【初夢】ポンペイの空の下で
マスター名:やよい雛徒
シナリオ形態: イベント
相棒
難易度: 普通
参加人数: 15人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2014/01/18 21:27



■オープニング本文

※このシナリオは初夢シナリオです。オープニングは架空のものであり、ゲームの世界観に一切影響を与えません。


 それは後世の調査隊が行った、一つの思いつきだったといわれる。

 発掘の途中で、不可解な空洞が複数現れた。
 最初は単なる空洞だと思われていたその場所から、小さな白い破片が見つかった。道と思われる石畳の場所や、建物跡からもみつかる不可解な空洞。その数は日に日に増していく。
 やがて試験的に石膏を流し込み、硬化したところで掘り起こす。
 結果として現れたのは、苦しみにあえぐ人の石膏像。
 人を模した不思議な石膏像の脇腹や指、後頭部からは『本物の人骨』がのぞいていた。
 ほどなくして調査隊は理解する。この空洞が、ヴェスヴィオ火山が大噴火した際、逃げることも出来ずに降り注ぐ火山灰に埋もれた、人であった者の成れの果てであることを。

 末期のポンペイはローマの属国となり、まだ災害に見舞われる以前は近郊に有力貴族の別邸も建ち並び、ローマ人の余暇地としての性格を色濃く残していた。
 水道管が完備されたこの町に、ひっきりなしに訪れる商人達。
 荷揚げされた荷物などを運んだ石畳の坂を登りポルタマリーナ(海の門)をくぐって都市に入っていた。
 芸術の都としても花開いており、貴族の家の立派な装飾に限らず、町の壁という壁、店の壁という壁に日頃の愚痴から貴族の観賞用まで、遙かな時を経た今も、様々な壁画で町は彩られている。

 最盛期の人口、おおよそ二万人。

 人口の半数は奴隷で構成されていたと言われる。
 奴隷と一口に言っても様々で、人間としての人権が認められていた。中にはノーメンクラトゥーラと呼ばれる、主人に付き従い秘書としての役割を持った高位の奴隷もいれば、家庭教師になったり、家の留守を預かったり、それこそ肉体労働に従事するなど、奴隷のあり方は様々であったという。当時社交場としての役割も兼ね備えていた共同浴場で、貴族も奴隷も身分を意識せずに共に汗を流していたほどに。
 当時の支配者層であった貴族達は、行政官などの政治的な職業についていた。
 贅沢な食生活と、豪華な家の装飾品。
 パン屋、肉屋、魚屋に総菜屋。だれもかれもが無数の商店で品を買い、百二十件を超える居酒屋のどこかで酒を一杯ひっかけ、様々な娯楽に興じていた。剣闘士養成場で技量を身につけた剣闘士達が、円形競技場で日々繰り広げていた死闘は最高の娯楽だったといっても過言ではない。千人から五千人を収容する劇場や、色鮮やかな娼館。ウェヌスやイシス、様々な神殿が点在し、宗教も開放的だった。
 

 そんな高度な文明が栄えた花の都で、果たして何が起こったのか。

 そう。
 これは地中に失われた、人々の記憶。
 運命のその日、果たして何があったのか。

 時は進み出す。
 西暦79年8月24日。
 町の北西10キロメートルにあるヴェスヴィオ火山が大噴火するまで。

 あと、わずか。


■参加者一覧
/ 劉 天藍(ia0293) / 皇・月瑠(ia0567) / 柚乃(ia0638) / ラヴィ・ダリエ(ia9738) / ジルベール・ダリエ(ia9952) / フェンリエッタ(ib0018) / ヘスティア・V・D(ib0161) / 劉 那蝣竪(ib0462) / ネネ(ib0892) / 御影 紫苑(ib7984) / 戸隠 菫(ib9794) / 宮坂義乃(ib9942) / スチール(ic0202) / リドワーン(ic0545) / リト・フェイユ(ic1121


