●リプレイ本文
●束の間の平穏
「う〜〜〜ん、今日もラスベガスはえ〜っと? 晴れのち曇り!!」
火絵 楓(
gb0095)がびしっと中天を指差した。
綿雲の流れる青空では、未だに太陽が自らの存在を力強く主張している。今年は秋の気配が訪れるのが早いとはいえ、まだ夏は終わっていないといったところだろうか。
「真面目な依頼かと思ったけど‥‥中々粋な計らいじゃぁないか」
ノーン・エリオン(
gb6445)が、陽射しを浴びて伸びをしながら言う。
眩しいそれに手をかざしながら、遠石 一千風(
ga3970)も心地良さそうにに微笑した。
ここ、ノースラスベガス空港の周囲からは戦闘音は聞こえず、戦場特有の張り詰めた空気もそこまで濃くはなかった。
「骨休め、ね。ありがたいわ。以前のような娯楽の街としてだったら、もっと良かったかもしれないけれど」
贅沢な望みかしら、と一千風は冗談めかせて呟いた。
「多分、そんな街に戻るのも遠くないですよ。‥‥陽射し、強いですね」
鴉(
gb0616)は、目を細めて空を見上げる。
活気ある街を想像するよりも、今の静寂と瓦礫の街の方が自分にはしっくりとくる気がする。
ふと、そんなことを感じていたことに気づき、鴉はそっと苦笑した。
「慣れて、きているんでしょうね」
「何か?」
聞き返した一千風に、戦場での死や喪失に、などとは返せず、鴉は軽く笑って首を振るのみだ。
きょとんとした彼女の気を逸らすように、青年はぽつりと呟く。
「にしてもラウディさん、今度は‥‥何考えてるんでしょう?」
「俺たちに骨休め、とはな。‥‥何か裏があるのさ」
それに煉条トヲイ(
ga0236)が応じる。
依頼主であるラウディ=ジョージ(gz0099)、その性格を考えれば当然の懸念ではあろう。
同様の思いは、赤村 咲(
ga1042)も抱いていたようだ。
「あの人にしては、随分と面倒の無い依頼です。裏があるかは知りませんが‥‥嫌な予感は」
「はっはっは。皆警戒しすぎじゃないかい? 気楽に行こうよ」
難しい表情をしている二人に、ノーンが笑いかけた。
その、気楽に、という言葉にヨネモトタケシ(
gb0843)が困ったように頭をかいた。
「自分もそうしたいのですが、こぉゆう時って大体予想外なこと‥‥貧乏くじを引くのですよなぁ」
「縁起の悪いことは言いっこ無しさ」
やれやれとノーンは肩をすくめ、メンバーが一人足りないことに気づく。
くるりと周囲を見渡せば、少し離れたところにそのメンバー、クリス・フレイシア(
gb2547)の姿があった。
遠目でもわかる晴れやかな笑顔で話している相手は、ラウディとクラウディアか。
クリスの手にした地図を時折示していることから、恐らくは現地の状況を直接に聞いていると思われた。‥‥が、それにしてはクラウディアの表情が非常に憮然と見えるのはどういった理由だろう。
「失礼、待たせたかな」
数分後、七人に合流したクリスは上述の疑問を述べられ、悪戯っぽく笑って答えた。
「僕はついでに挨拶しただけだよ。ついでに、ね」
「ふっふっふ‥‥あたしの勘が告げている! あの表情はベリー嫉妬の表情だね!」
ついでに、の部分をやけに強調した言葉に、楓が即座に反応する。
「嫉妬‥‥そうか?」
首を傾げるトヲイの肩をばんばんと叩きながら、彼女は快活に笑った。
細かいことは気にするな、ということだろうか。
軍の装甲車に分乗し、前線のやや後方までの短いドライブが始まった。
「さあみんな! 今日も元気に哨戒任務だ!! おやつは持ったか! バナナはお弁当に入ってるか! でもそんな事より、メンマは美味しいぞ!」
