朧夜用心
マスター名:
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2009/11/19 23:06



■オープニング本文

 きぃ、と車輪の軋る音。
 霧が出ている。すでに夜も深く更けた。
 遭都の掃ききよめられた小路の路々、遅くまで灯をともして酔い痴れた人々を誘う酒家の明かりも、瀟洒に仄かな香の香りを漂わす軒行灯も、もはや消え果てた。
 月は望月より一つか二つを過ぎ、真円からやや欠けたころ。
 幾重もの薄絹を通したように霧を通した光は、いっそ凄絶なほどに艶めいた。
 ちゃりりと雪駄を鳴らして大路をゆく男はこの空模様に舌打ちひとつ――いずれ紅灯の巷の、脂粉のにおう柔肌からあぶれた者であろう。酔いどれた足取りで、秋の夜風の冷たさにぶるりと身震いし、また歩き出す。
 きぃ、と車輪の軋る音。
 男は胡乱な顔で首をかしげた――時は深更を回り、静寂は水底のように都を浸すというのに、車輪の軋る音。
 いにしえの千古の昔ならともかくもこの夜半、牛車を仕立てて出歩こうなどと一体、何処の公家ばらか。
 立ち止まった。
 そこで既に、男の運は尽きていた。
 車輪の軋りが回転を速め、轢音は噛んだ石粒を弾きながら雷鳴のよう。狼狽しそちこちを見回す男は、ようやく霧の底に仄見える何ものかの影に気付く――近づいてきている。それも凄まじい速さで。速度が風を巻き、霧の幕から暫時瞭らかとなった月明かりに一瞬、その姿が判ぜられた。
 牛車。
 車箱にはりめぐらせた網代もいまは風雨に朽ちかけて、裂け破れた垂簾が風にたなびく。折れた頸木につながれる筈の牛は姿も見えず、そもそも有り得ぬ速さで車輪は激しい音とともに回転を続けている。
 その瞬間、悲鳴は男の喉に凝りついた。
 風がうねり、霧が流れる。ごうごうと耳の外を叩くのは風の音か、情けなく洩れる己の悲鳴か。或いは人外の哭声。己は走っているのか、それとも追いつかれ阿呆のように口を開けているのか、でなければ車に跳ね飛ばされ木っ端のように宙を舞っているのか。
 殆どいちどきにやってきたそれらを経、男に感じられたのは結句、掌の下の地面の感触、それのみである。糸を抜いた傀儡のようにくしゃりと折れ曲がった四肢には、まるで現実味というものがなかった――
 そして目の前に見たのは、女の、白い爪先。
 助けを求めようとて、呻き声ばかりが吐き出す血とともに醜く地を這った。首を動かせぬので目玉を動かす。たおやかな足は幼さを残す身体の線に続き、白い顎までがかろうじて視界に入った。化粧の色の乗らぬ、仄かに淡い花弁めいた口唇。
 それがゆっくりと動き、ひとつの言葉をかたちづくる。
「にいさま」
 ――兄様?
 朧な、月の光。
 そして、きぃ、きぃ、と車輪の軋る音。
 己の頭蓋が音たてて砕ける音までは、男は聞かずに済んだ。

 むかし都の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり。出てみれば異形のもの也。或いは何ぞの遺恨なりやと――

 その男で、数えて五人目であった。
 夜明けてのちに残された無残な屍。大路に残る轍の跡。
 ひとつき前から遭都の夜をさまよう、あやしき形のもの――朧車と称されるアヤカシの仕業と、巷説の噂は語る。
 やがて夜々、紅灯のちまたをそぞろ歩く人の影も絶えてなくなり、開拓者ギルドに回された依頼には次のように記されていた。

 われ昨今、ちまたを騒がすあやかし、朧車に遺恨もつ者也。
 件の異形、わが兄の仇と思われれば、此れを調べる者をつどう由――


■参加者一覧
白眉(ia0453
27歳・女・巫
鬼灯 仄(ia1257
35歳・男・サ
犬神 狛(ia2995
26歳・男・サ
赤マント(ia3521
14歳・女・泰
銀丞(ia4168
23歳・女・サ
花焔(ia5344
25歳・女・シ
北風 冬子(ia5371
18歳・女・シ
白柳 蓮(ia7146
16歳・女・泰


