「‥‥」
口を開こうとして、止めた。盾をかざし斬撃を受け続ける現だが、些か以上に分が悪い。心情的な面でも、単純に相性の上でも。
――今は為すべきを為す。
拓海はそう定め、そうして迅雷を意識し、加速。
●
ラナと藍は、赤く、長大な刃を潜るように亜梨沙へと踏込んでいた。斬撃と爪撃は左右からほぼ同時。亜梨沙はそれを避けはしない。久蔵と同じ構えで己が身を撫でる斬撃を畏れる事なく――更に刃を振り抜いた。
「‥‥っ!」
捨て身の奇襲。
亜梨沙には、それを畏れなく為せるだけの頑健さがあり――膂力がある。
藍の踏込みが速過ぎたか、単に、亜梨沙の技が至らなかったか、真っ直ぐに踏込んだ藍の左肩を日本刀の柄で殴打するに留まった。
「藍さん!」
ラナの声に、痛みが弾ける。
肩が挫滅するかと思うほどの重さだった。衝撃に、大地から引き剥がされるように、軽い身体が飛ぶ。
「っ!」
弾かれながら、藍は怖気を感じた。崩れた身体が、本能的に不安を呼ぶ。
――死ぬ。
そう察した。それほどに致命的な隙。
しかし。
「‥‥」
追撃は、来なかった。ちらとアトレイアの方を見やった亜梨沙は深く安堵したきり、ラナに対して蠅でも散らすように刃を振るう。プロードへと近づいて行こうとしているのをラナが死角に回り込む形で足を止めようとしているようだ。
「‥‥そう、ですよね」
同じ構え。同じ技なのに――こうも、違う。
何故だろう。
――寂しい、かな。
想いを得ると同時。身体から痛みが失せていくのを感じた。慣れ親しんだ、練成治療の感覚。
「行かなくちゃ」
支援に、後ろ髪を引かれる想いを抱きながら、藍は改めて亜梨沙へと喰らい付いて行く。
弾かれた距離は広かったが、彼女の足ならばそれを埋めるのに時間はさしてかからない。
「私達では、致命傷は、与えられないかもしれない」
藍が再度戦線に加わった事を確認し、ラナは短くそう告げた。
「でも‥‥いけます」
感触を、ラナは確かに感じている。亜梨沙は個体としては確かに強力だが、戦闘経験は乏しい。機動力で挑むラナと藍にとってはやりやすい相手だ。
藍とラナ。二人の機動は絡み合うように、亜梨沙へ肉薄とする。
藍の蒼刃。ラナの緋爪と銃弾。それぞれが有機的な連なりとなって、亜梨沙に刻まれていく。
手応えは――浅い。
だから、だろうか。
「ふふ」
この均衡のただ中で、亜梨沙は娘を視界に捉えて、嗤っていた。
――何を、笑っているの?
気付けばラナは、不要と知りながらも思考していた。
‥‥いや、せざるを、得なかった。
怖気が、したのだ。
ラナは――その笑みを、知っていたから。
瞬間。
「炬烏介!」
叫び声が、反射した。
●
「久しいね、咎人さん」
プロードに相対するのは、駆けて行くトヲイと炬烏介。そして、やや後方にUNKNOWNと、さらに離れて砲を放つ銀子。
今は無き片腕を抱くようにしてトヲイを見つめるプロードの視線は酷く、粘質。見定めるような視線とその意図に、トヲイは怖気と熱を覚えた。武人に対するものとしては余りに不遜に感じて。
「オォ‥‥ッ」
故に、若武者は裂帛の気合と共に踏込む。踏込みは、対側の炬烏介とほぼ同時。
いや。
「―――ッ!」
炬烏介の方が、早い。
己が身を囮にして、起点とするための動きだ。銀子、UNKNOWN、トヲイ。味方の一撃のために、盾を構えての特攻。
しかし、それは。
「あは、あはははっ!」
横殴りの暴風に、妨げられる。踏ん張る足ごと薙ぎ払われるように姿勢が崩れ、炬烏介の視界が、廻る。轟風の渦巻く音に、炬烏介が床に打ち伏せられる音が重なり。
「ぐ、ヌ‥‥ッ!」
純然たる間合いの差は大凡、UNKNOWNが埋めている。
だが、重さそのものが狙いの一撃を躱す事前の策を、炬烏介は有していなかった。
「目障りな間抜けから、まずは死んでもらおっかな!」
「炬烏介!」
傾いた視界の中で炬烏介は声と音を聞いた。トヲイの、更に距離を詰めながらの叫び声と、轟風。
そして、見る。
