【陰影】氷嵐
マスター名:桜紫苑
シナリオ形態: ショート
危険
難易度: 難しい
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/03/09 20:47



■オープニング本文

●約定
 日も当たらぬ座敷牢の如き部屋に閉じこめらて、数日。
 氷雨の精神にじわじわと絶望という名の染みが広がっていく。
「氷雨!」
 強く名を呼ばれて、のろのろと顔を上げた氷雨の顔に、恐怖とも悲しみともつかぬ表情が浮かんだ。
「そ‥‥れは‥‥」
「お前の苦無です。但馬の血を吸って、刃の輝きが凄みを増したと思いませんか」
 ひゅっと氷雨の喉が鳴る。
 今でもはっきりと覚えている。
 愛する夫の体を刺した感触を。喉元を切り裂いた、あの手応えを。
「さあ、氷雨、お取りなさい。苦無が持ち主を恋しがって泣いていましたよ」
 いやいやと頭を振る氷雨の手に、無理矢理に苦無を持たせると、女は囁く。
「そして、これを。あの方のおられる場所は分かっていますね? これを使えば、間近まで迫らずとも、あの方と取り巻きの者達を一度に片付ける事が出来ます。如何に最強のシノビと称される方でも、防ぎようがありません」
 震える手の上に小箱を置かれて、氷雨はずるずると床に崩れ落ちた。
「賭仕合には大勢の者が集まります。誰が、どこにいるのか分からぬ程に。秋郷を連れた者がどこにいるのか、犬神の者達も探しはしますが‥‥分かっていますね?」
 肩に未だ癒えぬ傷があると知りながら、置いた手に強く力を籠める。
「秋郷が無事に戻って来るも来ないも、お前次第なのです。お前が約定を果たさぬ時には、秋郷は父親の元に行く事になるやもしれません」
 ガタガタと震える氷雨に、優しく言い諭す。氷雨の体が、心が覚えている悲しみと絶望と諦めの記憶を呼び覚ますように。
「大丈夫です。母親のお前がいるのですから、秋郷は戻って来ますよ。お前が、秋郷を守らねば、誰が守るというのですか」
 深淵なる闇の底で藻掻く事も諦めた氷雨の心に、ちらちらと雪のように言葉が舞い落ちて来る。
――この天儀で一番安全な場所でお子を‥‥
――僕達は交替で、この離れを警護しています。
――心配しないで下さい。
――赤ちゃんが大きくなった時に、真実を話してあげられるのは、氷雨様だけですよ?
「‥‥秋郷‥‥」
 延ばした手が掴むは闇ばかり。
 氷雨の眦に溜まった涙が、つぅと頬を伝って落ちて行った‥‥。

●闇に光を
「どうして黙ってた!」
 仲間達からの糾弾に、不貞腐れて卓に片肘をついているのは輝蝶だ。
「最初からお前が話していれば、状況はもっと違っていたかもしれないんだぞ!」
「‥‥ばらしたら余計に危なくなると思ったんだよ」
 輝蝶の話はこうだ。
 賭け仕合の開催が楼港で決まってまもなく、小さな社に参っている氷雨と秋郷を見掛けた。周囲にはシノビの護衛らしき者達が数人ついているようだったが、氷雨の悲壮な表情、大怪我をおして秋郷を守ろうとする姿に、彼女達が真実安全に守られているわけではないと、そう感じたのだ。だから、彼女に話を持ちかけた。
「天儀で一番安全な所といやあ、開拓者の側だと思ったからな。折角、赤ん坊をすり替えたのに、「こいつは朧谷の里長、秋郷だから守ってくれ」なんて言っちゃ、シノビの奴らがすぐ嗅ぎつけて来るじゃねぇか」
「それはそうだが‥‥」
 開き直ったのか、輝蝶は続ける。
「氷雨も同じだ。秋郷をすり替えた事がばれちゃいけねぇってんで、開拓者に警護を頼んで宿に籠もっていたんだ。犬神の奴らが仕合前に連れ戻しに来るとは思ってなかったけどよ」
 その氷雨の行方はようとして知れないが、仕合の日、楼港の大通りにある料理屋、千鳥屋の2階が彼女の為に貸し切りになった事が確認されている。
 立会人である氷雨は、そこから自分の行いに端を発した諍いの決着を見届けるのだ。
 ‥‥見届けるはずだ。
「‥‥黙っていたのは悪いと思ってる。だが、氷雨親子の安全を考えた上での事だ。詫びはこの騒動が全て終わって改めて入れるから、今はもう一度、力を貸してくれ」
 数枚の報告書を卓の上に並べ、輝蝶は仲間達を見回した。
 報告された内容を付き合わせると、不穏な話が浮かんで来る。
 犬神の内部から掟を破って異変を伝えたシノビ、そして、そのシノビが様子を窺っていた商人の別邸はアヤカシに守られていた。更に、商人が手に入れた宝が別邸に運び込まれ、それを氷雨に持たせ、何かをさせようとしているらしい。
「秋郷を盾に取ってまで氷雨に何をやらせようとしてるのか。そこまでは分からねぇが、これ以上、氷雨や秋郷を苦しめたかねぇ」
 だから、その前に止める。
 輝蝶の言葉に、開拓者達は互いの顔を見合うと力強く頷きを返したのだった。


