●リプレイ本文
空を見上げれば、飛んでいく蝉が見える。それに、都会から離れた山の中で目を細めたシャロン・エイヴァリー(
ga1843)は、くるり、鏑木 硯(
ga0280)を振り返った。
大規模作戦前の休暇の今日、やってきたのは夏の空気を満喫する為で。降りしきる蝉の鳴き声の下、あちこちから感じる夏の息吹、地上の鼓動とでもいうべきそれを、身体いっぱいで受け止める。
「何だか『俺は今日を生きてるぞー』ッて叫んでるみたい」
「ホントにそうかもしれませんよ」
シャロンの言葉に、硯が笑う。日本語で蝉時雨と呼ぶこの声もまた、宇宙服がなくては外も歩けない宇宙にはあるはずもないもの。
道から少し離れた場所を、流れる川の水は冷たい。もう少し上ったら、川原に降りて沢を登ろうと言った硯に、シャロンが目を輝かせる。
そこから遥か離れた日本の公園にいるその男は、はっきり言えば不審者そのものだった。誰もがただ外に居るだけで汗をかかずには居られないというのに、この炎天下で黒のシングルスーツに皮手袋、ロングマフラーといういでたちで、汗一つかかず座っているのだ。
だが当の玄埜(
gc6715)は気にした様子もなく、風通しの良い木陰のベンチでぼんやり、蝉の声を聞いている。スケジュールを調整し損ねて、うっかり次の予定まで暇が出来て、しまって。
(吹く風にも秋の気配が漂いつつあるな‥‥)
見上げた空に、思う。盆も過ぎたにも関わらず、まだまだ暑い日が続き――けれども確かに次の季節はやってきているのだと。
視界を過ぎ行く精霊蜻蛉を見送った、公園から遥か離れた森の中で、「あ〜♪」と賑やかな声が上がる。
「あんな所にいた〜♪」
「ほんとだ。けっこう高いな」
キョーコ・クルック(
ga4770)の言葉に、眼鏡の奥の目を汗でしぱしぱさせながら狭間 久志(
ga9021)は木を見上げた。どう頑張っても虫取り網は届かなさそうな、遥かな高みに鳴く蝉の姿がある。
うーんと悩んで、久志の肩車の上で、キョーコが網を構えた。そうしてキョーコの指示の元、ともすれば木の根に足を取られそうになりながら、右へ、左へと場所を変え。
「まだ、か?」
「ん〜‥‥ちょっと右‥‥いきすぎ〜‥‥そこ〜♪」
流れてくる汗に視界を奪われそうになりながら、問いかけた久志にじっと蝉を見ていたキョーコがえい、と網を大きく振るった。と、拍子にバランスが崩れてしまう。
「わわわ‥‥ッ!?」
「ちょ、キョーコ、暴れな‥‥ッ!」
バターンッ!
2人の悲鳴と、派手な転倒音が蝉の鳴く森の中に響き渡った。土と落ち葉にまみれ、いったぁ、と二人でぶつけた場所をさすりながら、はっと気付いて投げ出した網を見れば、逃れられずにもがく蝉が1匹。
それに、顔を見合わせた。ぷっ、と同時に噴出して、ぱたぱたお互いの土を払いながら立ち上がる。
降る様に鳴く蝉の音を、蝉時雨と最初に名付けたのは果たして誰なのだろう。全身に降り注ぐ蝉の声を感じながら、セシリア・D・篠畑(
ga0475)は静かに瞳を閉じて、耳を傾けた。
蝉時雨が、聞こえる。――蝉時雨しか、聞こえない。
そうしているとまるで、セシリアという存在が溶けてどこまでも広がっていくようだった。蝉の音に、足元から這い上がる暑さに、木陰の涼しさに感じる夏は、優しい。
(あなたも‥‥どこかで、蝉時雨を‥‥聞いてる‥‥?)
