殺人衝動
マスター名:桐崎ふみお
シナリオ形態: ショート
危険
難易度: 難しい
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2013/09/19 00:26



■オープニング本文


 その日、一人の人斬りが開拓者達により討たれた。

 殺人鬼の名前は上原康介、評判の藍染職人で、志体持ちだが、非常に大人しい性格で喧嘩などしたことがないという人物であった。
 康介が初めて人を殺したのは五歳の時。相手は父のこさえた借金の集金に来たならず者達である。
 康介の父はまさしく髪結いの亭主で、自分は働かない上に妻の稼ぎを酒や博打に使い足りなくなると借金を繰り返すような男であった。康介の記憶にある父は何時も酔っ払い、卓袱台を蹴り飛ばしつつ怒鳴り声を上げている姿だ。
 母は黙って耐えている。それどころか母を守るために康介が父に向かっていこうとすると抱きついて止める。
「お父さんは病気なの。だから酷い事をしてはだめ」
 母曰く、父はかつて優しい男であり、今は心の病だというこであった。
 そんな父が博打での大勝負に負け多大な借金を抱え行方をくらました。母の髪結いの稼ぎだけでは返すことなど不可能な額である。
 しかしそんなこと貸した側は知ったことではない、連日康介と母の住む長屋に来ては「金を返せ」と大騒ぎする。最初は戸を叩き怒鳴るくらいであったが、そのうち家に上がりこみ物を壊したりするようになってきた。
 借金取りの行動は次第に酷くなり、ついには母に乱暴を働こうとする。
 お使いから帰ってきた康介が目にしたのは、複数人の男に取り押さえられ、手拭で口を塞がれる母の姿。着物の裾は乱れ、白い太股が露わになっている。
 母の足を無理矢理押し開こうとしていた男が康介に気付き、「ガキは外に出てろ」と吐き捨てた。猿轡を嵌められた母が何事か唸っている。
 どうしてこんな事になっているのか訳が分からなかった。助けを求める、そんなことすら浮かばない。
 体が動かない。
「なんだ、腰でも抜かしたのか?」
 男の一人が康介に近づいてくる。その男越しに母と目が合った。真っ赤に泣きはらした目は瞬きを忘れたかのように見開らき、恐怖で震えている。
 その瞬間、康介は土間にあった包丁を手にし男に飛び掛っていた。
 まさか子供が襲ってくるとは思わなかったのだろう、反応が遅れた男の腹に包丁が深々と刺さる。
 康介は無我夢中で包丁を横に払う。引き裂かれた腹からは真っ赤な血が溢れ康介の顔や体に降り注いだ。
(「温かい……」)
 この日、康介は人の血の温かさを知った。

 生来人斬りの才能があったのであろう。
 騒ぎを聞きつけてやって来た開拓者が目にしたのは血の海に沈む四人の男達と包丁を手に呆然と立っている康介の姿であった。
 これは当時ちょっとした事件となった。何せ子供が大人四人を殺したのだ。
 しかし康介は幼すぎた事、母を助けたい一心であったことなど状況を考慮され罪を問われなかった。代わりに自分を抑える術を身につけるため一年ほど寺院に修行を行うということで決着が着いた。

 一年の修行を終え、戻ってきた康介を迎えたのは母の温かい包容ではなく、怯えた視線であった。あの男たちに向けていたものと同じ……。
 そこから康介と母の関係はぎこちなくなる。
 母は常に康介と距離を取るようになり、抱きしめる事も頭を撫でる事もしなくなった。それは母が恋しい年頃の子供には辛いことであった。
(「寂しい…。寂しい……」)
 母のぬくもりを恋しがるうちに康介は血の温かさを思い出す。

 最初は動物であった。鶏やら犬やら猫やら。
 しかしある日、康介は母が父ではない男を家に連れ込んでいるのを目撃してしまう。
 「どうして?」と問う康介に母は「化物はあっちに行っていなさい」と容赦のない言葉を投げつけた。康介の中で何かが切れた。
 再び包丁を手に取ると、母と男の背後に忍び寄り二人を斬る。
 母の血はとても温かかった。

