依子は空を見上げ、眉間に皺を寄せる。太陽がまぶしすぎる。  ぎらぎらと照りつける太陽は容赦なく依子を曝け出し、汗を噴出させる。 (直視しては、駄目)  依子は思い、目を逸らす。  これは、やましいからではなく、目を守るためだ。決して負い目があるからではなく、自らの視力を保つためだ。 ――どうしてぇ?  頭の奥で、少女の声がする。小さな頃から家が近所だからと、家族ぐるみで仲の良かった友人だ。 ――よりちゃん、私、何かしたかなぁ?  語尾をみっともなく延ばす癖が、耳に付いた。少し前まではそれも可愛らしく、当たり前の言い方として聴いていたのに。 「だって、もう、中学生なんだよ?」  誰に問われたわけでもなく、依子は呟く。 「いつまでも一緒にいたって、仕方が無いじゃない」  ずかずかと、大またで依子は歩く。つい先程交わされた校舎内での会話が、何度も何度も頭の中で繰り返される。 ――今日も、昨日も、一昨日も。ずっとずっと一緒に帰ろうって言っても、断ってきて。なんでぇ?  依子は「用事があるから」とだけ答えて、その場を後にする。友人は「ずっとそればっかり」と言い、また最初の「どうしてぇ?」に戻る。  依子と共に学校を出ようにも、友人は委員会活動があり、無理だった。美化委員と言うのは毎日放課後、忙しいようだ。 (あの子が美化委員で、良かった)  依子は思い、溜息をつく。ちょっと前まで……依子が友人を避ける前までは、彼女を待っていた。ほんの、三十分なのだ。 「やっと、離れる気になってくれたんだな」  声がし、ふと振り返る。同じ学校の少年だ。 「何のこと?」 「何って、お前、俺があいつと一緒に帰れるようにしてくれたんだろ? お前、いっつもあいつといたもんな」 「別に。ただ、ちょっと用事があるだけだから」  少年は「ふうん」とだけ答え、にやっと笑って手を振る。 「ま、どっちでもいいや。じゃ、俺、あいつ誘いに行くから」  少年はそう言って、その場を後にした。  依子は小さく「ばいばい」と呟き、少年の背中を見つめた。駆けていく背中は、どんどん小さくなってゆく。 「……ばーか」  姿が見えなくなってしまってから、依子は呟く。  少年はいつも二人でいる依子たちに、声をかけてきていた。一緒に帰ろう、と。極自然に、極普通に。  そうして、先週の金曜日の放課後、依子にだけ囁いたのだ。 ――俺とあいつ、二人にさせてくれない?  依子はそこで気付く。自分は、彼と友人にとって、邪魔者なのだと。  だから、自ら離れた。二人きりになりたいという、彼の思いを汲むために。  依子は歩き出す。くるりと踵を返し、最初はゆっくりと、徐々に早くなりながら。 (後悔なんて、していない。するはずがない)  はっはっ、と息を上げながら、依子は気付けば走っていた。辺りには下校途中の生徒達が多数おり、走り抜けていく依子を慌てて避けたり、何事かと驚いていたりしていたが、そんなものに気を向けることはない。いや、できない。 ――ぽつ、ぽつ。  冷たいものを、頬に感じる。雨かな、と空を見上げるが、空は相変わらずの青空が広がっているだけだ。  依子は人気がなくなった道路で立ち止まり、はあはあと息を整えつつ、改めて冷たいものを確認する。  透明な水だ。 「涙……ああ、泣いてたんだ、私」  何故だろうか、と理由を思い返してみるが、全く思いつかない。それなのに、目からはぽたぽたと涙が零れてくる。  少年が自分を邪魔にしたからか、友人を自らの手で突き放したからか。依子自身ですら分からない。  ひく、ひく、と徐々に嗚咽が漏れる。手先が震え、声が出ない。出るのは喉の奥からしゃくりあげる嗚咽だけだ。  依子は大声を上げて泣き叫んだ。  泣いて、叫んで、両手を握り締めて。  辺りには誰もいない。突然の大雨に、雨を避けるか逃げるかしているのだろう。  ただ一人、依子は佇んで泣いている。  ただ、一人、だけ。  暫く泣き叫んだ後、げほげほと咳き込み、依子はその場に蹲った。喉奥から内臓が出てしまいそうだ。 「……ひとり」  ぽつり、と依子は口にする。事実を、今あるだけの存在を、依子は口にした。  恐らく、今、依子は依子の世界にただ一人だけしかいないのだ。  ゆっくりと顔をあげていく。雨は少しずつ威力を落とし始め、徐々に空が明るくなってくる。  すると、辺りに少しずつ人が増えてきた。雨から逃れていた人たちが、雨上がりを感じ取り、返ってきたのだ。 「かえるのね」  依子の声に呼応するように、道に人が増え、すれ違っていく。依子とすれ違い、また追い越してゆく。 「ひとりじゃ、ない」  そう言うと、依子は一歩前へと出る。両足を交互に動かせば、体は前へ前へと進んでいく。 ――すすめる……!  依子の友人も、友人と二人きりになりたがった少年も、もうどうだってよかった。それによって、依子の何が変わるわけでもない。  依子はにっこりと笑い、家路に着く。制服が雨にぬれて気持ちが悪かったが、心はすっきりとしていた。  空を見上げれば、つい先程見た強烈な光を放つ太陽がそこにある。眩しすぎる光に目を細め、小さく「ふふ」と笑いを零すのだった。 <雨雲は何処にも無く・了>