●リプレイ本文
<伯爵の図書館>
「えっと、何を手伝えばいいんでしょうか?」
出された救助サインに現れた面々は、まずカノンが何を求めているのかを知ろうと例の部屋へと訪れていた。
「はわ、凄い沢山の本っ‥‥」
ぐるぐると見回すクラウディア・マリウス(
ga6559)は目の前に広がる圧倒的な書庫の量に気を奪われていた。
カノンは、何やら困った顔をして口篭っており、詳細は今一わからない。
カノンの様子を見て不思議そうに眺めた後、柚井 ソラ(
ga0187)は部屋の片隅でどうしようかと相談している一角に視線を移していた。
その一角の人物は、アンドレアス・ラーセン(
ga6523)であり、ロジー・ビィ(
ga1031)であり‥‥大泰司 慈海(
ga0173)、空閑 ハバキ(
ga5172)が中心となっている。うろうろとしていると、どこからか現れたユーリ・ヴェルトライゼン(
ga8751)が手に自ら作ったと見られるリーフパイやマカロンの入った箱を持ち不安そうにしていた。
どうやら、他の人と共にこの図書館を訪れたものの、逸れてしまったらしいのだ。
初めての、未知の場所で。
そんな中、声のするほうにやってくるとどうやら見知った顔が現れ、ほっと表情を緩ませた。
「それで‥‥これが例の本ですか‥‥」
そっとキムム君(
gb0512)が分厚い革の背表紙の本を手にとった。
タイトルに書かれているのは、ラテン語で『薔薇と百合の白書』。なにやら、ある一部の趣向家が好きそうな代物である。つーっとその背表紙をなぞりあげ、中身をぱらぱらと捲ってみた。
「何が書かれているんだ?」
いつの間にやら隣へと来ていたキムム君の様子を見、覗き込んできた。
中身はラテン語の文字がびっしり。
ユーリは読むことが出来ない。
少し不思議そうな顔をしつつ、キムム君に読めるかと尋ねると、彼は頷いて周りを見渡した。
どうやら、カノンはこの内容について説明を求めているらしいのだが‥‥これは説明していいものかと暫し悩む。
「他にいい本がないか、探しにいってきますね!」
微妙な空気を読んだのか、それとも単に偶然なのか。
図書館に入った途端絶句していたクラウディアを連れ、ソラは他の場所へと駆け出して行った。図書館の中では走っちゃいけませんよ、そう声をかけようとしたものの、トテトテといった感じでクラウディアを引っ張っていくソラを見ると、そんな心配もなさそうで。
「ソラ君、いこっ」
キャッキャッとはしゃぎながら別の部屋へと出て行く。
ソラたちがいなくなったことにハバキは何故か、ほっと胸を撫で下ろしていた。本を横から読んでいたアンドレアスも表情があからさまに変わる。
キムム君がどう説明しようか悩んでいる間に、どうやら回し見たらしく、ロジーは何か覚悟を決めたような顔をして、慈海はアンドレアスに何か囁き、ハバキはカノンに何か言いたそうだったが、
「用があったんだけど‥‥なんか、忙しそうだね? なんでも経験しといた方が、器の大きな人間になれるってハナシ」
アンドレアスとロジーを交互に見てにんまりと傍観者を決めこむ様にソファーへと深く腰掛けることに決めた。
苦虫を噛み潰したような顔で、慈海の囁きにアンドレアスは言葉を失っていた。タイトルだけ聞いた夏 炎西(
ga4178)は、私も何か探してきましょう、そう言って席を外した。真稀(
gb7724)は遠目にではあるものの、ニヤニヤとした感じで皆の様子を眺めていた。ユーリはその様子を見て、なんだか長引きそうだなと感じお茶の準備をしだす。それを手伝う佐伽羅 黎紀(
ga8601)もまた、深い溜息を吐きつつ様子を見守ることにしていたのだった。
<慈海の囁き>
「ここは、アンドレ君が実演で教えてくれるよね☆」
いきなり切り出された慈海の一言に、アンドレアスは思わず絶句してしまう。
ロジーは既に覚悟を決めたようで、にっこりと微笑みながら愛用の物を準備始めた。
不思議そうにそのやり取りを見ていたカノンに、
「今、アンドレアスがしっかり伝授してくれましてよ? 大丈夫、今後そういう危機があってもどういうことか知っていれば回避できますもの。とても良い社会勉強になりましてよ?」
