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■オープニング本文 ●夏風 天儀の山野を再現した庭を眺めながら、大伴の翁は無言でたたずんでいた。 思い出すのはかつて都で勃発して自らが処理にあたった桜紋事件。 もう是非を問うつもりはないが、あの後味の悪さは今でも鮮明に思い出すことができる。 「将軍職を辞し、ギルドに関わってから同種の事件に関わるとは、の」 東堂の経歴を考えれば、超常の存在が関わっているのかと勘ぐりたくなるほど皮肉な展開だ。 とはいえ、今回は桜紋事件とは異なる展開になりそうだ。 反乱の主導者である東堂が、ぎりぎりの段階で退いてくれたからだ。 前回とは違い、今回は開拓者たちが自ら動いた。開拓者たちの行動が東堂の決意を翻した。 乱――あまりにも重い結末に至る流れを、彼らは確かに変えたのだ。東堂の協力が得られた今なら、流罪であると同時に保護でもある、八条島流罪という落としどころにもっていくことも可能だろう。 「後は1人でも多く島に送らねばな。無為な戦で命を落とすのは、もう止めにせねば」 古強者の嘆息は、穏やかな風に吹かれて消えていった。 ●予感 本気なのか。 後ろ手に障子を閉めると、柳生有希は厳しい表情で月を見上げた。 今し方、何度目かも分からない議論を交わして来た。 結局、いつもの調子でかわされてしまったが、有希としては納得など出来ようはずがない。 彼は、真田悠は優し過ぎる。 知的で、穏やかで、皆から慕われていた東堂俊一でさえも、あのような騒動を起こした。いわんや、乱暴者の森藍可などは‥‥。 息を吐き、こめかみを指で揉み解しながら自室に戻ろうとした有希は、小刀を引き抜き、闇に向かって投げつける。 「そこにいるのは分かっている。出て来い」 誰何の声に、繁みが揺れた。 「あ、あの」 姿を現したのは1人の少年。ある日、藍可が連れ帰って来て小姓にした子供だ。 「ここで何をしている」 鋭い有希の声に、彼は身を震わせた。 「何をしていると聞いている」 「寝‥‥転がって月を見てました。ここなら邪魔されないと思って」 一日中、藍可に連れ回されているのだ。1人になって息を抜きたい時もあるだろう。しかし、それとこれとは話が別だ。 「ほう? それで通るとでも思っているのか?」 冷たい声音に、少年は黙り込んだ。やがて、彼は何かを探すように周囲を見回し、落ちていた有希の小刀を拾い上げると、彼女に差し出す。 「‥‥だって、本当だから」 しばし少年の様子を窺っていた有希は、やがて手を伸ばすと小刀を受け取り、軽く顎をしゃくってみせた。 「行け」 踵を返して去りかけた少年は、ふと立ち止まり、有希を振り返った。 「柳生さんって」 僅かな逡巡の後、彼は口を開く。 「シノビ、なんですよね?」 好奇心を押さえ切れない子供の、無邪気な問い。 なのに、ぞくり、と体を駆けたのは何だったのか。 「‥‥別に珍しくも何ともないだろう。それより、さっさと行け。もう、ここには近づくなよ」 少年を追い払うと、有希は月に手を翳した。 じとりと湿った手のひらに、食い込んだ爪の痕が残る。 「なんだってんだ、いったい」 独りごちる声に、いつもの張りはなかった。 ●託す 「こんにちは」 おっとり笑顔で開拓者ギルドの戸を潜ったのは、櫻井誠士郎。 帳簿付けなどの裏方にまわる事が多いが、彼も歴とした浪志組の一員であり、そこそこの腕前の弓術士‥‥なのだそうだ。 「皆さんに少し無理をお願いさせて頂きたくて」 前置いて、彼は依頼料の入った巾着を受付台に乗せる。 