■参加者一覧
野乃宮・涼霞(ia0176
23歳・女・巫
音有・兵真(ia0221
21歳・男・泰
時任 一真(ia1316
41歳・男・サ
水波(ia1360
18歳・女・巫
喪越(ia1670
33歳・男・陰
羽貫・周(ia5320
37歳・女・弓
沢村楓(ia5437
17歳・女・志
神咲 輪(ia8063
21歳・女・シ


■リプレイ本文

●決着の朝
 輝蝶を通じて高華楼の主からの伝手を得て、千鳥屋に入り込んだ野乃宮涼霞(ia0176)から待機している仲間達の元に連絡が入ったのは早朝の事であった。
「動きがあったって?」
「らしいな」
 夜もまだ明けきらぬ時刻だ。時任一真(ia1316)は音有兵真(ia0221)の手元にある、小さく折り畳まれた紙を覗き込んだ。
 分かり易すぎると、誘導であったり、偽情報であったりする可能性が高いが、かねてより「氷雨」の賭け仕合観覧の場に選ばれた事を自慢していた千鳥屋の主が、わざわざ偽装工作をするとは思えない。
「という事は、今日‥‥か。沢村さん。情報統制室とやらに連絡を」
 分かったと沢村楓(ia5437)が踵を返す。
 その後姿を目で追いながら、そう言えばと一真が水波(ia1360)を振り返った。
「確か、あんたも慕容王の護衛も受けてるんじゃなかったっけ?」
「ええ。この後、少しばかり抜けさせて頂く予定です」
 頷く水波の表情は硬い。氷雨が千鳥屋に現れるという事は、慕容王の周囲でも異変が起きる可能性が高いという事だ。
「此度の事、皆様はどうお考えですか」
 問うた水波に、その場にいる者達の表情も暗く沈む。
 朧谷の里で端を発した一連の騒動。関わる様々な依頼を通じて、おおよその見当はついていた。けれど、決定的な証拠は未だ掴めていない。開拓者の立場では、迂闊に介入が出来ないのが現状だ。
 だから、こうして時を待っている。
「‥‥恐るべきは、人の性とアヤカシの策謀でしょうか‥‥」
 水波の呟きに、喪越(ia1670)がガシガシと頭を掻き回す。
「兎にも角にも、今は我慢の時か。もどかしいもんだが、まだ手出し出来ねぇ。柄にも無くイライラしちまいそうだ」
 喪越のボヤきは、彼の本心から出た焦りを含んでいたにも関わらず、仲間達の緊張を解した。いつも飄々と我が道を貫いている喪越の、滅多に見る事が出来ない姿を見たせいか、それとも寝起きで爆発した髪が妙に笑いを誘ったのか。
 それはさておき、手出しが出来ないもどかしさは、仲間達も感じていた。
「だが、それも今日限りだ。秋郷を助け出し、氷雨さんを解放して、慕容王を守り、狐妖姫の企みを打ち砕く! それで全てが解決だ」
 兵真の力強い言葉に、仲間達も決意を込めた頷きを返した。
 今日、全ての決着がつくーー。

