●リプレイ本文
疑心暗鬼という言葉がある。
人は疑う心が根付くと、ただの暗闇にさえ恐怖を抱き、正常な判断を失ってしまう。
それはもしかしたら、本当にただの風の音だったのかもしれない。
それはもしかしたら、たまたま飛び出ていた金具に、引っ掛けただけかもしれない。
そうして朝を迎えれば、あの冗談が得意な人が、私を庭のベンチに座らせて、暖かなミルクを差し出し、「気のせいだよ」と、慰めてくれるはず。少し困った顔をして。
意識は、朦朧。夢から覚めないまま、目覚まし時計に引き戻された朝。まどろみを楽しみたいのに、でも、起きなきゃいけない、そんな葛藤を繰り返す5分間を、ずっと、永遠に繰り返すような、そんな感覚。
フラフラ、キィキィ、左右に揺れるドア。そこから、風が吹き込んで、窓の方へ抜けていく。
玄関が解放されているのだろう。まるで深呼吸するように、家が風を吸い込んで、吐き出した。
(おかしいな。寝る前に、ちゃんと、閉じたはずなのに。‥‥泥棒かしら)
歩こうと、踏み出そうと、足を出そうとするが、叶わない。「動け」と、強く念じると、ぐるん、と、重力が頭上に反転した。
(‥‥あれ? 変だな)
疑問に感じるが、しかし、その単純な疑念でさえ、いつしか考えられなくなっていた。
私が、私でなくなる。でも、気分は良かった。恐怖や不安が、何時の間にか晴れていたのだから。
視界は相変わらず、何も私に教えてはくれない。でも、何十倍にも鋭くなった感覚が、手の先から伝わってくる。
(気持ち、良い‥‥)
今まで感じたことの無い高揚感が、身体を蝕む。
ズリッ‥‥ ズリッ‥‥。
何かを引き摺る音が、鈍く、木造の建物に響き渡った。
***
「見えぬなら見つけてみせよう、ホトトギスじゃ!」
ドヤァーと、高らかに声を上げたのは、暗赤色の甲冑‥‥ではなく、よく見ると、美具・ザム・ツバイ(
gc0857)だった。綱を放したらすっ飛んで行きそうな小型犬が如く、うずうずと、解放されるその瞬間を、今か今かと、待ち望んでいるように見えた。
その直ぐ側に立っていた黒羽 風香(
gc7712)が、ほぅっと溜息をつく。
「‥‥リザさん、無事で居てくれるといいんですけど」
集まった傭兵達は、9割方最悪のケースを想定しながらも、それでも、彼女の生存と、救助に望みをかけていた。
リザの小さな家は、閑静な住宅街の一角に静かに佇んでいた。療養地、なのだろう。周囲は緑に囲まれ、空気は澄み切っている。彼女の本住まいというより、治療の為に訪れていたらしい。
「敵の姿形がわからんと言うのも厄介だな」
と、時任 絃也(
ga0983)が呟いたが、恐らく、他の仲間には聞こえていない。何故なら、7人の傭兵達からかなり距離をとって、立っていたからだ。
風香がカクリと、首を傾げると、絃也は油の切れたブリキ人形のような動きで視線を動かした。
「‥‥大丈夫だ、問題ない」
実は女性が大の苦手な絃也。よりにもよって、他の参加者は全員女性だった。無表情に淡々とした物腰ではあるが、ちょっと挙動不審になっている。
「ハーレムやなぁ、絃也」
クスクスと、悪戯っぽく笑う三日科 優子(
gc4996)の隣で、蒼唯 雛菊(
gc4693)は、毛を逆立てた獣のように怒りを顕にしながら、家の玄関を睨みつけている。
「どないしたん? 雛菊」
「‥‥見てますの」
開け放たれた玄関の向こう側は、この位置からは薄暗く、中の様子はよくわからない。怪訝な顔をして、フィオナ・フォーリィ(
gc8433)がその視線を辿ってみるが、何の気配も感じない。
「行ってみましょう‥‥」
控え目に言った織那 夢(
gb4073)の言葉に、月隠 朔夜(
