タイトル:花言葉は忘却マスター:瀬良はひふ

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2011/02/21 13:57

●オープニング本文


「メトロポーリタン、みゅ」
「唐突になんです」
 北米某所のバグア基地、その一角の研究室。
 バグアの科学者であるアルフレッド=マイヤーと、その助手のブリジット=イーデンはここにいた。
「暇だなー、と思ってさ。ギガワームにいるよりはマシだけど」
「だからといって、急に歌いだすのはやめてください」
 生返事を返しながら、マイヤーは大きく伸びをした。
「しかしまぁ、スチムソン博士を取り逃がすとはねー。リノのミスというより、これは人類をほめるべきなんだろうけど」
「‥‥」
「僕らの情報でも得たかな? あの人、常軌を逸した天才だったし」
「ご存知だったのですか?」
「まーね。ずいぶんと前の学会で。その頃は僕は学生だったけどー」
 懐かしむような、とは少し違う様子でマイヤーは呟く。
 ブリジットも、何か複雑な表情を見せていた。
 多少重みを増した空気の中で、白衣の裾を弄びながらマイヤーはつまらなそうにいう。
「‥‥最近強化人間作ってないなぁ」
「素材なら、ストックがありますが」
 事務的な助手の応答に、男は首を捻って唸る。
「ああいうのを弄ってもねぇ‥‥。こう、もっと精神的に面白くないと」
「‥‥葦原光義やウィリアム・マクスウェルのように、ですか?」
「そうそう。あとは、アルドラのように、かな。あー、彼女の本名は‥‥」
「‥‥アリス・シェーファー」
「それだ」
 つかえが取れた、とマイヤーは笑うが、対照的にブリジットは嘆息している。
 この悪趣味なこだわりと気まぐれさえなければ、マイヤーはバグア内でもずいぶんと出世していただろうに、とついつい詮無い想像をしてしまったのだ。
「その辺のごろつきを強化したって無益さ。成長には信念が必要だよ」
「‥‥素質というものもあります」
「アルドラのように、かい?」
 あははと笑いながら、白衣の男は楽しげにうなずく。
 ブリジットは僅かに目を伏せ、ぽつりとこぼした。
「あまり、思い出させないでください」
「‥‥ふふ、君は科学者向きじゃーないかもね」
 そういって、マイヤーは立ち上がる。
「罪の意識という奴かな。慰めにもならないけど、『許される罪はない』、よ」
「‥‥」
「許す云々は要するに、忘れるか、目を背けるか、さ。僕はそう思う。そもそも、許されるなら、それは『罪』じゃあない」
 パラドックスだね、といって男は笑う。
「哲学も専門とは、知りませんでした」
「何かを追求してるとね、自然と身につくもんだよ。きっと」
 くつくつと喉を鳴らすマイヤーに、ブリジットはもう一度嘆息した。
「それにしても」
 ひとしきり笑うと、男は顔を上げる。
「許すとか許さないとか、身勝手な話だよねぇ」
「‥‥まったくです」
「その意味じゃあ、あの人はずいぶんとロマンチストだったんだな」
 今度は懐かしむように、マイヤーは呟いた。
「狂人だから理想を追えた‥‥というより、理想を追ったから狂人になったのかなぁ」
「夢のような話です」
「まったくだね」
 けらけらと軽く笑うと、マイヤーは研究室を出て行く。
 それを見送ると、ブリジットもまた机の上を少し整理してから部屋を後にした。


