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■オープニング本文 とげつあん、という名の甘味処がある。 兎月庵と表記するこの店は、その屋号の通り亭主が搗く餅の美味さに定評がある店である。 亭主は頑固者の職人肌、女将は砕けた気立て良し。 夫婦二人三脚で営んでおり、人手が欲しい際にはギルドを通して開拓者達に手伝いを頼む事もあった。 ●兎月庵の柏餅 神楽は開拓者ギルド。 すっかり顔馴染みになった兎月庵の女将に茶を出して、梨佳(iz0052)は「ありがとうございます」礼を言った。 「お花見会場でお話しした開拓者さん達、皆さんにお配りしてるんですよ〜」 梨佳は花見会場の入口付近で兎月庵の白大福を配っている。その白大福は開拓者達の花見の供にと職員有志が発注したものだ。 こちらこそ、ご贔屓にありがとうございますと女将のお葛は微笑んで、見習い職員が出した茶を一口啜った。 「じゃあ今日は、この美味しいお茶に合うお土産をどうぞ」 「お葛さん、またそんな気を遣わなくても‥‥」 女将の向かいで湯呑みに手を付けていた担当職員の桂夏が恐縮して言うと、お葛は「試食は必要よね」軽く笑って梨佳に湯呑みをもうひとつ頼んだ。 「梨佳ちゃんも食べるでしょう? 柏餅」 結局いつものように女三人が甘味を囲む。試食というからには新作かと思いきや、兎月庵で毎年出している柏餅だ。 「白と蓬、中の餡子は漉し餡ですね〜」 どちらを食べようか迷っている梨佳の前に両方置いてやって、お葛は桂夏に本題を切り出した。 「この柏餅を作るお手伝いを、開拓者さん達にお願いしたいの」 兎月庵では繁忙期になると開拓者に手伝いを頼む事がある。 志体持ちでなくともできる仕事だが、開拓者としての技量を問われない駆け出しから熟練者までできる日雇い仕事として、手の空いている者が小銭稼ぎに働いている。 当然ながら、日雇い労働者に店の商品を全て任せる事はない。店頭で一個二百文で販売される『兎月庵の柏餅』は、一定の品質を保つように作られる。 開拓者が手を出せるのは力仕事や雑事で、言うまでもなく味や形の改変は認められない。要所要所で亭主の平吉がきちんと確認するし、商品にならないものは販売されないのだが―― 「でも‥‥厨房で失敗作を食べるのは遠慮してね? うちの人、作業中のつまみ食いを凄く嫌いますから」 頑固亭主が追い出し兼ねないので、隠れてでも意地汚い真似はしない方がいい。 尤も、ギルドとしても遊びで仕事を斡旋しているのではないから、平吉の対応は至極当然だと女将に返した。これはギルド斡旋の歴とした仕事、ご近所や親戚の家での餅搗き大会ではないのだから、お遊び感覚で臨まれては困る。 その他諸々、桂夏に募集要項を伝えて、お葛は兎月庵へ戻って行った。 ●日雇いの仕事 お葛が依頼を残してから暫く後の事―― ギルドの掲示を仏頂面で眺めている獣人がいた。吾庸(iz0205)である。 「接客か‥‥いや、厨房なら接客せずに済むか」 独りごちて応募手続に向かう。 月々の仕送りの上に、神楽に暮らすと何かと物入りで敵わぬ。常時赤貧の出稼ぎ開拓者は無愛想な顔のまま、職員の説明に耳を傾けた。 「はい、兎月庵さんの日雇いですね。店頭販売の接客担当もありますが‥‥厨房希望、と」 応対に出た職員が、一々確認しながら書類を作成してゆく。 この時期、製造と同時に接客も人手が欲しいそうですよなどと言われたが、とんでもない。とても愛想なんぞ振り撒ける気がしない。 「服装は各自持参です。割烹着等も用意されませんから自前でお願いします。それから‥‥」 各種注意点を一通り聞かされて、吾庸は日給の当てを確保したのだった。 |
■参加者一覧 / 鈴梅雛(ia0116) / ヘラルディア(ia0397) / 奈々月纏(ia0456) / 柚乃(ia0638) / 秋霜夜(ia0979) / 奈々月琉央(ia1012) / 礼野 真夢紀(ia1144) / 巴 渓(ia1334) / 月酌 幻鬼(ia4931) / 海神・閃(ia5305) / からす(ia6525) / 和奏(ia8807) / リエット・ネーヴ(ia8814) / 村雨 紫狼(ia9073) / フラウ・ノート(ib0009) / エルディン・バウアー(ib0066) / 御陰 桜(ib0271) / 