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某所某日某時刻――
そこは、視界いっぱい、色とりどりの花の絨毯が広がる丘だった。
その敷物へと足を踏み入れる、長身の影。
長い銀色の髪をそよ風、散る花びらと共になびかせる様は実に美的で、そこだけどこかの絵画から切り取ってきたような光景だった。
まるで本物の毛織物のように、柔らかな感触の花々を踏みながら道なき道をゆけば、
切り立った岬のような崖、その先に、一つの墓石があった。
その横に、ボロボロのコートを着た男が立っている。
「暑くないかい? 冬眠した時の格好のままなのかな」
銀髪の男――優が、苦笑交じりで目を細めて男に言う。
「へぇ、ぽかぽかとまぁ過ごしやすい季節になったっすよね。つい陽気に釣られて、ついでに優さんも訪れるってんで、慌てて出てきたら着替えを忘れてたみたいっす」
おっと、ついとついでが逆だったっ、と、曲刀を背負う優にも男はひょうきんに言ってのけた。
「まぁ、俺のトレードマークみたいなもんでさぁ。商売人っつーのは、いかに覚えやすく、いかに特徴付いてるかで得意にされるかどうかも変わりやすからねぇ」
「スパイが目立っていいのかい?」
「表だってスパイ活動してるのは優さん達の間でだけですからねぇ。刑事も売人も、顔が広い方が便利なんすよ。さて、早いとこ本題に入っちまいましょうや」
いそいそと、自分の出て来た梯子と優を交互に見やりながら、男は急かすように言った。
「俺も色んなあぶねぇもん売りあるいてきやしたが‥‥心の底から、おっかねぇ、と思ってるのは今がはじめてっすよ。ところで、あのバケモンはいったい誰に売るんすか? あんなの今までと違って買い手がつくかどうか‥‥」
「最後のお客は‥‥僕だよ」
「へ?」
「僕があのキメラを買う。そして‥‥兄さんへの復讐を遂げて、それから――」
「それじゃキメラ商売もこれが最後っすか! いやぁ、よかった。最近は買い手つけるのも難しいし、俺何か一般人っすから何度も危険な目に合ってるんすよ」
優の言葉を遮るようにして、胸をなで下ろし息をつく男。
「ありがとう。君はよく働いてくれたよ‥‥でも、君は一つだけ、僕に売ってくれないものがあったね」
「さてさて、帰りの船の手配を‥‥へ? 融通は最大限に利かさせていただきまs
一陣の風と共に、刃が振るわれる。
風に舞う花弁、咲き乱れる血華、重く赤黒い雨に花々は潰れ、
男は背中からゆっくりと倒れていった。
「あ゛‥‥が‥‥」
口は動き、声が漏れるが、言葉に紡げない。
その内、優の口が開くのを待たずして、白目を剥き、動くことはなくなってしまった。
「‥‥魂は、売ってくれなかったね。君が鍾乳洞の研究所を、兄さんに横流ししていたことは知っていたんだよ」
血に塗れた曲刀もそのままに、墓石の梯子へとゆっくり近付いてゆく。
「君は、刑事の顔の時も密売人の顔の時も、結局利益で動いてたね。とっても人間らしいけど‥‥その人間らしさが、僕は嫌いだ」
既に男の体は視界の外。それでも尚『君』のことを呟くその姿、心はここに在らず。
そして待ち焦がれたものを追い求めるように、童心を感じさせる早足で墓の中へと降りてゆく優。
生臭い匂いが真っ先に鼻を突く、開けた空間に出る。
踊るような足取りで、狂ったように笑いを零しながら、美麗な丘が孕む巨悪の塊へと近付いてゆく。
「早く‥‥早くおいでよ兄さん‥‥僕のこの、枯れ切った人の心に、兄さんの血を注げるのが楽しみでしょうがないよ!!」
粘液の描く跡を辿り、その元を探る。はだかる肉壁の正体を、力強い目が暴く―――
「ほら、兄さんの大好きなものがいっぱいだよ? 昔っから神話とか大好きだったじゃないか! 母さんに叩かれ、父さんに無視される僕の横でも、構わず読み耽るほどに、大好きなんだろう!?」
片手で顔を覆い、厳つい天井を仰ぎながら、笑い声が穴の中で響く。
優は、その足で神へと近付いて行った‥‥。
●
「そういうシステムだったのね‥‥」
ラストホープの特別監視病棟。固いベッドの上に倒れているのは、傷の処置跡だらけのアルベロ。
その横で、オペレーターの柚木 蜜柑が言葉を零した。
殺風景な固い壁に、天井の隅にはカメラ、入り口付近には白衣の天使ではなく武装した男が立っていた。
「バグアと直接やりとりするのは、幾ら人類側の悪人としてもリスクが大きい。けど、一度既にキメラを持っている『密売人』というワンクッションを置けば‥‥って事ね」