 これは偶然にも康介が帰ってくる前に母と男が口論していたのを近所の者が聞いており、痴情の縺れの末の無理心中として片付けられた。誰も十になろうかならないかのの康介が殺したと思っていなかったのだ。それくらいに康介は大人しく真面目な子供として通っていた。

 そこから康介は寂しくなると血の温もりを求め人斬りをするようになった。


 町外れの墓地に二人の男が居る。開拓者に討たれた康介を埋葬するためにやってきた墓守である。
 此処は主に無縁仏や刑死し家族の引き取り手が居なかったものが埋葬される場であった。
「いやだねぇ」
 墓守の一人が背後の早桶を振り返った。中に康介の遺体が安置されている。遺体とはいえ殺人鬼だ、側にあって落ち着くものではない。開拓者四人がかりで漸く討ったというのだから更に恐ろしい。
「一体何人殺したんだろうなぁ」
 墓守達は穴を掘る。
「さっさと埋めちまおうぜ…。それで帰りに一杯……」

 ギシリ…

 家鳴りのような音が響く。
「なんだ?!」

 ギシリ……ギシ……ギシ…

 音は早桶からだ。早桶が揺れる。内側から引っ掻くような音が聞こえてきた。
「ひぃっ…」
 墓守達は息を飲み、互いに抱き合う。
 早桶が内側から弾けとんだ。

 立ち上がる男。土気色の肌。手には何故か刀を一振り。
 そしてその濁った目を墓守達へと向けた。
「血を……」
 一歩踏み出す、男自身の血で汚れた着物の袖が翻る。刃が月明かりを反射し閃いた。
「此処は寒い、とても寒い……」
 墓守達は悲鳴を上げる暇もなかった。

 墓守達の遺体を越え、康介は新たな血を求め幽鬼のような足取りで町へと向かう。


 花街に続く通りで悲鳴が上がる。酔っ払い同士の喧嘩かと集まった野次馬が言葉を失う。
 髪を振り乱した異様な雰囲気の男が、手当たり次第人を斬っているのだ。康介だ。
 既に道には何人か倒れていた。
 人々は悲鳴を上げて逃げ出す。中には腰が抜けて座り込んでしまう者もいた。
「化物だっ! 逃げろぉ! 逃げろぉ!!」
 叫んだ男が後ろから袈裟懸けに切られ道に倒れる。刀は血に塗れてなお切れ味を失わない。
 康介は屍を無造作に踏み超え、腰が抜けた者に刀を振り上げた。
 それを止めるために一人の男が康介へと斬りかかる。
 刃が康介の右肩を割った―かのように見えた…血の代わりに黒い霧のような瘴気が吹き出して傷を塞いでしまう。
「なっ…」
 康介が振り向き様、男の胴を薙ぎ払う。男は腹から血を溢れさせそのまま倒れこんだ。
 血飛沫が康介の顔に掛かる。
 にたぁり……とても嬉しそうな笑みを康介は浮かべた。


■参加者一覧
孔雀(ia4056
31歳・男・陰
ラシュディア(ib0112
23歳・男・騎
フランヴェル・ギーベリ(ib5897
20歳・女・サ
笹倉 靖(ib6125
23歳・男・巫
イデア・シュウ(ib9551
20歳・女・騎
ジャン=バティスト(ic0356
34歳・男・巫


■リプレイ本文


 宿の一室でジャン=バティスト(ic0356)明日、祈りを捧げる相手について書かれたギルドの手配書に目を通していた。
 上原康介、この町を騒がせた殺人鬼である。
 ジャンは贖罪として祈る事へ人生を捧げている。この町に来たのも、死後祈る者がいない者の魂を弔うためだ。
 そこに丁度上原康介の死が重なった。彼には家族がいない。町の僧侶達も殺人鬼のために祈る事を躊躇ったためにジャンが引き受けた。
 血を求めたという康介は、幼い頃から人斬りしていたらしい。
 切欠はわからない。持って生まれた力の使い方を、幼い彼に教えてやれる者がいなかったのだろうか。彼を導ける大人はいなかったのであろうか。
 己の人生を次第に狂わせていく子供に思いを馳せて瞳を閉じる。

