●リプレイ本文
●夕方の潜入者
この時期、ロンドンの陽が沈むのは二十時過ぎである。マシューの家に招かれた岬が、堂々と――あくまで立場の話であり、態度自体は流石にやや緊張気味だったが――門から入っていった時、外は午後六時という時間の割には暗くない。
故に、岬が門から中に入っていくその姿は周りからも街灯の光なしに視認することが出来た。
「誰にも見られず侵入し囚われの御方をお救いする、是こそ正に忍の仕事」
その背中を少しだけ離れた路地裏から見送りながら、草薙・樹(
gb7312)は呟いた。自分の初任務に相応しい、と。
そんな彼女は今、普段の服装ではなくマシューの家のメイド服を着用している。彼女が『御館様』と呼び慕い、今は樹と同様に路地裏に隠れている終夜・無月(
ga3084)もまた、此方は執事服に身を包んでいた。彼は服装に加え、目立たないようにと髪を染め、またカラーコンタクトも入れている。
その路地裏からは、門の向こう、邸宅周囲を巡回するガードマンの姿も小さいながらも視認することが出来た。
ガードマンの一人が、玄関の前を通過したのを見計らって――
「‥‥行きますよ」
無月がそう声をかけ、樹と二人で動き始める。
悠然と、しかし迅速に玄関へ向かうその様は、用事から帰ってきた執事とメイドそのものだった。
◆
少しだけ時間は遡り、マシューの家の敷地の裏側でのこと。
「ご家庭内の試験に参加するだけで、法規上の問題はないよな?」
作戦開始を前に待機していたホアキン・デ・ラ・ロサ(
ga2416)の問いに、邸宅に足を踏み入れる前にここに来た岬は苦笑した。ちなみに、ホアキンも無月同様に執事服に身を包んでいる。
「問題ないんじゃないかなぁ。もしバレたとしても、元々マシューが言われたことが無茶振りなんだからそれを言い分にも出来ると思うし」
岬は答えた。もっとも、マシュー本人的には出来るだけ独力で脱出したように見せたい――それは二人も、正門にいる無月たちも理解している。
それじゃ後はよろしく、と言って立ち去る岬を見送った後、ホアキンは壁の向こうにある邸宅を見上げる。
「何ともまぁ、極端な親子だな‥‥」
誰にも聞こえない程度の小声で呟く。依頼内容を思い出してみると最初に出てくる感想は常にそれだった。
親の気持ちが理解できないわけではない。
――が、マシューが独立心を伴った意思を伝えた結果が現状であるなら、ホアキンとしては彼の方に肩入れしたいと思っていた。
さて。と、少し経ってから再び呟き、ホアキンは用意していたザイルを手に取り――片方の先端を壁の上に向かって投げる。
壁の天辺に引っ掛かった手ごたえを感じて一つ肯いた後、それを伝って壁を登っていった。
◆
玄関から邸内に足を踏み入れた無月たちは、その後はそれぞれ別に行動を開始した。
邸宅内にはあまり身を隠せるようなものがなかった。通路にはちょっとしたモニュメント程度なら存在するものの、それの陰に隠れようものなら余計に怪しまれかねない。
故に樹は、一旦脱ごうとしたメイド服を着用したまま無月に見送られて先に動き出す。
障害物は少ない一方、通路を行き交う人の数はそれなりにいた。
人の顔は数が多ければ多い程把握しきれなくなる。その点において非常に幸運だった。天然で醸し出している色香に気を惹かれた執事もいないわけではなかったけれど、顔を覚えられてはいなかった。
出来るだけ目立たないように行動し――樹は、マシューが閉じ込められているという部屋の前に立つ。
人の目がなくなったことを見計らって、ドアを開けた。
「助けに参りました」
何もない部屋の中でどうやって脱出しようか今なお考えていたらしく、マシュー少年は座り込み、頭を抱えた姿勢で樹を見上げた。
岬からの依頼だとマシューに説明すると、最初はぽかんとしていた彼もすぐに表情を輝かせた。
無月は階段を掃除する振りをしながら、周囲の様子を観察していた。一階と二階、両方の様子を見るのには階段が一番都合がよかった。
ふと二階に上った時、少年がこちらへ駆けてくる姿が目に飛び込んだ。よく注意して見ると、その前を樹が先行しているのが分かる。
二階は一階ほど人が多くなく、寧ろモニュメントが多かった為、樹にとっては視界の死角を突いて移動するのも、マシューを誘導するのもそう難しいことではなかったらしい。
無月はその様子を見、掃除が終わった振りをして誰もいない二階の階段から一番近い部屋に入る。
樹、そしてマシューも少しの間をおいて入ってきた。
「前はどうやって脱出したんですか‥‥?」
無月が尋ねると、マシューは一瞬にやりとし、その部屋の窓を指差す。
顔を見合わせた無月と樹をよそに、マシューは窓の傍に寄せられていたベッドの、壁とのわずかな隙間からロープを取り出した。
