|
■オープニング本文 その医者は、診察室に再び現れたあづちを、呆れた表情で見返していた。どうしてこうなったんだね、と問い詰めても、いまは無駄かもしれない。目の前の彼女は言うまでもなく患者であり、まともに話を聞けるような状態ではないのである。 それでも、彼女がこぼす言葉のはしばしからかろうじて、また村人の頼みをきいていたらしいことが彼にはわかった。どうやら、冬眠前の餌探しで、村に近づきすぎた大きな熊を追い返そうとしていたらしい。それが逆に負われる羽目になり、逃げる最中に崖とも言える急斜面から滑落してしまった、とのことである。最後はほうほうの体だったそうで、弾が切れ棍棒がわりとして使っていた短銃を握りしめたまま、彼女は診察台に座っていた。 「まあ、生きててなによりだ」 ぱっと見て、医者は判断を下した。実際に彼の言うことは正しかった。熊に一撃をもらってしまっては打撲ですまないのは当然のことであり、またそもそももう少し斜面が急になっていれば転落死していたであろう。それをわかっているのかいないのか、痛みに震え、顔の右側を赤黒く腫らし、歯を食いしばってあづちは治療を受けていた。その歯の奥から、涙がちょちょぎれるのを必死に耐える息づかいが漏れてくる。 「歯は? ――ああ、欠けてはいないね。中は少し切れてるか」 止血の綿を半ば強引にあづちの口へ押し込めると(顎がまともに開かないのだ)、次は顔と同じく大きく腫れ上がっている右肩を触診した。 「腕も折れてないね、大丈夫」 彼が大きな湿布を勢いよく貼り付けると、あづちは口を半分開け喚いた。彼はそれを見ても、元気そうじゃないか、と笑った。彼のこの明るさは、予後も良好であることを示している。 「ひどい打撲だけど、じきに治るよ。痛いだろうけど、それ以上悪くはならないはずだ。まったく運がよかったね」 そう言って安堵させたが、充血し涙目で自分を睨みつけるあづちが、彼にはしかし、なにか不気味なものに見えてたまらなかった。 そもそも発端は、彼女が左腕の傷が癒えるのを待たずに姿をくらませてしまったことにある。手伝い人だからしょうがない、という理屈は彼には通用しない。あれが万が一化膿してしまえば、次は斬り落とすほかないのだ。完治はしたものの、傷跡のところどころが桃色を呈し盛り上がってしまっているのを見、おまえはいったい何を考えているんだ、と彼は問い質したい気分で胸がいっぱいになった。それで熊を追い払おうなどと‥‥、マタギにでもなったつもりなのだろうか? そして、きょうの治療が終わり次第、開拓者ギルドへ出かけるという。至急の事案とはいえ、何という無謀ぶりだろう。いつか、本当に死ぬんじゃないか、と彼は心配になりさえした。骨を拾う者など誰もいないのに、なにが彼女を駆り立てるというのだ? 生きるためだというのならば、彼女の聡明さなら、この診療所で助手として働いてもらっても申し分ないというのに。 しかし、喉から出かかる台詞を我慢して、彼は一介の医者に徹した。彼女がその申し出を受け入れることがないことは、わかっているからだ。口から出たのは、彼女にとってはなんの意味もなさない台詞だった。 「おだいじに。無茶はするんじゃないぞ」 そのままギルドへ出向いたあづちは、また受付に驚かれたが、それを意に介さず依頼の話を切り出した。 「熊のようなアヤカシ――ですか」 ここへ来て始めて、彼女はアヤカシという言葉を口にした。街道沿いに出現したアヤカシが村を襲う前に、退治して欲しい、というのが彼女の依頼だった。まだ、そう遠くへは行っていまい。 「あなたが、案内するんですか?」 目を丸くした受付の問いに、彼女は頷いた。立ち上がると大の男をゆうに越す背丈のアヤカシ、それも複数が相手では、普通の人間では逃げる間もなく狩られてしまう。彼女の説明を聞きながら。受付は伝票へ記入していった。あづちが逃げる際滑落した場所から村までは徒歩で2日程度であり、急げば十分に間に合う。事態を把握した職員は、伝票からあづちに視線を移して、言った。 「わかりました。さっそく開拓者を集めましょう――でもよく、無事でしたね」 |