ふんわりと微笑を返し、自分の気持ちを押さえつけている。そんなロジーの健気な努めに気づいたハバキは、そっと後ろから包み込んだ。
「ハバキ?」
その行動にやや驚きつつも、お日様のような笑顔を見るとロジーもふんわりと微笑み返し、はぐり返す。横で見ていたカノンが、少しイラっとしている様子にハバキは少しにやりと思いながら。
「カノンも一緒する?」
そう言って、ロジーを包み込んだままカノンを引き寄せ、一緒に包みなおす。
突然の出来事に、頬を染めつつ。カノンは暫し固まった末、そっとその中でロジーを包み込もうと‥‥。
「あぁー!! もう、俺がやったら色々酷い気がっ!! い、いや‥‥その‥‥」
そこに上がった大きなアンドレアスの声に、さし伸ばされそうだった手は止まり。ロジーは残念そうに見つめるものの、赤く視線を逸らしている様子に、苦笑をしながらアンドレアスの方へと向きかえった。
皆の視線を浴び、キムム君に差し出された本を受け取り‥‥アンドレアスは、覚悟を決めたかのようにページを捲った。数行読むと、途端に息を呑む。不思議そうなカノンの視線を受けつつも、先に内容を読んでいる人たちはにこやかにアンドレアスを見つめていて。彼なら、彼ならやってくれるだろうという無責任に近い期待がそこには溢れていた。
小さな咳払いの後、アンドレアスはカノンを手招きする。
ロジーは、にこやかにカノンの背中を押し、手には愛用のピコハンを用意した。そっとハバキはその肩に手を乗せ、アンドレアスには期待に満ち溢れた好奇心の眼差しを向ける。
そんな彼らのやり取りを横目で見ていたキムム君は「薔薇の部分は任せました」と、にっこりと告げつつ、本を再び手に取っていた。
「それじゃ、百合については‥‥」
そして、ゆっくりとキムム君の朗読が始まったのだった。
<『第三章 戦乙女と姫』>
アリスは甲冑を身に纏ったジャネットの手にすがりついていた。
涙ぐみながら、その瞳で彼女を見上げている。
「どうか‥‥どうか行かないで下さい。貴女を失うことは私には耐えることあたいません」
紡がれた言葉が、嗚咽と共にかすれて聞こえる。既に頬まで慕う雫は誰にも拭われる事ないまま床へと落ちていた。
ジャネットは胸が痛むのを感じつつも、そっと篭手ですがりつくアリスの手を持ち上げ、冷たいキスを落とした。頬を拭わない。与えるのは、冷たいキスだけ。
「騎士道、それは君に忠であること。しかし、姫を守ることもまた、騎士道。ゆめゆめ心配する事なかれ。私は貴女の騎士です。誓いは果たします」
その言葉が、アリスにどのように届くかはわからない。ただ、ジャネットは己の騎士精神について語るだけだった。
〜〜中略〜〜
目の前で燃えている。それはあの尊き姫が居る城、彼女の帰りを欲して止まない城であった。
「アリス! どうか、ご無事で!」
ジャネットの声が辺りへと響き渡る。燃え上がる炎を払い、崩れかけた柱を飛び越え、彼女は意中の人を探していた。城内の全てが燃え盛っていた。かつての城の面影も、全て消えるように炎は何もかも奪っていく。
ジャネットの全てを奪うように。
甲冑に描かれたエンブレムに手を当てていた。願っていた。
――どうか、どうかご無事で。
その思いだけが、煤で汚れた顔、小さき炎にやられた火ぶくれした足も気にすることなく突き進む力となる。進み行く中、倒れている人を見やるが、意中の人でないことを察すると小さく「ごめん」とつげ、先を急いだ。
恐らく、あの中にまだ居るのだろう。広がる炎の海を越え、目指したのは城の中央に聳える石造りの塔であった。
「姫!!」
扉を蹴り破ったジャネットは声を荒げた。
目の前には倒れ臥せしアリスの姿があったのだ。天に祈りを込めつつも、駆け寄り抱き起こした。
「ごめんなさい‥‥この百合の花、枯れてしまいました」
しっかり握り締めていたのは百合の花。それは、既に生花ではなく‥‥それでも大事にされていたことを物語る丁寧なドライフラワーとなりて。そっとその手に自らの手を添え、ジャネットはアリスへと微笑んだ。