明王院 未楡(ib0349) / ワイズ・ナルター(ib0991) / 无(ib1198) / 朱華(ib1944) / 白藤(ib2527) / リア・コーンウォール(ib2667) / 寿々丸(ib3788) / 常磐(ib3792) / ティアラ(ib3826) / 紅雅(ib4326) / 緋姫(ib4327) / シータル・ラートリー(ib4533) / 一 千草(ib4564) / 神支那 灰桜(ib5226) / 神座真紀(ib6579) / 神座早紀(ib6735) / 神座亜紀(ib6736) / エルレーン(ib7455) / ラグナ・グラウシード(ib8459) / 音羽屋 烏水(ib9423) / 夢尽(ib9427) / 直樹 元就(ib9516) |
■リプレイ本文 ●午月の餅屋 節句ごとに賑わいを見せる兎月庵。 今日も開拓者達の手伝いによって滞りなく営業中だ。 「いらっしゃいませぇ〜♪ 兎月庵へようこそじぇ!」 独特の口調で客を出迎えるリエット・ネーヴ(ia8814)に迎えられ、海神・閃(ia5305)は甘味処の暖簾を潜った。表庭の見える場所に案内して貰い、柏餅を注文すると苦笑して付け加える。 「久しく食べてなかったせいか甘味に飢えていて」 修行に出向いた後、暫く籠もっていただけに街の甘味が懐かしい。花見会場で貰った白餅も美味しかったですと言うと、小さな従業員は満面の笑みで応えた。 「沢山食べなだじぇ? お茶飲んで待っていてねぅ」 ことりと湯呑みを置いて注文を伝えに消える。 久々の景色を、閃がのんびりと堪能していると、通りの向こうから梨佳が来る。手を振って呼び寄せて、一緒にどうかと誘えば喜んで隣に座った。 「お待たせだじぇ♪ あ、梨佳ねーも来たんだじぇ?」 「ども、こんにちはですー」 「沢山注文したから、良かったら梨佳ちゃんもどうぞ」 「わーい、ありがとです〜♪」 遠慮しない梨佳を交えて暫しまったり。何気にリエットも会話に混じっていたりするのを、フラウ・ノート(ib0009)が接客の合間に監視していたりする。 「お待たせいたしました。柏餅と三食団子のお客様」 笑顔で甘味を給仕して、フラウはさりげなくリエットの動向に目を向けた。 笑顔で応対している。きゃっきゃしているように見えなくもないが、愛想の範囲かも? 「すみません、只今混雑していまして、お茶を飲んで一息ついていてください。どーぞ♪」 店頭で順番待ちをしている客へ、お茶のサービスなどして、再びリエットへ目を向ける。 梨佳ときゃいきゃいしている。明るい店員さんだ――が、混んで来た事でもあるし、そろそろ回収した方が良さそうだ。 「ほれ。こんな所で油売ってないで、仕事する仕事!」 適度な所で回収開始。 猫よろしくリエット首根っこを掴んだフラウは、梨佳達に苦笑して言った。 「‥‥ごめんね。また後で♪」 繁忙期ごとに開拓者ギルドへ手伝いを頼む兎月庵は、開拓者達とも縁が深い。 既に年単位で手伝いを続けている顔馴染みから、初めて手伝いに訪れた者まで様々だ。 (真面目に、格好良く手際良く働く処を見せ付るよ〜) メイド服にヘッドドレス、ジルベリア製の靴はクラシックなデザイン。 古式ゆかしいメイドさんが其処にいた。ワイズ・ナルター(ib0991)だ。今回、兎月庵では制服を用意していなかったから、服装は個々の判断に任されていた。 「お、メードさんか〜」 案内してくれた妙齢の職業婦人に、村雨 紫狼(ia9073)が敬意を表す。頑張れよと奥へ下がる同業者に声掛けて、厨房の奥に消えた黒い影に眉を顰めた。 「あの野郎〜俺の顔見たら奥に逃げやがったな!」 折角弄ってやろうと思っていたのに、あのケモミミマン! ほどなく戻って来たワイズから茶菓子を受け取った紫狼、今度は辺りを見渡した。 「どうされましたか、お客様?」 接客の基本、あくまで笑顔を崩さずにワイズが挙動不審な紫狼へ問うと、紫狼は「いやさ」油断できないんだと苦笑した。 「俺って妙に狙われるからなー トラブルに」 「それはお気の毒に」 すちゃ、と音がしたのは気のせいだ、間違いなく気のせいだ。 目の前に現れたメイド服のからす(ia6525)の言葉にあらぬ幻聴を聞いた紫狼は、これまでの災難の数々を思い出して冷汗掻くと、店内を見渡した。 爽やかな甘い声がする。 「心と体に甘いご褒美、兎月庵の柏餅いかがですかー?」 