●リプレイ本文
ビルから出てようやく、ふぅ、と夏 炎西(
ga4178)は安堵と納得の入り混じった息を吐いた。くるり、無意識に出てきたばかりの建物を振り返る。
そこにはとある建設会社の事務所が入っていて、そうしてその建設会社はとあるビルの施工を請け負っていた。それは今日、炎西がキメラ退治の依頼を受けた廃ビルの隣にある、建設中のビルだ。
掃討作戦の間に、もしかしたらキメラが窓を破ったりして、廃ビルの外へ逃げ出すかもしれない。だから、隣で行っているビル建設を作戦の間だけでも手を休めて、一時退避してもらえないか――炎西は心配になり、単身、交渉にやってきたのだ。
もちろん、キメラを逃がすなどという非常事態は極力起こさないように動くつもりだ。けれども物事には常に不測の事態が付き物で、そうなった時に叶う限り被害を最小に抑えるよう、努力するのもまた務めであろう。
そう思い、やってきた炎西の交渉は、結論を言えば成功に終わった。軍の方から掃討作戦当日は退避するように命じられた建設会社は、当日の工事の一切をストップすることにしているという。
(これで安心ですね)
最悪の場合は、せめて掃討作戦を現場の昼休みに合わせる事を提案しよう、とも考えていた炎西の足取りは軽い。もしかしたら、交渉の成功を祈って使用したGoodLuckのおかげもあったかもしれないが、何にせよ、スムーズに話が進むのは気持ちが良いものだ。
そう、考えながら炎西は改めて、作戦現場である廃ビルへと足を向ける。次はそこに潜む猿キメラを、出来る限り速やかに排除する番だ。
◆
ぁ、と能力者達の姿を見たアニーの口が、何かを思い出したように大きく開いた。それからほんの一瞬、迷うように唇を震わせ、瞳を閉じる。
そうして、再び瞳を開いた彼女は先の迷いなどどこかに捨て去ったような口調で、ご報告があります、と言った。
「あのテロリストども壊滅したんかい! ‥‥どこぞの製薬会社並に、随分とあっさり潰れたな、おい」
その、アニーの口から紡がれた情報を聞いて、思わず叫んだロジャー・藤原(
ga8212)の台詞は、その場にいた多くの能力者達の気持ちを代弁していただろう。Brawn Rat――アニーとともにそのテロ組織を、そして彼らが引き起こす事件を追っていた身としては、その幕切れは拍子抜けにもほどがある。
もちろん、アンドレアス・ラーセン(
ga6523)とてそれは変わらなかった。
(案外あっけなかったな)
きつ、と紫煙を吸い込みながらそう思って、吐き出しながら指先でその火を揉み消す。伝えられた情報はあまりにも簡潔で、それ故にまるで拒絶されたような、或いは耳障りの良い言葉だけを吹き込まれて目隠しをされたような、そんな気持ちの悪さが残った。
アニー、と呼びかけると彼女は瞳を瞬かせる。彼女もまたさほど詳しく状況を知っているわけではないだろう、それは解っていたが思いつくままの問いを向けた。
「マーブル・トイズと武器密輸ルートは関連組織も全て摘発されたんだろうか?」
「多分」
案の定、答えたアニーの言葉は要領を得なかった。マヘリアからのメールにはそれ以上書かれて居なかったけど、作戦では本体を叩いた後、芋蔓式に関連組織を叩くことになっていたから、掃除は完了した、と言うのはそういう意味だろう、と。
そう、告げるアニー自身もあまり、納得いっていない様子なのは傍目にも明らかだった。エドワードにも確かめようとしたようだが、こちらは「LHを楽しんでいるかね」と適当にあしらわれてタイムアップだったとか。
『あぶりだすなら、餌は多い方が有効だと思わないか?』
そう、言った男のくぐもった笑い声を思い出した。一体どこまでが餌で、一体彼は何を誘き出そうとしているのか。それともその発言そのものが、そもそもアス達をも惑わすフェイクだったのか。
(情報源がエドワードの狸だって時点でモヤモヤするわな)
何しろ常に腹に一物も二物も抱いているような男なのだから――と、考えたところで目の前にエドワードが現れるわけもない。
だからアスは、自身の中の感情を吐き出すように細く息を吐き、ちらりと弟分でもある友人の方を振り返った。とまれ、あちらの決着が付いたというのなら、アニーは晴れてLHでの活動に専念できるのだろうか――彼のためにもそうであって欲しいところだが。
そう、まさしく兄のような眼差しで見つめられた当の神撫(
gb0167)はと言えば、伝えられた情報よりも、その情報を口にするアニーの方が気になっていた。
(なんか顔色わりぃけど、大丈夫かな‥‥?)
