|
■オープニング本文 前回のリプレイを見る その子供が14歳だと聞いて、真っ先に深澄(みすみ)が思い出したのはとある女だった。もう15、6年前になるだろうか、当時はまだ婚約者ですらなかった夫、英和之(はなぶさ・かずゆき)を偶然通りがかって救ったと言う陰陽師。名は何と言ったか、もう覚えては居ないけれど。 深澄の前で「これからよろしくお願いします」と頭を下げた子供の顔を見て、これがあの女の子供だと確信する。深澄の眼差しの険しさに、子供がぴくりと肩を揺らして縋るように傍らの青年を振り返ったのに、途端、言い様のない苛立ちがこみ上げて。 「私は認めません」 だから、深澄は子供から視線を逸らして、夫に厳しくそう告げる。 「すでに和章(かずあき)という立派な息子が居ます。今さら養子など‥‥それも不義の子など。それともあなたは、私や和章に不満があると?」 「‥‥ッ、そんなことは」 「だったらさっさと追い出して下さいませ。こんな子供、目に入るだけで汚らわしい」 「それは出来ん‥‥ッ、約束は、約束だ。この子供は役に立つ」 「役に立つ? どう役に立ったと? あなたがこの子を追い出さないなら、私と和章が出て行きます。よろしいですわね」 冷たくそう言って立ち上がった彼女の隣で、突然現れた異母兄の存在に顔を強張らせていた息子・和章もすっくと立ち上がる。そうして子供に冷たい一瞥を投げかけ、部屋を出て行く深澄を追いかけてくる。 残された子供がかすかな息を吐く気配すら疎ましく、深澄はギリリ、と奥歯を噛み締めた。 ◆ 英家の新たな息子として迎えられた浦西夏維(うらにし・なつい)の立場は、当たり前のように悪かった。夏維を疎んで実家に戻った妻子、嫌がらせをする使用人。それらを知っていてなお、約束だからと追い出しはせずとも、取り立てて庇うでもない父親。 判っていた事だ。それを心配されてもいた。けれどもここに残ると決めた夏維はただ、辛そうな眼差しを揺らしながらも、出て行くとは決して言わない。だから神立静瑠(かみたち・しずる)も夏維の傍から離れない。 ねぇ静瑠、と夏維が屋敷の庭に揺れる春の花を見ながら呟く。 「どうしたら、深澄様は父様の所に戻ってきて下さるのかな‥‥?」 「‥‥そう、だな‥‥‥」 一番簡単な方法は判っている。夏維がここから去れば良い。そうすれば深澄は、和明を連れて屋敷に戻ってくるだろう。 けれども、それでは意味がないのだ。残ると決めた時点で疎まれる事は承知していた。でも、夏維と同じ母の姿を知る父の妻であり、子である人なのだから、どこかで判りあえれば良いと思って居て。 なのに、姿すら見えないのではその方策も見つからない。深澄を尋ねていく事も考えたけれども、どうか止めてくれと和之に懇願されたからそれも出来ない。 ゆえに夏維は今日も庭を眺め、或いは英家の蔵書を読み解いて日を過ごす。そうしながら時折手を止めて、ほぅ、と悩ましいため息を吐く。 「‥‥夏維殿」 そんな夏維に、かけられる声があった。この屋敷で夏維の名を呼ぶのは静瑠だけなのにと、驚いてそちらを振り返ればそこに居たのは、母と共に屋敷を出て行ったはずの和章。 驚きに目を見張った夏維に、人目を忍ぶ風の和章は利発そうな眼差しを向けた。 「先ごろは失礼しました。僕は本当は、年の近い兄弟に憧れていたんです」 「そう、なの‥‥‥?」 「ええ。だから仲良くしたいんですけれど、母様に見つかれば怒られるし‥‥だから夏維殿、とっておきの秘密の場所をお教えします。母様はそこに咲いている花がお気に入りだから、夏維殿が母様の為に取って来たと言えばきっと、夏維殿の事も許してくれますよ」 「‥‥ッ、本当に? 