●リプレイ本文
ぐしゃ、と前髪を乱暴にかき上げ、ため息を吐いた。
(‥‥さっぱり判んねぇ)
アンドレアス・ラーセン(
ga6523)の視線の先にあるのは、たった今自分が切った携帯電話。英国の『親愛なる腹黒な友人』へと、掴んだ情報の提供を願ったのである。
こちらから提供出来る情報は少ない。状況から考えられる可能性だけなら幾つもあるが、証拠が1つもないのだから妄想も同然だ。
そんな状況では、対等な交渉など厳しいのは十分承知している。していて、だがピースが欠けたままパズルを組み上げたって、永遠に完成しない。
故に、欠けたピースをエドワードに求めた。欲しいのは確証だ。隠された『何か』だ。妄想ばかりを脳内で捏ねる時間は、とっくに過ぎ去っている。
『目的の判らない宝探しはごめんだぜ』
『コロンブスも最初から、アメリカを発見しに船出したわけじゃないよ、ラーセン君』
『俺は冒険家じゃないんでね。ぶらり旅にも地図が欲しい時はあるさ』
そんなやり取りを重ねた挙句、ようやっと『狸親父』から聞き出した事はと言えば、『猟犬』が一時期Brawn Ratに出入りをしていた事は間違いない事、だが組織での役割や目的は未だに掴めて居ない事。そうして組織の幹部連中の話でも埋められない空白を『猟犬』と、彼に協力していたらしい情報屋『スネーク』から聞き出したい、と言う事だった。
『期待しているよ』と嘯いたのを最後に切れた通話は、苛立ち以外の何も残さない。目の前に居たらぶん殴れるのに、生憎相手は遠い海の彼方だ。
やれやれと、フェイス(
gb2501)が穏やかに笑って、襟を立てたフロックコートのポケットに手を入れた。彼自身は居なくなったマリアの足取りを調べておこうと、あちらこちらへふらりと足を向けてきた所だ。
出て行った所を、誰も見て居ない。けれどもLH内での目撃証言もまた、見られない。そんな状況を再確認して、アスの電話の相手のご希望を叶えるべく、UPC本部までやってきたのである。
「シリング少尉。古本屋の件で使用された銃器の事で、何か判りましたか?」
「軍用スナイパーライフルとしては、珍しいモデルではありません。かなりカスタマイズされてるので、クセがデータにないか照合中です」
重火器のカスタマイズは珍しくないが、それにはどうしても調整にクセというか、個人の特徴が出る。過去に押収された武器に、それらの特徴を持つものがなかったか――あれば『カスタマイズ屋』によるのか『猟犬』本人によるものなのか、照合するにはもう少しばかり時間が必要だった。
ふぅん、と神撫(
gb0167)は相槌のように鼻を鳴らし、廊下の先へと眼差しを向ける。この先に、これから彼らが『尋問』する『猟犬』が居る、らしい。
彼が、この期に及んでも何も喋らない事がひどく、引っかかった。ついでに言えば『あの』エドワードが、わざわざ能力者に依頼してくる、という事もだ。
能力者の仕事がキレイな物ばかりな訳ではないが、尋問となるとどうしても、あちらが本職だろう。しかも、例の組織絡みなら確実に、管轄はイギリス諜報部になるはずだ。
なのに、あえて能力者に。その思惑を図るのも時に馬鹿らしくなる相手だが、戯れや酔狂でそんな事を言い出しはしないだろう――多分。
ならば。神撫達に、彼らプロフェッショナルとは違う視点で、揺さぶりをかけて欲しいのか――?
