【霜】決意の証
マスター名:朝臣 あむ
シナリオ形態: シリーズ
危険
難易度: 難しい
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/06/22 03:04



■オープニング本文

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 統括の屋敷を抜けた月宵嘉栄は、その身を自宅に戻していた。
 家に帰った彼女を迎え入れた僧と巫女は、まだ回復しきっていない彼女の身を案じ、すぐさま部屋に戻し、現在は布団の上に腰を据えている。
 そして彼女の目の前には、数名の開拓者たちが複雑そうな面持ちで立っていた。
「お見苦しいところをお見せ致しました」
 言って頭を下げた彼女に、開拓者たちは顔を見合わせる。
 さぞ落ち込んでいるだろう。
 そう思っていたのだが、実際に顔を合わせてみればなんてことはない。
 普段と変わらぬ様子と表情の彼女に若干拍子抜けしてしまう。
 しかし、それが僅かな違和感を生んでいることも否めない。
「嘉栄は知っていたのか?」
――何が?
 敢えてそこに触れず、彼女に真相を告げた開拓者が言う。
「はい、ある程度の事は日報より得ておりました。ただ、統括と血の繋がりがあったことまでは‥‥」
 知りませんでした。
 そう言外に言葉を零す彼女に、統括の反応や、調べた情報を知りたいと頷きを向けた時の嘉栄の様子が思い出される。
 赤子を囮に卑骨鬼を誘き出したこと、これは知っていた。
 そしてそれが自分であることも嘉栄は心得ていたのだろう。だが、何故自分が囮になり得たのか――否、何故自分が囮に選ばれたのかまでは知らなかった。
「此度の調べ物の結果、月宵様の迷いは晴れたのでしょうか」
 そう問うのは、彼女を古くから知る開拓者だ。
 彼女は嘉栄が素直な性格だと心得た上でその問いを向けている。
 それを知ってか、嘉栄は僅かに視線を伏せ呟いた。
「はい、十分に」
――十分に。
 そう答えているにも拘らず表情は晴れない。
 どうも先程から無理をしている気がしてならない。
 見える落ち着きも、普段と変わらない表情も、全てが無理を隠そうとしている道具に見えるのだ。
 そしてそれを察する者の1人、白銀の髪を持つシノビが耐えられず呟いた。
「‥‥あまり無理はなさらずだよ、月宵殿‥‥」
 嘉栄はその声に薄ら微笑んで頷く。
 やはり無理をしているのだろう。普段は感情を覗かせない別のシノビもこの時ばかりは口を開く。
「まったく‥‥――統括を見限るか、信じるか、その判断はきちんと考えて出しなさいよ」
 ぶっきらぼうに放たれた声に嘉栄は再び微笑んだ。
 そこに凄まじい勢いで僧が駆け込んでくる。
「か、嘉栄様、大変です!」
 普通ではない様子、あまりに蒼く染まった顔色に一同の視線が飛んだ。
「餓鬼山より大量のアヤカシが発生、現在こちらに進軍中です!」
「やはり‥‥来ましたか」
 アヤカシの発生、それは想像の出来る物だったのだろう。
 嘉栄が霜蓮寺に戻るまでの時間、調べ物をする時間、卑骨鬼はそれらすべてを見越していたと考えて良い。
 彼女に統括の非情さを教える為、霜蓮寺や鷹紅寺がどれだけ非情を尽くしてきたかを教える為、その為の時間を卑骨鬼は用意した。
 そう考えるならば、アヤカシの出現時期はまさに的確だ。
 そしてこの状態を危惧していた開拓者と嘉栄の目が合う。
「今回得た情報、それらは仕込ではないのですね?」
 嘉栄が全てを知らなかったとして、少しでも知っている情報が重なっているのなら、卑骨鬼がわざと仕込んだ情報ではないと言えるのではないだろうか。
 問いかけに嘉栄は静かな頷きを返すと、この場の全員の顔を見た。
 そして――
「卑骨鬼の進軍を引き止めます。手を貸して頂けますか?」
 真っ直ぐに向けられた言葉に、それぞれの言葉が返ってくる。
 それを聞き止め、彼女は布団からその身を上げた――と、その瞬間、体が大きく傾く。
 それを別の開拓者が支えると、彼女は今度こそ自分の足で立った。
「無理はするな」
「問題ありません。それよりも今は、卑骨鬼の足を止めるのが先。統括には霜蓮寺内部の指揮を――」
「あ、あの‥‥嘉栄様、それが‥‥」
「‥‥如何しました?」
 突如口を挟んだ僧に、嘉栄の目が瞬かれる。
「先程、統括が先方部隊を指揮して出陣しました‥‥」
「なっ!」
 卑骨鬼の狙いは、自分を倒す直前まで追い詰めた恨みと、無念の内に亡くなった僧の怨念を晴らすこと。
 それを同時に為すことが出来る統括が戦場に出るなど、敵の思う壺ではないか。
 それも先方部隊と言うことは、真っ先に卑骨鬼と顔を合わせる可能性が高い。
「統括、いったいあの方は何を‥‥――急ぎますよっ!」
 嘉栄は珍しく感情を表に出して吐き出すと、急ぎこの場を後にした。