「確かに。キメラは基本的に命令を聞かない。でもその凶暴性、フォースフィールドを含め純粋な戦闘力は、人類内に限ればそれは脅威となるでしょう」
タブレット端末を片手に纏める蜜柑の横で、元・キメラ研究員のドルチェ・ターヴォラが分析を手伝っていた。
「ヘリとか航空機で、戦争中の敵の陣地に一体放り込むだけでも戦況は変わるし、丈夫な設備が用意出来るなら、番犬代わりにもなるでしょう。ものは使いようって事ね」
「でも、売るのは資金源とか、バグア側としてキメラを蔓延らせる仕事の為とか、動機はわかるんだけど‥‥なんで優は、キメラの『開発』にも手を出したの?」
「優さんが求めていたのは‥‥神のキメラ‥‥です‥‥」
口の中を切っているのか、アルベロは普段より口ごもり、ゆっくりと話している。
「今までの痕跡では、そうね。神話、伝承をモチーフにしたキメラへの着手が多かったみたいだけど、何故‥‥」
足を組みかえて物思いに耽る蜜柑。ドルチェがその横で端末に今まで雅が追っていたキメラの資料を出してゆく。
「本人の前では、言えませんでしたが‥‥優さんも、執着が、あるんだと思います‥‥」
「執着?」
二人揃えて口にする。アルベロは続きを語る前に、ふと、気づいたように言葉を変えた。
「そういえば‥‥あの人は‥‥」
「雅? 優の居場所はあんたから聞き出せたしってことで、乗り込む準備してるわよ」
「そうですか‥‥」
「やっぱり、自分達にもグレさせる非はあったとはいえ、弟誑かした張本人と同じ部屋で仲良くお話ってワケには‥‥」
そこまで言って、口を閉じるドルチェ。言い過ぎたか、と静まる部屋で、蜜柑が真っ先に口を開く。
「まだ複雑なのよ。自分も許せない状態で、他人をどうこうってのも考えられないんじゃないかしら。けど、降参に応じたからって話をつけて無理やり詐欺まがいの司法取引にこじつけて、独房行きを病棟に変えさせたのは、雅本人よ?」
意外な顔をして驚くアルベロとドルチェ。素直じゃないわよね、と苦笑して蜜柑がデータ入力を続ける。
アルベロから聞き出した、優が密かに長年かけて開発させていた、神のキメラのデータをまとめる端末から目を離さない。
彼女は好奇心で話を聞いたり、アルベロの身を案じて見舞いをしているわけではない。
彼女なりに、今出来ることを精一杯、雅の、そして一緒に赴く仲間達の為に、全力で戦っているのだった。
●リプレイ本文
●
「そうだ‥‥俺は前を見ていた‥‥‥見過ぎていたんだ‥‥」
出発前、エイミ・シーン(
gb9420)と共に自販機横のソファーに座っていた雅。
座ってから、ろくな会話をせず30分、ようやっと開いた言葉だった。
「ひたむきに前を見る事で、過去の過ちから目を背けていた。過ちなのかすらも気付けなかった。たった一度でも振りかえり、あいつの事を見てやれれば‥‥こんな事には‥‥」
吐瀉するように言葉だけが流れていく。せき止めるものは、何もない。
微かに震える体。声も掠れている。こんな事、口にしたくはない。だがせずにはいられない。そんな葛藤に負けた言葉の一つ一つが、絞るように流れ出てくる。
「あいつに、銃を向けることはなかったんだ‥‥俺は‥‥俺はこんなもの欲しくはなかったっ!!」
左手の甲をガツンと横の壁に叩きつける。
大きな音と、エミタから響き伝わる痛みに、幾分の冷静さを取り戻す。
何をしているんだ―――後悔と自戒の念に駆られ、慌てて横を見ると。
エイミは、隣にいた。
ここまでの醜態を見て尚、うろたえることはおろか、雅の傍を離れようとはしなかった。
「大丈夫ですかー?」
穏やかな顔で首を傾げて、チャップスを一つ差し出す。
やめるか? それは、引き止める、様子をうかがう言葉ではない。
立てるか? 私が支える場所はあるか、立ち向かう為の覚悟は出来たか。そんな意味合いを含む『大丈夫か』に聞こえた。
「‥‥すまない。無様な姿を見せた」
頭を下げる雅に、エイミはふるふると首を横に振る。
「いいんですよー。見えないところで無茶しないかが心配なので‥‥こうして、無茶する前に目の前で吐き出して楽になれるのなら、いくらでも聞いちゃいますよ。きっと、それも力になること、ですから!」
包帯の下に傷を隠すぐらいなら、目の前で全てを晒けだしてくれた方が良いのかも知れない。
思えば、エイミとの仕事は長い。能力者なりたての頃から、雅を助け、力を貸してくれていたエイミ。
こんな大人な態度が取れるのか‥‥と、どこか郷愁に似た気分を雅は感じていた。