 ブリジットはラスベガスに来ていた。
 喪服のような黒いドレスを纏い、やはり黒の帽子から黒のベールを下ろした彼女の顔をうかがうことはできない。
 余程親しい者でなければ、一見して彼女だと判別もできないだろう。
「ずいぶんと賑やかになったのね」
 ラスベガス市内は、まさに復興途上という様相だった。
 建材を運ぶ車両が走り回り、あちこちから建築作業の音が聞こえる。
 一時期よりは減っているようだが、街を防衛するUPCの兵士の姿もあちこちに見られた。
 そんな労働者や兵士を相手にする飲食店や商店が、既に何軒も店舗を構えている。
 もしかしたら路地裏には、もういかがわしい店もあるのかもしれない。
「忘れることで、人は前に進める‥‥か」
 そんな街を通って彼女が訪れたのは、ある公園の中の慰霊碑だ。
 ラスベガスとフーバーダムを巡る戦いで命を落とした人々は、兵士に限っても軽く三桁に達する。
 綺麗に磨き上げられた石碑の表面に、犠牲となった彼らの名前が一つ一つ丁寧に掘り込まれていた。
 真新しい花々やお供え物の数々が、そこに縛り付けられた者たちの思いを告げている。
 それらを横目に、ブリジットは掘られた名前を指でなぞっていく。しばらくして小さく息をつくと、彼女は指を離した。
「当然、ね」
 アリス・シェーファーという少女の名前は、そこにはない。
 もう、彼女は忘れられたのだろうか。‥‥許されたのだろうか。
「貴女は、不満でしょうけど。流石に、滑走路に花は手向けられないわ」
 強化人間、アルドラが息絶えた場所は、現在のUPCネリス基地の滑走路のど真ん中だ。
 仮にブリジットが一般人でも、近寄れる場所ではない。
 慰霊碑への献花は次善の策なのだが、少女はきっと嫌がるだろう。
「‥‥確かに、科学者向きじゃないわね」
 自嘲気味に微笑むと、彼女は白いポピーの花束をそっと供える。
 そして少しだけ瞑目すると踵を返し、そのまま振り返ることなく歩き去っていった。

 その頃、市内を警備するUPCの屯所にある連絡があった。
「何です?」
「妙なタレコミがあったらしい。バグアの研究者が一人、市内にいるとか何とか」
 若い兵士が守備隊長に問うと、そう返答が返ってくる。
 だが、隊長は首を捻っていた。
「‥‥バグアのシンパだとかならわかる。だが、何で研究者が一人、なんだ?」
「は‥‥」
「いや、変だろう。内容が具体的すぎる」
 あ、と兵士は納得する。
 研究者ということは、バグアの中で動いているということだ。
 しかも、この街に一人できている、つまりある程度の自由が保障されているということは、拉致されて研究を強要されているというわけでもない。
 すなわち、タレコミは単なるいたずらか‥‥あるいは「バグア内部からのもの」か。
「ま‥‥いたずらだろうが、念のため巡回中の能力者には連絡しておけ。もし本当なら、兵士じゃ役に立たん」
「了解!」
 このとき、ラスベガスの警備の手伝いという依頼を受けて、ラストホープから幾人かの能力者が市内へと入っていたのだ。
 若い兵士は敬礼を返すと命令を復唱し、きびきびと伝令に走った。

「‥‥あ」
 ラスベガス市内の、未だに瓦礫が撤去されていない雑然とした区画にマイヤーがいた。
 その手には、やけに大きな通信機が握られている。
「帰ったら怒られるなぁ、これ」
 気づかなかった、というように男は頭を抱えた。

●参加者一覧

白鐘剣一郎(ga0184
24歳・♂・AA
煉条トヲイ(ga0236
21歳・♂・AA
北柴 航三郎(ga4410
33歳・♂・ER
ハンナ・ルーベンス(ga5138
23歳・♀・ER
カルマ・シュタット(ga6302
24歳・♂・AA
赤崎羽矢子(gb2140
28歳・♀・PN
杠葉 凛生(gb6638
50歳・♂・JG
ドゥ・ヤフーリヴァ(gc4751
18歳・♂・DF