●統括屋敷
 嘉栄の家に報告の手が及ぶ僅か前。
 卑骨鬼出現の報を受けた統括は、静かな表情で傍に控える久万を見た。
「先方部隊の指揮は私が取ろう。卑骨鬼もそれを望んでいるだろうからな」
「!?」
 自身が先方部隊を率いて出陣しようと思っていた久万は、思い掛けない言葉に声を失った。
 だがすぐさま反論の声を上げる。
「霜蓮寺に統括が居られんでどうするおつもりですか! 許可するわけには参りませんぞ!」
 今、最高責任者である統括が敵の前に行くことは霜蓮寺を見捨てることにつながる。
 そんなことは統括も分かっている筈。
 しかし、統括は久万の声を聞いてもその表情を崩さなかった。
「今の霜蓮寺に必要なのは卑骨鬼を退ける事だ。私の命や僧の命よりも、まずは民を護らねばならん」
「ならば尚の事、統括が出陣なさるのは反対です! 統括の身に何かあれば――」
「嘉栄が居るではないか」
「!」
「嘉栄は僧ではない。しかしあの者には今まで多くの事を学ばせてきた。それこそ、霜蓮寺の上に立つ事も視野に入れて、な」
 そう言って立ち上がると、統括は戦のための準備を始めた。
 それを沈痛の面持ちで見詰める久万は、眉間に皺を刻んで呟く。
「‥‥ならば、何故‥‥あのような物言いを‥‥」
 赤子である嘉栄を囮にするために‥‥死を覚悟するために縁を切ったと彼は言った。
 だが、今の言葉を聞く限り、縁を切った理由は別にあるような気がしてならない。
 しかし、それを問うことは出来なかった。
「唯一教えられなかった事があるとすれば、世界を見せそびれたということだろうか。あれは如何にも視野が狭すぎる」
「‥‥今からでも遅くはありませんぞ」
 久万の絞り出すような声に、統括の目が向かった。
「卑骨鬼を退けることが出来れば、嘉栄に世界を見せる時間も出来る筈‥‥」
 この声に、統括は「そうだな」と言葉を零し戦場に足を向けたのだった。


■参加者一覧
鈴梅雛(ia0116
12歳・女・巫
高遠・竣嶽(ia0295
26歳・女・志
氷(ia1083
29歳・男・陰
痕離(ia6954
26歳・女・シ
珠樹(ia8689
18歳・女・シ
百地 佐大夫(ib0796
23歳・男・シ
将門(ib1770
25歳・男・サ
鹿角 結(ib3119
24歳・女・弓


