|
■オープニング本文 まだ強い日差しを振り仰いだ結夏(iz0039)は、そのあまりの眩しさに思わず溜め息をついてしまった。 「やっぱり夏麟を連れてくるべきだったかしら‥‥」 上司の命を受けての旅回りは、役職がついても今までと変わらず十日程度の予定。今回は理穴の都、奏生を出発して早瀬まで向かうことになっていた。立ち寄るのは小さな村が多く、住民を警戒させないためにも朋友は連れてこなかったのだが。こうも暑さが続くと、そう決めた数日前の自分に文句を言いたくもなってしまう。 (「そういえば、去年はこの辺りを馬で駆けたのだったわね。物資不足で龍は連れて来れなくて、道もあまり整っていなくて」) 中々素敵な乗り心地だったわ、と思わず苦笑を浮かべた結夏の耳に、後ろから馬車が走る音が届いた。遠くから聞こえるそれは、かなりの速度を出している証拠。かすかに悲鳴のようなものが混じっていることに気付くと、結夏は間髪入れずに今来た道を走って戻り始めた。 うひゃぁ〜という、はたから聞けば気の抜けるような声が、疾走する二頭立て馬車から発せられていた。 「お、お姉さん危ない! 馬車に飛び乗れる? 手を貸すから何とか飛び乗って!?」 走り寄る人影に気付いた御者が慌てて手を伸ばすが。結夏は先に飛ばした式から状況を読み取ると、穏やかな笑みを向けながら、するりとその手をかわして進む。 (「剣狼が三匹、近付かれる前に決めないと」) だが落ち着いた動作で隠しから両手に符を抜き取ると、鋭い呼気と共に右腕を振り抜く結夏。同時に放たれた三枚の符が斬撃となって剣狼の眉間に突き立てば、断末魔を上げる暇さえ与えず、そのまま真っ二つに断ち割ってしまう。慌てて馬車が止まって御者が振り向く頃には、弾けて宙へと消える瘴気が微かに残るのみ。 「ええっ? ‥‥えええっ?!」 上げかけた非難の声を更にひっくり返して驚く御者は、中々開いた口を塞ぐことが出来ないようだった。 羅波(らなみ)と名乗った御者は、早瀬の先、拳風の旅泰まで荷物を届ける最中だという。 「ほら、この前猫族の月見があったじゃない? その時の評判が良くってさ、お代わり運んでんの」 けたけた笑う羅波は、黒猫の耳と尻尾を持った猫族である。天儀の料理を求めて泰国を飛び出してみたものの、思い知ったのは泰国料理の懐の深さ。さっさと戻って修行を再開するために、旅費を稼いでいるところらしい。 「やっぱり素材の鮮度は大事だよ。秋刀魚より氷の方が高いくらいだけど、こればっかりは投資と割り切らないとね」 運ぶだけで値が何倍にもなるんだからと自慢げな様子に、思わず苦笑を浮かべる結夏だが。 「最近はあまり聞きませんけど、去年の今頃はこの辺りも結構大きなアヤカシが出ていたんですよ?」 一人旅は危ないのではないかしら、と困ったように告げれば、だが対する羅波も顔を顰めてみせる。 「そう聞いたからさ。前は護衛を雇ったんだけど、アヤカシなんて一匹も出なかったんだよ?」 大損だったんだから、と口を尖らせたのも束の間。まあ、だからこの仕事も請けれたし、結夏さんにも会えたんだけどね、と調子の良いことを言ってみせる。 「そうそう、面白い荷物運びも付いてきたんだ。『雪綿』っていうんだけど、結夏さん知ってる?」 羅波が足元から取り出したのは、変哲も無い木の小箱。蓋をぱかりと開けると、中には雪と見紛う何かが詰まっていた。 「これ‥‥ 冷たくないのね?」 指で押すときしきしと鳴る雪の感触は、だが綿のように乾いていて熱を感じさせない。 「ああ、氷が解けてきちゃってる! 早く氷を補給しないと、旅費が水の泡になっちゃう?!」 幌の掛かった荷車を覗いていた羅波が、素っ頓狂な声を上げれば。なし崩し的に蓋を閉め、苦笑するしかない結夏だった。 |