「これで一階に降りなくても出れるよ。ちょっと結び方工夫してあるから、出た後ですぐに回収できるし。
‥‥ただ、ガードマンがいつもより多いからタイミングが難しいんだけど‥‥」
表情を曇らせたマシューだったけれど、
「それなら‥‥問題ありませんよ」
その無月の言葉に、首を傾げた。
◆
一方、ザイルを利用し敷地内に侵入したホアキンは裏庭の草木の陰から機をうかがっていた。
監視カメラがありそうな気配はない。ガードマンの目さえかいくぐれば玄関以外からの侵入も十分可能だ。
ガードマンの一人が目の前を通過し、角を曲がる。
次のガードマンがこの裏庭に通りかかるには僅かながら間がある――そのタイミングでホアキンは動き出した。
近くの窓に接近し、用意してあったドライバーで最初は窓の錠前近辺にヒビを入れる。
次に、窓の違う場所にやはりヒビを入れ、抉って広げ――最初に入れたヒビと繋げた。
最後にそのヒビを利用し窓を内側に破り、破ったガラスを素早く抜き取る。カーテンがある為音は内部にはそう響かないだろう。
そして、錠を開く――三角割りを物の見事に早業でやってのけたホアキンは、窓の内側へ身を躍らせた。
侵入した後のホアキンの狙いは、分電盤にあった。
変装はしているものの出来るだけ人目を避けるように移動し、一階の隅の部屋に入る。
部屋に掛けられていた時計を見る。
六時四十分――。
予め示し合わせてある、ちょうどいいタイミングだった。
◆
依頼内容には全く関係のない話だけれど、イイトコの家に出入りするとあって岬はそれなりの服装――といってもパンツスーツだ――に身を包んでいる。「まさかこんなことでスーツを着るとは思わなかったよ‥‥」とは本人の弁。ある意味根無し草である彼女は当然そんな服など持ち歩いてはいなかったけれど、手紙に同封された『軍資金』で仕立てたのだった。
慣れないシチュエーション、慣れない服。
それらのせいで、岬の緊張はほぐれることはなかった。会話の間に時折混ざる笑いが硬くなっていることに気づかないほどだ。
それでも時間が経つにつれ、
(「皆はうまくやっているかな‥‥」)
そんな心配が脳裏をよぎるようになった。既に時間は三十分を過ぎ、お世辞にも余裕があるとは言えなくなってきている。
――と。
「‥‥ん?」
不意に邸宅内を襲ったその異変に気付き、テーブルを挟んで向かい側のソファーに腰掛けていたマシューの父親が怪訝な表情を浮かべた。
邸宅内の電気が落ちた。
まだ外はうっすらとした夕闇に包まれようとしていた程度だったから全く周りが見えないわけでもなかったけれど、今頃調理場辺りはあたふたしているに違いない。
(「なるほどねー‥‥」)
騒然とする中、一人逆に冷静さを取り戻した人間がいた。岬である。
丁度その頃、岬のいる部屋のすぐ外では、
「電気工事の方をお呼びして参ります」
停電の張本人であるホアキンがそう言いながら場を離れ――そのまま、侵入経路を逆戻りする形で敷地の外へ飛び出していった。
復旧に気を取られていたのは執事やメイドだけでなく、騒ぎを聞きつけたガードマンもだった。各々が足を止め、玄関から中に入ったり窓から中の様子を伺っている。
それを横目に、静かにロープを下へ伝わせた無月と樹、マシューは地面に降り立ち――邸宅の横を通り抜け、そして庭の草木の陰に隠れ――最終的に悠々と門から脱出に成功した。
●その後
合流を果たした能力者たちとマシューから遅れること十数分、面会を終えた岬もまた邸宅から出てきた。
マシューの姿を目にした岬が彼に向け親指を立てると、彼もまたそれに応えた。
「停電自体は割とすぐに解決したよ」
岬はそんなことを言う。ブレーカーが落ちているのが早い段階で発覚したらしい。
もっとも、何が、或いは誰が原因で落ちたのかといった真相は、邸宅の面々にとっては闇の中となるだろう。
「ん‥‥お祝いしないとね‥‥」
マシューの頭を撫でながら、無月はそう提案する。
そして彼らは、近くの――マシューと岬が少し前に立ち寄ったカフェへ、サンドイッチを食べに向かっていった。
後日、翌日にはロンドンを離れようか、と準備をしていた岬の許に再び手紙が届いた。但し今回は文字通り手紙だけだ。
手紙の主はマシュー。
脱出のこともまた、彼がカフェから帰宅した段階で発覚したらしい。ちなみに、ホアキンが解錠した窓のことが発覚したのはマシューの帰還よりも更に後だったそうだ。カーテンで隠れていた為だ。
その上で約束通り、自分で将来の生き方を決められるようになったことの喜びがそこには書かれていた。
頑張りなよ、と微笑を浮かべながら小さく呟いて、岬は手紙を畳んだ。