話すアニーとフェイスを見ながら、神撫は自身に言い聞かせるように、言った。
「サバーカの単独犯とも思えないし、念のためアニーの護衛につくよ」
「あたしもアニーの護衛につきますわ。神撫とは別班に回りますわね」
それに応えたのはロジー・ビィ(
ga1031)である。同じく通路の奥を見ながら、きゅっと寄せた眉は険しく、思わしげだ。
サバーカ――彼女達がそう呼んできた男。『犬』のコードネームを使う彼の、『サバーカ(Собака)』もまたロシア語で犬という意味だ。
そんな彼が今なお守り続ける沈黙の向こうには、何が隠されているのか。何を知っているのか――そうして彼を元恋人だと告げたマリアは一体今、どこに居て、何を思っているのか。そもそも、彼女は一体、何者なのか。
アスだけではない、ロジーとて、他の能力者とて、解らない事だらけだ。ましてそこに降って湧いてきた依頼は、ますます彼女達を戸惑わせるのに充分で。
「とはいえ、安楽椅子探偵ができるほど器用でもないですし、ね」
ならば『現場』に行くしかあるまいと、フェイスは仲間達の元へ戻って来ると、あまり得意ではなのですが、と肩を竦めた。得意だと言い切られても、それはそれで困るのが。
尋問は2組に分かれて行う事にした。そうして手早く組を決めてしまうと、確認したアニーが銀のお下げを大きく揺らして頷く。
「じゃあ皆さん、こちらに来て下さい。――よろしくお願いします」
そう言って、通路の先に進み始めた彼女に続いて、能力者達も歩き始めた。
●
雪島舞香の実家は、六甲ジョイランドから程近い住宅街の中だった。遠倉 雨音(
gb0338)は向こうの山腹の楽しげなアトラクションを見上げる。
彼女と東野 灯吾(
ga4411)が神戸を訪れたのは、舞香から話を聞くためだった。サバーカとマリア、2人の重要人物に図らずも関わり、利用されて罪の片棒を担いでしまった女性から。
(それにしても‥‥前回の襲撃の一件、そしてこれまでアニーさんの身の回りで起きていたこと、その全てをマリアさんが‥‥?)
雨音はそう思い、彼女の姿を思い出す。その不自然さに、薄々気付いてはいた。マリアはアニーや舞香に関わりすぎていたし、何かと事件の折に居合わせる事も多かったから。
ましてアニーにそっくりの容貌をしていて、ふられて追い掛けてきたというサバーカはそのアニーに執着していて――これで何もないという方が、嘘だ。
(自分の元から離れて行った思い人が、自分と瓜二つの別人に対して強い執着を見せている‥‥それはきっと屈辱的で、腸が煮えくり返るほどの憤りなのでしょう。その嫉妬や憎悪の気持ちがマリアさんを駆りたてているのか‥‥それとも、別の『誰か』の思惑もそこに絡んでいる‥‥?)
当のサバーカへの尋問も、もちろん気になった。けれどもそれを思った時に雨音は、実家に戻った舞香の様子を見に行くのも兼ねて、彼女からマリアの事をもう少し聞き出してみよう、と思ったのだ。
雨音の隣に立つ灯吾が、雪島家の門前ではぁ、と1つ、大きく深呼吸をする。そうして緊張しながら呼び鈴を押すと、幸い、インターフォンから聞こえて来たのは聞き慣れた声だった。
『――はい』
「こんにちわ。遠倉です」
『遠倉‥‥雨音、さん。お隣りは確か、東野灯吾さんでしたよね。杉野さんから聞いてます。舞香を呼びます、待ってて下さい』
どうやら今のは涼香だったらしい。インターフォンのカメラで確認したのだろう、そう言うとマイクはぷつりと切れた。
そのまましばし待つと、セータードレスに細身のジーンズ姿で、肩に鞄をかけた舞香が、涼香に伴われて出てくる。こくり、雨音は首を傾げた。
「お出かけの所でしたか?」
「いえ。少し歩いた所に美味しいケーキを出してくれるカフェがあるから、行きませんか?」