■参加者一覧
朝比奈 空(ia0086)
21歳・女・魔
風雅 哲心(ia0135)
22歳・男・魔
恵皇(ia0150)
25歳・男・泰
犬神・彼方(ia0218)
25歳・女・陰
鞍馬 雪斗(ia5470)
21歳・男・巫
赤鈴 大左衛門(ia9854)
18歳・男・志
オラース・カノーヴァ(ib0141)
29歳・男・魔
鳳珠(ib3369)
14歳・女・巫 |
■リプレイ本文 ギルドの待合室に現れたあづちを見、開拓者たちは皆一様に、どうしてこうなった、という表情を浮かべた。 「あづちさぁ、お元気そう‥‥ではねェだスな」 2ヶ月ぶりの再会だったが、彼女の怪我の様子は、赤鈴 大左衛門(ia9854)が思わず表情を曇らせるほどであった。命あっての物種とは言うが、ここまで腫れてしまって、元の大きさに戻るのだろうか。それに彼は、あづちの態度がこれまでと変わっていることに引っ掛かっていた。あまりに表情が硬いのだ。 まだ傷が痛んでいるだろうあづちは淡々と依頼の説明を始めたが、彼女を囲んだのは、開拓者たちの冷ややかな視線だった。怪我が絶えることがないため、これでは命知らずと思われるのも無理はない。その無謀さは、これまでの信頼を失いかねない危険なものでもある。そして、今回彼女が冒した危険は、説明が進むにつれてさらに際だったものということがわかったのだ。 あづちが遭遇したアヤカシは、大きな熊のような姿をしてい、立ち上がるとゆうに8尺は越える身の丈であるという。それを短銃片手に挑んだまではよかったが、肉迫され不利な間合いになってしまったらしい。人の倍ほどもある大きさのアヤカシを、実力のはっきりしないあづち一人で相手するなどとは、これは無謀を通り越して馬鹿の所業としかいいようがない。 しかし、開拓者たちの無言の叱責をうけてなお、あづちは自身の行為を恥じることを頑なに拒んでいた。説明が一通り終わるとそのまま押し黙って、開拓者たちの発言を待った。 「アヤカシにぃ挑もうなんてぇ、命がぁ惜しくない奴のぉすることだぁね」 正直な気持ちを、犬神・彼方(ia0218)は述べた。あづちを見遣ると、目が合う。彼女を真っ直ぐ見つめ返すあづちの目は、ひどい怪我とは裏腹に澱んではいなかった。はっきりとしたまなざしであった。 「‥‥ま、そういう真っ直ぐな意地ってぇのも、俺はぁ嫌いじゃぁないがね」 彼方は一旦視線を外すと仕切り直し、再びあづちを正面から見つめて言った。 「心配するやつらぁだっているって事、忘れんなよ」 語気から真剣さが伝わってくる。しばらく無言で、二人はそのままにいたが、その間もあづちは表情ひとつ変えなかった。あまり長い間放っておけなかったので、場が静まったのをとりなすように、恵皇(ia0150)は助け船を出した。 「まあ、ほら――あづちだって子供じゃないんだし、俺たちがどうこう言うことでもないだろ?」 とにかく、後は開拓者たちに任せ無理はしないことだけを指示すると、あづちは従う意思を表したのか、ほんの微かに首を上下させた。念のために、出発前にはさらに朝比奈 空(ia0086)が精霊の力を借りて傷の手当をし、いざというとき持ちこたえられるようあつらえた。あづちが開拓者たちにどうしても同行するというので、これは次善の策であった。 「無茶をすると、周りの人が困りますからね」 きつめに空が釘を刺したがのれんに腕押し、またあづちは小さく頷くだけだった。 