■参加者一覧
北條 黯羽(ia0072)
25歳・女・陰
恵皇(ia0150)
25歳・男・泰
アルカ・セイル(ia0903)
18歳・女・サ
宿奈 芳純(ia9695)
25歳・男・陰
ルヴェル・ノール(ib0363)
30歳・男・魔
ニクス・ソル(ib0444)
21歳・男・騎
アッシュ・クライン(ib0456)
26歳・男・騎
灰夢(ib3351)
17歳・女・弓 |
■リプレイ本文 ●焚き火を囲んで 満月に近い月は、薄く雲を被っても辺りを明るく照らしていた。芒が流れる音といい風といい、辺りはすっかり秋の気配に満ちている。 「こっちは準備万端だけど‥‥ 火も良い感じじゃない」 近くの小川から桶を抱えて戻ってきた羅波は、熾きになった炭火を見て相好を崩す。 「しかし良いのか、羅波。秋刀魚も炭も、大事な売り物なのだろう?」 ニクス(ib0444)が手頃な岩で組んだ竈に金網を乗せつつも問うが、羅波は折角の機会だからと機嫌良く応える。 「元々屋台は出すつもりで多めに仕入れていたし。氷も造ってもらった分、野営する余裕もあるんだし」 それに秋刀魚を食べたこと無い人がいたら尚更じゃない、と少々浮かれ気味に理由を挙げてみせる。 「好意は素直に受けておけば良いさ。‥‥それにしても脂ものって、旨そうな秋刀魚さねぇ」 これで酒でもあればと呟き掛けた北條 黯羽(ia0072)は、だが二人の苦笑いに気付くと。まあ拳風に着いた後の楽しみに取っておくかと、咳払いをしつつ視線を逸らせてみせた。 今日は朝早くから日が暮れるまで、一行は先行偵察と馬車護衛の二隊に分かれて、街道をひた走ってきた。秋刀魚の鮮度を考え、休憩も氷を継ぎ足す最低限。辺りが暗くなるまで少々無理をしてしまったが、事前に地勢は十分に確認していたため、清水が湧き出る水場まで無事に辿り着いていた。流石に夜間の道行きは危険だろうと、これも前もって決めていた野営の準備を始めたところである。 「今日はおじさん、ちょっと拍子抜けだったなぁ」 薪を抱えて運ぶアルカ・セイル(ia0903)が器用に肩を竦めながら視線を向ければ、アッシュ・クライン(ib0456)も何か考え込むかのような素振りながら同意してみせる。 「確かにそうだな。昼過ぎに通った森の小道、あの辺りでアヤカシと遭遇する覚悟はしていたのだがな」 以前鉄甲鬼が出たのもそこだったらしいと返せば、アルカもそうなんだよねぇと頷く。 「‥‥‥‥先に一休みさせてもらうよ」 無言で薪を差し出す灰夢(ib3351)は、戸惑うアッシュの腕に無理矢理それを積み上げると、そのまま踵を返してしまう。 (「アヤカシなど、出ない方が良いに決まっている」) あなたたちも休めるうちに休んでおいた方が良い、と誰にとも無く呟いた灰夢は、盛り上がり始める焚き火と竈を避けるように寝床の準備へ向かってしまった。 野営地の中央では、氷の補充を終えた宿奈 芳純(ia9695)とルヴェル・ノール(ib0363)が焚き火の番をしていた。少しでも保冷の役に立てばと、桶に汲んだ清水を凍らせて足しにするという提案は大歓迎で受け入れられた。幾つもの木桶に尊い犠牲を強いることにはなったが、それは今、薪となって最後の使命を果たそうとしている。氷自体も大きな塊を作る訳にはいかなかったが、十分に効果はあったようだ。 「もう少し、火端で乾かしてからの方が良かったでしょうか?」 風下に流れる煙を見送りつつ、思わず呟く芳純の言に気付けば、ルヴェルも桶の破片を足すのを止める。 「‥‥そのようだな。ふむ、何やら燻製でも作りたい気になってきたが、流石にそれは無いか」 間髪入れずに、少しなら良いですよーと竈の前から飛んできた羅波の声に、思わず二人は顔を見合わせてしまうのだが。 