●接触
 2人の女性が、ひっそりと裏口から千鳥屋に入ったのは、涼霞が仲間に連絡を入れた数刻後の事。
 垣間見たその姿はやつれ、憔悴しきった様子だったが氷雨に間違いない。その隣、彼女に付き添う女へと目を遣った涼霞は息を呑み、柱の陰へと身を隠した。
 間違いない。
 あの日、氷雨を迎えに来た女だ。
 彼女には顔を見られている可能性がある。これ以上、氷雨に近づくのは無理だ。
 重ねた椀を掲げ、足早に廊下を立ち去ると、涼霞は小さな紙片に得た情報を書き付けた。小石を包み、格子の隙間から落とす。きっと、店を張っている仲間達が回収してくれるはずだ。
「後はお願いします‥‥」
 あの女がいる限り、涼霞は迂闊に動けない。
 氷雨が案内されたであろう2階を見上げ、涼霞は小さく呟いた。
「なるほど」
 涼霞が落とした紙片をさりげなく、素早く拾い上げたのは、羽貫周(ia5320)だった。氷雨への繋ぎを取る手段を模索しつつ、千鳥屋の周囲を確認していた彼女は、中に記された情報に表情を曇らせた。
 氷雨を連れ去った女を、周も見ている。
 年の頃は、周と一回り程違うだろう。だが、隙のない女だった。
「あの女が共にいるとなると、矢は使えないな‥‥」
 連絡の手段の1つにと考えていたが、傍らにいる女に知られずに矢を打ち込む事は不可能だ。
 涼霞の紙片を手に、千鳥屋の斜向かいにある甘味屋の暖簾を潜ると、周は表が見える一角を占拠する仲間達の元へと歩み寄った。何も言わずに、紙片を兵真の手に押し込むと、団子を一皿注文する。
「ふむ。これでは氷雨と接触するのは無理かな」
 兵真から紙片を取り上げて、喪越はにんまりと笑って見せた。
「ヘイ、アミーゴ。誰か忘れていませんか、ってな」
「忘れてなんていないさ。頼めるか?」
「モチのロンだぜ」
 言うが早いか、喪越の手から小さな蝶が飛び立つ。氷雨の様子を確認したくて、一番うずうずしていたのは喪越だったのかもしれない。蝶の羽ばたきでも、斜向かいの2階ならばすぐに辿り着く。
 固唾を呑んで喪越の様子を見守っていた仲間達の中、神咲輪(ia8063)は笛袋の紐を解き、中から笛を取りだした。歌口に唇を寄せ、そっと静かに曲を奏で始める。
 突然の演奏に、店の中の動きが止まる。だが、すぐに他の客達もその優しい音色に聞き入った。
 水面に輪が広がるように、輪の優しさが音に乗って周囲へと伝わっていくようだ。
 その音は、店の外へも流れ出し、道行く人も足を止める。大通りの喧噪の中、その一角だけが静かな音色に包まれた。

●無情
「おや、笛の音が」
 女の声に、氷雨はのろと顔を上げた。確かに、喧噪に混じって、笛の音が聞こえて来る。
「良い音ですな。名のある奏者やもしれません。店の者に探させましょうか」
 主の言葉に、女は冷笑を向けた。
「名も知らぬ吹き手の音を聞くのも、趣きがあってよいものです」
「さようでございますか」
 なかなか退室せぬ主に、女は苛立ちを隠せぬようだ。だが、氷雨にはどうでも良い事だった。
 氷雨達にシノビの何たるかを教えていた頃から、女の考えは明快だ。任務の邪魔になれば、親兄弟とて葬り去る。
 けれど、氷雨と但馬の婚姻に尽力してくれたのも、また彼女であった。
 疲れ果てた心に染み入る笛の音が、疾うの昔に崩れ去った優しい時間を思い起こさせる。
 但馬がいて、秋郷がいて、幸せだった日々。
 女は秋郷の誕生を、我が事のように喜んでくれた。
 もう二度とは訪れない、優しい日々。
 つ、と零れた涙を拭おうと手を動かした氷雨は、指先に止まる1匹の蝶に目を見開いた。いつぞやも彼女の前に現れた蝶。それは‥‥。
「氷雨」
 しつこい主はようやく部屋を出たようだ。
 咄嗟に、氷雨は女の目から隠すように蝶を部屋の隅へと追いやった。
 女は息を吐きつつ、袂から取りだした包みを氷雨の前に置く。懐紙に包まれたそれを開けるようにと命ぜられ、薄い包みに手を伸ばす。かさりという音と同時に、氷雨が鋭く息を呑む音が響いた。
「みぞれ様‥‥これ‥‥は」
「お前にならば分かるでしょう。秋郷の髪です。心配はいりません。ほんの一房切り取っただけですから」
 がくがくと震える氷雨に、女は畳み掛けるように囁く。
「ですが、これが遺髪とならぬとも限りません。折角、お前が命がけで但馬殿から守ったというのに、哀れな子です」
「みぞれ様‥‥」
 ガタガタと震えだした氷雨に、みぞれと呼ばれた女は傍らに置いてあった小さな箱を握らせた。
「分かっていますね。仕合が終わるまでに、お前が任務を果たさなければ、秋郷は但馬殿の元へ行く事になりましょう」
 箱を抱きかかえて、氷雨は縋るようにみぞれを見た。
 だが、みぞれは冷たく微笑むばかりだ。
 絶望と焦燥とに揺れる氷雨の視界を、蝶が過ぎる。
 しかし、その姿も、優しく流れ続ける笛の音も、もう氷雨の救いとはならなかったのである。

