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■オープニング本文 ●廓(くるわ)の艶女● 神楽の都―― 都において、夜になると華やぐ区域があった。夜毎に賑わう場所‥‥そう、歓楽街である。 区画自体を指してそう呼ぶものの、中には老舗の料亭や酒処といった普通の店も多い。 しかしやはり、艶やかな着物に身を包んだ女達が手を招く「廓」の類が最も賑わっていた。廓とは、つまり遊郭の事である。 単に酒を呑むにしても、見目麗しい女に酌をされたいもの。艶のある立ち居振る舞いを眺めながら、一時の夢に興じる。 こういった娯楽施設を疎む者もいるが、それに乗じて周辺の商店などが潤う事が実際に起こる現状では、周辺の住民とて公に非難する訳にはいかなかった。 おまけに、要人や高貴な者への接待などでも使用される事から、尚のことそういった区画を禁じようという声は上がらないのである。 歓楽街の一画。廓の多く立ち並ぶ場所に、古くから廓を営む「喜銀屋(きぎんや)」という店があった。 こうした廓の経営者の多くは現役を退いた年頃の女性で「女将」と呼ばれており、店で男達を相手にする女達の「母親」という立場で切り盛りしている。 要人への接客上、必要不可欠な高い教養や知識を必要とする彼女達に勉学を学ばせたり、芸事を習わせる。給与として日銭を渡す代わりに、必要な道具や着物を与え日々の生活を賄ってやるなど、そのほとんどを女将と所属する廓が世話してやるのだ。 そういう繋がりで彼女達はひとつ屋根の下で寝起きを共にし、店を訪れる客の相手をする毎日を送っていた。 喜銀屋には、数十名の娘達が住んでいる。 客を取り始めて間もない娘達は、先輩にあたる上級遊女‥‥所謂「花魁」や「太夫」と呼ばれる「姉」達の世話や廓の仕事を任されている。 太夫ともなれば、要人といえども礼を尽くし丁重に扱うようになり、廓からも特別扱いされる。 もちろん部屋は個室の座敷を与えられ、持つ品々も高級な物となる。多くは客からの贈り物であるが。 しかし、上級になればなるほど行動への束縛は厳しくなる。巷でも名の通る太夫であれば、ほとんど外出には廓の供が付き、自由な時間を制限されてしまう。 太夫の「商品価値」が下がらぬよう、どこの馬の骨やら寄り付く虫やらを払う為に廓としても必死なのである。 多くの娘達を抱える喜銀屋には、上級太夫は3人在籍している。 この3人は俗に「喜銀の三種の神器」とまで言われる美女達で、この娘達が稼ぎ出す金は相当なものだった。 お蘭太夫、香澄太夫、貴蝶太夫と呼ばれる3人の太夫達は、それぞれご贔屓の支持に支えられながら、夜毎一夜の夢を提供していた。 ●貴蝶太夫の恋● 「お姉さん? 貴蝶お姉さん、いはりますか?」 歓楽の喧騒の静まった、そろそろ明け方という刻。 ひそひそと廓詞で呼ばれ、貴蝶太夫の部屋の襖がそっと開いた。 まだ女というには早すぎる14〜5歳そこそこの少女が、ひょこりと顔を覗かせる。 覗き込んだ部屋の奥、窓辺の傍にひとり座り月を眺めていた貴蝶は、ゆっくりとした動きで振り返った。月夜に照らされた障子窓の外は紫色、それを背後に佇む貴蝶の姿は女の目から見ても美しかった。 「お姉さん、お支度はよろしいですね?」 外を警戒するようにきょろきょろと見渡し、音を立てないように障子を閉めながら少女は部屋の中に入った。 「貴咲(きさき)ちゃん‥‥」 己が芸名の頭文字の一字を冠した、この廓で唯一心許せる義姉妹の少女。誰よりも心から大切に、貴蝶が守ってきた娘。 「貴蝶お姉さん、大丈夫。