御婦人方の足を止める魅惑の声に輝く笑顔、教会神父のエルディン・バウアー(ib0066)だ。自慢の聖職者スマイルは此処でも十二分に効果を発揮して、次々と女性客を集めている。 「さあ、ガンガン稼ぎましょうね! 神父さ‥‥ま!?」 教会助祭のティアラ(ib3826)がエルディンに振り返った時には、既に御婦人方に囲まれた神父様の図が出来上がっていた。 神父様が鼻の下を伸ばしている――ようにしか見えない。 「だ、ダメです。今は我慢するのですティアラ」 ティアラは前掛けが皺になるほど握り締めた。 あのナンパ神父を蹴り飛ばしてやりたい、神の御名の下に聖なる鉄槌を! とは思ったが、ここは店先で今は日雇い労働中。 「そう神父様だってアレはナンパに見えるけど、いえそうにしか見えませんけど‥‥‥‥きっと真面目に接客しているだけですニャ」 我慢し過ぎて語尾が変わった。 そんなティアラの葛藤を知ってか知らずか、エルディンのセールストークはますます好調だ。 「お疲れ気味の貴女、ここで一服、ご自身へご褒美してあげませんか? 日々お疲れ様です、いえいえそんな貴女にこそ相応しい‥‥」 きらきらり。 神父が振り撒く笑顔の数だけ助祭の心労が増えてゆく、そこへ。 「「そこまで」」 二箇所から声が飛んだ。 その声の主は――喫茶席に座っていたアル=カマル装束の客? 「霜夜さん?」 「え? 霜夜って誰? 私は旅の人ですよ?」 ほら、とアル=カマルの衣装をひらひらさせる秋霜夜(ia0979)。 聞いた事のある声、何処から如何見ても霜夜なのだがエルディンは知らぬ振りを決め込んだ。そこへ、ティアラの蹴りが飛ばない内にと、からすのフォローが飛ぶ。 「エルディン殿、向こうをお願い」 「あ、はいはい。では皆さん、ごゆっくり‥‥」 最後に極めつけの笑顔を御婦人方にサービスすると、エルディンはそそくさ店内に入って行った。ティアラの猫耳が横に寝ている――危ない所だった。 事なきをえた状況に一安心する異儀の客人、もとい霜夜。 (お菓子処は四季折々に働く機会がありますから‥‥) 教会の家計はいつも火の車、働き口を失わずに済んで、お目付け役は安堵の溜息を漏らしたのだった。 ●兄姉と弟達 買い物済ませた帰り道、兎月庵での一休み。 「荷物持ちしてやったんだから、当然だろうが。柏餅五個頼む」 「ちょっ、朱華、頼みすぎな気がするよ‥‥!?」 席に着き、お品書きを眺める朱華(ib1944)の声音が本気だ。買い出し荷を脇に置き、白藤(ib2527)は顔を引き攣らせて――次ににっこりした。 「兄様、いらっしゃいませですぞ!」 「――‥‥‥‥いらっしゃいませ。注文は何だ?」 可愛い二人連れの給仕達。それぞれの弟達とその親友がしっかり働いているのを目にして、兄や姉の行動は一様に甘かった。 「ちゃんとやってるか?」 寿々丸(ib3788)の頭を撫でる朱華、そして白藤も微笑して義弟の頭を撫でてやる。 「常磐、頑張ってるねぇ。偉い偉い」 「――っ!! 撫でるな! ここは、店内だぞ!!」 常磐(ib3792)の頬がほんのり赤い。照れているが、指摘すれば否定するに違いない。 そんな親友の動揺を他所に、寿々丸は元気に御用聞きを始めた。 「兄様は柏餅を五個でございまするな? 白藤様は如何程?」 今日は柏餅が特別美味しい、お勧めだと言われれば、つい三個ほど注文してしまう白藤だ。 「柏餅持って来たぞ」 ほどなく常盤が運んで来た柏餅、当然ながら二個多く注文した朱華の方が量が多い。 (朱華から一個奪えば四個ずつよね‥‥) 「ちょっと待て。何だこの手は」 「一個くらい良いでしょ‥‥!」 伸ばした手を朱華に掴まれて白藤は抵抗した。 が、急に朱華を意識してしまって手が止まる。傍目に恋人同士に見えていたらどうしよう。 (私だって出費したばかりなのに‥‥) ――あ、目の前が霞んできた。 急にしおらしくなった白藤に動揺する男達。 「‥‥お前、その涙は食い気と財布のどっちだ」 「両方に決まってるでしょう‥‥」 五個分の代金を受け取って、寿々丸は兄に一言。 「兄様、女子には優しくするものでございまするよ?」 「余計な事言うと、家いれないぞ」 養弟の一言をあっさり返り討ちにして、お茶が冷めない内に柏葉を剥き始める。義弟に甘々の白藤は常盤の袖を軽く引いて潤む瞳のまま見つめ。 「常盤、夕食までには帰って来てね‥‥?」 