遥か遠い夏の日々、大切な人々と過ごした奇跡の様な、当たり前の様な日々を、想った。蝉時雨と共にかけがえなく蘇るそれは、忘れてしまいそうに遠くて、けれどもあの頃から変わらないものも、ある。
変わらない――否、あの頃より遥かに深く、何時でも胸の中で想う、あの人。セシリアの愛しい、愛しい‥‥大切な、親愛なる‥‥
そうして見上げた空の彼方を、同じく見上げたアンドレアス・ラーセン(
ga6523)はギターを爪弾く手を止め、汗を拭った。故郷ではとっくに涼風の吹いている季節だから、この時期、まだこちらでは暑いのだという事をつい忘れてしまう。
それでも木陰はまだ涼しい。頭上で啼く蝉はどこか、夏を惜しんでいるようにも思えた――もうすぐまた、季節が変わる。北米戦域地図やら、追っている依頼の情報やらに囲まれ、斬った張った以外はインドアに過ごしていた間に。
出て来て良かったと、小節を爪弾きながら思った。前に作った、夏に捧げる曲の断片。欠片を拾って集める様に、心のままに爪弾いていると、考えがクリアになる気がする。
(そもそも、どこから始まってたんだろう、な)
思い出す、あの日。ボランティアに行った先の戦場で死んだ、幼馴染からの最後の電話。アスはそれに出ず、そうして永遠に話す機会は失われ。
その罪悪感だけで、この5年間を飛び続けた。それはすでにアスの中に深く根付き、習い性になっている。それを――今更変える事など、出来るのか――
考えながら、アスはギターを爪弾き続ける。哀愁ある古いメロディが、夏の空気を震わせる。
●
決戦が迫っている。バグアと、ヒトとの――それを思うたび、鐘依 透(
ga6282)は恐怖を覚えるのだ。
皆で生きて帰って来れるのか。LHで出会った隊の仲間や友人たちは、そうして最愛の恋人は――?
(もう‥‥大切な人達に置いていかれるのは‥‥好きな人を失うのは‥‥嫌だ‥‥)
皆のことは信じてるけど、それだけで恐怖は消えない。かつては死にたがりだった自分が、今更に死を恐れ、失う事に怯えるなんてと、思う。
母さん、と胸の中で囁きかけた。この場所で皆と一緒に生きたいと、失いたくないと願うのは、恐ろしくて、重くて――
「透さん」
「‥‥うん」
蝉時雨の下、手を繋いだ九条院つばめ(
ga6530)に頷き、握った手に力をこめる。ここはけれども、こんなにも、温かい。
そこから遥か離れた山中では、ようやく辿りついた小さな滝の上で、華やかな水着に着替えたシャロンが「硯ー!」と手を振っていた。それに手を振り返す硯もまた、水着である。
「行っくわよー!」
叫び、岩場を蹴ってシャロンが身を躍らせたのは、十分な深みのある滝壺。派手な水飛沫が上がり、深く沈んだシャロンは、けれどもすぐに満面の笑顔で浮かび上がってきた。
そうして泳ぎながら近付いてくる、シャロンに手を差し伸べながら硯は尋ねた。
「どうですか、シャロンさん」
「Exciting! 川で飛び込みなんて初めてだけど、海とはまた違うわね。硯も行ってきたら?」
笑顔のシャロンに促され、それじゃ、と硯もまた滝上の岩棚に上る。見下ろせば、シャロンが笑顔で手を振った。
振り返し、えい、と身を躍らせて沈んだ滝壺の中、視界を過ぎった小さな魚の姿に頬を緩ませる。あとで綺麗な石がないかも探してみよう。
冷たく浅い川を遡って、すっかりお腹の空いた2人の昼食は、シャロンの手作りサンドイッチだった。それだけでも幸せで、本当に楽しみにしていたものだから、現物を見た時にはつい感動してしまったのは、ここだけの話。
「すごく美味しいです」としっかり味わいながらも次々頬張る硯に、シャロンは嬉しそうに笑っていた。夏生まれだからか暑い方が調子が良い、と言っていた彼女だったけれど、そのせいかすごく楽しそうで、硯はそれも嬉しい。
せっかくだから次は一緒に飛び込んだり出来ないかな。そう思いながら水面へと浮かび上がると、待っていたシャロンが当たり前に手を差し伸べてくれる。
そんな楽しげな山間から遥か離れた鶴亀神社の境内は、けれども自然が多いせいだろう、山に居るのと遜色ないような光景で、そうして蝉の鳴き声も大きい。耳を傾けながら縁側にごろりと転がる猫達を見ていたら、ふと石動 小夜子(
ga0121)は、かつて目の前に誇らしげに蝉の抜け殻を持ってこられた事を思い出した。