「いいのです、姫がご無事なら‥‥私はそれで充分です」
知らずに流れる雫が頬を濡らしアリスの頬へと落ちていこうと、ジャネットは気付かなかった。今、胸の中に居る彼女は微かな息の中。自分が辿り付くのが遅かったことを後悔せずには居られない。
「無事だなんて‥‥私はもう動けません。どうか私を捨てて何処かへ」
アリスは既に意識が朦朧としてきていた。塔の窓からは、紅い炎が今か今かと待ち焦がれるように迫ってきている。熱さだけではない、アリスを見ると所々紅く染まっているドレス。添えた手も、力はなく‥‥気力だけで握り締める花は、なおも肌に食い込んでいる。
「‥‥忘れましたか? 私は騎士です。貴女への忠誠、決して破棄することはありません。ここで共に灰となりましょう」
ジャネットの言葉が胸に染み渡る。今この瞬間にも拘らず、アリスは嬉しさで涙が溢れてきた。そんなアリスの涙をそっと唇で掬うと、ジャネットはしかと腕の中へと引き寄せた。もう、彼女らに怖いものは存在しなかった。確かめた絆、それだけが胸を占めている。
窓は次第に紅さを増し、階下からも迫り来る炎の影。やがてこの部屋に到達しよう、この炎の中、二人は離れない。もう、離れることすら考えられなかった。
一輪の百合の花が、灰となり‥‥虚空に舞い、消えた。
「禁断。それゆえに人は愛さずにはいられない」
そう締めくくられたキムム君の話が終った後、部屋の入り口の方から拍手が聞こえてきた。夏だ。いつの間に戻ってきていたのだろうか、その手には沢山の本を抱えて。
「何と‥‥世の中とは奥が深いものですね‥‥」
傍にあった机の上に本を置き、しきりに涙を拭いていた。
ポカーンとした様子で聞いていたユーリは「‥‥‥友情、の話、か?」と、首をかしげたままであった。
<実演☆薔薇>
アンドレアスは覚悟を決めたようにカノンの方へと手を伸ばした。
戸惑うカノンに「お勉強だよ」そう言ってハバキが囁く。ロジーもまた、微笑を絶やさずにカノンの背を押しやっていた。
「あー‥‥ぁー‥‥」
喉の調子を確かめるように、暫し熱くなる頬を叩きながら。アンドレアスは不思議そうに見つめるカノンを見ると、深く息を吸い込んだ。
「‥‥お前の為な‥‥噛んだ。仕切り直し!」
がしゃがしゃと自らの髪を掻き毟って。目の前のカノンは、相変わらずきょとんと見つめている。
そこに再び現れたのはクラウディアとソラで。その瞬間ハバキは微笑みつつも嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。クラウディアは目の前に繰り広げられる光景にきょとんとしつつ、髪を掻き毟っているアンドレアスへと不思議そうな表情を向ける。
「あれ? アスお兄ちゃん、何かするの??」
かくーりと首を傾げつつ疑問を声にすると、アンドレアスはなおも頭を抱え込んでしまった。ハバキはそっと二人へと近付き肩に手を置く。
「お茶とお菓子もってこようか?」
お菓子と聞くとうずうずするクラウディアとソラではあったが、入り口の横に立っていた夏が手に持っていた本を見て、慌てた様に表情を変えた。
「はわ、結局何も見つけてない!」
そんなクラウディアの様子に、ソラは途中で立ち読んだ本を思い出す。それは、黒髪眼鏡の男性とふわふわの髪の少年が見つめあう挿絵が描かれた薄い本で。それを思い出した途端、何故か胸が苦しくなって救いを求めたくなっていた。
「クラウさん、何か貰ってきませんか?」
そっと服の裾を掴んで訴えるソラに、クラウディアもまたほっとした表情で頷いた。
「喉渇いたねっ! 何か貰ってこよっ」
ぱたぱたと慌しく出て行った二人にハバキはそっと胸を撫で下ろし、パタンと用心のために扉を閉める。部屋にいた他の者達からも、何故か安堵の溜息が漏れていた。
小さく咳払いをした後、アンドレアスはカノンの前へと跪き、そして食い入る様に真剣な眼差しを向けてきた。
「お前の為なら、命も世界もくれてやる。代わりに、お前の心が、欲しい」
そっと掬い取った手に、誓いのキスを送りながら。
