|
■オープニング本文 前回のリプレイを見る 誰も訪わざる山中の 小沼より降り零つる 霧に麓の翳る黄昏 神に背きて 墓より出づる者あり 『ジルベリア、グルボイ地方 古謡断章』 開け放たれたきりの城門をくぐり、狭く入り組んだ門前道と階段を通って門塔を抜け、城内のすべての設備に面した広場に立つ。広場の中心に穿たれた井戸は澱んだ臭気を漂わせているが、それに気を取られるまでもなく、遍く腐臭はこの城全体を覆い尽くしている。 それは石と鉄で築かれた堅牢が、外部からの力によって打ち砕かれた末に発する、あの一種の哀切な気配ではなかった。それは本来停止であり、断絶であり、石と鉄に対応する無機質な終焉の響きにすぎない。 しかしこの満ち満ちた腐臭は絶えずうごめき、常に新たな臭気をたちのぼらせる。死にとりつき、死を絶やさぬように耕し続けている。 腐敗。それは腐りゆく死を吸って、肥え太る肉をも想起させた。 この腐臭に内から犯されながら、この城は朽ちたに違いない。虫の湧いた果実のように容易く。 「ひどいな」 漏らした一言は在りし日への未練なく、簡潔に眼前の景色を言い表した。 「生に流るる紅の、血こそ命の泉なれ、日に背き月に招かれ、其は影に寄り添う……」 歌は暗い礼拝堂を満たした。女性に聞き紛う音域を自在に紡ぐ少年は、やがて歌の半ばに痙攣じみた笑いをあげた。白い肌に金色の髪。造りモノめいた冷質な美貌のなか、赤い双眸だけが酷く生々しい。 それは吸血鬼と呼ばれる存在を歌った詩らしかった。当の吸血鬼である少年には、それが可笑しくて仕方がない。 墓、太陽、月、そして神! なんと無意味な連想だろう。見当違いもいいところではないか。 見るがいい。そのような有象無象とは何ら関わりなく、僕はここに存在しているではないか。 人間は僕等の周りに余分なものを見すぎる。だから歌などというものも作る。しかし僕には人間は食料でしかない。 人間が余分なものを見、作っている間に僕は牙を突き立てればいい。なんと容易い。なんと明確な強弱の関係。人間が余分なものを持つだけ、僕等は人間より勝っている。 僕が発生して、幾ばくか経っている。この城の住人はすでに食べ尽くした。僕の力も増している。ここであてなく訪人を待つよりは、そろそろもっと食料の多い場所へ移ってもいい頃合いだろう。まだ会わぬその食料たちも歌うのだろうか。そうであればいい。僕が発生した時、余興にこの歌をうたわせた女は実に良い味がした。 さて、どうやら我が城に踏み入った者がある。客をもてなすは主の務め。持て成しの喜びと旅立ち前の食事を与えてくれるとは、なんたる上客だろう。 「掲げたる杯を、満たす者こそ我は愛おし……」 哄笑し扉を押し開く吸血鬼の背で、僅かに指し入った西日を受け、朽ちた礼拝堂は乱雑に上塗られた赤を暗く浮き上がらせていた。 |
■参加者一覧
汐見橋千里(ia9650)
26歳・男・陰
シャンテ・ラインハルト(ib0069)
16歳・女・吟
カメリア(ib5405)
31歳・女・砲
ウルシュテッド(ib5445)
27歳・男・シ
丈 平次郎(ib5866)
48歳・男・サ
巳(ib6432)
18歳・男・シ
祖父江 葛籠(ib9769)
16歳・女・武
工藤 緑太郎(ib9852)
22歳・男・泰 |