●リプレイ本文

●花一片
 復興途上のラスベガス。その警備の手伝いということで集まっていた能力者たちに、守備隊長からタレコミの情報がもたらされた。
「タレコミの内容がこれでは、確かに不審に思うのも無理はない、か‥‥」
 苦笑したように白鐘剣一郎(ga0184)がいう。
 バグアの研究者が一人市内に紛れ込んだ、という内容はどうにも妙だ。
「研究者‥‥ねぇ。ここで何か起こすことはない、気がするけど」
 赤崎羽矢子(gb2140)もまた首をひねる。
 仮に情報が本物だとしても、ラスベガスにはまだUPCも駐屯しているし、研究者一人ではたとえ何かを企むにしても限度がある。
(‥‥まぁ、警戒するに越したことはないか)
 ぬぐえぬ胡散臭さを感じつつも、カルマ・シュタット(ga6302)はひとまずそう結論する。
 他の者も概ね同様の結論に至ったようで、注意しつつ市内を探してみることとなった。

 ハンナ・ルーベンス(ga5138)はジーザリオに乗って一足早く都市の外縁部、つまりは現時点で瓦礫しかない区画へと向かっていた。
 理由としては、車もあるしちょっと遠回りしてみましょう、程度のものだったかもしれない。
「あら‥‥?」
 当然というべきか、そこで見かけた人影についても、彼女は建設業者の人と勝手に思い込んでしまった。
「そこの方!」
 運転席から声をかけた瞬間、その人物がビクリとしたことを彼女は完全に見落としている。
 それがバグアの科学者、アルフレッド=マイヤーだとは思うよしもない。
 実際、白衣に大きなサングラスというマイヤーの服装は不審そのものだ。
 が、彼女にとってそれは疑いの材料になりはしない。
「この一帯は、ヘルメットが無いと立ち入り禁止です。気をつけて下さいね」
 男に近寄りながら、女神の微笑を浮かべて工事用の安全帽、いわゆるドカヘルを手渡すハンナ。
「あー‥‥こりゃどうも」
 素直に受け取った男にいいえと礼を返しながら、ハンナはジーザリオに乗り込むとその場を去っていく。
「‥‥うーむ」
 ヘルメットを被って不審度が跳ね上がった男は、何度も首をひねりながら瓦礫の中に戻っていった。

 同じ頃、大通りには剣一郎に煉条トヲイ(ga0236)、カルマ、羽矢子といった面々がいた。
 とはいえ、四人が固まって動いているわけではない。
 剣一郎とトヲイは通行人を見定めつつ、時折話を聞くなど情報収集に精を出しているし、カルマもそれとなく路地裏に回ったりして不審な人物を探しているようだ。
 羽矢子については、余り捜索には熱心でないらしい。活気付く街の様子を楽しげに眺めながら、軽く鼻歌などを歌っている。
「どこから手をつけたものか‥‥と見回ってみたけど」
「けど?」
「いや、人の力はすごいものだな、と」
 しばらく後に合流すると、カルマはそんなことをいった。
 羽矢子は頷いて、空を仰ぐ。
「あれから、そんなに経ってないのにね」
 ラスベガス自体が解放されたされたのは一年と三ヶ月ほど前だが、本格的に復興事業が始まったのはまだまだ最近のことだ。
「‥‥」
 何かを思い返すように、トヲイも視線を空に流した。
「こういう活気は好ましいな。‥‥露骨に怪しい人物はいないようだ。俺は、もう少しこの辺りを張ってみるよ」
 剣一郎はどこか楽しそうに首肯した後、静かにそう告げる。
 わかった、と頷くカルマと羽矢子はそれぞれに別の場所へと向かうようだ。
 カルマは路地裏、トヲイと羽矢子は公園の慰霊碑である。