和章様、ぜひ教えて下さい!」 和章の言葉に、夏維はぱっと顔を輝かせた。だが静瑠は険しい顔で眉を寄せ、にっこり笑顔を浮かべた和章を睨むようにじっと見据える。 あまりに都合の良すぎる話。だいたい、和章も夏維を紹介された時は快い風ではなかったのに、今さらになって深澄との間を取り持つような話を持ちかけてくるのも疑わしい。 けれども、静瑠の眼差しに気づいた和章が怯えた顔になったのに、気付いた夏維が「駄目だよ、静瑠」懇願するような眼差しで嗜めた。その眼差しに、夏維が完全には信じていない事を、けれどももしかしてという一縷の望みに縋りたいのだと言う事を理解する。 だから静瑠は深い息を吐き、無意識に腰に刷いた刀を確かめた。そうして夏維が花を取りに行くというのに、無言でこっくり頷いた。 ◆ そうして。 和章に教えられたとおりに、訪れたその場所で夏維と静瑠は、予想通りそれが罠だったことを、知る。 「夏維‥‥ッ」 「動かない事ね、サムライ。この子供を無事に返して欲しいのなら‥‥お行きなさい」 「報酬は契約どおり頼むぜ」 突如、武装した山賊の如き連中に周囲を囲まれ、襲われた。無論応戦したものの多勢に無勢、気付けば夏維を人質にとられて動きを封じられて。 現れたのは深澄。憎しみに染まった笑みを浮かべた、和之の妻。 (‥‥許さない、今さら) 深澄は知っていた。小心者で臆病で、深澄とだって金と権力を目当てで結婚したような夫がたった一つ、決して誰にも知られないよう細心の注意を払いながらも、大切にしているものがあることを。それがかつて、例の陰陽師の女に渡された気休めにもならない護符であることを。 何度か捨ててやろうとして、思いとどまったのは夫の為なんかじゃない。自分の矜持のためだ。所詮は去っていった女に過ぎない陰陽師が残していった護符に目くじらを立てれば、その瞬間、深澄はあの女に負けるのだと思ったから。 そんなのは惨めだ。そんな自分を許せないから、だから気づいていないフリをしていたのに。 今さらあの女の息子が現れて、夫の子供と名乗って。それを迎え入れた夫に裏切られたと感じた。これ以上の侮辱を深澄は知らない。 「出て行くと約束なさい。そうすれば返してあげるわ」 だから静瑠に突きつける。悪いのは夫で、あの女で、あの女の子供で、それを守るこのサムライ。彼女は何1つ悪くない。奪われた当然の権利を取り戻すだけだ。 それなのに、静瑠は無愛想に首を振るのだ。 「決めるのは夏維だ」 「‥‥ッ、なんて図々しいこと‥‥ッ!!」 顔を怒りの朱に染めた女の言葉に、そうだろうな、と静瑠は頷く。彼女の言い分は正しい。やり方は間違っていても、その怒りは正しい。 けれども静瑠には、夏維の選択もまた間違っているとは思えないのだ。 庚(かのえ)は何を見極めろと言ったのか。和之か、深澄か、夏維か。あるいは静瑠自身か。 「力づくでも返してもらう‥‥あんたとの話はその後だ」 重々しく告げた静瑠に、女は顔を歪めてやってみなさいと言い捨てた。そうして山の中へ消えていった。 |
■参加者一覧
香椎 梓(ia0253)
19歳・男・志
玖堂 柚李葉(ia0859)
20歳・女・巫
氷(ia1083)
29歳・男・陰
巴 渓(ia1334)
25歳・女・泰
黎阿(ia5303)
18歳・女・巫
神凪瑞姫(ia5328)
20歳・女・シ
神楽坂 紫翠(ia5370)
25歳・男・弓
滋藤 柾鷹(ia9130)
27歳・男・サ |