「明日は昼前には着く予定ですし‥‥」 芳純の言葉にルヴェルも頷くと、少々残念そうな羅波に申し訳ないとは思いつつ、今回は遠慮することにしたのだった。 「それにしても、拳風ってのは中々物騒な街みたいだな」 仮眠を取りに焚き火を離れた一行を見送ると、昼間に聞いた話を思い出して恵皇(ia0150)が呟いた。 「羅波さんにお聞きになったのですか?」 噂だけなら私も相応に聞いているのですがと結夏も少々首を傾げれば、共に焚き火を囲んでいた黯羽とアルカも興味を示す。 「腕試しに流れてくる泰拳士が多い街らしいんだが、どうも決闘が黙認、いや放任されているらしくってな」 街中の通りでいきなり真剣勝負が始まることも珍しくなく、いつの間にか野次馬が集まって人だかりが出来るんだという。少し離れた場所で詰まらなそうにため息をつく灰夢を気にしつつ、結夏は補足に口を挟む。 「治安は良いと聞いています。道場もそれなりにあるという話ですし、性質の悪い組織は入り込もうとする度に反攻に合って潰されてしまうとか」 ふぅん、と何かを考える風のアルカは、すぐににやりと笑みを浮かべる。 「ま、火傷には気をつけるこった。っと、それも無事に荷を運んでからの話さねぇ?」 黯羽に図星を指されたアルカが苦笑いする中、その夜は静かに更けていった。 ●三茅峠を越えて 山伝いに進んでいるからだろう。朝から日差しこそあれ涼やかな空気を存分に味わいながら、一行は次第に勾配がきつくなる街道を進んでいた。 「もうすぐ峠を越えるし、そしたらそこで一休みかな」 景色は上々だし、これだけ晴れていたら拳風も見えるんじゃない、と羅波の声は楽しげだ。 「ふむ。だがそう簡単に、事は運ばないみたいだな」 分担して周囲を警戒していた一行は、そう呟くルヴェルの見張る、後方へと視線を向けた。数十メートル先の下草は風に逆らって揺れており、鈍い刃の輝きが見え隠れしている。恐らく一昨日馬車を襲ったというアヤカシ、剣狼に違い無い。 「思ったよりも数が多いでしょうか?」 御者台の羅波には聞こえぬように、声を潜めて問うのは芳純。その数は多分、十匹を越える規模の群れ。ニクスは心眼を使うまでも無く、その数を十二匹と見極めてみせた。 「道は登りで道幅も狭い。地の利もあれば、この場に皆で留まり対応するのも一手ではあるが‥‥」 「先に行け。ここは俺たちが食い止める」 心配りを見せるニクスに、アッシュは確りと頷いてみせる。 「依頼人や荷を危険に晒す訳にもいきませんからね。先行隊への連絡も、多少離れてからの方が良いかも知れ‥‥」 芳純が馬車を降り、そう告げる最中に。道の先、まさに先行隊が進んでいる辺りから、甲高い呼子笛の音が響いた。 上空から峠の先を眺めれば、鎧に身を固め、抜き身の刀をぶら下げたモノが二体佇んでいた。人の形をしていても異質なそれは、そもそも三メートルを越える、人には有り得ない巨躯。目が合ったと思った瞬間、式が弾き飛ばされ視覚が戻る。 「どうやら、こちらを待ち構えているようさね。亡鎧(ぼうがい)が二体、中々の獲物だよ」 それが聞こえた訳ではないだろうが、二十メートルほど先、峠の向こう側から鎧姿の鬼が姿を現す。間髪入れずに恵皇とアルカが鳴らす呼子笛の音が響けば、二人は顔を見合わせ苦笑う。 「さてと、ここでゆっくり待つってのも芸が無いよな。先に行かせて貰おうか?」 両手の拳を打ち合わせた恵皇は、歩き続ける相手との距離を見極めると、その姿勢を崩さず一瞬にして間合いを詰めてみせる。亡鎧はそれを待ち構えるように掲げていた刀を叩きつけるが、それすらかわして懐に入り込むと。軽く触れたとしか思えない手の平が、亡鎧をくの字に折らせて弾き飛ばす。