一階から落下したからには地下なのだろう。落下した時に松明は消えてしまったのに、そこはぼんやりと明るかった。じめじめとした空気の中に獣脂の燃える匂いが微かに混じっている。  薄明かりの中見渡しても出口らしいものは見当たらないが、何処からか風が出入りしているのだろう。多少だが風の流れらしきものも感じられるし、壁にただ一つ作られている、湿って黒カビが生え、埃を被った燭台の上の古ぼけたランプの火が燃え続けているということがそれを裏付けている。 「いったぁ……」  どうやら落下の際に足首を痛めてしまったらしく、ローセリアの右足首は動かさなくてもズキズキと痛んだ。 「……お前…シーフだろ……軽業の能力で……着地なんてお手の物じゃないのか…」 「私はまだそんなに軽業の熟練度高くないもの! それに両手を拘束されていたらバランスも取りにくいの!」  ローセリアが顔を上げるといつの間にやら元のフード姿に戻ったゼフィロスが、座り込んでいる彼女を見下ろしていた。  ゼフィロスの変装はいつも一瞬だ。風が舞い上がり、去った後にはすでに彼の姿は変化している。鍛錬を重ねて熟練度を最高まで極めた変装の能力と、自らが操る風の精霊の力を合わせてそのようなことをやってのけるらしいのだが、能力を極めると神業ともいえるようなことまでできてしまうのだろうか。一体何処にあの変装道具を隠しているのかもわからない。あのローブは四次元にでも通じているのだろうか。 「だから、ほどいてよ!」  ローセリアはロープで拘束されている腕をゼフィロスへと差し出す。 「……自分でほどけるようにしてある……と言っただろう……ありったけの力をこめてみろ……」 「だから、それじゃあ跡が残…」  ローセリアの言葉に答えつつ辺りを観察していたゼフィロスの動きが一瞬止まり、そして彼の手が素早く彼女の口を塞いだ。彼の目はローセリアの背後―――五メートルばかり先にある鉄格子の奥に注がれている。  昔からあるのだろう、錆び付いた鉄格子の奥に薄汚れた荷物の塊が置かれていることが、この空間に一つしかない灯りが辛うじて届いているおかげでわかる。その周囲に散らばっている、細かかったり棒状だったり塊だったりする白い物体が何なのかまではわからないが―――。  と、荷物だと思っていた物体が突然動いた。立ち上がり、鉄格子を掴んでガシャガシャと激しく揺さぶる。その音は酷く耳障りだ。 「なんだ、今回は少しいつもより早いな…もう食事を持ってきたのか。生きの良さそうな娘の匂いがする」  ローセリアは振り返ってそれをみて、危うく声を上げそうになったが口を塞ぐゼフィロスの手によって防がれた。ゼフィロスに怯えたところを見せないで済んだことに、多少ホッとして胸をなでおろす。  そう、それは襤褸を纏った大男だった。髪も身体ももう長いこと洗っていないのだろう、髪は所々固まり、身体には赤黒い汚れがこびりついている。目は潰れているのか、大きな傷がまるで縫い付けたかのように瞼に走っている。 (食事…? 娘…?)  良く目を凝らすと、先ほど何だかわからなかった白い物体は、人骨であるらしいことがわかった。  見つかったとあってはもう声を抑えても無駄だと、ゼフィロスはローセリアの口を抑えていた手を放す。 「な、何、あれ…」 「……さらった娘を……喰ってたんだろ……」 「え!?」  やっと解放されて大きく息を吸い込んだローセリアは、低い声で呟かれたゼフィロスの言葉に再び息を詰めた。それが聞こえたのか聞こえないのか、大男は天井まで届きそうな大きな身体を揺らしながら再び鉄格子を揺らし始める。 「早く喰わせろ!」  大男は叫び、見えないとは思えぬほどのコントロールと速さで、牢屋の中にあったらしい投げ斧を投擲してきた。よほど嗅覚が働くのだろう、その斧は狙いを過たずにそのままローセリアへと近づく。いつもの彼女ならば楽々と避けられる可能性は高い。