gc7397)は、静かに頷いた。
じゃりっ。
――虫の声さえ聞こえぬ静寂の中、一歩踏み出すその足音でさえ、妙に大きく感じる。言い知れぬ緊張感。確かに、何かが居る。こちらからは、その正体が見えていないが、雛菊の言う通り、何者かが、こちらを見ている気がした。
「例え見えぬと言えども美具を無視はできまい。美具はここにおるぞ。さあ、かかって参れ」
シケた空気を吹き飛ばすように、美具は勇ましく、建物の中に踏み入った。硬さが自慢のガーディアン。自らに注目を引き、敵の正体を突き止めようということだろう。彼女の捜索担当は二階だった。脇目も振らずにズカズカと進む。
「あの、お邪魔します‥‥」
その後を、少し早足で夢が控え目に続く。足元には、恐らく職員のものだと思われるまだ真新しい血痕が散らばっている。そして、左右に視線を巡らせると、壁や天井に、血の跡が残っていた。血飛沫が上がったというよりは、擦り付けられたようなものだったが、夢はどこか不自然に感じ、首を傾げた。
「存外、虫の類やもしれんな」
美具らと共に、二階の捜索にあたるフィオナが言った。糸の様なもので、攻撃されたのではないか。そう言われて改めて眺めると、何かの足跡のようにも見えた。
「‥‥急ぎましょう。リザさんが心配です」
階段の最後尾から朔夜が言う。先行した美具は、既に部屋を調べ始めているようだ。夢とフィオナは顔を見合わせ頷くと、その場を後にした。
「落ち着いて、慎重に‥‥速やかに。ですの」
二階に踏み入った美具達と別れ、一階からの捜索を行う、雛菊。視覚聴覚嗅覚触覚、あらゆる感覚を研ぎ澄まし、そよ風一つも逃さない心持で、慎重に歩んでいく。その背面をフォローするように、優子が後に付き、青い絵の具を振りまきながら進んだ。
「絵の具ついても堪忍なー」
傭兵達は職員の証言を元に、敵の正体について、3つの可能性を導き出していた。
一つは家具などへの擬態、一つは透明。そして、リザ、救出対象のものがキメラであるという可能性だ。もし、前者2つの可能性ならば、絵の具は目印になるだろう。
フンフン。と、鼻を鳴らす雛菊。何か腐臭を感じる気がするが、血の匂いと絵の具の強い臭気に暈されて、ハッキリと断定ができない。キッチンも近いし、もしかしたら、何か食料が腐っている匂いかもしれないが‥‥。
「正体不明の敵とは厄介ですね」
風香が小さく溜息をついて、最後尾についてきた絃也の方を向き、呟いた。
「何はともあれ、取り残された女性を助けるとしましょう」
「‥‥」
「どうされたのですか?」
玄関の手前で足を止め、思案顔の絃也の姿に、風香は問いかけた。少し沈黙していた絃也だったが、静かに顔を上げ、風香へ言う。
「敵のテリトリーだ。‥‥この狭い空間では、相手に分がある」
地の利というのは、武の道においても重要な意味を持つ。小さい範囲なら、間合いともいう。自分の得意な距離や地形に誘い、相手の力を半減させて叩く。少数で多数を叩くのならば、少数対少数になる場面を作る。戦術の基本だ。
全員が建物の捜索に入ったのは、失敗だったかもしれない。少なくとも先に偵察を出し、中の状況を確認してからでも遅くはなかったのではないだろうか。‥‥もっともそれは、絃也が救助者の生存を絶望的と判断しているからであるが。
「一階の浴室で、リザを発見したで!」
そうして思案していると、優子の声が玄関まで響き渡った。ハッとして、中へと駆け出していく風香を追って、絃也も家の中へ飛び込んでいった。
***
水の抜けたバスタブに、リザは着衣のまま収まっていた。身体には無数の切り傷があるが、出血はそれほど見られない。だが、顔面蒼白で、目は虚ろ。とても生気というものを感じられなかった。