■リプレイ本文 正直に言えば、とにかく頭を抱えて突っ伏したい気分だった。もちろん、人前でそんなことは絶対にしないけれど。 だから代わりに黎阿(ia5303)が口にしたのは、盛大なぼやきだ。 「あーもう‥‥面倒な事になったわね」 「はあ‥‥いくら憎いからと‥‥言って‥‥此処まで‥‥やりますかね?」 ぼやき、腹の中の空気を全部吐き出したかのようなため息を吐いた黎阿の言葉に、神楽坂 紫翠(ia5370)も眉をしかめる。 たった14歳の、何の力も持たない子供に過ぎない夏維を、山賊を雇ってまで拐かす。それは深澄がこの上なく夏維を憎んでいるだろう事は理解出来るけれど、それにしたって夏維と和之の決めたことにとやかく言う権利はないのではないだろうか。 紫翠はそう思ったのだが、氷(ia1083)の方はどうやら違う意見らしかった。奥さんもずいぶん思い切ったなぁ‥‥などと遠くを見ながら、大きなあくびを漏らす。 「ま、その場で八つ裂きにしておしまいっ! って言わないだけ良心的かな」 「ただでは済むまいとは思っていたが‥‥。奥方の、許せぬ憤りとそうせざるを得なかった情念、哀れにも思う」 滋藤 柾鷹(ia9130)もどちらかと言えば、深澄には同情的だ。それに僅かに首肯する静瑠の眼差しは、だが険しい。 誰かたった1人を悪とするのは、この状況では難しい。けれども静瑠にとって何が一番大事なのかと考えれば、今この瞬間は、夏維を危険に晒した深澄は許し難い。 ダメよ静瑠、と黎阿が扇子で静瑠の頬を叩いた。 「それを決めて良いのは夏維だけでしょ」 「‥‥ッ、あぁ」 「まあとにかく、まずは夏維君の安全を確保してからの話かね」 「そうだな‥‥静瑠殿、浚われた場所まで案内を頼む」 叩かれ、唇を噛んで頷いた静瑠を、氷と柾鷹がぽむ、と肩を叩いて促す。憶測もその後の段取りも、すべては夏維を取り戻してからだ。 こくり、と頷いて静瑠は先頭に立ち、山道を歩き始めた。彼らは、別で夏維を救う為に動いている仲間から山賊達の目を逸らすための囮だ。 故に彼らはむしろ見せつけるように山を進んだ。本当なら志体持ちであると判りやすく人魂なども使えば示威行為にもなったのだろうが、準備不足なのかうまく式を放つ事が出来なかった。 それでも、山賊はなかなか襲ってはこない。静瑠が志体持ちであることは深澄が教えているだろうし、その静瑠がわざわざ呼んできた相手だから油断は禁物、と思われたのか。 「別動隊がばれた、ということはなかろうが」 「それはないと‥‥思いますが‥‥」 山道のあまりの平和さに、ふと疑念を漏らした柾鷹の言葉に紫翠が首を傾げた。彼も、氷も道中の罠や奇襲を警戒しているのだが、それらしいものもない。 ふぅむ、と氷がボリボリ頭をかいた。 「襲ってきてくれりゃあ、とっつかまえて冬維君や浅澄サンの事を吐かせられるんだが」 「誰よそれ!? まぁ心配しなくても、そろそろあちらも痺れを切らしたみたいよ」 盛大に名前を間違える氷に突っ込みながら、黎阿がほら、と行く手を示す。その先の藪が不自然に揺れ、先頭に立つ静瑠の背中が緊張にピン、と伸びる。 なるほど、と氷は符を構え、柾鷹が刀を抜き放った。紫翠も弓弦の張りを確かめ、いつでもつがえられるよう矢羽を持つ。 果たして予想通り現れた、いかにも下っ端の山賊を前にして、開拓者達はむしろ歓迎しながらも油断なく立ち向かった。 ◆ さて一方、残る4人の開拓者は夏維の救出の為に密やかに、細心の注意を払って山中を進んでいた。 (和章さんが心配、だけど) 首を振って消えた因幡の白兎を見つめながら、ほぅ、と佐伯 柚李葉(ia0859)は思わしげな息を吐く。