褒めて欲しかったのは解るけれども、さて、あれをどうするつもりだったのか。ネズミやモグラを持って来られた時も、やっぱり困ってじっと見つめ合ってしまった。
とはいえ狩の得意な子が揃っているようだと、目を細めて猫達を眺め、また蝉時雨に耳を傾ければ、入り口の方で声がする。
「小夜子さーん! 遊びに来たよー!」
「石榴さん」
賑やかな親友・弓亜 石榴(
ga0468)の声に、小夜子は微笑み立ち上がった。出迎える為、石榴の居る境内の方へと、廻る間にもひっきりなしに鳴く、蝉の声。
ずっと蝉の声だけを頼りに、右へ左へと森の中を歩いていれば、けれども疲れてしまう。何匹か蝉を捕まえて、そろそろ休もうと荷物を置いていた小川まで戻ってきた久志は、扇子でばたばた扇ぎながら、眼鏡を取ってシャツの肩で汗を拭った。
いちいち取って拭くのも面倒だと、少しうんざりする。そんな久志にころころ笑って、キョーコがしなやかな足で水を軽くかき混ぜた。
つん、と川辺に並んで座る久志の足をつつくと、暑さにちょっとだけ焦点の合わない眼差しが返る。それにまた笑うと、久志が変わった瓶をくれた。
「ラムネって日本で独自に普及した飲み物だからなぁ‥‥キョーコ開け方わかるかい?」
「ん‥‥? ラムネ?」
きょとんと首をかしげたキョーコに、自身の瓶のガラス玉を押し込んであけて見せると、本気で目を見張って驚くのが面白い。そうして不器用ながらも無事に瓶をあけ、嬉しそうに口をつけたものの今度はガラス玉が逆流して上手く飲めない、キョーコを笑って見守った。
英国から入ってきたレモネードが原点らしいが、ラムネは日本の夏の風物詩だと、思う。せっかくだからと小川の水で冷やしておいたのだが、正解だったようだ。
夏らしい思い出。戦いの続く最中、そんな暇はないと言われればそれまでかもしれないけれど――そういうものが1つくらいあった方が、後で振り返った時に寂しくならずに済むのかも、知れない。
虫かごの中には、時々思い出した様に鳴く、蝉。
「子供の頃に蝉取りした時は、アブラゼミばっかり取れたんで、羽の透明なミンミンゼミとかツクツボウシとかが取れると、嬉しかったな」
「そうなんだ? 色んな蝉がいるんだね〜」
大きな麦藁帽子をしっかりと被り直しながら、キョーコが笑って虫かごを見下ろした。運動不足かな、と久志がぼやいたけれども、夏の終わりとはいえこの暑さでは、まだしばらく動けそうにない。
それでも日本の四季は良いものだと、少し離れた公園で花=シルエイト(
ga0053)は目を細めた。右には、愛する宗太郎=シルエイト(
ga4261)。いつも同じ季節ではなく、移り変わり色々な顔を見せるその中で、季節毎に変わる草花や虫達も自分達と同じように、生きているのだと実感できる。
時と共に移り行くからこそ――その命の儚さと共に、その価値を知れた。降る様に鳴く蝉の声だって、煩いと思う人も居るだろうが、でもこの声を聞けるのは今だけなのだ――
花は、そう思う。思い、傍らの宗太郎の手に手を重ねる。
「宗太郎クン‥‥?」
「ん‥‥」
手に触れたぬくもりに、宗太郎は小さく頷いた。そうしてまた、蝉の声に思いを馳せる。
2年前の、夏。蝉の煩い九州の山奥の戦場で、バグアに奪われたある村を取り戻すと、村人と交わした約束を果たす為に戦っていた――あの頃の自分は、今から思えばまだ多少は純粋で、真っ直ぐで居られた気がする。
けれど――瞳を伏せる宗太郎に、そっと花は寄り添った。まだ1人だった頃は、周りも見えずただ生き抜くために必死になり過ぎて、季節の移り変わりにも気付けなかったけれど。
今はいつでも、隣には彼が居る。だから花は心にゆとりが持てて――だからこそ、彼の支えにもなりたいし、彼に悩みがあるのなら解決したいと、願う。
けれども、次第に暮れ行く街角を歩くロジー・ビィ(
ga1031)の心に、まだ余裕は、ない。蝉の声に促されるまま、歩く彼女の頭に過ぎるのは、先日の夏祭りの夜にアスに告げた告白とでも言うべきもの。
(どう、思われたのでしょう)
あの瞬間の、あの顔が忘れられない。良き仲間であり、良き友人であったロジーから告白された気持ちは、どんなだったのだろう。
考えれば考えるほど、暗い予感ばかりが胸を過ぎる。そのせいか、鳴く蝉の声もどこか物悲しく感じられて――ふと、蝉も夏の終わりを感じているのだろうか、と思った。
夕暮どきでもまだ暑い街角に、陽炎が揺らめく。アスとの結末を待つロジーの心もまた、何かが終わろうとしている事を予感している。