■リプレイ本文

●第一幕・遭都花街小路・午後

 ――憂世は牛の小車の、憂世は牛の小車の、廻るや報ひなるらん。

 ふと耳に触れる謡も、芸事の修練か。夜の花柳の巷も昼には眠たげな、化粧を落とした女の気怠い風情だ。
 その雑踏にて、くるくると手際よくほどかれていく巻紙。捧げ持つ手はよく漉かれた紙と同じく蒼白い。
「‥‥ではこの娘御で、間違いありますまいか?‥‥」
 声は金鈴を転がすかのよう。筆の先が描く絵図は線を略しながらも特徴を捉えた似顔。
 近在の女は頷きながらも、似顔絵と絵師と、同じ位に気になる様子だった――何せこの絵師、全てが扇で顔を隠しながらの所作であるので。
 やわらかな白毛の筆先のような眉ばかりが扇からさしのぞく、絵師、名を白眉(ia0453)という。
 更に女に二、三尋ね、白眉は丁重な礼とともに踵を返す。と、その眉が興ありげに上がった。
「これはこれは。鬼灯殿」
 茶屋の格子越しに呼びかけられた男――鬼灯 仄(ia1257)は首はすくめたものの、悪びれたふうは見えぬ。苦味走った顔つきに肩に羽織ったあでやかな着物の設楽なさ。全く絵に描いたような流連の態である。
 なおも未練げに袖ひく茶屋女を睦言めいた囁きであしらい、出てきた鬼灯に白眉はほほ、と上品に笑みこぼす。その笑みの様子はやはり扇の影で、眉の動きから推し量るしかないのだが。「お楽しみに、水を差してしまいましたか」
「何。客の絶えて寂しい時分だって随分良くしてくれるもんで、な。大した話は聞けなかったが、足取りは掴めた感じだ。お前さんの方は?」
「それは重畳」と労う気配も、眉の先である。「白眉はいま少し、上つ方の御屋敷などにお話を伺いに参ろうかと」
 では、又、宵に――
 おう、と軽く手を振る鬼灯に、ほ、と鈴を振るような声で笑み残し、雑踏へと立ち戻る。扇をもたぬ方の手でいとおしげに、未だ何も描かれぬ画紙をさすった。
「はてさて。此度は形も定めぬ朧と名にし負う物怪、いかに描きましょうかの‥‥」
 巫女にして絵師。腕は確かながら怪異な画題ばかりを好む白眉は、悩ましくもうっとりとひとりごちた。

