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■オープニング本文 ● 『金髪さん』の傷もだいぶ癒えた。旅の途中だった彼はそろそろ伊堂を出ることになった。 「じゃあ、金髪さん。最後にとっておきの場所に連れてってあげるよ!」 そう言って準備を始めた斗季に、金髪さんは苦笑を返した。 「斗季さん。金髪さんはよしてください。ジークリードです。ジークと呼んでください」 「あ、そか。ごめんごめん」 つい『金髪さん』と呼んでしまうのは、ジークリードさんとかジークさんと呼びにくいからなのだが……確かに、名を隠しているわけでもないのに『金髪さん』のままでは失礼かもしれない。 小さな行李の中をざっと確認して、おにぎりと水筒を二人分用意した斗季は、裁着け袴に着替えた。 「じゃあ、おばあちゃん。ちょっと行ってくるね!」 「主様によろしゅうな」 「うん!」 ● ちょこまかと歩くワンコを眺めながら、ジークリードは斗季に訊いた。 「ヌシサマとはなんですか?」 「ああ、山の主様よ――今日行く山はね、大きな白い猪が主なんだって。私は会ったことないんだけど、おばあちゃんはあるみたい」 「白い猪ですか……」 山道――ほとんど獣道といっていいほどだが――の入口付近に小さな鳥居と祠があった。 斗季はそれへ手を合わせてから山へと足を踏み入れた。 「……何をお願いしてたんですか?」 不思議そうに尋ねたジークリードへ、斗季は笑う。 「お願いじゃないの。ご挨拶よ。山の中を歩き回るけれど、薬草をもらいに来ただけですって、お伝えしたの」 ジルベリアではそういう風習はなかったのか、ジークリードは感心したように頷いた。 細い山道は蛇行して上へと続く。両脇は鬱蒼とした森が広がっており、後ろを見ても道があったのかどうかさえ、ジークリートにはわからなかった。先を進む斗季は慣れているのか、目印となるようなものを知っているのか、歩みに迷いはない。 進むうち、斗季はあたりの木を見回して少し眉を寄せた。 (……何かあったのかしら……) 折れた枝々、木の幹につけられた爪痕のような瑕――獣が激しく争ったような……。 斗季は慎重に先へと進んでいった。 幾分先を進んでいたワンコが急に吠え立てる。 「!!」 斗季は杖を握りなおすと、ジークリードに『静かに』と伝えてそっと子犬の方へ近寄った。 木の陰から覗いてみると草むらにあったのは巨大な白い岩――否、よく見れば小さく上下している。そして、脇の方から鮮血が流れているのが見えた。 「たいへん……!」 斗季は飛び出し、行李をおろしながら駆け寄る。 それは、巨大な猪だった。 猪は薄目をあけて、こちらへ顔を向けた。 「じっとして! 手当するから」 斗季はそう言って手早く血止めと殺菌作用のある薬草と練り薬を出して猪の傷を調べた。 「……これ……なんの傷……? 牙みたい……?」 訝って呟くと、ふいに重々しい声が聞こえた。 『狗だ』 「いぬ? ……え? 今の……?」 ジークリードを見ると彼は首を振る。とすれば……。 『……儂だ、薬屋の孫娘』 白猪が苦笑するような声音で言った。 斗季は大きく目を開いて、呆然とする。普通の獣なら喋りはしないだろう。しかも自分を知っているなんて! 「まさか、主様……?」 白猪は肯定した。 「どうしてこんなことに……?」 斗季の疑問に、白猪――山の主はかいつまんで話してくれた。 山ひとつ向こう、魔の森にほど近い山の主がとうとうアヤカシに喰われたらしい。 それが版図を広げんとして――というより、餌を求めてこの山にまで入ってきた。 アヤカシに喰われたのは巨大な山犬だった。額には一本の角があり、その体毛は太い針のようだという。 そしてすでに死して骨となった狗の群れが大山犬についてきた。 それら十数頭ばかり、主は難なく撃退できると思っていたのだが、大山犬のアヤカシはあろうことか森の獣を呪力で操り、挙句は山の者同士の争いとなった。 『口惜しいことよ……代替わりさえ済んでおれば、今少しは抵抗できたものを……!』 白猪は苦々しく唸る。 「あ、おばあちゃんに聞いたことある。何十年か何百年かで主様が交代するって――新しい主様だと山が守れるの……?」 