いつもと変わらない態度だけれども、ほんの少し表情がぎこちない。けれども神撫の眼差しに気付くと、僅かに目を瞬かせてから、『いつも通り』の笑顔になる。
その笑顔もまた少しばかりの堅さが残っている事に、アニーは気付いていないだろう。けれどもきっと彼女の事だから、神撫が何かあったのかと尋ねたって、心配をかけないようにとますます強がる素振りを見せるだけに違いない。
その情景すら想像しながら、神撫はアニーの傍へと歩み寄った。そうしてきょとん、と目を見張って見上げてくる彼女の頭を、こちらは間違いなくいつもと変わらぬ笑顔でぽふぽふと柔らかく撫でる。
一体何があったのかは解らないけれども、少しでもアニーが落ち着いてくれますように。落ち着かせてあげられますように。
遠倉 雨音(
gb0338)がそんな2人の邪魔をせぬようタイミングを計りながら、しみじみと呟いた。
「アメリカでの大規模作戦が始まろうとしている矢先に、前回の大規模作戦の後始末をすると言うのも何だか変な感じがしますね」
「確かに。とはいえそれほど難しい作戦ではなさそうですし、油断せずとも気楽にいきましょう」
「ええ。居付いているのがキメラならば放置はできませんし、早急に駆除をしなければいけませんね」
廃ビルを見上げながら、セレスタ・レネンティア(
gb1731)が雨音の言葉に相槌を打つ。その様子は気楽だったけれども、もちろん、油断しているわけでもなく。
けれども、と雨音とセレスタは視線を交わし、ちらり、と神撫にぽふられているアニーを見た。ぽふぽふのおかげか、あるいは神撫効果(?)なのか、わずかに見るぎこちなさは取れてきたようだが。
(まだ少し、アニーさんの顔色が悪いのが気になります。緊張している‥‥というわけではないようですが)
慣れたイギリスではなく、LHだから緊張する、と言うのならまだわかる。だがその割にはどこか、様子がおかしいように見えるのは決して、それだけではないはずだ。
少し、考えている雨音とセレスタの耳に、神撫とアニーの会話が届く。
「もうこっちに転属して1月以上経つけど、友達とかできた?」
「ぁ、うん。雪島舞香さんっていう人。すごく気さくな人で、昨日も誘われて一緒にチーズケーキ、を、食べに、行って‥‥」
こくり、頷いたアニーの言葉が、やがて何かを思い出すように頼りなく消えた。ちらり、眼差しが今は工事も止まって無骨な姿をさらしている、隣の建築中のビルへと向けられる。
アニーさん、とそんな彼女の意識を引き戻すように、雨音は穏やかな口調で問いかけた。
「何か、ありましたか? ――その方と、チーズケーキ屋さんで喧嘩でも?」
「あ、いえ。そうじゃないんです。ただ、ちょっと‥‥行く途中に、事故があって、びっくりしちゃって」
あはは、といかにも作り上げた笑顔を浮かべ、アニーは努めて明るい口調で、たまたま通りかかった建築中のビルで、鉄骨が落ちてきたのだと言った。こんな事ってホントにあるんですね、と冗談に紛らせようとする。
事故ですか、と雨音はそんな彼女の言葉に、一見動じた風もなく頷いた。そう、ありえない事故ではない――確率という話で言えば、可能性はいつでも存在する。
けれども。
「お、アニーさんだ。かなり久し振り?」
「ぁ、クラークさん。はい、お久し振りです」
考える雨音とは反対側から、不意に声をかけたクラーク・エアハルト(
ga4961)にアニーは慌てて向き直った。そうしてちょっとだけ、次に繋ぐ言葉に困る。
何となれば、クラークが纏っていたのは見事に全身を覆う装甲服。アニーがイギリスで所属していた部隊では、アニー自身だって似たような姿で訓練に勤しんだこともあるのだから、それを奇異だとは思わなかったが、訓練中に抜けてきてくれたのかな? とはちょっと思った。
そんなアニーの、解りやすいような解りにくいような表情を見るのも久しぶりですね、とクラークは肩を竦める。どうやら彼女はここ1年ばかり、イギリスで忙しかったようだから。
「さて、一仕事といきますか。思い出話は少なくとも、作戦が終わってからにしましょう」
「はい」
「あ、仕事はしっかりとやりますよ? 伊達にこんな装甲服を身に纏っているわけでは有りませんから」
「はい、よろしくお願いします」
くす、と笑ってクラークに頭を下げたアニーの、ぴょこんと揺れた三つ編みを見ながら雨音はそっとその場を離れ、少し考えて、アスへと歩み寄った。そうしてアニーには気付かれないように、さきほど彼女から聞いた『事故』の事を伝える。
もちろん、確率では雨音の身の上にだって起こりうることだ――けれども、その『確率上は起こりうる事故』が、イギリスに居た頃からずっと続いているとなると、話はまったく変わってくる。
それは、アスも同意見だった。
「偶然の事故‥‥ね」
「はい。どうもきな臭い感じが拭えません‥‥万が一の時は、アニーさんのこと、宜しくお願いします」
「解った」
心配そうな眼差しの雨音に、アスは小さく、だが力強く頷く。
『事故』そのものは、それだけを取り上げればどうって事はない。だが前からアニーが経験してる事と酷似してるというのは、気にするなと言う方が無茶だ。
これは本当に事故なのか? 事故の姿をした、アニー個人に狙いを定めた悪意なのだとしたら、イギリスのテロ組織とは全く別の『何か』なのか? ――本当に?
