●リプレイ本文
成層圏。言葉にすればあまりにもあっけなく、時に手を伸ばせば簡単に届きそうな錯覚すらありながら、決して届きはしない空の向こう。
ぐぅ、と身体を大きく逸らしてその空を、ヨダカ(
gc2990)は瞳をキラキラさせて見上げた。
「お昼と夜の境目は見れるです?」
「さぁ、どうだったか‥‥とても不思議な光景でしたよ」
釣られたように見上げた空の向こうの記憶を手繰りながら、水上・未早(
ga0049)がその声に応える。かつてもアルプス山脈上空で行った同じ作業を手伝った時に見たあの光景を、果たしてそれ以外のどんな言葉で言い表せば良いのか。
様々な青の入り混じった、宇宙でも空でもない場所。言い表すなら数限りない言葉がありそうで、だが言葉にした瞬間陳腐に感じられるあの光景。
「あの時と高度設定や作業内容もまったく同じみたいなんで、力になれるかと思いまして」
「成層圏プラットフォーム‥‥名前だけは、聞いてる」
未早の言葉に、だがさして感銘を受けた様子でもなくラシード・アル・ラハル(
ga6190)は淡々と頷いた。頭上に広がる空にチラリと天気でも確かめるような視線を向けて、またすぐに視線を眼前へと戻す。
その目に映るのはワイバーンMk. II『ジブリールII』。成層圏という場所へ飛び出していくに当たり、ラシードが選んだ相棒――だが、その眼差しに浮かぶのは空への憧憬と言うには余りに冷めたもので。
「通信は、生命線‥‥僕も、いくつもの戦場で、実感してきた。バグア側でも注目されてる技術みたい、だね」
「そう、ですね‥‥一つ、一つは‥‥小さな、事‥‥でも‥‥。重ねて、いけば‥‥いつかは、きっと‥‥」
ね‥‥、と寄り添うようにシュテルンを見上げ、井上冬樹(
gb5526)が相槌を打った。
彼女達がこれから成す事は、ほんのささやかで僅かな事なのかもしれない。けれども最初の一歩を踏み出して、次の一歩を出さなければ前に進めないように、そうして一歩ずつを踏み出し続けていればいつか、驚くばかりに遠くに来た自分に気付くように。
未早達が踏み出してきた一歩の、次の一歩がこれなのだと、思う。そんな想いでシュテルンを見上げる冬樹に、もちろん仕事はしっかりこなす、とラシードはこっくり頷いて。
目の上に手を翳していた孫六 兼元(
gb5331)が、基地の入り口から出てきた少年を見つけて「お!」と声を上げた。
「シュナイプ氏が戻ってきたぞ!」
「いよいよなのですね!」
ウィリアムの姿を見て、ぐっ、とヨダカも嬉しそうに両手を握った。そうしてまた、頭上の空を見上げる。
「ナハトファルケン! アンテナを積んでお空の天辺まで飛んで行くですよ!」
ビシッ、と指差した空は早くも、初夏を感じさせる濃い青の気配だった。
◆
招き入れられた基地の中で、未早はまず確認したいことがある、と告げた。
「依頼書にはミッションの詳細までは無かったので、その辺を確認させてください」
何より必要なのは、彼女たちに成層圏に設置して来て欲しい無線中継機の数だ。以前のアルプスや、UPCに募集をかけられた人数を鑑みれば、それほどの数が用意されているとは思えない。
だが今は折しもアフリカ侵攻作戦のまっただ中。この辺りにバグアの脅威はないというが、不測の事態に備えるならば、戦力の分散を避けて1度で済ませるのか、あるいは複数のグループに分かれて飛ぶのか。数が多ければ、誰かがもう1度飛ばなければならないこともあるだろう。
ゆえにまずは無線中継機の数を確認した未早に返ってきたのは、無線中継機は6機用意してある、という答えだった。当初の予定では6人の能力者にユニットを運んでもらい、1人に補助を頼む予定だったのだが、都合がつかなくなった者が出た為ちょうど人数分。