しかし今は足を痛めている上に手も拘束され、落下してきて尻餅をついた姿勢でいるため反応が遅れた。 (避けきれない―――――――――)  彼女がそう覚悟した瞬間、目の前が蒼一色に染まった。 「―――――――――――っ」  その蒼は旅を重ね、洗濯を重ねて少し色あせていたが、そのときのローセリアの瞳には今まで見たどの蒼よりも鮮やかに写った。  その時彼女を庇うように立ちはだかり、背に斧の直撃を受けて声を詰めたのは、何とゼフィロスだった。 「ちょっ…何で私よか打たれ弱いのに庇うのよっ!」 「…いくら…お前の方が多少打たれ強いとはいえ……大差ないだろう……お前は…俺より基本体力がないのだから……」  突然の予期せぬことに御礼を言うのも忘れて掴みかかるローセリアを、ゼフィロスは鬱陶しそうに引き剥がす。  投げ斧は直接攻撃が届かない距離にいる敵に投げることで攻撃できるように改良された斧であり、通常の斧より軽く小さめにできている分威力は低い。しかし力の強い大男の至近距離からの投擲でダメージが低いとは考えにくい。だのにゼフィロスはいつもとかわらぬ飄々とした声色で答えた。 「あんたはその打たれ弱さを回避でカバーしているでしょ! それなのに避けないでどうするのよっ!」  確かにゼフィロスは体力はローセリアに勝るものの、物理耐性は劣る。しかし素早さを生かして敵の攻撃を回避することでその、物理耐性の低さという弱点をカバーしているのだ。『当たらなければ耐性など関係ない』というわけである。対してローセリアは職業柄ということもあるが体力も低く、物理・魔法耐性も高いとはいえない。彼女も素早さを生かして回避するタイプなのだ。しかし物理耐性は、魔法職のゼフィロスには勝っているのである。  受けるダメージはローセリアのほうが低いものの、最大体力を考えると体力の高い自分が受けたほうがいいというのがゼフィロスの意見であった。 (言いたいことはわかる、わかるのだけれども―――)  何より彼女を混乱させているのは、ゼフィロスの行動であった。まさか自分を庇うなんて、想像してもいなかった。いつもいつも容赦なく風を打ち込んできたり馬鹿にしたり、憎まれ口を叩いたり、ずいぶん嫌われているものだと思っていた。今回のように二人で偵察任務に当たるのもきっと彼はとてつもなく嫌なのだろう、と思っていた。 『嫌な奴』  そうとしか思っていなかったゼフィロスによもや庇われるなど、彼女の中では天変地異に等しい出来事なのだ。 「……避けたら…お前に当たる……」  そして返ってきた答えもまた、彼女を酷く混乱させるもので――― (―――それは、反則よぅ……)  ローセリアは動揺と、他意はないとはわかっているのに何故かほのかに赤みを帯びてしまった頬を見られぬように立ち上がるつもりだった。しかしゼフィロスが素早くしゃがみこみ、彼女の右足のニーソックスをずり下ろすと、何かを貼り付けて手当てらしきものをし始めたのでそうするわけにもいかなくなってしまった。薬草をすりつぶして染み込ませた湿布代わりの布は、ほんのり冷たくて心地いい。 「……鎮静作用のある…薬草で作ってある……ないよりましだろう……」 「う…あ…」 『ありがとう』  そう言わねばならないとわかっていたが、どうしても喉の奥に引っかかったその言葉は出てこない。ローセリアはなんだか無性にゼフィロスには自分の顔を見られたくなくて―――きっと自分でも想像できないほどみっともない顔をしているだろうから―――彼が顔を上げる前に慌てて立ち上がった。まだ右足には痛みが走り、バランスを崩しそうになったが先ほどよりは楽になっているような気がする。 「……歩くくらいはできるだろう……あとでリュミエールに…簡易治癒の奇跡で…治してもらえ……」  混乱で赤面しているであろう自分の顔を見られたくなくてそのまま二、三歩前に出たローセリアの後ろで、ゼフィロスが立ち上がる気配がした。