「‥‥みやびん?」
「あぁ、いや、心配かけた。こんなところを伽織に見られたら、何て言われるかわからんな‥‥すまん」
ぽふ、とエイミの頭に手を置いてから、自嘲的な苦笑をして立ちあがる雅。
そして、受け取った飴を口に含む。
気分を切り替える、甘いコーヒーの味が口に広がるのを覚えながら、外の光が漏れる明るい方へと歩き出してゆくのだった。
●
「いよいよですね‥‥」
ハミル・ジャウザール(
gb4773)が分厚いヘリの窓に手を添え、外の景色を見て呟く。
視線の遠く先に、小さく、だが色とりどりで鮮やかな花により、目的の丘が確認出来た。
雅は両指を組んで前屈みになり熟考の姿勢を見せていた。
黙り込む雅を見て、今給黎 伽織(
gb5215)がじっと見ている。
悲劇を気取るのもいいけど、弟のせいで実害が――以前放った言葉だ。
今回、その言葉を乗り越え行動に移す時が来た。彼は、ちゃんと弟を撃てるのだろうか――
「最初に言っとくけど。みやびん、間違っても弟君と心中してやろうとか、考えちゃダメだぞ?」
依神 隼瀬(
gb2747)が簡単なシートから身を乗り出して言うと、雅はきょとんと、少し予想外だったような顔をした。
「まさか。過去と向き合えないと、未来を選べない。だが俺は未来を選べた。だから今の俺がいる。しっかりと自分の足で、進めている。そんな逃げるような事は今更せん」
立ちあがり、ホルスターを腕から通し、その上からいつものスーツを身に纏う。
「過去を省みなかった分、前はしっかり見ていたんだ。自分の選んだ道に言い訳はせん。これが、今から切り開き‥‥もとい、撃ち抜くのが、俺の選んだ未来だ」
そう言って、鋭く力の籠った視線をぶつける。
ならよし!と隼瀬は親指を立てていた。
「そこまで固い決意があるのなら‥‥私も安心です。雅さんがどうしたいのか、何を望むのか、私はそのために動き、戦いましょう」
立花 零次(
gc6227)が横に立ち、穏やかな笑顔と共に、芯のある語気でそう誓った。
「あ、雅さんが傷つくのは、なるべく無しの方向でお願いしますね。大事な身体なのですから」
それは私がさせません! と跳び上がり浪漫の鉄拳――ロケットパンチを構えて力を込めるエイミ。
その折、コクピットからインカムに無線が入った。丘より少し離れた場所、目標地点へ到達したという旨だった。
次々と慎重に降りて行く仲間達。途中、ロープを掴んで エイミー・H・メイヤー(
gb5994)が雅へと振り返る。
「井上氏生きて帰るぞ。必ずだ。蜜柑嬢や耶子嬢が待ってる。皆でコーヒーを飲もう」
そう言ってから、機内通信用のインカムを外して雅へと差し出す。
ツインテールが暴れる程の強風。全てを振りきる気合いも込めて、聞こえるように雅は声を張り上げた。
『あぁ! 必ずだ! 何でも飲み食いしてくれ! 服や武器を贈ってもいい! だから‥‥俺の財布を空にして見せろ! 全員でな!』
口角を少しだけあげて頷いてから、エイミーは降りていった。
「‥‥全員で、な」
丘の上を見上げる雅。
誰にも聞こえず、そう呟いてからロープを掴みラベリングの姿勢を取った。
●
思わず息をのみ、そして次の瞬間思い切り深呼吸をしたくなるような美しく開けた光景。
色鮮やかな花々が風に揺られ、花弁を舞い散らせ、豊かな甘い香りを運んでくる。
決戦の舞台には、ひどく美しすぎる光景だった。
空が近くなるにつれて、傭兵達の口数も減って来た。
各々の武器を握る手にも力が籠る。緊張感が、力強くなる鼓動が、体を熱くさせていった。
そして、岬の先を臨んだ。
突如―――轟音と共に、墓の下から飛び出すのは、腕。
這い上がるように地面を掴むと、崖の先端部を崩しながら、まるで地球から生まれ出でるように何かが姿を見せた。
下半身は未だ崩れていない崖の下に隠れているが、胸部、肩、首、そして頭部までは確認出来る。
闇の様に漆黒の肌や赤黒い剥き出しの肉、口や喉ではない部分から何体ものキメラが呻く声。
無理やり粘土を捏ねまわしたような、様ざまな邪悪の集合体が人間をかたどっているようなキメラが、傭兵達の前に、現れた。
「酷いな‥‥」
「造形的複合体‥‥とも言い辛いね、子供の悪戯だ」
隼瀬がその醜態に思わず機械剣を落としそうになり、伽織がため息すら出さず平坦に述べた。
「やぁ‥‥兄さん」
「久しぶりだな、弟」
弟、という言葉に流麗な顔の眉をぴくりとひそめる、井上 優。
全員が突如キメラの前に現れた優へ武器を向けるが、彼は怯まない。