開拓者たちは、村へ先回りするものと森を調べるものに分かれることにした。雪斗(ia5470)、オラース・カノーヴァ(ib0141)、恵皇と彼方が、村人たちへの連絡や対応を引き受け、アヤカシを追い越すような形で村へと急ぎ向かった。 残った風雅 哲心(ia0135)、鳳珠(ib3369)、空そして大左衛門は、あづちの案内をもとに、彼女がアヤカシと遭遇した場所から捜索を始めた。森の中を進むのは時間がかかるだろうから、運がよければ様子を確認できるかもしれないとの考えからだった。 「その怪我でまだ手伝う気でいるとは‥‥、まったく、本当にお前も無茶するよな」 哲心のせりふにもあづちはうわの空のようであったが、その場所が近づいてくると彼女は状況を少しずつ語り出した。 「どうしても、ここは通らなければならなかったので‥‥」 北面へ荷物を運ぶ向かう途上、彼女はアヤカシに襲われたという。手伝い人とは言い換えれば根無し草であり、立場上関所を通過することができないため、あづちの通ることができる道は必然的に限られていた。そして彼女がアヤカシを素通りするには、ここは村に近すぎた。これが今回の顛末である。 「‥‥これならば、痕跡も追いかけやすいですね」 折れた枝が広範にわたっているのを見、鳳珠は目算した。ところどころの枝が焦げて穴が開いているのが、あづちの放った銃弾の跡であろう。巨体ではあるがあまり命中していないことから、鈍重でないことがわかる。もちろん、彼女の腕の悪さも関係してはいるが、彼女はかなりの近距離から発砲していたはずである。 「ところで、荷物は大丈夫ですか」 森の地面を穿つ足跡を調べながら、崖を滑落して散らばったらしい彼女の荷物を空は心配した。これからの作戦に支障を来すほど気になっているのであれば、先に集めて安心してしまった方がいいとの気遣いからであったが、その申し出は、あづちは断った。崖下に下りるためにはかなり回り込まねばならないことを、空が持ち出した地図で示し、貴重な時間を失うわけにはいかないから、とあづちは淡々と添えた。 大左衛門もあづちの荷物は気になるところであった。落ちた崖まで案内してもらったが、崖下を覗いても、散らばっているのはあづちの私物ばかりで、それらしい荷物は見当たらなかったのだ。しかし、貴重品ではないのは確からしく、促されて彼は気持ちをアヤカシへと切り替えた。痕跡が目立つので、山に慣れている彼にはお手の物だ。 しばらく跡を追いかけたが、直進ではないにせよ、やはり村の方向に進んでいるようだった。鳳珠の結界と大左衛門の直感がアヤカシの姿をくまなく探してはいたが、追いつくまでには至っていない。村までの道のりの3分の2ほどを大急ぎで消化した開拓者たちに焦りの色が見え始めたとき、哲心が手がかりを掴んだ。 「おい、あれはアヤカシの仕業じゃないか?」 木の幹に鮮血が飛び散っているのを目ざとく見つけ、開拓者たちはそこへ向かった。一見して、アヤカシの仕業とわかるものだった。その散らかりように、大左衛門は眉をしかめた。 「派手にやらかしただスなぁ」 数頭の鹿が、アヤカシに襲われそのなきがらを横たえていた。内蔵などは食い散らかされ、飛び散った肉片はもはやどこの部位かも想像が付かなかったが、血が重要な証拠となったのである。 「この様子だと、だいぶ時間が経っていますね」 目の前の惨劇に臆しもせず、空がどす黒く乾いた血の状態から分析した。大左衛門もそれと同意見だった。 「では、村へ急ぎましょう。この場を放っておくのは心苦しいですが‥‥」 行軍を速めるのには鳳珠の神楽舞が大いに役立った。4人は精霊の加護を受けると、痕跡を負わずに、街道を村へ向かいながら森の様子を探る方針へ切り替え、さらに道を急いだ。