嫌な予感が、アスの脳裏を離れなかった。エドワードの言葉が耳の中で再び、こだまの様に繰り返される――餌は多い方が有効だと思わないか?
(本当はあの事件は、全部は解決していないんじゃねぇのか?)
ぎり、と奥歯を噛みしめて考えるアスと共に、同じく『事故』の事を聞いたロジー・ビィ(
ga1031)も強い瞳で、神撫やクラークと話すアニーを見つめた。
アニー達と一緒に、LHに来たばかりの彼女のために必要な物を買い揃えに行ったり、サーの散歩コースを探して歩いたのは、つい先日の事だ。それはとても楽しくて‥‥そして何より、平和だった。
他愛のないおしゃべり。店先の品々を指さしてはあれこれと話して、くすくす笑って、ちょっとしたハプニングもあって。
平和な、穏やかな――Halcyon Day。
(だけどアニー。狙われている可能性も、忘れてはいけませんわよ)
あくまであの日には何も起こらなかっただけで、アス達は商店街で気になる人影が去っていくのを見かけたという。それがまったく別の何かなのか、たまたま能力者達が傍に居たから諦めたのか、他に理由があったのかは、解らないけれども。
絶対に、護ってみせますわ。
ぎゅっと両手の拳を握り、ロジーは誓うように強く思う。何があっても、必ず。
とはいえ彼女達は今、見えぬ悪意からアニーを守るために集まっているのではなく、廃ビルに隠れ、現に人に被害をもたらしているキメラを退治するために集まったのだ。まずはこの、目の前の直接的な脅威を排除しなければならない。
幸い、炎西が買い取り主に交渉してビルの図面を手に入れてくれた。移動箇所はエレベーターが死んでいる以上、ビル中央部分を上下に貫く階段だけだ。能力者達は広げられた地図をそれぞれ、書き写したり、あるいは脳裏に刻み込もうとする。
それに加わりはしたものの、さらっと見るだけで戻ってきたアスに、アニーが不思議そうな眼差しを向けた。
「アスさんは良いんですか?」
「ん? オレは後詰のつもりだから、後でゆっくり見るさ。――殆どは慣れた奴ばっかりだし、俺がゾンビ兵に仕立ててやる必要もそうそうねぇだろ?」
「ゾンビ兵、ですか?」
アスの言葉に、くすくすと笑うアニーは彼の意図に気付いた様子はない。それでいい、とアスはシガレットのケースを探る。
まだ、アニーを誰かが狙っているのでは? という考えは今の所、確証を得ないただの憶測に過ぎない。恐らくはアニー自身もそれを予感しているだろうが、アス達に言うまでは、あるいは何らかの確証が得られるまでは、こちらからあえて護衛を主張できる話でもないだろう。
だから代わりにロジーにそっと、耳打ちする。
「ロジー。変わった物がないか見といてくれよ」
「勿論ですわ。アンドレアスこそ、アニーの事、頼みましたわよ」
こくり、頷いてロジーもアスへと囁き返し、ひらりと手を振って廃ビルの入口へと向かった。KEEP OUTのテープの向こう側では、心配顔の買い取り主が振り返り、振り返り、炎西の説得に従って少し離れた場所へ移動して行く。
それを見送るアニーの頭を、最後にぽふりと一撫でして、神撫もまた廃ビルへと向かった。アニーの新たな友人、雪島舞香は、仕事が終わった頃に様子を見に来てくれる予定だと言う。
(その時にでもこそっと、最近なにか起きてないか聞いてみたいな)
そう考えながら歩く神撫の足取りは、出来ればここに残って居たいんだけれども、とでも言いたげに見えた。
◆
まずは闇雲に踏み込む前に、廃ビルの外から炎西がバイブレーションセンサーで中の様子を伺った。淡い光に包まれる炎西を見守りながら、ルナ(
gc8107)はほんの少しだけ、不安そうな眼差しを廃ビルへと向ける。
これが彼女にとっては初めての作戦だ。もちろんここに至るまでに訓練を積みはしたけれども――いつも通りの動きが出来るのか。足手まといにだけは、なりたくないのだけれども。
きゅっと、唇を引き絞って周りを見回し、それからもう一度、ビルを見上げる。訓練通りにやれば、決して慌てず、冷静に、広く状況を見れるように努めればきっと、大丈夫。
そう、自らの内に言い聞かせるルナを含む、仲間達に炎西は、感じ取った結果を伝えた。少なくとも動いている存在は、ビルの中に7つ。大きさからして恐らくこれが、掃討対象になっているキメラだろう。
