【花雨】選ぶもの。
マスター名:蓮華・水無月
シナリオ形態: シリーズ
相棒
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/06/22 20:52



■オープニング本文

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 ぽつり、と少年が呟いた。

「ねぇ、静瑠‥‥ずっと、考えてた事があるんだ」

 母が死に、庚に『金剛』を出るように言われてから、ずっと。どうして母は自分に何も教えてくれなかったのだろう。『金剛』の技術者集団に弟子入りするのを止めたのはどうしてなんだろう、と。
 それがあれば夏維は『金剛』を出ていかずに済んだのに。そうすれば父を苦しめ、深澄を苦しめずに済んだのに。英家に何の波風も立てずに済んだのに。
 こうなってしまっては、夏維が英家に留まる事は害悪にしかならないのかも知れない。けれども。
 戻りたいなら交渉しましょうと、言ってくれた開拓者の言葉が嘘だとは思わない。きっと彼らは持てる限りの力と手段で庚と交渉し、全力で約束を果たそうとしてくれるだろう。
 けれども、夏維が同時に思い浮かべるのは母の笑顔。『夏維は良いのよ』と技術者達から遠ざけた、揺らがない笑顔。

(母様、は‥‥)

 夏維が1人、考え続けて出した結論。あの優しく強く誇り高かった母は、けれどもきっと、夏維を『金剛』に置く気はなかったのだ。
 そう、気付いた瞬間に胸に去来した感情の名を、夏維は知らない。ただ噛み締めるように、戻ることは母の本意ではないのだと言い聞かせる。
 だが、母は夏維をどうするつもりだったのだろう。母の庇護がなくなれば、或いはいずれ夏維が長じれば『金剛』を出なければならない日は来たはずだ。
 その後、手に職を持たぬ夏維をどうするつもりだったのか。

「母様に、聞ければ良いのに、ね」

 母が無策だったとは思えない。けれども現に、夏維が居てもいい場所は今、どこにもない。
 ほぅ、と溜息を吐いた。願わくはせめて、英家に元の通りの平穏が訪れますように。





 約束があったのだ、と男は言った。

「いや、あれは――ただの戯れ言だったのかも知れん」

 情熱的で愚かだった若き日の和之は、いずれ添い遂げるつもりだった加奈芽に言ったのだ。もし産まれた子が志体持ちなら、その子は陰陽師にしよう。志体がなければいつか、五行の中枢に登れるような立派な教育を施そう、と。
 だがその約束は、他ならぬ加奈芽によって反故にされた。ある日、加奈芽は「『金剛』が私の居るべき場所だ」と自分勝手に言い捨てて、和之の前から姿を消したのだ。
 覚えていますわ、と女は言った。

「父があなたに、英家の婿にならないかと申し入れた頃でしたでしょう――あなたは父に気に入られていた」

 深澄は当然、和之は断ると信じていた。共に暮らす陰陽師の女と、和之が相愛の仲だと知っていたからだ。
 とんだ物笑いの種になるだろうか。否、もしかしたら怒った父が和之を町から追い出すかも知れない。そうなったらお気の毒。
 深澄にとってはその程度の話だった。だから数日後、和之が承諾したと父が得々とした顔で告げた時、彼女は愕然とし、次に訝り、やがて陰陽師の女が消えたと聞くと軽蔑と屈辱に包まれた。
 和之にとって、あの女はその程度の物でしかなかったのか。あの女から深澄に乗り換えた、理由があるとするなら英家の金と権力に目が眩んだのだろう。そんな相手を自分はこれから夫と呼ぶのか。
 それは酷い屈辱だった。だから深澄は夫に決して心を許すまい、せいぜい英家のために利用してやるのだと自分に言い聞かせた。
 なのにどうしても、割り切れなくて。
 妻の言葉に、和之は一つ、小さく頷く。頷き、思う。

(加奈芽は‥‥)

