天地を繋ぐ、暮れの緋  まだ暑さの残る八月の終わり。 「急ぎで書いて欲しい原稿がある」  締め切りまで間がないが、引き受けてはもらえないか――。  馴染みの編集者から相談を受け、綾のもとに一件の仕事が舞いこんできた。  何名もの著名な文筆家を旅人として招き、短いエッセイとともに日本の伝統文化の現状を紹介するという特集記事。  観光会社と連動しての企画で、掲載予定の雑誌を抱える出版社では綿密な準備のもと、すでにほとんどの原稿が集められていた。  しかし、数名の原稿が未だに揃わず、彼は差し替えを念頭に代わりの書き手を探している最中だという。  その編集者には何かと声をかけてもらっている恩もある上に、企画自体に興味を持った綾は、二つ返事で依頼を引き受けた。  それが、半月ほど前のことである。  取材をしたのは数日後のことで、初秋の京都へ行き、若手の染色職人を訪れた。  入稿が済んだのは九月に入ってすぐ。  その後、綾は別の原稿にかかっていたためすっかり忘れていたが、九月も半ばにかかった今なら、そろそろ掲載誌が書店に並ぶころだ。  編集者は後日見本誌を送ると言っていたから、近日中には荷物が家に届くだろう。  そこまで思い返し、綾はふと足を止めた。  通り過ぎかけた書店まで引き返し、店の入り口をくぐる。  入稿誌の発刊と同時に、思い出したことがある。  取材をした若手の染色職人は、線の細い小柄な少女だった。  都心で芸術関係の専門学校を卒業した後、染色好きが高じて京都を訪れ、今の工房に師事するようになったという。 『いつか、自分の手で再現したい色があるんです』  それは何という名前の色ですか。  問いかけた綾に、良く通る声で彼女は答えた。 『<此岸と彼岸を繋ぐ、暮れの緋>』  その時浮かべた少女の笑顔を、綾は今も鮮明に覚えている。  目標を語るまっすぐな瞳。  頼る者のなかった京都へ、単身少女を駆り立てるほどに印象的な緋(あか)。  彼女を突き動かしたその色彩を、この目で見てみたい。  綾は少女の出身地――奈良県の地図を手に取ると、雑誌の書架には目もくれず、そのままレジへ向かった。  旅先は奈良県、奈良盆地の南西部。  かつて豪族が支配した土地。御所市(ごせし)・葛城古道――。  翌日、早朝から地図を頼りに車を走らせること数時間。  目的の土地へたどり着くころには、すっかり昼をまわってしまっていた。  周囲の景色からは背の高い建物が消え、視界の端にはなだらかな山が延々と連なっている。  朝からの晴天続きで、山の上には青々とした空が広がっていた。  平日ということもあって車線を走る車はまばらで、窓から吹き込む込む風が穏やかな午後を感じさせる。  しばらく道路を道なりに走った後、綾は道の端に車を止めると、本日何度目かの地図との確認をはじめた。  旅行慣れしているため、どんな場所でも大きく道を外れることは滅多にないが、それでも初めて通る道では慎重にならざるをえない。  これまでにたどってきた道順を再確認し、現在地を把握。  次に目標とする場所までの道順を確認すると、一息ついて眼鏡を外した。  そろそろ、軽食を兼ねて車を駐車できる場所を探そうとあたりを見回した時だ。  道の脇に、ひときわ目を惹く<緋>を見つけた。 「そういえばもう、彼岸花の季節なんですね」  異様とも言えるシルエットを持つ彼岸花は、一目見れば誰もがその名を言い当てられるほど、秋の代表花として名高いものだ。  並木や雑草に混ざっても、遠くからはっきりとその姿を認めることができる。  季節になると突然花を咲かせ、一週間ほど咲いて、気が付いた時には姿を消している。  実際には茎が伸びる期間、花が散った後に葉が成長する期間などあるのだが、綾にとって彼岸花というのは、突然現れて突然姿を消す神出鬼没の印象が強い。  おりしも今は九月中旬。  彼岸花が見ごろを迎えている時期だ。  見渡してみると、この付近にはまばらに緋の群生が見えた。  多くはあぜ道などに、転々と固まっている。  田畑の周囲にこれだけの彼岸花が点在しているからには、近年咲き始めたのではなく、長年この土地で見られる光景なのだろう。  染色見習いの少女は、この土地で生まれ育ったのだと言っていた。  そして彼女を染色へと突き動かしたその色は、ただの<緋(あか)>ではなく、<此岸と彼岸を繋ぐ、暮れの緋>なのだという。  <此岸(しがん)>とは「この世」を指す言葉だ。  そして<彼岸(ひがん)>は悟りの境地――俗に言う「あの世」を指す。  