確認し、頷きあって能力者達は、二手に分かれて行動を開始した。もちろん、探知結果は外で情報整理と援護をするアニーにも伝えてある。
見取り図を確認し、表と裏から分かれて、ビルの内部に踏み込む。
事前にライフラインは止まっていると聞いていた通り、廃ビルの内部は電気などはまったく通っておらず、薄暗かった。窓からは幸い陽光が射し込んでいて、光が届く範囲ならば行動するのに不自由はなさそうだが、そこから外れると途端、夕闇のような暗がりが巣食っている。
「猿型で群れと言うことは、ボスが居るのでしょうか」
どこにキメラが潜んでいるか解らず、念のため、暗視スコープも装着して慎重に辺りを見回していたロジーが、ふと思いついたように呟いた。猿山のボス、という言葉があるように、猿というのはボスを中心に群をなして行動するものだ、という印象がある。
そう思いついたのは1つには、「どうだろうな?」と言いながら、視線の届かない暗がりや壁、衝立などを見かける度に荷物から、来る前に買ってきて、皮をむき輪切りにしてきたバナナを取りだしては、ひょいと投げ込むロジャーの姿を見ているせいもあるだろう。猿にバナナ。これまた、実に解りやすいイメージだ。
猿型キメラはバナナには食指が動かないのか、単にこのエリアにはキメラが潜んでいないのか、今のところバナナに惹かれて飛び出してくるキメラはいない。無線に耳を澄ます限り、別班も、そして外部待機の2人もまだ、キメラは発見していないようだ。
「罠などは――ないようですが」
雨音も十分に警戒を払いながら、手近なドアをそっと開けた。同時に何かが飛び出してきても対応出来るよう、素早く得物を構える。
どうせならすべてのドアを開け放してから廃棄してくれれば良いのに、ビルの中のドアの多くは、見事にしっかりと閉まっていた。だが相手が猿キメラである以上、閉まっているドアの向こうには絶対に居ない、とは限らない。猿であればドアの開け閉めくらい、簡単に行えるだろう。犬だってドアのタイプによっては、自由に開閉を行える。
時折、人の動く気配に合わせて、分厚く積もったほこりがふわりと宙を舞った。静まり返ったビル内部は、ほんのわずかな物音も驚く程良く響き、能力者達の感覚を惑わせる。
天井――物陰――机の陰――窓際――ロッカーの中――
廃ビルとはいえ、什器類の残されている部屋は猿キメラが隠れられそうな空間も多く、ロジャーのバナナもあっと言う間に尽きた。慎重に、十分な距離を持って暗がりをのぞき込み、あるいはランタンの灯りで照らし、または暗視スコープで探る。
「指揮個体らしき存在を見つけたら、優先撃破したいですね」
「まったくですわね」
「その前にさっさとお目にかかりたいもんだな」
「確かに」
せっかく、転職直後の実戦訓練もかねて、と思っていたのにこれでは力試しにもならない。そう、嘆くロジャーの言葉に、くすり、雨音が笑った。
こうも何も出てこないのでは、うっかりと警戒の糸が切れてしまいそうだ。けれどもその瞬間に襲ってこられるのが、一番のダメージになる。
無線に耳を澄ませた。どうやら別動隊も似たような状況らしい。やたらと探す場所が多いせいで、時間ばかりが過ぎていく。
ようやく、1階フロアのA班の持ち分の探索が終了した。B班はもう少しばかりかかるようだ。
炎西がこの間にとバイブレーションセンサーで、改めてキメラの動きを探って仲間に伝える。それをアニーにも伝えようと、ロジャーは無線を口元に運んだ。
「アロー、こちらロジャー。アニー、アンドレアス?」
『はいはーい』
そうして無線から聞こえてきた、相変わらず緊張感のない響きのアニーの声を聞く限り、どうやら外も平和らしい。
◆
『アロー、こちらロジャー。アニー、アンドレアス?』
「はいはーい」
実に緊張感のない応答をしたアニーが、ロジャーとの通話を終えるのを聞きながらアスは、紫煙を肺の底まで吸い込んだ。ふぅ、吐き出した煙を追う様に辺りのビルに視線を走らせる。
それほど見晴らしが良くはないが、見下ろす射線は幾つか想定できた。そのどれかにアニーを狙う誰かが潜んでいるかどうか、ここからでは解らない。