■リプレイ本文

 久万に出陣の報告に向かった嘉栄は、出鼻を挫くように出陣不許可の言を受けていた。
「――ですが私はっ!」
「落ち着け、嘉栄」
 声を荒げそうになった嘉栄を諌めた将門(ib1770)は、彼女が口を噤んだのを確認し、改めて久万を見た。
「1つ案があるんだが、良いだろうか」
「ほう、案ですか‥‥」
「ああ。嘉栄に僧を率いて此処から一番近い空き地に防衛線を敷いて欲しいんだ」
「防衛線を‥‥それはこの霜蓮寺を空けろと言うことですかな?」
 嘉栄はこの場を離れた統括の代わり。
 易々と霜蓮寺を離れて貰う訳には行かない。
 それは将門とてわかっている。わかっているが、嘉栄の気持ちを汲み、その上で危険の少ない方法を選ぶにはこれしかない。
「霜蓮寺内部の指揮は久万殿にお願いしたい。その上での提案だ」
 如何だろう? そう問い掛ける彼に、久万は思案気に目を落とす――と、そこに高遠・竣嶽(ia0295)の声が届く。
「考えている暇は無いと思いますが」
 確かに迷っている暇は無い。
 久万は唸り、そして顔を上げた。
「わかり申した。では、嘉栄は僧を率いて防衛線を敷くように。統括の援護には開拓者の方々にお願いを」
「お待ちください!」
 声を上げたのは嘉栄だ。
 納得がいかない。そう表情に出して放つ声に久万の目が見開かれる。
「やはり私は――」
「先発隊はオレらが連れ戻すから、嘉栄ちゃんは後続の僧兵さん達をまとめて迎撃の用意をしてくれい」
 氷(ia1083)はそう言うと、自らの意見と共に前に出た嘉栄を引き止めた。
 その姿に嘉栄の鋭い目が向かう。
「ですが、統括はっ」
「統括が先に出陣したってことで動揺してるのは、何も嘉栄ちゃんだけじゃないさ。それならそれらを纏め上げるのは久万サンだけじゃ厳しいだろ」
 氷の言葉は尤もだった。
 既に僧たちの間では動揺が広がり、浮足立つ者の姿が見える。
 このまま出陣しても統率がとれるかどうか危うい。
「氷の言うとおりだ。統括達は俺達が全力で守るから、嘉栄は霜蓮寺の者として民を守る為に最善を尽くして欲しい」
「ですが‥‥」
 将門の声に視線を落とした嘉栄は、未だ納得いかないようだった。
 そこに将門の容赦ない声が届く。
「体調が万全じゃない者は足手纏いだ‥‥これに懲りたら、これからはちゃんとメシ食えよ」
 前線に立ちたいと思うなら、常に己を律し、万全の状態を保つべきだと彼は言う。
「‥‥、‥‥わかりました。防衛線の準備、お引き受け致します」
 悔しさを押し殺して出された声に、百地 佐大夫(ib0796)が肩を叩く。
「俺が一緒に防衛線に行く。統括のことなら、皆に任せときゃ大丈夫だ」
 そう言葉を添え、皆を見る。
 その視線に、全員がそれぞれの反応で頷きを返す。
 そしてその中の1人、珠樹(ia8689)は嘉栄をチラリと見て息を吐いた。
「ま、これも仕事の内ってね。卑骨鬼‥‥わざわざ私達に時間を与えたこと、後悔させてやるわ」
 決意を口にして部屋の外に向かう彼女について部屋を出ようとした鈴梅雛(ia0116)の足が止まる。
 そ彼女は何かを思い出したように振り返ると、嘉栄の元に戻って来た。
「統括さんは、未だ隠している事がありそうです」
「え‥‥」
 嘉栄の手を取る幼い手と真っ直ぐに見詰める瞳に驚きの声が上がった。
「あの‥‥行ってきます」
 雛はそう言うと、小さく頭を下げて去って行った。
 その姿を見送り、嘉栄の視線が落ちる。
「‥‥統括の隠しているもの?」
「月宵様」
 不意に響いた声に目を向けた先、そこにいたのは竣嶽だ。
 平静を保つよう常に己を律し行動する彼女。
 今この時でさえもその形を変えない彼女に、嘉栄も僅かにだが冷静を取り戻す。
「信じるものを貫いてください」
 静かに告げ、未だ迷いを見せる嘉栄の目を見る。
「迷った時は、何か一つ筋を通すと堂々巡りしかしませんから」
 声に僅かながらの穏やかさが見える。
 そうしてその声を残し、彼女もまた皆の後を追い部屋を出て行った。
「まあ統括の態度も、裏返せば負い目を感じてんだろ」
 氷はそう言うと、大量の資料の中から出てきた情報を思い出していた。
 統括が取った方法は非情と言えるだろう。
 だがその行動には統括なりの信念があったはず。
「アヤカシを倒すために誰かが犠牲にならなきゃだとしたら‥‥もしその場に居たら嘉栄ちゃんならどうした?」
「私、なら‥‥、っ!」
 突如嘉栄の目が見開かれた。