少女がそこに「生まれ育った地に咲く花」、「彼岸花」の意味を兼ねているとしても不思議ではない。  <暮れ>は夕暮れで間違いないだろう。 「そうすると、<繋ぐ>というのは、この世とあの世の境目がなくなるような光景――夕暮れに咲く彼岸花を指すんでしょうか……」  ぐるりと視線を巡らせてみたが、目につくほどたくさんの彼岸花が咲いている場所は見あたらない。  夕方になると田畑が緋く染まって見えるのかもしれないが、道の端であれこれ考えていても仕方がない。  現地の人間に話を聞いてみれば、何か他のことがわかるかもしれない。  綾は助手席に地図を置くと、サイドブレーキを解除した後、ウィンカーを出し、ハンドルに手をかけた。  葛城古道とは奈良県葛城市から南へ走る道のことを言う。  御所市じたい歴史ある土地として多くの史跡や文化財が残されているが、葛城古道周辺は特にその数が多い。  葛城山のふもとにある不動寺(ふどうじ)から始まり、鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)、駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ)、九品寺(くほんじ)、一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)、極楽寺(ごくらくじ)など、古道の端にある弥勒寺(みろくじ)に至るまで、総計十を超える神社・仏閣が建ち並ぶ。  遅めの昼食を済ませた際に入手した情報によると、彼岸花の群落は九品寺から一言主神社周辺に集中しているという。  綾がその場へたどりついた時、東の空はすでに薄暗さをともないはじめていた。  山の端に沈む陽光は草木を橙に塗りかえ、空を黄金に染めていく。  対して、大地は一面の緋。  車から降りた綾の影法師が、その上を延々と伸びている。  絨毯を敷きつめたように広がる緋色の群落は、陽光を受けてなお緋く鮮やかに彩られている。 「これが、あの子を動かした色……」  目の前に広がる彼岸花の数は、あぜ道に点在していた数とは比較できないほどだ。  田畑一面を、彼岸花が乗っとってしまった、そう思えるだけの花が、ここには咲き誇っている。  点在する彼岸花なら何度も見た覚えがある。  だが、群生する彼岸花を見るのは初めてだ。  染色見習いの少女が目指していた緋。  彼女を職人の道へ駆り立てた緋。  綾は眼前の光景に目を奪われ、呆然とその場に立ちつくした。  何分、何十分、そこに立ちつくしていただろう。  吹きぬけた風が花を揺らし、波打つその光景に、はっと我に返る。  気がつけば太陽は地平に潜り、空も大地も、闇に包まれようとしていた。  足もとにあった彼岸花にそっと手を触れ、今見た情景の神々しさを胸に刻む。  激しさを持つ炎の赤とも違う。  警告を呼びかける赤とも違う。  この世とあの世とを繋ぐ、暮れの緋。  天と地を繋ぐ、境界を払う色。  今この瞬間、この場でしか見られない光景。  それは綾の体に深く静かに染みこんで、いつまでも消えない炎を灯したかのようだ。  瞼を閉じると、鮮烈でいてどこか懐古的なその情景を、すぐに思い返すことができる。  秋の暮れは早く、辺りはすぐ闇に包まれ、冷たい風が髪を撫でた。  冷たさを増す風に追いたてられるように、車に乗り込む。  先ほどまで全身の感覚の全てを埋めつくしていた緋は、今ではもう闇間に息をひそめている。  綾はエンジンをかけなおすと、再度大地を見つめ、その場を後にした。  何日、何年経っても、綾は今日見た光景を忘れないだろう。  一輪一輪の輪郭を思い返すことはできなくとも、あの日見た<緋>は、この全身が覚えている。  視覚だけではない。  感覚の全てで体感した。  震えるほどの経験を、今はただ言葉にして書きつけておきたい。  そうして文字として残すことで、一人でも多くのひとに、この感動を伝えたい。  同じ場所で、同じ光景を見つめたとしても、その胸に残る印象は、ひとつとして同じものにはならない。  染色見習いの少女も、やがては一人前の職人となり、作品を残していくだろう。  その時再現された<此岸と彼岸を繋ぐ、暮れの緋>は、いったいどんな色合いなのだろうか。  彼女の胸に残された緋と、自分の胸に灯った緋。  染色と、エッセイ。  表現の違いはあれども、見据えた先は同じ場所に在る。  真っ白な原稿を前に、記憶の中の色を探る。  脳裏に焼きついた情景を呼び起こしながら、綾は紡ぐ言葉をたどり、ゆっくりと目を閉じた。  了