●氷雨を追って
 思い詰めた顔をした氷雨が裏口から外へと出たと、喪越からの情報に開拓者達は即座に動いた。いつでも動けるように、団子や甘酒の代金は先払いだった。
 彼らが突然に外へと飛び出しても、店の者は笑顔で見送るのみだ。
 彼らとは別行動を取っていた一真と涼霞が氷雨の後を追っている。
「ち。俺達が動いている事を知っていたのか」
 けれど、人気のない路地裏で彼らの行く手を阻んだのは、黒尽くめのシノビ集団だった。涼霞を背に庇うと、一真は周囲を見回す。さすがはシノビだ。退路は全て断たれてある。本気で、彼らを消しにかかっているのだ。
「野乃宮、俺が道を作るから、あんたは情報統制室とやらに走れ。何があっても、氷雨を止めなきゃならない」
「時任様‥‥」
 迷ったのは僅かな時間。
 涼霞も事の重大性は理解している。何よりも‥‥。
「これ以上、氷雨を苦しめたくない」
「はい」
 呟きと同時に、一真がシノビに斬りかかった。隙を作るのが目的だ。わざと力任せに刀を大振りすれば、それを避けたシノビの一角に隙が出来る。
「野乃宮ッ!」
 一真の叫びに、涼霞は駆け出した。隼人を使い、追いかけようとするシノビ達の行く手を阻む。それがいつまでも通用するとは思ってはいないが、一真には確信があった。彼の仲間達が、必ず追いついて来ると。
 それまでの間、涼霞を追うシノビ達を防ぎ切ればいいだけの事だ。
「でも、せめて氷雨を救う為の力が残ってるうちに来てくれよなぁ‥‥」
 独り言がいつもの口調に戻っているのは、精神的に余裕が生まれた為か。
 襲い掛かるシノビ達と斬り結びながら、一真は自分達の声に振り向く事なく走り去った氷雨の後ろ姿を脳裏に思い浮かべていた。
ー早まるなよ、氷雨‥‥。

●狂乱
 彼らが氷雨を見つけた時、彼女は既に満身創痍の状態であった。
 着物を脱ぎ捨て、シノビ装束を纏った氷雨は、苦無を手に慕容王の配下らしきシノビ達を相手に1人で戦っていたのだ。
「氷雨さん!」
 加勢に入ろうとして、輪は足を止める。
 相手が慕容王の配下であるならば、自分達の敵ではない。彼らと戦う事が難しい事態を引き起こす可能性もある。
「神咲さん、氷雨の方を止めるんだ!」
 兵真の声に頷いて、再び駆け出そうとした輪の前に黒尽くめのシノビが立ち塞がる。戸惑った輪に、容赦ない一撃を浴びせて来る彼らは、慕容王の配下では無さそうだ。
「みぞれの手下か!」
 周がつがえた矢が、輪を狙ったシノビの腕を貫く。連続して矢を放ち、仲間の周囲に現れた敵を排除していく周にも、シノビが襲い掛かる。己を守る事を二の次にしていた周は、攻撃を避け切る事が出来ない。だが、元々俊敏な彼女はうまく急所を避け、更に咄嗟に身を倒した事で掠り傷で済んだ。
「氷雨!」
 だが、彼らが犬神のシノビ相手に手間取っている間にも、氷雨は慕容王配下のシノビに、まさしく捨て身の攻撃を掛け、王のおわす楼閣への距離を詰めていく。
「氷雨! 待て! 氷雨!」
 彼らの声も、半狂乱の彼女には聞こえてはいないようだった。
 ち、と舌打ちすると、喪越は懐から焙烙玉を取りだした。爆音で周囲の煩い者達の気を逸らそうというのか、空に向けて放り投げようとする。
 それを止めたのは兵真だった。
「駄目だ。今、それを使うと色々ややこしい事になるぞ!」
 氷雨がみぞれから渡されたものが宝珠爆弾ならば、消えた爆弾を警戒している者達を刺激する事になりかねない。
「なら、どうすりゃいいんだよ! あんな状態の氷雨を、どうやって止めるって言うんだ!」
 全身に傷を負っている事すら忘れているかのように、氷雨はただひたすら楼閣を目指している。氷雨という女を少なからず知っている彼らかには、彼女が正気を失っているようにしか見えなかった。
「どうしたって止めるしかないだろ!」
 隼人を使った一真が、囲むシノビの間を抜けて氷雨に腕を伸ばす。
「氷雨! 子供の為に命も魂も張ると決めたんだろうがっ! お前の魂を縛るのは犬神か! 違うだろうっ!」
 氷雨の腕を掴んだ、と思った次の瞬間、一真は肩に熱を感じて呻いた。力が抜けた一瞬に、氷雨は彼の腕を払い、再び駆け出す。もはや、彼女には敵も味方も分からないのか。
「時任様!」
 駆け寄った水波の手当てを断ると、一真は氷雨が向かった先、楼閣へと続く道を急いだ。