■リプレイ本文 この場所は淀んでいる。 ウルシュテッド(ib5445)は口の中に広がる生温い臭気を感じながら、敷かれた石をたしかめるように踏んだ。足に伝わるその確かな硬さと、上半身の浸かったぬかるみに感覚が乖離する。それは彼も知るジルベリアの、ひたすら自己の輪郭を浮き彫りにしてゆく冷気には似つかわしくない感覚であり、それだけにこの場の異常は肌に染みるように感じられた。 (これを故郷と呼ぶか…) ウルシュテッドは黙ってカッシングの背を見やった。 「すごいね、ここのお嬢様だったんだね」 「そんな上等なものじゃないけどね」 祖父江 葛籠(ib9769)の言葉に彼女は苦笑して応えた。その様に平静との違和は見られない。そんなわけはない、と葛籠は思う。この場で多くの人が犠牲になったのは葛籠にも感ぜられる。そしてそれが自分の生まれた場所であるのを目前にしたとき、まったくの平静でいるわけはない。むしろそれが、彼女が敢えて丹念に装わなければならない表層であるのかもしれなかった。 「へぇ、またいかにもな空気つくってるじゃねえか。期待していいのかねぇ」 その吸血鬼様とやらに、と巳(ib6432)はこの場にあっても相変わらず飄然とした調子を崩さない。むしろこの場の淀んだ空気を、その白すぎるような肌のうえで滑らせる感触を楽しむ風でさえあった。 「いいんじゃない。おそらく上物だと思うよ」 「そうかい。俺ぁまだ吸血鬼にあったことはねぇからな。まぁ、気分悪くなって吐きたくなったら背中ぐれぇは貸してやるよ、カッチェ(猫)さんよ」 「蛇と猫なら猫に分があるね。…それとも、みぃちゃんもやっぱ猫がいいかな」 「減らねえなぁ」 けらけらと巳は肩ですれ違って行く。すでに打ち合わせはしてある。ウルシュテッドも共に持ち場へと移る。 石を踏む音、山から吹き下りる風の遠く鳴る音。それらの音をシャンテ・ラインハルト(ib0069)は聞く。音は届けられている。しかし、全てが遅れている。音が、蜜のなかを押し進んでくるように緩やかに届けられる感覚。それが、シャンテには何より怖ろしいものに思われた。届けられるべき時に、届けられないということ。それが何よりも取り返しがつかないことのような気がする。時間的に隔てられた場所。この場では、きっと言葉というものは届かない。私たちは、同時間的にしか存在しえないから。 己の中でも明瞭にならない、不確かで激しい焦燥に襲われたとき、歌が聞こえた。それは周囲に満ちるものを一切顧みずに切り裂いて、自己のみで存在する歌だった。 礼拝堂の重い扉は苦しい軋みと共にその歌に押し開かれ、吸血鬼は現れた。 視線を据えたまま、汐見橋千里(ia9650)はカッシングの肩に顔をそっと寄せた。 「仇か?」 「……いや、違う」 声の響きに幾ばくか固いものを感じたが、嘘は無いと千里はみた。もっとも、それが彼女にとってどう作用するかは分かったものでは無いが。彼女の横顔は動かない。無造作に乱れた赤茶に灼けた髪の下で、白く締った顎が、やがて思わず綻んだ。 「心配してくれなくていい。私達はただ依頼をこなすさ」 「そうか」 「ようこそ我が城へ。これだけの客を招くは望外の喜び。しかし惜しむらくは君達は持て成しの準備の楽しみを与えては くれなかったようだ。唐突な客には即席の持て成しでご勘弁願おう」 吸血鬼の大仰な振る舞いに構わず、銃弾はその額を打ち抜いた。 「ふむ、いささか無粋ではないかな」 額に手を添えるそばから、穿たれた穴をふさいでゆく吸血鬼の冷笑にカメリア(ib5405)は取り合わない。位置取りは井戸を挟んで後方、狭間の防御回廊を背にしている。狩る者と狩られる者、或いは狩る者たらんとするもの同士のせめぎ合いに、いかなる妥協点の存在しえないことをカメリアは知っている。