「実はですね、ご存じの方も多いと思いますが、東堂さん達の処遇が決まりました」 淡々とした声で告げる彼に、開拓者達は視線を落とす。東堂は開拓者とも親交があった。そんな彼がしでかした事と、処遇とに心を痛めている者も多い。優しい、穏やかな人であったのだ。 「大伴様のご裁量により島流し、と。しかし、これに不服を唱える方がおられます。朝廷に恨みを抱く者を残せば、後々の禍根となる。ここで全てを断ち切るべきだ、と」 かつて、事件が起きた。 その事件の折、零れた滴が今の流れに繋がっている。 「けれど、真田さんはそうは考えない。救えるものなら救いたい、と。そこで意見がぶつかり合う。いずれ対立も生まれるでしょう。今は、仲間同士でいがみ合っている場合ではないのに‥‥です」 なんとはなく、誠士郎の言わんとしている事が見えて来た。 処断に不服を唱える者というのは、森藍可の事であろう。真田寄りの隊士と森寄りの隊士が、捕えられた東堂派の対応を巡って町中で言い争ったという話は彼らも聞いている。 「真田さんは、森さんと腹を割って話し合いたいと言っている。志を同じくして集った者同士、分かりあえると信じている。‥‥志を同じくした者が袂を分かっても、真田さんは信じる事を止めないのです」 誠士郎の顔に浮かんだ、苦笑ともつかぬ表情に、開拓者は互いを見合う。 「ですが、今のままでは平行線。皆さんには、真田さんと共に森さんを説得して頂きたい」 誠士郎の真剣な様子に、彼が、この依頼を如何に重要と考えているかが窺い知れた。 「森さんは一筋縄でいかない相手です。森さんも皆さんには一目置いているそうですし、皆さんは我々よりも彼女の性向をご存じでしょう。剛をもってか、柔をもってか、その手段も考えて下さい」 真田と共に、藍可を説得する。 その手段も託す、と。 誠士郎の言葉に、開拓者は考え込んだ。 藍可は乱暴者の噂が先に立つが、話は通じる相手だ。しかし、今回は彼女の主張を曲げさせなければならないのだ。並大抵の事ではない。 「本来ならば、真田さん本人が依頼に来るはずでした。けれど、今、彼は東堂派の処遇や各方面への働きかけで忙殺されています。代理を立てる事を、許して頂きたい」 深々と頭を下げた誠士郎に、口を開く者はなかった。 ●影 東堂の手蹟からなる書状を、藍可は無造作に文箱に投げ入れていた。 内容は、恐らく真田に届いたという文と同じだろう。 「真田は森を説得するらしい」 独り言のように呟けば、背後に伸びた影の中で気配が動く。 「分裂させるのでは?」 「そのつもりだった。だが、まだ浪志組がどのような組織になるのか、見極められない」 害となるならば壊す。その為の駒はある。 だが、害とならないならば‥‥。 「だが、一応の手は打っておけ。話の流れによっては真田の首でも、森の首でも取ってやれ」 是、と気配は闇に溶けた。 |
■参加者一覧
香椎 梓(ia0253)
19歳・男・志
霧崎 灯華(ia1054)
18歳・女・陰
海月弥生(ia5351)
27歳・女・弓
ケロリーナ(ib2037)
15歳・女・巫
叢雲 怜(ib5488)
10歳・男・砲
蓮 蒼馬(ib5707)
30歳・男・泰
玖雀(ib6816)
29歳・男・シ
ブリジット・オーティス(ib9549)
20歳・女・騎 |
