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■オープニング本文 前回のリプレイを見る 久しく黒塚の空は晴れなかった。 紅葉に染まった山々を白く煙る雨が覆い尽し、日が高い日中でさえ酷く冷え込んだ。 道明寺家で療養中の妹を見舞うレイ・ランカンは、懐の笛を取り出して眺めていた。飛剣天仁が、婚約者の咲へ贈ったものだ。 床の中からルルが声をかけてきた。 「レイの?」 妹の声はまだ小さく弱々しい。巫女の友人が治療を施してくれたおかげで一命を取りとめたのだが、それほど傷は深かった。 「いや、我のではない。だがルルの」 レイは言いかけて口を噤み、逡巡した。妹は天仁を悪い男だとは思っていない。賞金首にまでなっている男であるのに、下手をするとルルは天仁を庇い兼ねないのである。直情的な性格はレイとよく似ていて、だからこそ妹の行動が読めるのだ。 だがルルはレイが思っている以上に聡い。兄の様子にその笛の持ち主が誰か気付いたのである。 眉を潜めながら寝返りを打ち、 「仲直りできるといいね」 額に玉のような汗を滲ませて笑った。 レイは苦笑を浮かべるしかない。 「そうだな」 最早、天仁を救う術はないのだ。彼はかつての仲間を裏切り、屠り続けた大罪人。人に仇なすアヤカシ側に与した賞金首である。赦されるはずがなかった。 レイは天仁を討たねばならない。愛した女を殺した“人”という存在を恨み、蹂躙し続ける男を止めなければならない。それは開拓者として当然の責務だが、天仁に残っている僅かな良心を救済する為だともレイは思った。 ルルを庇った天仁のすべてが悪だとは思わないが、犯した罪があまりに深い。天仁はその命をもって贖わなければならないまでに堕ちたのだ。 ヴァンとの戦闘で咲の死の真実が明かされたが、それを知ったところで天仁の心が救われることはないだろう。 落した視線の先で、笛を握る手が震えていた。腕の中で脱力していく妹が思い返されると、拳の震えは全身へと広がった。これまでも救えなかった人間は大勢いた。レイの腕の中で息絶えた者もいる。次第に冷えていく躯、固くなっていく四肢、虚ろな双眸は光を返さず、わずかに開いた口唇は乾いて皮が捲れていた。 その姿とルルがダブって見えた。奪われたくない、奪わせない――奪おうとする者は何者であろうと許さない。 天仁に肩入れするつもりは毛頭ないが、彼の悲しみは理解できた。 「仲直り…できると良いな」 たとえその結果がルルの望んだ形ではなくても、終わりにしなければならない。妹に向けた笑顔の裏に、レイは並々ならぬ決意を秘めていた。 外套がたっぷりの雨を吸い込み、ずしりと飛剣天仁の肩に圧し掛かる。その周囲には累々と落ち並ぶ死体の山。武器を持てば女子供とて容赦しなかった。 濡れそぼった漆黒の髪から、雫が幾筋も天仁の頬を滑り落ちていく。 「あの男は死んだ」 天仁の口唇から白い息と共に言葉が吐かれる。抑揚のない声だ。 「枷が外れた今、俺の望みを果たそうか」 ずるりと大剣の切っ先を泥の中で引きずり、死体を跨ぎ、天仁は黒塚の方角へ向き直る。 雨が一際激しくなった。煙る空と地面を跳ねる雨のせいで視界は白く遮られている。気温はかなり下がっていたが、天仁の表情は張り付いた仮面のように変わらない。 ぐるりと周囲を見渡す。人間の死体の中にある、一体の吸血鬼へと視線を注いだ。ヴァンの死を知らせに来た小物のアヤカシだった。 ヴァンが開拓者に語ったという咲の死の真相も、この吸血鬼がベラベラと喋ってくれたおかげで知ることができた。 だが讒訴を謀ったヴァンはすでに開拓者の手によって屠られている。さらに言うならば、謀ったのがたとえヴァンであろうと手を下したのは人間であるという事実は変わらない。 騙されたとて人殺しに手を染めた人間達に、一片の憐憫も湧かなかった。 