「今更、話すことなんてないよね?」
「義理でも義務でもない。俺が、お前と、話したいから来た」
「話? 本当にあったんだ。でも、そんなの建前だよね。 本当は、これが見たくて来たんでしょう? 僕の関わったキメラの集大成、巨神のお披露目だよ!」
「そのような醜悪な姿で神を名乗るとは」
エイミーが居直り、いつ何にでも対応できるよう足に力を込める。
「悪いけど、聞くつもりはないよ。どうせここで死んだら同じだし」
「優、わかった。牙を剥いてもいい、爪を立ててもいい、だから、話だけは「聞く訳ないだろう!!!」
忌まわしいものを振り払うように、曲刀を一振りする優。
「僕の事は一切無関心だったクセに今更耳を貸せ? 冗談じゃない! 母さんに叩かれ、父さんに無視される僕の横でも、構わず読み耽るほどに、好きなんだろう!? ほら、兄さんの大好きな神様だよ?! 昔っからギリシャ神話とか大好きだったよね!!」
両腕を広げ、歯は剥き出し、目は血眼、声も人間の出せる限界な程に掠れて叫ぶ、優。
そこに、普段の妖艶で気取った面影は、最早残っていなかった。
「無視したって言うより、どうして良いか解んなかっただけでしょ」
口を開こうとした雅を制し、守るように片腕を伸ばしてからそう言ったのは、隼瀬。
意外なものを見たような顔に、優の顔が変わった。
「みやびんにも非はあるだろうけど、そういう自分はお兄ちゃんに笑顔見せた事ある? 好意を持とうと努力した事ある?」
「何をわかったような事を‥‥気持ち悪いんだよ! 虫唾が走る!」
「貴方の気持ちなんて知りません‥‥僕は貴方じゃありませんから‥‥」
仲間と、成り行きを静かに見守っていたハミルが、優の言葉に反射的に口を挟む。
は。といつのまにか口を開いていた自分に気付くが、どうしても、黙ってはいられなかった。
「僕は末っ子長男で‥‥かなり可愛がられて来ました‥‥家族は無条件で愛してくれましたが‥‥それでも時々『解ってくれない』と思いましたよ‥‥」
ハミルに沢山の視線が向けられている。舞台は、今や彼を。彼の言葉を、見守っていた。
「家族だから、友達だから、言わなくても解ってくれる‥‥そんなの、ありえないんです‥‥自分とは違う人間である以上‥‥大事な事はちゃんと言わなきゃ伝わらないんですよ‥‥?」
「大事な事? 今更伝えるものなんてない! 聞く事もない! 両親を殺した。兄さんの心を殺した。そして今、今度はその身を滅ぼす事だけが、僕の大事なこと。そう、復讐だ!!」
「それは本当に復讐だけ、かな?」
銃口を向けて、伽織が言葉を振り絞るハミルの肩を持ち、間に入った。
「執念というか‥‥それは、歪んだ愛情だよね。だけど、愛を得られなかった代償に、死を与えても‥‥最後には虚しさだけが残る」
「この、家族を、兄さんを絶望に追い込む為に歩んできた執念が‥‥愛? 笑えないよ」
「‥‥それを知っているからこそ、人を捨て、強化人間に身をやつしたのか。復讐を遂げたら死ぬつもりで、だからこそ刹那的な行動をとる。狂っているようで、とても覚めている」
淡々と、優の事を述べる伽織。真っ直ぐに、いつでも射ぬけるように、心の裏側まで見通すように向けている目。
だが、それはどこか、救いようのない男を少し憐れんでいるような目にも見えた。
「‥‥優、君の行動原理は子供のまま止まってる」
言葉とも呻きとも取れない声を上げて噛みつくように吠える優。
「お前みたいなの‥‥気に入らないな。 兄さんの、次に! 全部見透かしてるかのように喋ってさ!」
「止める事は、いつだって出来ます‥‥」
戦闘態勢を取っていた朧 幸乃(
ga3078)がふと、燃え盛る火を落ち着ける水のように優へ声をかける。
「あなたのお兄さんも‥‥自分の為に、そして、あなたの為に理解を進めた‥‥動機が復讐や恨みであれ、闇に身を落としても、あなたを求め続けた‥‥その意味を、一度、正面から受け止めて欲しい‥‥」
「だから! その僕を何でも知っているかのようないい方「これは、アルベロさんの、言葉です‥‥」
幸乃の最後の言葉に、はた、と口も呼吸も止まる優。
●
ヘリに乗る前、幸乃はアルベロの病棟を訪れていた。
私達は、あなたの大切な人の命を奪う可能性もある。
でも、何か、伝えたいことは、届けたいものはないか、あなたが慕う方へ、届けます‥‥と。
そして聞きだしたのが、その言葉だったのだ。
「優さんには、戦って欲しくないですか‥‥」
「わからない‥‥けど、このままだと優さんは戻ってこれない道へ足を踏み入れる‥‥急いで、欲しい‥‥」