 本当は気付いていた。英家からの申し入れがあった時、思わぬ幸運に彼は確かに心を動かしたのだ。
 加奈芽はきっと、それに気付いていた。彼女は聡い女だった。加奈芽が居なければと思った、その心を悟ったのに違いない。
 そうして、ただ護符1枚を残して消えた女を、今度は和之は恐れた。彼女がもし戻ってくれば全てが終わる。まして加奈芽は悪い事に『金剛』の陰陽師なのだ――
 恐れて、恐れて、恐れ続けて。やがて過去は頼りない少年の姿を取って、和之の前に現れて。

「約束を、覚えているかい?」

 不意に女の声が湧いた。はっと瞳を巡らせた和之に、いつそこに現れたのか、庭先から艶然と微笑む女が居る。
 深澄が険しい顔で声をあらげようとしたのを、和之は身振りで止めた。

「庚‥‥」
「その顔は覚えておいでのようだね。それで、夏維はどうだい?」

 噛みしめるように名を呼ぶと、庚はにぃと唇の端を吊り上げそんな言葉を吐く。それに押し黙った和之に、答えを察した庚はクスリと笑った。

「親友の最後の身勝手と思えばお膳立てもしてやったけれども‥‥お前がその気なら仕方ない。夏維は『金剛』が引き取ろうじゃないか」
「いらん」

 庚の言葉に、とっさに和之はそう答えた。深澄が複雑な表情で自分を見たのが解ったが、撤回しようとは思えなかった。
 なぜ、と自分自身に問いかければ、約束だから、と答えが返る。加奈芽とのではない――夏維とのだ。鬼を退治すれば息子として迎えると言った、あの約束。
 そうかい、と庚は笑った。笑って、涼しい言葉を吐いた。

「だが、夏維はもう選んだようだよ」
「‥‥?」
「和之、お前の選択を見ようじゃないか。何、興味があるだけさ――それこそが加奈芽の望みだったんだろうからね」

 楽しみにしているよと、言い捨て庚は姿を消した。それに呆然としていた和之と深澄の元に、和章がやって来る。
 そうして両親の顔を見上げて、困ったように尋ねた。

「父様、母様。夏維殿が居ないと、静瑠殿が捜しています。もしかして、こちらに来ては‥‥?」

 消え入りそうに揺れた語尾に、もう選んだようだと笑った女の言葉が重なった。





 捜索依頼を出すと聞き、最初に静瑠が覚えたのは疑惑だった。

「あんたが?」
「他に誰が出す」

 不機嫌そうに言い切った和之に、だから驚いているのだとは告げず、静瑠は深澄の方へと視線を向けた。気付いた深澄は忌々しそうに舌を鳴らし、だが夫に異論は唱えない。
 一体何があったのか、静瑠は2人をじっと観察する。夏維を捜して貰えるのはありがたいが、そこに別の思惑が絡んでいては堪らない。
 疑惑のまま、だから静瑠は幾度目かに問いかける。

「何を考えてる?」
「約束だからだ」

 だが和之の答は変わらない。先程から同じ問答を繰り返してばかだ。
 やがて静瑠は腹を決め、解ったと頷いた。捜索依頼は出させれば良い。そして妙な動きを見せるなら静瑠が防げば良いのだ。
 だが和之は、静瑠の了承を得られると「ああ」と大きく頷いた。

「では神立、お前が信頼出来る者を集めるが良い。私も同行しよう」
「‥‥‥は?」

 今度こそ、訝しむ声を上げたサムライに、ちらりと視線を向けた深澄は無精無精、コクリと小さく頷いてみせる。了承している、という合図だ。
 一体、自分が知らない所で何があったのか。深くなるばかりの戸惑いに、静瑠はきつく眉を寄せ。

「‥‥何を考えている」
「‥‥‥」

 尋ねた言葉に、今度は男は何も答えなかった。


■参加者一覧
香椎 梓(ia0253
19歳・男・志
玖堂 柚李葉(ia0859
20歳・女・巫
氷(ia1083
29歳・男・陰
巴 渓(ia1334
25歳・女・泰
黎阿(ia5303
18歳・女・巫
神楽坂 紫翠(ia5370
25歳・男・弓
滋藤 柾鷹(ia9130
27歳・男・サ
ブローディア・F・H(ib0334
26歳・女・魔


