|
■オープニング本文 文字通り、火急の事態である。雲輪円真は支度を済ませると、すぐに本堂の水稲院の下へと向かった。 外へ出ると、大勢の寺町の人間が屯している光景に出会った。避難してきたのであろう。 「おぉ、円真様だ……!」 住民の一人が声を上げると、他の者も一斉にどよめいた。 円真が大薙刀を担ぐ姿は、不動寺で有れば特に珍しい光景ではない。しかし、此処ではそうではない。 延石寺に来てからは体調を大きく崩して、寝込んでばかりいたのだから。 具足の立てる金属音が一つ鳴る度に、人々が道を開けてくれる。畏怖ではない、希望だ。 円真はやはり眉一つ動かさずに、前方の本堂の屋根を見上げた。 「漸く、火事が如何にかなるなぁ」 「あぁ、円真様や武僧派の僧兵なら一気に火を消してくれるさ」 そんな会話が円真の耳に届く。そして、彼は独りでに首を横に振る。 そうではない。そうではないのだ。円真がこうして出てきた事には、もっと別の理由が存在していたのだ。 火消しならば、元々延石寺に居た僧達が何とかしれくれるだろう。 確かに建物を壊して鎮火を図る事など造作も無い事だろう。しかし、それは円真達でなくとも出来る。 そもそも円真の出来る事と言えば、それを考えれば、円真の出てきた理由は何となく分かるものだった。 戦いである。 武僧派は説法派と違って、口の回る人間は少ない。腕っ節と信仰心のみが己の価値である。 だからこそ、説法派にはある種の尊敬の念が有る。 円真は自身の後ろに、何時の間にか続く部下達の姿を確認した。 無口で無愛想な自分にこうして信頼のおける部下が居るのは、有り難い事だった。 これも王や天輪宗の教え、そして何より部下達が敬虔であるお陰であろう。 円真は珍しく鼻で笑うと、延石寺本堂の戸をゆっくりと開けた。 「円真に御座います……」 その場に跪いて、顔を上げる。 視線の先には、一人の女性が静かに佇んでいた。高齢であるはずなのに、圧倒的な存在感だ。 まるで王の様な、下手をすればそれよりも。正に年の功と言うものなのだろうか。 「ご苦労です、円真」 水稲院は穏やかな様子で振向いて、円真に声を掛けた。 「少々、厄介な事になっております」 「はい……」 話は聞いている。少々、などではない事は分かっている。 円真は改めて水稲院の口から現状の説明を受ける。 「やはり此方の出方を窺っていた様ですね。この機を狙って攻め入って来るとは……」 「万紅は頭の回る奴の様ですね……」 動きの見えなかった斜名山脈のアヤカシ軍は、東房と北面からの同時攻撃に際して奇襲を仕掛けてきたのだ。 それもある程度戦力の揃っている北面側ではなく、疲弊している東房側を。 同時攻撃に出た此方の戦力の任務達成率はどれ程のものなのか。それは分からない。 何故ならば―― 水稲院が目の前に差し出した伝令書が、伝令役の顛末を物語っている。 血に塗れたそれを円真は一瞥すると、そこで今日初めて表情を濁らせた。 「恐らく、頂を目指した者達が此方の事態に気付き、戻ってきたとしても」 「……それを待てる程に、敵は甘くない……」 暫しの間、静寂が訪れ、円真は堂内の空気がひやりと冷えた心地に陥った。 「至急、残った部下と開拓者を集めます……火の方は――」 「既に手は打ってあります。信じましょう」 流石だ。円真は力強く頷くと、大薙刀を再び握り締めて、さっと立ち上がる。 「この雲輪円真……見事、延石寺を護り切ってみせましょう……」 ちりちりと鳴るは雷の精霊か。それとも円真の覇気か。どちらにしろ、実に頼もしい。 水稲院は堂内から出ていく円真の後姿を眺めて、静かに手を合わせるのであった。 それは帰還の祈り。誰一人欠ける事なく、再び延石寺に戻ってくる為の祈りだった。 そうして万紅は延石寺を襲い、開拓者や僧兵の身体を射抜き続けた。 人間にしては良くやっている。しかし、黒狼天狗の自分が人間に負ける訳がない。 何と言っても、あちらは戦力を裂いている状態だ。此方は万全だ。 何が有ったとしても負ける訳のない、勝ち戦だ―― そうは思っていたのだが。 