そのままの姿勢で、必ず‥‥とだけ口にし、ドアは静かに幸乃の背中を隠していった。
●
「優。悪いが、心が死んでいたら、俺は、この人数でここに来てはいない。昔馴染みに、いい顔で冗談も言えるようになった。甘えじゃない、人への頼り方も覚えた。そして、自分の人生の一部に共に立ってもらう事を望んだ。俺は確かにお前を恨んだ。両親の喪失に絶望も感じた。だが‥‥変わった。優。お前が壊したい井上 雅は、ここにはいないんだ」
その言葉を聞いて、はっ、と目を開く優。かたかたと小刻みに震える体。
小さく笑っていた時のそれではない、それは―――
「巨神‥‥こいつらは、僕の、この手で死を確かめるように殺す!!」
「どうやら仲直りは兄弟喧嘩の後の様だな、井上氏」
エイミーが大太刀を顔の横で倒して構えると、それに続いてポジショニングを終えた仲間達も武器を構える。
容赦をしたら死ぬ、言葉では無く力で語る空気に変わっていった。
雅の戦闘態勢を確認してから、L・エルドリッジ(
gc6878)――レオナルドが、は咥えているだけだった煙草に―――火を、つける。
エイミがエミタをフルスロットルにして覚醒する。
と、いつもの雪の精のような出で立ちではない。
髪の色は変わらず真紅のままで、やわらかく確かな輪郭の妖精の様な羽が生える。そして、七色の雪の様な光が周囲を舞い出した。
「せめて‥‥悲しい結末にならぬよう全力で行きますよ! みやびんには繋げるべきモノがありますから!」
そして、拳は振り上げられ、引き金は弾かれ、刀は振るわれ―――思いが、ぶつかりあった。
●
巨神と呼ばれたキメラの至る部位から射出される、様々な脅威。
色も形も軌道も混ざりあい、視認するのも避けるのも精一杯な禍々しい光景となり遅いかかる。
「こうも狭いとどこにいても攻撃されるな」
「その為に支援し合うのですよ。私も遅れをとりません」
何本目かの矢をキメラへ突き立てる零次の横で、歯で挟んで咥えていたペイント弾を小銃に装填してキメラへ放つエイミー。
地を削る豪雨のような攻撃、攻撃の放たれた射出口を見極めつつ、隼瀬とレオナルドが射撃を叩きこむことで味方への攻撃を減らすのに必死だった。
その猛攻を隠れ蓑とし、優が姿勢を低くして接近してくる。
抜き身のシャムシールを鋭く顔の横で構え、腰を落とした。
「きます‥‥!」
ハミルがエネルギーガンを撃てるだけ撃って牽制する。
だが優は残像すら残さない鋭いフットワークで確実に回避し抜けていく
宙に浮くと体を捻って伽織へとシャムシールの刃を向けた。
「くっ‥‥!」
断頭台のように静かに鋭く叩きつけられた曲刀を、ライオットシールドで受け止める。
競り合う微かな動きで、特殊な透明樹脂の表面は削られ白い傷が視界を遮る。
「雅!」
「そのまま動くな!」
伽織が声をかけ、雅がリボルバーの引き金を引く。
だが優は絶妙に盾の影に隠れ、伽織の盾を逆に利用してしまう。
「跳弾を使っていたら伽織の寿命を縮めていたかも知れんな」
「今のでも充分だった気がするですよ‥‥!」
回転弾倉を弾きだし、穴に詰まった空薬莢を落とす。
その隙をふわりと横から出てきたエイミがミスティックTを構える。
「動くなって言われただろう?」
足に力を入れた挙動を、盾にかかる重さの変化を、伽織は見逃さなかった。
オルタナティブの中に残ったありったけの弾を優の足元へ叩きこむ。
近距離の狙い澄ました『制圧射撃』に、優は舌打ちと共に下手に足を動かすのを止める。
その体の腕、足元、頭の横、エイミの放った電磁波が発生し体の動きの自由も奪った。
そこへハミルが接近し、その勢いに乗せてクロックギアソードを突き出す。
「目を!」
優の回避を確認し『合図』で伽織達が目を隠す。
そしてハミルは、懐からピンを抜いておいた閃光手榴弾を優の前へと放りだす。
最後に伽織の目に映ったのは、ハミルの腹を通り、ハミルが逃がさないように曲刀を抱えるシルエットだった。
「大丈夫ですか!?」
練成治療を起動するエイミ、ハミルはギリギリで体を逸らしたが、横腹数センチの部分を貫かれていた。
伽織が追い打ちで手、肩、腰、足へと銃弾を叩きこむと、光にやられて意識が届かなかったか、下半身を攻めた銃撃は優へと深く埋め込まれていった。
「シヴァです、避けて!」
見覚えのあるエイミが叫んだおかげで、右腕部から現れた幸乃を狙う太いレーザーはふわりとかわされた。
すると、今度は左腕から這い出るように現れる、トカゲのような蛇の様な生物。