己の身をエグる風威と、溢れ返った、赤い――。
「ゥ、」
事後の策としていた活性化を念じるが、追いつかない。癒えようとする身体から、はたはたと熱が零れ落ちていき、臓腑が不規則に蠕動。
「バ、グ‥‥ァ‥‥」
――嘔気と痛みが、明滅と共に訪れた。
●
「炬烏介!」
「おっと。まだ、だよ」
絶叫をそっと包む穏やかな低音。
「オ、ォ‥‥ッ!」
声を背に、トヲイは畏れず大剣を掲げ切り込んだ。その背ごと貫くように、精緻な銀子の砲撃が添う。
現状に、トヲイは一撃離脱を諦めざるを得なかった。炬烏介が倒れた今、一人風の間合いの外へと距離を空けようとすれば一方的にアウトレンジから叩き潰されるのが目に見えている。
何より。
「ハ、ハ、アハハハっ!」
「‥‥っ」
存外に、プロードの執着が自分に向けられていた。
隻腕の少年と青年の攻防、そしてそこを抉る銀子の砲撃は、舞いのようだった。剣劇が爆ぜ、散る。光条が大気を焼き切る。真っ向から斬り結ぶトヲイの手傷は重なるばかりだが、UNKNOWNが瀕死の炬烏介へと治療を飛ばしながら、なおもトヲイへや藍、そして現達へと練成治療の光を届けている。その超人的な働きで、均衡は保てていた。
「さて」
己の余力を勘案するUNKNOWNには、残り時間が、解る。
「どう転ぶか、だね」
だが、男は多くを語らずに結び。ただただ治療の光を送り続ける。
●
「‥‥護れなくてすまない」
剣劇の隙間で現は言葉を告げる。言葉は届くと、信じて。
「過去に何があろうと亜梨沙はお前の母親だ」
返るのは、剣閃。
「亜梨沙と話が出来るのは娘のお前だけだろ、目を、覚ませ!」
斬撃を盾で受ければ、女は身を返して、現の横合いへと滑った。肋間へと差し込まれるように、刃。さす、と。装甲ごと貫くかと思われた刹那。
「あら、外れましたか」
フェイルの銃撃が、空間を凪いだ。冷徹に狙いを見据え――そうして、大腿を撃ち抜かんとした掃射に、アトレイアは致命の一撃よりもなお、回避を優先した形。それは即ち。
「当たるのが楽しみ、ですね」
「‥‥ちっ」
前衛として立つ現に添うように、拓海がアトレイアの軌跡を辿る。
現状、拓海の思惑通りにプロードからは十分な距離を外せてはいるが、アトレイアの動き故に距離はどんどん開きつつあった。それ故に、UNKNOWNからの支援が滞りつつある。
フェイル、そして拓海の横撃が活きている現状では問題にならないが。
アトレイアの動きに引き出されるように、拓海と現は獲物をかざし、足を動かして切り結び、銃弾を放つ。
そして。
「世界は残酷かもしれない、」
幾度目かの斬撃を受け止めた現が更に言葉を継ごうとした、その時だ。
遠ざかる音に――拓海と現は遅れて、結果を知る。
「か、ハ‥‥」
刃の音と、血の音が返った。振り抜かれた刃に乗った雫が遠く、現の頬へと弾ける。
それは。
「フェイル!」
現が視線を向けた、先。片手で胸部を押さえたフェイルが、アトレイアから、距離を外そうとする姿が見えた。ガクガクと、少女の膝が泣く。口元と、左の肋間から溢れ出る血潮は、刹那になされた致命傷故か。
それでも、フェイルはもう一方の手でアトレイアへと向けて銃撃を放つ。殆ど倒れ込むようになりながら。
「そ、う」
痙攣する横隔膜。息を吸う、それだけの事なのに酷く難渋する。血があちこちから溢れ、まるで溺れているかのようだ。
「そう、です、ね」
一瞬で間合いを詰めるだけの速力――迅雷。
それがあるならば、護衛のいないフリーの制圧火力、フェイルを狙う術足り得る。この場の誰も思い到らなかったのは‥‥攻め気が勝ち過ぎた結果、か。
「‥‥は、ぁ」
フェイルは愉悦の籠った眼差しと声で、言葉を継ぎ。
「わた、し、もね。‥‥楽し、かった、ですよ」
意識を、手放した。
●
他所を見る余裕なんて、なかった。藍とラナは剛力を振るう亜梨沙を如何に足止めするか、そして、他所へと手を出させぬように腐心せねばならなかった。
幾度目の、剣戟だろう?