――アヤカシを倒すために誰かが犠牲にならなきゃだとしたら。

 この言葉に嘉栄の中に動揺が広がる。
「久万殿、まさか統括は!」
 嫌な予感がする。
 焦りを覗かせる嘉栄に、久万はただ首を横に振る。
「やはり私も――」
「嘉栄さん、僕も統括を追います」
 嘉栄の言葉を遮って、鹿角 結(ib3119)は彼女の前に進み出た。
「ですがその前に、どうしても明らかになっていないことがあるのですが、良いでしょうか?」
 結はそう口にすると、卑骨鬼が彼女の事を「鍵」と言っていたこと。そして嘉栄に拘っている理由が今一つわからないということを告げた。
「ただ、どのような理由があるにせよ、統括が大きな狙いである事だけは確か。狙いに乗って攻め上がってしまった以上、急いで追うしかありません」
 起きてしまったことをとやかく言っても始まらない。
 結は嘉栄に目礼を向けると、他の皆と同じように部屋を出て行った。
 これでこの部屋に残っているのは、佐大夫と嘉栄、それに痕離(ia6954)、久万の4人だけだ。
「‥‥僕も先に行くよ。統括殿が心配だ‥‥意地でも生きて戻って貰わないと、ね」
 痕離はそう口にした上で、思案気に視線を落とすと、目をゆっくり嘉栄に戻した。
「守るものの為に、己を‥‥か」
 嘉栄の目には、まだ動揺が浮かんでいる。
 痕離は目を伏せるように視線を外すと、彼女の脇に立つ佐大夫に目を向けた。
「月宵殿の事、頼んだよ」
 そう託し、痕離も部屋を出て行った。
「私達も参りましょう‥‥今は、霜蓮寺を護るのが先です」
 迷いは未だある。
 それでもやるべきことがあるのなら、それを優先すべきだ。
 嘉栄はそう心を括ると、佐大夫と共に防衛線を敷くため、外に出て行った。