ならばなおの事、アニーをここから引き離すべきだがさて、どう言えば彼女をすんなり動かす事が出来るのか。キツ、紫煙を吸い込みながらアスは考え、考えながらアニーの「アスさーん、何か変わったことありましたー?」という問いに首を振る。
身を隠してこちらを狙えそうな障害物は、おおむね閉鎖エリア内だ。もっとも、その事実は若干の安堵をもたらす程度であって、完全に安心できるわけではない。
アニーが通信を切った。と、思ったらすぐにまた別の通信が入る。B班だろうか。
『アニー?』
「神撫。キメラが見つかった?」
無線から漏れてきた声に、アニーが色気も素っ気もない返事をしたのを聞いて、アスは危うくシガレットのフィルターを噛み切る所だった。だがここで何らかの、周りが期待するような反応を返すのならそもそもとっくにどうにかなってるだろうし、何より今は作戦中だ。
神撫はどうやら、クラークやセレスタに頼んでこの廃ビルの、恐らくはアニーの居る位置を狙撃出来るようなポイントを、割り出してもらったようだ。アニーが復唱で告げるポイントは、アスが見つけていた所もあるし、気付かなかった場所もある。
『外部から余計な茶々を入れられたくないから、注意しておいてくれるかな?』
「うん。外の警戒班に伝えておくね」
『よろしく。あぁ、あと――もしかしたら窓からキメラや、他の物とかが飛び出すかもしれないから。アニー達はもうちょっとだけ離れて、バックアップを頼めるかな』
「う、ん?」
神撫の言葉にアニーが、きょろきょろ辺りを見回す。その様子を見ながらアスは、新しいシガレットを取り出す。
悪戯にアニーを不安にさせたくはないし、真実は時として残酷だから、訊かない事が優しさとなる事もある。だから今の所、アニーに対して問い正すようなことはしないけれど。
(知らずに踊らされるのも、知らずに傷つけるのも御免なんだ)
アニーの、エドワードの、他のたくさんの誰かが、アス達には隠していること。アスはそれが気になる性質だし、なにより知らぬが故に不用意な轍を踏みたくない。
知らないからこそ、優しく振る舞える事も、心穏やかで居られる事もあるけれど。それらすべてをねじ伏せて、その向こうにある真実を、この手に。
幾つかの言葉を交わし、アニーは神撫との通話を聞いた。そうしてくるり、アスを振り返る。
「アスさーん。移動、大丈夫ですか?」
「ああ。カンナがわざわざ言ってきた位だから、なんかあんだろ」
アスはそう嘯いて、辺りを最後にぐるりと一瞥し、さりげなくアニーをエスコートしながら、恐らく安全と思われる敷地の隅へ足を向けた。彼の勘によれば、理由なんて1つしかないだろうが。
◆
ぷつ、と無線を切って神撫は安堵の息を吐き、クラークを振り返った。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ。もう良いんですか?」
礼を言って借りた無線を返してきた神撫から、受け取りながらクラークは装甲服の向こうで軽く、肩を竦める。
ビルに踏み込む直前、どこかそわそわとしていたと思ったら、神撫はおもむろにクラークとセレスタに「このビルの狙撃をするとしたら、どこからでしょうね?」と話を振って狙撃ポイントの割り出しを依頼した。そうしてクラークに無線を借りて、その結果と簡単な現状をアニーに伝えたのだ。
少し離れた場所では、不思議そうな顔をしているルナにセレスタが「色々とあるんですよ」と生温かい笑顔で頷いている。そんな3人の視線をひょいと肩をすくめて交わし、神撫は手の中のグラジオラスに視線を落とす――ぎゅっと、その握りを確かめる。
何しろ作戦中なのに、最後までどこか元気のなかったアニーの方が気になっていまいち集中しきれずに居るだなんて、言えるわけがない。プロとしてという以前に、そんな事を言おうものならそりゃあもう、全力でいぢられるに決まってる。
だから神撫は小さく深呼吸をして、手の中のグラジオラスに意識を注ぐ。グラジオラス、その名の由来となった花の持つ意味は『情熱的な恋』。
「神撫さんの用事が終わったなら、一気に制圧してしまいましょう。A班は合流ポイントまで到達したようです」