斗季が言えば、白猪は苦笑した。 『無論。年寄より若い者のほうが力が強かろう』 「あ。そか……」 斗季は白猪の傷に薬草をあて、帯でしっかり胴を巻いてからしばらく考え込む。 すると、ジークリードが恐る恐る口をはさんだ。 「あのう……。ヌシサマ。初めまして。私はジルベリアから来ました。ジークリード・アモンと申します。あの、差し出口をお許しください。そのアヤカシ、開拓者にお願いしてみてはどうでしょう?」 『開拓者……』 「……うん。私もそれがいいと思う。何度も助けてもらったの! アヤカシ討伐の専門家、って言ってもいいと思う。山が荒れて困るのは主様たちだけじゃない。薬草をもらってる私だって困るもの」 白猪は考えこむようにしばらく黙っていた。 『……それらは信用なる者どもか?』 「信用してもらっていいと思う。少なくとも、私が会った開拓者はみんないい人だったし……山を荒らさないように、ってお願いすればできるだけそういうふうに動いてくれるわ」 しっかりと頷いた斗季を見つめ、白猪は厳かに告げた。 『ならば信じてみよう。アヤカシどもの討伐、頼む』 「はい! すぐギルドに行ってくるね! ジークさん、急いで戻ろう! あ。その前に、主様をどこか安全なところへ……」 威勢よく立ち上がった斗季はきょろきょろと見回す。が、白猪はくつくつと笑った。 『儂のことはよい。代替わりの儀まで命を落とすようなことはせぬ』 斗季は頷き、おにぎりを白猪の前に置くと、『行ってきます!』と言って身を翻した。 「迷わないようについてきて、ジークさん! 走るよ!」 「は、はいっ!」 そうして二人と一匹は、ついさっき登ってきた山道を転げるような速さで駆け下りた。 |
■参加者一覧
ミルシェ・ロームズ(ib7560)
17歳・女・魔
一之瀬 白露丸(ib9477)
22歳・女・弓
乃木 聡之丞(ib9634)
35歳・男・砂
秋葉 輝郷(ib9674)
20歳・男・志
天野 灯瑠女(ib9678)
26歳・女・陰
葵 左門(ib9682)
24歳・男・泰
闇川 ミツハ(ib9693)
17歳・男・シ
大谷儀兵衛(ib9895)
30歳・男・志 |
■リプレイ本文 ● 伊堂は久々に雨が降っていた。やわらかな雨はしっとりと地を潤し、山は淡くけぶっている。 ミルシェ・ロームズ(ib7560)は、優しげな風貌を曇らせて呟く。 「動物さんを……操って、けしかけるなんて……酷い……です。別山の主様で、本来なら……守る立場であったでしょうに……何て、悲しいのしょう……」 それへ同意するように頷いたのは天野白露丸(ib9477)。 「山を荒らせば、私達もアヤカシと同じか……心しなければ」 「アヤカシの被害は人だけに限らぬ、か。ここでまた更に主が餌食となれば、更に山が荒れる。負の連鎖は早く止めねばならん」 そのための手は惜しまない――そう言ったのは秋葉輝郷(ib9674)だ。 仲間たちの少し後ろで聞いていた大谷儀兵衛(ib9895)はこっそりと嘆息する。 (山の主も楽ではないな。その苦労、俺のような根無し草には計り知れん。大山犬も気の毒とは思うが、せめて安らかに眠らせてやらねばな……) 一方、葵左門(ib9682)は鬼面の下、くつりと喉の奥で嗤った。 (どの儀もアヤカシが猖獗を極めるものだなぁ? 飢餓感満たし、欲の為に喰らうヒトと何ら変わらないというのに……まぁいい。堕ちる場所はどの道同じ。先に待っているといいさ……) そしてそれぞれの思惑など吹き飛ばすような乃木聡之丞(ib9634)の轟笑があたりに響き渡った。 「委細承知した。この乃木聡之丞に全て任せておけ! はっはっはっはっ! 俺はいずれ天儀を背負ってたつ身。いかな地にあっても世の人が苦しむ姿を捨て置くわけにはいかん!」 ふんぞり返って笑う男を、案内してきた役所の者はぽかんと見上げた。 「山を荒らさず、獣は傷付けず、か。さあ、どう動いたものか……っていうか、俺出るときって、いつも雨なんだよな……」 水滴を落とす空を見上げてぶつりと言ったのは闇川ミツハ(ib9693)。 そこへ包みを抱えて走ってきた斗季が、ミツハに笑いながら言う。 