 夜中だというのに複数人の声がする。何事かと、障子を開ければ眼下の通りを数名が駆けていく。
 喧嘩だろうか、ともかく怪我人が出ては大変だとジャンは腰を上げた。


 花街へと渡る橋の脇にある屋台で笹倉 靖(ib6125)は呑んでいた。
 背後を「喧嘩だ」「酔っ払いが暴れてる」などと言い我先にと野次馬が走り抜けていく。
「全く人が気分良く飲んでる時に…」
 呆れた様子の笹倉が眉根を寄せる。
 風が悲鳴と血の匂いを運んできた。
「おやっさん、ご馳走さん」
 笹倉は代金を置き通りへと向かう。

「人殺しだぁ!」
 悲鳴にラシュディア(ib0112)は狭い路地を行く足を速める。酒を楽しんでいたところ、喧嘩だなんだと邪魔してくれた無粋な連中の顔でも拝んでやろうと思っていたのだが、なにやら様子がおかしい。
 立てかけられた筵の向こうに血に濡れた刀を持った男が見えた。陽炎のように立ち上がる瘴気。アヤカシだ。
 その男の眼前に腰を抜かした酔っ払いが一人。男が緩慢な動作で刀を振り上げる。
 ラシュディア(ib0112)は忍刀を抜き、地を蹴った。一気に男との距離を詰める。
「やらせるかっ!」