「それは、構いませんが‥‥」
「涼香さんは良いんすか?」
「――夕方までよ」
「解ってるわ」
彼等の問いには直接答えず、そんな会話を交わすと涼香は、2人にペこりと頭を下げて家に戻って行った。舞香さん? と尋ねると、彼女は小さく笑って「こっちです」と歩き出す。
ついて行かない訳にはいかない。といって本当に良いのだろうかと、顔を見合わせていたら舞香が振り返り、すみません、と微笑んだ。
「実家に戻ってからずっと、ろくに外にも出してもらえなかったんです。誰かが来ても会わせて貰えない事も多くて」
「それは‥‥」
「仕方ないです。私が悪かったんですから‥‥お2人は能力者なんだから大丈夫よ、って説得して、ようやく出してもらえたんですよ」
だから、とLHに居た頃より、最後に会った時より遥かに明るく見える、けれどもやっぱりどこか影の見える笑顔で、舞香は微笑む。
「どうか、付き合って頂けませんか?」
「――解りました。それでは」
「どんなお店なんすか? ちょっと楽しみっす」
「ちょっとレトロなカフェなんです。私も涼香も大好きで――彼ともよく、行きました。私達、高校の同級生だったんです。私と、彼と、涼香と、涼香の彼氏と、卒業前に四国旅行に行ったりして、仲良かったんですよ」
寂しそうに懐かしそうに、微笑んで「こっちです」と歩き出した、彼女の背中にもう1度顔を見合わせて、雨音と灯吾も歩き始めた。
●
最初に尋問に当たったのは、ロジーとアスの2人だった。さすがに警備は万全というべきか、部屋は大きな鏡がある以外は窓もなく、重々しい扉にも覗き窓すらついていない。
これなら狙撃の心配はなさそうだと、ロジーは肩の力を少し抜いた。とはいえ、UPC本部の奥まった所にあるこの部屋にまさかとは思うが、キメラが侵入して来ないとも限らない。サバーカと、キメラの不自然な出現とは、因果関係が全く掴めていないのだ。
故にロジーは扉とアニーの間に立ち、ちらり、大きな鏡を振り返る。これはマジックミラーで、隣の部屋から様子を観察も出来るし、四隅に下がったカメラからは画像と音声を常に拾っているらしい。
ガチャリ、重い扉の鳴る音がして、アスが入ってきた。確かめたい事があって、ロジー達に先に行ってもらったアスに、ロジーがちらりと視線を向ける。
「アンドレアス、用事は済みましたの? 始めますわよ」
「ああ、わりィ」
ロジーの言葉に頷いて、アスはつかつかと無造作に歩き、どっかとサバーカの正面に腰を下ろした。ついでに行儀悪く机の上に足を上げる。
そんなアスを見ながら、ロジーはバッグからデジカメを出し、1枚の画像をサバーカに見せた。
「先ずお伺いしますわ。この女を知っていまして?」
「――そこに居る娘だろう」
何も話さないと聞いていたが、この程度の質問には答えるらしい。とはいえ、アニーをちらりと見た男が紡いだ回答に、ロジーは早速出鼻をくじかれ、眉を寄せた。
彼の言う通り、この画像に写っているのはアニーだ。髪を下ろして眼鏡を取り、大人っぽいメイクと大胆な服装をして貰って――つまり、マリアに似せて撮ったのである。
それは当のロジーでも一瞬はっとするほど良く似ていて、彼女達の間に全く関係がない、というのが不思議なほどだった。まして画像なら尚更、細かい個性は消されてしまう。
けれどもたった一目で、彼はマリアではなくアニーだと看破した。ここで動揺を誘うつもりだったが、さて、どう進めるか。
アスがぎしぎし椅子を揺らしながら、言った。
「一目で解っちまう位、マリアと親しいって訳か」
「‥‥‥」
「あんたとマリアが共犯だってのは解ってるぜ。あんたを捨てて、マリアが逃げちまった事もな」