夏の夕暮は、遅く、長い。それを知ってか比較的遅くまで響く蝉時雨の、なごりを楽しみながら遠倉 雨音(
gb0338)は浴衣の裾を翻し、急いだ。紺地に鮮やかな花火の咲くそれは、以前に六甲でやろうとしたデートのやり直しも兼ねた夏祭りの為。
もう恋人は、藤村 瑠亥(
ga3862)は来ているだろうか。アメリカでの大きな戦いが終わったと思えば、直後に宇宙での大きな戦いが発令されて、休むも間もない中で運よく2人揃って取れた貴重な休日。少しでも長く彼と過ごしたいと、思うのは自然なことで。
そんな雨音の到着を待ちわびていた、瑠亥が彼女に、そうして浴衣に目を細める。
「その浴衣、似合ってるな」
夜空に華やかに咲く花火の柄は、けれどもどこか奥ゆかしさを感じられた。それが似合うと照れながら褒めれば、はにかむ笑顔が返ってくる。
そうして2人、ゆっくりと祭り会場へと歩きながら、言葉を重ねた。蝉が賑やかだとか、夕方になると少し涼しいだとか。
けれども、さすがにまたキメラが出てきたりはしないだろうと思いつつ、心のどこかで身構えている自分が居る事に、雨音は気付いて苦笑した。そうして紡ぐ話題もいつしか、当たり前のように次の大規模作戦――文字通りの決戦になるであろう戦いの事になっていたのに、気付いてまた苦笑。
「こういうのを職業病と言うのかもしれませんね?」
「そう、だな‥‥せっかく来たのに、な」
雨音の指摘に、気付いた瑠亥も苦笑した。そうしてすっと彼女に手を伸ばす――せっかくゆっくりと休めて、彼女と共に在れる時間を楽しまなければ。
その手に、雨音の手が重なった。そうしてまたゆっくりと、祭の喧騒へと歩き始めた。
●
辺りが夕暮に染まっても、蝉の勢いは衰えない。ちりん、と僅かに涼を含んだ風に吹かれて、風鈴が涼やかな音を立てる。
扇風機の前に陣取っていた石榴が、あ、と目を輝かせた――扇風機の前で声を出した時のあの、何とも言えないぼわっとした響きの声で。
「そろそろ涼しくなってきたのかな?」
「ふふ‥‥まだもう少し、でしょうか。ね、太郎」
風の通る縁側に居た小夜子が、水浴びをさせてやったからかいつもよりはすっきりした顔の愛犬に声をかけると、尻尾が激しくぶんぶん振られる。その通りと言っているのか、もっと水浴びをしたいとねだっているのか。
ふふ、と微笑んだら、四つん這いでぺたぺた張ってきた石榴が小夜子の隣にごろんと転がり、同じように伸びている猫の腹をもふもふ撫でた。1人首を振る扇風機の横には、食べ終わった西瓜の皮。
「石榴さんは、何もかけないんですね」
「うん。甘いのも物足りないのも、それはそれでスイカの個性かなーと思うから、あえて何もかけない派」
小夜子さんは? と尋ねられて微笑む、他愛のないひと時。幾度も神社に遊びに来ている石榴は、冷蔵庫の麦茶の場所や、冷凍庫のアイスの場所も良く知っていて、まるでずっとここで暮らしてきた様だと、思う。
とはいえ、あまり冷たいものを食べ過ぎるとお腹を壊してしまうし、けれども夏バテをしても困ってしまうし。本当は、スタミナのつくものを出すと良いのだけれど。
「お夕飯にお素麺、茹でますね。‥‥ウナギ等は、平和になった時の楽しみに取っておきましょう」
「うん、よろしく♪」
石榴は遠慮なくそう言って、起き上がると太郎に手招きした。ぱっと顔を輝かせて走ってくる大型犬を、ふさふさの毛を掻き分けぱたぱた扇いでやると、嬉しそうに目を細めている。
来年も再来年も、ずっとこうやって皆でのんびり過ごせれば良いねと、言ったら台所の小夜子が「そうですね」と笑うのが聞こえた。ずっと、ずっと。この蝉時雨の下で、変わらず――
そう、願っているからこそ恐れが強くなるのだと、透は自覚していた。ほんの少し逸れた小道の傍らに立つ、不思議なほど静寂な茶屋。緋毛氈のかかる長椅子の上で、一休みしようと座ってから、お茶が来てしばらく経つというのにどうしても、繋いだつばめの手を離せない。
ごめんと、呟いた。きっともうお茶は冷めている。飲まなきゃ、いけないのに。
「その‥‥もう少し‥‥このままでいても、良い、かな‥‥」
「大丈夫‥‥。透さんの気が済むまで、こうしてますから、ね」
蝉時雨の下、つばめは微笑みきゅっと透の手を握り返した。そうして何も言わないで居てくれる彼女に、安堵する。そんなつばめだからこそ、透は意地を張り続けられなくて。