●第二幕・遭都風聞覚書・夕
 近来、遭都の霧の晩を騒がすという朧車についての風聞は大小の尾鰭を取り交ぜて様々だ。
 曰く、深夜怪しげな物音に格子から覗くと、見るもおどろな影が通り過ぎる間際であったとか。
 曰く、道に滴る生血の痕を追いかけてゆくと手足をばらばらにされてしまうとか、この話を聞いたら十人に話さないと朧車が訪れてこれまた手足をばらばらにされてしまうとか。
「‥‥最後のはどう考えても、尾鰭の先も先だろ」
 煙管を吸いつけ、銀丞(ia4168)は呆れたように煙の輪を吐いた。聞き込んできた白柳 蓮(ia7146)がしゅんとする。見回り前、腹拵えも兼ねての縄暖簾での打ち合わせである。
「良い良い。依頼主の、葵殿に話も聞けたのじゃろ? 如何であった」
 見目とともにおおらかな犬神 狛(ia2995)の言葉に気を取り直して背筋を伸ばす。名前にちなんだ蓮の簪が、切りそろえた髪の耳元で揺れた。
「はいっ。それがその‥‥何というか、奇矯なお人で‥‥」
 口籠るのは、陰口をきくようで気がひけるからか。
 屋敷は古風な寝殿造、かつては大身の貴族が主であったろう。だがしかし。
 毀たれた裏門。門柱に生えた雑草。そうして昼なお薄暗い車宿から手だけが見えて、そっと手招きした。赤マント(ia3521)と連れ立って来ていなければ悲鳴の一つも挙げたやも知れぬ、と白柳はこっそり己を恥じる。
 隣で酒場だというのに何故か萩餅をぱくついていた赤毛の少女も口を挟む。
「うんうん。何かぼうっとした感じでさ、話も噛み合うんだけど、何だかずれるって言うか。‥‥でもお兄さん思いってのはほんとだと思う」
 速さを身上としているせいか、喋るときも早口だ。むせそうになって慌てて茶で流し込む。
 昼間。
 通されたのは屋敷といっても牛車を入れる車宿の辺りまで。その周囲は生活の気配が伺えたものの、母屋の方は深閑と荒れ果てていた。他に人は、と尋ねると、「さあ」とふしぎそうに首をかしげる――それでも二人分の茶を出す様子はふつうの娘らしく、けぶるような睫を臥せてそっと微笑む。何度かつまづき、手指のあちこちに傷があるのを恥ずかしげに隠して、そそっかしいから、と頬を染めてはにかむ、兄思いの小間使いの娘。
 しかし話を聞くのは、捗捗しくなかった。兄様が、兄様は、と口にしようとするとその都度、ひきつった呼吸で声を詰まらせる。
 心の傷が余りに深いのか。ただ、と、白柳は思い返す。困り果てて互いに目配せし、辞する前に開拓者総意として討伐の意あり、と告げたときの様子が忘れられない――
 石のようにぎゅっと凝り固まった小さな肩。袂にはらと落ちかかる黒髪の一房。低く零した言葉はただ一言、
「殺すの」
 その声は、ぞっとするほど乾いていた。
 いつしか、座はしんと静まり返っていた。銀丞が苛立ったように、煙管の吸い口を噛む音ばかりが耳につく。皆々、それぞれが集めてきた情報。それらを照らし合わせるならば――
「‥‥何にしても今の段階じゃ、推測でしかないってね」
 ぽん、と目撃地を書き入れた街の図をうちたたき、花焔(ia5344)がそう言った。世故長けたシノビである彼女は今回の件、差配をするとともに何かと気配りを利かせてくれる。金色の片目でぱちん、と瞬きひとつ。蜜を含んだ花芯のような流し目は、いまは艶というよりも慰めを含んで感じられた。「‥‥はい」とだけ、震える声で、白柳はうつむく。
 秋深まり、外は降るとも降らぬともつかぬ時雨。今宵は霧になりそうな――

●第三幕・遭都大路・夜
 夜にして川風となれば、なお冷たい。
 銀丞は結い上げた銀髪を蓬々と風になびかせ、河辺の柳に背をもたせかける。
「使うかの」
 と、差し出されたのは懐に入れて手を温める温石。人なつこげな犬神の笑いに視線を移し、「冷え性か?」と傷ある頬を歪めて笑った。
 辛辣な言葉を気にしたふうもなく、
「わしは二刀じゃから。どちらが凍えても話にならんでな」
 のんきな口振りは大柄な体躯の分だけ、心映えも大きいからだろうか。調子が狂う、と煙管を取り出しかけ、またしまう。手持ち無沙汰の手慰み、ぼろに包んだ焼いた軽石を受け取って掌に転がした。熱いほどに暖かい。
「しかしやはり、動かんと寒いの。そこらに溝でも掘ろうか」
「いつ来るのかも判らないのに? 面倒くせえ。明日になれば埋め戻すんだぜ」
 アヤカシ退治という大義名分はあれども、天下の公道であるからして。
「じゃが片輪を落とせれば御の字であろう? ほれ、あの辺。車の幅と合わせて」
「私なら綱を張るね。勢いを殺せる。橋の欄干に渡して、あそこの小路にでも隠れて待つのさ。片付けに手間もない」
「綱では切れるやも知れん。溝がよい」
 むむ、と思わず二人して睨み合い。ややあって、お互いに噴き出した。
 月は丁度、居待月のころあい。
 やがて夜霧を切り裂いて、合図の呼子笛の音が響いた。