「でも、久々の雨なの。みんな助かるわ。あ、山は少し滑りやすくなるから気を付けて。……えっと、葵さんは……あ、いた」 斗季は、早々に到着していた左門に獣が嫌う臭いのきついものはないかと言われ、薬屋に戻っていたのである。 「はい、これ。吸い込まないように気を付けて。咳き込むから」 「わかった……鼻先に投げつけてやれば気付けにもなるだろうさ」 操られた動物に使うのだと聞いていた斗季は、そう呟く左門に頷いた。 そして、ジークリードは自分の淹れた茶を気に入ってくれたという天野灯瑠女(ib9678)にいたく感動してるようだった。 「帰って来る頃には喉が渇いていると思わない? 美味しい紅茶、また淹れて」 そう言う彼女に、ジークリードは嬉しそうに頷いた。 「はい。香りのいいお茶を淹れましょう」 そのやりとりを眺めていた斗季の前へ、聡之丞の長身がずずいと迫る。 「可愛らしいお嬢さん、この仕事が終わったら一緒にお茶でもいかがかな?」 「? お茶なら、ジークさんが淹れてくれますよ?」 首を傾けながらそう言った斗季に、聡之丞は……重々しく頷く。彼の背後で、なぜか急に咳き込みはじめる者が続出した。 雨が止んだ。 山へと入っていく開拓者たちの最後尾にいた輝郷は、斗季へ声をかける。 「久方ぶりだな。元気そうでなによりだ。ところで今回も討伐についてくるつもりか? 怪我をさせてはお婆殿に申し訳が立たぬが……」 「お、お久しぶりです! 今日はここで待ってます。邪魔になるし……この道をそのまま進めば、主様がいたところに着きます。まだ、そこにいるかどうかはわからないけど……」 いくぶん頬を赤らめてぺこりと挨拶した斗季は、小さな祠の傍の道を指す。輝郷は仲間たちが先を進む道を見上げ、頷くと山へと踏み込んでいった。 ● 灯瑠女が『人魂』の鷹で得た情報により、左門、白露丸、ミツハの三人は屍犬を引き付けるために移動を開始する。 「大物は任せた」 白露丸の言葉に、手をあげて応えた五人は風下から大山犬へ近づいていく。その間にも、灯瑠女の『人魂』が飛び立っていった。 左門は剣で軽く腕を切り、血を落とす。同時に『背拳』を発動させた。 風が吹き抜けていく――彼らの前方に屍犬の群れが現れ、標的を確認したか二手に分かれる。それに混じって操られているらしい獣の姿もあった。 「骸骨と獣は間違えようがないな」 呟いたミツハはぎりぎりまで引き付け、両側から襲い掛かる屍犬の攻撃を『早駆』でかわす。刀を抜き放ち、体を捻って噛みつこうとした屍犬の脛骨を叩き斬った。 「そっちに行ったぞ。……逃がすものか……!」 ミツハは後方の白露丸へ叫び、陣形を立て直そうとした屍犬を『早駆』で撹乱し、『打剣』を放つ。 注意を受け、向かってくる屍犬に一矢を放った白露丸は、獣がひとまとまりになっているのに目を止めた。 「これで、逃げてくれればいいが……」 彼女は『狩射』を使いつつ、獣たちの近くへ『空鏑』を放つ。突然の大きな音に飛び上がった狐や鹿は、ふと佇み――そして大慌てで身を翻して森の中に駆けて行った。さらにもう一発――。 白露丸の唇が微かにほころぶ。そして、屍犬に放たれた矢は情け容赦なく、瘴気へと変えていった。 血の臭いに刺激されて狂ったように飛び掛かる屍犬を、左門は棍で払い、『瞬脚』で死角へまわりこんで『骨法起承拳』で頭蓋を砕く。さらに、放たれた泰剣が飛び掛かろうと身を低めた屍犬に襲い掛かった。 後方からの襲撃をするりとかわし、それが獣と見るや、彼は斗季から渡された薬草の粉を鼻先へ投げつけてやる。まともに喰らった野犬や狐たちはキャンと一声鳴いて、激しく頭を振って逃げ去った。 「……さて、山の主は無事かねぇ?」 最後の一匹を瘴気に変えたあと、低く呟いた。 大山犬がいるのは山頂付近の岩座あたり。操られているらしい熊や猪、野良犬などの獣が多数――そして、その大山犬を牽制するかのように四肢を踏ん張る巨大な白猪が二頭いると――。 大山犬にぎりぎりまで接近を試みる五人のうち、聡之丞は落ち葉を付けた網をかぶり足音を消して仲間の向かい側へと移動していた。操られた鳥などがいないかも注意を怠らない。 