きっとお母さんも判ってくれはります」 寂しげな貴咲の瞳が、月影に揺れた。 貴蝶には、身請けの話が上っていた。 太夫の身請けは破格の損害。しかし大金も喜銀屋に入る。女将以外の喜銀屋の者達は皆、提示された金額を見て、身請けを歓迎した。 ただひとり‥‥女将は、3人の太夫の中で、最も思慮深く控えめな気質の貴蝶の身請け話を、最後まで反対した。 「お母さんも、ずっと反対してはった事ですし‥‥後の事は任せて、どうか想いを遂げて下さい」 少女の顔は、これが今生の別れと思ってか切なげに歪んでいる。 夜宴の匂いの残る着物をするりと脱ぐと、貴蝶はそっと呟いた。 「貴咲ちゃん‥‥ありがとう」 貴咲は身支度を終えた貴蝶を手招きし、喜銀屋の中庭に出た。隠してあった荷車に貴蝶を乗せると、一見してそれと判らぬように藁をかけ、夜明け前の大通りへと向かった。 待合場所にいたのは、清楚な束帯を旅用に整えた青年だった。 「貴咲さん‥‥!」 青年の名は、結城 充陰(ゆうき みつかげ)。アヤカシ研究の盛んな五行出身で、研究員として都に派遣された末端の仕官である。 たまたま研究員を交えての酒宴の際、喜銀屋を利用した事がきっかけで貴蝶と充陰は知り合った。 よくある話である。2人は同い年の21歳ということで話も合い、まるで用意された道だったかのように恋に落ちた。 人気の太夫と、末端の研究員ではある意味「身分」が違う。迷いに迷い、悩みに悩んだ2人は、身請け話をきっかけに「駆け落ち」を決めた。 丁度、充陰の本国への帰還令に伴い、彼は貴蝶を本国へ連れ出すよう算段したのだ。 「お姉さんは、部屋から連れ出しました。お約束どおり、例の集落に話は通してあります。そこで落ち合って下さい」 「承知致しました‥‥何から何まで、ありがとう御座います」 充陰は深く頭を下げた。いつもは長い銀の髪に烏帽子の彼は、今日は髪を束ねて旅路用の藁笠に淡い若草色の装束である。 朝日の昇る大通りを、都の南へ向かって旅立つ充陰。その背を見送って、貴咲は喜銀屋へと急いで戻った。 ●訃報、その悲恋の仇討ち● その3日後―― 開拓者ギルドの扉を開き、2人の女が入ってきた。静々と入ってきた女達は、2人とも目深に頭から布を被っている。 「ご依頼させて頂きに‥‥参りました」 少し背の低い、若い娘がカウンターへと出向いた。もうひとりの女を、労わる様に椅子に腰掛けさせて。 職員がひとり、カウンターの外へ出て対応するその様子を、椅子にかけた女は眺めている。 「わたくしは、喜銀屋の貴咲と申します‥‥開拓者様に、是が非でも仇を討って頂きたいと、申す者がおりまする」 布をはらりと取り去ると、貴咲は椅子にかける女の元へと職員を促した。 貴咲が優しく女に触れ、その頭巾を取り去ると、そこには白磁の人形のように美しい女の面が現れた。 目が赤い。涙に暮れたのだろうか、化粧の上にはいくつも筋が残っていた。 怒りか、悲しみか‥‥その目は涙に移ろいながらも、何かを決心したような強い光を放っていた。 女は、すうっと静かに息を吸い込むと、貴咲に手を握られながら言った。 「わたくしは、喜銀屋の貴蝶太夫と申す者で御座います。お頼み申します‥‥わたくしが生涯、只一人と心に決めた御方の‥‥仇を討って頂けませんでしょうか」 |
■参加者一覧
真亡・雫(ia0432)
16歳・男・志
篠樫 鈴(ia0764)
17歳・女・泰
神宮 静(ia0791)
25歳・女・巫
福幸 喜寿(ia0924)
20歳・女・ジ
王禄丸(ia1236)
34歳・男・シ
白姫 涙(ia1287)
18歳・女・泰
斬鬼丸(ia2210)
17歳・男・サ
不動・梓(ia2367)