深澄が山賊と共に居るならば、或いは和章も保険の為に囚われているかも知れないと、町を出る前に確認しようとしたのだが、和之はその頼みを「なぜそんな事をしなければいけないのか」と一蹴したのだ。 山賊の騒ぎを、和之は知らない。知らせても良いのだけれども、そしていずれは知るべきだけれども、今はそれを説明する時間が惜しいとそのまませき立てられるように町を出てしまった。 だから思わしげに吐息を揺らした柚李葉に、香椎 梓(ia0253)は小さく微笑み、肩を叩いた。だが声は出さない。不用意なことをして山賊に見つかったりすれば、せっかく仲間が注意を引いてくれているのが無駄になる。 山は険しくはなかったが、警戒のために使用する梓の心眼には山の生き物も反応するため、それが山賊ではないと確かめる時間が必要だった。それは僅かな焦燥と、無事に救出した後の夏維の身の上への、答の出ない悩みを誘って。 (夏維という少年は、どうだろうか) 心眼に現れた反応が動物か山賊か、聞き分けようと耳を澄ませながらも、神凪瑞姫(ia5328)は思う。夏維はかつての自分の様に、何としても生き延びねばならぬ、という強い情念を持てる少年なのだろうか。 彼女もかつて、故郷の村を追われてシノビの里に逃げ込んだ際に、部外者として冷たい扱いを受けた。その時の事を思えば今でも心が冷える。 故に、少年を取り巻く環境に平静ではいられない瑞姫とは対照的に、巴 渓(ia1334)は苦い笑みを禁じ得なかった。確かに少年を取り巻く環境は劣悪だ。だが、それを作り出している大人達が滑稽なほど動揺しているというのに、当の夏維はと言えば幼いなりに周囲を気遣うなど、一番腹が据わっているようにも思える。 どうやら、今回も心眼が捕らえたのは山賊ではなかったようだ。ほぅ、と安堵して開拓者達は、さらに先へと足を進めた。 山賊がアジトを構えるなり、何らかの活動拠点を置いているならば、そこには水がある可能性が高いだろう。そう考えて柚李葉は時折白兎を出しているのだが、なかなか走り出してくれなくて。 足跡が見つけられればと、瑞姫も地面に目を凝らす。この時期、落ち葉で覆われた場所のみならず、下草が繁茂している場所もちらほらあって、さらに捜索を困難にしていた。 それでもやがて、山賊が残したものと思われる痕跡が見つかる。ようやく、という思いで瑞姫はその辺りをさらに慎重に確認し、下草を踏みしめた人の足跡を発見して仲間達に知らせ。 (‥‥この上に続いているようだ) (了解しました) くい、と指で指した瑞姫の視線に、梓はこっくり無言で頷く。そうして心眼を発動して、辺りに人の気配がないかをいっそう慎重に探り始める。 開拓者達が落ち葉と下草を踏みしめる、かすかな音が奇妙に大きく響く気がして、柚李葉はいっそう慎重に息すら殺しながら、新たな白兎を生み出した。今度もまた消えてしまうかと思ったが、白兎は僅かに空気を嗅ぐ様に鼻を空に向け、それからたっ、と走り出す。 ハッ、と息を呑んだ。飛び出しかけた柚李葉を制した瑞姫が、目顔で頷きその後を追う。 小さな白兎の姿を、ともすれば見失いそうになりながら走る瑞姫の耳が、人の声を捉えた。 「交渉に。夏維を返して貰いに来たわ」 それは、山賊を引きつけるべく動いていた仲間の声だった。 ◆ 隠れ家は山の中腹ほどにあった。途中で捕らえた2人の山賊に吐かせたその場所に開拓者達が辿り着いた時、そこには残る10人の山賊と深澄、そして後ろ手に縛られて不安に瞳を揺らす夏維が山賊の1人に刃物を突きつけられ待っていて。 