紅潮した常盤が厨房に駆け込んでいったので、返事が如何だったのかは当人のほか知るよしもないのだった。 ●縁の下の餅製造からくり達 一方、店舗奥にある厨房はと言うと―― 可愛らしい暗唱の声がする。 「のばすー つつむー まるめるー 葉っぱ巻くー」 声の主ははエルレーン(ib7455)、ひたすら柏餅製造からくりと化して延々作業台に向き合っているのだ。 そんな様子を微笑ましく見、明王院 未楡(ib0349)は荒縄を束ねた束子を手に夢尽(ib9427)へ声を掛けた。 「汚れ物は此方へ運んで下さいね。乾く前に、落としてしまいますから‥‥」 「では、頼む」 餅を捏ねてべたべたしている鉢を、湯を張った未楡の盥に滑らせる。素早く未楡が束子を動かす横で、湯呑みや汁粉椀などを別の盥で手際よく洗ってゆく。 「そろそろ冷やし善哉食べたいですよねぇ‥‥」 盥に浮かぶ汁粉椀に、夏の味を思い出した礼野 真夢紀(ia1144)が言った。いつものように結い纏めた髪を姉さん被りの手拭で覆っている。口元も別の手拭で覆っているから、お喋りも気兼ねなくできるというものだ。 「冷やし善哉というのがあるのか?」 自分より歳若ながら兎月庵には長く手伝いに来ているらしい真夢紀に、夢尽は興味津々で尋ねた。 目的を同じくする仲間との協力、そして語らい。 生家を出奔し開拓者への道を歩み始めたばかりの彼女にとって、様々な事が初めてづくし、新鮮の連続だ。今が楽しくて仕方がないといった様子の夢尽は生き生きとして、見ている方も何処か心が温まる心地がするのだった。 「ええ、井戸水や巫女の氷霊結で冷やすんです」 何度も兎月庵へ手伝いに来ている真夢紀の様子は溌剌として、厨房に活気を齎す。実子同様に愛しんでいる彼女の働き振りを頼もしく見つめ、洗い物を済ませた未楡は夢尽に声を掛けた。 「もうすぐ生地が蒸し上がりますから、捏ねて成形さんへ持って行ってくださいね」 ここは大丈夫、順調に進んでいる。割烹着を脱いだ未楡は、表を手伝いに出て行った。 大量の生地を、真剣な表情で全身を使って捏ねる夢尽。これは意外と身体の修練になりそうだ。平吉に生地の具合を見てもらい、熱い内に成形担当の巴 渓(ia1334)まで持ってゆく。 「続きを頼む」 「おう、ありがとよ。おい、そこの餅丸めからくり‥‥じゃねえ、エルレーン?」 新たに薄く餅取り粉を作業台に振って、同僚を探す渓。 エルレーンは厨房の暖簾に一寸程の隙間を開けて、店内を凝視している。 「何やってんだ?」 「兄弟子が‥‥私を殺そうとしている人が‥‥お店に来ているんです」 何かあったら叱ってやろうと思っていた渓だけれど、理由が理由だ。口出しは無用と作業に戻ってゆく。 エルレーンは暖簾の隙間から兄弟子を『観察』し続けた―― ●皐月の甘味はどんな味 その日、エルレーンの兄弟子ことラグナ・グラウシード(ib8459)は商店街を訪れていた。 騎士だって商店街にくらい行く。それが偶々兎月庵がある通りだったというだけの事だ。 ともあれ偶々通りかかった騎士様は、甘味処で足を止めたのだった。 「カシワモチ? ‥‥ふうん、美味そうだな?」 初めて聞く名に首を傾げつつも暖簾を潜る。日頃は冷静かつ厳しい修羅の騎士だが、このラグナ、実は甘い物が大好きだったりする。 喫茶席に飾ってある小さな鯉幟を不思議そうに見遣り、彼は独り席に着いた。周りの席は甘味好き女子や家族連れが多いが、気にしない事にする。 「白いのと、緑のと‥‥うん、二つずつくれ」 恋人達と宿敵さえいなければ、実に大人しく、実に紳士な男であった。女子共の興味本位な視線など物ともせずに、行儀良く膝頭を揃えて座り、柏餅を待っている。 「ああ、ありがとう」 運んできたワイズに愛想笑いまで浮かべて、ラグナは期待の柏餅をひとつ手に取った。 あーん―― 「‥‥‥‥」 「どうしました、お客様」 ラグナが何だか切ない顔をしたものでワイズは給仕の手を止めて問うたが、彼は無言で咀嚼している。 柏葉ごと齧って哀しい顔をしているラグナに、ワイズはそっと教えてあげた。 「お客様? その、失礼ですが‥‥もしお好みでなければ、葉っぱは外してお召し上がりください」 「そうか、外しても良いのか」 葉を食すか否かは任意だと思ったらしいラグナ、ほっとしたように柏葉をめくってぱくりと齧る。 「いかがでしょう。