それすらも遠く流れる戦闘のただ中、ラナは言葉を告いだ。
「あなたは何故、彼の素性を知った上で、アトレイアを残しプロードに従っているのです?」
「――それは、家族を巻き込んでまでも、信じるものなのですか」
藍も、声を重ねた。機動に流れ、霞む声色は、亜梨沙の集中を阻もうとしてのことか。
確かに。声に亜梨沙は、表情を変えた。
それはただの落胆でもただの空虚でもただの憎悪でもない、綯い交ぜの表情で。
「‥‥神様なんて、いなかったから」
絞り出すような声色に、ラナははっきりと、想起した。彼女の根源と近しい、独りの女性。
「信仰を深めれば深めるだけ、失っていったわ。あの人は死んで、あの子は悪魔に憑かれ、あの子を救いたくて神に縋ろうとしても‥‥私に残ったのは、喪失の道だけ」
「‥‥」
いつしか、亜梨沙の足が止まっていた。
両の手を見つめる亜梨沙は、そこに何かを見ているよう。
「その中であの人だけが私達を救ってくれた」
――それが、周り、全てを不幸にしていただけだとしても?
言葉に、藍はそう思った。だが、呑み込む。
無駄を、悟ったから。
「私、沢山沢山『練習』したんですよ。あの子から悪魔を祓うために。それは罪だって知っていたけど、プロード様は、認めてくれた。助けてくれた。救って、くれたの」
(‥‥浮かばれない)
ただ、藍は強く、そう思った。その為に、多くの人が犠牲になったのかと思うと。
「その罪のせいで、暫く離れなくちゃいけなかったとしても――私達は、救われたの」
「そう、ですか」
ラナはその感情を、知っていた。だからこそ、悩みすらした。
万が一の時に伝えるべき意志として、今の亜梨沙は余りに。
「だから、あなた達悪魔は、祓わなくちゃいけないのよ」
そう言う『母』の表情に、ラナは殺意を覚えずには、いられなかった。
●
「なぜ、アトレイアとアリサに執着する!」
「あはは、解らないかなぁ!」
薙ぎ払いの大剣、その空隙を滑るように迫る少年に、トヲイは言葉を放つ。
それは、彼にすれば斬撃に等しい。少しでも、戦場を己に有利にするための。
少年はその意図を組んでいるのだろうか、嗤って、言葉ごとトヲイを、抉る。
「面白いからだよ、咎人さん!」
「‥‥っ!」
懐に入られて間合いを一つ外すが、追撃の風が足下を薙ぐ。慌てて姿勢を整えるトヲイに少年は奔り、
「死にたくなかったら避けなさい!」
「――!」
声と同時、スレスレの砲撃がトヲイの脇を薙いだ。直撃は、少年の片腕へ。不意をついた一撃に、少年のFFが眩い光を放つ。
「‥‥あぶないなぁっ」
頬を膨らます少年は、片腕を大きく振るっている。時折、こうして一撃が入りはするが――劣勢。一撃が入るまでの損害が、あまりに大きい。
そのこと確認しながら、UNKNOWNは呟いた。
それは決して望ましい事ではないだろうと、男は知っていたが。
「道は、ひらこうか」
低音を拾った者は――赤く、燃えるような目をしていた。
●
横合いから、拓海が切り込んでいく。それを避けるようにアトレイアがフェイルから離れた。
フェイルが崩れ落ちる、その意味を、現は呑み込んで。
「‥‥たとえ」
噛み締めるように。
「たとえ、俺が死んでも」
そう、言った。
「お前‥‥」
その表情の強さに拓海はそれ以上言葉を継げず――ただ、頷くしか、なくて。