「そうですね。後はまた、ゆっくりとコーヒーでも飲みながら話しましょうか? 腕によりをかけますよ」
「――楽しみにしてます」
「が、頑張り、ます!」
不意にわざとらしい真面目顔を作ったセレスタと、見えないが恐らく同じような表情になっているだろうクラークの台詞に、神撫は唇の端を引きつらせながら当たり障りなく頷いた。ルナも、こちらはあくまで真面目にこくりと、キメラ討伐を誓う。
そうしてジリジリと、だが最高速度でビル1階の担当エリアを制圧したB班は、すでに階段の所で待っていたA班と合流し、続け様に2階の制圧に取り掛かった。ここまでの所、ひとまず罠などは仕掛けられていなかったが。
(油断せずに、最後まで依頼をやり遂げてこそ成功ですからね)
小脇に抱えた重機関銃のずっしりとした重みを感じながら、クラークは自らに言い聞かせる。与えられた情報から判断すれば、歴戦の能力者が揃っているのだから取るに足りない相手だが、それでもどんなトラブルがあるか解らない。
2階エリアは1階以上に、残されている什器も多く、猿キメラが潜んでいそうな場所も多かった。先頭を神撫が行き、その後ろにルナがマシーナリーボウを構えながら続き、その後ろをセレスタとクラークが固める。
戸棚――カーテンの陰――天井――衝立の向こう――
「こちらB班。2階クリア、敵の姿は確認できません」
『こちらA班。同じく敵は確認していませんが、バイブレーションセンサーではそろそろ近いようです、3階が危険かもしれません。まずは合流地点で』
「了解」
担当エリアを最後まで虱潰しに捜索した後、廊下の突き当たりでセレスタが無線で報告すると、通話に出た炎西がそう言った。漏れてきた声を聞いていた残る3人がそれに頷き、再び階段へと向かう。
その途上で、ふいに、何かが動く影が見えた気がした。
「――さて。お喋りはこれくらいにして、仕事に取り掛かりましょうか?」
「上階から降りてきましたか」
がしゃ、と重機関銃を構えたクラークの言葉に、セレスタがひょいと肩を竦める。別に階段を封鎖しているわけではないので、捜索中にキメラが移動してきていても不思議はない。
無線で続け様に、A班とアニーにその旨を伝えた。キメラはすでにこちらに気付いており、身体を低くして飛びかかる隙を狙っている。
「仲間、呼ばれたら厄介ですね」
「‥‥はい」
神撫が同じく構えながら叩いた軽口に、ルナが弓で狙いを定めながら固い表情で頷きを返した。初陣で緊張しているのだろうと、微笑ましく感じる。
落ち着いて狙いを定め、隙を見計らい、一気にキメラに向かって走り出しながらふと、思う――キメラが降りてきたのは、2階までなのだろうか。
◆
もし、と思っていた。もし商店街でのように、不審な人影を発見したら今度は絶対に逃がしたりしない。捕まえられなくても、可能な限り特定したい。
「ぇ? はい、B班交戦中ですね。了解」
「猿が見つかったのか?」
プツ、と無線を切るアニーに尋ねると、頷きが返る。なるほど、と廃ビルを見上げた。どこかの誰かが張り切りすぎて、壁をぶち抜いたりしなければ良いのだが。
不意にぺたり、足音が聞こえた。ハッ、と振り返るとそこに、瞳に明確な敵意を漲らせた大柄な猿が居る――こんな所に現れる猿が、普通の猿であるわけがない。
「アニー!」
「わわッ!」
どうやら能力者達の包囲網の中から1匹、逃れ出てきたらしい猿キメラは、次の瞬間には地を蹴って弱そうと見て取ったアニー目掛けて襲い掛かった。間一髪、その進路に割り込んで盾になったアスの頬をガリリと思い切り引っかいていく。
弾みで眼鏡が弾き飛ばされた。さすがキメラと言うべきか、ただの一撃でしっかりと出血をもたらす猿に舌打ちしながら、アスは猿を振り返り、狙い定めて引鉄を引く。
「ギャンッ!」
「悪く思うな‥‥よ‥‥?」
悲鳴を上げて逃げ出したキメラに、嘯きながら次の一撃を加えようとした所で、くらり、眩暈がした。アスさん? と心配そうなアニーに手を振り、ギリ、と奥歯を噛み締めてもう1度、引鉄を引く。
僅かに体力が吸い取られたような、麻痺したような感覚。キメラが動かなくなったのを確認し、ふぅ、と大きく息を吐いた。そうして「大丈夫ですか、アスさん」と尋ねる言葉に、当たり前だと嘯いた。