■リプレイ本文

 大地の下に埋没した街で、古代の人々は如何な暮らしをしていたのだろうか。

「お嬢様、木から降りてください。危険です!」
 その日、ポンペイ市街地に大邸宅を構える名家フェレディクス家の中庭では、秘書職にあたるノーメンクラトゥーラが、青い顔で悲鳴を上げていた。視線の先にいるお転婆盛りの令嬢フェリーチェは、大樹の幹に腰掛けて「リュティウムもくれば?」と真下の青年に呑気な声を投げ放つ。
「お願いです。じきに此処へお客様がいらっしゃいます!」
 フェレディクス家のノーメンクラトゥーラ――――リュティウムの懇願に、フェリーチェは「ふぅん」と言って双眸を細めた。ひらりと舞い降り、身だしなみを直す。
「また貴族らしく淑やかしていればいいの?」
「そう膨れないでください」                    
「お父様はなんて? 出迎える?」
 リュティウムは「いえそれが」と何か言いかけて急に蝋引き文字板を見せた。表面に蝋を敷いて尖ったペンで文字を彫り込んだこの道具は、当時最も普及した筆記用具である。
「本日は闘技場の貴賓室をご用意してあります」
「追い出すのね。お父様は秘密の部屋でお楽しみ、って訳ね」
「お嬢様」
「私が血を見るのは好きじゃない、って知ってるくせに。市場で買い物するか、画家の仕事を見ていた方がマシよ」
「……すまな、否、申し訳ありません」
「ごめんなさい。貴方を困らせたいんじゃないの。ただ、父に腹が立つだけ。貴方は父に頭が上がらないのに……八つ当たりして、悪かったわ」
 主人の秘書を務めるノーメンクラトゥーラといえど、所詮は奴隷である。
 フェリーチェは生真面目なリュティウムの手をひいた。
「いきましょ。剣闘士の試合、あるんでしょ」
「ですが」
「いいから。でも見るのは一戦だけね。それをお父様に報告して。帰りは買い物に付き合って」
 ぱちん、と片目を瞑って見せた。

 かつてポンペイには、サルノ門の隣に2万人を収容する円形闘技場があった。
 全盛期の住民を収容しても余る巨大施設である。行われたの娯楽は、戦車競争、円盤投げ、レスリングといった各種スポーツに加え、詩の朗読や仮面劇まで様々あったが、身分関係なく老若男女が熱狂した娯楽は、円形闘技場で行われた剣闘士の試合であった。
 ポンペイ市街地のあちこちに剣闘士の名が刻まれているが、催しの告知文などを調べるに戦争捕虜や奴隷ばかりが剣闘士だった訳ではないらしい。一攫千金を求めて、剣闘士の世界へ身を投じる市民、騎士や元老院議員などの支配階級、終いにはローマ皇帝すらもスリルを求めて試合に参加したというから驚きである。

 フェレディクス家の令嬢フェリーチェが観戦したこの日も、当時のラニスタ(※大衆へ娯楽を提供する、興行師の意味。)である『暁のウェスタ』主催の元で、剣闘士クロヌスとシュベルティウスの恒例試合や、狂戦士リドリスの試合が行われていた。
「リドリス」
 闇の中から響く低い声と、鋭い眼光。
 試合を終えて血染めになった細身のリドリスを呼び止めた屈強の男は、暁のウェスタが経営する剣闘士養成所のドクトーレ(※訓練士の意味。)ことウェテラヌスだった。五十路を目前にしてなお衰えを見せぬ体は、日々の過酷な鍛錬の賜物と言えた。
「お前か。ウェテラヌス」
「ドクトーレと呼べ。そうではなく、なぜ殺した。生かしておけと言ったはずだ」
 リドリスは、レティアリウスと呼ばれる短剣にべっとりと付いた血と油を拭いながら、淡々とした声で返事をした。
「……ふん。弱い者は死に、強者だけが生き残る。それが此処の掟だ。いいだろう、別に。大観衆の拍手と喝采の中で死ねるんだ。無様に死ぬより、ずっと名誉ある死に様だろう。放っておいても自ら死んださ」
 貴族が面白半分に試合へ参加する一方、養成所で鍛えられた剣闘士たちの日々は過酷であったことが知られている。訓練から脱落した者や仲間同士の戦いに耐えられない者は、自ら命を命を絶つ事も多かったらしい。
「で、今日の出番は終いだな」
「浴場にでもいって、息抜きをしてくるといい」
「言われなくてもそうするさ」
 ウェテラヌスに背を向けたリドリスは、自前のストリジル(垢擦りヘラ)と楕円形の柄杓、そして香油を入れる青銅製のアリュバロス(壺)を持って、スタビア通りにある浴場を目指した。

 ポンペイに九件ある公衆浴場は、いずれも社交場であり娯楽の場である。
 剣闘士の多くが身分関係なく利用できる浴場を利用したが、実際どうだったかまでは分からない。というのも娼館の機能を備えていた浴場が存在し、剣闘士による男娼の副業記録も残っているからである。
 例えば、リドリスはシリア属州出身の奴隷ではあったが、腕の立つ剣闘士には違いなかった。身分こそ低くとも、彼ら剣闘士は所謂スター選手であり、貴族女性が高額を支払って、密かに愛人に囲う事も多かったという。