機械的に引き金を落とすたび、基部の緑色宝珠が短いきらめきでマスケット「クルマルス」に着火する。火薬のはじける匂いが、フードの下で漂ってくる。 「結構。では僕もそちらの趣向に合わせよう」 放胆な踏込と共に袈裟に振り下ろされた丈 平次郎(ib5866)の大剣を、吸血鬼は片手で止めてみせた。大剣の質量が宿した十分の速度を一瞬にして零にされた衝撃が平次郎の腕に伝わる。白い指を大剣に絡めた吸血鬼の視線との間合いに生まれた空白に、致命の予感を平次郎は刹那に覚えた。 「ジョーの旦那!」 工藤 緑太郎(ib9852)の拳を受けるために大剣を放し、吸血鬼はやはり酷薄な微笑を浮かべてみせる。 体に打ち込まれた一撃に緑太郎は後方に吹き飛ばされながら着地し、苦悶の色を顔に浮かべた。 「こっ、の、見た目に反したファンタジーな力しやがって」 基本に忠実な緑太郎の拳に対し、その一撃は型も何もあったものではない、生まれついての暴力という純正な膂力だった。 「……あんた、銀の武器に弱かったり、流水を渡れなかったり、心臓に杭を打ち込まれると死んだりするかい」 「よもや本心で聞くのではないだろうね」 まあな、と緑太郎は苦しく笑う。緑太郎の嗜むジルベリアの小説にも吸血鬼というものが描かれることはある。それらには得てして人間に都合のいい弱点があるものだ。そしてそれが淡い幻想であることを、緑太郎は知っている。 「圧倒的な力を前にしたとき、人間は夢を見るしかないらしい。無様なものだ」 「お前には分からねえさ」 やはり変わらず基本に忠実に構えた拳の下、体の奥で急激に燃焼する気力が緑太郎の瞳に力を灯した。 そのとき感覚に違和を覚えたか、動きを止めた吸血鬼は、地を這いずり呪詛と共に足に纏わりつくグールの群れを見た。隷役の術を上乗せに行使した千里の幻影符が、幻覚を映す。 「喉笛を食い破られるがいい。お前が今までやってきたように」 「怖いことだ。だがこれらは元々我が眷属。借り物の幻覚というのもいささか趣に欠けるのではないかな」 吸血鬼は黒い外套を大きく翻すと、周囲に赤い霧が振りまかれる。その赤が見る間に視界を塗り替えてゆく。赤という赤に塗りつぶされ、あらゆる物が輪郭を失い溶解してその絶対的な赤に取り込まれてゆく。やがて体内の血液がその赤に呼応するように騒ぎだし、肉を食い破ろうと沸騰する。皮膚が弾け肉がぼこぼこと泡を立てて煮えたぎる音、異臭。 赤い幻覚にとらわれた者たちの耳に、一筋の澄んだ音が響く。シャンテの奏でるフルートの音は眠りに誘うように穏やかであり、その音に導かれて瞼を閉じたとき、世界は赤から解放された。 シャンテはなお曲を奏でる。硝子玉の零れるような天鵞絨の逢引の音色によって自身の抵抗をあげ、さらにそこから緩やかに変調し天使の影絵踏によって高まった己の抵抗力を仲間たちと感応する。絶え間なく曲を奏でるシャンテは音に表さず時折短く苦しげな色を見せた。周囲一帯に働きかける曲はこの場に満ちる負の濃気との空間的なせめぎ合いでもあった。 「……その曲は少々五月蠅いな」 シャンテに注意の向いた吸血鬼の視線に、葛籠とカッシングが割って入る。数合の剣と拳の打ち合いは、重ねるごとに拳が威勢を増してゆく。前衛に立つ者たちを軒並み圧倒せんという吸血鬼の暴力を、葛籠達は何とかしのいでゆく。地力で勝る吸血鬼の攻勢に、それでも完全に圧倒されないのは斜め後方から機を見計らって放たれる矢と手裏剣による援護のためでもあった。そして注意はやがてそちらへ向く。 