高所から見下ろしていたかと思うと、段々と体が痺れるような錯覚に陥って――
「バジリスクか‥‥!」
そう喋るレオナルドの唇も、喉も、少しずつピリピリと、し始めていた。
銃口が、少しずつ下がっていく。
『レジスト』をかけ、咥え煙草が噛みちぎれそうな程に力を込め、どうにか紅の銃撃を撃ちこむと、バジリスクは引っ込んでいった。
そこへ、またもシヴァが腕から現れ、光を集め始めだした。
先ほどよりも細いレーザーが、痺れるエイミーを抱えた零次へと伸びてゆき、
レオナルドが弾倉の中身を全て撃ち放ち軌道を逸らす。
急所こそ逸れたが、駆けだした零次の足を焼き、地面と共に貫かれてしまう。
そのまま二人で地へ放り出されてしまった。
「私とした事が‥‥大丈夫ですか?」
先に立ち手を差し出す零次。
そしてその手を、ぱしっ、とはねのけるエイミー。
そんな事をするはずが、状況と信頼の不一致に、一瞬頭が白くなる零次。
「ダメだ、離れて!!」
隼瀬が叫び『零次を援護』するようエイミーの足元へ銃撃を放つ。
零次がいた地面には、エイミーの刀が突き刺さっていた。
「混乱‥‥いつのまに‥‥」
エイミーへの練のリンクを一旦解き、且つエイミーと零次を治療する幸乃。
注視すれば、キメラの脇腹辺りには、酒瓶のようなものを携えた男の姿が剥き出しになっていた。酒の神、ディオニュソスの酩酊である。
「う‥‥」
エイミーも頭を抱え『キュア』で必死に抵抗している。
抵抗の機会を増やすだけのキュアでは、回復の決定打にはならずにいたが、突き刺した刀を抑えつけ、仲間へ刃を向けないよう必死に抗っていた。
「戦々恐々、ボロボロなんじゃないかな?」
そんな中、優は自分だけ飛びあがり、キメラの開く手の平に着地していた。
今もなお香る酒の香り。必死に抵抗し、支え、気つけに体を叩いたりしてどうにか持ちこたえている。
が、手数の多さに体力を削られ、レオナルドに至っては、覚醒出来るかの瀬戸際で、最早幸乃の魂の共有無しでは既に練の限界が見えていた。
「最後の仕上げだね‥‥兄さんは大好きな『神様』に殺される‥‥そう、僕が神となって、兄さんを滅茶苦茶にしてやるんだ!」
錠剤のように優をつまむキメラ。
そして、大きく口を開けると、その優を、堂々とした態度の男を―――飲み込んだ。
「融合か‥‥? されると厄介だ、そのまえに決着をつける!」
息の荒いレオナルドの示唆した『融合の阻止』
その可能性に傭兵達は再び武器を握りだす。
隼瀬と幸乃は、顔の部分へと向けてもう一度『虚実空間』を作り出した。
「エイミーさん、いけますか?」
「遅れを取った‥‥いこう」
二人のエースアサルトが駆けだし、動きを止めているキメラの前で跳躍。
フォースフィールドに阻まれて、壁のような体に手と足をつけることはできない。
が、赤い障壁ごと突き破るように、刀を突き立ててどうにかぶら下がった。
「使え!!」
雅が零次の横へ苦無、エイミーの横にサバイバルナイフを投げつけ、キメラへと突き立てる。
腕の力だけで切り上げるように登っていくと、キメラが悶えるように暴れ出す。
「沈まれ‥‥!」
バジリスクの出て来た腕へ、エイミーが大太刀と突き立て、沈めていく。
鍔までついたところで、肉を切りはらって落ちるように離脱、零次は首へと斬りかかる。
ぱしっ、と『首から出て来た手』に止められる。
そして、刀ごと振り回され、零次は思い切り地面に叩きつけられてしまった。
『だめジャなイか‥‥かみサまのからダを傷つケちャ‥‥』
頭部が首まで二つに割れ、その中央に、血管や肉を剥きだしにし、
目は白く、艶めかしく光る粘液に包まれた上半身をさらけ出す、もはや強化人間とも言い難い姿となった優が、狂ったような笑いと共に現れたのだった。
●
「なかナかなジマなイな‥‥最ショだからか、妨害さレたか‥‥まァ、いイ」
優が腕を振るうと、キメラも同じ腕を振るう。
そして、感触を確かめるように手を閉じたり開いたりした後、握った拳が地に倒れる零次へと振り下ろされた。
影に重なる零次を、エイミーが急ぎ『迅雷』で駆けてさらう。
拳のハンマーは、周りにいる者達の体制を崩すほどに地面を揺らした。
「はっハッはッ! 最高ダ!」
狂ったように、だが正確な殺意の軌道でビームを発し、大きな酸の粘液を降らし、拳をノミでも潰すように振りおろしてくる巨神、優。
まともに立つ地すらも奪われ、ぼろぼろの丘、荒らされた花畑。そしてその惨劇を現すかのように力を削られた傭兵達。