妙にテンションの高い楓は、先ほどからこの調子だ。
運転する兵士が苦笑するのも構わずに、何故かメンマを執拗に推している。蝶の仮面を被った槍使いにでもあやかっているのだろうか。
余談であるが、本日の前線勤務の正規軍の昼食メニューには、デザートとしてバナナが出たらしい。
「そういえば、街は今どんな感じなんですか?」
一千風が運転席に向かって尋ねた。
凡その状況はクリス経由で聴いたものの、やはり生の声も聴いておきたい。
「最近は、行商のトラックがぽつぽつと来るようになってますよ。もっぱら、俺ら目当てですがね。逞しいもんです」
笑いながら兵士が答えるところによれば、空港の周辺では週に一度か二度、そういった商人が集まって小さな市場を作っているらしい。
扱うのは医療品から嗜好品まで様々で、当面の脅威の低下から、正規軍の司令官も黙認状態だという。
「え!? じゃ、じゃあまだ裏通りの大人なお店とか、あっはーんでうっふーんなショーをやる酒場とかは無いの!?」
「ははは。そんな店があるなら、俺たちも随分助かるんですがねぇ」
ガーン、と大げさにショックを受ける楓に、兵士は大口を開けて笑った。
ノリのいいお嬢さんだ、と同乗した兵士たちには好評の様子だったが、あるいは彼女の目的は本当にそれだったのかもしれない。
ともあれ、少しずつだがラスベガスには活気が戻りつつあるようだ。いずれ、住民も戻ってくるだろう。
ドライブの時間は十分にも満たなかった。
ネバダ大学ラスベガス校、その手前に広がるいくつかのカントリークラブ、要はゴルフ場辺りが現在の最前線だ。
「もう少し進めりゃ、楽になるんですがね。ゴルフ場の林は、キメラにとっちゃ良い隠れ場所なんで、今は攻め難いんですよ」
「なるほど‥‥」
運転席から身を乗り出しながら言う兵士に、咲が頷いた。
確かに、と彼は思う。ゴルフ場は隠れ場所には事欠かない場所だ。開けているように見えて、その実死角は多い。
「実は、この先のUNLVは俺の母校でしてね。バスケットの強い大学なんだが、シスコに移転したせいで練習環境が悪いらしいんですよ」
「何、来シーズンからはきちんと練習できますよ」
そう願いたいですね、と笑って兵士は装甲車を発進させた。
「さて、では始めますかなぁ」
遠くなるエンジン音を背に、タケシは手を叩いた。両の手に嵌められたガントレットが硬質な音を立てる。
「ゴルフ場‥‥方面は正規軍に任せればいいか。やぶ蛇になる可能性もある」
「ですね。道路沿いに進みましょうか」
トヲイと鴉の声に特に反論は無かった。
589号線沿いを西進し、ルート15に突き当たればそこから南下。ファッションショーモールの辺りまで行って、引き返せば丁度良い時間だろう。
そう当たりをつけると、八人は少しばかりばらけながら、ゆっくりと歩き出した。
●邂逅
当然のことながら、道路沿いにはホテルが多い。稀代の娯楽都市であったラスベガスならば尚更だ。
付け加えれば、その影響か大型のものが中心である。
必然的に、未だに制圧し切れていない建物も散在することとなった。
それが進軍を妨げる要因にもなっているのだが、人手が足りない今は、しらみつぶしの作業となる建造物の制圧は酷な要望ではあった。
「‥‥荒れてますね」
「戦場だからねぇ。ある程度は仕方ないんじゃないかな」
かつては綺羅星のようだったネオンは割れ、巨大な看板は倒れ、建物自体も窓が割れたり入り口が開きっぱなしになったりと、殆ど廃墟の様相だ。
だが、これは人の少なさゆえに起こった風化ではない。