了解、と頷いた未早がフライトプランを考え始める。ラシードはそんな女性を見やり、それなら1回で済みそうだから全員で固まって飛べば、と提案した。
「設置場所は今データを貰ったし、高度は2万mで間違いない、んだよね。だったら‥‥」
だがラシードの言葉に、ティランはわずかに困った顔になって冬樹の方を見やる。その視線に冬樹は申し訳なさそうに肩をすくめ、瞳を伏せて小さくなった。
あまりKVを用いる依頼に慣れていないからか、彼女はシュテルンからユニットを1つ外してくるのをうっかり失念していたのだ。ゆえに冬樹のシュテルンは、まずユニットをどれか一つ取り外してから、そこに無線通信機ユニットを取り付ける作業が必要になる。
そのタイムラグをどうするか。彼女以外のメンバーに先に飛んでもらい、冬樹だけ後から飛び立つか、あるいは飛行自体を2回に分けてしまうか、そもそもの出発時間をずらすか。
ウィリアムが手を挙げて、皆さんの様子を見て勉強してから飛びたいのですが、と告げた。そう、と頷いたラシードはちらりと未早を見ながら、自身が護衛につくと申し出る。
一団で移動するなら未早とは同じMk−IIを駆る者同士、哨戒や仲間の護衛に当たった方がよいかと考えていたラシードだ。未早にしても念の為に最低限の装備は準備してきているから、その意を汲んで頷いた。
話が決まったようであるな、とティランがのほんと頷く。
「ではまず、先行班の機体にユニットを取り付けるのであるよ」
「よろしく頼んだぞ、フリーデン氏! ワシもフツノミタマも高高度は初めてだ、憧れては居たのだがな!」
兼元が大きく豪快に頷き、少年のように瞳をキラキラさせた。空を駆ける事の出来る相棒を所持してはいるが、気の向いた時に自由に動かせるわけではない。まして遙か空の高みを目指すことなどそうそうあるはずもなく。
同じくヨダカも、まだ見ぬ成層圏への期待と憧れで目を輝かせながら、機体準備が出来るまでの間も飛んでからのユニットの切り離しなどについて熱心に質問する。冬樹も控えめながらこまごまと、ヨダカの質問に質問を重ねた。
作業に手間取る事のないよう、確認した手順を脳裏でも何度もシミュレートする。自らがシュテルンのコクピットに居る所を想像して、計器や操縦桿やスイッチの位置を思い起こして。
やがて作業員が、ユニットの取り付けが完了した事を告げる。それを待ち兼ねたとばかりに飛び出していく兼元とヨダカの背中を、未早が静かに追いかけた。
「さぁ! 上空2万mの高速宅配だぞ、兄弟!!」
「ナハトファルケン、上を見て、上を見て飛んでいくのですよ」
そうして、滑走路に日の光を受けて待機するそれぞれの愛機に語りかける2人に、未早はそっと微笑みながら自らのMK−IIのコクピットに滑り込む。僅かな緊張を紛らわすように、ポン、とシートを軽く叩いた。
◆
高高度2万mを目指して、力強く基地を飛び立った3機のKVはひたむきに空を飛んでいた。
計器がただ忠実に、愛機がぐんぐん地上から遠ざかり、高度を増して行くことを告げている。だが眼前に広がる、まるで空に飛び込んだかのような一面の青は、時に昇っているはずなのに空に落ちて行くような錯覚を覚えさせた。
無意識にヨダカは、縋りつくように操縦桿を握り締める。
「ねぇ、ナハトファルケン。あの子も、こんな気持ちだったのでしょうか?」
彼女と同じ名前を持つ、やはり空の高みをひたむきに目指していた、大好きな童話の鳥が頭を過ぎた。あの鳥もまた、空に昇りながら落ちていく感覚を味わっていたのだろうか。