尋問の基本は恫喝と懐柔と言われるが、生憎、アスはどちらも向いてない。英国の狸親父ならば得意そうだが、彼に出来るのは正面突破だけだ。
だから挑発も兼ねた言葉に、カツン、とロジーが靴の踵を鳴らし、そんなアスの背後につく。そうしてアニーをちらりと見てから、ジッとサバーカに眼差しを注ぐ。
男の顔は、変わらない。頬の傷を歪める事すらせず、ただ沈黙を守る。
「――なぜ、アニーを狙った? 怨まれるタイプには見えないがね。あぁ、戦場で偶然見かけた事があるんだったか。その時の禍根か?」
「え?」
「あら、そうですの? でも、ならますますマリアとの関係が解らなくなりますわ」
こくり、首を傾げたロジーが、アスにだけ聞こえる声でそう呟いた。思わぬ所から接点を提示されて、アニーがキョトンと目を丸くし、サバーカをジッと見る。
それに、サバーカの表情が忌ま忌ましげに、憎しみを伴って歪んだ。へぇ? とアスはそれを眺める――戦場云々は、アニーの従弟ユリウス・マクレーンから聞き出した話だった。
ユーリもまた、一歩間違えば舞香のように犯罪の片棒を担ぎかねなかった立場だ。六甲ジョイランド、かつてそこにアニーを誘ったのは彼の意志ではなく、アニーと話がしたいというサバーカ=ハウンドに頼まれての事だったのだから。
だが幸いにして、JL側は騒ぎを『山の逸れキメラが迷い込んだのだろう』と結論づけ、これ以上の騒ぎを避けるためにアニーを狙った銃口はなかった事にされた。ユーリは難を逃れて、代わりにアニーからのお説教と、当分連絡はして来ないで! という、おそらく本人にすれば死刑宣告に等しい罰を与えられたのだ。
そんなユーリに、なぜサバーカを信じようと思ったのか尋ねてみたいと、思ったアスは先程、アニーに聞いたユーリの携帯に電話をした。
『よう、元気にしてるか少年』
『‥‥切るよ』
『まぁ、待て待て。ハウンドの事、覚えてるだろ? ちょいと、奴との馴れ初めとか聞かせてくれると嬉しいね』
アス自身はユーリに『センスが解る良い奴』という好感を抱いて止まないのだが、生憎向こうはそうではないらしい。あっさり切ろうとしたユーリにそう尋ねると、電話口の向こうではっと息を飲む音がした。
そうして、サバーカが捕まった事を聞くと、何とも言えない声を漏らし。少し逡巡した後、去年のクリスマスパーティーの時に声をかけられて、アニーは軍部と能力者に利用されているから、ユーリが守ってやらなければならない、その手助けをする準備が自分にはある、と言われたのだと、話す。
『おいおい、それをあっさり信じたのか、少年』
『単純だって言いたいんだろ。でも――アニーは彼の恋人にそっくりなんだ、って言った、から。彼は恋人をとても愛しているけれども、自分のせいで彼女が利用されて、事件に巻き込まれて傷付いたから、別れたんだって言ってた。だから、彼女にそっくりなアニーが同じように傷つくのを見てられない、って』
『事件?』
『5年位前の無差別爆弾テロだよ。彼はテロリストにそれと知らず雇われて、気付いて抜けようとしたら彼女を人質にされたんだって。彼女には何も知らせず、彼を働かせるために現場に呼び出して‥‥その写真も見せてもらったよ。包帯まみれで幸せそうに笑って、貴方を守れた名誉の負傷なんだから記念に撮っておいて、って笑ったんだって。――嘘だと、思えなかったんだ。もちろん事件の事は調べてみたよ、幾つか記事やブログが上がってた。だから本当にそうなんだって、アニーを心配してくれてるんだって、思ったんだ』
嘘だと思えなかった。LHを去った舞香もまた、マリアのすべてが嘘だとは思えなかったと言っていたらしい。ならば、どこまでが嘘で、そこからが真実だ? それとも、すべてが嘘なのか?