僧兵達が雑魚を押さえ込み、開拓者と呼ばれる存在が向かって来ている。 僧兵の中に、少しばかり骨の有る人間が居るらしい。一部では完全に押されている。 では、迫る開拓者達は如何なのだろうか。もしかすれば、アレよりも強いのだろうか。 万紅は特別、戦いを好む性格ではなかった。淡々とそれをこなすだけ。仕事に近い。 無駄を省き、労力を少なく、人間を喰らい、そして何時の間にか人間を死に至らしめる。 自身を生み出した存在の考え方が影響しているとでも言うのだろうか。 しかし、そんな万紅でもすらも、この状況下では打ち震えるものが有った。 何時か、何処ぞの屋敷で開拓者を何人か射止めた。しかし、あの時は奇襲に近い仕掛けだった。 今度は違う。下手をすれば、正面から叩き潰し合う事になるのかもしれない。 アヤカシとしての本能。黒狼としての本能。喚起される本能。 雄叫びを上げて、狂喜したい衝動を抑えて、万紅はきしきしと音を立てて弓の弦を引く。 (「さて、何射で仕留められるか」) 無言のまま、顎で近くに控えていたアヤカシに指示を出す。 己と同じ黒い狼の天狗と、鳶の様な羽を持った天狗が開拓者達の居る方に向かって飛び出していく。 避けられるものならば、避けてみれば良い。 何処かで鳥が鳴いた。 「梓弓 万の紅咲く 死出の道 引くつる音の 心地良きかな」 低く枯れた声で呟くと、万紅は来るべき邂逅に備えた。 |
■参加者一覧
万木・朱璃(ia0029)
23歳・女・巫
北條 黯羽(ia0072)
25歳・女・陰
紬 柳斎(ia1231)
27歳・女・サ
ルオウ(ia2445)
14歳・男・サ
海月弥生(ia5351)
27歳・女・弓
雲母(ia6295)
20歳・女・陰
琥龍 蒼羅(ib0214)
18歳・男・シ
ジークリンデ(ib0258)
20歳・女・魔
フィン・ファルスト(ib0979)
19歳・女・騎
破軍(ib8103)
19歳・男・サ |
■リプレイ本文 カツーン、と小気味の良い音がして、魔の森に自生する樹木に矢が刺さる。 矢は見る内に溶けて、樹木の中に入り込んでしまった様だ。 瘴気を強く帯びているに違いない樹木ですら、枯れ果ててしまっている。 ルオウ(ia2445)は少々焦った様に声を上げた。 「未だ見えてねぇのに!?」 乱立した木々は、視界をハッキリとさせてくれない。進軍も遅くなる。 それでも万紅は此方を射ぬかんとし、矢を放ってきたのだ。 遠吠えが近付いてきているが、これは恐らく万紅の手下のものであろう。 雲母(ia6295)の言う「森林戦」を万紅が理解しているのならば、アレは悪手だ。 いや、それも万紅の作戦の内であれば、面倒な事であった。 ルオウと琥龍 蒼羅(ib0214)から少し離れた位置に、数人の影。 その中の一つ、フィン・ファルスト(ib0979)は並々ならぬ気迫で拳を握り締めた。 万紅。あの黒狼天狗には忘れえぬ貸しが有る。 それを思うと、彼女の肩にはより一層、強い力が込められるのであった。 木に背中を預け、破軍(ib8103)は事も無げに呟く。 「空き巣まがいとは、随分と手癖の悪い連中だ……」 それのお仕置きと称して、僅かに口元を歪める。 どうやら楽しんでいる様だ、と北條 黯羽(ia0072)は肩を竦めた。 腕が鳴るか鳴らないかでは、それは鳴るだろう。が、その理由は違う。 そんな黯羽の鼻に焦げた臭いが届く。 一息吐く前に、前を行く紬 柳斎(ia1231)の声が突き刺さる。 「上だっ!!」 その声に導かれて上方を向けば、僅かに覗く空には大きな鳶の翼を広げた飛鎌の姿。 咄嗟に機転の利いた柳斎が雄叫びを上げて飛鎌の注意を引きつける。 この木の葉天狗は、術式の得意な奴のはずだ。地味に厄介な印象を植え付けられる。 後衛に位置する仲間に攻撃が及んでは拙いのだから。 特に万木・朱璃(ia0029)の解毒は万紅の矢の事を考えれば、かなり重要なものだ。 そう考えて、柳斎は飛鎌と対峙したのだが―― 「お下がりください!」 何処からともなく、いや、朱璃と同じ後の方から品の有る声が響いてきた。 それと同時に、柳斎は勿論、フィンや破軍も前線から退いていく。 