ぽつり、蝉時雨の中に零すのは、消えない不安。恐怖。その全てを雨の様にただ、零す。
それを、つばめは静かに受け止めた。それは正しく、彼女自身もまた抱いている不安であり、痛みであり、恐怖でもあったから。
――透と出会った時の事は、正直な所、それほど覚えては居ない。気付いたら彼は近くに居て、気付いたら彼に愛おしい気持ちを抱いていて――そうしていつもその優しさで見守っていてくれたから、ただの小娘に過ぎないつばめはここまで歩いて来れた。
だから、時々、不安になる。そんな透が居なくなったら、自分はどうなってしまうのだろう――そう、怯えて、恐れている。
こつんと、傍らの互いの肩に寄り添い合い、頭を預け合った。どちらもが抱いている痛みは、けれどもひどく尊く、愛おしい。
共に生きようと、生きたいと、願う。誰もに死んで欲しくないし、誰もを失いたくないから死にたくない。そんな我侭で、当たり前の原初の感情。
そっと、空いた手の小指を絡めた。
「‥‥必ず、生きて帰って来よう‥‥約束」
「――はい。約束です」
そうしてまた蝉時雨に沈む、恋人達とは違う街角でふと、ロジーは耳慣れた6弦の音に気付いた。それに吸い寄せられるように足を向けたのは、その先に居る相手を予感していたからで。
予感、そして希望。それは『彼』の姿をとって、よう、とロジーに声をかける。
「‥‥座るか?」
「‥‥ええ」
頷き、平静な顔のロジーが傍らに、ほんの少しだけ距離を置いて座るのを見て、アスはまた弦を弾く。よく見れば、平静を装っているだけなのは長い付き合いだ、解った。
けれどもそれを指摘する無粋もないだろう。それに何より、アス自身がまだ迷っている――そろそろカタをつけなければと、自覚しているにも拘らず。
「ちと、関係なさそげな話なんだけど。聞いて貰っても、いいか」
だから、切り出した。弦を弾きながらずっと、考えていたこと。――心のどこかでロジーが来る事を、知っていた気がするから考え続けていたこと。
頷くロジーの顔が、ほんの少し強張った。それに小さく、笑う。笑い、己を嗤う。
「俺は一度、全部諦めたんだ」
目の前で、たくさんの命が失われた。そのたび、もう少し何か出来たんじゃないかと最善を考え、悩み、苦しむのに精一杯で――けれども同時に、そうして誰かの為に血を流す方が楽だったのだ。
この手には何も残らなくて良い。自分の為の何かを望んで手に入らない位なら、最初から諦めてしまった方が良い。誰かの為に戦い傷つく方が、ずっと良い。
それは逃げだと、アスにはけれども解っている。解っていて、それでもまだ、自分の為に何かを望むのが、怖い。――思えば黒髪の少年も、銀の猫も、アスが最初から諦めているのがどこか伝わったから、手に入らなかったのだろう。
――だから。
「もうちょっとだけ、待ってくれ。夏が終わったら…最後の戦いが、終わったら」
「ええ。‥‥大丈夫ですわ、アンドレアス」
弦を弾く手を止めて、真っ直ぐロジーを見たアスの眼差しを、真っ直ぐ受け止めた。受け止め、何故かそう告げた彼が泣き出しそうな錯覚を覚えてそっと、彼の頭を抱く。
どんなアスも受け入れると、ロジーは決めたのだ。鳴きしきる蝉の様に、この気持ちが恋なのか解らないまま蛹の様な月日を過ごし、ようやく悟ったこの感情を抱いて、土から這い出て大声で啼いて。
けれども蝉のように、儚い恋に終わらせる気は、毛頭ない。これだけ長い年月が掛かって、やっと気付いたこの気持ちを、大切に育てたいのだ。
降りしきる、蝉時雨のように‥‥最後の最後まで。
●
ゆっくりと、暮れ行く空の下で蝉の音が、響く。その空を見上げてセシリアは、あなた、と呟いた。
それは、2人居る。ただ笑顔をくれた『貴方』。ただ優しさをくれた『貴女』。どちらも大切で、かけがえがなくて――今も世界の何処かで、セシリアへと繋がるどこかで、生きている『あなた』達。
物語の英雄のように、劇的にセシリアを救ってくれたわけじゃない。ただ笑顔をくれ、優しさをくれただけで、けれどもだからこそセシリアはセシリアに、なれた。彼らが、『セシリア』をくれた。
親愛なる『貴女』は危険な戦場へと行き、愛しい『貴方』は、愛する夫はやっぱり忙しくて殆ど会うことも出来なくて、それが昔は寂しかった。どうしようもなく、誰と居ても独りぼっちで、そうしてただ彼らに会える日を待ち続けるのが辛かったのに――
(どう、して‥‥?)