16歳・男・志 |
■リプレイ本文 ●開拓者達、揃う● 「すみません‥‥生憎、貴蝶お姉さんは、ちょっと‥‥」 神楽の都にある開拓者ギルド。 そこに集結した一行に、依頼者の代理人である貴咲は深く頭を下げた。 依頼人の貴蝶はどうやら、一行を見送りには来られない状態らしい。その事を貴咲が代わって詫びた。 丁寧に深々と頭を下げる様子に、真亡・雫(ia0432)は大きく頷き頭を上げさせる。 「依頼人の心を少しだけでも晴らしてあげなければ。それに放っておいたらまた犠牲者が出ますしね」 凛とした雫の赤い瞳に、貴咲はそっと目を伏せた。 「太夫の恋か‥‥私も元遊女としてわかるような気がするわ。でもその恋を壊したアヤカシは許せないわね」 神宮 静(ia0791)は、昔を思い出すような口振りで言った。元遊女の彼女には、貴蝶の想いが理解できるのだろう。 「危険な事です‥‥しかしアヤカシ相手には到底、人は太刀打ち出来ません。開拓者様におすがりするしか‥‥」 人を喰らうアヤカシへの仇討ちを依頼する事は、貴咲にとって心苦しいのだろう。貴蝶の為とはいえ、開拓者達を前にして気が引けるようである。 その気持ちを察した福幸 喜寿(ia0924)は、貴咲の肩に優しく手を置く。明るい笑顔で微笑むと、元気付けるように言った。 「貴蝶さんの無念、晴らせるならば。その顔まで幸せに晴れさせたいさねっ!」 「霧みたいなんの中に隠れる敵なぁ‥‥うちはちょっと戦いにくいかもしれへんけれど、これも経験!」 ギルドの待合室の外では、準備を終えた数名が待っていた。 元気な口調で拳を振り上げたのは篠樫 鈴(ia0764)、接近戦を得意とする泰拳士の彼女は、そう漏らした。 「現地の見通しは良いと聞く。敵を捜索し、一匹一匹を確実に倒していけば問題なかろう」 ぬうっと大きな身体を揺らしてやってきた王禄丸(ia1236)。牛の頭骨を模したものを被った大男で、王禄を自称して、牛を名乗っている。本人の素顔は、滅多に晒されることはない。 その王禄丸の言葉に、ひとつ頷き、白姫 涙(ia1287)は、淡々とした口調で呟いた。 「仇‥‥ですか」 そっと青い目を伏せる。 「その深き悲しみ、はたして仇討で晴れるものなのか‥‥。なれど‥‥やはり仇討は願ってしまうものなのかも、しれませんね」 仇を討ったとしても、故人が生き返るわけではない。それでも、遺された者達は願ってしまうのだろう。あまりに、それが理不尽に奪われた命なら、尚更である。 不動・梓(ia2367)は、そんな仲間達の言葉を聞いていた。 梓は、今回に限っては漏らすべき言葉もないと思っている。感傷がないのは「少なくとも俺が語るべき言葉ではないから」と。しかし‥‥ (「‥‥嘘。少しは‥‥哀愁も感じている‥‥」) 口には出さないものの、梓は困ったような、ほんの少しだけの苦い微笑を浮かべた。 貴咲と面会していた仲間達が、出発の為ギルドから出てくる。 鈴はいよいよとばかりに荷を担ぎ、声を張り上げた。 「なんとか退治したらな無念やろしね‥‥! さあ、行こか!」 鈴の気合の入った言葉に頷く者達の中にあって、斬鬼丸(ia2210)だけは感情表現に乏しい無表情だ。 「‥‥どんなアヤカシだろうと、必ず斬ってみせます。それが僕の仕事ですから」 斬鬼丸がぽつりと呟いた言葉は、至極事務的なものだった。 ●野原の吸血霧● 一行は神楽の都を離れ、一路現地へと向かった。 被害者である結城充陰は、都より南へ徒歩約2時間の集落へ向かう途中、アヤカシに襲われたと伝わっている。遺体を発見したのは集落の住人で、現場は都から徒歩約1時間の地点ということだった。 