目を凝らせば弾痕が模様を描き、爆炎の煤がそれを彩っている。
これは、戦場が作り上げた造形物なのだ。
鴉は、その様子にある種の高揚を感じていることに気づいた。そして、それに笑顔を浮かべている自分にも。
「因果な商売ですね、まったく」
「傭兵なんてそんなもんだよ。飯の種さ」
その思いを知ってか知らずか、ノーンは軽く答える。
「まぁ、そんな因果な商売で助かる人だっているんだしさ、楽しく行こうよ」
「‥‥ですね」
「そこの二人ー! 何やってるのかな! 追いてっちゃうぞ!」
つい話し込んでいたらしく、いつの間にか前を行く六人からは少々距離が開いていた。
楓の声でそのことに気づくと、二人は多少早足にその後を追いかける。
「それにしても」
先ほどから地図になにやら書き込んでいたクリスが、ぽつりと零した。
「随分と多いな」
「何が、です?」
咲の問いに、無言でその手の地図を差し出す。
それを受け取った男は、少しだけ眺めた後、小さくため息をついた。
「あまり好ましくない状況のようで」
「本当に‥‥」
その地図に書き込まれていたのは、潜伏可能な地点や狙撃ポイント、また爆弾設置が考えられる場所であった。
人工物の森林ともいえるラスベガスでは、そういった場所は両手で数えるには余る。
ましてやほぼ廃墟のこの状況では、仮に市街戦となれば厄介という言葉では足りないだろう。スナイパーの二人には、余計にそれが察せられたのだ。
そうならないために求められることは、攻めるならば迅速に、そして敗走からの潜伏などさせないほど苛烈に、ということだろう。
そのために必要なのは、やはり人員だった。
「歯がゆいものですね」
ぎり、と奥歯をかみ締める咲。
と、返却された地図に再び目を落としたクリスは、視界の端に映った何かに気づいた。
「これは‥‥?」
赤黒く地面に染み込んだ模様。それを良く見ようとしてクリスがしゃがんだ時、トヲイからも声が上がった。
「血痕、か? しかも、まだ新しい‥‥」
「皆、あれを」
一千風が前方を指差す。
そこには、点々と続く血痕の道があった。それは比較的状態の良いホテルの入り口へと続き、中へと入っているように見える。
「‥‥俺たちの任務は哨戒です。探索は任務外ですが‥‥どうします?」
「怪我人かもしれない。確認はした方がいいと思うけれど」
咲の言葉に一千風が答えた。
「まぁ、確かに身動きが取れなくなってる味方かもしれない、けどね」
どうしたものか、ノーンは顎に手を当てる。
「怪我人なら助けなくっちゃ! 一千風さんの言うとおり、確認だけでも、ね!」
言うが早いか、楓はそのホテルへと駆け出していく。
慌てたようにその後をタケシが追い、他の者も苦笑して追随した。
「‥‥一般人が紛れて残ってる確率、どの位でしょうね」
ぽつりと呟いた鴉に、ノーンが笑った。
「正規軍の怪我人なら、こんなところにいるはずはないよねぇ。浮浪者か犯罪者か‥‥大穴で、敵の誰かが隠れてるとか?」
「ま、念には念を入れておきましょうか」
フォルトゥナ・マヨールーに貫通弾を装填する鴉の肩を、ノーンがポンと叩いた。
「誰かいませんか〜? 怖がらなくてもイイだよ〜あたしは愛くるしい鳥さんだよ〜〜」
楓の間延びした声がエントランスホールに響いた。
返答は無い。
「‥‥思ったよりも高級そうなホテルですなぁ」
当たりを見回して、タケシが感慨深そうに言った。
確かに、内装といい調度品といい、素人目にも上等なものだと分かるものばかりであった。
「荒らされた気配が無いな。キメラはいないと見ても良さそうだ」
トヲイはそう見立てるが、それでも気は抜けまい。