「あら、リドリス。今日は早いのね」
 アッボンダンツァ通りから右に曲がり、スタビア通りから浴場へ入ろうとした剣闘士のリドリスは、出張帰りの娼婦と出くわした。
「ルクレーティアか。高級ノナリアが浴場まで出張るとは、ご苦労なことだな」
「金払いのいいお得意様のお願いよ? 出向くに決まってるじゃない。それより試合で勝ったんでしょう。どう、ひと風呂浴びた後、ウチの店にこない? 新しい子が入ったの」
「今日は疲れたんでやめておく」
「残念だわ」
 リドリスは浴場の奥に消え、ルクレーティアは裏路地を歩き出す。

 ポンペイの路地裏には、娼婦が使う石の寝台と枕のみの仕事部屋が並んでいた。
 市街地に13箇所あり、153件あった酒場のいずれかに近い。他にも娼館と思しき施設は41件発掘されており、酒場や宿屋も含めれば、数は今も増加傾向にある。
 その代表格が街の中心部にあった。
 ルクレーティアの務める娼館は大通りに面し、広場や市場にも近く、ルパナーレ・グランデ(意味は「雌狼の巣」、古代ローマにおいては「娼館」を意味する。)と言う。
 この店の女たちは「ノナリア」と呼ばれていた。
 意味は「九時間の娘」といい、ルパナーレ・グランデが九時間営業だったことに由来する。またノナリア達には仕事用の名前が存在し、壁にその痕跡を知ることができる。メルビス、フォルトゥナータ、ルクレーティアも例外ではない。
 彼女たちは帝国が占領したローマやアジア、辺境の各地から連れてこられた奴隷であった。しかし高い収入を得る為に自らの意思で体を売るルクレーティアのような志願者もいた。
「只今。戻ったわ……新しい子の様子どう?」
 店の男娼は首を横に振った。
 刹那、二階から「離して!」と甲高い声が聞こえた。
 まだ幼い。雲のような白髪に色違いのオッドアイ。さほど傷のない身体に整った容姿は、将来上玉になると見込まれたが、ラヴィニアは奴隷である事を頑なに否定し、仕込みを嫌がった。
「……ラヴィは、ラヴィは嫌です。こんなところは、嫌……」
 閨の房中術を仕込まなければ高級ノナリアにはできない。
 見かねたルクレーティアは、散々引っ掻かれた男娼と入れ替わるように部屋へ入り、半裸で震えるラヴィニアに服を着せた。
「私はルクレーティア。ここの稼ぎ頭よ。私、これから宝飾品を買いに行くの。一緒についてらっしゃいな」
 ラヴィニアは、こくん、と首を縦に振った。

 ポンペイで発見されている装飾品に、金細工の首飾りや耳飾り、腕輪がある。指輪に至ってはあらゆる階層の女性が身につけていたらしい。
 愛犬を抱えたルクレーティア達は、馴染みの商人を訪ねた。
「ジルベルト、前に頼んだ真珠の耳飾りはある?」
「勿論やでー。この大粒真珠、入手は苦労したんやで?」
 都市間を行き来する行商人ジルベルト。
 彼が披露した真珠の耳飾りは、真珠同士がぶつかってシャラリと音を立てることから俗にクロタリアと呼ばれていた。古代ローマ人にとって、真珠は途方もない貴重品である。
「素敵。誰もが振り向くわね」
「こっちは新作の首飾り、あと象牙で出来た宝石箱や。手鏡や櫛、化粧道具、宝飾品も勿論収納できるスグレモノ……と、ところでそっちの可愛い子は?」
 饒舌だったジルベルトが、珍しく商品の説明をやめて、ラヴィニアを見た。
「ウチに今日入った子よ。稼げるノナリアには色んな楽しみがあること、教えてあげようと思って。次にポンペイに来た時は是非指名してあげて。あと修理を頼んだ首飾りはどうしたのよ」
「手違いがあってな。別の店の見本に回してしもたんや。明日の朝イチで回収して届けるんで、少し待ってもらえんかな」
「いいわ。じゃあ代わりに、少しラヴィの事を見ててくれない」
「向かいの店か。ええよ〜、ゆっくりしてきいや。ラヴィちゃん。パンあるけど、食うか」
 ジルベルトとラヴィニアの様子を見て安心したルクレーティアは、通りを挟んで向かいの店へ出かけた。
 一方、ジルベルトは丸一日食事を抜かれていたラヴィニアが美味しそうにパンとスープを食べる様を見ながらトンデモない事を言った。
「俺とヘルクラネウムへ行かへん」
「え」
「ここよりも海に近くて、ええところやで。特に夜明けの景色は最高や。少し前に小さいウィッラ(邸宅)を買ったんやけど、なんや一人は寂しゅうてな」
 ヘルクラネウムとは、現エルコラーノである。ネアポリス(現ナポリ)とポンペイの間にある余暇地だ。
「……連れて行って下さるのですか? 嬉しい」
「決まりやな。明日、迎えに行く。昼前に首飾りを納品しに行くから、そん時に俺と一緒に逃げよ? せやから、今は監禁されないように振舞うんやで」
「はい!」
 ジルベルトとラヴィニアの駆け落ち大作戦を知る由もないルクレーティアは、装身具職人として名の知れた老女ネウィアと世間話に興じていた。