 公園の慰霊碑へ向かう者はトヲイと羽矢子の他にもいた。
 杠葉 凛生(gb6638)は真っ先に向かった口であるし、ハンナも向かうつもりだという。
(情報が悪戯でないならば、その研究者の目的は何だ‥‥?)
 凛生は慰霊碑の前に佇み、沈思していた。
 少し前に、喪服の女を見かけたという話は聞けている。
 タレコミを信じるならば、その女性が研究者である可能性が高い。
 だが、目的がわからなかった。
「‥‥あの戦いで命を落とした人々の慰霊碑、か」
 いつの間にか、トヲイが凛生の隣に立っていた。
 この一帯を巡る戦い、その記憶がトヲイの脳裏を過ぎる。
 目を閉じ、黙祷を捧げる男に釣られるように、凛生も目を閉じた。
 少しして、目を開いた二人の視界に碑へと供えられた花束が映る。
「これは‥‥」
「ポピーですね」
 背後から、そう声がかけられる。振り返った二人に、ハンナが小さく会釈した。
「ポピーの花束? 供えるにしては、些か不釣合いな‥‥」
 視線を花へと戻しながら、トヲイが首を傾げる。
 ええ、と頷き、ハンナが言葉を継いだ。
「花言葉は‥‥確か、忘却」
 死者を忘れたいということなのか。それとも、忘れたくないということなのか。
 ハンナは少しだけ考え、首を振る。すぐに結論が出るような問いではない。
「死者に花を手向ける、か」
 響きのよい低音で、凛生が呟く。
 三人の間に沈黙が下りたところに、羽矢子が遅れて現れる。
 その手には、瑞々しい花束があった。
「や、花屋が一軒しかなくてさ」
 軽く言い訳をしながら、彼女は慰霊碑に花を供えると黙祷を捧げる。
 それが終わるのを待って、トヲイが声をかけた。
「その花屋、場所を聞いていいか?」
「ん? 一つ向こうの区画だよ。雑貨屋の隣だったかな」
 ありがとう、と礼を述べるとトヲイは歩き出す。
 それを見送りながら、ハンナが口を開いた。
「私と杠葉さんはこれからカフェに向かいますが、赤崎さんは?」
 その問いに、羽矢子は少しだけ考えるそぶりを見せる。
「‥‥そうだね、もう少し街をぶらつくよ」
「何かあれば、これに連絡する。そちらもな」
 凛生がそういって無線を示せば、了解、と彼女は小さく手を振る。
 その傍らで、白いポピーが微かな風に揺れていた。

●喪服の女
 ドゥ・ヤフーリヴァ(gc4751)が最初にカフェに向かった理由は、余り明確ではない。
 何となく、あるいは勘とでもいうべきものだったろう。
 故に、少年が彼女、ブリジット=イーデンにカフェのテラスで遭遇できたのは、偶然の産物だった。
(黒いドレス‥‥喪服?)
 抱いたのは、違和感。
 死者を悼む場として、この街は少しだけ賑やか過ぎる気がした。
「あの‥‥失礼ですが、同席、いいですか?」
 ドゥは、意を決して声をかける。
 ブリジットはベールに覆われた顔を少年に向けると、静かに頷く。
「その‥‥葬儀の後か何かですか?」
 対面に腰を下ろしたドゥは、僅かに躊躇ってから問う。
 ブリジットは黙したままだった。
 小さく音を立てて、彼女の手元のカップがその口元に運ばれる。
「‥‥僕も、ついこの前にある二人が死んだのを見ました」
 沈黙を肯定と捉え、少年は話を続ける。
「僕たちは、その人たちと命のやり取りをして‥‥結果として、その人たちは並んで自爆していきました‥‥」
 涼しげな陶器の音が鳴る。
「彼らにも、絆みたいなものがあるんじゃないかって‥‥話し合えるなら、分かり合えると、そう思ったんです」
 バグア、あるいは強化人間の話であると、事情に通じる者ならば分かっただろう。
 ブリジットも例外ではない。だが、彼女は黙ったままだ。
「彼らともっと早く会えていたら‥‥奇跡があれば、殺し合いなんてしないですむと、思いたかった」
 そこまでを話すと、ドゥもまた口を噤む。
 中途半端な時間帯のカフェは、閑散としている。奇妙な沈黙が、二人を包んだ。

「あ、光物見つけた」
 GooDLuckを発動しつつ路地裏を歩いていたカルマは、道端に半ば埋まっていた指輪を見つけていた。
 恐らく、かつての混乱の最中に持ち主と別れたものだろう。
 裏側には、持ち主のイニシャルだろうか、P.W.の文字が彫られている。
「‥‥何か違う気がする」
 カルマは一人、苦笑した。
 指輪は、後でUPCにでも届けよう。そう考えてポケットにしまい、彼は気を取り直して歩き始めた。