■リプレイ本文

 静瑠から話を聞いて、ぽつり、神楽坂 紫翠(ia5370)は確かめた。

「今度は‥‥夏維君‥‥いなくなったのですか?」

 それに険しい顔で唇を噛み締め頷く青年。そうか、と頷いた滋藤 柾鷹(ia9130)の顔は、悔恨の色が滲んでいる。横から他人がとやかく言うべきではないと、夏維自身に選択を委ねて追い込んでしまったと――柾鷹は、悔やむ。
 柾鷹の気持ちに共鳴するように黎阿(ia5303)も視線を落とした。今はどこに居るか知れない少年を想い、その無事を祈り、そうして凛とした眼差しを上げて和之を見る。

「‥‥貴方が夏維を置く理由は何?」
「あれとの約束だからだ」
「ですが、夏維さんが姿を消した理由は‥‥おわかりですね? ここに居場所を見いだせなかったからです」

 打てば響くように返る答えは、だが全く意味がない。故に香椎 梓(ia0253)が畳み掛けるが、それ以上には語らない。
 けれど大切なのは何故その約束を果たそうとするのか。和之自身の意志で夏維を我が子と思う気持ちがなければ、連れ戻しても夏維はまた姿を消すだろう。
 2人が向ける厳しい眼差しを遮るように、氷(ia1083)がのんびり口を挟んだ。

「それならそれで、夏維君を説得して金剛に戻してやりゃ、万事収まるんじゃね?」
「いらん」

 氷の言葉に和之は真っ直ぐに3人を見返した。その言葉に傍らの深澄が苦い顔になったけれども、何も言わない。
 そんな彼女に、梓が確かめる眼差しを向ける。

「苦い決断だと思いますが‥‥夏維さんをお迎えしても、よろしいですね?」
「見たところ真面目な子だし、恩を徒で返すような事はしないと思うけど、どうしても置いてはくれないかい?」
「‥‥私は」

 氷も共に尋ねた言葉に、深澄はため息のように呟いた。アヤカシに襲われていた和之を救い、心を交わした女陰陽師。彼女を憎んだのはけれど、夫が後生大事に持っていた護符を見つけた瞬間で。
 それは夫への怒りから、夫の心に居座る女への憎しみに変わった。それを、すぐに溶かすことは出来ないけれども――

「私の息子は和章だけ。でもこの人の息子の養育の責務は、英家にもあるでしょう」

 深澄は苦い顔でそう言って、そのまま口を閉ざしてしまった。すまん、と和之が呟いたのにふいと顔を背ける。彼女にとって夏維と言う存在を受け入れる為の、それが精一杯の譲歩なのだろう。
 とは言え、問題は姿を消した夏維。今頃たった1人でどうしているのかと、佐伯 柚李葉(ia0859)は心配そうな眼差しを屋敷の外へと向ける。巴 渓(ia1334)も苛立たしげに頭をかきながら吐き捨てた。

「子供ってのはもっとこう、周りの大人に迷惑かけたっていいもんだ」

 恐らく夏維なりに考えて行動したのだろう。その結果が雲隠れでは、周りに気を使い過ぎ、を通り越して周囲の大人としてはもどかしい。
 けれども和之に夏維の居場所の予想を尋ねても首を振るばかり。ならばずっと傍に居た静瑠は、と振り返ると「加奈芽さんに話を聞きたがっていた」と答えが返る。だからきっと夏維が向かったのは加奈芽に縁のある場所だろう、と。
 ふぁ、と氷が大きな欠伸をしながら努めてのんびり言った。