屍犬とともに大半の獣が引き付け役の方へと走って行く――それを見送った輝郷は従弟のミツハを案じるが、すぐに視線を戻した。 「これ以上は動かないかしら……」 灯瑠女は『人魂』の燕を放ちながら呟き、そして。 仲間へ突撃の合図を送った。 「俺の名前は乃木聡之丞。人の世を脅かすアヤカシよ、成敗してくれるわ!」 彼らとは反対側から、落ち葉を散らして網を跳ね除け、派手に登場した聡之丞は大音声を放った。 大山犬と獣が一斉に振り返り、聡之丞へ牙を剥く。その時、ミルシェの『フローズ』が大山犬と獣の動きを鈍らせた。 「動物さん達を……解放して、頂きます」 アヤカシの巨大な姿に恐怖を覚えるものの、彼女はそれをぐっとこらえて、途切れぬように『フローズ』を放つ。 野太刀を抜き払って真っ直ぐ大山犬へ向かう輝郷に続き、儀兵衛が刀を抜く。 「俺が最前線に立つとは、一体何の因果やら……」 ぶつりとこぼすが、目は大山犬だけを捉える。 大山犬は牙を剥き出し、身をかがめて反動をつけると速攻をかけてきた。その巨大な体躯から生えている太い針が逆立つ。 輝郷は『フェイント』で動きを鈍らせ、『流し斬り』で大山犬の喉を狙う。が、それは頑丈な体毛によって阻まれた。 儀兵衛は反対側から大山犬の足を狙って『巻き打ち』を放ったが、斜め上方から牙が襲い掛かってきたのを間一髪で避けた。 聡之丞が移動しつつ、『戦術攻』を発動させ短銃を撃つ。その効果が輝郷に及び、彼は野太刀を振るって大山犬の胸部に一撃を加えた。そして、彼の死角から襲い掛かった獣を、灯瑠女の『呪縛符』が封じた。 「輝郷。貴方が怪我をしたら母さ……心配する人がいる。そうなったら気分が悪いわ。やめて」 灯瑠女は微かに眉を寄せ、真正面から突っ込んで行く輝郷へ苦情を言う。一瞬、振り返った彼は苦笑しつつ、頷いた。 獣の一匹がこちらへ襲い掛かる。 「ゴメン……なさい。少し……痺れます。近づいては……ダメ……」 小さく謝罪したミルシェは『ホーリーアロー』を獣に放つ。まともに喰らった猪はもんどりうって倒れた。 儀兵衛と輝郷の攻撃から身を翻し、回避した大山犬はくるりと反転して四肢を踏ん張り、かっと口を開けた。 『伏せよ、瘴気斬だ!』 どこかから轟きのような声が響き、開拓者たちは反射的に地に伏せる。 瞬間、瘴気の刃が彼らのすれすれを走り、避けきれずくらってしまった獣は悲鳴をあげて倒れた。 「……っ!」 目の前で瘴気斬に倒れた獣を見たミルシェは、素早く立ち上がりホーリースタッフを掲げて大山犬目がけ『ウィンドカッター』を放つ。真空の刃がアヤカシの片目を直撃し、凄まじい絶叫が響き渡った。 さらに、合流した白露丸が矢を放ち、激しく頭を振る大山犬の耳を貫いた。 灯瑠女の『呪縛符』が大山犬の足に絡みつく。 その隙を逃さず、『早駆』で接近したミツハが刀を一閃し山犬の角にヒビをいれ、間髪入れず、儀兵衛が刀を打ち込んだ。 唸りをあげて暴れる大山犬の攻撃をするりとかいくぐった輝郷は、野太刀の長さを利用してその喉元へ突き込み、抜き放ちざま、飛び退る。 一瞬の静止ののち、大山犬の巨体は瘴気の塊となって飛び散った。 ――そして、彼らの前に大山犬にも劣らぬ巨大な白猪が姿を現した。 ● 開拓者たちが山へ入ってかなりたつ――待っている斗季には祈ることしかできず、ワンコの小さな体を抱きしめてじっと深い森を見上げていた。 ジークリードも心配そうに山を見つめている。 「……斗季」 しわがれた声に振り向くと、薬屋婆が立っていた。 「おばあちゃん! 来たの?!」 「……なにをいうても、この主様のことじゃからの……」 「……うん……そうだね」 「瘴気に塗れた鬼の俺が、主の儀に立ち会って良いものかねぇ? それより薬屋の娘や異国の男にでも見せてやったらどうだ。森の恵みを享受しているのだからな」 左門の言葉に、さもありなんと頷き、灯瑠女が式を放って斗季とジークリードをこちらへ呼び寄せた。 薬屋婆はジークリードに背負われ、山を登ってきた。さすがにぜえぜえと肩で息をする。 「すまぬのう、金髪さんや」 「い、いえ……これ、しき……」 「……あ! 主様!」 斗季は胴に帯を巻きつけた白猪を見つけ、叫ぶ。白猪はゆったりとこちらへ向き、老婆に目を止めるとほんの少し瞠目した。 