外光を十分に取り入れるエントランスホールは、電気が通っておらずとも十分に明るかった。
階段の踊り場や廊下にも大きな窓が設えてあり、夜はともかくまだ日の高い今ならば探索に支障は無いだろう。
「随分と綺麗だ」
ふと、クリスが目を細める。
その言葉に、咲は頷いた。
「ええ。まるで、ちょくちょく手入れをしてあるかのようです」
すい、と手近なテーブルをなぞる。
指についた埃はうっすらとしたものだった。
「この街から人気が消えて、もう何ヶ月ですかなぁ」
「さて。年単位かもしれない」
タケシとトヲイも、良好な保存状態には疑念を抱いたようだ。
だが、その保存状態ゆえに、床に残った血痕は酷く目立っていた。
「上に昇っていったみたいね。階段にも跡があったわ」
一千風が周囲を見回り、戻ってくる。
「そういえば、ここもベガスのホテルだからカジノは? どうなんだろう? ホテルでもカジノ完備とか、凄ぇよにゃ〜」
「ここは別館にカジノがあるみたいですね。この館は宿泊施設だけみたいですよ」
首を傾げた楓に、案内板の前に立った鴉が声をかけた。
「ま、カジノはともかくとして、いっちょ探してみようか」
ノーンの声に七人は頷くと、血痕を追って階段を慎重に上っていく。
次第に途切れがちになる血痕を追って、能力者たちは最上階である二十二階にまで到達していた。
普段ならば立ち入り禁止であろうこの階は、どうやらオーナーのペントハウスであるらしい。
その扉の中に吸い込まれるように消えている血痕を追って、八人は頷きあうと、一気に扉を開けた。
「‥‥騒がしいな」
「お前は‥‥っ!」
目の前の光景に、トヲイは絶句した。
リクライニングチェアに腰掛け、ゆっくりと本を読む青年の姿がそこにあった。
その青年の名は、アルゲディ(gz0224)。
「アルゲディ‥‥いや、ウィリアム・マクスウェル。やはり、生きていたか」
「‥‥ゲディちゃん? あれが」
どこか安堵しているようなトヲイの声に、楓は改めて目前の青年を凝視する。
彼女の見る限りではただの男にしか見えない。そしてそんな男に、楓は興味は無かった。
急速に失せていく好奇心を自覚しながらも、念のために超機械を起動しておくことは忘れない。
「よくここが分かったものだ」
変わらず本のページをめくりながら、アルゲディが言った。
「貴方自身が教えてくれたものでしてねぇ」
「‥‥ああ、そうか。そういえば、そうだったな」
タケシの言葉で、青年は思い出したように脇腹に手をやり、くつくつと喉の奥で笑った。
「先のロサンゼルスでやられた、というのは本当だったか」
一歩踏み出しながら、咲は続ける。
「‥‥その割には、随分と楽しそうだな」
「敗北は勝利を引き立てる。逆もまた然り、だ。くく、俺にとっては、戦いの帰趨など大した問題ではない」
「生粋の戦闘狂、ですか‥‥」
呆れたように鴉は笑い、ふと、隣の一千風の様子に気づいた。
軽くその肩を叩くと、彼女はハッと我に返ったかのように息を呑む。
「まさか‥‥、まさかこんなタイミングで、なんて‥‥」
自らを落ち着かせるように小さく深呼吸をすると、一瞬で一千風は気を張り詰めさせる。
その気配が伝わったか、アルゲディは心地良さそうに目を閉じた。
と、幾人かが違和感に気づく。
その正体に最初に気づいたのは咲だった。
(「いつもの、粘つくような殺気が無い‥‥。やる気無し、か?」)
それでも、いつでも応戦できるように警戒は解かない。
目の前の男には安全装置などなく、その引き金はそよ風でも動作するほどに軽い。その認識は、これまでの経験から確信に近いものだった。