フェイルの制射が無くなり、アトレイアの猛攻は更に激しさを増していく。その中で男は、ただただ待っていた。
そして。
盾を掲げ――衝突の寸前。
「――オ、ォ!」
盾を、捨てた。
斬撃が身を抉り臓腑へと至る。女の一撃は、その身で受け止めるには鋭く、重い。刺貫かれた現の身が強ばる。
「アト、レイア!」
それでも、エミタに念じれば片手に隠し持った匕首のSESが高く、駆動する。
武器を引かんと力を混めた女の手を、堅く掴んだ。そうして、匕首を打ち付け。
女は己を掴むその手を拒むように加速しようとするが――適わず。
切り裂かれた女の足が、力を失った。
とす、と。音が響く。
その衝撃を感じながら、男は女を掻き抱き、告げる。
――やっとだ。
耳元で、囁くように。
「‥‥心の、殻、に‥‥閉じ篭らないで、くれ。目を、醒まし、て、くれ」
いや。
囁く事しか、出来なかった。
吐息が届く程に縮まる二人の距離。その狭間で、双刃は現の腹と胸を抉っていた。
現の身は既に、力など抱き得ない。それならばと、己を貫く刃を支えに告げる。
「‥‥俺は、地球や、人類、を、護る、より‥‥お前を、救い、たい」
口元から溢れた血が、アトレイアの長い髪を濡らし、そうして。
現はずるずると、落ちて行く。意識ごと、抜け落ちて行くように、力無く。
それは、その身を支えていた筈のアトレイアの手から、刃は離れたからであり。
「―――――」
声無き絶叫を、拓海は聞いた。そして。
「‥‥今は、眠っておけ、アトレイア」
それが、この場で女が聞いた、最後の言葉だった。
拓海は最後に、刃を振るった。その手応えは、とても柔らかく。
「‥‥」
とても、苦かった。
●
危地。死中。銀子はそれを肌で感じている。
――だからこそ、UNKNOWNの呟きとその結果に制止をかけることはしなかった。
それが、他でもない彼自身の願いだと解っていたから。
トヲイもまた、その場が死地であるとしっていた。
それ故に、言葉を刻む。
眼前の少年、その心に、刃を突き込む為に。
「――何故、フィーを強化人間にした?」
「‥‥」
全身を躍動させながらの言葉に、少年は言葉を呑む。奔流のような感情が、その表情から透けてみえるようで、トヲイは――感傷よりも先に、手応えを覚える。
「彼女がそれを、望んでいたからだけど?」
「彼女は貴様にとって大切な存在だったのだろう? それが本当に」
「五月蝿いなぁ!」
噛み合う爪と、大剣。そして、言の葉。
それら全てを散らさんと、轟、と。風が舞った。
「‥‥ッ!」
苦悶を噛み潰しながら、両の足で踏ん張るトヲイ。
――その背から、練成治療の熱が、消えた。
同時。劫火が、空間を灼いて抜けて行った。
「‥‥ち、ィ!」
少年が、アカイロの灯る眼で業炎を見据え、トヲイへと振り下ろそうとしていた手を護りに翳した。
UNKNOWNの、砲撃。
「さて」
男は紫煙を靡かせながら、嘯くように呟く。
――捩じ伏せたまえ。
その言葉は、炎の音に紛れたが。
「バ、グ、ァ!」
その絶叫は、業炎をも貫いた。
炬烏介。
死すら厭わず、獣のように炬烏介は奔り――炎の隙間から、プロードへと、飛びついていた。
「デク人形の主には‥‥同じ末路がお似合い‥‥だ!」
「くっ‥‥死に損ないのクセに!!」
少年の爪が炬烏介を抉り、風が、殴打する。
「アぁァ‥‥ッ!」
だが、その身を貫かれ、灼かれ、強打されながらも、炬烏介は一打を、見舞った。