同じ様な感覚は兼元の中にも存在した。彼はいつもよりも心持ち慎重に計器に異常がないか視線を配りながら、なるべく積荷に負担が掛からないようにと心を配る。
ただ1人、経験者の未早だけが比較的落ち着いた様子で、辺りへと警戒を払いながら先頭を突き進んでいた。それでもやがて空が青から紺へ、昼から夜へと表情を変えるのを、どこか感嘆を覚えてじっと見上げる。
やがて3機の計器が、その数字を示した。高高度2万m。KVで『無理なく安全に』到達できる限界高度。
奇妙に静かに感じられる空の上で、つかの間彼らは足下に空を踏み、頭上に夜を掲げる光景を見つめた。未早にとってはかつて見た光景であり、兼元とヨダカにとっては初めて見る光景。それでも胸にこみ上げてくる感情は、同じものであったことだろう。
感動を噛みしめるようにヨダカが呟いた。
「ここが‥‥お空の天井‥‥」
「ええ。まずはユニットを切り離しましょう」
「そうだな! ガッハッハ、ワシとしたことが一瞬見とれたぞ!!」
通信機の向こうから聞こえてくる未早の声に、兼元は大きく笑ってモニタを確認し、所定の位置までフツノミタマを移動する。操作パネルに手を伸ばし、基地で教わった手順の通り、アクセサリスロットに取り付けられたユニットを切り離した。
僅かな衝撃。それと共にフツノミタマが、作業が正常に完了した事を知らせる。
ティランの話では、通信テストなどは不要と言うことだった。ゆえに、無事に無線中継機が展開されたことだけをモニタ越しに確認し、周囲で警戒に当たっていた仲間にそれを知らせる。
次に未早と兼元が辺りの警戒に当たりながら、ヨダカのナハトファルケンのユニットを。そして最後に未早のMk−IIのユニットを。
成層圏に、3つの無線中継機が出現した。眼下の空に浮かぶそれらを眺めていると、やがて成層圏に到達したラシードと冬樹、ウィリアムの機体が視界に飛び込んでくる。
「敵反応はなし、だ」
未早達からの連絡も受けてはいたが、それでも自らの目で確かめ、ラシードは報告した。過去には通信機を壊されたり、キメラの襲撃を受けたりしたこともあった、と聞いている。
何しろ通信は重要だ。僅かな情報の遅れが戦局を不利に陥れることを、ラシードはよく知っている。
(この任務が成功すれば、軍事的意味は計り知れない、し)
ラシードはそう思ったからこの仕事を引き受けることにしたのだ。だからこそ真剣に辺りを警戒し、慎重にユニットの切り離しを見守った。
まずは冬樹のシュテルンが。つぎに、ウィリアムが。最後にラシードのジブリールIIが。
あっけないほど簡単に、成層圏に6つの無線中継機が展開した。その光景をじっと見つめていた冬樹が、ふと苦笑とも、感動ともつかない声を漏らす。
「‥‥本当に‥‥こんな、所まで‥‥昇って‥‥これるん、ですね‥‥。大地が‥‥あんなに、遠く‥‥」
「綺麗なのです、蒼と、白と、茶色と他にも色々なのです‥‥」
ヨダカがその言葉に、感動の言葉を重ねる。無線中継機の遙か下に見えるのは、彼女達が日頃暮らし、戦い、生きる場所で。だが同じものだとは思えないほどに、その光景は美しい。
遠くに来たのだと、誰ともなく思う。それは距離的なものでもあり、気持ち的なものでもあって。
未早が言った。
「少し、良いですか? どこまで昇れるか、やってみたいんです」
これ以上はブーストを使わねば昇れない。だがブーストを使えば昇れる空が目の前にある以上、試してみたいのだと。
通信機が、仲間の了承の言葉を伝えた。それに短く謝意を返して、未早はぐっと操縦棹を強く握り、機首を紺青の宇宙へと向ける。