■リプレイ本文 ●すれ違い 部屋の中は居心地の悪い沈黙が満ちていた。 森藍可は不機嫌そうに窓枠に肘をついて外を眺め、想いを熱く語っていた真田悠は言葉の継ぎ穂を失って黙り込む。浪志組内部での対立を解消せんと持たれた話し合いの場は、始まってから数時間が経過したが、ずっとこの繰り返しだ。 「少し、休憩をしませんか?」 茶器を乗せた盆を手に入って来たブリジット・オーティス(ib9549)が、気まずい空気を打ち払うように声をかけた。 真っ先に反応したのは真田。 彼も、この雰囲気を変えたかったのだろう。 「ありがたい。丁度、喉が渇いていたのだ」 「茶かよ。酒持って来いってんだ」 手元を見遣って肩を竦めた藍可に、ブリジットは笑みを向けた。 「今日は、ジャムを用意して来ました。天儀では、あまり馴染みのない飲み方だと思うのですが」 「じゃむ?」 怪訝そうに顔を見合わせた真田と藍可に、ブリジットの後ろからひょっこりと顔を出したケロリーナ(ib2037)が小瓶を掲げて見せる。 「ブリジットおねえさまが用意して来られましたの! 果物を煮て作る、甘くて美味しいものですの〜☆」 「ああ、あれか。しかし、じゃむとやらは何かに塗って食べるのではなかったか?」 興味を示した真田に、茶器に注いだ紅茶と小皿に取り分けたジャムとを差し出す。 「ジルベリアでの紅茶の飲み方のひとつです。ジャムを舐めながら飲んでみて下さい」 「こ、こうか?」 慣れぬ手つきでジャムを一掬いし、言われる通りに紅茶を飲んだ真田は、じいと見上げて来るケロリーナに笑いかけた。 「うまいな」 「ですの」 笑み交わす2人を微笑ましく見守っていた海月弥生(ia5351)は、興味無さげにそっぽを向く藍可の口元にも笑みが浮かんでいる事に気付いた。今は主義主張の違いから反目しているが、分かり合えないわけではないのだ。 けれど、と弥生は表情を曇らせる。 この話は真田と藍可、2人の感情だけで解決出来る問題ではない。 多くの者達の思惑が複雑に絡み合い、交差して、今の状況がある。 無視出来ない事情と、置かれた立場もある。 ――落としどころを、どこに置くか‥‥よね。 全てに納得して手打ちと出来るならば、どれ程良いだろう。しかし、それは難しい。双方が妥協出来る所を探さなければならない。その為の話し合いだ。 ――でも、難しいわ。近衛の件は安易に口には出せないし。 思案に暮れる弥生の前に、茶器が置かれた。 「考えてしまいますね、いろいろと」 そう言って苦笑した香椎梓(ia0253)に、弥生も軽く首を傾げて応える。 真田と藍可の会話には入らずにいたが、梓も現状を打破する糸口を探していた。東堂の一件は浪志組の屋台骨を揺るがせた。この上、真田派と森派で揉めるのは内部瓦解を招き、また近衛のような者に付け入る隙を与える事になる。そう説得するつもりでいた。だが、それは、彼らも分かっているはず。 だからこそ、こうして会談を持っているのだ。 「さて、どうしましょうかね」 「困ったわね」 やれやれと、弥生と梓はほぼ同時に息を吐き出したのだった。 ●覚悟 「どうした」 不意にかけられた声に、叢雲怜(ib5488)はのろと顔を上げた。いつにない様子に、玖雀(ib6816)は眉を寄せる。 「‥‥藍可姉は東堂を助ける人が多かったこと、どう考えているのかな‥‥って?」 「自分の事なのに、疑問か」 だって、と歯切れ悪く怜は抱え込んだ膝に顔を埋めた。 「俺だって、考えてるんだぜ‥‥」 らしくない呟きに、玖雀は怜の頭を軽く叩いて彼の隣に腰をおろす。 「今回の件についちゃあ、俺にも思う所がある。藍可の事は俺も知っている。東堂側にゃ俺の親友もいる。そして、真田も情の篤そうな男だ。