●前線
「まったく‥‥どいつもこいつも自分勝手に動くんだから」
 呟き、珠樹は早駆を屈指し前に進む。
 その目に飛び込んできたのは僧兵とアヤカシの姿だ。
「アヤカシを確認、統括の元に急ぐわ」
 言って更に強化した足。それに続く痕離も足を強化し、攻撃が入り乱れる戦場に飛び込んだ。
「凄い数だね、ッ‥‥邪魔だよ!」
 早駆で飛び込んだものの、行く手を阻む壁は厚い。
 痕離は鋭く鍛えられた刃を振り上げると、モドキの喉を掻き切り周囲を見回した。
「珠樹殿、あれを!」
「――卑骨鬼ッ、姿を見せい!」
 声を張り上げ目立つ動きで敵を薙ぎ払う僧。
 その姿を見止めて2人の足が急いた。
「‥‥其処から先、死地だよ」
 死角を狙い襲い掛かる攻撃を振り払い、痕離が囁く。その声に鉾を振り上げた僧の目が向かった。
「君たちは――」
「統括殿、‥‥貴方には生きて貰わないと困るんだ」
 投擲武器を放って敵を牽制する痕離は、そう言い統括に背を向けた。
 その姿を遠目に捉えた結が、ある事に気付いた。
「卑骨鬼の姿が見当たりませんね」
 常に冷静に、そして的確に矢を放ち敵の姿を探す。
 だが如何しても卑骨鬼の姿が見えない。
「‥‥どこに、隠れているのでしょう」
 雛は氷と共に敵陣を進みながら呟いた。
 標的であるはずの統括がいるのに、卑骨鬼がいない。それは明らかに違和感のある事だった。
「こいつはもしかすると、かッ! くっ、数が多い!」
 敵の視界を翻弄し刃を振るう将門は、そう口にして眉を顰める。
 先方部隊の僧兵は強い。
 その為、未だ先陣の壁は崩れていない。しかし闘いが続けば崩れてしまうのは確実だろう。
「統括、後方に月宵様にお願いし防衛線を敷いて頂いております。一先ず其処へ!」
 竣嶽は刀を振り下ろすと風の刃を放って道を作った。
 そこを雛と氷が進み、統括と合流を果たす。
「嘉栄が戦場に出ているだと!?」
 驚き声を上げた彼に、雛がそっと手を伸ばす。
 そして彼の手を取ると傷つくその身に癒しの光を注ぐ。
「一人で全部を背負わないで下さい。それで倒れられたら、皆が困ります」
「いや、私は‥‥」
「親が親なら子も子か‥‥親としての責任もとらずに帰らないつもりかい?」
「!」
「ま、親にしろ子にしろ、生きてる方が良いに決まってるのにな?」
 白き獣を放ち発した氷の声に、統括の目が見開かれた。
「殿は俺らが務める、防衛線まで退却を!」
 将門はそう叫び、僧と統括を促す。
 この声に一瞬躊躇いを見せたものの、統括は直ぐに判断を下した。
「僧兵は卑骨鬼奇襲に警戒しながら退却を開始せよ!」
 この声に僧たちが動き出す。
 それを見届け、開拓者たちが殿を務めるべく前に出た。
「統括殿も早く退却を」
 痕離はそう言って、ふと彼の顔を見た。
 その胸中にあるのは嘉栄と統括、2人の事を想う気遣いの心だ。
「お互いの気持ち、ちゃんと伝わる様に、先ずは此処を乗り切らないと‥‥ね」
「しっかし、こういうのも親バカっていうのかねえ」
 痕離に続き、氷が「しょうがねえな」とぼやきながら符を構える。
 そして無数のアヤカシに目を向けると、勇ましい声が響いてきた。
「ここで倒れられてしまってはまだまだあやふやな部分が多く残りますからね。無理矢理にでも下がらせますよ――参りますッ!」
 民を護るための僧、それが怨念になり民を害することとなった卑骨鬼。
 それを倒し解決すべきことは多々ある。
 竣嶽は声を張ると、己の刃の曇りを掃い敵陣に踏み込んで行った。

