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■オープニング本文 かつてジルベリアのある海に凶暴なケモノがいた。 ケモノは人もアヤカシも構わず、己の周りの多くを傷つけ、人を食うこともあった。海に住む人々はこのケモノを大いに恐れ、漁に出ることも出来ず困り果てていた。 ある日、その漁村を訪れた詩人がこれを聞き、ケモノとの対話を試みた。しかしケモノが耳を貸すことはなく、詩人とケモノは戦いをはじめる。両者の力は拮抗し、互いに死力を尽くす熾烈なものになった。 やがて長い戦いが終わったとき、地に倒れていたのはケモノだった。詩人は再びケモノに語りかけた。 「なぜ人を襲う。食うものは他にも足りているはず」 「お前達こそ、己が食う以上に海を荒らしすぎている」 詩人は自分が村の人々に説こうと約束した。代わりに、人を食うことをやめてはくれないかと。 「オレは人間の約束というものが信じられないことを知っている」 詩人は悲しげな面持ちでしばし黙ったが、やがてケモノの見たことのない道具を使って次々と音を取り出した。 ケモノがはじめて聞くその音の連なりは、ケモノの知り得なかった己の深い場所に染みわたり、その場所と音を通じて、詩人の内に抱いたものに触れていた。ケモノはこのとき、初めて他者の心というものを知った。 ケモノは求めに応じ、詩人はこれに深い感謝を示し、自分の楽器の次に大切な、身に着けていた青い首飾りをケモノに贈りその場を去った。 それ以来ケモノはアヤカシを払うこの地のヌシとして、互いの距離を保ちながら、海の人々からも敬われるようになったという。 「村に滞在することひと月と三週…ええ、それだけでもこの老骨には潮風が骨身に染みる思いでありましたが、ともあれ、ようやくお目に掛かることが叶いました。さすが、聞きしに勝る威風のご体貌でいらっしゃいますな。はい、卒爾乍ら私めの用向きでございますが、これまた率直に申し上げまして、貴方様のその首飾り……はい、牙にお召しになっておられますので牙飾りとでも申しましょうか、それをどうか譲って頂きたいのです。と申しますのも、その飾りは私めの仕える奥様の、かつての思い人にまつわる品らしいのです。一廉の商人であられました旦那様が亡くなってからというもの、物思いに沈みがちであった奥さまは心労の慰めに小旅行に回られました。その旅行先というのも、私などからは要領の得ない土地ばかりでしたが……ともあれ、この地に訪れた奥様は村の話から、それがご自身の記憶にある方に相違ないと考えられました。昔の思い人、それも詩人などといかがわしい者への思いなど憚られることではありますが、奥様はどうしてもその相手との記憶を思い留めるものを一つお持ちになりたいらしいのです。旦那様が亡くなり、奥様もお年を召して体もお気持ちも弱くなられているご様子。然らば、私もそれがせめてもの慰めになるのであればと」 ガチ、ガチ、ガチ。 ケモノは並び揃った鋭い歯牙を金属的に打ち鳴らしながら、その巨体をのっそりと起して海へと向けた。 「あ、どちらへ」 「面倒臭え奴だ。ようはこいつが欲しいんだろう。だったら腕づくで奪るがいい」 「め、滅相もない。御礼についてはなんなりと。僭越ながら相当のものでも用意できるかと」 ガチガチ。 「何かと何かを交換なんざ、ますます面倒臭え。そういうことは人間同士に陸の上でやれ。オレにとっちゃこいつはこいつでしかねえ」 「で、ではどうすれば」 「やかましい。欲しいんなら奪うがいい。なんなら他に強くて活きがいいのをここに連れて来い。てめえら人間にも色々居るんだろう。……てめえなんぞじゃ食う気も起きやしねえ」 「ひええっ」 |
■参加者一覧
フルール・S・フィーユ(ib9586)
25歳・女・吟
角宿(ib9964)