その様子を見て、飛鎌が雷の術式を解放しようとする。 が、声の主であるジークリンデ(ib0258)の方が幾分か早かった。 前方の飛鎌、そして七枝の頭上に高速で飛来する炎弾の姿が現れた。 次の瞬間には、飛鎌も七枝も魔の森もろとも炎に飲み込まれてしまう。 これで瘴気の源を断ち、視界の確保、魔の森の一部を焼く事は出来た。 それでも、煙が晴れていく中、飛鎌と七枝の姿は未だに崩れていなかった。 更に言えば、万紅の気配は微塵も其処には無い。 ジークリンデは乾いた泥を身体から払い、今更自身のニオイを消す事を諦めた。 彼女は万紅がどうして此方の位置を有る程度把握出来ているか、理解していたのだ。 狼とも言えば、鼻の利く相手ではないか。風も操れるのだから、余計にそうだろう。 そして、そんな彼女の推測は見事に当たっていたのだ。 しかし、万紅を引き摺り出せなければ意味は無い。 ジークリンデは一人渋い顔をしたのだった。 気合を吐いて、フィンと七枝は潰し合った。 剣と旋棍が触れるや否や、火花を散らして、お互いの身体を弾く。 七枝はそのニオイを感じ取っていた。いわゆる、強者のニオイだ。 フィンだけではない。迫り来る人間も、同じ様に強者である事は間違い無い。 開拓者達にとっての向かい風がその向きを変える。 雲母が、同行していた海月弥生(ia5351)に小さく声を掛ける。 「まぁ、随分とさっぱりしてしまった訳だが……急ぐにも急げんな」 「えぇ。先ずは、相手の所在を知らねばいけませんしね」 風向きは確かに変わったが、流れは奥の方から続いている事は間違い無い。 となれば、後はもう少し詳細な位置を知る必要が有る。 「こっちは弓術に長けた人間が二人だ。然程難しい事じゃないさ」 それに雲母はいつもの通りではない。煙管も無ければ、眼帯も無い。 肌にひり付く感覚は、彼女が本気であるという事を示していた。 弥生は無言のまま頷くと、戦況の推移を見守る事に徹した。 劈く様な雷鳴と白い雷光が瞬き、それはフィンと破軍を襲った。 数では此方の方が上回っているし、個別の強さも差が有る訳ではない。 しかし、それでも押し切れないのは、この二体の連携と万紅の矢の所為であった。 動きの止まった破軍に変わって、柳斎が白刃を閃かせて前に出る。 七枝と鍔迫り合いを演じ、そして後に控えた朱璃に合図を送る。 「さぁ、一歩も退けませんよ!」 朱璃はその言葉と共に、癒しの光を仲間に振り撒く。 そして、黯羽は突如として前方に結界式による壁、黒を展開させる。 「ハッ、そりゃ通さねぇよ」 何事かと思えば、万紅の放った矢が黒に刺さり、大きな皹を入れている。 恐らく標的は七枝と膠着している柳斎。 それを先に読んで、何とか視界に矢を収める事が出来たのだった。 鳶の様な鳴き声を発し、飛鎌がもう一度雷撃を落とす。 ジークリンデが目の前に広がった雷の網目を縫う様にして、氷の槍を飛ばす。 お互い、直撃ではなかったにしろ、開拓者達の方には充分な結果が得られた。 飛鎌が勢い余って、高度を落としたのだ。 その好機に地面を蹴って大跳躍を見せたのは、焼け残った草葉から飛び出した蒼羅だった。 飛鎌はすかさず迎撃しようとするも、それが蒼羅に届く事はなかった。 「俺はサムライのルオウ! 待ってやがれ、すぐに白狼天狗の所に送ってやるぜぃ!」 その名乗りに、飛鎌の注意が逸れたのだ。 大きく反りの入った野太刀で、上から下へと描かれた斬線は、綺麗な直線で飛鎌の翼を切り取った。 そのまま身体を捻らせて、飛鎌は大鎌による反撃を試みるが、未だ優位は開拓者。 宙空を疾走した黯羽の式の刃により、鎌が弾かれてしまった。 七枝はその状況を理解したのか、柳斎を無理矢理引き剥がして飛鎌の横まで退く。 柳斎と破軍は追撃を試みたが、万紅の矢がそうはさせまいと行く手に幾つも刺さる。 追撃が届かないと知って、七枝は自らに強化の術を施す。 焦れた空気が漂い始める中、火蓋を切ったのはやはり万紅の矢だった。 狙いは朱璃。 開拓者や壁の間隙を縫い、文字通り常軌を逸した射線だ。 