「大丈夫か!?」
優子の問いかけに、リザはゆっくりと頭を垂れて反応した。
「よかった‥‥。まだ助けられるですの」
ホッとして、リザに近付こうとする雛菊を、優子は制止する。彼女がキメラである可能性がある現状で、迂闊に近付くことは出来ないのだ。しかし、それでは彼女の状態が分からない。一瞬躊躇ったが、雛菊はリザに駆け寄り、その身体を持ち上げようとした。
「足元だ!」
廊下の奥から響く誰かの声に、反射的に優子は身体を反らしたが、僅かに間に合わず、右足首を取られてしまう。バランスを崩した優子は転倒し、洗面台に胸を打ち付けた。落としたバケツから、床に青色の絵の具が散らばる。
「三日科さ‥‥うっ!?」
振り返った雛菊の背中に、鋭く尖ったものが突き立てられた。激痛と焼けた鉄を押し付けられたような熱さが身体を走る。苦痛に顔を歪ませながらも、視線を背面に動かすと――
――そこには、背中から無数の細長い足が突き出たリザがいた。
その内の一本はバスタブの排水溝にすっぽりと入っており、ゆるゆると、身体の中に収縮しているように動いている。
「こい‥‥つ!」
それは痛みよりも憎しみに。悲しみよりも怒りに。雛菊の身体を駆け巡っていく。
「‥‥くっ!」
小銃を構えた風香だが、引き金が引けない。突き出された雛菊の身体が、射線を遮っているからだ。躊躇う彼女の横をギリギリですり抜け、絃也が走る。振り上げた緋色の爪が、壁を擦って、火花を散らした。こんな場所では火力が十分に生かせない。突き飛ばして、外に出そうという試みだ。
後二歩踏み込めば拳が届く距離で、絃也は勢いを止めた。雛菊の身体が突き出され、彼に押し付けられたのだ。狭い空間で避けようが無く、受け止める彼の太ももに、アイスピックを付きたてたような痛みが走る。
「そ、外や!」
身体を起こした優子が、バスルームの小さな窓から、背中の足を器用に動かしてシュルシュルと出て行く姿を見ていた。どうやら、壁を登る程度の能力は有しているらしい。
「キメラはリザに寄生している。今、壁を這って二階に向かった」
階段から様子を覗いていた夢に伝えながら、絃也は玄関に向かった。雛菊はそのまま二階へ上がろうとするが、風香は肩に手を置いて、それを引き止める。
「‥‥外で待ち伏せましょう」
「せやな。絃也、足は大丈夫か?」
「‥‥傷は浅い。しかし、油断できない相手だ」
一呼吸置いて、優子は絃也に訊ねた。恐らくは優子自身も、分かりきっていた答えだったが。
「彼女、助けられると思うか?」
「‥‥」
絃也は語らず。僅かに表情を曇らせて、応えるだけだった。
***
「‥‥蜘蛛というより、タラバガニみたいな足ですね。壁や天井の血の跡は、彼女の血痕が付いた足跡でしたか」
リザの寝室、その入り口の物陰から顔を半分覗かせて、夢は呟いた。部屋の中には変わり果てたリザの姿。背中から突き出た足が、リザの身体を軽々と持ち上げ、天井から吊るしている。
「思った通りか、‥‥やれやれだな」
部屋の中、黒色の曲剣を正面に構え、フィオナは出方を窺う。室内は狭かったが、相手の動きは素早く、壁や天井を自在に動き回り、こちらの味方を盾に立ち回る。切り替えも早く、不利を悟れば即座に後退の動き。キメラにしては、システマチックな行動が目立つ。
「まるで、命を惜しんでいるよう」
朔夜は違和感を感じていた。もしかしたら、リザの意識は残っているのではないか。
「リザさん。待っててください。‥‥必ず、助けます」
それは、僅かに残った可能性に賭ける思いか、はたまた死者に対する鎮魂の言葉か。ジリジリと張り詰める空気を、美具の活の入った声が吹き飛ばす。