移動に時間のかからない依頼の為、一行は昼過ぎに現場近くへと到着した。 早咲きのすすきが穂を揺らす野原。一面が青いものが混じるすすきに埋め尽くされている印象を受ける。 人の腰まである背の高いすすきに覆われた現地。ただし見通しは良く、捜索自体に難はなさそうだった。 大柄な王禄丸は、すすきの中に踏み入るとぬうっと伸び上がった。牛の頭蓋を模したものが、遠くを見渡して吸血霧を探す。 その王禄丸の周囲に固まるように、一行は捜索を開始していた。 通りを挟む両側が野原ということで、見通しはいいがとにかく広い。吸血霧自体も然程大きなものではないということで、とにかく一行はすすきの中を移動しつつ四方に気を配っていた。 「こんな昼間でも出るんやろか」 鈴は真上を少し過ぎた太陽を見上げて呟く。日差しが強い。 「アヤカシが出る時は、時も場所も選んでくれんらしいさね。どこにでも沸くから、厄介さね」 ざくざくとすすきを掻き分けながら、少し訛りのある言葉で喜寿は答えた。 「‥‥あれか」 しばしの後の事である。 突然、歩いていた王禄丸が歩みを止めた。 視認できる距離ではあるが、まだかなり遠い野原の中に、もやもやとしている黒い煙のようなものが浮かんでいるのを発見した。報告のあった通り、数は点在しているものが3つ。 「いましたね‥‥では、手筈通りに」 雫は腰元の刀を早速抜いて構えた。 今回は、一体ずつ確実に仕留めるという戦法で、全員が一斉に攻撃を行うように決めていた。出来るだけ声を掛け合いながら行動し、同士討ちの危険を避けるよう工夫も行う手筈である。 一行はそれぞれの武器を構え、一番手前に浮かんでいるものへと歩みを進めた。 瘴気の霧の中に本体の目玉があるという、吸血霧。曖昧な形状だが、その瘴気に触れ絡め取られると危険である。 不用意に近付く前にと、喜寿は持っていた泰弓を番えた。 「小さい的さね‥‥でも、流鏑馬よりかは当て易いさねっ!」 狙いをつけながら、喜寿は弦を引いた。 「これで当てなさい!」 静は妖艶な身体で舞い、喜寿に神楽舞を施す。支援を受けた矢は、一直線に吸血霧へと飛んだ。 もやもやとした霧を、矢は通過する。本体の位置を、少し外れたようだった。 ならばこれで、と静は舞を変える。今度は、斬鬼丸へと神楽舞を舞った。 「強烈な一撃を喰らわせてやりなさいな!」 舞を施された斬鬼丸は、少し間合いを詰める。無表情で吸血霧を見据えると、両手に構えた長巻を振り上げた。 「撃ちます。下がってください」 周囲にいた仲間達は、その声に両脇や後方へと一旦下がる。それを横目で確認し、斬鬼丸は地断撃を放った。 吸血霧を正面に捉え、衝撃波が地を走る。猛烈な突風と衝撃で、黒い霧が形状を崩した。 「‥‥そこか」 斬鬼丸の目に飛び込んできたのは、霧の中に浮かんだ目玉だった。衝撃と突風により、目玉は露出する。 一斉に飛び出す一行。本体を晒した吸血霧は、その中心を隠すかのように霧を再び纏い始める。この間合いでは、間に合わない。 だが‥‥ 「間に合わぬとて、そこに本体がいるのは確認した。霧に逃げようとも、もはやこれまで」 王禄丸は炎魂縛武を発動する。炎に巻かれた長巻で、霧の中央を薙ぎ払う。 霧は悶えるように収縮を繰り返し、一行に向けて霧を伸ばそうともがいた。 その時、涙は気付いた。野原に漂う戦闘の気配を察してか、そこに人の気配を察してか、他2体が徐々に近付いて来ていることに。 「雫さん、鈴さん。両側、来ます」 近くにいた雫と鈴は、その声に瞬時に反応した。 両側から向かってくる吸血霧に、各々身構える。 「前に出るよ!」 