後ろ手で、武器に手をかけていた楓やクリスに、逸るなと合図を出す。
「‥‥で? お見合いでもしにきたのか?」
「意外ですなぁ。貴方から仕掛けると思っていたのですが」
あからさまな挑発にタケシが挑発を返せば、青年はニヤリと口元を歪めて本を閉じた。
咄嗟に身構える能力者たちを尻目に、その本の表紙を八人に示すと、彼は再び本を開く。
「生憎、俺は休暇中でね。読書に忙しいのさ」
「リア王、シェイクスピアか。洒落てるねぇ」
肩の力を抜きながら、ノーンがごちる。
有名な四大悲劇。その内容と、以前に読んだアルゲディの作品が重なり、トヲイは思わずというように口を開いた。
「何故、全てを捨ててバグアに寝返った? 貴様は洗脳されている訳ではないだろう‥‥?」
「洗脳はされている。バグアに与する以上、それに例外は無い。俺の意思でバグアについたのは事実だが」
そこまで言うと、青年は少しだけ考え、続けた。
「まぁ、直接の契機はリリア様か。‥‥くく、トヲイ、あの方に幻想を抱くのはやめた方がいいぞ?」
「どういうことだい?」
リリア、というキーワードにノーンは反応した。
「俺や愛子、アキラの主だということさ。アキラは知らんが、俺と愛子はバグアというよりもリリア様に忠誠を誓った。‥‥くくっ、いや、愛子はまた別、か?」
「俺は理由を聞いている。お前は、大学時代に書いた小説のような、破滅と静寂の世界を望むのか? だから人間を裏切ったのか?」
煙に巻いたつもりだったのか、アルゲディは少しだけ驚いたような視線をトヲイに向けた。
そしてニタリと怖気の走る笑みを浮かべる。
「‥‥絶望する様が見たかったのさ。人間が一番美しく輝くのは、果て無き絶望に慟哭する時だ。くくく‥‥世界中の人類全てが底なしの恐怖に呑まれ、為す術なく泣き叫び死んでいく。‥‥ひはははは、最高に最悪で、これ以上もなく素晴らしい」
言葉の端々に笑いを滲ませながら言う青年に、一千風やタケシなどは嫌悪感を露にする。
「価値観の相違って奴だね。俺はそういうのは苦手かな?」
「理解されるとは思っていないさ。してもらおうとも思わん」
口笛を吹いたノーンに、アルゲディは面白そうに答えた。
その時、ダン、と床が揺れた。トヲイが足元の大理石を砕く勢いで踏み鳴らしたのだ。
「‥‥本気で、その光景が見られると思っているのか?」
「そうあれば良いとは思うがね。俺はその前に死ぬだろうが、それはそれで良い」
「随分潔いんですね?」
そう言ったのは鴉だ。
「少し違うが‥‥まぁ、どうでもいいことだ」
視線だけで鴉をねめつけると、青年は引きつるような声で笑った。
「それにしても、何故この場所にいるのですかな?」
タケシの問いに、アルゲディはすいと奥を指差した。
目をそちらに転ずると、大きな書架にぎっしりと本が詰め込まれている。
「ここのオーナーは趣味が良かったらしい。偶然見つけて以来、たまにこうして読みにくるのさ」
「読書好きの殺人鬼だと? 笑えない冗談だ」
吐き捨てるように言いながら、咲はアルゲディとの初遭遇を思い出していた。
その時から、もう半年以上が経っている。
「ここが露見した以上、来るのは今日が最後だがな。まったく、勿体ないことをしてくれる」
「元々貴方のものではないわ」
このホテルの状態が良かった理由に合点しつつも、一千風は青年の皮肉を冷たく切って捨てた。
それに肩を竦めながら、アルゲディは立ち上がり、書架に向かう。
本を戻すのかと思いきや、その手には先ほどのリア王は無かった。
いぶかしむ能力者の前で、青年はおもむろに書架の物色を始める。その背中は、無防備に過ぎた。