いくら考えた所で結果は覆りゃしねぇが、まだ間に合う事もあるだろうし、これから歩み寄る事だって出来るだろう」 淡々と語る玖雀に、怜はもぞりと顔を上げた。 「ん‥‥、こんな事になったけど東堂には東堂の考えがあって、何か芯が通っていて、それが人を集めたと思うんだぜ。‥‥きっと、藍可姉も真田の兄ちゃんも。でも東堂は」 怜は力無く続けた。 「俺、東堂をやっつけられなかった。‥‥藍可姉に怒られるかな‥‥?」 仕方がないと言いたげに、くいと玖雀の口元が上がる。わしゃわしゃと怜の髪を掻き回し、澄ました顔で素っ気なく言い放つ。 「なら、さっさと言って来い。怒られるかどうかは知らねぇが、そういう事は早めに終わらせるに限る」 「‥‥っ、うん!」 玖雀の言葉に、思いきったように怜が頷いて立ち上がった。そのまま、藍可の元へと向かった怜を見送って、玖雀は茶器を取る。その顔に浮かぶ笑みは柔らかだ。 「あーあ、緊張しちゃって。可愛いわね」 どうやら話を聞いていたらしい。 それまで怜がいた場所に座った霧崎灯華(ia1054)がくすくすと笑う。 「ま、でも気持ちは分かるけど」 灯華の隣に立っていた蓮蒼馬(ib5707)も、勢い込んで藍可に話しかけている怜に優しい眼差しを向けた。 「藍可がどう応えるかは分からないが、‥‥どうしてだろう。あまり悪い結果が想像出来ない」 「藍可だもん」 「‥‥だな」 独り言のような呟きに応えた灯華と玖雀に、蒼馬は思わず声を上げて笑ってしまったのだった。 ●論議 覚悟を決めて、怜は藍可に声を掛けた。 怒られるのも怖いが、何より失望されるのが怖い。けれど、今はあの時、あの結果になった事は必然だと思える。東堂の為人を、彼を慕う者達の声を知ってしまったから。 「‥‥だから、ゴメンなさいなのだ。い、言い訳はしないの‥‥!」 腿の上にのせた手を握り締め、ぎゅうと目を瞑って叱られるのを待つ怜に、藍可は空になった茶器を盆に戻しながら問うた。 「わざと、そうなるように仕向けたのか?」 「違うのだ! でも、俺は藍可姉が言う通りには出来なか‥‥」 顔を上げて言い募った怜の耳に、大仰な溜息と押し殺した笑いが届く。片肘をついたまま苦笑いを浮かべるのは藍可、口元を押さえて笑っているのは真田だ。 「え、えーと?」 「故意じゃねぇんだろ? そりゃ成り行きってもんだ。ま、それを引きずって、情けない仕事振りを見せるなら、ぶっ飛ばしてやるところだが」 藍可と真田の間で困った顔をしている怜に助け舟を出したのは、蒼馬だった。 「なら、何も問題無しという事だな」 言いつつ、蒼馬は藍可の前に極辛純米酒の徳利を置く。 「土産だが、今は話し合いの最中だ。飲まんでくれよ」 もちろん、釘を刺す事も忘れない。 不満げな顔をした藍可に、誰かの面影が過ぎる。 「? 私の顔に何かついているか?」 「いや‥‥」 掴めそうで掴めない幻影にこめかみが痛むのを、軽く頭を振って払い、蒼馬は改めて藍可と真田を見た。 「俺は浪志組の隊士じゃないし、知人もいない。あんた達のいざこざに口を出す立場じゃないのかもしれない」 前置きした蒼馬に、真田が緩く首を振る。 「いや、構わん。関わりがない者からどう見えているのか、知りたい」 「そうか。なら、言わせて貰おう。あんた達が身内で喧嘩する分には勝手にやってくれと思う。だが、その結果、迷惑を被るのは民じゃないのか? それは、あんた達だって望んではいないだろう?」 小さく唸って、真田は腕を組んだ。何度も頷く所を見ると、彼も蒼馬の意見には感じる所が大きかったのだろう。 「東堂という男がしようとした事は、あんた達の志を穢すものだったのかもしれん。