今、セシリアの胸の中を覗き込んだとき、そこにあるのは緩やかで揺らぎない願い。何時か、他愛の無い話をして、緩やかな一時を愛しむ――そんな風に過ごせる日がまたやってくる事を願う、仄かで暖かな願い。
そんな日はいつ来るのかも、本当に来るのかも解らなくて、けれどもそれをただ願っている。願い、そうしてただその日の訪れを待つんじゃなくて、それを手に入れるため歩きたいと願っている。
だって、セシリアはまだ、歩けるから。守り、手に入れ、戦う為の力を持っているのだから。
それでも――何時でもセシリアの心は『此処』にある。
(だから、愛しい人‥‥大切な人‥‥どうか、また‥‥)
胸の奥でささやかに呟いて、蝉時雨の下、セシリアは噛み締めるようにそっと、瞳を閉じた。途端、寄り添うように蝉の音が大きくなる。
けれども宗太郎はまだ、己の中にある不安から、抜け出せては居なかった。その言葉を搾り出せたのは、彼の左に居るのが花だからだ。
「戦闘欲に歯止めが利かなくなる瞬間が増えた、気がするんだ」
腹の底で、胸の奥で渦巻く、黒い何か。昔とて強者との戦いを楽しむ事はあったし、武人として当然だとも思っていたけれども、病的に、自身ですらふと己の残虐性に目を見張るほどではなくて。
今は、でも、違う。この傷は受け入れると決めたし、昔と変わらず誰かの『想い』を守る為に戦うと決めたけれども、いつ自分が大きく肥大してしまった自らの狂気に飲まれるか、不安は尽きない。
茜色に染まる空。生を啼く、蝉の声。それで居てなお、胸の奥から誘う衝動――
「自分を見失いそうになったら思い出して。宗太郎クンは1人じゃないよ」
「花‥‥?」
「どんな時もボクがいるから‥‥例え傍にいなくても、宗太郎クンの魂に刻んで」
ぎゅっと、握った手のぬくもりと、囁かれた言葉から伝わる気持ちに、宗太郎は目を見張った。それは何処か頼りなく、花には見える。
きっと昔の自分なら、そうなったならこの人を躊躇いなく殺して止めた。けれども今は違う。彼を失い1人で此処に取り残されるなんて、考えたくもない。
だから、狂気に飲まれてもどうか、此処に戻ってきて。花の傍らに。そのために、彼を支える為に、花の手は、肩はあるのだから。
「ボク1人で支えられないなら‥‥もう1人分増やしても‥‥」
「もう1人?」
「ま、まだだいぶ先の話だからねッ」
ごにょごにょと口中で呟いたのを、聞いた宗太郎が花の腹部に目を落とす。それに慌てて両手を振って、がたんとベンチから立ち上がった。
しっかりと繋いだ手は、握ったまま。夕陽を背負って、蝉時雨の中で花は笑う。
「そろそろ帰ろっか」
「そう、だな。‥‥ありがとう、花」
そんな彼女に微笑んで、宗太郎もまた立ち上がった。そうして2人、夕暮の中を我が家へと歩き始める。
同じ夕暮れの中を、仲良く手を繋ぎながら家路へとつく、恋人達の姿があった。手には虫取り網と、からっぽの虫かご、きらきら光るラムネの空き瓶。帰り際、キョーコが『遊んでくれてありがとね〜』と全部逃がしてしまったから。
虫の声が変わったと、歩きながら久志は目を細めた。同じ蝉でも、時間帯によって微妙に虫の音は違う。
「ひぐらしの声を聞くと、なんか情景が染み入るというか、物悲しいというか‥‥」
呟くと、傍らのキョーコがん? と笑う。それに微かな笑みを浮かべて、首を振り。
尋ねた。
「キョーコ。今日、セミ取り行こうって言い出したの、何で?」
「久志が大規模から元気なさそうだったから‥‥ぇと‥‥迷惑‥‥だった‥‥?」
久志の微妙な口調に、キョーコはおず、と彼を見上げる。何とか元気付けたくて、驚いている久志を問答無用で「蝉捕り行こうよ蝉取り♪ 夏なんてすぐに終わっちゃうんだから〜」と連れ出したのだ。
けれども、迷惑だったのなら。我慢して付き合ってくれていたのだったら。そう――不安に揺れるキョーコの眼差しに、ふ、と久志の頬が緩んだ。
「いや、楽しかったよ。ありがとう。――心配してくれるキョーコが居て幸せだよ。ホントにね」