●悲劇
 突如として屋根に現れた狐妖姫に、開拓者達は慄然とした。
 その手にぶらさげられているのは赤子。秋郷だ。
 氷雨は慕容王警護の任を受けた開拓者達と対峙している。
「救出班は何をしているんだ!」 
 苛立ちを見せた兵真の心を逆撫でいるように、不快な笑い声が響く。いつからそこにいたのか、千鳥屋に残っていたはずのみぞれが幼い少女と共にそこに佇んでいた。
「さあ、氷雨。役目を果たしなさい。さもなくば、秋郷の命はありません」
 静かな宣告と、頭上に浮かぶ狐妖姫と秋郷に、氷雨は完全に我を忘れた。
 絶叫と共に、放り投げられたのは彼女が懐から取りだした小さな珠。
「氷雨!」
 やめろ、と喪越が叫び、珠の行方を追った兵真と、一か八かで射抜かんと矢をつがえた周。
 彼らが動き出すのと、狐妖姫が秋郷から手を放すのとはほぼ同時。
「秋郷ッ! 秋郷ーーーッ!!」
「ほほほ。よくやりましたよ、氷雨! さあ、我らは約定を守った。今度はそなた達が我らの願いを叶える番で‥‥」
 少女を振り返ろうとして、みぞれが言葉を失う。
 見れば、彼女の胸から小さな手が生えていた。
「お前、うるさい。この体のははおやみたい」
 無造作にみぞれから腕を抜き取ると、少女はふわりと浮き上がった。
「でも、これでひぃ様のお望み通り。本当、何て美味しそうなのかしら‥‥」
 くすくす笑いながら、少女が狐妖姫の元へと向かう。だが、開拓者達はそれを追っている場合ではなかった。
 間近で起きた大爆発を身を低くしてやり過ごすと、兵真は氷雨の姿を探す。
 爆風に吹き飛ばされた彼女は、更に傷を増やしながらも立ち上がり、手を伸ばしながら燃え盛る炎へと向かっていく。呟いているのは、秋郷の名か。
「待て、氷雨!」
 止めようと立ち塞がった兵真の脇腹を、氷雨の苦無が傷つける。だが、兵真は退かなかった。滅多矢鱈に苦無を振り下ろす氷雨を、それでも兵真は両腕で拘束する。
「つっ!」
 頬に鋭い痛みが走る。錯乱状態の氷雨の動きを止めたのは、輪がむぎゅうと氷雨の口の中に押し込んだおにぎりだった。
「こ、こんな時‥‥お腹が空いていたら‥‥悪い方にばかり‥‥」
 ぽろぽろと涙を零しながら、必死で訴えかける輪に、氷雨の目に正気の光が戻って来る。そして、彼女の目からも涙が零れ落ちた。
「‥‥氷雨」
 励ますように一度抱き締めて、兵真は力の抜けたその体を喪越に預けた。喪越の背後には包帯を手に心配そうに覗き込んでいる水波の姿がある。兵真と氷雨、そして一真に手際よく応急処置を施していく水波の姿から目を上げると、未だ煙を上げる楼閣がある。
 だが、その火もそのうち消し止められるだろう。
 慕容王の警護班が消火、救助に動いているようだったから。
「そうだ。これを返さなきゃな」
 赤い髪紐を取りだして、兵真は1人、微笑んだ。

●宣告
 全てを見届けた後、高遠重衝は開拓者と言葉を交わす事なくその場を立ち去ろうとしていた。
 氷雨の苦無で受けた傷には、裂かれた袖が無造作に巻き付けられているだけだ。血が滲み、滴るそれを気にする事もなく、背を向けた彼に、楓が叫ぶ。
「重衝!」
 ふと足を止め、振り返った男に楓は指を突きつける。
「半年後だ。違えるなよ!」
 男は、微かに笑ったように見えた。