「ま、決心が鈍らないうちにまずは夏維君を探そうかね」
「ああ‥‥英殿には正直、大人しく待って頂くべきとも思うが」

 ちら、と和之に視線を向けた柾鷹に、向けられた男はきっぱりと首を振る。それに小さく嘆息した柾鷹と柚李葉だ。
 開拓者達も手分けをして探そうと言うのだ。和之の体力や効率を考えれば屋敷で待機させ、発見したら風信機か何かで連絡を取って来て貰うのが一番良いと考えたのだが――どうしたものか。
 まずは渓が念の為、屋敷の辺りを詳しく探すと言う。氷も目撃情報を聞き込みながら周辺を探してみるから一緒に来るかね、と和之に告げると、そうしよう、と頷いた。
 恐らく夏維の行動範囲は、それほど広くはなかろう、と渓は思う。生まれてから殆ど『金剛』から出た事がない少年にとって、父の屋敷のあるこの町すら持て余すはずだ。
 出掛けに仲間が屋敷の使用人に聞いて行った所、夏維が出て行く所を見たものはいなかった。だが、和之から捜索の許可を得た蔵や土間などをくまなく探し回っても、夏維の姿はどこにも、影も形もない。
 代わりに町での目撃証言は簡単に見つかった。遠くへ行くなら足や食料は調達しているだろうと、近隣の商店に尋ねたのだ。
 だが少年の事は覚えていたが、どこに向かったかは解らない、と店員は首を振る。他にも聞き込んでみるかと、大きく伸びをして歩き出した氷がふと、和之を振り返った。

「約束、ね。思ったより義理堅いんだな‥‥なんかほかにも理由があるんかい?」

 聞き様に寄らなくてもかなり失礼な言葉を突きつける氷に、和之は嫌そうな顔をして、だがすぐに肩を落とした。そうしてそのまま口をつぐんだ男に、案外当たりか、と思いながら氷は次の店へと足を向けた。





 落ち合う場所は雪桜の前と決めた。夏維が母を慕って向かうなら、母と暮らした『金剛』の家か、その郊外の母の愛した雪桜の可能性は高い。

「夏維様が無事に、見つかると良いのですけれど」
「静瑠さんにも黙って姿を消すなんて‥‥よほど思い詰めていたのでしょう」

 その『金剛』までの道すがら、ブローディア・F・H(ib0334)が呟いた心配そうな言葉に、梓が小さく言葉を返す。常に夏維の傍にあった静瑠にすら何も言わずに、というのは結構、重大な問題だ。
 そうですねぇ、と紫翠も思わしげに呟く。

「本人が‥‥納得する答が出ると‥‥良いのですが」

 『金剛』にも屋敷にも居場所がないと思い悩んでいた少年。だがきっと、その2つは少年が今まで生きてきた世界のすべてで。
 そのどちらにも居場所がないと思うなら、いっそ自分の好きなように生きて見れば、と紫翠は思うのだ。その為にも出来れば和之達より早く夏維を見つけ、先に自分達から話した方が、と思うのだが――

「どうやら雪桜は外れ、みたいね」

 心配そうに見ていた黎阿が、額の上に手をかざしながらぽつり、言った。雪桜は『金剛』の郊外、和之の屋敷から歩いてくるとちょうど道なりにある。今は青々とした葉を力強く茂らせ、丘の上に聳えていて。
 けれどもどこにも人影は見えない。念の為に雪桜の傍まで登ってみたけれども、やはり誰かが居た気配もない。道中も夏維を見た者がいないか話を聞いたが、そういった話はなかった。
 丘から少し視線を向ければ『金剛』が見えた。夏維達が住んでいた家からちょうど、若い見知らぬ女が出てくるのも見える。
 『金剛』の陰陽師として暮らしていた母子の家が、新たに別の誰かに貸し出されるのは不自然ではないが――

「あれでは、もし夏維様が向かっても‥‥」
「余計に落ち込むかもしれませんね‥‥」

 ブローディアの呟きに、こくり、と紫翠が頷いた。母と暮らした家に別の人間が暮らしているのを目の当たりにしてしまったら、少年はきっと母との思い出を奪われたように思うのではないだろうか。
 夏維、と黎阿が噛み締めるように呟いた。そんな黎阿の気持ちを察して、ぽん、と梓が肩を叩いた。もしこの辺りに居るのだとしたら、一刻も早く夏維を見つけてやりたかった。