更に後ろへ回り込む恵皇は爆ぜて散らばる鎧の破片を軽く追い越し、再度触れるが如き一撃で亡鎧の右胴を完全に砕いてみせる。 「やるじゃないか、恵皇!」 快哉を上げる黯羽も短く呪言を紡いで合口を振りぬけば、放たれた式が二筋の斬撃となって鎧を抉り、更にその傷口を広げる。 「それじゃ、止めはおじさんに任せてもらおうかな?」 左右に二刀を構えたアルカが、低く構えた体勢のまま亡鎧の目の前に現れる。回転しながら伸び上がり様に、亡鎧が受けようとする刀を避けつつ切っ先を叩きつけようとした瞬間。だがアルカの視界は不意に歪み、そして唐突に思考が途切れた。 (「何をやっている!」) 内心で舌を打った灰夢が続け様に矢を射る。何が起こったのか分からないが、アルカの体から不意に意思が抜け落ち、そのまま体が流れた。踏みとどまりはしたようだが、だらりと腕を下げた姿には戦意が全く感じられない。牽制の矢が届く前に、続けて恵皇までもがその場に棒立ちになる。払い切れなかった鋭い矢をその身に受ける亡鎧は、だがそれぞれ目の前で動きを止めた獲物に、今までの苛立ちを忘れて歓喜の笑みを浮かべる。そのまま大きく振り被った刀を、無防備な相手に向かって力任せに叩きつけた。 「恵皇! アルカ!」 まともに斬りつけられたアルカは、そのまま後ろに吹き飛び地面を転がる。それでもその最中に頭を振りつつ飛び起きれば、痛みに顔を顰めつつも二刀の構えを取り直してみせる。だが恵皇は一撃を食らっても仁王立ちのまま、続く斬撃も真正面からの袈裟掛けをその身に受けてしまう。戦場には血飛沫が舞い、亡鎧の雄叫びが轟く。‥‥一行の背を、戦慄が走り抜けた。 ●攻防と逡巡と 呼子笛が響いた瞬間、剣狼が草むらから姿を現すと一斉に駆け始めた。結夏が手綱を奪って馬車を走らせると、荷車に飛び乗ったニクスとルヴェルがそのまま後方に睨みを効かす。 その前に立ち塞がるアッシュは、胸元に構えた漆黒の刃を天に向けて立て、その刀身よりもなお暗き闘気を身に纏う。 「‥‥邪魔するのなら、叩き斬るまでだ」 その威圧に、先頭の剣狼が一瞬足を止める。それを嘲笑うかのように飛び出した続く剣狼は、だが空から降り注いだ氷柱に貫かれ、その身を瘴気に変えながら消えてしまった。 「この先へは、どうあっても通しませんよ?」 芳純の口上に、だが本能で人を襲うアヤカシが引き下がる訳も無く。視線のみで互いの意思を通わせると、剣狼の群れは数匹ごとに連携を取りながら踊りかかる。まずは同時に三匹、アッシュの足、腕、首を狙った剣狼は、だが斜に構え直されたクレイモアに受け止められる。その圧力に耐え切ったアッシュは、刀身に添えた篭手を押し切って相手を宙に浮かせると、崩れた体勢を立て直す間を与えず一匹を両断する。それでも先と違って剣狼は怯まず、わずかな隙に間合いを取ってアッシュの両脇へと飛び退り、更に残りは後ろに控える芳純へ向けて襲い掛かる。 「芳純!」 「ええ、舐められたものです」 アッシュの声に焦りは無く、逆に芳純の呟きには軽い怒りさえ感じられる。喉笛を狙って飛び掛った剣狼は、だが芳純の目の前で、まるで見えない何かに丸ごと飲み込まれてしまったかのように、忽然と掻き消えてしまった。何も無いはずの宙を剣狼が目で追ってみせた瞬間、透かさず踏み込んだアッシュが剣狼を貫けば、間合いを外しきれなかった一体がまた宙で瘴気に返る。圧倒的な力量の差に、剣狼は瞬く間にその数を減らしていった。 「どうやら後ろは心配ないようだが‥‥ ニクス、結夏。先の様子は分からないか?」 足場の悪さを物ともせず斜面を駆け上がる剣狼も、警戒していたニクスが心眼でその気配を読み取っていた。機を計ったつもりで飛び出した剣狼の群れは、ルヴェルが召喚した吹雪に敢え無く纏めて薙ぎ払われる。