「ネウィアの作品はどれも素敵だけど、金細工と吹きガラスはポンペイいち、ね」
「ありがとうございます」
 老女は膝に愛猫をのせて金の指輪に彫り物を入れていた。老いても尚、繊細な技術は健在で、薄絹の暖簾を挟んだ奥の部屋では、若い弟子たちが忙しそうに装身具を作っていた。
「それ、イシス?」
「はい」
 元々東方の女神たるイシスは、当時ローマ全土に広がっていた。劇場などが集まる華やかな区画にイシス神殿も存在することからも、多くの信仰を集めていた様子が伺える。
「その指輪を頂くわ。隣の小さな像も一緒に」
「像は弟子が作ったものですが、ララリウムには最適ですよ」
 ポンペイの家には、どんな貧しい家庭にもララリウムと呼ばれる祭壇が設けられており、己が信仰する神に、日々祈りと供物を捧げる習慣があった。祀る神々も多様化し、雷のユピテル、商売の神メルクリウス、知恵と工芸を司るミネルヴァ、ポンペイの守護神ヘルクレス、デュオニッソス、ウェヌスなど一見節操なく見えるのだが、日本の神棚より遥かに重い意味を持っていたとされる。古代ローマ人にとって、世の全ては神々の意志によるもので、彼らと調和しながら平和を築くことが何よりも大事だったからである。
 買い物を済ませたルクレーティアは、戻ろうとして足を止めた。
 夕食の食材を買い忘れたことに気づいたのだ。

 少し離れた店で、解放奴隷のマルキアとフラヴィアが肉屋を営んでいた。
「やすいよー、今夜のお夕食にどう?」
 解放奴隷とは奴隷の身分から解放された者を示す。古代ローマの奴隷所有者は、奴隷を解放する事に熱心だった。マルキアとフラヴィアの場合、奴隷になって数年で病死した主人から財産を譲り受け、現在ではポンペイの暮らしを謳歌していた。
「マルキアさん。鳥が欲しいのですが」
「こんばんは、リトちゃん。鳥か……フラミンゴなんてどうかな? 朝入ったの」
「じゃあそれで」
「フラヴィアー! フラミンゴもってきてー!」
 古代ローマ人は朝昼はあまり食べず、夕暮れから始まるケーナ(夕食)が食事であった。
 この頃、貿易が盛んであったポンペイは世界各国から食材や珍味が手に入っていたらしい。海産物といえばスズキ、メバル、チョウザメ、ウナギなどに加えて、アサリや牡蠣、モンゴウイカなども広く好まれ、珍味といえば孔雀の舌、現在で言うフォアグラの様な物に、丸々太らせたオオヤマネ(※体長20センチほどの齧歯類。)を使った。古代人は養殖や飼育にも熱心だったようだ。
 肉屋で新鮮なフラミンゴを手に入れたローレル家の奴隷リト=リータは、メニューに悩みながら石畳の道を歩き出す。