15歳・男・シ
藤本あかね(ic0070)
15歳・女・陰
エリス・サルヴァドーリ(ic0334)
18歳・女・騎
トラムトリスト(ic0351)
28歳・男・吟
ジャン=バティスト(ic0356)
34歳・男・巫
レオニス・アーウィン(ic0362)
25歳・男・騎
システィナ・エルワーズ(ic0416)
21歳・男・魔 |
■リプレイ本文 歳月を重ねるというのは不思議なものです。 新しいものに驚かされることは減る一方だというのに、とうの昔に始末をつけたはずの、忘れていたはずのことをふと思い出し、ひとりで酷く驚いてしまうことがあります。 必然的にしか動きません、心というものは。それは肉体的行動を要求しますが、そうするには私は年をとりすぎました。せいぜい、それを口実に人にお願いをするくらい。 皆様の思う通りに臨んでいただければ、その結果をただ待ちます。 ですからこれは、ただ賽を振って目が出るのを待つ程度のことなのかもしれませんが、それでも私にとってはどうしても必要な、過ごした時間の整理だと思うのです。 「―ただし、御礼は私の心を離れて、結果に忠実に従ってお支払いしますので、どうぞあしからず願います、ですか。さすが商家の奥様でいらっしゃる」 「ごほんっ」 トラムトリスト(ic0351)は苦笑して手に持った便箋から視線をあげた。依頼主からの手紙を届けに来た、執事らしい初老の男は相変わらず厳めしそうな顔をしている。 「失礼しました。ご依頼はたしかに謹んでお受けしましたとお伝えください」 「当然ですな」 「それで、先にご連絡しました、件の詩人殿の曲については……」 エリス・サルヴァドーリ(ic0334)の丁重な物言いに、執事は必要以上に神経質な様子で反応した。 「ええ、ええ。極めて個人的かつ繊細な内容ですから、私も憚られることではありましたが、奥様に伺いましたところ、生憎、昔から私には音楽というものは難しくて、あの旋律を人に説明できるほどのものはもうないのよ、と。ええ、それは物哀しいご様子でいらっしゃいました」 「そうですか……。不躾とは知りながら、無理なお願いを申し上げました」 深く頭を下げるエリスに、執事ははあ、とやるせないような息をついた。 「ただ、せめてものご参考になればと、奥様のご命令でこちらを用意いたしました。お預けいたします」 執事は携えてきた、両手に丁度おさまる程度の三角をした箱を差し出す格好で、中身を開けてみせた。 「…バラライカですか」 「やっぱり、気が進まないな。みんなはそうでもないの?」 それは角宿(ib9964)にとって率直な想いだった。今回の依頼の目的は首飾りを持つヌシに対して、配慮というものが足りていないのではないだろうか。 「……たしかにな」 トラムトリストから手渡された手紙を読みながら、ジャン=バティスト(ic0356)は眉根に少ししわを寄せた面持ちのまま同意した。 「ヌシにとっても、心を通わせた詩人から贈られた大切な品。それを見ず知らずの人間が無心する。不躾なことだが……。ただ、何かに縋りたいというご婦人の気持ちも、痛いほどに分かる」 「さすが、ジャン様はご婦人にお優しい」 ジャンはシスティナ・エルワーズ(ic0416)の軽口に気を介する風もない。 「それに、ケモノへの配慮を持つというのは、中々難しい。我々のような開拓者や、日常的に接している者達であればいざ知らず、特にこのご婦人のような都市に生活する者にとっては」 「そうだな。しかしこの手紙を読む限り、悪い人ではないと思う。すでに引き受けた仕事だ。全くの手放しでこなせる仕事の方が稀だが……その途上で、自分の取るべき行いを見極めることも大事なことだ」 「うーん」 レオニス・アーウィン(ic0362)の言葉に、やはり角宿は考えてみる。 