いつかの少女の瞳が心の蓋をこじ開けようとしたが、天仁は自身の胸を拳で殴ることでそれを押しとどめる。誰も疑わず、常に笑顔で苦境を耐え続けた咲。名も知らぬ少女と恋人の姿を重ねながら、天仁は歩き出した。 「罪は罪。贖ってもらおうか、お前らの命をもって」 柘榴色の瞳を見開いて天仁は言う。 黒塚の街は、鉱山に点在していた集落や村からの避難者で溢れ返っていた。通常は五色老に出仕している番士達だけで構成されている居住区も、今回ばかりは解放させられている。不満を口にする者も少なからずいたが、当主自らが率先して対応にあたっているのを見ると、次第に彼らの口は噤まれていった。 街中を隊士、番士問わず慌しく駆けずり回っている。 次々に飛び込んでくる天仁の情報に、当主椿は本家へと戻らざるを得なくなった。道々、秋月刑部と言葉をかわす。 「天仁とやらが黒塚に向かっていると報告を受けましたけれど」 「残念ながら逃げ遅れた者や、村に残った者達が被害に遭っているようです。ヴァン討伐から間を置かずに避難命令を出したのですが、どうやら伝達が正常に行われなかった区画もあり、このような現状になっております」 「引き続き避難者の受け入れをしておいてください。本家も解放します」 「かしこまりました」 捧げていた傘を椿へ預けた刑部は、軽く頭を下げて別れた。小路を抜けて大通りに出ると横から駆けてきたレイと出くわした。 「天仁がここへ向かっていると聞いたのだが」 傘もささずに飛び出したらしいレイは全身濡れ鼠だった。顎先から滴る雫も拭わずに、曇らせた表情で遠くに見える大門へ視線を向けた。 バタバタと煩い雨音の中、刑部がレイの腕を掴んで近くの軒へと移動する。 「先日のヴァン討伐の報告は湖住から受けた。緑青が天仁の婚約者殺害に一枚噛んでいたとは思わなかったが、天仁が黒塚を目指している理由はそこなんだろうか」 「それは我もわからぬ。第一、ヴァンの謀で咲殿が死んでしまったことを天仁が知っているかどうかもわからぬのでな。ただ――黒塚へ向かっている以上、ここが戦場になるのは必定故、無関係の者達の避難を早めていただきたい」 「天仁は一人だろうか」 刑部は袖口で額を拭うが、あまり役には立たなかった。舌打ちすると、レイの答えを待つように顔を向ける。 「ヤツはいつも一人だ。恐らく今も」 そうか、と刑部が頷きかけた時、部下が転げるように二人の下へ駆けてきた。 「秋月様、レイ様。たった今緑青の湖住様が大門の方へと向かわれました」 「湖住殿が」 刑部とレイは顔を見合わせた。 何故、と思ったがすぐに答えは出た。レイは唇を噛みながら飛び出した。 背後では刑部の怒号が飛ぶ。一刻も早く一般人の避難を、と。 (「湖住殿。なんて愚かな事を。貴方が囮になったところでどうなるというのだ」) 雨がレイの全身を打つ。騒々しい雨音の中に、天仁が現れたという刑部の声が、微かだが聞こえた。 仲間が到着するまで、なんとしても湖住を守らねば。 今の緑青当主が命を張ったところで、けして贖罪になりはしないのだから。 |
■参加者一覧
緋桜丸(ia0026)
25歳・男・砂
柄土 仁一郎(ia0058)
21歳・男・志
緋炎 龍牙(ia0190)
26歳・男・サ
柄土 神威(ia0633)
24歳・女・泰
菊池 志郎(ia5584)
23歳・男・シ
ジークリンデ(ib0258)
20歳・女・魔
ディディエ ベルトラン(ib3404)
27歳・男・魔
長谷部 円秀 (ib4529)
24歳・男・泰
神座真紀(ib6579)
19歳・女・サ |