 その森は今は平和だが、そこで起きた惨劇を知っている身からすればどこか不気味に映った。

「加奈芽殿の墓はこの奥だったな‥‥」

 勢い良く繁茂する下草を踏みしだきながら、柾鷹が誰にともなく確認する。こくり、頷いた柚李葉の心配そうな顔をちらりと見た。
 森の傍の村に立ち寄り話を聞くと、森の中に入っていく子供を見た者がいて。子供1人で大丈夫かと声をかけると、母様が居るから、と首を振ったと言う。
 それが昨日の事。出てきた所は見ていないが、と首を振る男に礼を言って、この森へとやってきたのだった。

(夏維君‥‥)

 祈るように、柚李葉はぎゅっと両手を握りしめる。迷いや悩みに答えを出せるのは自分だけだ。でもそこまでは誰かと一緒に迷って悩んで良いのだと――柚李葉や他の皆だってたくさんの人の手を借りてきたのだと、夏維に言ってあげたかった。
 それは柾鷹も同じ気持ちで。居場所がないと悩む夏維に、ここに居ても良いという場所を、心からそう思える場所を作ってやりたいと、願う。
 だからここにまだ居てくれと、願いながらかつて彼ら自身が加奈芽を葬った場所へ急いで。

「‥‥母様」

 森の奥からぽつりと、少年の声が聞こえた。その瞬間、柚李葉と柾鷹は顔を見合わせて走り出し、あまりに粗末な墓石の前にぺたりと座る少年を見つける。
 慌しい足音に、はっ、と夏維が振り返った。そうして顔見知りの姿にわずかに眼差しを揺らした彼を、柚李葉は駆け寄りぎゅっと抱きしめた。

「‥‥駄目だよ、家族に心配掛けたら。お父さんが、心配してる」
「父様、が‥‥?」
「あぁ‥‥静瑠殿もだ。せめて相談してやれ、凄く心配していたぞ」

 ほぅ、と心の底から安堵の良気を吐いた柾鷹の、ぽむ、と軽く頭を撫でながらの言葉にも夏維はわずかに目を見開いて、静瑠が、と呟いた。そうしてようやく、自分が随分と周りに心配をさせていたと気付く。
 ごめんなさい、と消え入りそうな声で謝る夏維に、小さく柾鷹は首を振った。まずは、何事もなく無事で良かった。

「夏維、良く頑張ったな。どうするか決めたのか?」
「何を迷っているのか、聞かせて?」

 そうして改めて柾鷹と柚李葉が向けた言葉に、夏維は母の墓標を振り返った。





 雪桜の木の下で、開拓者達は夏維を待っていた。まずは夏維を落ち着かせてから、と和之は丘の下で待たせている。
 その、青葉茂る桜の下で、

「‥‥小僧、これはけじめだ」

 パシッ、と乾いた音を鳴らす程度に軽く、渓が少年の頬を張った。なぜ怒られたのか、なぜ叩かれたのかは夏維自身にも判っている。だからしょんぼり肩を落とし、叩かれた頬を抑えて、ごめんなさい、と呟いた。
 落ち込む少年の肩を、梓がふわりと柔らかく抱いた。

「夏維さん‥‥お父さんの事は聞きましたか?」
「うん‥‥」
「貴方の気持ちもわからないじゃない。でも‥‥今の貴方の行動を加奈芽さんだったら取るかしら?」

 まっすぐな眼差しで問いかけた黎阿の言葉に、夏維は少し考え首を振った。母はきっと、悩んでもそれを自分の内で昇華して、選んで、正しかったと思えるよう全力を尽くす人だったと、振り返れば思う――それが母の、潔く、誇り高く、優しかった由縁なのだと思う。
 ブローディアがそっと尋ねた。

「夏維様‥‥どうしたいですか?」
「多少状況は変わったみたいだし、一度落ち着いて話し合ってみるのがいいんじゃないかね」

 少なくとも和之に向き合うつもりが出来たのだから、と氷はのんびり言葉を添える。夏維の心に染み込んだ、父に疎まれていると言う想いを拭い去るのは難しいだろうが――

「将来どうしたいか‥‥これからゆっくり決めればいい。お互い心を開いて‥‥もう一度、最初からやり直してみるのも悪くないかもしれませんよ?」
「あの父親も言葉少ないですから、はっきり喧嘩になるくらいに思った事ぶちまけないと伝わらないと思うので‥‥」
「そうよ、夏維。まずは向き合って話してみなさい。出るのが恨み言になっても文句になってもいいの。ただしっかりと相手を見て自分の意思を伝えなさい。自分の気持ちを伝えなさい。相手の思いを聞きなさい」