見上げる視線と、見下ろす視線が交差し、優が笑ったように見えた。
「優‥‥やはりお前は出来る奴じゃないか」
疲弊に静まる戦場、銃を降ろし、届けようとするでもなく、はは、と自嘲するかのように笑う雅。
「親父達の行き過ぎたスパルタが良かったとは言わん。 だが、どうだ。手懐けることは不可能とされたキメラの力を、うまく活かし、取り入れたじゃないか。才能がある、努力した未開の研究が、報われているだなんて」
正気の沙汰、ぎりぎりの瀬戸際だった。
敵の、長年の元凶を評価するかのような態度を見せる雅。
ここに来て、情にほだされたか‥‥武器の握りを強め、雅を警戒する者も、中にいた。
「いっタイどうシたんダイ? ニイさん‥‥イノチゴイなラ、ムダダよ」
「命乞い? バカを言うな。出来の良い弟を前にして、再びやり甲斐を得ただけだ‥‥!」
シリンダーを回し、優の体をピンポイントで狙うように全弾を叩きこむ雅。
急ぎ優はキメラの腕をクロスさせて自身の体を防ぐ。
「ムシ唾がハシる! いきナリあらワれて兄ヅラしテボクがナキオトセルとでm」
怒りながら腕の防御を解く優。
だが、その視界には、見上げる兄でも肩で息をする傭兵達でもなく、拳。
浪漫の鉄拳―――ロケットパンチを、雅の合図によってエイミが発射していた。
「フォースフィールドを突き破れる拳があいにくなかったんでな。お前のその巨神‥‥いや、虚心を、俺は打ち砕いてみせる。戻ってこい、優! お前の話を聞かせろ! そして俺に、俺の話をさせてくれ!!」
雅の決意の叫びを耳にし、傭兵達は自身の体を奮いあげる。
脅威を払う。キメラを滅ぼす。強化人間と、戦う。やらなければならないことは、やったことがあることだけだった。
「頼む、皆‥‥もう少し、力を貸してくれ‥‥!」
傷と乳酸で震える腕をあげながら、銃口を向ける。
銃声が、4発。雅は、撃っていない。
その問いかけに行動で答えたのは、伽織だった。
ディオニュソスの出た脇腹、左肩、拳と、盤上を飛びまわるナイトのようにあちこちへ射撃を加えてゆく。
煩わしい虫を払うように、腕部からシヴァを取り出し発射口から光が漏れ始める。
溜まりきる前に幸乃が駆け出し超機械で射撃しながら跳躍、大胆にも射線を通り越し、ライガークローでダメージを蓄積させた肘関節を思い切り串刺しにする。
構造上大事な筋肉を裂いたのか、ぼとり、と肘から先が優の意思に反してぼろぼろの花畑へと落ちた。
「お願いします‥‥」
「了解! その口、塞ぐよ!!」
FFの発生しなくなった腕を踏み越えながら、隼瀬がいけるところまで登り走る。
赤い障壁が発生する瞬間跳躍、懐から機械剣を抜き、槍を突き下ろすように体ごと逸らし振りかぶる。
優が逆の手で払い落そうとするが、その軌道上にいたレオナルドは避けずマチェットを抜き襲いかかる腕に立ち向かう。
幸乃が急ぎ練のリンクを張ると、そのラインを確認しただけで次にやるべきことを叩きだす。
『瞬即撃』で思い切り敵の虚に斬りかかると、ずぱっ、と手首に深い傷を抉りこむ。
「捕まるんじゃない‥‥掴め‥‥」
口からフィルターだけになった煙草をぽとり、と落とすと、レオナルドはそのまま地面へと倒れ込んだ。
「ぐァ‥‥!」
痛みに手を引っ込める優、だがそれは、隼瀬の行動を許すこととなった。
空になった瑠璃瓶のマグを放ちながら、シヴァの体へ思い切り機械剣で斬りつける。
光の弧はシヴァの湿った体を焼き切り固め、悲鳴のような叫びの後にそのまま引っ込まなくなった。
痛みにもがき体をねじり暴れる優。
その動きに崖の一部が巻き込まれ、隼瀬が崖の下へ落とされて、雅達から断絶されてしまった。
「待ってたよ‥‥!」
伽織が崩れた崖下を覗けるポジションへ移動し、
膝裏へ斜めに入り込むように銃弾を飛び込ませる伽織。
両手を塞がれ、出せる神キメラも既に少ない優に、元々防ぎにくい膝を防御する手段は無かった。
弾と共に敵の意識も散らしていた攻撃を今、真の狙いに絞り込む。
膝、内股の腱、足先、まるで愛撫のような手取りで、だが無慈悲にスマートな弾を抉り這わせる伽織。
何発目かの射撃で、ついに優は片膝から崩れる形で体を傾けた。
「いけるかい?」
ハミルがこくりと頷き、その両翼からエイミーと零次が飛び出してゆく。
体が傾いたことで、本体の優への攻撃が体をよじ登らずともいけそうだ。
「近ヅクんじャなイ‥‥!!」
優が叫び、シャムシールを零次へと向かって投げつける。
近距離まで近づいた状態での素早い投擲に、零次は傷を覚悟する。