「カ、カ‥‥ッ! い、一切合切の、ゆ、猶予も無く、死ねよ‥‥バグアッ!」
それは、正しく狂気の沙汰であり。
その狂人の様に、身を包む風が解けていくのを感じた少年は紛れもなく――奈落を、見た。
「ア、アアアア!」
恐慌に駆られるように、少年の身を中心に爆風が上がる。赤い、赤い、風。
「路傍の石風情が‥‥!」
暴風に、弾き飛ばされた炬烏介。
絶命しかけた身体をUNKNOWNがうけとめ、治療を開始する様が、気に喰わなかった。
「死ねェ!」
再度、アカイロの風を編み始めた少年。
そこに。
「‥‥君が、ね」
声は、光条を伴っていた。轟音のただ中で、その声だけは不思議と耳に残り、
「‥‥あの子達の未来に、あなたは障害でしか、ないわ」
「、が、」
遅れて、砲撃が自身を灼いた事に気付く。
FFが明滅し、それに耐えようとするが、続く掃射を炬烏介の一打で制御の乱れた風では躱せない。
「‥‥アリサ、ァ!」
だから、少年は『盾』を喚んだ。
だが。
「アトレイア‥‥ッ!」
亜梨沙は、己を見ようともしておらず。
その事に――少年の中で、何かが込み上げて。
「あは、あはは‥‥!」
「お前は、愛し方を間違えた」
トヲイの言葉と。
続いた『それ』に、少年は――。
●
「アトレイア‥‥ッ!」
亜梨沙はそれを捉えた刹那に、堕ちた。追い立てられるように、駆けようとした。
でも。
「‥‥させない」
藍が、ラナが、構えすら取らずに一心不乱に奔ろうとする亜梨沙を、泳いだその足を薙ぐようにして、留める。
「邪魔を、しないで! 離せ! 離せ離せ離せ離せ離せ離せッ!! 離してええええッ」
傷つきながら、艶黒の髪を振り乱すその姿をみて‥‥ラナの心が、掻き乱される。あるいは藍も、そうだろう。
だからこそ、彼女達は亜梨沙を留めつづけた。
母子の対話、その結末は、成せなかった。
だが――これさえ果たせれば、あとは。
●
真空にのった斬撃に、頭部が大きく、抉られた。
血しぶきが舞い、風が、解けていく。
その血潮こそが赤風を浄化しているような光景。
「愛し方、だって?」
その中で、少年。
「間違えた、だって?」
その身は力を無くし、残った片目が虚空を睨む。
「‥‥そうさせたのは、君達、人間じゃ、ない、か」
膝を突く。
「捩じ伏せる事、は、気持ち、良い、よ」
言葉には、駄々をこねる少年のいじらしさと、聖人のような清らかさが同居していた。
「君らも、それを、し、知って、い、る、だろう?」
そして。
「は、ぁ‥‥綺麗、だった、なぁ」
そうして。
少年のその身が――解けて行く風に乗るように、ゆっくりと、ゆっくりと、掻き消えて行った。
●
アリサさんの狂乱は、じきに、多数によって、鎮められた。
瀕死の子達は本当にぎりぎりの所で、一命を取り留めたそうだ。
死者は‥‥バグア、一体のみ。
それでも。
「めでたしめでたし‥‥とは、まだ言えないわね」
呟く。
強化人間となったアトレイアちゃんとアリサさんは、UPCに拘束される事となった。今後、治療が施されるかどうかは――私達には、解らない。
どういう場所にいるかも、私達は知らされていない。
――でも。
「結末はまだ、出ていないわ」
それは、救いかもしれない。
だからこそ。願わくば、あの子がその結論を出せる事を、と。
実に都合良く、私はだれかに、祈ったのであった。
(了)