反射的に鯉口を切りかけた手を必死で押し留め、タケシが食いしばるように口を開く。
「お世辞にも強者ではないので覚えてないでしょうが‥‥貴方には御恩がありましてねぇ」
「ヨネモトタケシ。三度も相対した相手を知らぬほど、阿呆ではない」
「‥‥それは、光栄ですなぁ」
振り返りもせず応答するその姿に、柄を押さえる腕が細かく震えた。恐怖ではない。見下されている、という感覚が心をざわめかせていた。
それでも努めて冷静を保ち、タケシは一礼する。
「いつぞやは、ありがとうございました。未だ弱いながらも自分は進む事ができた。‥‥このお礼参りは必ずやさせていただきますよぉ?」
「弱い? お礼参り?」
そこで動きを止めると、アルゲディはけたたましく笑い始めた。
「ひはははは! 傑作だ! 自分を強者とも思えぬ奴が、俺に礼をすると言ってのけるとは! あっはははははは!」
「何を‥‥!」
「激昂する気概があるなら聞いてやる。お前はいつ強くなる? この場では勝てないと明言しているようなお前は、いつ俺に勝てるほど強くなるのだ?」
首だけでタケシを振り返った青年に、男は二の句が告げなかった。
事実として、この場に揃った能力者の中で、タケシの実力は一二を争う。ラストホープにおいても、上位といえるだろう。
驕りを戒める精神は重要だが、それは自信を持たない事とイコールではないのだ。
「お優しいことで」
「期待外れの戦いほど詰まらんものはない。避けうる不運は避けるべきだろう?」
ノーンが鼻で笑うも、アルゲディは再び本を物色し始める。
「お優しいついでに、俺からも少し聞きたいんだ。エミタ・スチムソンのこと、とかね」
「哀れな女だ。いや、女という形容は当て嵌まらんか?」
即答された内容に、入り口の扉を固めていたクリスと楓が顔を見合わせた。
聞き役に徹していただけに、その返答の異様さが際立って聞こえたのだ。
「進化を促すだの高説を垂れながら、いざシェイドが危機に陥れば慌てたように弁解するなど、まるでガキ‥‥っと、お子様の対応だろう」
取ってつけたように言葉を繕い、青年は小さく笑う。
「アレならば、まだバークレーの方がマシだ。もっとも、死んだ時点で奴は役立たずだと立証されたのだがな」
「仮にも上司でしょ? 悪口言っていいのかい?」
「俺は自分に嘘はつかない主義でね。くくく‥‥それに、部下から失敗に対しておべっかを使われるのも、惨めなものだろう?」
「人によると思うけどねぇ」
まぁ、喜ぶとしたらそれは駄目な上司の典型だけど、とノーンは思う。
「ねー、今のどう思う?」
「本音半分、といったところじゃないか? 残りは‥‥奴の身分の問題かも」
楓とクリスが小声で話している。
「身分? 何だっけ、トリ‥‥トリケラトプス?」
「‥‥トリプル・イーグル。その地位は、僕らが思ってるよりも特殊で重いものなのかもしれない、ってことさ」
「シンエータイなんでしょ? リリアファンクラブの」
楓の認識は間違ってはいない。間違ってはいないのだが、当たってもいない。
クリスは突っ込みを心中で放棄すると、続けた。
「親衛隊は、要するに直属部隊だ。リリアの命のみに従い、その忠誠心、能力は他の比ではないはずだ」
「むむ、特別ってことか」
「そう。いってみれば‥‥超法規部隊、とでもなるのかな。そういうものかもしれない」
「つまり、何を言っても、何をやっても、リリアの名の下に許されるってこと?」
「それがリリアの手の外に出ないなら、ね」
あくまでも推測だけど、と付け加え、クリスは視線を部屋の中へと戻す。