『薬屋……息災か』 「はい。おかげさまで。主様も」 『老いてこのざまよ……しかし彼らのおかげで事なきを得た』 先刻、開拓者たちに注意を促したのは、主だったようだ。 旧知らしい会話を短く交わした後、主は彼らの視線を促すように首をひるがえす。 視線の先には、主より幾分小さく、だが若々しい力に溢れた白猪が立っていた。 「このような……儀式に立ち会えるとは……。母様と、二人……暮らしていた頃には……思いも……しませんでした……」 ミルシェが感動に声を震わせ、小さく呟く。 それぞれ食い入るように見つめる中、儀兵衛が何となくソワソワした。 (……儀式が終わったらポックリ逝ったりするまいな……?) すでに、代替わりの儀は始まっていた。 獣はおろか、鳥さえも息をひそめて見守っているのか、あたりは静寂に包まれた。 白猪は静かに近づき、牙をこすり合わせ、親愛の情に溢れた仕草で頭をすり合わせた。 そしてゆるゆると離れ、距離を取り、向き合ったとたん。 双方から凄まじい殺気が吹き上がった。 「――っ!」 開拓者の誰もが、反射的に身構えるほどの――。 そして、白い巨体が激しくぶつかり合った。 「……主様っ!?」 「ならん!」 あまりのことに飛び出しそうになった斗季の腕を、老婆が信じられないほどの力で掴んだ。 「でも!」 「儀式を侵しては、ならぬ!」 老婆の気魄におされ斗季は黙り込む。その傍らから、ひっそりとした声がした。 「……儀式は神聖なもの。それに立ち会えることは、とても光栄なこと。……何故かはわからないけれど、魂がそう言ってる気がするの」 灯瑠女は白猪たちの激闘を真っ直ぐ見据えていた。 白露丸もまた押し殺したような声で呟く。 「こんな場面には、立ち会う事は殆ど無いだろう……」 開拓者の誰もが目を逸らすことなくその戦いを見守っていた。 主は、アヤカシによって負わされた傷から大量の血を流しながら、それでも殺気を静めようとはしない。 牙と牙がぶつかり、組み合わさったと思った時、主の巨体が宙に浮き、そして地響き立てて落ちた。 若い白猪が四肢を踏ん張り、高らかに雄叫びを放つ。 その法螺貝のような『こえ』は山々へ響き渡る。すると、山のあちこちから応えるような獣たちの声が聞こえた。 新しい山の主が誕生したのである。 声もない斗季と開拓者たちの前に、新しい山の主は倒れた白猪の姿を隠すように立ち塞がった。 「……おめでとう存じます。新しき主に感謝申し上げます」 薬屋婆は主に深々と一礼すると、孫娘の手を引き、山を下りるよう促す。 「光栄に思います。主殿と共に、山にも栄がありますように」 主に一礼した白露丸は、くるりと踵を返して下りてゆく。そして、ミルシェがふわりと一礼した。 「どうか、この山が……平穏でありますよう……」 「……斗季。なぜ主様が代替わりの儀を見せてくれたのか、ようくその意味を考えねばならんぞ」 老婆の言葉にやっと小さく頷く。俯いてのろのろと主に背を向けた斗季に、重々しく力強い声がかかった。 『斗季。握り飯を馳走になった――そう伝えてくれ、と』 振り向いた斗季の目から大粒の涙が零れ落ちた。 「……はい!」 ● 薬屋についた一行は、ジークリードが紅茶の用意をするまでの間てんでに過ごしていた。 どこかぼーっとした斗季の鼻を、灯瑠女がつまんでみたりする。 「はい、お待たせしました」 盆に茶器をのせて現れたジークリードは、手際よく人数分の湯飲みに注ぐ。 灯瑠女の耳がふるる、と微かに揺れた。 「これは春摘みのお茶です」 春摘みの茶は香りも味もふんわりと柔らかいのだと、ジークリードは言った。 その香りを楽しみながら、それぞれに思いをめぐらせていたのだろうか……静かな時間が流れた。 神楽の町へ戻っていく開拓者たちに、精一杯のお礼を込めて手を振る。 そして、ジークリードも外套を纏い、斗季と薬屋婆に深々と頭を下げた。 「いろいろとお世話になりました。どうか、お元気で……僕のこと、忘れないでくださいね?」 「そっちこそ! ……楽しかった。ジークさんも元気でね」 「達者でな、金髪さん」 彼は泣き笑いのような顔で『はい』と頷き、南へと旅立っていった。 |