●幕間・遭都某所屋敷内車宿・夜
 どうしよう。
 殺してしまうかも知れない。
 一人ずつなら良かったのに。そうすればちゃんと、葵一人でも上手に出来たのに。
 でもだめだった、昼間に来た彼女達があんまり賑やかだったから。賑やかで、きらきらしていて、懐かしかったから。
 いつだって、兄様に手伝ってもらわないと、上手になんて出来ない。
 にいさまにあんなに言ったのに。ちゃんとするから、上手に出来るから、もう少しだけ待っていてって言ったのに。
 にいさまは出て行ってしまった。お腹を空かしているからだ。葵が、ちょっとずつ切ってあげる分では全然足りないからだ。ああ、でも、どうしようどうしようどうしよう。
 殺してしまうかも知れない。
 殺されてしまうかも知れない。
 また。
 廃屋でひとり、妹はぶるりと震える。あの晩も、霧が出ていた。丁度この場所、牛車を入れておく車宿だった。蒼ざめた月光に、砕けた額。夜目に血は黒く黒く流れた。誰かの笑い声笑い声笑い声。押さえる手捕える手絡む足。痛くて熱くて気持ち悪くて痛くて痛い。
 そうしたら、にいさまが、たすけに、きてくれた。
 叫び声叫び声何かの砕ける音。みんな逃げ出してしまって、もう二度と戻らなくて、でも葵は嬉しくて嬉しくて泣いた。きぃ、きぃ、と車輪が軋る音。
 たすけにきてくれたのだから、これが、にいさま。

 よろめきながら、妹は立ち上がる。這うように裏門を出、土塀に手をつきながら、覚束ぬ足取りで。歩くうちにすあしに巻いた包帯が解け、もう何本か無い足指から血の痕が、点々と後ろに残る。

●第四幕・遭都大路・深夜
「――来たか!」
 此処の、橋の袂が追い込み場所だった。誘い出すに足る幅があり、隠れるに良い小路があり、どちらから来ても見通せる。また周囲での聞き込みから割り出した場所でもあったが、今は置く。
 夜霧の大路、また小路を巧みに伝う影は花焔と見えた。夜目に正確に手裏剣を当て、誘い込むために生と死の間隙を縫うシノビの姿。その後を、霧を巻いて走る破れ朽ちた牛車。
 ひょう、と夜気を切って走る、火矢の軌跡が見える――鬼灯の放つ、炎魂縛武の矢業だ。的確に先を読みながら移動する、横面からの攻め。
 後方から追い込むのは少女泰拳士ふたり。只でさえ速いものが、白眉の神楽舞によって尚更に速く追いすがる。
 猛る獣をいなすよう、花焔がとん、と地を蹴った。
 突進をわずかな距離でかわされ、車輪が激しく軋んだ。赤を纏った少女が追う。此処までにかわし損ねて転んだか、手足や頬に擦傷が見える。ひるみもせず、掌から放つ気功波が夜闇をわずかに明るませた。
 追い込みの仕上げ――サムライふたりはそれぞれ、得物を抜いて構えた。犬神は両の手に二刀。銀丞は兼朱と銘打つ太刀。
 ぎしりぎしりと朧車の車輪が不吉な響きとともに方向を変えた。犬神が動く。突進とほぼ同時。片輪の輻を一刀が噛み、返す刀のもう一刀が車輪の軸に罅を入れ――だが、回転の勢いに負け、弾き飛ばされる。「任せた‥‥っ」
 その呻きが、銀丞の脳裏を掠めたかどうか。傷ある頬に浮かべるは獰猛なまでにふてぶてしい笑み。構える刀身はその髪と同じく、禍々しいまでの銀。
 必殺の斬撃――地断撃を放つ寸前の切っ先はその力を溜めたまま、ひたりと止まる。無表情な声音で、低く囁く。
「‥‥退きな」
 たおやかな、血塗れのすあしが見えた。首を振り、涙をぬぐう度、白い頬に血と泥の筋がこびりつく。息も絶え絶えに、切れ切れの声で、
「だめ」
 にいさまを、殺さないで。
 依頼主、兄を殺された妹――葵は仇であるはずのアヤカシ、朧車に取りすがる。断末魔めいて、車輪がしゃくりあげるような動きをしていた。その牛車の轅に掛かっているのは、衣服の端切れなどではない。人の頭髪の幾房かが、頭皮とともに付着していた。
「それが――兄上の、桂殿のお髪ですか?」
 鈴を振るような声が聞こえた。白眉がゆるゆると、遅れて追いついてきたのだった。