●防衛線
 防衛を敷く中で、昇った白の狼煙を見止め、嘉栄の瞳が眇められた。
 事前に決めていた連絡方法、それによれば卑骨鬼は前線に姿を見せていないという。
「いったい、何処に‥‥」
 そう口にした時だ。
 突然、僧の中にどよめきが上がった。
「何事――」
 咄嗟に振り返った嘉栄の目が見開かれる。
 目に飛び込んできた僧衣と、間近に迫る頭蓋骨に息を呑む。
「クククッ、さてさて、悲しくもアヤカシに捧げられた赤子が此処に‥‥お気持ちは如何ですかな?」
 顎をカタカタと鳴らし笑う敵に、嘉栄の手が刀に触れる。
 だがそれを抜くよりも早く、卑骨鬼の扇が彼女の顎を捉えた。
「おやおや、我が身の悲惨さを知りながら、それでも貴女は霜徳の為に刃を振るうのですかな? オカシイですな、オカシイですな」
 卑骨鬼はオカシイ、オカシイと零し、嘉栄の顔を覗き込む。
「っ‥‥何が、言いたいのです」
「簡単です、簡単ですよ。霜徳に復讐するのでしたらあれば、私と共に果たしませんか?」
「!」
 卑骨鬼の体から瘴気が上る。
 それが嘉栄の動きを拘束しているのだろうか。刀に手を添えたまま動かない彼女に、佐大夫が叫ぶ。
「耳を貸す必要はない!」
 僧たちは卑骨鬼が連れ込んだアヤカシの相手をしている。今、嘉栄に一番近い位置にいるのは彼だ。
「貴女が協力して下さると言うのであれば、霜蓮寺の安全、そして他の僧の安全もお約束しますぞ」
 如何しますかな? 卑骨鬼はニイッと笑ったまま嘉栄から目を逸らさない。
 そこに佐大夫の刹手裏剣が迫る。
 だが――
「邪魔は許しませんよ」
 片手で叩き落とされた投擲武器。
 それでも今一度それを放った彼に、卑骨鬼は扇を翳した。
 その瞬間放たれた瘴気に、佐大夫の動きが止まる。
「ッ、く!」
 体を襲う怠惰感。僅かに視界が歪み、身体が揺れる。
 それでも彼は我が身を奮い立たせると、残る一歩を踏み出した。
「ッ‥‥その手を、放しやがれっ!」
 瘴気を纏う短刀が妖しい光を放って卑骨鬼に迫る。
 しかし――
「邪魔は許さない、そう言ったはずです」
 冷淡に降る声、それが佐大夫の耳に届くのと彼の体が揺らぐのはほぼ同時だった。
「っ、が‥‥ぁ!」
 我が身を貫く卑骨鬼の手。
 腹部に突き刺さった骨に気付くと同時に、彼の口から血が吐き出される。
「佐大夫殿ッ!!」
 瘴気で動けないと踏んでいたのだろう。
 突然刀を抜き取った嘉栄に、卑骨鬼は驚き後方に飛んだ。
 当然、突然自由を得た佐大夫の体はその場に崩れ落ちる。
 嘉栄は彼に駆け寄ると、溢れる血を抑えるために自らの手を添えた。
「急ぎ止血を――」
 そう口にした時、喧騒が大きくなった気がした。
 目を向けるとそこに見えたのは増援――統括の部隊だ。
「これはっ」
 竣嶽は目にした光景に息を呑んだ。
 その上で急ぎ行く手を阻むアヤカシを掃う。
「鈴梅様!」
 回復が出来る雛は重要な存在。
 そんな彼女を忌々しく思う卑骨鬼は当然行く手を阻もうとした。
 だがそれを氷が遮る。
「おっと、今はこっちの相手が先じゃないかい」
 敵の足元に狙いを定め放つ呪縛の術。
 これに卑骨鬼が忌々しげに顎を鳴らした。
「佐大夫の様子は如何だ!」
 将門はモドキの首を掻き切ると、声を張った。
 その声に雛が必死に術を施し止血を試みる。
「出血が、多いです‥‥でも少しでも戦い易い様に。それがひいなの役目っ」
 想像以上に傷が深い。
 必死に術を施すが、出血の速さに術がついて行かないようだ。
「氷、雛の援護をしてあげて‥‥私は嘉栄のところに行くわ」
 珠樹はそう言って嘉栄に近付こうとした。
 だがそれをアヤカシが遮る。
「珠樹さん、道を作ります‥‥ッ!」
 結は桜色の燐光を纏う矢をギリギリまで引き、前方を見据えると、一気にそれを放った。
 燐光を放ち迫る攻撃に、射程線上のアヤカシが吹き飛ぶ。
「今だ、行くよ!」
 痕離はそう口にして、珠樹と共に嘉栄の元に急いだ。

 一方、嘉栄は刀の切っ先を卑骨鬼に向け、戦闘態勢を保っていた。
「とんだ邪魔が入りましたね‥‥して、貴女のお返事は――」
「お断り致します」
 言いきった彼女に、卑骨鬼の顎が上がる。
「貴方が私を鍵と呼んでいたこと、それは私が統括にとって鍵であるという意味。私が統括の下を去れば、霜蓮寺の統率は難しくなる。そしてもし統括に人の心があれば、揺れ動く――そう、判断したのでしょう」
 ですが‥‥と、嘉栄は言う。
「私が統括の下を去ることはありません。それは統括が為したことがどれだけ非情であろうとも、あの方が私に託して下さった記憶は偽りではないからです。それに――」
 嘉栄は治療の手を受ける佐大夫を見、そして駆け付けた仲間を見た。
 そして、改めて卑骨鬼を見ると、踏み込みの為に踏み締めた足に力を籠める。
「私には裏切る事の出来ない、大切な仲間が居ります。ですので、貴方のお誘いに乗ることは、今後も一切ないでしょう」
 いっそ、清々しく言い放ったその言葉に、卑骨鬼の顔が大きく振れた。
 そして勢いよく開かれた扇が嘉栄の喉を指す。
「――私に手を貸さなかったこと、死の縁で後悔するがいいでしょう!」
 言って放たれた瘴気。
 これを合図に最後の戦いが幕を上げた。