■リプレイ本文 一層冷え込みが厳しくなると、銀糸はすぐに真っ白な雪へと形を変えて天儀を染めた。 「冷えるはずだ」 窓の桟に降り積もる雪をちらりと見遣る。凍える指先に息を吹きかけながら、ギルドの職員は一通の書簡を広げた。 ――飛剣天仁 黒塚の地にて討伐。 その一報は、遍く天儀のギルドを駆け抜けた。 深く掘られた穴の中に、飛剣天仁は横たわっていた。穴を囲むようにして立っているのは理穴のギルドから訪れている、立会人のギルド職員だった。 天仁の婚約者である咲の墓は、そのすぐ脇にある。賞金首ではあったが、天仁の亡骸を咲の傍に葬りたいという神座真紀(ib6579)の申し出をギルドが承諾したのだ。討伐されたのが確かに賞金首であるかの検分さえ済めば、骸をどこへ埋めようと構わぬという事なのだろう。 膝をつき、じっと天仁の顔を緋桜丸(ia0026)はみつめていた。顔中を汚していた血や泥はすっかり落されていて、穏やかで綺麗な死に顔をしている。 (「天仁…今はただ愛する者の元でその魂を鎮めろ。そしていつか…人として手をとり合える日が来るなら」) 「…最高じゃないか」 緋桜丸の脳裏に浮かんだのは、戦闘も後半戦に突入した時の天仁の姿だ。どこか終わりを望んでいるようにすら感じた天仁へ、かける言葉があるとするなら、これしかないと緋桜丸は思った。 剣を交えなければわからない、交えたからこそ理解る思いに緋桜丸は微笑う。そろりと右手を胸へ宛がった。塞がりかけてはいるが、恐らく傷痕は残るだろう。右肩から左脇腹までを抉られた。だが、正面からの刀傷に緋桜丸は満足してもいた。 墓碑から少し離れた場所に立つあばら家の土壁に凭れながら、墓穴に向かって話しかけている友人を眺めている男がいた。緋炎 龍牙(ia0190)である。 復讐に身を焦がしているという一点において、緋炎と天仁は同じだった。対象がアヤカシか人間かの違いこそあれ、純然たる憎しみは深く、永劫である。だが、天仁は死んだ。目的は恐らく達していないだろう。真の仇敵はヴァン・レイブンで、それはすでに討ち果たされていたし、人間すべてを殲滅しようとしたが、天仁はその戦いの最中で討ち死にしたのだから。 (「大切な人を奪われ、復讐しても戻らない事をわかりつつも剣を振るおうとするあの姿…実に良いね。別の形で会っていたなら、違った結末だった気がするよ」) ふいに日差しが差し込み、緋炎は空を仰いだ。雲間から陽光が差していた。 「誰にも終わりは来る。さて、俺の最期はどうだろうね」 瞳を細め、天から下りてくる光の階をみつめた。 検分を終えて黒塚へ戻る立会人を見送った柄土 仁一郎(ia0058)が、さっぱりとした表情で墓穴を覗き込む。天仁との戦いはまさに死闘だった。これまでも天仁には煮え湯を飲まされてきたが、今回もまた酷い目に合わされた。陣羽織の身ごろごと、腹を横一文字にばっさりと斬られたのだ。 思い出した柄土は苦々しい表情になる。 「因縁は無事に断ったな」 柄土が口にした因縁という言葉にはさまざまな意味が含まれている。天仁に関わった者すべての因縁、なにより天仁自身の因縁を断てたのは僥倖であろう。 「皆が皆、お前のように絶望している訳じゃない。顔を上げて歩き続けてやるさ。前を向いて、何があろうとな」 青白い顔で、微笑さえ浮かべて見える天仁の死に顔を見て柄土は思う。 ふいに袖口を摘まれ、柄土が振り返る。 「神威」 傷はどうにか癒えたが、それはあくまで表面だけの事である。覚束ない足取りで支えを求めた柄土 神威(ia0633)はまっすぐ夫の腕を掴んだ。 柄土が細い肩を抱く。 「傷はまだ痛むのか」 「いいえ」 神威はふるりと頭を振った。気付けば右手は天仁の大剣に貫かれた右胸を押さえている。窮地から仲間を救う為とはいえ、その身に剣を貫かせた時の夫の驚愕には、申し訳ない思いでいっぱいだったが悔いはない。 柄土に支えてもらいながら、天仁を見下ろす。 雨に打たれ、横たわり、次第に呼吸が浅くなっていく天仁の微笑めいた最期の表情を思い出した。