当店は漉餡を使用しております」 「中身は漉餡か‥‥うん、その方が私は好みだ」 小さな誤解を学習してしまったものの、ワイズのおかげで初めての柏餅を美味しく食せたラグナは、厨房のエルレーンには気付かないまま満足して兎月庵を後にしたのだった――めでたしめでたし? ラグナが店を出て暫くした頃、褐色の肌が美しい娘さん達が兎月庵を訪れた。色っぽい話とはとんと無縁な騎士様が血涙流して悔しがりそうな二人連れである。 「ここに来るのも久々だな。今日はありがとう、シータル殿♪」 リア・コーンウォール(ib2667)の言葉に、シータル・ラートリー(ib4533)は「いいえ、こちらこそ」やんわり笑んで返した。 「一人では選びきれませんから‥‥助かりますわ♪」 殿方はどんな甘味を好まれますかしらと生菓子を眺めているシータルの横で、リアは腕組みして無言だ。 「あの‥‥どうしましたか?」 「む? あ、いや。何でもない‥‥済まぬな」 シータルに心配されたリアが微笑む後ろを、黄色いアホ毛がぴこぴこ跳ねてゆく。 「何かご心配な事でも?」 「ああ、姪に似ている子が居たように感じてな‥‥気のせいだったようだ」 そう返すリアの背後を、フラウに首根っこ掴まれたリエットが通って行った―― ともあれ甘味王な父を持つリアの助言によると、店員に今日のお勧めを尋ねるのが良いという。 「なるほど! では一休みして行きましょう♪」 无(ib1198)の案内で縁側に通された二人は、今日の一押しだという柏餅を白と蓬それぞれ注文し、まだ居座っていた梨佳を呼び寄せて暫し歓談。 「今日は七々夜さんはご一緒ではありませんの? 残念ですわ〜」 「はいです、ギルドのお使い中なのですよ〜 はぅっ!!」 そうだ、梨佳は一応仕事中なのだった! 慌てて居ずまいを正して、からすから甘味の包みを受け取った梨佳はそそくさ店を出て行った。仕事上がりにもう一度立ち寄ると約束して。 「あとでまた来ますね〜」 茶の髪を揺らしてギルド職員見習いが去った後、シータルはどうしましょうとリアを見た。 「梨佳さんも召し上がるかと多めに注文してしまいましたわ〜」 リアさんも食べるでしょうと言いたげな表情で見上げられれば、否と言いようがないではないか。 甘味王の父にトラウマに近い感情を植えつけられているリア、内心冷汗を掻きながら蓬の柏餅をひとつ手に取った。 「やはり、ここの甘味は美味しいな♪ 少しなら食べられる」 とは言え一個が限度で、残りはシータルが、そして彼女のお土産に包んで貰ったとか。 「わーい、甘味だよー 何を食べようかな♪ 迷うなー」 兎月庵の暖簾を、姉二人の手を引いて神座亜紀(ib6736)が潜る。 席に着くや、お品書きの右から左までずらっと指さして注文する妹に、神座真紀(ib6579)は呆れ気味の一言。 「あんた、そんな食べたら太るで」 「平気だよ! お祝いだからいいんだもん!」 柏餅に餡蜜、みたらし団子に五平餅――お汁粉は飲み物の内になるかしらん? 昨年の春頃に、三人は開拓者への道を歩み始めた。 今日は一周年のお祝い。だから甘いものでお祝いしようと末の妹は提案した。 (少しは姐さんの役に立てるようになったかな?) 姉と末妹の遣り取りを、神座早紀(ib6735)も呆れつつ眺めている。この調子だと亜紀は本当に片っ端から食べそうだ。 早速運ばれて来た、盛り皿を独り占めしかねない勢いの亜紀から一個確保して、早紀は柏餅を一口。 「美味しいです♪」 「ほんまやね、お店の味はさすがやね」 真紀も甘味作りはするし自信はあるのだけれど、やはり売り物の味は何処か違う。こうした食べ歩きも参考になりそうだと、真紀は餡蜜片手に妹達を眺めて―― 「亜紀、餡子付いとるで」 末妹の口の端に付いている餡を人差し指で取ってやる。 もうちょっと落ち着いて食べ、と言う真紀と素直に餡を取って貰っている亜紀の様子を見ている真ん中の娘は少々面白くない。 慌てて頬に餡子を付けて、ちょいちょいと付けた方を真紀に示した。 「私も餡、付いちゃった?」 「あれあれ、早紀もかいな‥‥二人共、甘味は逃げへんで?」 故意と知ってか知らずか、優しい姉は早紀の餡も取ってやる。そんな、膨れっ面したり頬を染めたりの次姉に、姉妹が首を傾げる一幕もあったりして。 ひとしきり甘味で一年の労をねぎらい合った後、やがて亜紀が懐から可愛らしい財布を取り出した。 「父さんにも買って帰らないと!」 