鈴は叫び、雫と共に駆け出した。 「もういっちょ、いくさね!」 「今度こそ、当てなさいな!」 喜寿は前方へ駆け行く2人に注意しながら、静の援護を受けて矢を射った。狐を描いて飛んだ矢は、霧の中心を射止めて止まった。 「やったさね! あれが目印さね!」 喜寿の声を背後で聞きながら、鈴は共に走る雫を振り返った。 「弱点の場所、教えてっ! うちの拳ぶちこんでくるから!」 「承知しました! 探ります!」 雫は前方から向かってくる吸血霧に対し、心眼を発動した。もやもやと曖昧な霧の中心からやや右に、霧に隠れるように本体を察知する。 「ささっている矢よりも少し右側です!」 「判った!」 鈴は一足先に間合いを詰めた。 振り返った梓は、持ちなれない薙刀を握り直した。他2体は既に交戦中。視界には3体目が向かっている様子が映っている。 (「‥‥うう、嗜みくらいはあったんですが」) 使い慣れている長槍に代え、今日は薙刀で挑んだ梓。相手が吸血霧ということで、配慮した選択だった。 普段使用していない武器ではあるが、同じ長物。手に馴染んだとは言えないが、振るうのにもたつく事もない為、3体目へと急ぎ足で向かった。 背後で、ギィと奇妙な断末魔が上がった。ちらりと振り返ると、王禄丸の長巻に射抜かれた吸血霧が霧散しているところだった。相対していた王禄丸と斬鬼丸が、ほぼ同時に梓の方を向いた。 こくりとひとつ頷いた梓は、2人に先行して3体目へ向かう。 まだ霧のどこに本体が隠れているか定かではないが、リーチの長い薙刀で霧を避けながら切り込むしかない。 2体目と対している鈴は、足を生かして間合いを詰めた。 「必殺! こんにち〜波っ!!」 叫んだ直後に、挨拶代わりの一撃を打ち込む鈴。しかし、そこには残念ながら霧しかなかった。 ビリビリと肌を刺すような痛みを感じ、鈴は咄嗟に疾風脚で飛び退る。 「いったぁー!」 利き腕は、霧に打ち込んだ二の腕辺りまでがうっすらと血に染まっていた。どうやら、霧で捕食するらしく、触れるだけで肌を傷つけられてしまうらしい。無数の切り傷のような裂け目が、腕のあちこちについていた。 「しっかりして! 傷は浅いわよ!」 駆け寄ってきた静が、鈴の腕を神風恩寵で即座に癒す。 2人の前に出た雫は、霧に触れないよう注意を払いつつ、刀を矢の右側へと刺し入れる。霧が拡散すると刀を引き、また振りかぶった。 ギィ! 手応え。 「ここですね‥‥っ!」 霧の反対側で間合いを詰めた涙は、その声に大きく刀を振り上げる。返した刃が、陽光の光を受けて眩しく煌く。 「これで‥‥っ!」 涙は好機とばかりに刀を突き入れ、渾身の力でそれを引き抜いた。引き抜き様に、吸血霧の本体を囲んでいた黒い霧が広がる。素早く身を反転させてそれをかわした涙の目には、ギィギィと断末魔を上げながら霧散していく吸血霧の姿が映っていた。 「‥‥お見事」 梓は額の汗を拭いながら、涙に微笑んだ。 「ちょいと離れて欲しいさね!」 薙刀を振るう梓の耳に、喜寿の声が聞こえた。 咄嗟に梓は薙刀を引き、横へと退く。 その一瞬後、霧の中央目掛けて喜寿の矢が放たれた。 霧の中央には、ぶらりと下向きに矢が刺さった。刺さりが浅いようだが、これで目印となる。 駆けつけた王禄丸と斬鬼丸は、その矢を目掛けて武器を振るう。本体が露出していない分、狙いが付け難いが、目印のおかげで傷は確実に負わせていた。 梓も2人と共に吸血霧を囲み、薙刀の刃をその霧の中へと向けた。 ほぼ同時に、2点で断末魔が上がった。 ギィギィ、という奇妙なそれを発した2体の吸血霧は、1体目と同様に空気に散るように静かに霧散していったのだった。 