手前勝手な解釈だが、天仁はその最期をかつての仲間である開拓者の手で終わらせて欲しかったのではないかと思っている。 その相手に選ばれた事を、神威は嬉しいとさえ感じていた。天仁が咲を失わない為の方法が“死”以外になかったのは悲しいが、彼の死に顔は命をもって贖罪とした事で安堵していたようにも思う。 「仲間は本当に良いものよ」 枯れずに落ちた涙を、柄土の無骨な指が拭った。 どさりという音で意識が戻される。見れば天仁の腹辺りに土が被さっていた。円匙から弧を描いて土が投げ込まれる。 レイ・ランカンが黙々と土を被せていく。仮面から覗く瞳は、戦闘が終わった時と変わらず泣き濡れていた。 手を合わせ終えた長谷部 円秀(ib4529)がレイの肩に手を置く。 「何時でも声をかけてくれれば手伝います。友人として、戦友として…大切な人ですから」 「大切な、か。我も呼ばれれば応えよう」 土を被せる手を休め、ぐるりと仲間を見渡してもう一度天仁へ視線を戻す。 「失いたくはないからな」 レイの声は震えていた。その脳裏には、床にありながら変わらぬ笑顔で天仁との再会を待ち望むルルの姿が浮かんでいる。 「アヤカシは負の感情より生み出されるという説がありますが〜、負の感情の一切を持ち合わせない者をですね、はたしてヒトと言ってよいのでしょうか? 私には分かりません」 ディディエ ベルトラン(ib3404)の呟きは、吐き出された白い息と、胸元からレイの仮面を覗かせるジークリンデ(ib0258)が吹く、咲の笛の音と共に寒空へと上っていった。 荘厳で物悲しい音色に耳を傾けながら、菊池 志郎(ia5584)は指で瞼を押さえていた。あの術を使えばこうなる事は覚悟の上だったのに、やはり胸が締め付けられる。初めて目にした咲の表情はまだ幼く、春の陽光に煌く小川のように清廉で、可愛らしい声が愛しい男の名前を呼んでいた。 ジークリンデと一緒にルルを見舞い、天仁は長い旅に出たと答えた時のやるせない気持ちを引き摺っている。 真実を明かし、ルルを墓前に連れてきて、最後の別れをしてもらった方がいいのではないかと思うのだ。そんな気持ちにさせてしまうほど、飛剣天仁の死に顔は穏やかなのである。 「いいえ、よしましょう」 志郎はかぶりを振った。 ルルの記憶の中の天仁は、終生変わらず自分を守ってくれた良い人でいいのだ。 強くなった雪が辺りを覆い尽くす。春にはまだ遠い季節だが、さながら桜吹雪のようだった。 ほんの数日前の事なのに、随分と昔のように思える。 吹きすさぶ風の音の中に、振り絞る詠唱の声と火花を散らす金属音が聞こえた気がした。鼻をつくのは血と雨と生臭い泥の臭いばかりで、脳裏には敗北の文字さえ浮かんでいた。 討伐二日前。 ぬかるみに足を取られながら、大門へと駆けつけた開拓者らは息を殺して壁や打ち壊された扉の影へと身を潜ませた。長谷部は一度だけ皆に視線を寄越し、するりと大門の内側へと身を滑り込ませた。まだ大きな物音はしないが、肌にひりつくような殺気が漂ってくる。天仁は恐らく、この門のすぐ先にいるはずだ。 ジークリンデの帽子のつばからは、途切れなく雨が零れ落ちる。その下から覗く彼女の双眸には、一つの決意が瞬いていた。ジークリンデは真実を告げた上で、天仁に投降を勧めるつもりだった。最早、彼が凶行を続ける意味はないのだと。 傾いだ扉に手をかけ、覗く。左手に長谷部が見えた。その先に天仁の背中が見える。肩まで伸びた彼の髪の、僅かな跳ねさえ見える程の距離だった。 ジークリンデがその事を仲間に手振りで伝えると、ディディエが機先を制す為に大門を越えた。続いて緋桜丸も走る。彼らの足音は運良く雨が消してくれた。 だが、そんな様子に天仁はすでに気づいており、振り返る事もなく、その薄い口唇をにやりと歪ませた。大剣を握る右腕が、ゆらりと天を衝くように掲げられる。 何の動作か。 