それらの論理に楓は頷きながら、目の前の強化人間への興味が更に薄れたようにも感じていた。
(「KV戦の借りを返したら、多分忘れちゃうんだろうな」)
リリアという虎の威を借る狐。
それは、ある意味では的を射ている認識かもしれなかった。
●道化
「ああ、部下で思い出した。あのお馬‥‥元気の良い君の部下のこと、聞いていいかな?」
「そういえば、あのいつもの少女は‥‥」
ノーンの言葉で、一千風も思い出したように周囲に視線を走らせた。
アルドラ。アルゲディ配下の強化人間で、理由は不明だが青年に忠誠を誓っているようだ。
「聞いてどうする? アレが聞く価値のある存在とも思えんがな」
「それが理由よ。‥‥貴方が、あの少女を傍に置く理由が分からない。そして、あの子が何故ああも貴方に心酔しているのかも」
「‥‥だってさ」
台詞を取られた、というようにノーンは軽く舌を出してみせる。
「便利だろう? 俺の命なら何でも聞き、嫌な顔一つせず実行する手駒。実力は不足に過ぎるが、キメラをつけておけば大抵は事足りる」
「‥‥リリアにとっての貴方のように?」
「そうだ」
「そうやって、貴方はいくつの命を弄ぶつもりだ!」
一千風の脳裏に、世迷言と共に自分を傷つけたことと、アルゲディの身代わりに灰となって消えた男とがよぎる。
抑えられなくなった感情が、強い言葉となって溢れた。
「ふ‥‥その言葉を聞いたら、アルドラは怒るぞ? 少なくとも、俺に従うことを選んだのはアレ自身だ」
「‥‥意外ですね」
広い窓から見える街の様子を見下ろしながら、鴉が呟いた。
今のところ、ホテルの周囲に異変はない。見える範囲で、ではあるが、アルゲディへの救援部隊などが動いている気配は感じられなかった。
「メトロポリタンXが陥落した時は見物だった。人類の英知の結晶だったはずの大都市が一瞬にして崩壊し、住民は混沌と阿鼻叫喚の渦に叩き落された。‥‥その中で、アルドラは生贄にされたのさ」
「生贄、ですか」
怒りの視線を青年に縫いとめたまま口を噤んだ一千風に代わり、鴉が聞き役を引き継ぐ。
「混乱に陥った都市では、古今暴徒が発生するものと相場が決まっている。仲が良かったはずの隣人、友人、顔見知り。それらがよってたかってアルドラの親兄弟を殺し、次の標的にアレを選んだ。暴徒に女を与えれば、どうなるかは想像がつくだろう?」
「‥‥ええ、まあ」
言葉を濁して、鴉は少しだけ目を伏せた。
「俺は丁度、そういう暴徒どもも含めて住民を鎮圧して回っていた。くく‥‥奴らの断末魔は、今でも覚えている」
「鎮圧、ね」
ものは言いようだ、と男は肩を竦める。
「後は分かるだろうが、ま、その時に偶然、俺はアレを助ける形になった。行為自体は未遂だったが、その時点で既に壊れていたようだな」
「何故、その時に殺さなかった」
腕を組んで話を聞いていたトヲイが、重々しく問うた。
「さて、気まぐれとしか言えんな。放っておいても野垂れ死ぬだろう、という見込みもあったが」
まさか、後をついてくるとは思わなかった。
そう呟いて低く笑う青年の目に、暖かみは微塵も感じられなかった。
「貴方は、そうやって自分を慕う少女をも利用するのですな? 無機物のように、何の情もかけずに‥‥!」
思いもかけぬアルドラの境遇に同情したか、あるいは共感するところでもあったのか、タケシが声を震わせる。
「お前は本当に‥‥人間を止めていたのだな‥‥」
何処か悲しげな、そして静かな怒りを湛えた言葉が、トヲイの唇から零れる。
鴉はそんな二人を茫洋と見つめながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば‥‥マイヤーとブリジット、お元気ですか?」