「美具が相手じゃ! かかって参れ!!」
それは仁王咆哮の効果か、リザはグリッと、ありえない動きで首を勢いよく傾けた。
――刹那。
一瞬の隙をついて、フィオナと、朔夜が飛び出した。交互に繰り出される漆黒の煌きと、雷光。二筋の剣線は交差し、禍々しく突き出たキメラの足を、綺麗に切り落とした。
『キャァァァァアアアアーーーーーーーーーーー!!!』
この世のものとは思えない、断末魔が響く。それは、人間のものと、キメラのものが入り混じったような、気持ちの悪い叫び声。その声に一瞬怯み、二撃目が一手遅れた。悶え苦しむように頭を抱え、背面の『足』で、窓にしがみ付くリザ。
「逃すか!!」
追撃に移る二人に、巨大な影が被さった。足の一本が、ベッドをひっくり返したのだ。シーツと毛布が部屋いっぱいに広がり、視界を塞ぐ。
「むぅ、畳替えしならぬ、ベッド返しじゃと?」
「ならば、圧して往くのみ!」
フィオナは動じず、豪力発現で隆起した身体を身構え、ひっくり返ったベッドの下方から上に、タックルを喰らわせた。ぶわっと、宙を舞うベッド。
その下を、飛ぶが如く駆け抜けていく夢。鋭い爪が、シーツを突き破って、二度三度、身体を掠めていくが、勢いを殺さずに。そして、二振りの刃をひる返して――
ぐぁしゃぁぁぁああああ!!
激しい激突音と、煙。そして、窓枠と、木目が飛ぶ。
二階の窓から捨て身で喰らわせた一撃は、リザの身体を、外に突き飛ばした。
「――蜂の巣に、してあげます」
静寂に澄み渡る風香の声。
両手に拳銃を構えたスナイパーが、このタイミングを見逃すわけがなく。眩いマズルフラッシュと甲高い銃声が閑静な住宅街に反響する。吐き出された薬莢が、硝煙の香りを引き連れ、芝の上に沈んでいった。
赤い雨が降る中を、猫のように綺麗に着地するキメラ。ぐいんと、リザの頭が勢いよく正面を向いた。リザの眼前に、氷狼・雛菊が迫る。
「斬る、斬る、ぶった、斬る!!」
懐深く踏み込み、捻りを加え、重く鋭い一撃が、リザの深くを突き破った。
ザクッ、ザクッ、ザクッ!!
何度も突き返される刃。雛菊の身体は、気が付けば赤の一色に染まっている。
「もういい!!」
絃也がその手を掴み、雛菊を止めた。リザの肉体は、もう、見る影も無く。
「‥‥もういい、終わった」
二度目の言葉は静かに、優しい声で。
リザの身体は、脊髄から侵食され、既にキメラによって体の中は食い破られ、臓器らしい臓器は残っていない状態であった。
「‥‥こらあかん。プロの仕事が必要や」
キメラを引き剥がそうと、状態を確認していた優子が、首を振って、溜息をついた。
「そうですか‥‥。私達にできるのは、ここまでですね」
拳銃を収納しながら、風香が呟いたタイミングで、美具達が家の外に出てきた。一応、他にキメラの気配が無いか、予め職員から入手した家の間取りを元に、確認したのだが、杞憂に終わったようだ。
「救えませんでした、か‥‥」
「連絡があった時点で、手遅れだったのだ。気にするなとは言わんが、気負い過ぎることも無い」
「そう、ですね」
肩を落とした朔夜に、フィオナは声をかけた。どこか、自分に言い聞かせているようにも思える。
「人を操るキメラは、前々から聞く話じゃが、厄介なものじゃの。‥‥特に、救出対象に忍ばされていると効果的じゃ。それはじわりと心を蝕み、疑心暗鬼を育てることになるじゃろうて」
見えないのではなく、存在しないものを恐れること。心の隙に浸け入れられることが、一番の敵と成り得るのだろうか。
そんなことをボンヤリ思いながら、夢は家主を失った小さな家を見上げていた。