だが、だからと言って東堂に与した一族郎党まで処断を下す必要があるのか?」 蒼馬は1人の子供を思い出した。復讐を捨て、未来を選んだ子供だ。 「道を違えたら、縁者というだけで何も知らぬ子供にまで責を負わせるのか?」 「何も知らぬ子供も、そのうち大人になる。そいつらが、第二、第三の東堂とならないという保証はない」 きっぱり言い切った藍可に、蒼馬は言葉に詰まる。彼女の言う事にも一理あるだろう。‥‥あるのだが。 「‥‥ヴァイツァウの乱の当時、私は18でした」 それまで黙っていたブリジットが口を開く。胸元に添えた手を強く握った後、彼女はその場にいる者達を見回して語り始めた。 「乱の経緯をご存じの方も多いでしょう。誰が悪いとか、今、蒸し返す話ではありませんし、そんな単純な話ではなかったとも思います。皆、自分を、愛する者達を守る為に戦いました」 続けるブリジットの瞳には深い悲しみがあった。 「同じ志を抱きながら派閥を違え、殺し合う様は、もう見たくはありません。それに、東堂殿は逆徒かもしれませんが、無慈悲な鬼ではなかったように思います。今ならば、藍可殿も真田殿も、真なる彼の心を感じる事も出来るのではないでしょうか」 「東堂の事ァ、別にどうでもいいんだよ。あいつは、自分の志を貫いた。仲間の為に刀を下ろしたのも、あいつの意志だ。私が問題にしているのは「東堂派」だ。東堂を慕う者達が、再び騒動を起こしたらどうする? それこそ、今度は多くの民を巻き添えにする方法をとるかもしれない。だからこそ、ここで禍根を断つべきじゃねぇのか」 藍可に遮られて、ブリジットは目を伏せた。 室内に沈黙が落ちる。 それぞれがそれぞれの思いを胸にしながらも、口にする事が出来ず、何とはなしに黙り込んだまま、紅茶で一息つく前の空気が漂い始めた。 「そうですね」 その空気を断ち切ったのは、梓だった。 冷めた紅茶を一口含むと、にこやかな笑みを藍可に向ける。 「確かに、謀反を起こして五体満足でいられると勘違いされては困ります。見せしめとするなら、島流しだけでは温いですね」 ぎょっとしたのは、隣にいた弥生だ。 先ほど交わした会話では、梓も弥生と同じく真田と藍可が歩み寄れる妥協点を探しているようだった。それが、この発言である。 「香椎さん?」 袖を引けば、梓は真意の見えない、綺麗な笑みを見せた。 「二度と謀反を起こす者が出ないよう、万人の前で爪を剥がし、目を抉るのはどうでしょうか。手足を折り、‥‥ああ、去勢してしまっても良さそうです。そうすれば、後の憂いも減りますよね?」 「おい‥‥」 想像した玖雀と真田が、同時に身を震わせる。 だが、言い放った当の本人は涼しい顔だ。 「さて、どうしましょうか? 藍可さんが表立って動けないならば、私が嘆願して来ますが?」 さらに話を進める梓に、同意の声が上がった。 隅っこでジャムの味見をしていた灯華である。 「あたしは藍可側の人間だし、藍可が後顧の憂いを断つべきって言うなら、見せしめも厳罰もいいと思うわよ?」 「だがしかし‥‥」 真田の男らしい眉がハの字に下がる。 本気で困っているらしい彼に噴き出しかけて、灯華は慌ててそっぽを向いた。 「ねえ、このままじゃずっと話がまとまらないと思わない? いっそのこと、真田さんも島流しって処罰を決めた人にも消えて貰えばいいんじゃない?」 ざわりと場が揺れた。 咄嗟に身構えた者達を見遣って、灯華は無表情に室内を眺めている藍可に歩み寄った。背後に回り、両の手を彼女の首に絡める。 「ね、藍可? どうしよっか?」 