その反応は意外だったようで、アルゲディはそこでようやく体を書架から振り向かせた。
「優秀な部下さ。あいつらのアイデアの一つと引き換えに、神戸の山羊座が協力したと聞いている」
「‥‥あまり張り切って欲しくはありませんが」
「俺の留守中に、フーバーダムの防備は首尾よく整えられている、と報告が入った。それも、あいつらの功績が大きいだろう」
手遅れだったか、と鴉はため息をつく。
それでも気を取り直すと、懐からレッドカレーのレーションを取り出す。
「ついでに、レッドカレーいりますか? ああほら、栄養豊富みたいですし、傷の養生にでも」
「お前は変わった奴だな、カラス。だが、生憎俺は甘党でね」
冗談のつもりなのかどうか、そのまま書架から離れると最初にいた位置へと戻り、置いてあった本の上に二冊ほどを重ねる。
その音に、安全装置を解除する音が重なった。
「サキ、だったか。腕を上げたな? 脳髄に氷を突っ込まれたかのようだ」
「貴様の眉間を撃ち抜くまで‥‥俺の戦いは終わらない」
それは彼なりの、改めての宣戦布告だったのかもしれない。
と、その銃身へトヲイが静かに手を置き、ゆっくりと下げさせた。
「お前がその気になっていれば、俺は既にこの世にはいなかったはずだ」
瞑目したまま、過去の幾度かの戦闘を思い起こす。
「今、手負いのお前を逃がすことは傭兵として失格だろう。だが、この形での決着は俺は望まない」
「同感ですなぁ。ここは、その舞台ではない。そう思いますよぉ」
柄を握っていた手を放し、タケシが頷いた。
それに続き、一千風が静かに、決然と言い放つ。
「貴方は、私にとって倒すべき敵。その認識だけで、私には十分に過ぎる。‥‥いつか、必ず」
「くくく‥‥。そう、俺はお前たちの敵だ。それでいい。‥‥良い目をするようになったな、イチカ」
満足気に呟くと、アルゲディは重ねた本を無造作に掴み、ベランダに繋がる窓へと向かう。
開かれた窓は、建物の高さゆえに一瞬突風を伴い――それが収まった時、青年の姿は消えていた。
「狼は十階から、飼い主は二十階から飛び降りか‥‥」
咲の苦々しげな声は、再び入り込んだ突風に散って消えた。
「あれでよかったのかい?」
エントランスまで降りてきたところで、ノーンが笑って言う。
「よくはないさ。しかし、責任は取るつもりだ」
「言われたままでは、自分も終われませんしなぁ」
トヲイとタケシが、何か吹っ切れたような表情で答えた。
その隣で、楓がはてな顔で考え込んでいる。
「そーいえば、何でゲディちゃんは本なんか盗ってったんだろう」
「もう来ない、とか言ってましたからね。お気に入りを持ち帰ったんじゃないですか?」
「なるほど‥‥。こそ泥にランクアップさせてあげよう!」
鴉の説明に納得したようで、彼女はアルゲディの脳内ジョブを盗賊に変更したようだった。
その様子に、クリスは小さくため息をつく。
「ランクアップかい? それは‥‥」
一足先に外へ出ていた咲と一千風は、背中越しにその会話を聞きながら共に同じ方向‥‥南東を向いていた。
「フーバーダム。奴はそこにいる」
「墓標にしては、少し大きすぎますがね‥‥」
最終幕の舞台を思い浮かべながら、二人は空を仰いだ。
いつの間にか傾き始めた太陽に、往時の輝きは無い。
「しっかしまぁ」
「お? どうしたのかにゃ?」
ぐったりとした調子で呟いたノーンに、楓が振り向いた。
「骨休めの依頼だったのに、なーんか凄い疲れちゃったよ」
「あー‥‥それは、同感だじぇ」
閑話休題。