「なら、あたしは婆ちゃんと本家の人達にお土産買って帰ろか」 末妹の可愛らしい思い遣りに、真紀と早紀は微笑んだ。 亜紀が二個、真紀が二十個程を包んで貰っている間も、姉妹は賑やかだ。くすりと笑んで早紀が言う。 「お婆様、いつも厳しいけど甘い物見たら笑顔になりますよね」 「いっつもしかめっ面しとるのにな。亜紀の甘いもの好きは婆ちゃんに似たんかな?」 御機嫌な様子で包みを抱えた末妹を見遣り、姉達は微笑い合った。 ●幸せ充たして 兎月庵の店頭で、新婚さんが頬を染めている。 「琉央琉央、柏餅や柏餅っ! 真っ白でふっくらさん♪」 正確には甘味に頬染める新妻の図。 相変わらず甘味となると瞳を輝かせる奈々月纏(ia0456)を、奈々月琉央(ia1012)は微笑ましく見つめた。 妻の分までお葛に挨拶して、琉央は「食べて行こうか」と妻を誘う。 「はわっ!? ええのん? ふ、二つ買ーてもええのんか? さ、桜餅もええ?」 「半分は持ち帰りで、な」 すっかり前のめりでどれにしようか迷っている纏の様子が可愛らしい。だけど一応釘は刺しておく。楽しみは長く続く方が良いものな、と。 喫茶席で茶菓子の到着を待つ妻は、小さい子のように腰掛けた長椅子の下で足をぶらぶらさせている。 「今日は小春日和やな‥‥て、十一月はまだまだやねんけどな。うん♪」 「ほら、慌てるなよ。餡が口元についてるぞ」 余程嬉しいのだろう、思いつきを口にする無邪気さがさらに少女らしい。 運ばれて来た桜餅に柏餅――春を表す甘味を幸せそうに頬張っている纏に冗談のつもりで行った琉央だが、本当に纏の口端に餡が付いていたもので手拭で拭ってやった。えへへごめんと照れ笑いする妻の様子がまた愛おしい。 「ん、まだ食べるか?」 ぴた、と止まった纏の動きに物足りないのかと琉央は気遣って言った。 だが纏いは神妙な顔つきのまま、じっと琉央を見つめている。 「どうした?」 「少し動かんといて?」 真剣な表情のまま纏は琉央に近寄ると――琉央の頬をぺろり。 「!?」 「口元のお返しや♪」 新妻はそう言って、顔を真っ赤にして俯いた。 開き始めた桜の下で、夫婦が水入らずに花見を楽しんでいる。 「久しぶりのデートですが、甘味系の連れ出しで申し訳ありませんね」 微笑み浮かべて恐縮する妻だが、月酌 幻鬼(ia4931)は気にする様子もない。機嫌よく妻の酌に酔っていた彼は、杯を持ったまま言う。 「お、それ食いてぇ」 夫の視線の先をヘラルディア(ia0397)は正確に把握して、取り箸を手にすると菜を取った。 この日、ヘラルディアが用意した酒肴は春を天麩羅にしたものだ。ふきのとうやタラの芽が淡い衣を被ってからりと揚がっているのを、添え塩付けて口へと運ぶと、幻鬼は満足そうに杯を煽った。 「うめえなぁ、やっぱ最高だわ」 美味し肴に美味し酒。見上げれば白い花の靄が広がっていて。 そんな夫の様子をヘラルディアは微笑んで見つめる。 愛し人と一時の平安を――こうして傍に、身を寄せ合うだけて落ち着ける相手のいる幸せを全身で感じる。 やがて酒は茶に変わり、夫は妻に淹れて貰った茶を一口、のほんと言った。 「うめえなぁ、この茶‥‥どこの茶葉使ってんだ?」 何気ない言葉に何処其処の某産ですと生真面目な応えが戻って来るのを、幻鬼は樹の下にどっかりと胡坐を掻いて、のんびりと聞いていた。 本当は、産地に関わらず妻の淹れる茶が美味いのだと思う。 手には兎月庵の柏餅、ぺっそりと餅に付いた柏葉相手に幻鬼が指先で格闘していたが、暫くして静けさが二人を支配した。 「‥‥‥‥」 無言で穏やかに見上げるヘラルディアの口元へ、幻鬼は漸く剥き身になった白い餅を持ってゆく。 「ほれ、口開けろ、あーん」 酒肴の返礼とでも言うように、食べさせ食べさせられ――甘い午後を過ごす。 束の間の安らぎ、この幸せがあってこそ戦う為の気力を蓄えられるのだ。 ●素直でない人々 図書館からの帰り道。一服するのも悪くない。 「柏餅をお一つと緑茶を、お願いします」 兎月庵の喫茶席に座り、借りてきた本を長椅子に置いた紅雅(ib4326)は給仕を呼んだ。 「千草君はどうしますか?」 「‥‥俺は、紅雅さんと同じ物で」 一 千草(ib4564)がそう答えたものだから、紅雅は難しい顔をする。 結局それぞれ一個ずる注文して、茶菓子が着くのを待ちながら尚も言う紅雅。 