「この期に及んで何を鬱陶しい真似を」 苛立ち紛れに葛籠の大薙刀を弾き吸血鬼は跳躍し、居館の影に潜んだウルシュテッドと巳の前に対峙した。 「さて、どうする。歌でも歌ってくれるのかな」 「わりぃな。歌に興味はねぇんだよ」 「ならまずその喉を潰そう」 岩も徹すであろう鋭い手刀が首筋に届くと思われたとき、わずかに重心を脚へ落としただけで巳は体ごと吸血鬼の視界から消えてみせた。ただ空を切るばかりの自身の腕を引き戻すや、視線は自ずとウルシュテッドに向けられる。だが、とらえたはずの獲物が目の前で消えるという意外が一瞬の思考の硬直を生んでいる。その一瞬をとらえ、引き延ばす術をウルシュテッドは心得ている。体内で急激に燃焼される練力の奔流が、自己と周囲に亀裂をはしらせる。亀裂は大きなずれとなり、己だけが世界と異なる時間に呼吸する。停滞した世界のなか、弓から忍刀へ持ち替えたウルシュテッドは悠とその黒い刃を吸血鬼の首に突き通した。 「―なんだ、これは」 時間が取り戻されたとき、ほとんど寸断された首から黒い瘴気を激しく吹き出しながら、吸血鬼はつぶやく。 「はっは、喉潰されるのはお前さんだったなぁ、ちと傷が大きいようだが。忍の技は初見だったかい」 未だ判然としない面持ちでいる吸血鬼の耳に、退路を塞ぐ場所に位置取った巳の愉快そうな声がこだまする。 ―退路。退路とはなんだ、僕が。人間を相手に。 我にかえって振り返った吸血鬼の前に、取り囲んだ開拓者たちが一斉に向かいくる。 一気に懐へ飛び込まんとする緑太郎の首筋に、直接喰らいつこうとする吸血鬼の牙を姿勢深く掻い潜る。肩が熱を帯びる。肉を抉られ血の音が耳元で響くが構わない。姿勢は低く、深く。破軍と呼ばれる発勁、残されたすべての気力を練りあげる爆発的な発熱が傷の熱を上回る。人は幻想を見る。あらゆる。 「なら俺たちが、吸血鬼恐るるに足らずって伝承も作ってやらあっ!!」 ただの右拳から放たれる筈のない衝撃音と共に宙に浮いた吸血鬼を見届けず、気力を使い果たした緑太郎は地に倒れた。 その緑太郎を超えて平次郎の大剣が再び振り抜かれる。先ほどの打ち合いよりもさらに渾身、十二分の稼働に肉体の軋む音が鳴り、必殺の気合は大剣の熱を際限なくあげ、その太刀筋は紅蓮の影を曳いて体を崩した吸血鬼の腕を落とした。至近で吸血鬼の造り物めいた白い貌が憎悪の色に歪むのを平次郎が認めたとき、その体は一瞬にして黒い霧へと変じた。 「霧になった!」 「物理は通らない!」 応えたカッシングの声を受け、葛籠は構えた大薙刀を手元に引いて瞑目し、千里は隷役の首輪を装った白い大蛇を召還する。葛籠の目が見開かれたとき霧の足元から火炎が立ち上り、大蛇はその炎の中で呻きをあげる見えぬ敵に食らいついた。 仕留めたと見たとき、霧はひとたび集まり今度は無数の黒い影となって周囲の空へと散り飛んだ。 「お次は蝙蝠かよ」 「本体はあの中の一体だ。当てれば落ちる!」 拡散して高速度で飛び去る蝙蝠を、カメリアは単動作で次々と撃ち落としてゆく。巳も雷火手裏剣を放ち一匹でも多く落そうと試みるが、およそ二十を落としたかと思われるところで、やがてその手を止めた。 「卑怯だよ!」 見る間に小さくなってゆく蝙蝠の影に、葛籠は悔しそうに叫んだ。どこへ行くのかと問う葛籠に、どこからともなくあの吸血鬼の声が響いた。 「―知れたこと。僕は人間の前に現れる」 やがて一切の気配と共に、日の傾いた空を舞う影たちは消え去った。 「ここは特にひどいな……大丈夫かね」 礼拝堂に入った千里は、立ち尽くしたカメリアの背を呼んだ。