我ながら自嘲気味だと思いながら、そう言った。最近、過去を振り返ってはもはや取り戻せない物を実感するたびに、少し感傷的になっていて――でもそれはきっと、キョーコと出会って、彼女が支えてくれるからこそ、振り返る余裕が出来たから、なのだろう。
だから。彼女への、感謝の気持ちは、本当。――多分マリッジブルーではないと、見つめたのは彼女の右手の薬指に光る、サファイアの婚約指輪。
「あたしも楽しかったよ♪ ありがと」
そんな久志ににこっと笑って、キョーコはぎゅっと抱きしめた。拍子に手から離れた網が、からん、と乾いた音を立てる。
同じ空に続く夕暮を、滝の音を聞きながらシャロンもまた見つめていた。賑やかさよりもしめやかさを感じさせる夕暮の蝉時雨に、硯は彼女の傍らで耳を澄ませる。
こうして聞くとますます、夏の終わりを感じさせる音色だった。精一杯に生きて、そして終わりが近いという感覚。
それはとりもなおさず、控えている宇宙での決戦を思わせた。地上での大きな作戦も終わり、ついにバグア本星へと思うと、古参に入る部類の傭兵としては少々哀愁も感じられる。
また厳しい戦いになるだろうけれども、何としても勝って、生き残って――その先は? ちらり、傍らのシャロンを見たら、目が合って。
「硯。能力者になる時、1番最初に聞かれたこと、憶えてる?」
硯に、シャロンはそう尋ねた。傭兵登録をする際、彼らはUPCに必ず聞かれる。どうして能力者になったのか、と。
シャロン自身はその時、はっきりした理由が思いつけなくて、『自分の力が地球の役に立つなら』と書いた。そうして傭兵になって、色んな場所を巡り、色んな人に出会って。
「全部丸ごと、守ってやろうじゃない‥‥そう思うわ」
だからきっと、今同じ事を聞かれたら、今度は明確な意思で同じ答えを書くだろう。そう、笑ったシャロンの笑顔が眩しく、硯は目を細めた。
かつて、彼女に告白して、戦争中はそういう事は考えられないと言われた。じゃあ戦争が終わったら? と自然、決戦を前に考えてしまうのも無理はない。
けれども。今はとりあえず、彼女が隣で笑っているだけで幸せだから、うだうだと廻り続ける思考回路は、一先ず置いておこうと決める。それよりは、この幸せがこれからも続くよう、次の戦いへの英気を養う方が大切だから。
だから、戻ったら空の上に行く支度をしようと、力強く言ったシャロンに頷いた。そう。まずは目の前に迫る、戦いの準備を。
それは、茶屋からの帰り道を並んで歩く恋人達も、同じだった。だからこそ、繋いだ手を離さないまま、日の沈みかけた街を歩く。
本当はつばめは、最後の大きな戦いだからこそ、透の隣で、一番近くで戦いたいと思う。けれどもお互い信じられる大切な仲間が居て、そうしてこの手を離しても、離れていても透とは繋がっていられるはずだから。
けれども今は、傍に居る透の温もりを感じたくて、そっと彼を抱き締めた。
「最後の大きな戦い‥‥勝って、無事に戻ってこれた、その時に‥‥。透さんに、聞いてほしいことがあります――」
「うん‥‥僕も伝えたいことが、あるんだ」
そう、頷いて透は愛しいぬくもりを優しく抱き締め返す。必ずこの地上に帰ってくるのだと、思った。――つばめとの未来が欲しいから。
この戦いが終わったら――それはきっと、多くの者の脳裏にある符丁。勿論瑠亥と雨音の中にも、その言葉はある。
夏祭りは、楽しかった。あちらこちらの屋台を覗いて、花火を見て、手を繋いで笑い合って。屋台の食べ物を分け合いっこしたり、一口ずつ交換したり――
けれどもこうして家路を辿れば、また話題が『これから』になってしまう。もうすぐ、少なくともバグアとの決着はつくだろうと、思っているから。
だがその後、戦争がなくなる訳ではないだろう。下手をすれば人間同士での争いになるかもしれず、そうなったら傭兵達がどんな境遇に立たされるのか、想像もつかないけれども。
「俺は‥‥恐らく、それしかできない人間だからな‥‥やることは今と変わらんのだろうと」