 キィンッ、高い音が響く。

 ラシュディアと男、二人の刃が噛み合う。
(「この男……」)
 男の顔はギルドに張り出されていた人斬り上原康介に似ていた。確か今日討たれたはずだ。
「人斬り…の成れの果てか……」
「血を…」
 呟きが腐臭とともに康介の口から漏れた。
 康介の力は、人のそれを遥かに越えている。重なった刃が次第にラシュディアへと寄る。
 背後には腰を抜かした者、退くわけにはいかない。
 ならば…といきなり力を抜いた。突然抵抗を失った康介は前へとのめる。すかさずラシュディアは身を沈め脇に回ると、肋骨の隙間から肺を目掛けてで貫く。
 康介の体が揺らぐ。次は頸と刃を引き抜いたラシュディアが目を瞠った。
 傷口に瘴気が集まり、あっという間に塞いだのだ。
「回復…するのか」
 康介が態勢を戻す前に背後の男を抱え距離を取る。
 次の獲物を探し康介が周囲を見渡す。
「野次馬根性出してる奴ぁ魂抜かれても知らねぇぞ?」
 わざと乱暴な仕草で野次馬を左右に割り笹倉が現れた。そして傷つき倒れている者に治癒の術を施す。
「おい、何突っ立ってんだよ。こんな場所だ喧嘩も多いだろ、医者くらいとっとと呼んでこい」
 「避難させろ」と怪我人を野次馬に渡し、別の者には医者を呼べと命じる。血のぬめりとした感触に野次馬が「ひっ」と息を飲んだ。
 芝居見物気分の者達には丁度いい薬だろう。下手すれば自分達も同じ目に遭うと自覚させるためにも。
「怪我人はどんだけいる?」
 笹倉が怪我人を確認する。血を流し倒れている者が少なくとも六人。それ以外にも怪我人はいるようだ。
「血が欲しぃ…」
 ざらついた康介の声。
 これだけ血を流させてまだ足りないか、と笹倉は苛立ち紛れに舌を打つ。
 康介の視線の先にいる男はへたりと座り込み失禁している。
 助けた男を野次馬に背負わせラシュディアが再び康介に向かおうとするより早く、後方から盾を正面に構えた若い女が野次馬を押しのけ突撃をしてきた。イデア・シュウ(ib9551)だ。盾で康介の一撃を受け止める。
 イデアはラシュディアとほぼ同時にこの場に着いていた。動かなかったのは、康介の力を見極めるためだ。戦うのに相応しい強敵か、と。誰かを助けるということよりも強い敵と戦う方がイデアにとって重要であった。彼女は弱さを否定する。
 康介の一撃は重い。受け止めた盾を押し込まれ、一歩足を引く。康介が刀を再び構える。もう一撃くるかと思ったが、後ろから押し出された野次馬へ康介の興味が移った。
 「血が欲しい…」そんな呟きがイデアの耳に入る。
「きみの相手はボクがしようじゃないか」
 咆哮が大気を震わせた。
 盾を構え鎧に身を包んだフランヴェル・ギーベリ(ib5897)が気合と共に打ち込む。両手での打ち込みに引けを取らない力強い打ち込みだった。
 狙ったのは腕。回復能力を持つならば、腕と足に攻撃を集中させ切断し動きを鈍らせようとしたのだ。
 フランヴェルの刃は康介の肩を切り裂く。ぶらりと腕が垂れ下がった。すぐさま瘴気が傷を回復する。
(「さてとどう動くのかな?」)
 康介の攻撃に備え盾を構えた。フランヴェルは依頼帰りのため完全武装である。
 鎧に瑕どころか返り血すら浴びる事もなかったなんてことのない依頼を終え、馴染みのいる花街に向かうところだったのだ。禿姿がとても可愛いんだ、などと思いを馳せていたところに現場に出くわした。
(「運がいいのか悪いのか…」)
 周囲に視線を走らせれば見知った顔がある。人々の救出は彼等に任せて問題ないだろう。自分は目の前の康介に意識を集中する。
 ラシュディアもイデアとフランヴェルの出現に、野次馬の避難を優先させた
「此方に来るな。これは喧嘩ではないぞ、アヤカシだ。」
 野次馬が恐慌状態にならないように、抜き身の刀を掲げ続けて叫ぶ。
「でも安心してくれ。開拓者が既に動いてる。だから落ち着いて逃げてくれ」
 そして恐怖のあまり動けなくなった者を抱き上げ、次々と花街の方へと運ぶ。そこで遠巻きに見ている者達に怪我人の世話などを頼んだ。
 笹倉は怪我で動けない者の治療に専念した。二人が康介の注意を引いてる内に、花街方面から町側へと抜ける。当然ながら康介がやって来た方が怪我人が多い。
 既に絶命してる者もいる。
 背中を切られた男は虫の息だ。治癒術を使用しても意識が戻らない。笹倉が男に触れる。蛍火のような淡い光が男を包んだ。精霊の加護だ。自力での避難が難しいと判断した者に施している。
 そして次の怪我人へと。助かる可能性の高い者を優先させる。腕を切られた男の怪我を癒すと、まだその場にいた野次馬に連れて行かせた。
 一度は減った野次馬だが、騒ぎを聞きつけて新たにやってくる。
「全く低俗で能天気な連中、芝居でも見ている気でいるのかしら?」
 笹倉が振り返る。
「はぁい、靖ちゃん。お久しぶり」
 孔雀(ia4056)が紅を刷いた唇を上げて笑ってみせた。