「誠意はいつでも自分の身を助けるぜ。雇い主に口添えだって出来る」
「貴方の雇い主は、時々キメラを連れている所を見ると、親バグア派だったんじゃありません事? 雇い主から離れているうちに、良いように躍らされているのでは」
「――偶然だ」
「――ならば、どこから来たのだと思いまして?」
「事実は小説より奇なり、と日本では言うそうだが、知っているか?」
問いに問いを返され、ロジーとアスは揃って肩を竦めた。元より軍部が手こずる相手だ、聞き手が変わったからといってあっさり口を割る訳もない。
これがひとまず最後だと、アスは飄々とした調子を崩さず問いかけた。
「犬ってのは忠誠心が強いんじゃなかったか? なのに何故、組織を離れたんだろうな。誰かから破格の報酬でも提示されたか? それとも――弱みでも握られてるのか、マリア嬢に?」
それに、男は何も答えなかった。だが苦い顔になったのを確かめて、2人はアニーと共に部屋を出る。
そろそろ、次の組に交代の時間だ。
●
カフェは古民家風の、落ち着いた佇まいだった。中に入ると舞香は、慣れた様子で窓際の席に腰を下ろす。
「いつもここなんです‥‥ぁ、他に座りたい席、ありました?」
「いえ。私もカフェを経営していますから、興味深いです」
「ちょっと良い感じの店っすね!」
穏やかに頷いた雨音の傍らで、場違いにならない程度に明るく振る舞う灯吾だ。舞香がこの店に、元彼と行った事があるとわざわざ断ってやって来た理由は解らないけれども。
灯吾の知りたい事も、実はまさにそれである。あれほどに舞香がマリアに肩入れした理由は、もしかするとサバーカが元彼に似ていたからかも、とか――まさかそのマリアが、元彼の結婚相手だった、なんて事があったりするかも、知れない。
だが、切り出す言葉が難しい。相手は、遥か昔に振られた恋人の面影を今も抱く女性。それに付け込まれ、利用されてしまった女性――
さらり、黒髪を揺らして舞香が首を傾げた。
「――それで、私にお聞きになりたい事って、なんでしょう? 殆ど、軍の方にお話しましたけれども」
「あ、えっと。事件以外にもその‥‥舞香さん自身の話、聞きたいんす」
「私自身の‥‥?」
「えっと。ここ、よく来てたんすよね? その頃のお気に入りメニューとか‥‥どんな話してたのか、とか‥‥」
サバーカやマリアとは、事件以前には一切の面識がなかったと舞香は事情聴取で答えている。それでも自分自身で、本当に全く彼等と関わりがなかったのか、確かめたかった。
だがその、非常にデリケートな問題をどう、尋ねれば良いのか。わずかなりと彼女を知っていればこそ、気軽に「元彼の写真を」なんて言えやしない。
迷う眼差しの灯吾に、何を感じたのか舞香は儚く笑って、メニューを指差した。アップルミルクティー。
「私は、いつもこれでした。涼香はその日の気分で色々。中西君は――涼香のその頃の彼氏ですけど、ホントは苦手なのにいつもコーヒーを飲んで、涼香にからかわれて。聡、は――彼はその日の気分の紅茶で――舞香はホント頑なだよな、って私を見て、笑うんです」
「聡、さん」
「高崎聡、っていうんです。‥‥写真、見ます? マリアさんが送ってくれたんです」
「マリアさんが‥‥」
ちら、と視線を交わしてから、雨音と灯吾は「どうぞ」と差し出された舞香の携帯を覗き込む。そこにははにかむ様な、けれども輝く笑顔の父子がいた。サバーカとは似ても似つかない日本人男性に抱かれた、栗色の髪と翡翠の瞳の幼子。
3歳だそうです、と舞香は感情の掴めない声色で、言った。視線は手元に落とされたまま、表情は長い髪に隠れて解らない。
「マリアさんが、って。えと、何で‥‥」