「畜生めが」 悪態を吐くと黯羽は、崩れた朱璃の下へと駆けた。 「だ、大丈夫」 左の首筋を掠っただけだった。霊衣には鮮血が滲んでいる。 朱璃は己の左腕の感覚を確かめて、改めて驚嘆する。 傷は大した事はないが、やはり厄介なのは毒。 解毒をしながら立ち上がって、黯羽と共に戦列に復帰する。 朱璃が戻るや否や、万紅の矢が彼女目掛けて飛んでくるが、二度も同じ手は食えない。 フィンはその線上に立ちはだかると、その拍を読む。 一つ、二つ。三つ目を数え切る直前にフィンは楯を薙いだ。 何とか上手く捌けた様だった。 「貴様に用は無い……消えろ……」 物静かな口調とは裏腹に苛烈な攻撃を仕掛けていた破軍が、剣を振り上げる。 そして、地面に叩きつける様に振り下ろすと、豪快な音を立てて衝撃波が飛ぶ。 行こう。フィンは、もう一度最前線へと飛び込まんとしていた。 「私の方で確認出来ました。丑寅の方角……充分な間合いです」 弥生の一言に雲母は頷いた。 「器用な真似はしているが、結局射点は一つだ」 雲母の言う器用な真似とは、風に依る精度の向上ではない。 「まさか矢羽を少し千切って、あえて不安定な飛び方にするとは……」 面白い。そうでなくては、この覇王が本気になる意味は無い。 弓を使う者としての矜持も無い。 「ニオイも風上に立っているお陰で流れて居ないはずです」 頷き合って、音を立てずに位置に着く。 雲母に至っては、月隠の効力で気配は完全に殺せている。 二人はきりと音を立たせて弦を引く。深く、ゆっくりと。 「私は撃たれるより、撃つ方が好きだからな」 そう言うと、雲母は張った弦を静かに離したのであった。 そして、明らかな変化が有った。矢が飛んでこなくなったのだ。 飛鎌と七枝は少々狼狽した様子だったが、開拓者達は当然の如く合点した。 雲母と弥生だ。彼女達が奇襲を成功させたのだ。 よし、と拳を握るとルオウは、既に駆け出していた柳斎の後を追った。 飛鎌は大きく鎌を振り被って、柳斎の脳天を目掛けて切っ先を奔らせる。 柳斎はそれに刀を合わせ、身体を反転させながら、刀身を鎌の柄をなぞる様に滑らせる。 そうして、飛鎌の後方右奥に一歩踏み出し、刀を一閃する。 柳生の太刀の一つ、無明剣。 それが飛鎌の腹を切り裂いたのだ。 「うおぉぉぉぉ!!」 飛鎌は反射的に鎌を楯にしようとしたが、それも叶わない。 示現流の極意、必殺。鎌が蹴り上げられ、ルオウはそのまま全力で刀を振るう。 呆気無いものだった。飛鎌は事切れて霧散してしまった。 七枝はフィンの隙を衝いて、後衛の下へと走っていたのだ。 「所詮、獣……」 罠を仕掛けられた、という考えはなかった様である。 ジークリンデが呆れた様に笑うと、七枝はその区域を侵した事に初めて気付く。 猛烈な吹雪がその身体を襲い、狼の天狗と言えどもどんどんと体温を奪われていく。 そして、前方、静かに佇んだ蒼羅を見つけて吼えた。 既に万紅からの援護は無く、飛鎌も死んだ。己の本能のみが原動力。 七枝は躊躇い無く跳んだ。 その刹那を見切った蒼羅にとっては、格好の的であった事は間違い無い。 凄まじい速さで抜き打つと、振り返りすらしなかった。 地面に落ちて痙攣する七枝に破軍が止めの一撃を突き刺す。 練力が弾けて、瘴気と共に消え去る中、黯羽は手を叩いて言った。 「お見事」 二人の男は愛想無く、また前を向く。そして、その光景を目の当たりにした。 薄く白味を帯びた風が壁の如く迫って来たのだ。木々の端々を、小石を巻き上げて。 黯羽の造った壁も悉く駄目になっていく。 「――まさかっ!? 雲母さんと弥生さんは!?」 朱璃は焦った様に声を荒げたが返る答えはなかったのだから。 一瞬にして、開拓者達は風に呑まれる事となり、最悪の一手が打たれたのだ。 「紅と咲くのは貴様等の血肉……花と散るのは貴様等の命……」 その身体には深く突き刺さった矢が数本見えるが、致命傷とはなっていないらしい。 万紅は、強風に耐える様に地面に刀を刺す柳斎、蒼羅、フィンに目を付けた。 軽く、そして素早く矢を一つずつ放っていく。 「姉上っ!!」 黯羽の叫びも虚しく、瘴気の矢は柳斎の左胸に刺さった。 