 夏維の傍には開拓者がいる。向き合った結果、やっぱり一緒には居られないと思っても、それは自分の意思で――夏維はたった1人で一方的に放り出される訳じゃない。

「私は貴方の味方。どんな道を選んでもつきあってあげる。だから頑張って‥‥」
「‥‥あの、ね? お話してきて、それでも駄目なら、静瑠さんと都とか‥‥少し巡ってみたらどうかな?」

 考えるように眼をしばたたかせた少年にそっと、柚李葉が別の道を指し示す。待って貰えるのが――迷っているのだと、まだ迷わせて欲しいのだと言えるのがきっと家族なのだと柚李葉は思うから。だから決められないのなら、自分の足で実際に世界を歩いて、それから自分の道を決めても良いのじゃないかと。
 そんな丘の上を眺めやりながら、柾鷹は傍らの和之に改めて問いかける。

「一体、貴殿は夏維をどう思い、どうするつもりなのだ。真実、夏維を迎える気はあるのか」
「無論。あれは‥‥加奈芽が育てた息子だ」

 和之との戯言のような約束を果たす為、加奈芽は『金剛』の技術者教育ではなく、書を読ませて知識を与えようとした。その約束を覚えているかと、庚は子供に文を持たせて寄こしたのだ。
 やはり庚殿はご存じだったかと、柾鷹は嘆息する。庚ならば加奈芽が夏維に何を望んだのかを、知っているかと思っていたが。

「‥‥夏維に家に帰って来て欲しいのなら、ちゃんと貴殿から告げてやらねば無理だ」

 故に、ため息交じりに柾鷹は告げた。息子として想っていても口には出せない、その理由にはきっと妻子の事もあるのだろうけれど、ここには居ない。
 だからきちんと、自分自身の言葉で。帰って来て欲しいのだと、言って貰えなければ夏維だって、本当に望まれているのか信じ切れないままだ。
 父の姿に気付き、夏維が小さく息を飲んだ。その肩をそっとブローディアが両手で包みこむ。

「話し合うなら半端な気持ちではだめよ。自分の意思をはっきりさせて、納得して、それでもだめだったらまた考えるのです」
「頑張って下さい‥‥自分達も‥‥これからも‥‥相談くらいは‥‥乗りますよ」

 紫翠も微笑み肩を叩いた。その言葉に振り返れば、ここにちゃんと居るから頑張れと、開拓者達が微笑みかける。
 うん、と夏維は頷いた。そうして生まれて初めて父の顔をまっすぐ見つめた。





 日が暮れるまでぽつり、ぽつりと言葉を重ねた末に、夏維は屋敷に戻ると言った。和之の息子であっても、英家の息子ではない。それでも戻って来てくれと告げた和之に「僕も母様の約束を果たしたいです」と頷いた。
 そうして少年が再び道を選んだ中で、青年もまた道を選ぶ。

「ま、こんな無愛想な兄ちゃんが四六時中側に居たんじゃ、友達も出来ないだろ」
「‥‥本当に、良いんですか?」

 けろりと笑った氷の傍で、心配そうに念を押した柚李葉にも、静瑠は無愛想に頷く。自分は夏維の傍を離れて見聞を広める――そう、青年は言ったのだ。
 正直、まだ不安は残っているけれども。

「加奈芽さんが俺に望んだのはそういう事だろう、と」

 庚は見極めろと言った。加奈芽は夏維を守れと言った。それをずっと、夏維の傍で害なす者を退けろと言う意味だと思っていたけれど。
 加奈芽の願いを想えばそうではないと判る。夏維は結果として、静瑠に頼らず1人で歩く事を選んだ。今度は静瑠が選ぶ番だ。
 そう、静瑠は噛み締めるように呟いた。頭上の雪桜がさらり、と葉ざやの音を鳴らした。