「仕事で会ったんだって、言ってました。偶然私の話が出た事があって、だからLHに来た時びっくりして声をかけたの、って。彼はあまり奥さんとうまくいってなくて、貴女に会いたがってたわ、って――そんな訳ないって、思ってたのに。いつの間にか、もしかして、って期待し始めた自分が、居て」
「それ‥‥高崎さんには‥‥」
「確かめられませんでした。――私、彼の今の居場所も、連絡先だって知らないんです。全部、振られた時に写真も何も、捨てちゃったから」
でも、と舞香は顔を上げて、微笑んだ。何を思っているのか知れない、ただ儚い微笑みだった。
「もしお知りになりたかったら、多分、涼香が持ってると思います」
「涼香さんっすか‥‥?」
「――涼香はまだ彼と友達だから。たまにメールもしてるって‥‥マリアさんの言ってる事が本当か、確かめるなら私は涼香に聞けば良かったんです。でも」
微笑んだまま、言葉を切った舞香の眼差しを受けて、そうですか、と雨音は小さく頷いた。確かめて、嘘になるのが怖かったのだろう――彼女は涼香の真実より、マリアの嘘を信じたかったのだ。
運ばれて来たアップルミルクティーが、甘い香りを漂わせた。
●
「出身はドイツ?」
交代して始まった次の尋問は、そんな世間話から始まった。
「バグア襲撃前も傭兵だったのかな。サラリーマン、って感じじゃないけど」
「――犬は犬だ」
「誰だって子犬の時期はあっただろ?」
あくまで軽い口調で紡ぐ神撫の傍らで、フェイスはマジックミラー越しに見た先の尋問の様子を思い返す。肝心な事は喋らないが、かと思えば意外にウィットの効いた答えを紡ぐ男。案外、喋り好きなのかも知れない。
自らを犬と呼ぶのは、さて、どういう意味が込められているのか。煙草を取り出してから、ああ、と気付いたように声を上げたのは、演技だ。
「失礼。シリング少尉は苦手でしたね」
「‥‥?」
「貴方はどうなんでしょう。普段、吸ってるならそろそろ、口寂しいんじゃないですか? 快適な監獄、というのもなかなか、想像出来ませんが――酒なんかも出ないでしょう」
キョトン、と目を瞬かせたアニーを見ながら続けた言葉に、理解して彼女は口をつぐむ。ちらり、そんな能力者達を見比べてから、確かにな、と男は唇の端を吊り上げた。
神撫が、気軽な様子で続ける。
「子供の頃って、こっそり酒飲むのが楽しみだったりしなかった?」
「ああ、ありますね。何でも、大人に禁止される事、というのは楽しみなものです」
「――酒、煙草、女」
「誰が1番最初か。今から思えば随分、幼い事で競った物ですが‥‥あなたは勝った方ですか」
「負けた」
「おや。では神撫さんは――失礼、ここで聞く事ではありませんでしたね」
ちら、とアニーを見ながら笑うと、彼女はちょっと複雑な顔になって、だが神撫の方は見ず沈黙を守った。彼女にも、心中複雑な事は、ある。
こほんと1つ咳払いをしてから、アニー、とそんな恋人に声をかけた。
「ちょっと席を外してもらえないかな? 出来れば、隣からも」
「うん。――他の立会官はつくけど良い?」
「ああ」
どこかほっとした様子で頷いたアニーが内線でどこかに連絡をすると、すぐに別の士官がやって来て、二言、三言言葉を交わすと入れ替わりに部屋の隅に立つ。ちら、と眼差しを向けてから出ていったアニーの足音が遠ざかるのを、確かめてホッと吐いた息は、2つ。
サバーカもまた、アニーがこの場から消えた事に安堵を感じているようだった。おや、とフェイスは目を見張る。彼女に異常な執着を見せていた彼が、彼女が消えて安堵するというのは、奇妙な事だった。
なぁ、と神撫がそんな男を挑発する。
「なんであんなにアニーに執着したんだ? 惚れたか?」
「‥‥‥」
「沈黙ってことは惚れてるってことか」