 カップがソーサーに置かれる音で、ドゥは視線を上げた。
「――お話は終わりかしら」
 不意に、ブリジットが問う。
 涼やかな声音に、少年は反射的に頷いた。
「‥‥長々とすみません。ありがとうございます」
「構わないわ。‥‥お仲間?」
 す、と彼女が示した方向へドゥは顔を向ける。
 ちょうど、ハンナと凛生、その後に少し遅れてトヲイがテラスの入り口をくぐるところだった。
 三人はすぐに二人の姿に気づいたようだ。
「どなたかは存じませんが、お悔やみ申し上げます」
 ハンナは、喪服のブリジットを少しだけ気遣うように頭を下げる。
 それには応えず、喪服の女は静かにカップを取り上げた。
 その目の前に、一輪のポピーが差し出される。
「花言葉は『忘却』――これを供えたのは、お前か‥‥?」
 トヲイが、静かに問う。
 先ほどの花屋で、確かに喪服の女がポピーを買った、という情報は得ていた。
「ええ」
 それを察したわけでもないだろうが、ブリジットは静かに肯定する。
 その表情は伺えないが、言葉に動揺の色は見えなかった。
 現時点で、喪服の女がバグアの研究者である確証は、能力者にはない。限りなく黒には近いが。
 そこで、トヲイはカマをかけた。
「‥‥アルゲディやアルドラに別れを告げに来たのか?」
 ゆっくりと紡がれた台詞の、アルドラ、の部分で女の体が一瞬固まったことを、トヲイと凛生は見逃さなかった。
「目立たぬようにするなら、別の服装もできたろう。‥‥今更、何を祈る?」
 凛生の言葉に、女は小さく笑ったように見えた。
「さぁ‥‥。私にも、わからないわ」
「‥‥抵抗しないなら、手荒な真似はしない」
 そういうトヲイに応じるように、かちゃりとカップが置かれた。
 抵抗の意思はないように見える。あるいは、余裕なのだろうか。
 と、ハンナがゆっくりと口を開いた。
「私もかつて、大切な『家族』と慕う方々を亡くしました。その時は、唯々この事を忘れまいとしか思えなくて‥‥」
 かみ締めるように、彼女は続ける。
「けれど、今‥‥思い出は私の心の中に、確かに。だからこそ、人は忘れる事ができるのです‥‥」
 ハンナはそっとポピーに触れる。同時に吹いた風が、黒のベールを少し揺らした。

●笑う研究者
 カフェに四人が集う少し前。
 北柴 航三郎(ga4410)は、瓦礫の前で唖然としていた。
「まだ、この辺は瓦礫が一杯だなぁ‥‥」
 復興に沸く市内とは対照的に、荒涼たる空間が一面に広がっている。
 市内はともかく、この辺りを捜索となると骨が折れるに違いない。
 そんな予想と、タレコミを聞いたときからの嫌な予感が航三郎に肩を落とさせる。 
 死角の多い地域を双眼鏡で見渡しながらも、その予感は膨れ続けていた。
 それは、程なく現実となる。
 双眼鏡から目を離し、場所を変えようと歩き出した彼は、物陰から出てきた人影と危うくぶつかりそうになった。
「おっと、これはすいませ‥‥って」
 ドカヘルにサングラス。怪しさ抜群の人影に、航三郎は強い既視感を覚える。
 一瞬で記憶が像を結んだ。
「貴様、ここで何ばしよっとか!」
「あー‥‥」
 咄嗟にシャドウオーブを向けた航三郎に、マイヤーは疲れたようにため息をつく。
 それには頓着せず、航三郎は続ける。
「今日は助手がおらんと‥‥遂に愛想ばつかされたか」
 ないない、と力なく手を振るマイヤーだが、航三郎は油断なく間合いを取る。
 何とか無線で仲間を呼びたいが、逃げ足の速い相手だ。
 どうするかという逡巡の間に、マイヤーが耳に手を当て、おやと表情を変えた。
「‥‥悪いねぇ、ちょっと急用が入ったみたいだ」
 欠片も悪いとは思っていないようにいいながら、マイヤーは驚くべき瞬発力で跳ぶ。
「しまっ‥‥! こちら北柴です! バグアの研究者が市内に向かってます!」
 後悔も束の間、航三郎は無線にそう叫ぶ。
「警備状況の様子見か‥‥何でわざわざこんなこと‥‥」
 マイヤーの姿が消えた後、尽きぬ疑問だけが航三郎の脳裏を過ぎり続けていた。
 彼がブリジットの存在を知るのは、皆と合流した後のこととなる。