一瞬の間ほど躊躇したディディエだったが、緋桜丸はすでに天仁の懐めがけて駆けている。ふるっと頭を軽く振り、ディディエは砂漠の薔薇を突き上げた。上空で閃いた雷鳴に呼応するように、電撃が地を奔り、天仁を貫く。 鼓膜を激しく揺さぶる衝撃音がした。眩い閃光がおさまり、周囲に叩きつける雨音が戻ってくる。だが、開拓者らの眼前には自身の周囲を灰色に歪ませ、悠然と立っている天仁がいた。 無傷である。 眉ひとつ動かさずに、ゆるりとこちらを振り返るその肩越しに、湖住を連れて駆け出すレイ・ランカンが見えた。 大門へ一瞥をくれていた天仁の目が、右へと動く。ばしゃりと音を立て、一息に天仁の懐に飛び込んだ緋桜丸がグラムを左へ素早く斬り込ませ、すかさず手首を返して刃を右に戻した。数ミリと違わない位置を虎徹の波紋が奔る。 全身を青く発光させながら天仁は緋桜丸の攻撃を受け流す。僅かに掠めた虎徹の切っ先で天仁の目尻はぱくりと裂けていた。 天仁は濡れた外套の裾で、眼前で不敵に笑う緋桜丸の横っ面を叩いた。外套にたっぷりと沁み込んだ雨水が飛沫をあげる。マスクで隠しきれていなかった目を飛沫が直撃した。痛む目を強引に開けたまま後ろへ飛び退る緋桜丸だが、その腹に天仁のブーツがめり込む。叩き潰すような前蹴りだった。 呻くように後ずさる緋桜丸の目に、天仁へと斬りかかる柄土と駆け出す長谷部が飛び込んでくる。 羅漢の穂先を赤々と燃え上がらせ、柄土が天仁の足元を薙いだ。 ひらりと巨躯を浮かせて長槍をかわし、振り上げた大剣を一気に打ち下ろす天仁。柄土が泥の上を転がるように避けると、地面が割れ、赤土混じりの汚れた水が飛び散った。 その中から穂先が突き出されるのと、天仁の側頭部へ長谷部の蹴りが繰り出されたのはほぼ同時だった。 迷わず突いてくる穂先に気を取られた天仁だが、外套で巻き込むように柄土の攻撃を捌き、長谷部の蹴りを左腕一本で受け止める。 その衝撃に押し負けた天仁は地面に深い溝を作った。二本の溝に雨水が溜まる。 止まない雨。稲光が暗い空を奔った。 「天仁様」 やおらジークリンデが飛び出した。後方支援に徹すると思っていた彼女の行動に、急ぎ戻ってきたレイがぎょっとする。対峙している位置では天仁の斬撃ひとつでジークリンデの命はすぐにも散ろう。盾になるべく駆け出そうとしたレイと神座、神威を魔術師の柔らかな手が制した。 天仁に表情はなく、だが少しばかり首を傾げた。戦いの最中へ飛び出した彼女の行動が読めないようだ。 「咲様が亡くなられたのはヴァン・レイブンの謀でした。天仁様にとって仇敵であるヴァンは私達が倒しました。もう……貴方が人を殺し続ける事に意味はありません。どうか剣を引いてくださいませんか」 「……」 天仁は黙したままジークリンデをみつめていたが、笑を少し含んだ声が魔術師の耳に届いた。 「面白い提案だが断る。俺が剣を引いたところで終わらないだろうし、それでは駄目なのだよ」 横薙ぎに振るった大剣の斬撃は桜色の燐光を放ちながら、立ち尽くす魔術師を襲った。 神座は直線に奔る剣撃の下を潜り、体当たりするようにジークリンデごとその場から退いた。羽織もローブも泥まみれにしながら、かろうじて攻撃をかわす。 「戯言と聞き流してくれてかまわねぇ」 跳躍する緋桜丸は両手を交差させている。銀色の霞の中に、緋色の髪が大きくうねった。ほぼ同時にグラム、虎徹を左右に斬り開いた。 「あんたの腕は超一流だ。俺もその高みを目指し、いつかのアヤカシを屠った様に肩を並べてみたいとも思う」 「愉快な話だな」 緋桜丸の言葉に天仁は自嘲した笑みを浮かべ、易々と攻撃をかわした。その背を神威の拳が急襲する。素早い突きだが、天仁はそれを剣の柄で叩き落した。血のように赤い双眸が神威を捉える。 ディディエの詠唱で地面から聳え立つ壁に飛び乗った柄土と緋炎が、俯く天仁の頭上を左右から襲う。 