うんうん、と神撫は大きく、わざとらしく、そしてどこか自慢げに頷いた。そうして、それはそれは嬉しそうな顔になって「そりゃしょうがないよなぁ。いい女だし。普段はぽけ〜ッてしてるけど、決めるところは決めるしな」などとからかう用に、だが多分ほぼ本音のみで惚気始める。
なるほど、とフェイスと、それからマジックミラーの向こうのアスとロジーは大きく頷いた。たとえ挑発の為であっても、当の恋人の前で堂々と惚気られるような神撫ではない。
見るからに、サバーカが嫌そうな、面倒臭そうな顔になった。ムキになって本音を吐いてくれたらと思ったが、別の意味で有効に働いているらしい。
くすり、フェイスは手の中の煙草を――もちろん火は点いてない――弄んだ。
「その顔を見れば、聞くまでもありませんね。マリアと言い、私もあなたはシリング少尉のような女性が好みかと思っていました」
「あんたはどうなんだ?」
「私ですか? ‥‥大和撫子、ですかね。幸か不幸か、出会ったことはないです。多分」
「‥‥ははッ」
フェイスの言葉に、男が笑った。恐らく尋問が始まってから、初めて見せる『素』の表情。
「あいつは気が強かった。泥に塗れて傲然と笑う、誇り高い女だ」
「それはマリアですか?」
「――ズミヤー」
男の言葉は、否定する様にも、肯定する様にも響く。マリアが、なのか。マリアではなく、なのか。
ズミヤー、とその名を繰り返すと、ああ、と男は頷いた。頷き、ちらり、扉の方へと憎しみの篭った眼差しを向ける――その先に居る『誰か』を射殺す様に。
「シリング少尉よりも先に、出会った女性ですか? 羨ましいですね」
「――全部、あの娘が壊した」
「だから『彼女』だけが撃てないのですか?」
「いや――」
首を振りかけ、サバーカはクッ、と喉の奥でくぐもった笑いを響かせた。
「あんたとは、戦場で酒を飲んでみたいな」
「光栄です、と言うべきなのでしょうね。――出来ればその時は、味方であって欲しいものですが」
「洗い浚い、話しちゃえばそんな機会も来るんじゃないかな。そうそう、マリアとはどんな風に出会ったんだ? 彼女はあんたを忘れられないみたいだけど、どんな風に付き合ってたのかな」
「‥‥‥」
「いや。参考に聞ければ、と思って」
「‥‥なんのだ」
「恋人関係の」
きっぱりと言った神撫のおどけた、だがどこか真剣な眼差しに、男ははっきりと呆れた溜息を吐く。
「エミタ付きのエリート傭兵は、ベッドにもマニュアルが要るのか?」
そう言って、呆れ果てた口調の割に非常に詳しく、微に入り細に入り語り始めた男の言葉に、隣で聞いていたロジーとアスは何とも居心地の悪い顔で互いから目を逸らした。何となれば、彼らの間にあった『告白』の決着は、まだ何一つついて居ない。
そんな隣の部屋の様子は知るはずもなく、アニーが居なくて良かったと、フェイスは立会官と頷いた。ただ1人、話を振った当の神撫がどう思っていたかは、神のみぞ知る事である。
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「――マリアさんは貴女に、高崎さんの話を良くしたんですか?」
これ以上は自分がいては話し難いだろうと、灯吾がカフェから出て行くのを見送りながら、雨音は静かに問いかけた。向かいの喫茶店には、カフェについた少し後から心配そうにこちらを伺う涼香が見えて、いる。
舞香も気付いているだろうか。雨音には、どちらとも解らなかった。舞香は決して窓の外は見ないまま、そうですね、と手の中のカップを飲むともなく揺らす。