見た瞬間、静瑠が動揺に目を見開き小さな声を上げるのを、今度は黎阿は注意しない。柾鷹や氷もただ沈黙して、そこに居る連中を睨み据える。 静瑠は彼らにとって、最大の囮だ。静瑠が夏維の為に動かないのは不審だし、まして刃物を突きつけられている夏維に動揺を見せないのは何か手を打っているからだ、と疑いを呼ぶ。 だから紫翠はきゅっと唇を結び、いつでも矢を放てるよう弓を構えながらそっと辺りに視線を巡らせる。別で動いているはずの仲間の姿は、見える範囲にはない。 す、と黎阿が進み出た。それに深澄が怒りの眼差しを向けたのを、艶やかな笑みで受け止めまずは、山賊に向けて交渉に来たと告げる。 「夏維は無事なのね? 良かったわね。無事でないっていうなら容赦する必要がないもの」 「随分自信があるじゃねぇか」 山賊の頭らしい男が唇の端を吊り上げた。だが口調とは裏腹に、黎阿を検分する眼差しは真剣だ。こちらも志体持ちである事を知り、その実力を図っているのだろう。 ただ愚かな荒くれ者ではないようだ、と柾鷹は必要以上に強い気を発して山賊を威嚇しながら考える。だが何れにせよ、まず交渉すべきは深澄だ。 柾鷹と黎阿は頷き合い、憎しみに歪む女へと視線を向けた。 「はじめまして。さて、目的を聞かせてくれない?」 「この一件が露呈すればお主とてタダでは済むまい」 「いいえ。この子供が居なくなればすべては元通りだもの」 まずは穏やかに告げた言葉に、深澄は言葉を吐き捨てる。吐き捨て、ギリリ、と縛られた子供を睨み据える。 ずっと、ずっと耐えてきたのに。夫が自分と息子を裏切ったのも、こんな暴挙に出なければならないのも、何もかも悪いのはこの子供。この子供を産んだあの女。だから元凶たるこの子供を排除すれば、すべては元の通りになるのだと。 それはとても自分勝手で、非論理的で、周りの事が見えてなくて。けれどもその根底にある怒りは正しいと、後ろで聞いている氷は思う。正しいけれども、その行動と怒りの矛先は、やはり間違っている。 だから、冷たく切り込むような黎阿の言葉は否定しない。 「‥‥負けるの? ここまで来て今更」 「お主が真に和章殿や英殿を愛するなら、何故この程度で揺らぐ?」 さらに重ねられた柾鷹の言葉にも、深澄は顔を強張らせる。 彼女の気持ちを、想像するのはたやすい。同情出来ない事もない。だがだからこそ、これまで築き上げてきたものをすべてぶち壊す道を選んでしまった彼女の選択が残念で、それに巻き込まれる2人の子が哀れで。 いつしか真剣に、彼らは深澄に語りかけていた。そうと気付いたのは、梓と瑞姫が山賊の背後を突いて飛び出してきた時だった。 「夏維君は返してもらいます‥‥ッ」 「奥方にも手出しはさせん!」 叫びつつ、山賊の不意を突いて襲い掛かった2人の動きにとっさに紫翠が援護の矢を放った。氷も壁を生み出して夏維達を守ろうとするが、上手く呼び出せず魂喰に切り替える。 山賊達に動揺が走った。それは夏維と深澄も例外ではない。殊に深澄は一体何が起こっているのか解らず、ぎょっと目を見開いた。 だがさすがは、志体も持たず争いの経験もないとはいえ、陰陽師である事に誇りを持っていた加奈芽の息子というべきなのか。 「夏維君! 何があっても必ず治すから、飛び出してきて!」 大丈夫だからと、叫んだ柚李葉の言葉に夏維は動いた。ほんの一瞬だけ躊躇いを瞳に滲ませたものの、突きつけられた刃を恐れず呼ばれた方へと走り出す。そうしながら一度だけ、案ずるように深澄の方を振り返り。 そうして、飛び込んできた少年を柚李葉はぎゅっと抱き締めた。それに安心したのだろうか、少年の身体が小さく震えだす。