落下しつつ放った緋炎の苦無が礫のように天仁の外套、胴衣、腿を容赦なく貫いた。痛みを感じないはずはないのに、天仁は怯みもせずに緋炎と柄土の二人を茫洋と見ている。 「結局のところ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という事なんだろう」 柄土の言葉に触れるや、天仁は憎悪の炎を瞬時に燃え上がらせた。 気温が一気に下がり、皆の吐く息は一様に真っ白である。 緋桜丸は必死に懐を弄った。視線は天仁の動向を常に監視してはいるが、袈裟斬りされた泥まみれの身体からは絶えず血が流れ続けていた。緋桜丸が探しているのは止血剤で、どうやらすでに使いきってしまったようだ。短く舌打ちする。 指先の感覚がない。視線を少し右にずらすと、腕を叩き折られた緋炎と、一文字に胴を裂かれている柄土も同様に地べたで呻いていた。二振りの刀も羅漢も二人の手から離れてしまっている。彼らも指先に感覚がないのだろう。 雨に霙が混じり、気温がかなり下がっていた。酷い出血と凍えるほどの外気で殊更開拓者の体力は削がれていた。 「どうしてあの男は立っていられるんだ」 脱臼した肩を無理やり戻した長谷部は、苦鳴と一緒に吐き捨てた。 致命的な打撃を与えられないまでも、これまで開拓者らが放った攻撃の内、いくつかは天仁を痛めつけているのは事実だった。それにも関わらず、地べたに這いつくばっているのは悉くこちら側なのだ。 全身を覆い尽くしていた激痛がふわりと和らいだ。ジークリンデと志郎が、天仁の間合いギリギリに立って癒しの詠唱を行ってくれている。 隙をつければ天狗礫の一つでも放ってやりたい志郎だったが、治療に専念しなければならない現状に臍を噛んだ。そんな彼の背を、同意するようにジークリンデが擦る。 白燐を散らしながら、これでもう一度戦えると真っ先に飛び出したのは緋炎と緋桜丸だった。柄土と神威もそれに続く。 だが、そんな様子にも天仁は気づいており、その薄い口唇をにやりと歪ませた。大剣を握る右腕が、ゆらりと天を衝くように掲げられる。 大門を潜ってすぐに初手で喰らった技だ。 ディディエの視線が左右に素早く動き、状況を観察する。緋桜丸は天仁の右手に、緋炎は左手に回り込んでいた。柄土と神威の二人は天仁の死角へと滑り込んでいる。ディディエは砂漠の薔薇を突き上げた。 天仁は片目を眇め、卑屈に笑っている。左手から踊り出た緋炎が鴉丸で払い抜け、飛び退った天仁を迎えるように緋桜丸の二刀が首と胴を斬り分けるように空を裂いた。それを天仁は半身を捩りつつかわす。捻じった上半身を戻す傍ら大剣を振り抜くと、二人の身体から鮮血が迸った。 その背後から炎を纏った羅漢が突き出される。右に左にと繰り出される穂先を剣尖で弾き返す天仁だが、その身体を大きく仰け反らせた。その両の目を、柄土が蹴り上げた泥が潰す。 怯んだ天仁の血の虹彩が瞬く。神威の奇襲が上手くいったのだ。今度は柄土が笑う番だ。神威は反撃を予想して後ろへ大きく跳ぶ。滑り止めに巻いた荒縄を泥の中へ食い込ませて、着地すると同時に身構えた。 横から長谷部が飛び出した。激しい雨中にも見事な脚捌きで駆け、一息に天仁の懐へと飛び込んだ。距離を取ろうと後退った天仁の背にひやりとした壁が当たる。天仁の喉仏が上下に動いた。逃げ道がない。 追い込まれながらも天仁はなぜか笑っている。その頭部を長谷部が一蹴した。天仁は巨躯に見合わない身軽さで跳躍し、長谷部の頭上を飛び越えた。 レイが追い、ジークリンデの蔦が天仁の足首を絡めとったが切り落されてしまう。志郎に手当を受けた緋炎と緋桜丸を伴い、神座が抜き身の焔を構えた。 「あんたに何があったか、何であんたが人を裏切ったかは理解した。せやけどな、裏切られた事が、裏切ってええ理由にはならん。