そのまましばらく、警戒を解かずに走り続けた馬車と直衛の二人は、だが一向に先行隊が戻る気配が無いことを不審に思い始めていた。道は山肌を沿う道ゆえに前後共に視界は通らないが、後方から聞こえる剣戟が徐々に収まっていくのは感じ取れる。 「アッシュ、アッシュ・クラインと宿奈 芳純が追いつくのを待った方が良いだろうか。荷馬車を置いていくのは流石に不安だ」 先行隊とてあの面子、そう簡単に大事にはならないだろうと、ニクスは自分に言い聞かせるように呟く。ルヴェルと結夏も同じ結論に達すれば、一旦手綱を緩めて荷馬車を止めることにした。 (「何を受けた、何があった?!」) 不意に何かの意思が割り込む感覚と、それが何かの鳴き声だったと気付けば。吹き飛ぶ最中にも関わらず、その何かに対する怒りに、戻った意識が塗り潰される。 「舐めた真似してくれるじゃないか。‥‥あたしにこんな事して、ただで済むと思ってないだろうねぇ?」 片膝を付いたアルカが苦しそうな息遣いで零しつつも、翡翠の瞳に暗い陰を宿す。 「これがアヤカシの『催眠』って奴か。‥‥ま、『石化』ほどじゃねえよな」 傷の影響か、重い体に顔を顰める恵皇も、丁度良い目覚しさと笑い飛ばしてみせる。種が分かれば、対処のしようもあるというもの。 「アルカ、まずは鬼を一匹、片付けちまおうぜ。ほら、腹の底から気を練っておけよ?」 不本意ながらも返事をするアルカに頷き返すと、恵皇は笑い出す膝に力を篭め直す。 「‥‥会!!」 その瞬間、静かな気合と共に弓弦の弾ける音が機先を制すると、恵皇とアルカがその後を追って亡鎧に掌と刀を叩き込む。一瞬動きを止める三者の中で、最初に動き出したのは亡鎧であったが。二人が同時に飛びずさると、亡鎧は振り上げた刀ごと、その上体のみを後ろに倒して瘴気へと返り始める。 「畜生、また邪魔しやがって‥‥」 気炎を吐くアルカに対して、逆に安堵する黯羽。その時、視界の端に翻る何かを認めたのだが。 (「黒い、‥‥獣? まさか、式を弾いたのは奴の方か?」) だが峠の向こう、視界からも式の射程からも消えた相手は一旦意識の外に追いやり。残る亡鎧に向けて、鋭い気合と共に式の斬撃を放つ黯羽だった。 ●納品叶わず 旅泰の舌を満足させる鮮度を保ったまま、秋刀魚は無事に拳風へと辿り着いた。それを香ばしく焼き上げる屋台も、野営地での予行演習が効いたのか思い掛けない好評を博す。予想以上に懐を潤した羅波は、その礼にと機嫌良く皆を酒場に誘ったはずだったのだが。 「雪綿だっけか? 消えちまうなんて、不思議なこともあるもんだな」 無くなる前に俺も見ておけば良かったぜと気楽に声を掛ける恵皇に、笑い事じゃない、と羅波は猛反発してみせる。 「もしかしたら今回の儲けが水の泡になってたかも知れないんだよ! ‥‥今頃冷や汗が出てきた」 証文発行をケチらなくて良かったとしみじみ呟く羅波に、一行は思わず苦笑を浮かべてしまう。 騒ぎが起きたのは、小さな木箱と証文を引き渡し、踵を返してすぐの事だった。空っぽじゃないか、と羅波に掴みかかった男は逆にその腕を極められながら、それでも中身をどこへやったと騒いで見せた。 「雪なんだろ、ちゃんと冷やしてこなかったから溶けちまったんじゃないのか?!」 売り言葉に買い言葉、冷やせなんて言われて無いし、第一魚の匂いが移るから止めてくれって言われたんだと、羅波も言い返せば騒動になり掛けたのだが。冷静に証文の内容を指摘し、実際に触ってみたが冷たくは無かったとの証言があれば。がくりと肩を落としながらも、男は引き下がるしかなかった。 「結夏さんとルヴェルさんも、証人になってくれてありがとね?」 あっさりと機嫌を直して酌に回る羅波を調子が良いとからかいつつ。少々釈然としないながらも、旅の疲れを癒す一行だった。 |