受けた途端、カノンの瞳は驚きを隠せないほど見開かれ、そして頬に朱熹を帯びていた。後ろでピコピコと物音がなっているものの、何が起きているのであろうか理解が追いつかないのだ。
「心だけじゃ、足りないから‥‥」
そう言って伏せ目がちになりつつ、手を離さない様にアンドレアスは立ち上がった。そっとカノンの頬にかかった髪を払いつつ、後ろに回りこむ。そして‥‥。
「‥‥優しく、するから」
抱きしめつつ耳元で出された声は、今までと違った甘い囁き。気だるさの混じった‥‥甘い囁きで。耳元を次第に犯していく。
優しくするから‥‥。
その一言が呪縛となり、カノンをその場に縛り付けていた。この後何があるの? それは‥‥抱きしめた彼だけが、知っているような気がしながらも。
<一難去って、また一難>
「で、どっちが前、後ろ? ‥‥あぁ、両方か☆」
アンドレアスとカノンをみやりつつ、ハバキはそんな感想を漏らした。
「両方って‥‥何がです?」
呪縛から解き放たれつつ不思議そうな顔をして聞くカノンに対し、ハバキは笑顔で微笑みながらアンドレアスの肩に手を置いた。
「それはアスが教えてくれるよ、ね?」
「なっ!? なにいってるんだ! 俺は知らない。俺は知らないぞ!!」
真っ赤な顔で否定するものの、アンドレアスの声は上ずっており。
「あら? アンドレアス‥‥体現して差し上げるのではなくて?」
手に持つピコハンを鳴らしながら、ロジーはアンドレアスに詰め寄った。
笑顔ではある。ではあるのだが‥‥眼は笑ってはいなかった。
佐伽羅は思った。この目の前で繰り広げられて居る光景を見て。
―― アンドレアスさん‥‥。
深く吐いた溜息は彼女の声には出されない本音。
―― ヨゴレテいるのね‥‥。
にっこり微笑みつつ、目が笑っていない。実演で説明されているカノンの様子を見、そしてそのやり取りに茶々を入れるロジーへと視線を移す。
以前の依頼で作った二人の時間はどうやら思いのほか効果はなかったらしい。それも、原因はこの金髪ロッカーのためらしく。
「不潔」
ぼそりと漏れた声に気づいたのは慈海だけのようで。そんな彼に微笑を返しながら佐伽羅はユーリの菓子を頬張っていたのだった。
「‥‥‥」
その様子を暫し部屋の外から窺っていたのは百地・悠季(
ga8270)であった。彼女は夏季レポートを仕上げようとこの図書館へと足を運んでいたのだが‥‥。
知り合いを見つけて、傍に来たのが運のつき。まさか話題にしていたのが『薔薇と百合』についてなどとは。先ほど出て行ったソラやクラウディアに聞かれなくて良かったと胸を撫で下ろしつつ。彼らは自分より年上だったような気がしたものの、LHに来てからと言うもの、彼女は人は年齢で判断してはいけないということを学んでいた。あの二人には、聞かせたくないと正直に思う。
確保した資料は転がしてきたテーブルワゴンの上に積まれている。そして‥‥メモを見返すと大方の物は確保が終った。
――よし、逃げよう。
これ以上この場に居ても変な妄想が頭を支配するだけである。
そう頭の中で決めると、悠季はテーブルワゴンに載せていたジャケットを身に羽織った。
<切なさを隠しながら>
「フリとは言え、やっぱり心が少し痛みますの‥‥」
アンドレアスの実演を見た後に、ロジーはそっとハバキにハグを求めた。静かに微笑みつつ、そっと髪を撫でてやる。そんな二人の様子を知ってか知らずか、慈海はニマニマと見続けた挙句カノンから離れたアンドレアスを早速なにやら弄りに行った様子で。それにそっと遠くから傍観していたはずの真稀も加わっていた。
カノンがよろよろと何やらダメージを得て戻ってくる様子に、ロジーはハバキから離れそっと腕を取りテラスの方へと連れ立った。そして先程までお得意だったピコハンを机の上へと置き、そっと椅子へと座らせ自分も横へと座る。
「それでは、わかりやすい様にお教えしましてよ?」
にっこりと微笑みつつ、いつの間にメモをしていたのだろうノートを取り出しながらロジーは先ほど体現をしていたアンドレアスの行動を説明し始めた。