彼らを見つめている瞳を感じるが、振り仰いだ工事現場の上は逆光になっていて、見えない。
◆
最終的には、このビルが貸しトランクルームとして生まれ変わるのに大きな支障さえなければ、什器類や壁などは破壊しても構わない、と言われている。ゆえに能力者達は、ついに現れた猿キメラを相手に、建物内と言うハンデを負いながらも、積極的に打って出た。
「ボスらしき個体は見当たりませんわね」
「どこかで指示を出している可能性もあります」
ダンスでも踊るように優雅に、だが確実に二刀小太刀を操って猿キメラを退けるロジーのため息交じりの言葉に、雨音が冷静な眼差しで射線を計算し、拳銃で狙いを定めながら告げる。先ほどB班が遭遇したキメラは1体、通信によれば外でもアスが1体退治したらしい。そして今、A班が交戦しているキメラが2体――単純にバイブレーションセンサーで把握しただけでも、都合、あと4体は存在する。
先の教訓を受けて、階段はすでに封鎖した。1階からの探索を改めて行って、他の個体が降りていないことも確認している。これ以上はビルの外に取り逃がす事はないだろう。
後は内部のキメラを倒すだけだが――炎西が考えている間にも、新たな固体が天井から降ってきた。鋭い爪の攻撃をグランキオで受け流し、ロジャーも「やっと力試しの時間だぜ」とばかりに遠慮なく力を振るう。
そうして同じ頃、B班もまた4階エリアで、手当たり次第に残されている空のバインダーファイルや、パイプ椅子や、その他の様々な物を投げてくる猿キメラ2体と交戦していた。そこまで重大なダメージを受けるわけではないが、ひっきりなしに物が飛んでくる状況は、何とも面倒くさい。
「一気に打ち抜けば済むんですけどね」
「この状況で打ち抜いたら多分、窓の向こうに落ちますね‥‥」
破れかぶれなのか、作戦なのか、窓際に陣取るキメラを前に、クラークとセレスタがため息を吐く。残念ながら窓ガラスは、能力者とキメラの本気を受け止めきれるような強化ガラスではない。きっちりトドメを刺した後なら構わないが、万が一仕留め損ねていたら、逃がしてしまう可能性もある。
そんな厄介な、というにももう少しばかり単純な疲労を覚えながら、能力者達は確実に出会ったキメラを撃破し、上へ、上へと進んでいった。5階部分を完全に制圧した段階ですでに、倒したキメラは7体になったが、まだ屋上階が残っている。
改めて炎西がバイブレーションセンサーを使い、屋上階にもまだキメラらしき存在が残っている事を確かめた。先ほどは引っかからなかったのは、動いてなかったのだろう。
他に不審な存在は、効果範囲内には少なくとも――
(いえ、これは――隣の建築中のビル?)
大きさからして恐らく人間だ。最上階のクレーン部分から下に向かって移動しているようだが――工事現場の人間が、軍から退避命令が出ているものの、何か用事があってやって来たのか。
だがそうやすやす、軍による閉鎖区域に一般人が入り込めるのか。気になりはしたものの、今は目の前のキメラだった。
慎重に屋上への階段を登り、踊り場へと上がる。屋上へ続く鉄の扉は僅かに開いていて、外からそろそろ冷たくなってきた外気がビルの中へと吹き込んでいた。
互いに、頷き合う。
そうして、8人の能力者達は一切の油断をせずに屋上へのドアを蹴り開けて、そこに潜んでいたひときわ大きな猿キメラに――否、この大きさはすでにゴリラと言っても良かったが、呼び名などささいな事だ――向かって、一斉に攻撃を開始した。
◆
「どうやら片付いた様ですね」
間違いなく、どこにもキメラの生き残りが残っていない事を確認して、セレスタはやっと安堵の息を吐いた。そうですわね、と頷くロジーはまだ、きょろきょろと辺りを見回しては、じっと観察している。
たまたまキメラが潜んでいたビルの隣で、たまたまアニーが『事故』にあったのはいかにも胡散臭い。だからこの作戦すら、見えない『誰か』の企てではないかと思ったのだがどうやら、不自然にキメラを惹き付けたり、その他の人為的な工作の後は見当たらないようだ。
偶然なのだろうか。それとも、必然なのだろうか。思いながらロジーとセレスタは肩を並べて、ビルの外に出る。一緒に見回りをしていたロジャーは、改めて戦闘の後を見て、AAって結構破壊力あるんだなー、と何度も頭を振っていた。