 都の貴族達から、白眉が聞き知ったことは多くはない。「間違うていたらお正し下さい」と、溜息のように添え、
「ご兄妹が仕えておられた主人――有原殿の評判は良い物では御座りませなんだ。よう仕えて、出来たご兄妹とかえって評判なほど‥‥けれど、かわいがられていたという言葉はときに、醜い事どもを隠すもの」
 無体を強いられていたのでは、ありませんか。
「‥‥いやだったの。ずっとずっと、いやだったの」
 放心した妹の様子は何処かしら、痛々しいまでに稚い。
「いやで、すごくいやで、兄様にいったの。たすけて、って」
 無理だと知っていた。親の顔も知らぬ兄妹は、血が滲むような恩義に縛られていた。思い出を紡ぐ彼女の表情はそれでも幸せそうで、そして同時に空虚だった。「兄様は逃げよう‥‥っていってくれた」
 夜闇に紛れて。霧に紛れて。何処か遠くで、幸いの土地で二人で暮らそうと。
「でもだめだった」
 雇われの身で恩知らずの、益体もない牛飼童よ。情を有り難いとも思わぬ小娘よ。似合いの中間小者にくれてしまおう――
 蒼ざめた月光砕けた額兄の死顔。誰かの笑い声笑い声笑い声。
 悲憤。瞋恚。また哀惜。
 アヤカシはときに、そんな人心の有り様を喰らって形成すという。
 それでも。
「離れな。それは最初から」
 人じゃない。
 剣閃は、かえってゆるりとして見えた。
 地を擦る斬撃が地表を裂く。枯れた木の葉のように網代が千切れ飛んだ。
「いやあァァ――!」
 そのまま滑り込むように、車箱を切り裂く筈の刃だった。銀丞は歯軋りとともに全身の体重を傾け、飛び込んできた身体から刀身を逸らした。それでも、既に放たれた地断撃を止めることなど、叶う筈もない。
 丁度、橋の袂であった。
 多発する轢殺体の意味するところ。兄妹、或いはアヤカシと哀れな妹の住まった荒れ屋と、人通りの多い花街が接する地帯の境界を意味する橋であった。
 耳に残るは悲鳴より、水音の響きばかり――

●終幕・遭都大路・後日
 引き揚げることが出来たのは、瘴気の霧散した後の割れた車体と車輪の一部のみだった。
 陽の下で車箱を開くと、惨殺を思わせる夥しい血痕。殺されたという、兄の物であろう。
「‥‥これが、真実か」
 苦い、というより寂しげな、犬神の横顔。
 牛車に憑いたアヤカシにとっては何をしようと彼女も只の食べ残しに過ぎず、遅かれ早かれ喰われる定めであったろうに。
「しかし結局あの娘っこは、調査に開拓者を集めるって名目で、アヤカシに喰わす魂胆だったのかね」
 鬼灯は首をすくめる。思い当たるのは手の傷や、足指の欠損。人外の際限ない飢えを癒そうと、己の身を削いで与えていたのだろうか。朧車を兄と錯誤した、その狂気ゆえに。
「わかんないけど。‥‥僕は、止めて欲しかったんじゃないかと思う。心の何処かでさ」
 通り名そのままの赤い外套に顎をうずめ、赤マントが呟く。「その線も有りね。ちゃんと入ってたわよ、報酬。屋敷の貴族の生き残りがいてさ、そっちからも余禄が出るって。口止めのつもりか、或いは手遅れのまま見過ごした罪滅ぼしか」
 花焔が猫のように伸びをした。銀丞は終始、そむけた背を川風になぶらせるばかり。
「このまま無かったことに‥‥それが、良いことなのでしょうか‥‥」
 白柳が、きゅっと口唇を噛みしめる。ほんのいっとき、言葉を交わした。狂っていたかも知れない、取り返しのつかぬことをしたのかも知れない。それでも恥に苦痛に血に泥に塗れて走ってきた哀れな娘の、儚い微笑を見たことがあった。
「さて。元より朧車は音のみありて、人が霧のさなかにあやしき形を見たと騒ぐもの。‥‥こうして表すことも、良かったか、どうか」
 霧晴れた川風に、白眉は画紙を晒した。冴えた筆致で描かれた異形は明瞭に形を成しながらもしかし、尚朧なる――