藍可の耳元で囁く灯華の声が、やけにはっきりと響いた。 その声に誰かの息を呑む音が重なり、場の空気は一気に緊張を孕んだものとなった。 ●誤解と勘違い 「‥‥」 襖の前、中から漏れ聞こえる会話を、彼はただ静かに聞いていた。その表情からは、何の感情も読み取れない。 「‥‥‥‥えいっ!」 「わ? わーっ!?」 そんな彼に、抱えたカエルのぬいぐるみごと飛びついたケロリーナは、勢いのまま彼と一緒に倒れ込んだ。 「アイタタ‥‥。いきなり何をするんだよ!」 下敷きとなった彼ががなり立てる姿に、ケロリーナは首を傾げる。 この少年と、どこかで会った事があると思うのは気のせいだろうか? じーっと見つめるケロリーナと、憮然とした少年の視線が絡み合ったその時。 「何騒いでやが‥‥」 からりと襖を開けた玖雀が固まった。 血の気が引いた顔に、だらだらと冷や汗が滴る。 彼は、一体、どうしてそんなに驚いているのだろうか。 そんな疑問がケロリーナの頭に浮かぶより先、玖雀の手が少年の襟を掴む。 「お、お、お、お前‥‥! いつの間にそんな‥‥」 珍しい、動揺も顕わな玖雀の様子に、室内にいた仲間達も何事かと顔を出した。その気配を察して小さく咳払うと、玖雀は少年を更に近くへと引き寄せた。 「嫁入り前の娘に傷をつけた責任はきっちり取って貰うからな?」 「傷って何? 意味分かんないんだけど‥‥」 顔を近づけ、小声で脅しつけると、何故か背後で叫びが上がる。 「あ? なんだ? ‥‥まあ、いいか。確か、北斗だったな。後でじっくり話をするぞ」 またも響き渡る叫びと歓声。 その理由を知る事なく、玖雀は室内へと戻ったのであった。 ●手打ち 間に幾度かの休憩を挟んでなお、真田と藍可の話し合いは平行線を辿った。 梓や灯華の挑発めいた過激な提案も、「後の禍根は断つべし」という藍可の考えを変えるには至らず、ブリジットや蒼馬らの正攻法での説得も効を為さなかったのだ。 「これ以上、話しても時間の無駄だ」 立ち上がった藍可の前で、玖雀は畳に額が着くほどに頭を下げた。 「‥‥何の真似だ」 「‥‥頼む」 万感の思いが籠もった言葉。 足を止めた藍可に、弥生は真田を振り返る。この話し合いは藍可だけではなく、真田にも折れて貰わねばならない。 「真田さんも、どうか。裏が表に出る、その意味を、そこに込められた思いを理解して貰えないかしら?」 腕を組んで黙り込んでいた真田が、弥生の声に顔を上げる。 「互いに譲れない信念があるのは分かったわ。でも、このままじゃ浪志組も分裂しかねない」 「ええ。そうなった場合、また近衛のような者に付け入られるもしれませんね」 弥生と、彼女に相槌を打った梓の視線を受け、藍可と真田は互いを見交わした。 先に視線を外したのは藍可だった。 不承不承といった様子で息を吐き出して、彼女は言った。 「‥‥分かった。今はてめぇらの言葉に乗せられてやるさ」 ●風、向かう先 「森も真田も命拾いをしたな」 物陰に控えた男が、呟きに頭を下げる。それを一瞥すると、彼は鼻を鳴らした。 浪志組分裂の危機はひとまず回避されたと言ってもいいだろう。しかし、それはいつまで続くか分からない一時的なものだと彼は考えていた。 「裏が表に出る、か。面白い事を言う。‥‥真の裏は、決して表には出ぬものであるのにな」 複数の足音と共に、彼を呼ぶ声が近づいて来る。 一礼すると、何食わぬ顔で廊下を歩み去っていく男の後ろ姿を眺めつつ、彼は微かに口元を引き上げた。 「いいさ。浪志組の向かう先には僕も興味がある。今は楔を打ち込むに留めておこう」 |