そうして出てきた3人を、出迎えたのは香ばしいコーヒーの香り。近くのビルの簡易キッチンを借りて淹れてきたクラークが、どうですか? と尋ねてくる。
それに頷いた3人のために、新たにコーヒーカップを用意して注ぎながら、クラークはさりげない調子でアニーに声をかけた。
「アニーさん。何か、考え事ですか? それか悩みでも?」
「え?」
その言葉に、ぼんやりと工事中のビルを見上げていたアニーはぱちぱちと瞬きをして、それから小さく笑って首を振る。そんなアニーの頭をまたぽふぽふと撫でた神撫が、それから軽く彼女を抱擁したのを見て、ロジーは一先ず、アニーに抱きつくのは彼に譲る事にした。
礼儀正しく見て見ぬ振りをしながら、受け取ったコーヒーの香りを楽しむ。そうして顔に引っかき傷を作ったアスの隣に座り、彼の奮闘を労った後で「アンドレアスのエスコートっぷり、拝見したかったですわ!」とくすくす笑う。
それにニヤリと笑ったアスは、隅の方でちんまりとコーヒーを啜っているルナを見てから、それで、とロジャーに視線を向けた。
「お前はそれをどうするつもりなんだ」
「いや、キメラとはいえ猿だしさ。どうせだから、中華料理屋に売りに行ってこようかと」
猿の脳味噌って高級食材だしさ、とケロリとした顔で倒したキメラの、頭部が無事な物を選んで肩に担いでいるロジャーに、炎西がぴくり、と反応した。中国出身、しかも自給自足をしていた彼としては、滅多に巡り会えない高級食材は心惹かれるものがある。
だが、ふる、と炎西は意思の力で首を振り、ロジャーから目を逸らした。
(‥‥いや我慢せねば。恋人に引かれそうだ)
それ以外にも色々と問題はありそうな気がするが。
くすくすと、笑いの気配が能力者達を満たす。その中で、やはり礼儀正しく神撫の腕の中のアニーを見て見ぬ振りをしながら、セレスタが穏やかに呟いた。
「‥‥アニーさん、あまり根を詰め過ぎてはいけませんよ」
ここには、彼女を守り、力になりたいと願う友人達がたくさん居るのだから――そう、胸の中で呟いた言葉が聞こえたように、はい、とアニーは小さく頷いた。頷き、暖かな腕の中でまた、廃ビルを見上げた――終わった頃に来ると言っていた、舞香はまだ姿を見せない。
ちなみに、実はとっくにKEEP OUTのテープの向こうに居た雪島舞香が、そんな能力者達の、主にアニーの様子を見ていつ出て行けば良いのか真剣に悩んでいたのだが、それはまた別の物語である。そして、近くの中華料理屋に猿キメラを持ち込んだロジャーが、キメラと聞いた瞬間に断られて中華料理屋を追い出されたのは、語るまでもない話だ。
◆
お世話になりました、とずっしり重そうなボストンバッグを手にやって来た男に、ジョージは複雑な眼差しを注いだ。遠くにはまだ無骨な姿を晒している建築中のビルがある――彼が先日まで現場監督を務め、そうしてこの男が働いていた建築現場だ。
けれどもジョージは現場監督を解雇され、この男もお払い箱になった。彼が操作していたクレーンが、ロープが切れて鉄骨を落下させるという事故を起こし、その責任を問われたのだ。
「次は決まってるのか?」
「いえ――のんびり探します」
尋ねれば、男は無愛想に首を振る。そうか、と頷きジョージはまた、かつての職場へと眼差しを向ける。
男2人、しばらくそうして無骨な鉄組みを眺めた後、そろそろ行きます、と言った男の肩をジョージはぽん、と叩いた。その拍子に男の肩に、四角い楽器ケースがかかっているのに気付いて目を細める。
よほど大事なものらしく、この男はこの楽器ケースを現場にも持ち込んで大切にしていた。聞かせてもらった事はないが、1度だけ、中身の不確かなものを現場に持ち込ませるわけにはいかないからと蓋を開けさせて、中に入っていた楽器を――あれはトランペットだろうか――見た事がある。
ついに一度も聞かせてくれなかったな、と思った。だがそれには触れぬまま、ジョージは「またな」と男を送り出し、男は「また」とLHの街並みへと姿を消す。
そんな男の背中が消えるまで見送って、ジョージもまた、新たな職場へと向かったのだった。