「ケシの実入りの蜂蜜をかけた炙り肉もいいけど、やっぱり詰め物料理かな。お台所にまだ胡椒や松脂はあったし、……あ、ガルム(※魚醤のこと。)がなかったっけ。一度帰って買いにいかなきゃ。フラミンゴの骨は炙ってスープにすれば、あの方に飲ませる事ができるかしら」
 買い物帰りに必ず神殿へ立ち寄るリトには、叶えたい願いがあった。
「神様、今日もレーリオ様はお目覚めになりません。あの方は、奴隷の私にも優しくしてくださいました。どうか癒しを……」
 ローレル家のレーリオとは、リト=リータのご主人様の息子である。
 商家である為、父親は家を空けることが多く、自由奔放に暮らしていたレーリオは不運にも落馬で大怪我を負った。奇跡的に一命をとりとめたが、全く目を覚ます気配がないまま五日目を迎え、衰弱している。所謂、植物状態と考えられるが、当時の医療ではどうすることもできない。医者に見放され、やせ細っていく青白い顔のレーリオを、リトだけが献身的に介護していた。
 家に帰ってフラミンゴを置き、リトは部屋を覗いた。
「レーリオ様、今日はフラミンゴが手に入ったんです。美味しいスープを作りますね」
 返事はない。
 それでも生きている。
 美しい横顔を見て、リトの心は満たされていた。
 再び買い物に出ようとした時、玄関で黒髪の男に出会った。
「まだ若君は寝込んでいるのか」
「……レオーネ、さん」
「一体、何日待たされていると思っている。ああ、それとも相当具合が悪いのかな」
「お帰りください! レーリオ様はご静養中です! 言いがかりはよして!」
 男は肩を竦めて「またにしよう」と身を翻した。
 このレオーネは、葡萄栽培で財を成したアスター家のノーメンクラトゥーラである。
 リトが仕えるローレル家との取引は、次期当主であるレーリオを通して行っていた。しかし次期当主が死にかけていると知れれば、商家のローレル家は先がない。リト達の努力で、レーリオの意識不明は内密にされていた。
「もう少し様子を見るか。グラニテス様がなんとおっしゃるか」
 レオーネの主人であり、アスター家の当主グラニテスは、丁度、街の酒場で重要な取引をしていた。いくら良質の葡萄を実らせても、買い手がいなければ意味はない。ヴェスヴィオ山の山麓では、あちこちでワインが作られていた。
「それでは秋の納品はこちらで」
「ああ。後は頼むよ、グラニテス。最近は葡萄が枯れるところが多くてな」
「こちらこそ宜しくお願い致します。ご安心ください、ご当主。ポンペイいちの葡萄をお届けします。ルチア様も、どうぞお元気で。ヴィーナス=ポンペイアーナにも勝るとも劣らぬ美貌を拝見できなくなるのが残念です」
 グラニテスの葡萄を買い付けていたワイン醸造家は、珍しく上の愛娘ルチアを連れていた。学者に嫁いだ才女であるが、酒豪も真っ青なほどの蟒蛇である。
「グラニテス様はお上手ね。それではお父様、私はそろそろ」
「もう行くのか?」
「ええ。また来年会いましょう。その時は家族が一人増えているでしょうけどね」
 愛犬のハクを腕に抱いたルチアは、笑顔で嫁ぎ先へ帰っていった。取引を済ませた醸造家も家へ帰り、見送っていたグラニテスのところへ、奴隷のレオーネが戻って来た。
「申し訳ありません。商家の件ですが、未だ収穫は……」
「引き続き、見張っておきなさい。足が掴めれば情報は高く売れる」
「グラニテス様はどちらへ?」
「学者のところです。最近増えている地震の件を調べに」

 遡ること数ヶ月前。
 最初の異変に気づいたのは、放牧をしていた者や、農作業従事者達だった。
 雨が降っても井戸や泉の水が涸れ、サルノ川には死んだ魚が浮く。やがて地面は隆起し、形成された噴気孔からは煙が立ち上る。ブドウの葉はしぼみ、実はしなびていった。 
 葡萄農園を営むグラニテス達も例外ではない。
 ポンペイの人々が頻発する地震になれる一方、ただならぬ気配を感じたグラニテスは、農園管理の殆どを奴隷に預け、原因の調査に明け暮れていた。
 実を言うと、62年頃にカンパニア地方は大地震に見舞われている。ポンペイは一度崩壊の危機に瀕したが、僅か数年で立て直した。グラニテスはその前後に起こる余震のことは突き止めていたようだ。
 なんにせよ。
 運命の日は、翌日に迫っていた。

 その日も、人々は普段と同じ暮らしを享受していた。
 例えば、愛犬を連れた貴族の娘フェリーチェ・フェレディクスと奴隷リュティウムは、朝からノチェーラ門の外にある墓地へ墓参りに出かけていた。
 装身具職人の老女ネウィアは弟子を叱り飛ばし、奴隷のリト=リータは食事の仕込みに忙しく、肉屋を営むマルキアとフラヴィアは久々の休みを趣味の石彫りに費やし、剣闘士たちは訓練に勤しんでいた。
 高級ノナリアことルクレーティアは、家族を奪った男を憎悪しながら享楽に溺れる自分に思い悩みつつ、誰の子ともわからぬ妊娠に気づいて愕然としていた。
 新人ノナリアのラヴィニアは商人ジルベルトが来るのを一日千秋の思いで待ちながら、幸せな明日を夢見ていた。
 解放奴隷のコルネリウスもまた、ローマ市民権を獲得する為、結婚相手に会いに行く途中だった。フォルム浴場を横切り、姦しい享楽の声を意識から遠ざけ、神殿を目指す途中で……馬が足を止めた。
「どうした? 空ばかり見上げて。今日は、おかしな天気だ。胸騒ぎがする。何もなければいいが……」
 残念ながら、待っているのは闇だけだ。