ブーストが火を噴き、未早とMk−IIが上昇を開始した。いつキメラやバグアの襲撃があっても良いようにと、警戒しながらそれを見送ったラシードは、ふと目をしばたたかせる。
「‥‥あ、空」
小さくなるMk−IIが飛ぶ光景に初めて気付いた――彼がいま双眸に映しているものが、空の青であり、地球の青であることに。そうして、ただ風景を風景として見つめたのが、随分久しぶりだった事に。
この頃の彼が目に映す光景と言えば、戦場ばかりで。そこにある風景から敵を読みとり、戦局を読みとることが全てで。
傭兵になってからただ、訳も分からず必死に戦い、強くなって、それ故に重要な局面に立つことが増え。それに伴う責任に潰されないために、また強くならなければと考えて。
けれども未早が昇ってみたいと機首を上へ向けた、そんな純粋な衝動は彼にもあるのだ。ただ空を飛ぶのが好きだと。戦いなど関係なく、ただ飛びたいのだと。
そんな憧れでやってきた兼元は、フツノミタマを思い切りよくロールさせた。そうすれば頭上に見えるのは地球。
「見ろ兄弟、あれこそが守るべきモノの姿だ。ワシ等が背負う、唯一無二の存在だ‥‥」
その言葉が珍しく感慨深い響きを持っていたのは、普通なら絶対に目にする事のない光景を目の当たりにしたからだろうか。何しろここからは地球の丸みすら見て取れるのだ。
同じ事を、冬樹も強く思う。地球が丸いという、知識としては当たり前に知っている事を目にしたからこそ逆に実感するその大きさ。それに比べれば自身は、あまりにも小さく。
けれども来たいと願ったから、冬樹は今ここに居て。
(‥‥少し、ずつでも‥‥小さく、ても‥‥私‥‥変わって‥‥いけてる、よね‥‥)
戦いにまだ慣れなくても、傭兵である事に違和感はまだ消えなくても、彼女がかつて踏み出した一歩が確かに、ここに繋がっていたのだという実感。それを何かに留めたくて、冬樹はそっとシュテルンの中から使い捨てカメラのシャッターを切った。たった1枚だけ、大切なお守りのように――そうしていつか一杯になったら現像しようと微笑む。
昇って行った未早のMk−IIが、やがて地上に惹き付けられる様に空から落ちてきた。エンジン音が聞こえないのは、どうやらストールしたらしい。
けれどもコクピットの未早は慌ててはいなかった。エンジンを切って自然落下に身をまかせ、計器が通常圧を示すのを待ちながら、あんなにも遠かったのに離れていく時はあっという間の紺青を見上げる。
「いつか、あの先へ飛び出せる日が来るのかな‥‥」
「次に上がる時には、平和な空であって欲しいものだな!!」
「空は誰の物でも無いのです。赤いお月様には早くお帰り願って誰でも自由に空を飛べるようにするですよ!」
ふと呟いた、その言葉を拾った兼元とヨダカが力強く言った。その顔がなんだか思い浮かぶようで、そうですね、と微笑しエンジンを再起動する。
そうだね、と同じ言葉を聞いていたラシードも無言で頷き、狭いコクピットの中にびっしりと並ぶ計器を見つめた。これらを、ただ空を飛ぶためだけに見る日が来れば良いと、ほんのり思う。
(‥‥民間利用って、具体的には、どういうことだろ)
それがもっとも大切なことだと、ぽやぽや笑って言い切った青年の顔を思い出した。帰ったらその意味を聞いてみたい、と思う。
だが永遠に空に居られはしない。そろそろ地上に戻ろうと、促した仲間に応えてナハトファルケンの機首を翻そうとしたヨダカは、ふと振り返って言った。
「お早う、一番星さん。これからお前は、みんなの声をちゃんと聞こえるように届けるのですよ?」
彼女の大好きな童話の台詞を借りて。誰かの言葉と言葉を繋ぐ、その為に空へやってきた6つの中継機に向けて。