「そのまま行ってください‥‥!」
ハミルが『自身障壁』で零次の間に入り、曲刀ごと抱えこむように地面へと叩き落とす。
そのハミルを飛び越えて『迅雷』を纏いエイミーとの足並みを合わせた。
「もう、この刀にはやられません」
中国での初接触以来、散々と体に傷を刻んだ曲刀をハミルは今、力強く優を見据えながら、崖の下へと落とした。
「グングニルは戻ってきませんでしたね、神様」
「さぁ、人の大地へ降り立ってもらおうか」
零次とエイミーに『共有』のラインが結ばれると、同時にSESをフルドライブ。
渾身の力が込められた『両断剣・絶』が左右から優のキメラとの結合部へ振り下ろされる。
大太刀と大剣のクロスファイアに、優は今までの中で一番の悲鳴をあげる。
苦し紛れに二人を優の手の方で掴むが、力が出しきれない。巨大な体を左右に暴れさせて、どうにか二人を振り払った。
「エイミ、来い!」
大口径の対物ライフルを構えて優へとダッシュする雅。
意図を汲み、機械剣サザンクロスを抜いて雅に並ぶエイミ。
「みやびんには繋げるべきモノがありますから‥‥!」
所有者がココロからの『願い』を持ったとき、その思いに答えるようにさらなる力を発揮するという。
今、成したい願いを口にして、力強く柄を握りしめ、雪妖精は宙に舞う。
妖精の羽がふわりと羽ばたくと、粉雪の光と共に、驕る神へと十字架を叩き付けた。
後頭部へと烙印の如く焼きつけられると、エイミをキメラの腕で掴み何とか握り締めだした
だが、既にエイミの後ろから、闇を呑み込む銃口を槍のように突き付けられた。
ぴたりと止まる指、動き、時間―――
「帰ってこい、優」
傭兵達のおかげで開けた道を進み、ようやく届いた銃口。
信念という銃を持ち、覚悟と言う火薬を詰め、決意と言うトリガーを引く。
響く―――終止符。
思いと言う弾丸は、優の体を未練なく執念の塊から引きはがしたのだった。
●
「優‥‥」
回収部隊を待ちながら、一旦の治療を終え落ち着きを取り戻す。
傷とと癒着により、両足は目も当てられない状態となったまま、くしゃくしゃの花畑に横たわっていた。
「‥‥耳は潰れてないよ」
「聞く気はあるということでいいのか」
雅の問いに、優は何も答えなかった。
寝返りを打って拗ねるのも、難しい。
「‥‥‥すまなかった」
膝を突き、皮の捲れた優の顔の横で、そっと、紡いでおいた言葉をやっと口にする雅。
「父と母は、お前に愛情を抱かなかったかも知れん。俺は、愛情というものを知らなかっただけなんだ‥‥これから、まだ、俺にはお前を愛する機会があるかも知れん。いや、俺にその機会を、くれないか」
誠実に、思いの丈を込める。だが、優からの返事は、ない。喉も、動いていない。ただ、横たわるだけだった。
「頼む‥‥」
顔を伏せ、頭を下げる雅。
優は、雅を見ずに、崩れた崖から日の沈む海を眺めていた。
「遅いよ‥‥」
出来る限りの、精一杯の全てを出しきる雅に、優はたった一言、そう言った。
「遅いよ‥‥僕達、色々やりすぎた‥‥歳もとった‥‥何かをやり直すには、大人になり過ぎちゃったよ‥‥」
声が掠れ、擦り切れる。嗚咽が混じるように途切れる言葉の端々。
だが逸らしたままの顔を、雅は、覗きこもうとは思わなかった。
「まだだ。まだ終わらせん。俺は‥‥お前との未来が、見たい」
「‥‥戻る家もないくせに、帰ってこいとはよくいったもんだよ」
あぐらをかいて横に付き、そっとどろどろの手を取る兄。
弟は、初めて兄の手を、握りかえすことが出来たのだった。
「ただ幼稚で残虐なだけの者が力をもつのが一番怖いよね‥‥」
二人の様子を身守りながら、伽織がそっと言う。
ようやく、武器を収めて一息つくことができた。
「治療が間に合うなら。つれて帰れるなら、人として、もう一度対話を持って、家族の眠るお墓に‥‥」
どんな形であれ、残った縁ですもの‥‥と呟く幸乃。だが、あの傷では‥‥どうなるかは、わからなかった。
「一度繋がったご縁なら、手繰り寄せて引っ張る事が出来れば、きっとどこかで固く結ばれます! 一度緩んでいても、必ず!」
「あぁ、そうだな。井上氏は、全員で生きて帰るぞと言った。きっと、弟の事も最初から例外ではなかったのだろう」
エイミとエイミー、二人の穏やかな視線は井上兄弟へと向けられている。
零次が、一輪の花をおもむろにつみ、花びらを指で散らす。
潰れてもなお甘い香りと鮮やかな色は、変わらず吹き続ける風に流れながら、夕闇の光に飲み込まれていった。