 西暦79年8月24日正午。 
 町の北西10キロメートルにあるヴェスヴィオ火山が大噴火した。 


 丁度、空を見上げていた解放奴隷のコルネリウスは、激しく動揺した。
「ヴェスビオス火山が噴火だと……そんな事がありえるのか。おお神よ、助け給え!」
 大地が揺れる。激しく暴れる馬に跨ったコルネリウスは、大きく叫んだ。
「マリーナ門を目指して走れ!」
 空から石礫が落ちてくる。

 ポンペイから十二キロ離れた場所にいた醸造家の娘ルチアも、噴火を見上げていた。普通の旅人は、一日に八マイル(十二キロメートル)以上は動かない。それが災いし、呆然と立ち尽くす彼女の所にも火山灰や石は降り注ぎ始めた。
「逃げねば。ルチア様、しっかり馬につかまってください!」
「嫌よ! 戻らなきゃ! お父様! お母様!」
「いけません」
 奴隷は主人の声を無視して走り出した。
 一分でも一秒でも早く、ヴェスヴィオス山から遠ざかるために。

 一方、ポンペイでは人々が逃げ惑っている。
 奴隷のリト=リータは、眠るレーリオを背負って逃げようとしていた。
「そんな」
 玄関に辿りついた時、門は潰れていた。
 他の奴隷たちは巻き添えになったり瓦礫を登って逃げていく。しかし大の男を抱えているリトは、同じように登れない。レーリオを置き去りにすれば、逃げることはできた。しかしリトはレーリオの傍を離れなかった。ベルトをナイフで切り捨て、物陰に寄り添う。
「レーリオ様、大丈夫ですからね」
 火の礫で邸宅が燃えていく中、リトは神に祈った。
 来世はどうか、この方と……

 グラニテスもまた、脱出を諦めた一人だった。
 奴隷達に財を分け与えて野に放つものの、数ヶ月間に渡る学者との対談で、状況的に逃亡が不可能だと悟っていた。もはや葡萄農園を守る価値もない。グラニテスは執務室で死を待っていたが、奴隷のレオーネがそれを許さなかった。
「行きますよ」
「放せ。家と共に死ぬ!」
「馬鹿なことを言わないでください。それでもアスター家の当主ですか!」
 数々の叱責を受け、自暴自棄になっていたグラニテスは我を取り戻し、脱出を試みた。
 栄える為に手段を選ばなかった。今こそ足掻けるところまで足掻こうと心に決めて。

 老女のネウィアは頼まれていた装身具を街の外に持ち出そうと、弟子と手分けをして荷物をまとめていた。愛猫の首飾りにも、いくつかの指輪を忍ばせる。
「私は足が遅いので後からいきます。行って!」
 皆を送り出して、何故か工房に戻った。
 そして見渡す。
 天井は岩で砕かれ、窯は砕かれていた、けれど若くして夫を亡くした後から、何十年も此処で装身具を作ってきた。此処こそ、己の生きた証。
「神様が見ているなら、きっと生かしてくれますよね」
 命運を神に託したネウィアは、最後の作品を仕上げ始めた。

 ネウィアが脱出を諦めていた頃、肉屋のマルキアとフラヴィアは趣味の彫刻に没頭していた。没頭することで恐怖を退けていたのである。しかし彫刻といっても像ではない。自分たちが生きた記録を刻んだ石版の数々だ。
「結構降ってきた?」
「うん。そうみたい」
 悲鳴と轟音の中で、覚えている記憶や故郷を彫っていた。
「貴族の家が潰れてた」
「あんな大きな石じゃね。ねぇ。フラヴィア、ここまでつきあわせてしまって、ごめん」
「ううん……」
 背中合わせの二人は瞼を閉じた。
 共に生きて、共に死のう。ずっと昔に、そう決めたのだから。