堂内に飛び散る多量の血痕にあてられたかと思ったが、カメリアは何気なく振り返った。 「ここ、神教会の礼拝堂だそうです。さっき、カッシングさんに聞きました」 ふむ、と千里は見回している。造りは相当古い。極めて簡素であり、小さい祭壇のみがあり、装飾らしいものはほとんど見られず、灰色の石壁はいたるところが剥がれている。しかしそれは時によって朽ちただけでなく、人為的に元あったものを削り、取り払われた痕跡と知れた。騎士家族の住んだ場所、神教会、帝国。自然な連想に違いない。 「そういえば、森の中にあったあの石橋も古かった。一昔前にああした立派な橋が架けられるというのは、経済的な意味合いか、そうでなければ宗教的な巡礼地くらいだろう」 こくり、とカメリアは頷いたきり、再び背を向けて何もない祭壇のうえを見つめていた。小さな窓から差し入った西日のかかるその後ろ姿を千里はしばし眺めていたが、やがて静かにその場を離れた。 カッシングは崖にせり出した門塔の上に座っていた。 「逃がしてしまった」 覆いの下で呟くように言う平次郎の様子が面白かったのか、カッシングは少し笑った。 「ううん、すごく上手い戦い方だったと思うよ。上位の吸血鬼相手だと、魅了された開拓者たちが殺し合うなんてのもまあ、よくある。逃がしたのは仕方ない。最後のああいう時、範囲をやれる魔術師でもいれば便利なんだけど。騎士にもいい技はあるけど、生憎最高位の技で私じゃ手が届かない」 「そうか。……久しぶりの故郷なのだろう。戻ってみて、どうだ」 その漠然とした問は、常の平次郎にしてはめずらしい、どこか違った問い方であったかもしれない。 「……やっぱり、て感じかな。自分の中で長く持ってた物があって、それはもう冷えきっちゃってるし、この場所も変わってるからお互いが上手く嵌らないんだけど、それでもやっぱり、それはこの場所から連続してるって」 「そうか」 それで平次郎の問は済んだらしかった。そこへ巳がやってきた。 「緑太郎は?」 「あぁ、大丈夫だろ。気力使い切って気絶してるだけだ」 「頑張ってくれたからね。ロックだねえ」 「起きてる時に言ってやんな」 「そこはまあ、お約束だし」 「お前さん、これからどうする」 「……ここから東に、騎士達が治める城塞都市がある。この近隣は、そこから派遣された騎士に住んでもらうのが昔からの慣例らしくて。今回あれに殺された騎士家族もそうだったと思うけど。そこから、また騎士を出してもらえないか頼んでみようと思う。そのほうが村の人たちも安心する」 「お前さんがここにゃ住まねえのか」 「ここは焼いてしまおうかと思ってる。まだ腰おちつけるつもりは無いし」 「また吸血鬼の尻でも追いかけるかね。まぁ、好きにするさ。とりあえず、この依頼はこれで切りだ」 「付きあわせた。皆には感謝してる」 巳は背でひらひらと手を振って去って行った。平次郎もついて行き、葛籠だけが残った。 言葉は発さず、この場から一望できる森が傾く日に従って色を深めてゆく様を眺めていた。 風が出てきている。 「カッシングさん」 「うん」 立っている葛籠にカッシングは座ったまま背で応える。 「カッシング、って苗字なのかな」 「父方のね、姓なんだ。騎士だった」 「名前、教えてもらえる?」 「……じゃあ、その名前で呼んでもらっていいかな」 カッシングは言った。 頷いた葛籠の大きな緑色の瞳が、赤い日の光を受けて不思議な色に輝いて見えた。 「おつかれさま、リーザ」 「うん」 瞼を閉じた横顔は久しく与えられた水を含んだように、疲労のなかに安堵の吐息を静かについた。 |