「一応、周辺の散策を行いましょうか」 刀を振るって鞘に仕舞いながら、雫は言った。周囲にアヤカシの影は見当たらないが、去る前に一通り警戒しておく方が良いだろう。 その提案に、皆頷いた。 その後、すすき野原一体を巡回し終えた一行は、安全を確認出来たということで野原を後にすることとなった。 ●カランコロンと鳴る夜は● 一行は、神楽の都に無事帰還した。 その足で、一行はギルドで待つ貴咲の下へ向かう。 「‥‥ありがとうございました‥‥!」 はらはらと貴咲の白い頬に涙が流れていく。彼女とて、近しい人を亡くした事で、心に大きな傷を負っていたに違いない。 貴咲は、無事に仇を討てた事を貴蝶に伝える為、一緒に喜銀屋に来て欲しいと願った。 その途中、丁度歓楽街へと一行が足を踏み入れた時。 カランコロン‥‥カランコロン‥‥ 「あれは‥‥!」 貴咲が慌てて駆け出した。 何事かと思い、一行がその後に続く。 「わあ‥‥これは綺麗やなぁ」 思わず鈴は声を上げた。 三枚歯の駒下駄が、通りに音を響かせている。 「貴蝶お姉さん‥‥」 前方からやってくるのは、ゆっくりとした歩みで通りを歩く貴蝶太夫だった。 燐とした瞳は、真っ直ぐに前を見据えている。 ただ、貴蝶太夫の着物は‥‥襟元が朱で、銀の刺繍が裾に施されているだけの全体が漆黒のものだった。本来、道中で着るようなものではない。まるで喪服のようだ。 たった一人、供の若い番頭がいるだけの、花魁道中。 何かの決意ゆえか、はたまた弔いの気持ちを込めてか‥‥貴蝶の胸の内は判じかねるが、それはひどく物悲しい姿に見えた。 「貴咲ちゃん‥‥」 貴蝶は、貴咲の前まで来ると、貴咲の背後に並ぶ一行に目を留めた。一行の姿で察した貴蝶は、顔を歪ませると静かに目に涙を浮かべる。 「‥‥討って下さったのですね‥‥」 ――ありがとう御座います―― 小さく呟いた彼女の前に、喜寿が進み出た。その手をそっと差し出し、にっこりと笑う。 「貴蝶さん、これ、ほおずきさね、あの人の霊が迷わずに帰ってこれるようにって、置いておくといいさねっ! 縁起がいいさねっ♪」 手の中には、ちょこんとほおずきが乗っていた。貴蝶はそれをそっと摘み上げると、目の前に掲げて薄っすらと微笑んだ。 「充陰さんも、貴女が笑顔でいてくれることを想っていてくれてたはずです。だから少しでも早く、元気になってください」 そう言って声をかけた雫に、貴蝶は頷いた。 「これからどうするのかしら?」 元遊女の静としては、貴蝶がこのまま太夫を続けるのか、それとも身請けを受けるつもりなのか、気になるところだった。 貴蝶は、貴咲を手招きし、それに答える。 「わたくしは、太夫を続ける事に致しました‥‥。あの方以外に、我が身を捧げるつもりは御座いません。それに‥‥この子の傍に居とう御座います」 赤い夕焼けが、貴蝶のかんざしに反射して煌く。 歓楽街にはまた、夜宴の賑わいが戻ってくるのだろう。 その賑わいと艶やかさの影には、こうした心に傷を持つ女達が大勢いるのだろう。己の為、誰かの為に、今宵も一時の夢を演じているのだ。 カランコロンと鳴る夜は、女が悲しみを隠して演じる夢の音‥‥。 ――後に、貴蝶が耳にした話である。 残った遺体だけでしめやかに行われた充陰の葬儀。その後の事らしい。 誰から聞いたのか、貴蝶が建てた充陰の墓に、ひとり参りに来た者がいたという。 その姿は少し特徴的で、菩提寺の住職は遠目に見てそれを覚えていた。 とても大柄な人物で、牛の頭蓋を模したと思われる物をつけたその人物は、墓前にそっと手を合わせ、ひっそりと静まり返った墓地を去って行ったのだという―― |