全てはあんた次第やったはずや。違うか!?」 打ち下ろしながら体当たりする。眉一つ動かさない男に、神座の叫びは吐き出した白い息と共に雨の中に吸い込まれていった。 その天仁の双眸が驚愕に彩られて見開かれる。ぼとりと重い音を立て、天仁の腕がぬかるみに落ちた。炎を纏った穂先の上で、雨が踊るように跳ねる。 「いい反撃だ」 言うなり天仁は残った右腕で大剣を大きく横薙ぎに振り抜いた。 片腕から放たれたとは思えない重い斬撃に、に両腕を十字に組んで防御した緋桜丸だが、その足元には夥しい血が流れ落ちている。膝が折れ、口中に何度目かわからない泥水の味が広がった。バタバタと神座も柄土もくず折れていく。彼らもやはり酷い出血で立っていられないようだった。 すぐにも治癒を施したい志郎とジークリンデだったが、三人の位置が悪い。天仁ごと回復してしまいかねない状況にあった。 飛び出したレイと長谷部はまるで小鳥のように撃ち落されて、泥水に沈んでいる。 時間が無い、と神威が回復役二人に視線を送った。すでに前衛組の彼らからは多くの血が流れ出てしまっている。治癒で傷や怪我は治っても増血はされないのだ。失われた血を回復しないまま戦闘に従事していた柄土らを、このままにはしておけない。 天仁の眼前へ徐に飛び出し、神威は敢えて煽った。 大剣が持ち上げられ、その剣尖がぴたりと神威へ合わされる。刹那、天仁が地を蹴った。胸を貫かれ、大きく仰け反る神威の身体を掠めるように志郎が駆ける。痩躯に見えるが両脇にレイと長谷部を抱え、その場からすぐに離脱した。天仁から大きく距離を取った場所に二人を寝かせ、すぐさま閃癒を施す。範囲内にいた神座らの頬にも生気が戻っていった。 意識を取り戻した柄土が瞠目する。耳目を疑うように二、三度首を振ってすぐさま駆け出した。放り出される神威の身体を柄土が受け止める。抱いた柄土ごと癒しの光が包んだ。 積もり始めた雪の上に血の染みを残しながら、追われるのを楽しむように走る天仁の周囲を、鉄の壁が次々に聳え立つ。天を衝いて伸び上がる壁から長谷部とレイが飛び降り、勢いそのままで天仁へと足技を見舞った。左右からの足技を片腕だけで捌ききれず、天仁の身体はぬかるみに沈んだ。 泥水を跳ね上げながら滑り込み、 「だが…災厄の連鎖は止めねばならん、全力で。――信念或る限りこの牙は折れん…緋剣零式・獅子双牙!」 緋桜丸の二刀が右に左に天仁を裂いた。 「俺も大概、器用な方ではない。お前を討ち、幕を引かせて貰う」 陣羽織と袖口に妻の血が残る柄土が、最後の炎を羅漢に纏わせ、大きく突く。 腹に突き刺さった穂先を引き抜いた天仁の前に、緋炎がゆらりと立った。息がかかりそうな程の間合いだ。 「どれだけ修練した所で大切なモノが出来れば途端に人は弱くなる…だから俺はあの日全てを捨てて戦い続ける事を誓った…!」 闇喪の刀身から湯気が立つ。弧を描くように天仁の左肩から袈裟斬りにした。 「だがアヤカシをどれだけ手にかけても、渇きが癒えないこの感覚…君にもわかるだろう。それでもまだ続ける気かい?」 天仁は何も答えず、僅かに口角をあげる。緋炎はそれを微笑だとは捉えなかった。 欠けた大剣を地面に突き刺し、尚も好戦的な目を寄越す天仁を、神威は意識を朦朧とさせながらみつめていた。 (「彼女と一緒に生きた思い出まで消さないで。彼女が愛した貴方を、その手で殺さないで。憎悪で満ちようと復讐心に覆われようと、自分の心が別のものに変わりはないの」) 「捨てられないからこそ苦しい。だから私は捨てないことを選んだよ」 彼女の呟きは手当てを急ぐ志郎の耳にしか届かなかった。止血剤で血を止め、梵露丸を口に放り込む志郎。これでようやく治癒ができる。雨で張り付いた前髪を後ろへ梳きながら、志郎は息を吐いた。 天仁自身の思いはどうあれ、彼の身体は極限を迎えていた。