後ろからハバキがアンドレアスの肩を抱いて登場したものの、カノンは先ほどの行動が何を示していたのかを説明されている最中で。気にせず加わるハバキをよそに、アンドレアスは一人少し離れた場所へと身を落ち着ける。
説明を受ける最中のカノンは、目があちこちに泳いだり、緊張した様子が始終見られ。それでも、説明してくれるロジーの言葉にきちんと耳を傾けていた。
「見てるのは少し辛かったんですわよ? カノン」
最後にロジーはふわりとカノンを抱きしめた。見せない表情は、今にも泣き出しそうで。それでも腕の中に居る存在に、安らぎを求めて。
<だから‥‥君が‥‥>
「あー‥‥理解できたか?」
ロジーたちが室内へと去った後、アンドレアスは一角にあるソファーに座りつつカノンへと眼だけを向け尋ねていた。
「えっ‥‥。ま、まぁ‥‥一応」
そう言って視線を逸らすあたり、おおよその事は理解できたのであろう。
「そっか‥‥うん。良かったな‥‥はは、は」
思わず口をついてしまった乾いた笑い。
そしていつも以上に肩を落とすアンドレアスに、カノンは異質さを感じていた。
「‥‥アスさん?」
深く腰をかけて上を向いていたアンドレアスの横に、カノンは膝をつき、覗き込んでいた。眼の上へと宛がわれていた細いががっしりとした腕を、そっと持ち上げ瞳を合わせる。不意にアンドレアスの頬が赤く染まり、視線を逸らされた。
しかし、カノンもそう簡単には譲らない。ゆっくりとアンドレアスの頬に手を添えると、真っ直ぐに見つめいる。
「‥‥何か、ありましたか?」
赤い瞳と青い瞳が交差した。
ぶつかり合った後、負けたのは青。もう、この赤い瞳にあがなう術はないのかもしれない。一度、アンドレアスは言葉にしそうになったものを飲み込むと、静かに溜息を吐いた。
「‥‥ちょっとしくじった。依頼でな」
暫しの沈黙の後、搾り出された一言。伏せられた海が余計辛さを現しているようで。
唇から零れてきたのは、いつもと違った一面。いつもカノンの前では強がっていた、そう感じ取られるほど素直な彼の一面で。驚きと共に、何故か心の隅で広がる嬉しさに戸惑いつつも、彼の言葉を丹念に聞き取っていた。いつしか頬に添えられた手は外され、そっと撫で上げられる髪。少しは落ち着いたものの、まだ強さを保つ太陽によりキラキラと輝く流れに沿いながら、一人ではないと告げたくて手を動かしていた。
紡がれていく言葉は、自分の存在意義を問う言葉ばかりで。
そんな弱気な彼から、眼が離せなかった。
「情けねぇよなー」
天を仰ぎつつ、開かれた眼は悔しさのためかぼやけてて。視界が霞んでいる事に、そっと顔を覆いたくなる。見られたくない、そんな気持ちが溢れてくる。
「‥‥」
カノンは無言で、そっと頭を抱きしめていた。
いつも引っ張ってくれる、そんな彼が見せた初めての弱さに。いま自分が出来る事は何だろうと考えて。
―― 傍にしか、居れませんけれども。
そっと心の中で呟いて。憧れの存在が、初めて身近に感じた瞬間だった。
「‥‥俺は、お前のいる世界を守りたいんだ」
呟いた言葉を受け止め、そして一言耳元に囁く。
「僕は、あなたに守られてばかりですね」
始めて逢ったときから、頼ってばかりだと。沢山の人に僕は守られているんだと。
そして、また心で決める。
―― 僕が出来る事、それは何があるのだろうか。
アンドレアスの頭をそっと抱きしめながら、カノンは思った。あの銀も、この金も。であった人々全てに、僕が出来る事。それは何があるのだろう。
いま少し、彼らに甘えていたいけど。それでも見つけなければいけないと。
「あなたは、僕にとってはとても大切な人ですよ」
そう囁きつつも、大切な人に対して出来る事を頭の片隅でずっと考え続けていた。
<リサへ‥‥>
「リサちゃん、ちっょと見ない間に一段と可愛くなったね☆」
にこやかに微笑みつつ、慈海はリサへと声をかけていた。どんな年齢であろうとも、女性を見たら褒める。それが彼の信念である。
「カノンにはどんな本を読んでもらうの?」
ソファーへと導きつつ、ハバキはそっとリサに問う。子供好きなのが溢れてくるのか、既にリサは彼の膝の上に乗っていて。
そういえば、リサ自身が読んで欲しいという内容を聞いてはいなかったようだったことを思い出してのことだった。