だが、無事だ。 ほぅ、と開拓者達の口から安堵の息が漏れた。だが果たして深澄の方はと、振り返れば梓に武器を叩き落された山賊の傍らで、瑞姫に捕らえられた深澄が悔しそうに身をよじって暴れている。どうやら、助けてもらったというよりは捕まったと思っているようだ。 まぁどちらでも同じ事かと、渓はようやく心置きなく山賊に向かって走り出す。彼女も夏維に助言はしたけれども、結局のところ決めたのは夏維で、そうしてその結果訪れた今を打開する策など持ち合わせては居ない。それを情けなく思いはしても、どうする事も出来ない。 ならば彼女に出来る事は、目の前に居る山賊を排除する事。それはもはや、囮の役が不要になった紫翠や柾鷹、黎阿も同じ。 故に彼らは今度こそ、一切の遠慮もなく山賊の前に立つ。己の不利を悟った山賊の頭が、だが最後の意地とばかりに腰の大刀を抜き放った。 ◆ 英の屋敷の一角で、氷は和之と向き合っていた。 「個人的な意見としては、夏維君はなにがなんでもここに居たい訳じゃないだろう。それでも去らないのは、なにかしらの形で『父親』と繋がっていたいんじゃないかね」 「あの。私はお父さんがどういう想いと約束があるのを知りませんけど‥‥大切なんだよって、行動で示して伝える事も大事だと思うんです。それは夏維君にだけじゃなくて‥‥」 柚李葉も氷の隣にちょこんと座り、柾鷹から言付かってきたと静瑠が渡した文を前に顔色を失くす和之へと言い募る。事の顛末は、柾鷹がすべてその文へとしたためた。だから氷達がする事はただ、和之がその文を読み終わるのを待って、言葉を伝えるだけだ。 その静瑠は、少し離れた所で悄然と座る夏維に付き添っている。そうして、まだ怒り心頭である事は変わらないものの、梓に「話し合った方が」と助言されて渋々屋敷に戻る事に同意した深澄の険しい顔を時折見つめ、また視線を落とす。 そもそもの原因を誰かたった1人に求めるのなら、恐らくそれは和之なのだ、と渓は思う。それは梓にしても同意見だ。話を聞いたり、見たりする限り、彼がはっきりこうと態度を貫かないから、周りに居る人間が振り回されているようで。 「和之殿の態度が招いたのではないのか。時間だけが解決するとでも思うのか、ここまで奥方を追い詰めて」 瑞姫の糾弾にも、和之はなかなか口を開こうとはしない。そういう性格なのだろうが、それが苛立たしいとでも言うように深澄は大きく息を吐き、夫への失望を顕にする。 だが。このような凶行に及んだその根底には、夫への怒りに隠された愛情がある筈で。例え自身の誇りを守るためだろうと、長い間夫の行為を見て見ぬふりを出来る冷静さは持つ女性だ、逆に言えばそれ故に夫に踏み込む事が出来ず、和之もまたそんな妻を扱いあぐねていたのかもしれない。 すべては想像だ。だがそれを確かめる為にはやはり、言葉を重ねて話し合う事が必要だろう。 その為にはどうしたら良いのだろうと、何度も考えた事をまた、夏維は考えた。このまま本当に留まるのかと、英の屋敷の前で別れた柾鷹の心配そうな眼差しを思い出し、どうしたいのか全て自分で決めなさいと叱ってくれた黎阿のまっすぐな瞳を思い出す。 『金剛』に帰るのか。英の傍に居るのか。 ここに来てからも、山賊につかまって居る間もずっと考えていた事を、夏維はまた考えて。それは最後に、夏維は良いのよ、と微笑んだ加奈芽の顔になる。 その母の瞳に、夏維は泣きそうな顔になった。 (僕、は) やっぱり、ここにも居てはいけないのかもしれない――その事実を認めるのは、14歳の少年にとっては身を切られるように辛い事だった。 |