 墓参りを済ませ、立ち寄った神殿から帰る途中だったフェリーチェは、空高く噴煙をあげるヴェスヴィオス山を見上げて、客観的な自分に気づいた。大勢が逃げ惑っているのに、不思議と危機感を覚えない。毎日が空虚だったフェリーチェは、死を受け入れ始めていた。
「フェリーチェ様!」
 急に現実に引き戻される。傍にいたリュティウムが腕を掴んだ。
「逃げてください! 早く!」
「いいの。もう偽ることに疲れたわ。放っておいて」
「ならば私と一緒に、俺と一緒に逃げてください! 幼い頃から、お慕いしておりました」
 降り注ぐ軽石から守るように抱きしめたリュティウムの腕の中で、彼女は泣いた。
「こんな時に言うのね。いいわ、一緒に、逃げてあげる」
 例え一時の夢だとしても。

 娼館から逃げたルクレーティアは、イシスの神殿に向かっていた。
 街の民家は巨石に次々潰されていたが、神殿はまだ健在である。
 逃げる人々に弾き飛ばされ、踏みつけられながら、ふいに腹の子を庇っている自分に気づいた。
「こんなに憎んでるのに……だけど、こんな場所で死ねない! 復讐の報いなら私はそれでいい……でも!」
 神に救いを求めたルクレーティアの脳裏には、遠い日に失った家族の顔が次々と浮かんだ。幼い頃、自分だけが生き残った。ノナリアになった時、いつか男たちを嘲笑ってやると決めた。憎悪した。誰も信じられなかった。
 でも本当は家族が欲しかった。
 本殿へ駆け込もうとしたルクレーティアは、階段に躓いたところで石の下敷きになった。
 片足が潰れ、激痛が走った。逃げられない。
「うぅ、神様……この子だけは」
「大丈夫か! 今助ける!」
 偶然通りかかったコルネリウスが、下敷きになったルクレーティアを助けようとしたが、到底どかせない石だ。コルネリウスはルクレーティアを元気づけていたが、唐突に声が聞こえなくなった。
 落石で命を落としたのだ。
 もはや誰も助けてはくれない。ルクレーティアは体を丸めて神に祈った。
『神よ、この子を御国へお返し致します。どうか光の中に迎え入れて。いつか生まれ変われますように。幸せになれますように。どうか……』

 同じ頃、ラヴィニアは母親とはぐれた子供を抱いて、娼館の軒下にいた。
「みつけた! 遅うなってすまへん。もっと早く逃げたら良かったな」
「ジルベルトさま!」
 ラヴィニアを抱きしめたジルベルトは、額に口付けして、二人を屋内に戻す。
「逃げないのですか」
「今は危険や。ちっこい石が当たっただけでも、頭が潰れてまう」
「そんな」
「大丈夫。噴火が静まったらヘルクラネウムへ出発や。そして夜明けを一緒に見よ。海とヴェスビオ山が最初は薄紫に、そして薔薇色に染まって輝くんや。それ見ながら二人で朝御飯食べて……な?」
 ラヴィニアは泣いていた。そして抱きつく。
 ジルベルト様と、もっと生きたい。ただそれだけを願っていた。

 貴族も奴隷も関係なく逃げ惑う中、円形闘技場は別な意味でも騒ぎになっていた。
 逃げ惑う人々のところへ剣闘士のリドリスが猛獣のライオンを放ったのである。元々脱走と反乱の機会を伺っていたリドリスは試合の深傷を気にもとめず、同じ奴隷の剣闘士達に「反乱の機会だ」と焚きつけ、貴族たちを薙ぎ倒して去っていった。
「まて、リドリス!」
 ラニスタである暁のウェスタの声が虚しく響く。
「ウェスタ、暇なら手伝ってくれ」
 ドクトーレのウェテラヌスが、倒壊した壁の下敷きになった教え子を救おうと素手で奮闘していた。
「お前たちは……生きろ」
 やっとのことで瓦礫を退けても、既に足や胸部を負傷している者も多かった。
 ウェテラヌスの横顔に絶望の影が差した時、闘技場から声が聞こえた。
「閉幕がこれでは貴様も納得しないだろう?」
「当然だ」
 耳に届く、剣の打ち合う金属の響き。
「まだ死ぬなよ! 俺が倒すって決めてたんだ!」
「貴様こそ!」
 観客もいない闘技場で、クロヌスとシュベルティウスが戦っていた。
 生き生きと戦いに生きる剣闘士の姿が、そこにはあった。
 暁のウェスタが、ウェテラヌスの横に立つ。
「お前の育てた剣闘士は、お前の言葉のままに育ったみたいだぞ」