「まだまだ食べ盛りなのですから、たくさん食べないと」 紅雅と一見数歳違いにしか見えない千草だが、実は当年十五である。成長期の少年は日々上背が伸び続けており、落ち着いた物腰も相まって年齢相応に見られた事は殆どない。大抵は二十歳前後だと思われるし、紅雅とは数歳違いのように見られるのだった。 「そうですが‥‥充分身長も伸びてますし‥‥それに俺は大食らいじゃないので‥‥」 兄のように慕う紅雅であっても敢えて口答えしたいほど、千草にとって育ち続ける体躯は悩みの種であり持て余し気味に思っているものであった。 (それも個性なのですが‥‥) 紅雅はそう思ったが、今はそっとしておこう。この聡明な少年はいずれ自分で気付くだろうから。悩むのは思春期の特権というものだ。 代わりに、紅雅は借りてきた本を膝に載せ、装丁を撫でて言った。 「今日は素敵な本も見付かりましたし、美味しいお菓子もいただけますし、天気も良いですし…幸せな日ですねぇ」 「俺も薬草の本が見れて良かったです」 千草の表情が和らぐ。 のんびりできる日があるというのは良い事だ。それに一緒にいるのが兄のように思う紅雅なのだし――と、何気なく店内を見遣った千草は、視線の先に見知りの顔を見つけた。 (灰桜まで来てたのか‥‥) 義兄の姿を見つけて、途端に心穏やかでなくなる千草である。 元はと言えば、店の前を通りかかっただけだったのだ。 偶々兎月庵の中から聞き慣れた声がしたものだから神支那 灰桜(ib5226)が入ってみれば、想い人が給仕なんぞやっていたりしたもので。 「よお、緋姫。張り切ってるじゃねぇか」 不貞腐れた顔して声を掛けずにはいられない。 如何にもいちゃもんを付けるかのような口振りに、緋姫(ib4327)も、つい取ってつけたような接客態度で対抗してしまう。 「‥‥いらっしゃいませ。甘味なんて、滅多に食べない癖に」 「別に良いだろうが。店員がそんな顔して良いのかよ?」 不遜に笑った灰桜が何処に座るか店内を見渡した動作すら、緋姫には何だか気に触る。 でも我慢。ここは店内、私は給仕。でも一言だけ。 「ふうん。どうでも良いけど、お店の女の子に手は出さないようにね!」 「手を出さなきゃ良いんだろ?手を」 「な!?」 にやり笑った灰桜に逆に言い込められて、緋姫は顔色を変えた。 「この色魔っ!!」 千草が見つけたのは、そんな瞬間だった。 盆を持った緋姫の手が怒りに震えている。千草の視線に気付いた紅雅が慌てて仲裁に入る。 「姫、看板娘なのですから、笑顔で。ね?」 「兄様‥‥!? ちち違いますからっ。あれはあの馬鹿が悪いんですわっ」 手にした盆をバタバタ扇いで相当焦っている緋姫の様子を灰桜は人の悪い笑みを浮かべて眺めていたのだが。 「あまり騒いでると、報告‥‥」 ぼそっと千草の声がしたものだから途端に眉を寄せる。小煩いだの女っ気がないだの、ぶつぶつ文句を言っていたが、舌打ちして緋姫に言った。 「‥‥とりあえず柏餅八個」 ●月の兎の柏餅 どこからか甘い香りがする。 「良い匂いがするのぅっ」 烏天狗の面が、きょろきょろした。面の下にある顔は、まだ幼さの残る少年だ。香りの先に兎月庵を見つけた音羽屋 烏水(ib9423)、少しばかり難しい顔をした。 「兎月庵、とげつあん‥‥」 甘味処や飯処の入店にはちょっぴり気兼ねしてしまう烏水だ。 烏水は烏の獣人だ。背に黒々と美しい羽根を持っているのだが、飲食店では良い顔をされない事も多くて―― 「うーむむ‥‥都なれば大丈夫かのぅ」 さっきから、店の前をうろうろしていた。 兎月庵店頭では呉服屋の看板娘が呼び込みをしている。 「兎月庵のお餅、搗きたてお餅、いかがですか〜☆」 とは言え、今日の柚乃(ia0638)は手伝いに来ているのではない。通りがかった成り行きで招き柚乃になってしまっていたりする。 「ごめんなさいね、柚乃ちゃん」 「美味しい甘味と新茶のお礼ですっ」 恐縮するお葛に笑顔で応じていたのだが、何やら視線を感じた気がして辺りを見渡した。 おや、入店を迷っている子がいる。男の子一人で入り難いのかな? 「そこの彼〜 柏餅、美味しいですよ〜」 悩んでいる烏水へ声を掛ける。 一方、呼び止められた烏水も覚悟を決めたようだ。 「‥‥うむっ、迷うだけでは腹も膨れぬ。いざっ! 柏餅、白と蓬を貰えんかのっ?」 「いらっしゃい、白と蓬ね」 思い切って入店した少年を、お葛は笑顔で迎えて注文を聞くと奥へと下がっていった。 