雨の中に吐き出される白い呼気は浅く短く、膝は今にも折れそうである。 ディディエの詠唱に蔦が従い、天仁の足元から自由を奪った。大剣の柄を握る片腕はもはや上半身を支える程度にしか役立っていない。その大剣も、ジークリンデの灰球が打ち砕いた。 支えを失った哀れな男は無様に泥水の中へと倒れ込む。虹彩から光が徐々に消え去ろうとしていた。 それでも尚立ち上がり、何も持たない右腕を何度も振り抜いた。あたかもそこには大剣が存在し、これまで蹂躪し続けてきたのと同じように、開拓者らを真っ二つに斬っているようだった。 アンタは間違うてる――唇を噛んだ神座は長巻を上段に振りかぶり、間合いを詰めて打ち下ろす。 「数多の業を重ね、その魂を焼かれてまで…君は何を手に入れたかったんだい?」 闇喪を鞘に納めながら、緋炎が問う。 「大切な人を護るのも、その一つだ。なぁ、そうだろレイ?」 蒼白の天仁に緋桜丸は言う。 レイの名と姿を認めた天仁の視線が動いた。口元を隠す白い息が長く、口唇は何も象らないまま飛剣天仁は前のめりに倒れた。 「あんたの痛みも、今のレイは気付いた。皆、どこかで繋がっている。もう、一人ではない」 漆黒の髪を打つ雨はすっかり雪に変わっていた。 「ルルの事…礼を言う」 激しく黒塚の地を穿っていた雨は霙からぼたん雪へ、そして真っ白な粉雪になっていた。 天仁の命は最早風前の灯だった。その唇から鮮血が滑り落ちる。 夫、仁一郎に支えてもらいながら、横たわる天仁の傍らに膝をついた神威は、その血を指で拭い、 「咲さんと同じ赤い血が流れているじゃない」 大切な者を奪われる悲しみ、苦痛、空虚。神威の胸に一度に押し寄せたそれらの感情を押し殺すように彼女は唇を強く噛み締めた。 柄土もゆっくりと妻の傍に膝をつき、雪に埋もれながら冷えた肩を抱き寄せる。夫の温かな腕に引き寄せられた神威は堰を切ったように泣き出した。だが、その声は激しく降り始めた粉雪の中に吸い込まれていく。 天仁の頭元ではレイがぼんやりとその最期をみつめていた。ばしゃりと泥水が撥ねる。脱力して座り込んだレイの両手が地面を何度もかいていた。仮面は泥と返り血でひどく汚れている。その奥で、橙の瞳が濡れていた。 「我は救えたか。天仁…、そこに咲殿はいるか。いっしょに笑えているか」 空をみつめる天仁の赤い瞳はどこか安堵しているように見えた。そんな気がしただけかもしれない。そうであって欲しいと願う気持ちが、そう見せているだけなのかもしれない。 雪か涙かわからぬもので歪む視界の中で、天仁の顔についた泥や血を拭き取る手が現れた。神座だった。 無理に作ったその笑顔が痛々しい。瞬きをしない瞳から絶えず涙が零れていた。 愛しい者を奪われて、恨みを抱かない人間はいない。ただ、その気持ちをどう処理するかは個々によって違う。天仁は誤ってしまっただけなのだ。彼が選んだ道は死と血と破滅しかない、間違った道筋だった。ルルと出会った時に、道を修正する事もできただろうに、天仁は選ばなかった。ルルの光が及ばない程に男の心は闇に支配されていたのか。 「そないなことないな。だって…アンタ」 神座の喉が詰まった。嗚咽で言葉が紡げない。 (「めっちゃ幸せそうな顔してるやん」) 神座の手は休む事なく天仁の汚れを拭き続けた。頬に血をつけたまま、咲の元へは行かせたくないというように。 志郎が駆け寄り、天仁の様子を見る。 「最後くらいは大切な人に再会させてあげたい」 天仁が犯した罪は彼だけのものだが、これまで受け続けてきた魂の苦痛を、最期の瞬間くらいは取り除いてやりたかった。 志郎の行動を止める仲間はいない。 天仁の死に戸惑いを隠せないレイの手から咲の笛を預かり、ジークリンデは唇に押し当てる。痛みすら感じる冷たい風が吹き抜ける中を、葬送の旋律は灰色の天空へと静かに上っていくのだった。 |