「何処を見ても田舎侍ばかりの小汚い所だと思っていたけど、これは品性の欠片もありゃしないわね」
 孔雀があからさまな侮蔑を野次馬に向ける。
「ギルドに用が無けりゃあこんなとこ好んで来やしなかったわよ」
 憂さ晴らしに可愛い男の子でも買いに行こうとしたらこの様よ、と事態そっちのけで愚痴を零す。
「丁度いいとこに。皆を避難させるのを手伝ってくれねぇか」
 かつて依頼で一緒になったことがある孔雀に笹倉は声をかける。
「野次馬なんて放っておけば良いじゃない」
 言いながらも符を一枚指に挟んだ。
 でも、と笹倉に向かって片目を瞑る。思わず目を逸らす笹倉。
「靖ちゃんのお願いだから、特別に聞いてあ・げ・る。一つ貸しよ。後で花街でしっぽり楽しみましょう、ねぇ?」
 ふふふと笑み交じりの熱の篭った吐息を符に吹きかけ指から放つ。
 符は宙で形をかえ、巨大な竜が頭上に現れた。わっと野次馬が声を上げる。
「ほらほらほら…逃げないと、食っちゃうわよぉ」
 高笑いをする孔雀の動きに合わせたように竜が野次馬に向けその身を躍らせた。
 竜は野次馬の頭上ぎりぎりを旋回し、大きな口を開ける。その迫力に野次馬達が逃げていく。
「お前はこっちだけ見てればいいんですよ」
 康介の正面にイデアが回る。流れるような滑らかさと速さで康介の脇腹から胸を裂く。少し浅いが、手応えはあった。
 しかし瘴気があっという間に傷口を塞いでしまう。
「また、厄介なアヤカシが現れましたね…」
 嫌いじゃないですけど、イデアは喉を鳴らして笑った。強敵は好きだ。自分を強くしてくれる。そして今は、頭の中をごちゃごちゃと渦巻く悩み事を忘れさせてくれる。
 傷は回復するが衝撃までは殺せない。よろけたところをフランヴェルが鋭い突きを繰り出す。再び切り裂かれた腕と肩を瘴気が繋ぎとめてはいるが、回復が遅くなっている。
「此方の攻撃が利き始め…っ」
 獣のような唸り声とともに振り下ろされた一撃は受け流そうとした盾を弾き飛ばす。がら空きになったフランヴェルの胴を康介の刀が薙いだ。
 息が詰る。堪らず横に一歩、二歩蹈鞴を踏んだ。刃は鎧が防いだが、体の芯まで衝撃が走った。
「か、はっ…」
 血を吐く。内臓をやられたのかもしれない。既に傷は大小いくつもできている。
 己の血で汚れた鎧に苦笑を零した。
(「…流石に血だらけで花街には寄れないな」)
 フランヴェルは口元を汚す血を手甲で拭い、康介を見据える。
 不意に鈍い痛みが和らいだ。
「手を貸します」
 ジャンが白い法衣を靡かせ、戦線に加わった。
「あれは…死んだはずの上原康介…?」
 男の顔を見てジャンが首を傾げる。己が祈りを捧げる筈であった男がアヤカシとなり蘇っている、と。
「何があなたをそうさせたのです」
 血が欲しいと繰り返す康介に問い掛ける。答えは当然無い。
「説得なんて意味はありませんですよっ」
 イデアが両手で盾を支え、康介の斬撃をやり過ごす。
 アヤカシ化した者に人の心を戻させるのは不可能な事だとジャンも知っている。しかし人としての安らかな眠りすら与えられないというのは康介という男があまりにも不憫に思えたのだ。