それしか――戦いしか。自分より高い戦力はそういないだろうから、多くの者より優秀な能力を持つであろうから、戦いから離れられないのだろう。
それでも構わないと、瑠亥はけれども思っている。自分が戦うことで戦場に立たなくて良い人間が居るならば、ましてそれが自分の大事な者達であるならば、喜んでこの力を振るい続けよう。
だから出来れば雨音には、叶う限り戦いなどにはもう関わって欲しくなくて‥‥綺麗な道を歩いて欲しく。でも当の雨音がそう、容易く戦いから身を引いて、関わってきた全ての事を放り出したり出来ないだろう事も、瑠亥はよく知っている。
それが、彼の愛した雨音という女性。彼女の唇が、瑠亥、と彼の名を紡ぐ。
「あの流星群に託した、貴方の願いを――瑠亥の口から直接、聞きたいから。だから‥‥お互い、無事に戻ってきましょう。約束、です‥‥」
「‥‥ああ。約束、だ」
紡ぎかけた言葉を、ふと飲み込んで瑠亥は、雨音の差し出した小指に小指を絡めた。あの日願ったのはただ1つ、この時間のこと。今、こうして隣に雨音が居て、待っていてくれて、『ただいま』と帰る事の出来る場所がある――その刹那が愛おしいから、離したくない、と。
だからそれを彼女に伝える為に、何としても次の戦いを生き残らねばならないと、絡めた小指ごと彼女の手を握る。そうして再び歩き出した恋人達と、すれ違った街灯の下で玄埜はふと足を止めた。
足元に、羽を下に仰向けに転がった蝉の死骸。日暮れを過ぎてもなおしばらく声を聞かせていたけれども、今は蝉の声はどこにも聞こえない。
じっと、見下ろした。蝉の声を聞きながら何とはなしにつらつらと考えた事を、知らず、また思い返してしまう。
かつてとある裏組織の始末屋として働いていた玄埜。だがその組織は既に無くなって、偶然にもエミタに適合してしまったから傭兵に転身してはみたものの、倒すべき敵である侵略者との戦争は終結に向かいつつある。
ならば――漠然とした虚無感とでもいうべきものが、玄埜の胸に、あった。
任務完遂の為には何の犠牲も厭わない。それこそ自分の命であろうとも惜しまず、個を捨て情を殺し、明日をも知れぬ生き方をしてきた日々が、もうすぐ終わろうとしている。
それに、素直に喜べないのは、あまりにも闇に染まった生き方をしてきてしまったが故か――
「‥‥その潔さにあやかりたいものだな」
ふ、と見下ろしていた蝉の死骸に、不意に穏やかに微笑んだ。それはきっと、玄埜の周りに居る人間とて滅多に見れない、無防備なほどの笑み。
客観的に見て美しいものでは勿論、なかった。それでも蟻に食われ、姿かたちを亡くしつつある骸は――すべてをやりつくして燃え尽きた、清々しい美しさがある様に、感じられたのだ。
願わくばこの蝉の様に――思ってから、そんな自分に嗤う。
「暇はいかんな。つい余計なことを思うてしまうわ」
ぶん、と大きく頭を振り、玄埜は再び歩き出す。そうして前を通り過ぎた神社の母屋の縁側で、あちゃ、と石榴は頭を抱えた。
「あの依頼、来ちゃったんだ、小夜子さん」
「はい。‥‥石榴さんを、護りたいから‥‥」
頷いた、小夜子が赴き、石榴もまた身を投じるのはとある依頼。石榴を信じてくれた友との約束を果たす為、戦いに赴こうとしていた石榴は――けれどもきっと小夜子が知れば、余計な気を回して付いてくるだろうから、言わないでおこうと思ったのに。
小夜子はどこからか知って、そうして参加手続きを取ってしまったらしい。はぁ、と吐いたため息は、けれども暖かかった。
「一緒に来てくれるのは嬉しいけど‥‥1つだけお願い。絶対に、死なないでね」
「勿論、です」
その言葉に、小夜子は微笑み頷いた。かの依頼に関わるとある少女――彼女と石榴が親友であることも、その彼女をかつて助けられなかったことで石榴が傷ついたことも、知っている。
だから、石榴を護る為に。支える為に。
そう――頷いて見上げた空に浮かぶ白い月は、優しく地上を見下ろしていた。