暫し後、運ばれて来た柏餅の盛り皿に、烏水は目を輝かせた。 ――ぱくり。 「!! ふぉぉ‥‥こ、これは美味いのっ」 思わず手元の三味線を掻き鳴らす美味さだ! いかんいかんと手を止めた烏水に、お葛はいいのよと微笑んだ。 「お口に合って良かったわ。あなたは楽師さんなの?」 「おぅっ、楽の音で人々を元気にしたいのじゃ! しかし、いや、思わず三味線弾きたくなるほどに一口食せば心も躍るようじゃっ」 ひとつ食して弦を鳴らし、ふたつしょくして曲になり――店外に漏れ聞こえた烏水の浮き立つような三味の音が、道ゆく人を新たに兎月庵へと誘った。 そんなこんなで、店先はいまだ賑わいを見せている。 「もう柏餅の季節なんですね」 新緑を思わせる柏葉は初夏の彩り、品書の移り変わりに季節を感じる。季節の甘味が揃っていて、何時来ても飽きないのですと鈴梅雛(ia0116)は微笑んだ。 「毎日は来れませんけど、依頼の後とか、休憩にちょうど良いですよね」 一休みに饅頭をひとつ。疲れた身体に甘さがほど良い癒しになる。 今の季節物と言えば柏餅、自宅用に五個頼んで、雛は更に三十個の別包装を頼んだ。 「今、ギルドに何人いるかわからないですけど、差し入れに」 雛の差し入れは、職員や開拓者達に喜ばれる事だろう。 がらりといつもの雰囲気と違う御陰 桜(ib0271)の装いは、春らしいワンピース姿だ。 「梨佳ちゃんが花見会場で配ってた白大福も美味しかったけど、この時期は桜餅も外せないわよねぇ♪」 ギルド有志の配り物が引き寄せる縁もあるようだ。 庭席で、お茶と一緒に桜餅をひとつ食した後、桜は愛犬の桃も食べられそうだといくつか土産に買って行った。 「はい、白が二つに蓬が二つですね。八百文になります」 小さなお客様にも丁寧に、お使いで訪れた子供の背丈に合わせて腰を屈めた无が「落とさないようにね」見送って、留守番している尾無狐や青龍寮のご近所さんな子供達に想いを馳せる。 (お土産を買って帰ろうか‥‥) 今日は子供の日。小さな笑顔を更に笑顔にするのも悪くない。 暮れて人も少なくなってきた店内で、日がな一日のんびりだらりと過ごす青年が一人。 「ほんとに一日いらしたんですね〜」 ギルドからの帰りに再び寄った梨佳が、紫狼の姿を見つけて呆れ気味に声を掛けた。 まあなーと緩みきった姿勢で応じた紫狼は、戦う姿が想像できないほど穏やかな様子で続けた。 「こういうダラっとできる日も大事だよ? 日常、平和が一番大事さ」 戦いに赴くからこそ切り替えは必要だと紫狼は言う。連れもなく一人、付いて来たがった土偶姉妹も留守番させて、一人きりの日を楽しんでいた。 「おや梨佳殿、またいらっしゃい」 お茶を運んできたからすが紫狼に次の注文を取る――が、一日居座っただけにあらかたの甘味は食べ尽くしたらしくて、柏葉だの串だのが散乱している。 「しょっぱいのが食べたいなー 持ち込みオッケー?」 店員に許可を取って、紫狼は懐から大判の煎餅を取り出した。一尺半ほどだろうか、武器になりそうな程大きな煎餅は鍋蓋の形をしている。 「わわ、これは噂の大判鍋蓋煎餅ですね〜」 何処で噂なのやら、貰ったやら貰えないやら噂なのですと解説入れて、梨佳もお相伴に与った。割って貰った一欠けだが、それでもかなり大きい。煎餅を持ったままぽけっと店内を眺めていると、隣でがりっと音がして。 「‥‥硬ェ!?」 強化された煎餅は妙に硬かったらしい。両手で持って前歯でカリカリ削るように齧っていると、一日店内を観察していた紫狼が口惜しげに言った。 「あのケモミミマン、本当に厨房から出て気やがらなかったぜ‥‥」 居座った一日客も帰った日暮れ、兎月庵が暖簾を下ろした頃―― 「はい。お疲れ様」 喫茶席に座り込んだワイズの前に置かれる湯呑みと甘味皿。 からすだ。日雇いで店内に残っている者にお茶を配って、お疲れ様でしたと労をねぎらい合う。 「では、私は青龍寮へ戻ります。お疲れ様でした」 一服した後、注文しておいた柏餅の包みを受け取って无は寮へ戻る。皆それぞれに退出してゆく中、からすもまた店主夫婦に挨拶して店を出た。 (ここで働いて、もうすぐ三年目になるのかな) 思えば長い縁になったものだ――そしてこれからも。 振り返って兎月庵を見る。初めて此処へ来た時のような美しい満月が餅屋を照らしていた。 |