血を吐く柳斎は、電撃に撃たれたかの様に身体を跳ねさせる。 そして、同じ様に蒼羅も地面に伏す事となった。膝を射抜かれたのだ。 舌打ちをすると、強風の中で破軍は蒼羅の前に立ち、剣を構える。 柳斎の方はルオウが何とかしてくれるだろう。 そして、フィン。彼女も同様に矢の餌食になったはずだったのだが―― 「燃えろ、あたしの魂……鬼神の如く!」 フィンは猛った。運良く致命傷を逃れ、かつ上手く気力を練り上げられた。 毒は回りきっていない。ならば、後は突撃するのみ。 その機微を察したのか、仲間達が一斉に動き出した。 弥生は嫌な感覚の中に沈んでいた。 この毒の腹の立つ所は、痛覚だけは麻痺しない所だ。 本当に厄介な相手だと思った。 あの時、確かに奇襲は成功し、味方が配下のアヤカシを葬る援護にはなった。 それに自身と雲母の矢は深く万紅に刺さり、成功以上のものを齎したはずだ。 しかし、少しばかり自身の想像を上回るものが有ったのだ。 そして、脇腹に風穴を開けられた。それだけの事だ。 (「あぁ、万紅。覚悟は決まりましたか?」) 寝かしつけてくれた時、雲母の目に宿っていたのは烈火ではなく、絶氷。 あの気配は、正に覇道を行く者。 そう思い、弥生は暫し意識を失う事にした。 迫り来るフィン。そしてルオウ、破軍。 飛び交う氷の槍。混沌の使い魔の黒き声や精霊砲の輝き。 それらは全て万紅に向けられたもので、明らかに押されているのは万紅の方だ。 万紅は先程受けた矢の射手を思い出す。どちらも女だったが、素晴らしい腕だった。 まさか、自身がこれ程までに消耗しているとは思わなかったのだ。 「うおぉぉぉぉぉ……!」 フィンの掛け声に反応して、矢を射る。 その間に割って入ったのは破軍。 剣で切り払って、少しでも前進しようとする魂胆なのだろうか。 破軍の剣は、矢を捉えてその切っ先から斬り裂いた。 しかし、二つに割れた矢は勢いそのままに破軍の身体に吸い込まれてしまった。 風の術で操作し、無理矢理突き刺したのだ。 ズブズブと音が聞こえてきそうなくらいに、嫌な入り方をする瘴気の矢。 破軍はすぐに悟った。これは拙い、と。 「破軍さん!」 すると朱璃の声が聞こえて、目の前には黒壁が現れる。 「今、解毒します!」 そして、途切れる瞬間の景色にはルオウが果敢に飛び込む姿が見えていた。 「もらっっったぁ!!!」 腕を蹴り上げられ、肩口に食い込んでくる感触に、万紅は危機を感じた。 ルオウを逆に蹴り返し、深手を避ける事に成功した。 そして、気付く。目の前一杯に広がっていたのは氷の槍や矢、刃だ。 当然、万紅と言えども、避けきれるはずもなく―― 左腕を駄目にした。 そして、鼻を抓みたくなる様な腐臭が足元から湧いた。 何と言えば良いのか分からない存在が、己の足を食らっているではないか。 既に本能任せで動いていた万紅は、フィンの行方を追う事は念頭に無くなっていた。 自身が後から羽交い絞めにされて、彼女の存在を再認識したのだった。 「離す……もんかぁ!」 風の術だ。強風でこの小娘を吹き飛ばして、あの赤毛の小僧も転がす。 そうすれば―― 「私を忘れてもらっては困るんだよ」 その一言は万紅の耳にだけ届いた。 そして、次の瞬間には万紅の頭が弾かれた様に跳ねた。 パラパラと欠片を落とし、割れる黒狼の面。 左眼の視覚が無い。有るのは痛覚のみ。まさか―― そう思った所で、万紅はフィンを風で引き剥がし、そして大きく後に退いた。 そして、開拓者を睨む様にして眺めた。 後の方で弓を構えて、激烈な気を発している雲母も捉えた。 殺して終わらせるか、殺されて終わらせられるのか。 万紅はどちらも選ばなかった。 本能の告げるまま、竜巻を巻き起こして開拓者の視界を奪った。 そして、竜巻が晴れた後に万紅の姿は無かった。 「追いますか?」 「いや……止めておこう……」 朱璃に問い掛けられて、雲母は首を横に振った。 万紅は撃退したのだ。今はそれで充分だ。 「それよりも、海月の治療を頼みたい」 朱璃は少し疲れた様子で頷いて、雲母と共に弥生の下へと向かったのだった。 |