手負いのあづちも不満のひとつも漏らさず、開拓者たちに追随した。遭遇できるかどうかは二の次であった。万が一追いつけなくては徒労である。 その一方、アヤカシを追い越し早くも村へ到着した4人は、村人たちにアヤカシの出現を知らせるのに奔走していた。 「アヤカシが来そうな気配がある。ここは俺たちに任せて」 開拓者ギルドから依頼を受けていることを庄屋に伝えると、村の人別帳と、村の簡単な地図を見せてくれのでそれに従って避難は進められた。当初は村人を待避させるかどうかで意見がやや分かれたが、当の村人たちは至って落ち着いた様子で、それぞれの指示に従っていた。思案の末、念には念を入れ、大事をとって、アヤカシが現れたら素早く逃げられるのと、避難の際散り散りにならないようにと、集会所代わりの付近の寺へ集まってもらうことになった。 続いて主戦場をどうするかの選択に迫られたが、これは村に入る前に撃退することで意見の一致をみた。早くも彼方がちょうどよい草地を見つけだし、いよいよ迎え撃つ準備が整った。先回りの判断は、開拓者に時間的な優位を与える結果となった。 「そうだな、ここなら目一杯暴れられるな」 「ああ、村ぁには絶対にぃ、アヤカシを入れないようにぃしねぇとな」 さっそく、恵皇と彼方は足元の障害物を取り除き始めた。相手は大型の熊であるから、動きの素早さは相当なものであろう。 オラースは時間的な余裕を活かし、村人から借りた縄などを用いて森の端を横切るように急ごしらえの罠を設置した。何らかの怪我を負わせる類ではないが、引っ掛かると大きな音を立てるようになってい、それによって遠くからでも気付けるようになっているのだ。アヤカシを滅するためならば、これくらいの苦労は彼にとっては安いものであった。できる全ての手を尽くすのが、彼の信条であるからだ。 この空いた時間を利用し、戦闘の準備をするかたわらで、雪斗は戦闘へ臨むための占いをした。帝国から伝来してきた22枚の絵札であり、そこから彼の引いた札は、2人の女と1人の男、そして天使が描かれている『恋人たち』の正位置。これは試練の克服を意味する吉兆であった。 「悪くないね」 彼はひとりごちたが、気にかかる点が残っている。その札はまた、選択、調和など、ものごとの持つ二面性も表しているのだ。これは何を意味するのだろうか? しかしその考えは、罠の鳴らした音に遮られた。 「来たな。捕まると厄介だぞ!」 恵皇が高らかに宣言した。本番である。 熊のようなアヤカシは、総勢3体が順番に現れた。最初の出現では数の利を発揮できたが、後続が現れるにつれて優位性を失っていった。距離を一気に詰めてから振るう爪と、抱きついてからの牙は鋭く、着実に開拓者を傷つけていく。後衛を務めるオラースでさえも、魔法を分厚い毛皮に遮られ、攻撃の手を緩めて、味方の援護に回らなくてはならないほどであった。 「熊アヤカシごときがぁ、ひと様に近づくんじゃぁねぇぞ!」 その巨体のため、逆に開拓者たちが包囲されかねない状況である。彼方は気炎を吐き、熊の気を引いた。しかし、不動の構えをもってしても、アヤカシの一撃を完全に封じ込めることはできなかった。哲心たちが来るまでの辛抱だ。熊のために特別にあしらえた精霊の拳を見舞い、彼女は自らを鼓舞した。 「不浄の魂よ、黄泉へ還れっ」 雪斗は、止めの一撃にとっておいた渾身の突きを、早々に放たざるを得なかった。それでまずまずの手傷を負わせたが、その後が続くかどうか。彼の頭を一抹の不安がよぎった。 一陣の風が吹いたのは、そのときだった。 「集え‥‥精霊よ‥‥、妖を滅する力を‥‥」 森を抜け現れた空が、いちはやく術を放ったのだ。強行軍で彼女の息は上がっていたが、それは狙い澄まされた一発で、熊の後頭部へ吸い込まれていった。 