「角宿はやさしいわね」 交わされる会話を見守っていたフルール・S・フィーユ(ib9586)は微笑してそう言った。 「まあ、角宿様もそう難しい顔をなさらずに。ケモノ、それもヌシとの出会いなど貴重なもの。レアモンですよレアモン! わくわくしますねぇ」 「レアモン」 「ええレアモンです。兎にも角にも、まずは遭遇しないことには始まりません。絶対に見つけ出しましょう! あまり難しく考えすぎるとかわいいお顔がジャン様のように陰気を帯びてしまいますよ」 「……」 「それじゃ、まずはその吟遊詩人の話や旋律の収集からよね」 そう言って藤本あかね(ic0070)達は漁村の人々に聞き取りをはじめた。 歩くたびに潮の風と香りが体を抜ける。手入れがいるかな、とあかねは風に煽られる長い黒髪に指を通した。また風に乗って、一音一音たしかめるような弦の響きが聞こえてくる。 「専門は竪琴なんですが、触ったことはあります。練習させて下さい」 とトラムトリスト。 「依頼主の思い人、というのだから数十年程度前の話か。当時を直接知る方も、居られるかもしれない」 レオニスの言葉に、そうですね、とあかねは頷いた。 網の手入れをしていたり、民家にいるそれらしい人々を一々訪ねてゆく。 「そりゃぁ、どんないい男だか私らも見てみたかったがね」 「よほど楽器が達者でらしたんでしょう」 「わしはよう知らん。しかし、そん人のためにヌシ様といさかいなく過ごせるようになったなら感謝せなならんな」 「わしは一目みただけだが、山の者が捕った獣でも売りに来たのかと思っとった。詩人なんぞとはとても」 「がっはっは、豪気な方じゃったわな。あん時の酒は美味かった。直接知らん者は美化しとるが、あれはあれでいい男よ」 より良く詩人を知る人に近づくにつれ、なぜか描いていた詩人像の修正を迫られるような感を覚えながら、あかねはフルールを連れ、当時の事情を最もよく知るという老夫を最後に訪ねた。 「あの方がヌシ様と会って、まさか戦うつもりじゃったなどわしらは知らんかった。知っておれば止めたわな。それを偶々わしが見かけて、村に関わる一大事じゃから、きっと見守らんならん思うた。そりゃあ大層恐ろしかったがね。なにせ志体持ちとはいえ人がヌシ様のようなケモノと正面から殴り合うなど」 「……殴り合い?」 レオニスには俄かに信じがたい。フルールは何やら愉快そうにしている。 「しかしな、その後に詩人様の奏でた音というのは、ひどく耳についたな」 「その音、教えてくださいます?」 フルールは思いのほか真摯な目で言った。綺麗な声だとあかねは思った。 「楽し気に弾む調子のはずだのに、な。穴が空いているいるというのか、ああいうのは」 旋律を直接に表すことなく、ただ自分の言葉で訥々と言い表してゆく老夫にフルールはいつまでも聞き入っていた。 フルールが歌い、トラムトリストのバラライカを中心にフルート、横笛と各々が持ち寄った楽器で旋律を奏でてゆく。徐々に徐々に、時間を重ねてそれらの異なる音が調子を合わせてゆく。 一日、二日と日は当然のように過ぎてゆく。 「やはり私の腕を切り、血の匂いで誘き出してみるか……」 「ジャン様が怖いこと言い出してますのでヌシ様お早くー」 三日目、レオニスは周囲を見回す。取り巻いて演奏を聴いている村人たちもずいぶん増えた。どうやらシスティナが積極的に集めていたようだが。演奏に合わせて踊る娘がいる。バラライカの刻む調子はその足の弾みに極めてよく馴染んだが、それをただ陽気と呼ぶことは出来なかった。おそらくそれは誰もが、どこか深い場所で共有する空虚さや哀愁なのだろう。しかしそれは辛くはない、遠くにある帰るべき場所を思い浮かべる懐かしさに近い。 バラライカの弾む調子の間に生まれる空白に、ジャンの笛の音がひゅうと抜けたとき、あかねの飛ばした人魂が、海面に漂う黒い影をその共有する視覚に認めていた。 