「んーとね。とっても綺麗な本。アルお兄ちゃんは読めないって言ってたから、カノン兄さまなら読めると思って‥‥」
その言葉にハバキは胸を撫で下ろした。どうやら、あの本の内容を知って読んで欲しいと言ったわけではなかったようだ。そっとロジーへと目配せすると、安心した様に微笑が返って来る。
「ええと‥‥リサさんが僕に渡した本は『薔薇と百合の白書』と言う書物でして‥‥」
やや引きつりつつ、カノンはリサに対して本の説明を始めた。
この本がラテン語で書かれていたので、きっとアル君も読めなかったんですよ。そう言い訳をしつつ、本の内容はロジーが用意していた園芸の薔薇と百合に関して書かれていたものに置き換えて。わたわたと説明しつつ、自分が知った内容について語らずに済んだ事に一安心をしていた。
「そうですね‥‥こういうご本もありましたよ?」
取り出したのは、事前に調べておいた本。夏が探し当てたのは『薔薇と百合』に関しての本ではあったのだが‥‥
「薔薇は、女性に好まれているんですね。体にも良いですし、リサさんも刺激が強くない程度で色々と楽しんでみては如何でしょうか?」
横でアンドレアスが紅茶を噴出していたものの、夏は「どうか致しましたか?」といった様子で満足気に自らが選んできた本をリサに解説し始めていた。
「私も田舎暮らしだったもので‥‥薔薇や百合の華やかさに触れたのは、LHに来てからなんですよ。初めて目にした薔薇の美しさには、本当に目を開かされましたね」
思い出しているのだろう。うっとりと見つめる先は、宙の果て。夏はすっかり自分の世界へとトリップしていた。これが、手に持っているものが園芸の本でなかったのなら‥‥すかさずここにいた者達に素晴らしい称号を付けられていたのかもしれない。非常に残念である。
真稀はその様子を見て少々残念であった。彼女が用意していたのは若い博士と少年の話。もしリサが、園芸の本でないことを知っていたのなら‥‥そう思い用意していた健全な友情の本である。折角披露できると思ったのに‥‥。それでも、少しある人物を弄れて楽しかったから良いかもと思い直すことにしたのだった。
<大切なのは何?>
「いいかい、カノンくん。女性とのデートでは全身全霊で臨むんだ」
肩をがっつりと掴みながら、慈海はカノンへと熱く語る。
それは、前回の依頼の中でみせたロジーに対するカノンの態度を問いたくて。
何故、彼はあのような状況で上の空だったのだろうか。
他に、誰を思い描いていたのだろうか。今まで交流していた中に思い浮かぶのは、先ほど悶絶するほどの実演をやってのけた金髪のロッカーであろう。
彼に対しての懐き方は、確かに他のものよりも強いのかもしれない。だが、カノンの態度は淡い想いを寄せている銀色の彼女に良いものではない。まして、慈海から見るとカノンの方もまんざらではなさそうに見えるのだから。
「女性を楽しませることに専念するんだ。他の女の子の事を考えるのはダメだよ? ‥‥ましてや他の男のことを思うなんて問題外だよっ!」
めいいっぱいに見開かれた瞳で、慈海はカノンを熱く見つめた。
そう、この天然薔薇属性な青年。どこまで君は逝ってしまうのかと。そういう思いを込めながら。
「え? 他の‥‥男のこと?」
何を言っているのだろうか、そうありありと告げてくるほど零れ落ちそうに見開かれた目でカノンも見つめ返す。この青年にいたっては、身に覚えのないことを言われているに過ぎないのだ。実際、あの時に考えていたのは金髪のロッカーの事だったのかもしれない。だけど、けっして横に居たロジーを蔑ろにしていた訳ではなく‥‥むしろ、彼女の扱いをどうしていいのか考えが及ばなかったともいえる。
カノンに女性とのマナーを教えるため、慈海は力まずにいられなかった。
そんなやり取りをする慈海を見ながらハバキはそっと微笑む。
「いろいろとあるけど‥‥人を好きになれるってのは、幸せなことだよ」
何か言いたげに、慈海とカノンのやり取りを心配そうに見つめるアンドレアスとロジーを見ながら。ハバキは嬉しそうに目を細めていた。