「ご無事ですか? さあ、精霊の力を」 まず1体の熊が斃れたのを確認すると、鳳珠が手当のため駆け寄った。もちろん彼女をアヤカシが狙わないように、大左衛門が援護に割って入っている。 「遅ぉいじゃねぇか哲心、待ぁちわびたぜぇ?」 「すまない。だが一気にいくぜ、すべてを穿つ天狼の牙が相手だ!」 軽妙なやりとりを交わし、彼方と哲心が入れ替わった。最後にあづちも加わろうとしたが、それは大左衛門が叱って阻止した。 「あづちさぁ、こりゃワシらが受けた仕事だスよ! アヤカシをどうこうしよたぁ思わねぇこったス!」 全員が揃ったことで、開拓者たちの勢いは再び盛り返した。何より後衛の支援が増えたことによって、全力でアヤカシに当たってゆくことができるのである。代わる代わる前面へ立ち、打撃を浴びせていく開拓者たちに、はたして、熊も守りを崩されることとなった。 アヤカシには、間合いの内側へ入り込んでの攻撃が有効のようだった。技を出し尽くしたとはいえ、雪斗の拳はもう1頭を沈め、最後は恵皇の肉を切らせて骨を断つ渾身の気功が、アヤカシの存在を内側から打ち砕いた。 最後のアヤカシが滅しても、疲労のため開拓者はしばらくその場での休憩を余儀なくされた。追い討ちをかけてくるアヤカシはいなかったが、肩で息をしながら、オラースはあづちに問い質した。 「――なあ、こいつらをひとりで追い払うって、何か凄い作戦でもあったのか?」 誰がどう考えても、どだい無理な話である。あづちはうつむいた。返答はなかった。 村人への避難の指示も解き、全てが解決したあと、開拓者たちがあづちの荷物を回収しに崖下へ到着したときには、日もとっぷりと暮れていた。暗くて周囲がよく見えないながらも、彼女はてきぱきと自分の荷物を回収した。 それを皆で手伝う際、空は、あづちの使っていた胴乱を捜し出した。短銃を取り扱うのにはその中身と共に必須のものである。革張りで綺麗に漆が塗り込められているが、正面一部だけ、丸く綺麗に表面が剥がされている場所があった。おそらく、何か図案が描かれていたのだろう。せっかくの良品なのに、もったいない。 また、哲心はふと、目当ての荷物であろうかというものを発見した。 「荷物って、こいつで間違いないか?」 あづちは頷いた。彼の手には、1枚の手紙が握られていた。しっかりした質の紙であり、ちょっとやそっとでは破けるような代物でもない。 「‥‥しかし、こいつは‥‥」 彼女が特に拒否しなかったため、哲心は文面を読ませてもらった。だが、その内容には彼も困惑するほかなかった。 『――石鏡ざらめ、〇壱五八文。長葱、弐拾貫。玉葱、五拾貫――』石鏡ざらめ、などという砂糖の銘柄があったことも驚きだが、何のことはない、農産物の相場一覧だったのである。安積の市へ照会した回答だというが、これを東房から北面へ運ぶのに、あづちはこれだけ苦労していたのだ。何とも声の掛けようがなく、彼はそのまま手紙をあづちへ返した。 大左衛門にとっても、ますますもって謎であった。これだけのために、あれだけ命を危険に晒すなど、普通に考えてありえないからだ。紙切れ一枚のためにあんな苦労を強いられたことを、彼女は知っているのだろうか? 実は、あづちはわかっていた。この書類が何としてでも届けなければならないものだということを。しかしそれでも、自分の価値がおとしめられているような気がし、彼女は傷ついていた。自分の命が、この紙切れ1枚と同じ重さなのか? それを改めて思い知ったのと、アヤカシの恐怖、傷の痛みとで、彼女の目から涙が溢れた。ちょちょぎれる、というものではなかった。 崖下には、ギルドでの淡白さとは対照的な、あづちの嗚咽だけが響いていた。雪斗の引いた絵札はこのことも、意味しているのかもしれなかった。 |