「騒がしいと思やぁ、やけに妙な音をだすじゃねえか」 海からあがってきた鮫の巨体が、尾ヒレを浜に突き刺すようにして直立するその様はなかなかに壮観である。その前に進み出た小柄なエリスとの対比があればなおさらに。 「お目に掛かれたことは幸いでした」 その巨体を前にエリスは気圧される風もなく、騎士らしい実直な礼儀をつくして自分たちの目的を説明した。 「そうかい。なら構うこたねぇ。オレもこんなものに執着しちゃいねぇ。腕づくで獲ってけ」 「武力での解決は…、避けたい」 「ヌシ殿の流儀が力を示すことならば、話し合いは我らの流儀」 ジャンとシスティナ達の物言いに、ヌシは取り合う様子はない。 「オレぁな、物覚えがよくねぇ。人間を食うのはやめたが、それも随分前に人間に一匹出くわしたからってだけで、そいつの顔ももう覚えちゃいねぇ。だがな、そいつに負けたってことは覚えてる。それだけがいつまで経っても気に食わねえ。俺が若造だったってのもあるが、サメがそう簡単に負けちゃ道理に合うめえ」 様子をうかがっていたレオニスは前に出る。手には水晶の長剣。ここに至ってはもう言葉では語れまい。力と強さという、それだけの純粋がこのケモノが己に見出す意義か。 「分かった、ではこちらもそうするに足る力を示そう。全力でお受けする」 ヌシは初めてわらった。むき出しの歯牙に、青い首飾り。 「心配ねぇ、歯は使わん。使えば食っちまうからな」 サメが歯でなく何で戦うのだろう、と考えるシスティナの疑問に、ヌシは前に突き出した長いヒレを握りしめた。 「悪いがお前さん達には、あの野郎に貰った分も返させてもらうぜ。―言っとくが、オレの拳(ヒレ)は見た目ほど薄っぺらくねえぞ」 わー、これはきっとお強いんでしょうねー、とシスティナはストーンウォールでまず身を固めるのだった。 浜に腰をおろして休むヌシの横に、角宿も座っている。後ろではレオニスとエリスが手当てをしている。ヌシの拳を主に受けることになった前衛二人の打撲を代償に、ヌシの気はすんだらしかった。 「貴方が出会った詩人さん、どんな人だった?」 「言ったろう、ほとんど覚えちゃいねぇ。ただ気に食わねえ奴だったのと、あれだ」 くいと鼻を向けた先には、フルールが歌っている。ある女性と詩人を歌ったその歌は、広がる海に散り消えることなくどこまでも届けられるような響きだった。 「オレなんぞにはな、あれは分からねぇ。あれはてめぇの柔らかくてな、弱い部分を相手にみせるもんだ。分からねぇがな、その分からねぇものを伝ってそいつが何を考えてんのかなんとなく分かっちまうから、妙な話だ」 「そっか。…その詩人さんの歌とか、覚えてない?」 「分からねぇもんをどうして覚えてるよ。それにな、多分あれはその時その時、一回限りのもんじゃねぇのか」 迫ったことを言う、と耳を傾けていたトラムトリスト微笑した。 「ヌシ殿、これを受け取っては貰えませんか」 「私からは、これを」 トラムトリストは宝珠「えみた」、エリスは琥珀の首飾りを手にしている。 「だから何の意味がある、面倒な。持てば、また面倒なことを一々思い出しかねん」 「人間はヌシ殿よりも弱いもの。故に、他者とのつながりを必要とし、己の中に他者を留めるということもします。その印のようなものです」 「分からねぇがな、置いてけ。……これのことだったな。持ってけ」 「感謝する。再びお手元に返すと約束する」 ジャンの言葉にヌシはやはり面倒な様子で首をふる。 「いらん。それこそ、あの野郎のことをいつまでも思い出してはかなわん。長く付き合いすぎた」 青い首飾りが宙に放られた。それは背にした海と溶けきることなく己の青を留めたまま、日を受けてわずかに明滅する輝きをゆるやかに曳いた。 やはりここにも詩はあったとトラムトリストはエリスの手に落ちたその輝きを目に留め、瞼をおろした。 |