「した時もありましたし、ずっとサバーカさんの事を話してた時も、ありました。彼にとって自分はアニーの身代わりだったのよ、って落ち込んでる時もあって‥‥そんな時はどうして良いか解らなくて、アニーには恋人が居るから大丈夫って励ますんです。でもずっとマリアさんは泣いてて、私はそれを電話で聞いてるだけで――まるで自分を見てるみたいで、何とかしてあげたくて」
「何とか――」
「ええ。きっと、何時の頃からか私は、彼女に私を重ねてました。彼女がサバーカさんともう一度うまくいけば、きっと私も聡とやり直せる。マリアさんは聡が、奥さんとの生活に疲れてる、って良く言ってました。私に会いたがってるわ、って。――おかしいでしょう? 私はいつの間にか、信じてました。マリアさんが幸せになれば、聡に会えるんだって。聡とやり直して、今度こそ幸せになれるんだって――信じたかったんです」
「だから貴女は、マリアさんに協力した? LHでは、サバーカさんの様子を見に行っていたと、聞きました」
「はい。マリアさんは彼を忘れるために、LHを離れると言ってたから――でも彼に恋人が出来たり、アニーと付き合ったりしないか心配だって言うから、じゃあ私が見ててすぐに知らせてあげます、って言ったんです。その気持ちが、私には解ったから――自分にはもうどうにも出来ないのに、彼の事も、彼が気にしている相手の事も、気にせずにはいられない。そんな気持ち――」
舞香は苦く笑って、冷めた紅茶を口に含んだ。雨音の前に置かれたカップも、もう冷えている。
――そんな様子を、向かいの喫茶店から見ていた涼香はやって来た灯吾を相手に、重い息を吐いた。まるで彼女には、聞こえないはずの舞香の言葉が聞こえて居るかのようだった。
テーブルに投げ出された携帯に写って居るのは、さっきも見た高崎聡と、その娘。ただ1つ違うのは、幼女と面差しの良く似た、もちろんマリアとは似ても似つかない女性もい、高崎聡が2人を幸せそうに、力強く抱き締めている事。
――娘の3歳のバースデーパーティーで半月ほど前に送られてきた画像だと、彼女は言った。
「聡はね、すっごい親バカで、メールなんか娘と奥さんの惚気ばっかなのよ」
「はぁ‥‥」
「そんなバカが、何で今更、しかも赤の他人を通じて舞香とやり直したいって言うと思う? 全部、とっくに終わってる事なんだもの。――なのに妙に舞香の傷口を煽るみたいな事ばっか言うから、あのマリアって人、信用出来なかった。でも、そんな訳ないじゃん、って舞香に怒ったら、今度はあたしの言うこと、聞いてくれなくなった」
はぁ、と涼香は苛立たしげに息を吐き、ジンジャーエールをごくごく飲む。一緒に、何かを飲み込もうとするように。
「――悔しいけど結局、舞香の事を良く解ってたのは、あたしじゃなくてあの人だった。あの人はわざわざ過去を蒸し返して、舞香はそれにのめり込んでった――どんどん、思い詰めていった」
そうやって、放っておけばいつか癒える所まで来ていた傷をマリアはこじ開け――利用したのだ。それを、涼香は防げなかった。まさかそこまで、今更まだ思い詰めていたなんて――思い詰めさせられていたなんて、想像出来なかった。
涼香の言葉を聞かなくなって、マリアの気持ちが解るのは自分だけなんだと繰り返していた舞香。どこで、どうしていれば彼女を止められたのか――杉野から舞香が軍に拘束されたと聞いたその日から、涼香はずっと、考えている。
携帯の画面の親子は、ただひたすらに幸せそうだった。
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そんな調子で続けられた尋問の結果は、能力者達で纏めて後日、報告書を上げる事になった。ちょうど灯吾と雨音からも、雪島姉妹から聞けた話の概要がメールで届いている。
彼らが帰ってきたら改めて、そちらの話も含めてULTへと報告をする事になるだろう。