 取り残された者達を避難させていたラシュディアが戦線に復帰する。
「俺達がお前を止めてやるっ」
 イデアと力比べをしている康介の背後から迫り、腕を切り落とした。
 傷口から漏れた瘴気が霧散する。腕は再生しない。
 回復が途切れた、一瞬皆の気が緩む。
 腕を失った康介は初めて痛みを知ったかのように叫ぶ。
 その叫びに悲鳴が上がり逃げ遅れた一人の男が路地から転がり出てきた。太股から膝まで酷い怪我をしている。着物が血でぐしょりと濡れている。
 残った康介の手に刀が生まれる。「寒い、寒い…」康介は狂ったように叫び、男へと向かった。
 咄嗟にラシュディアが康介へ己の影を伸ばしたが、間に合わない。
 ジャンは駆け寄り、一切の躊躇も無く己の腕を深くナイフで切り裂いた。血を流す腕を康介に向け翳す。
 康介がジャンへと向き直る。その隙にラシュディアが男を抱え笹倉の元へと運んだ。
 フランヴェルとイデアが攻撃するより早く、白刃がジャンの右肩から左脇にかけて閃く。
 血が噴出した。白い法衣が朱に染まる。
 笹倉が咄嗟に治癒の術を施そうとしたのをジャンは視線で止める。自分よりも先に助けるべき者がいる、と。
 ジャンは大量の血が失われたせいで、立っているのもやっとだ。それでも皆が自分に気を取られないように建物に背を預け立つ。肩と肋骨が数本折れたかもしれない。呼吸するだけでも焼け付くように痛い。
 回復を期待して笹倉の横にいた孔雀が「仕方ないわねぇ」と前に進み、二枚目の符を構える。
「もっと良い夢を魅せてあげるわ」
 返り血を浴び恍惚とした表情を浮かべる康介に向け式を放った。
 いきなり足をばたつかせ、刀を振るう康介に孔雀は会心の笑みを浮かべる。今頃男には体を這い登る蛇の幻影が見えているはずである。
「あんたたち、あたしが折角作った隙を無駄にするんじゃないわよ」
 回復もそこそこにジャンが体を起す。血の花が咲いた袖が翻る。
 そして精霊に加護を請うために舞った。康介が纏っていた瘴気が更に薄まり動きが鈍くなる。
 イデアが突き出した剣が弾かれて跳ねる。そのまま踏み込んだ康介の強烈な打ち込みを咄嗟に盾で防いだが勢いを殺しきれずに背後に転がった。
 起き上がり再び突進するイデアに向け康介が待ち構えていたように突きを繰り出した。切っ先が装甲の隙間を縫ってイデアの肩を貫く。そして鎧の上から一撃。肩当がひしゃげて、盾を持っていた腕が力なく下がった。
 更に頭を狙って刃が唸る。
 己を一喝すると、剣で康介の刀を弾いた。イデアの剣が暗闇で月のように輝く。
「ぅああっ」
 雄叫びを上げて、康介の体を下から撫で斬り、手首を返しそのまま切り下ろす…が防がれる。
 しかしそれは計算内だ。イデアは身を屈め横へと転がる。
 イデアの背後からフランヴェルが飛び出した。突き出した刀は幾重にも残像が重なり本物を康介に悟らせない。
「貴様如きにボクの太刀筋は見切れまい!」
 フランヴェルの手にした刀が深々と康介の脇腹に刺さった。体内で腸を捻るように一気に横へと引き、逆側の脇の下まで裂く。
 康介の手から刀が消える。体から瘴気が流れ出し、膝から崩れ落ちた。

 康介はほんの一時、幼い頃の夢を見た。
 最期くらい彼が真に欲していたものを、とジャンが与えた束の間の夢である。
 母が康介を抱きしめる。
「お母さん、温かいね」
 康介の無邪気な笑みをジャンだけが見る。
 そしてジャンも康介が倒れたのを見届け、意識を手放した。


 イデアが切り落とした腕を康介の傍らに置く。狂気に囚われた男だがその強さは尊敬に値するものだと思われた。
「血の温もり…ね」
 康介が繰り返し求めたもの。もっと他に彼を包む温もりがあれば…きっと…。
 女としての幸せと、強さへの道のどちらを選ぶか―悩んでいた事を思い出し頭を小さく振るう。
「血ぃ、血ぃうるせー奴だな。水でもかぶって頭冷やしやがれ!」
 いきなり康介の遺体に水が浴びせられる。
 笹倉が桶を片手に康介の遺体を見下ろす。
 驚いたイデアの目に映ったのは、祈るように目を伏せた笹倉の姿。
 何も言わずイデアは遺体の血を拭ってやる。
 ラシュディアが遺体を覗き込んだ。死顔は妙に安らかだ。
「……解放されたのかい?」
 不幸な境遇は彼だけではない。犠牲も多く出た。彼の所業を肯定するつもりはない。しかし死んだ後くらいは安らかに眠る権利があるはずだ。今度こそ安らかに…そう心の中で告げ、僅かな間だけ祈った。

 康介の遺体はギルドが引き取った。
 遺体はあった場所には何も残っていない。
「血や水をかぶるより、酒のほうがよっぽどいいやねぇ。そう思わねぇか?」
 笹倉がその場所に酒をまく。
「こいつも世の中にアヤカシにされたクチかねぇ」
 彼の真実を知る者はいない。