 ――――男ならば闘技場で死ね――――

 ウェテラヌスはそう言って若い剣闘士たちを育ててきた。
「そうらしい。叶うならば、俺ももう一度……あの歓声の下に立ちたかった……」
 ウェテラヌス! ウェテラヌス! ウェテラヌス!
 観客が自分に熱狂した遠い日々。
「立てるさ」
 暁のウェスタは、逃げ出した剣闘士の捨てた剣をウェテラヌスに投げて渡した。
「私が相手になろう。この場所こそ、我々が生きた証。自分たちが生きた場所なのだから、ここで精一杯、力いっぱい戦って、力尽きようじゃないか」
「ふっ……では、参る!」
 剣を構えた二人は、大地を蹴った。

 その頃、物陰のリュティウムとフェリーチェは門の近くまで来ていたが、後一歩という所で降り注ぐ火山弾に阻まれ、市街地を脱出できないでいた。
 逃げられない。
 リュティウムは助からない事を悟った。フェリーチェを抱く腕に力をこめる。
「……いいのよ、リュティウム。私は今、幸せだから。そんな顔しないで」
「生まれ変わっても、貴方を見つけます。必ず、来世で一緒に」
「私も、未来であなたを見つけるわ」
 きっと。



 ……あとがき…… 

 古代ローマの歴史家や地理学者は『ポンペイは港である』と口を揃えるが、遺跡は内陸にある。その原因は、ヴェスヴィオ火山の噴火による海岸線の隆起や火山堆積物が原因である事が判明してきた。サルノ川の流路も、現在と当時では大きく違う。
 昨今、ヴェスヴィオス山の噴火による直接的な被害範囲が地層から研究中だが、もう一つ判明した事がある。
 それは火山岩層の上で人骨が多く発見されていることだ。
 火山弾は半日降り注いだらしいが、大多数の命が奪われたのは、落石が落ち着いた後なのだ。
 ある人骨を例に挙げてみよう。
 肉屋を営んでいたと思しき二人の奴隷と宝石工房で見つかった年配女性の人骨は、どれも急激に焼けた状態で脳組織が残っていた事や脊椎骨が黒く焼けていた様子から察するに、500度の温度に晒されて焼死したと推定される。
 スフリエール式火砕流だ。
 火砕流とは、気体と固体粒子からなる重めの密度流である。数百度を超える高温が、時速百キロ以上のスピードで斜面を降ってくるのだから、人の足で逃げられようはずもない。火山岩の落下が落ち着いた頃、生き延びた人々が脱出を試みた時に、火砕流は広範囲を焼き尽くした。有毒ガスで窒息死した者も多かったに違いない。
 昨年出土した寄り添いあう男女や幼い子を守るように寄り添う親子は勿論、最後まで戦いを強要されたと思しき剣闘士達、腹の子を庇うように亡くなっている若い妊婦の遺骨を見ると、想像を絶する苦しみの中にあったことは疑いようがない。
 ポンペイの悲劇は、火山爆発による落下物よりも、火砕流の被害が遥かに大きいことを後世に伝えてくれている。

 本著を書くにあたり、最新の資料を提供してくださった、天儀大学の考古学科イタリア史教授、狩野氏率いる、劉 天藍(ia0293)、皇・月瑠(ia0567)、柚乃(ia0638)、ラヴィ(ia9738)、ジルベール(ia9952)、フェンリエッタ(ib0018)、ヘスティア・ヴォルフ(ib0161)、緋神 那蝣竪(ib0462)、ネネ(ib0892)、御影 紫苑(ib7984)戸隠 菫(ib9794)、宮坂 玄人(ib9942)、スチール(ic0202)、リドワーン(ic0545)、リト・フェイユ(ic1121)、こと十六名の考古学者チームに御礼申し上げる。
 尚、同大学により、昨年発掘された出土物の一部(剣闘士の武具や装身具など)は、国立美術館にて『悠久のポンペイ&エルコラーノ展』として一般公開が始まる為、ぜひご覧いただきたい。

 最後に、壁の落書きを記して筆を置きたい。


『私を訪れた人は沢山いたけれど、私の声をきいてくれるひとは誰もいなかった。』



 サギシ出版『ヴェスヴィオス山の悲劇〜ポンペイ&エルコラーノを夢見て〜』(本文より抜粋) 

 二〇一四年 一月末日                   考古学者 ヤヨイ・ヒナト


※このシナリオは初夢シナリオです。オープニング及びリプレイは架空のものであり、ゲームの世界観に一切影響を与えません。