 カフェの面々にその無線が届くのとほぼ同時に、ブリジットが静かに立つ。
「まったく、あの方は‥‥」
 小さな呟きと同時に、女はベールを取った。
 その下には、口元のみが覗く仮面がある。
「周到なことだ」
「生憎、厄介な上司と同僚に囲まれております」
 鼻を鳴らす凛生に、ブリジットは淡々と答えた。
 そんな彼女に、トヲイが声をかける。
「アルドラは‥‥敵ながら、天晴れな最期だったよ」
「‥‥ふふ、あの子は喜ばないでしょうね」
 微かにブリジットの口元が綻び、ありがとう、と動いた気がした、その刹那。
 小さな音がして何かがテラスに投げ込まれた。
 直後、煙幕が辺りを包み込む。
「――次にいらっしゃる時は、薄雪草を! ‥‥『大切な思い出』は、誰にでもあるのですから!」
 咄嗟に、ハンナが叫んだ。
 濃い白煙の中、冷静に凛生が無線を取り出し、告げる。
「杠葉だ。カフェから研究者が逃げた。二人だ」
 突然の煙幕に、周囲の一般人が騒ぎ始める。四人は二人を追う前に、彼らを沈静化させなくてはならないようだった。

 路地裏を、ブリジットを抱えたマイヤーが走る。
 その先に、羽矢子が降り立った。
「はぁい。お急ぎかしら」
「っとと、早いなぁ」
 慌てて急ブレーキをかけたマイヤーの背後にも、気配が迫る。
 ふと男が振り返れば、剣一郎とカルマの二人だ。
「大人しくしてもらえれば、幸いですが」
 カルマがセリアティスを構える。剣一郎も、紅炎を抜いている。
 どうしたものかなぁ、と頭をかくマイヤーの声に、羽矢子は少しだけ覚えがあった。
「――ああ、アルゲディの体持っていった奴か。‥‥あたし達が、スチムソン博士からどこまで情報を得たかカマかけに来た、とか?」
「ん? いや、単に面白そうだなぁって痛っ!?」
 その答えに、抱えられたブリジットが鋭い拳を男の顎に当てる。
 緊張感に欠けるやり取りに、羽矢子は少し脱力しながらも続けた。
「一つ、いい? バグアがヨリシロとする人が妊娠してたら、その子はどうなるの?」
「うーん‥‥ケースバイケース、としかなぁ。適切な処置をしてれば、生きてるだろうけど」
 乗っ取る前に取り出すとか、と割とえぐいことをマイヤーはいいつつ、白衣の袖をごそごそと揺する。
「こちらに従う気はない、か」
「そりゃねぇ」
 確認するような剣一郎の声に男は笑うと、何かがその足元に落ちた。
 能力者たちが身構えた瞬間、凄まじい閃光が路地裏を照らす。三人は辛うじて目を閉じるが、目を開くと辺りは白煙の渦だ。
 視界がやっと晴れた頃には、二人の気配は微塵もなくなっていた。
「偵察かとも思ったが‥‥やれやれ、まんまと踊らされた感じだな」
 疲れたように剣一郎が刀を納める。
 結局、目的は不明瞭なままだった。だが、僅かに情報が得られなかったわけでもない。
(ソフィア‥‥)
 去り際のマイヤーの言葉に、羽矢子は南の空を見上げる。
 路地の隅に凝った白煙の残滓が、風に揺らめいた。